46  救済者としての神


  造られヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたをた主は今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。 (イザヤ書四三章一節)


  これは捕囚期の預言者(第二イザヤ)が、捕囚の地で打ちひしがれている民に向かって、解放の日が近いことを預言して民を励ました言葉の一節です。ここでイスラエルの民の神ヤハウェは、その民に向かって、イスラエルを造った者として、そのわたしがあなたたちを贖うのだと断言しておられるのです。他の箇所では、「わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」と言われています*1。「贖う」というのは、捕虜や奴隷の状態から救い出すことを意味する語です。この預言者は捕囚というどん底の状況で、自分たちの神を創造者であるゆえに救済者でもある神として知るに至ります*2

  わたしたちは神を創造者として、すなわち、わたしたちを存在させている根源的な働きとして信じています。その天と地の創造者である神が、「わたしはあなたを救う」と世界に告知しておられるのです。それが「神の福音」
*3 です。福音は、十字架につけられたイエスを神は復活させてキリストとされ、このキリストの出来事において人を救う働きを成し遂げられたとという告知です。わたしたちを救う働きが、わたしたちを存在させている働きと同じ根源から出ているのだという告知です。これほど確かな救いの根拠があるでしょうか。

  神はキリストの出来事の中で働き、人間を救う働きを成し遂げられました。キリストにおいて働いているのは神、すなわち天地万物を存在させ、わたしを存在させている働きそのものです。「キリスト」とは存在の根底が人間の救済のために働くときの姿を指す呼び名、称号、象徴です
*4。キリストとは救済の働きにおける神です。福音はナザレのイエスにおいてキリストが世に現れたと告げ知らせます。キリスト出現の報知こそ、本来の在り方、本来いるべき場から転落して苦悩の中に喘ぐ人間*5 にとって、究極の喜びの使信です。

  人間は自分の窮状を自覚しています。救いが必要なことをよく知っています
*6。だからこそ自分の中に、また俗なる世界が提供するいかなるものにも、解決と平安を見出すことができず、その窮状の原因を知らないまま、そこからの救出を宗教に求めます。福音はその原因を、すべての人は罪に陥っているので神の栄光を受けられなくなっているのだと表現しています*7。罪というのは様々な規範に背く諸々の行為ではありません*8。自分の存在の根底である神に背いている在り方、むしろ神に背かせる力に支配されていることを指しています。その結果、神の働きを身に受けて、神の働きの中に生きることが出来なくなっているのです*9。その行きつく先は命の源である神からの断絶、死です*10。聖書はこのような人間の姿を、罪と死の力に支配されている者と表現しています*11。わたしたちを存在させている働きが、キリストにおいてわたしたちを救う働き、罪と死の支配から救い出す働きを成し遂げて下さったのです*12。背き去った者をそのまま受け入れる愛*12がこれを成し遂げました*13


1  イザヤ書 四六章 四節

2  イザヤ書40〜55章の預言を残した捕囚期の預言者(第二イザヤ)は、捕囚というイスラエルの民の歴史でもっとも暗いどん底の時代、すなわち自分たちは自分たちの神ヤハウェに裁かれ見捨てられたと感じないではおれない時代に、自分たちの神ヤハウェが「地の果ての創造者」であり、同時に世界の歴史を支配する方として、自分の民を贖う(救出する)「贖い主」であることを示され、ヤハウェを「造り主」であり「贖い主」、すなわち創造者であり救済者として告知するに至ります。彼の預言には繰り返し「造り主で贖い主であるヤハウェ」という表現が出てきます。第二イザヤは、それまでヤハウェをイスラエルの民の守護神として拝んできたイスラエル宗教を、世界の創造者にして救済者として信じる普遍的世界宗教にまで深めるのに、もっとも決定的な役割を果たした預言者と評価されます。

3  使徒パウロは、自分が世界に告知している福音を「神の福音」と呼んでいます(ローマ書一・一)。当時のローマ世界では、次の王となる王子の誕生や、王や将軍の戦勝の報知も福音と呼ばれていました。パウロは自分が告知している福音は、そのような人間の働きを告知するものではなく、神の働き、神の決定的な救いの働きの出現を告知するものとして「神の福音」と言っています。

