43  イエスの祈りを共に

  父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください」。(ルカ福音書一一章二〜四節)  


  キリストにあって子とする霊を与えられた者は、子として地上の生を生き抜かれたイエスの祈りを共にします。イエスご自身がこの祈りを生き抜かれました。前半の二つは父のことを祈り求める祈りです。最初の祈りは「あなたの名が聖とされますように」という祈りです。名はその本質を指す名辞です。自分があがめられるのではなく、父の無制約の慈愛、信実、正義を、わたしたち人間の生の最終的な拠りどころとして自分を委ねる祈りです。第二は「あなたの支配が来ますように」という祈りです。この現実の世界は、父ではなく父に対抗する悪しき霊の力、罪の力が支配しています。そのため人間の現実の生には破壊と悲惨で満ちています。そのような世界に父の支配、慈愛と正義の支配が実現しますようにという祈りです。マタイは「あなたの意志が行われますように」という第三の祈りを加えています。ゲツセマネの祈りに見られるように、イエスは最後まで自分はなく父が欲せられることが実現するようにと祈り、そのためにご自身の命を投げ出されました。

 後半の三つはわたしたち自身のための祈りです。最初の祈りは「明日の糧を今日与えてください」と訳すべき祈りです。来たるべき世における命を養う糧、それは聖霊ですが、その聖霊を現在の生を生かす糧として与えてくださいという祈りです。この聖霊こそ現実の生において信仰と愛と希望となって、わたしたちを永遠の命に生きさせます。第二は「わたしたちの罪を赦してください」という祈りです。これには「わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」という、一見赦していただくための条件のような文がついていますが、これは条件ではありません。これは、わたしたちがすでに無条件の赦しの場にいることの告白です。イエスご自身は罪の赦しを乞い求める必要のない方ですが、わたしたちと一つになって、わたしたちの罪を負い、十字架上で罪の贖いを成し遂げてくださいました。この贖いの場にいる者として、わたしたちはいかなる隣人もその負い目を赦して無条件に受け入れます。そのような恩恵の場にいる者として、父の無条件の受け入れを願っているのです。最後の祈りは「わたしたちを誘惑に陥らないようにしてください」と訳すべき祈りです。現実の生では誘惑に会うことは避けられません。その誘惑に陥って、父から離れることがないように守ってくださいという祈りです。
                                                          (二〇一四年11月)


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