ヨハネ福音書 翻訳と講解 

    世の光イエス

                        ―― ヨハネ福音書 八章 ――

  25 イエスと姦通の女   (7章53〜8章11節)

 [ 7・53 人々はおのおの自分の家に帰って行った。 8・1 イエスはオリーブ山に行かれた。 2 朝早く、再び神殿境内に来られると、民がみなイエスのもとにやって来たので、イエスは座って彼らを教えられた。 3 そこへ、律法学者たちとファリサイ派の人たちが、姦通の現場で捕らえられた女を連れてきて、真ん中に立たせ、 4 イエスに言う、「先生、この女は姦通行為をしている現場で捕らえられました。 5 モーセは律法の中で、このような女たちは石打にするように、わたしたちに命じました。そこで、あなたは何と言われますか」。 6 彼らはイエスを試みて、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスは低くかがんで、指で地面に何かを書いておられた。 7 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こし、彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、最初にこの女に石を投げなさい」。 8 そして、再びかがみこんで、地面に書き続けられた。 9 これを聞いた者たちは、年長の者から始まって、一人また一人と立ち去り、イエスひとりと、真ん中にいた女だけが残った。 10 イエスは身を起こして、女に言われた、「女よ、あの人たちはどこにいるのか。誰もあなたを罪に定めなかったのか」。 11 彼女は言った、「主よ、誰もいません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからはもう道を誤らないように」。]

死を求める律法
 人々はおのおの自分の家に帰って行った。イエスはオリーブ山に行かれた。朝早く、再び神殿境内に来られると、民がみなイエスのもとにやって来たので、イエスは座って彼らを教えられた。(七・五三〜八・二)
 人々は皆おのおの自分の家に、すなわち日常の生活の場に帰って行きますが、イエスはひとり神との交わりの中で祈るためにオリーヴ山に行かれます。イエスは、エルサレム滞在中はオリーヴ山のどこかを祈りの場としておられたのでしょう(ゲッセマネの園はオリーヴ山の麓にあります)。
 その祈りの場で夜を過ごし、朝早く再び神殿境内に来て、イエスは神殿に集まる民に神の道を説かれます。イエスは、イスラエルの民の教師(ラビ)として神殿で活動されます。

 そこへ、律法学者たちとファリサイ派の人たちが、姦通の現場で捕らえられた女を連れてきて、真ん中に立たせ、イエスに言う、「先生、この女は姦通行為をしている現場で捕らえられました」。(三〜四節)
 イエスが神殿境内で教えておられるとき、律法学者たちとファリサイ派の人たちが、姦通の現場で捕らえられた女を連れてきて、真ん中に立たせ、このような場合についてのイエスの意見を尋ねます。
 彼らはイエスを「先生《ラビ》」と呼んでいます。この呼びかけは、民に神の道を説く教師《ラビ》であるならば、このように姦通行為をしている現場で捕らえられた女に対する律法の裁きをはっきり語るべきであるという強要を含んでいます。これは、皇帝に税金を納めることについて意見を強要したとき、教師としてのイエスを持ち上げたのと同じです(ルカ二〇・二一)。

 「モーセは律法の中で、このような女たちは石打にするように、わたしたちに命じました。そこで、あなたは何と言われますか」。 (五節)
 モーセ律法は姦通に対して死刑を定めています(レビ記二〇・一〇)。とくに申命記二二章二二節の規定は、姦通の現場で捕らえられた者の処刑を求めています。死刑の方法は罪の種類によって異なっていました。《トーラー》に明文はありませんが、ラビたちの伝統では、姦通は石打の刑に処せられました。ファリサイ派では、口伝律法も成文律法と同じくモーセの命令とされていたので、律法学者たちは「モーセは律法の中で、このような女たちは石打にするように、わたしたちに命じました」と言っています。

 彼らはイエスを試みて、訴える口実を得るために、こう言ったのである。(六節前半)
 このようにモーセ律法の規定を引用した上で、「そこで、あなたは何と言われますか」と、イエスの意見を求めます。原文では「あなたは」が強調されています。普段罪人の友と称しているイエスが、この明白に死刑を求める律法にどう対処するか、モーセ律法に対するイエスの態度を試みているのです。もしイエスが女を処罰しないで赦してやるような発言をされたら、明白な律法違反を教唆する言動として訴えることができます。律法に背くように民を扇動する異端教師には死刑が科せられました。


低くかがむイエス
 イエスは低くかがんで、指で地面に何かを書いておられた(六節後半)。
 イエスは彼らの質問に答えないで、低くかがんで、指で地面に何かを書き始められます。イエスが何を書いておられたのかは分かりません。イエスが何を書いておられたかについては、石を投げようとする人たちの罪を書き連ねておられたとか、幾百もの想像がなされましたが、それを詮索することは無益でしょう。その女の罪だけを見て、自分を見ようとしない人たちに、イエスは自分を見る時間を与えておられると見てよいでしょう。イエスの不思議な行動を見て驚き、人々はしばらく女から目を離し、イエスの背中を見つめたことでしょう。

