42 父である神

   「祈るときには、こう言いなさい。『父よ!』」。(ルカ福音書 一一章二節) 


 これは、弟子たちがイエスに「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」とお願いしたときの、イエスのお答えです。人間は神によって造られた被造物であるという信仰は、イエスもすべてのユダヤ人と共有しておられます。違うのは、イエスは常に神に「アッバ!」と親しく呼びかけて祈り、神を父として、父と共に生きておられ、「わたしと父は一つである」とまで言い表しておられたことです。それで、自分に従う弟子たちにも、「父よ」と言って祈れ、と教えられるのです。

 しかし、そう教えられて、すぐにその祈りの世界に、すなわち父としての神との親しい交わりに入っていけるでしょうか。イエスの世界とわたしたちの現実はあまりにも違います。イエスは共にいます父である神の力によってあらゆる病人を癒やし悪霊を追い出されました。イエスは共にいます父に教えられて神の言葉を語られました。それに対してわたしたち人間は常に病に苦しみ、永遠の知恵を求めて得られず、弱さの中で常に懐疑と暗闇の中にさまよっています。そのような人間がどうして、イエスのように「父よ!」という祈りの世界、父である神と共に生きる現実に入っていけるでしょうか。

 イエスの姿はわたしたちに、人間の現実が人間の本来あるべき姿、人間の本質から脱落していることを示しています。人間の生の現実の悲惨さ、愚かさ、弱さ、曖昧さ、無意味さなどを、現代の哲学は人間の「実存」的状況などと呼んでいますが、聖書は端的に「堕落」という象徴で語っています。人間は神によって造られた者でありながら、神に背を向けて離れ去ることによって、その本来の在り場所から落ちたのです。この背きをいやし、人間を本来の神との交わり、神と共に生きる生へと回復する神の働きが「救い」です。神は救い主キリストであるイエスを世界に送ることによって、この救いの働きをなしてくださいました。その救いの告知が福音です。

 イエスはこの福音の告知者として、地上におられる時すでに、父と共に生きるという人間の本来の在り場所に引き戻す方であることを、この祈りを教えることによって指し示しておられます。「わたしのいるところにあなたたちもいるようになるために」、イエスはわたしたちの離反の罪を負い、十字架上に血を流し、わたしたちの贖いを成し遂げてくださったのです。わたしたちは、十字架され復活されたキリスト・イエスによって子とする神の霊を与えられ、このイエスの祈りを共にすることができるのです(ローマ八・一五)。

                                                          (二〇一四年10月)


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