4  「キリスト」という呼び名は、ブッダ(釈迦)や孔子やソクラテスというような聖人や賢者の一人を指す名前ではありません。それは神の救いの働きという目に見えない働きを指し示す象徴用語であり、その働きを体現する方の称号です。ユダヤ教はそのような神の救いの働きを地上にもたらす方を「メシア」(そのギリシア語訳がキリストです)と呼び、その出現を将来に待ち望んでいます。イスラム教ではムハンマドは最後の預言者(神の言葉を預かり伝える者)ですがキリストではありません。仏教ではブッダは悟りを説く賢者ですがキリストではありません。後に救済の働きをする超越者への待望が大乗仏教に起こり、アミダ仏が仏教におけるキリストの象徴の役割を果たします。福音はこのキリストが一人の歴史的人物であるナザレのイエスにおいて出現したと告知します。イエス・キリストという名が一人の人物の固有名詞と誤解されるのを避けるために、ティリッヒはいつも「キリストとしてのイエス」と呼んでいます。

5  現実の人間は人間の本来の在り方、本来いるべき場から転落しているという理解は、聖書は冒頭の創造物語の中でアダムの堕落という神話的な形で物語っています。哲学では、この人間の現実は「実存」と呼ばれています。実存的(existential)とか実存主義(existentialism)はラテン語の existere(外に立つ)からでており、人間が本質としているものから脱落して、その「外に立っている」状況です。実存主義は、時間と空間に限られた人間の有限性と不安、肉体的精神的疾患、失敗や失望、過誤や愚味などから来る窮境への問いから出発します。

6  人間は太古の昔からこの窮境を自覚し、そこからの脱出への問いを、神話という形で表現してきました。ブッダも人間の在り方の実相を苦と観じ、苦からの解脱の道を説きました。

7  「人は皆、罪に陥っているにので、神の栄光を受けらなくなっています」(ローマ書三章二三節 私訳)

8  ユダヤ教では、罪とは神の律法に背く諸々の行為であり、個々の違反行為は当然単数形ですが、罪を総称する場合は常に複数形が用いられました。どの宗教にも普通、戒律とか様々な名称で呼ばれる順守すべき規定が多くあり、それらの諸規定への違反行為が罪とか罪科と呼ばれています。しかしパウロが罪という用語を使うとき、複数形で用いることはなく、いつも単数形で使っています。それはパウロが罪を律法に対する諸々の違反行為ではなく、人間の在り方全体、一つの原理を指していることを示しています。従って、普通「罪を犯す」と訳される動詞も、罪という在り方にいる、とか、罪という原理、罪の支配下に陥っている、と理解すべきであると考えられます。

9  注7で引用したパウロの言葉では、罪に陥った結果として「神の栄光を受けられなくなっている」というのは、神を働きと理解する信仰においては、神の働きを身に受けて、聖霊によって神が与えてくださる良きものをもって生きることができなくなっている、という意味になります。

10  神が聖霊によって与えてくださる究極の良きものは神御自身の命、永遠の命ですから、それにあずかれないことが死です。「神の栄光を受けられなくなっている」ことは死です。

11  命の根源である神から離れていることが罪であり、それが死ですから、新約聖書では罪と死はいつも一組にされて、現実の人間は「罪と死の律法(法則、原理、支配)」の下にある、と言われます(例えばローマ書八章二節)。

12  パウロは神の救いの働きを、「キリスト・イエスにある御霊の力が、罪と死の支配力からあなたを解放したのです」(ローマ書八章二節)と言い表しています。神はキリストであるイエスの中に働き、「十字架されたキリスト」において罪と罪人の贖いを成し遂げ(このことについてはなお多くの機会に語ることになります)、イエスを死者の中から復活させることによって、復活さされたイエスがキリストであることを世界に公示されました(ローマ書一章四節)。これがすべて神の働きであることをパウロは直後に続く節(三節)でこう言っています、「肉の弱さのためになしえなかったことを、神は成し遂げてくださったのです」。「肉」という語は、パウロの用法では生まれながらの人間本性をさしています。人間が人間である限り、その人間本性の弱さのために、律法が、すなわち宗教がなしえなかったことを、神が成し遂げてくださった、というのです。ここの「神が」は、わたしたちを存在させている働きそのもである神が成し遂げられたという点が重要です。

13  パウロは「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、不信心な者(神を認めず敬わない者)ために死んでくださった。………わたしたちがまだ罪人(神に背いている者)であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」と言っています(ローマ書五章六〜八節)。自分に背く者を受け入れて救うための働きを成し遂げる神の働きに、パウロは人間界の愛を超える種類の愛《アガペー》を体験します。後にヨハネがこの愛《アガペー》を中心に据えて福音を語ることになります。


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