 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こし、彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、最初にこの女に石を投げなさい」。そして、再びかがみこんで、地面に書き続けられた。(七〜八節)
 自分の実相を見ることができず、他人の罪だけを咎める人間の執拗な問いかけに対して、イエスは身を起こし、「あなたがたの中で罪のない者が、最初にこの女に石を投げなさい」と言われます。これが「低くかがんで指で地面に何かを書いておられた」イエスの行動の意味であったわけです。その行動の意味するところを明白な言葉で語りだされたのです。
 石打刑の場合、告発した者または証人が最初に石を投げることになっていました(申命記一七・七)。イエスの言葉はこの律法の規定を用いていますが、それ超えています。律法の規定では、律法違反の行為がない者は石を投げる資格がありました。それに対してイエスは、自分にはその資格があるとして石を投げようとする人々の良心に問いかけられます。「あなたたちの中で、自分には神の前に何の罪もないと言える者があるか」と問いかけられます。
 そして、再びかがみこんで地面に書き続け、人々に自分を見つめる時間を与えられます。

 これを聞いた者たちは、年長の者から始まって、一人また一人と立ち去り、イエスひとりと、真ん中にいた女だけが残った。(九節)
 イエスの問いかけを受けて、女に石を投げようとした人々は自分を見つめ直します。誰が罪のない者として、すなわち神の立場に立って女を断罪することができるでしょうか。イエスの問いは、石を投げようとした人々に、自分は神ではなく、この女と同じ立場の人間であることを自覚させます。イエスは低くかがんだままです。イエスは居丈高に彼らの高慢を叱責するのではなく、彼らの良心が彼らの内で語りかけるのに委ねられます。すると、彼らは「年長の者から始まって、一人また一人と立ち去り」、イエスとその女だけが残ります。

 イエスは身を起こして、女に言われた、「女よ、あの人たちはどこにいるのか。誰もあなたを罪に定めなかったのか」。彼女は言った、「主よ、誰もいません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからはもう道を誤らないように」。(一〇〜一一節)
 イエスがおられなければ、姦通の現場で捕らえられた女は、ユダヤ教律法で有罪とされて石打刑で処刑されたことでしょう。しかし、イエスがおられるところでは恩恵が支配します。イエスがおられるところ、すなわち恩恵の場では、人間はみな等しく神の絶対恩恵によって赦されて存在しているものであることを自覚します。その場では、人が人を罪に定めることはありません。この恩恵の場を体現する方として、イエスは「わたしもあなたを罪に定めない」と言われます。
 恩恵による赦しを宣言した上で、その恩恵の場に生きるように、「行きなさい」と女を送り出されます。そのさい、「これからはもう道を誤らないように」と諭されます。この語は「罪を犯さないように」と訳されることが多い語ですが、この動詞の原意は「的を外す」という意味ですから、個々の律法規定に違反するという意味の「罪を犯す」よりも、もっと根本的な「道を誤る」という意味に理解して訳しています。恩恵の場にしっかりと留まり、神の慈愛の道から外れないように歩みなさい、という勧めです。そうすれば、生活は人への愛と誠実に貫かれた堅実なものになり、誰からも石を投げられるようなことはないはずです。道を踏み誤ると自分が制裁を受けるだけでなく、家族や周囲の者に悲しい思いをさせることになります。イエスの言葉は、これからは律法違反をしないようにという要求ではなく、二度とこのような過ちをしないようにという優しい励ましです。

罪を覆う恩恵
 この挿話は感動的です。たしかに、この物語は(先に見たように)ヨハネ福音書に後から挿入された物語かもしれませんが、恩恵の支配を説かれたイエスの姿を実に感動的に伝えています。イエスはここでは恩恵の支配を言葉で説かれるのではなく、身をもって示しておられます。女の側にかがみ込んで地面に何かを書いておられるイエスは、その行動によって女を身をもってかばっておられるのです。群衆がその女に石を投げるならば、そばでかがみ込んでいるイエスに当たることは避けられないでしょう。女に石を投げることは、イエスに石を投げることになります。イエスは律法を守れない女と同じ立場に身を置き、その女と一つになって、違反者に対する律法の裁きを受ける場に留まられます。そして、この聖なる人イエスに石を投げることができず、群衆が一人また一人と立ち去った後、ただ一人裁くことができるイエス御自身が、「わたしもあなたを罪に定めない」と宣言されます。ここには、父の恩恵が人間の罪を包み込み、乗り越えている現実が、見事に物語られています。

  26 世の光イエス  (8章 12〜20節)

