50    キリストの体としてのエクレシア

  御子はその体である御民(エクレシア)の頭(かしら)です。  (コロサイ書 一章一八節 私訳)


 パウロは集会の構成員一人ひとりに与えられる聖霊の賜物を正しく用いるように勧めるときに、「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」と言って集会を人体にたとえ、各々の肢体が他の肢体を必要とするように、お互いに高ぶることなく助け合って、そこに聖霊が住みたもう神の宮であるエクレシアを建て上げるように語っていました(コリント?T一二〜一四章)。パウロはキリスト信仰の人が集まる個々の共同体を《エクレーシア》と呼んでいて、だれそれの家に集まるエクレシアというように個々の集会を指していました。ところが次の世代になりますと、このような諸集会が一緒に対処しなければならない問題が増えたのか、キリストにある民の一体性が強く意識され、コロサイ書やエフェソ書になると《エクレーシア》という語がキリストの民全体を指して、単数形で用いられるようになります。わたしはこのような意味で用いられている《エクレーシア》を、終末的な神の民を指す用語として「御民」と訳しています。

  エクレシアはキリストの体です。この「体」はもはや人体の比喩ではなく、キリストという見えない霊が形をとって地上の現実として現れている姿です。キリストはエクレシアという姿で地上に体をもって、すなわち具体的に現れ働いているのです。わたしたちはキリストにあって、すなわち恩恵の場で、聖霊によってこの一つの体の中に組み込まれました。この体の中にキリストは聖霊として住んでおられます。エクレシアは聖霊の宮、神殿です。わたしたちは地上の様々な宗教の神殿や寺院にお参りする必要はありません。わたしたちが神殿なのです。わたしたちはエクレシアで神を礼拝します。

  このキリストの体であるエクレシアにおいて、その頭はキリストご自身です。人体の各部は頭からの指令でそれぞれの動作と働きをしているように、わたしたちエクレシアの肢体である一人ひとりは頭であるキリストの指示に従い、キリストからの賜物、様々な聖霊の賜物によって、キリストのわざを果たします。その聖霊の賜物の中で、一時的部分的ではなく、常にエクレシアという霊的共同体の指標になる賜物は、信仰と愛と希望であることは繰り返し申し上げました。聖霊による信仰と愛と希望があるところに、人間の組織ではなく、聖霊の共同体が出現します。

  この共同体は福音によって召し集められ、ただ福音を世界に告知することだけを使命とする共同体ですから、差し当たっては「福音共同体」と呼ぶことにします。福音の中身はキリスト信仰ですから、キリスト信仰共同体と呼んでもいいでしょう。この共同体は、ユダヤ教とかキリスト教の中だけにあるのではありません。キリスト教はもちろん、イスラム教や仏教、その他の民族宗教を貫いて、どこでも人間がいる所、そのただ中にあります。
 


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