  12 さて、イエスは再び彼らに語って言われた、「わたしが世の光である。わたしに従ってくる者は闇の中を歩むことなく、命の光を持つであろう」。 13 するとファリサイ派の者たちがイエスに言った、「お前は自分自身のことを証ししている。お前の証は真実ではない」。 14 イエスは答えて彼らに言われた、「たとえわたしが自分自身について証をしているとしても、わたしの証は真実である。わたしは自分がどこから来たか、またどこへ行くのかを知っているからである。あなたたちはわたしがどこから来たのか、またどこへ行くのかを知らない。 15 あなたたちは肉によって判断しているが、わたしはだれをも判断しない。 16 しかし、もしわたしが判断するとすれば、わたしの判断は真実である。わたしは一人いるのではなく、わたしとわたしを遣わした父とがいるのだからである。 17 あなたたちの律法にも、二人の人間の証は真実であると書かれている。 18 わたしがわたし自身について証をする者であり、わたしを遣わされた父もわたしについて証をされるのである」。19 そこで彼らはイエスに言った、「お前の父はどこにいるのか」。イエスはお答えになった、「あなたたちはわたしを知らず、またわたしの父をも知らない。もしあなたたちがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知ったであろうに」。 20 イエスはこれらの言葉を、神殿の境内で教えておられたとき、さいせん箱の傍で語られた。しかし、だれもイエスを捕らえる者はなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。

世の光
 さて、イエスは再び彼らに語って言われた、「わたしが世の光である。わたしに従ってくる者は闇の中を歩むことなく、命の光を持つであろう」。(一二節)
 前の姦淫の女の段落(七・五三〜八・一一)を挿入として飛ばして読むと、この節は七章五二節に続くことになります。ただし、七章四五〜五二節はイエスがおられない別場面(議員たちの相談)であるので、イエスの行動としては、七章三七〜四四節の「祭りの最終日である大祭の日」の出来事の続きとなります。したがって、「再び彼らに」は七章三七節の呼びかけに続いて、さらに「再び群衆に」呼びかけられたことになります。この水と光という象徴を用いた二つの呼びかけ(七・三七と八・一二)は、「水と光の祭り」と呼ばれる仮庵祭(七・三七の注を参照)にふさわしい光景となります。
 この光の祭りを背景として、イエスは「わたしが世の光である」と宣言されます。他の誰でもなく、他のどのような事柄でもなく、復活者イエスこそが「世の光」であるという宣言です。これはヨハネ福音書が、ひいていはヨハネ共同体が世界に向かって発する福音の一つの表現です。原文は、《エゴー・エイミ》(わたしはある)の後に「世の光」という説明の補語が来る形の文です。復活者イエスは、神が御自身を啓示されるときに名乗られる《エゴー・エイミ》(わたしはある)をもって世界に現れる方です。その方が、ここでは「世の光」としての働きで顕われておられるのです。

 ヨハネ福音書は、光と命の領域と闇と死の領域という、まったく別の原理によって構成される二つの領域を前提にして救済を語っています(これがヨハネの「二元論」と呼ばれる語り方です)。「世」《コスモス》は闇と死の領域に属し、自分の中に光も命も持たない領域です。光の領域から来た方(イエス)だけが、この闇に属する《コスモス》に光をもたらすのです。他の誰でもなく、またどの事柄(悟りなど)でもなく、イエス(復活者であるイエス)だけが《コスモス》にとっての光です。光の象徴は序詩(一・一〜一八)以来繰り返し用いられてきましたが(三・一九〜二一など)、ここでイエスご自身の自己啓示の宣言として明確に語り出されることになります。

 「わたしが〜である」というイエスの自己啓示には、それを信じる者に対する救済の約束が続くのが普通です(たとえば六・三五)。その「わたしを信じる者」が、ここでは「わたしに従ってくる者」という表現で語られ、その人は「闇の中を歩むことなく、命の光を持つであろう」と救済が約束されます。
 その人はもはや「闇の中を歩む」ことはなくなります。ヨハネ福音書においては、生まれながらの人間が所属している「世」《コスモス》は闇であり、人間は真理(人間を含む《コスモス》の実相)を見ることなく歩んでいるとされます。そのために人間は苦悩と不安の中に生きなければならないのです。暗闇の中を歩く者はものにつまずいて倒れたりします。光であるイエスに従う者は、もはやそのような闇の中をさまようことはありません。ここでは、光は真理を照らし出す働きの面で見られています。
 ヨハネ福音書では、光は実相を照らし出して見えるようにする働きだけでなく、命を与える働きをもつとされています。光とは復活者イエスの象徴だからです。そのように命を与える光が「命の光」と呼ばれるのです。逆に命が人の光とも言われます(一・四)。光と命は一体として、闇と死の領域に対立します。「光を持つであろう」という未来形は、七・三七〜三九の場合と同じく、イエスが栄光をお受けになった(復活された)後の現実であることを示しています。

二人の証し
  するとファリサイ派の者たちがイエスに言った、「お前は自分自身のことを証ししている。お前の証は真実ではない」。(一三節)
 イエスに敵対する勢力が、ここでは「ユダヤ人」よりも具体的に、「ファリサイ派の者たち」と名を上げられています。彼らは、人が自分自身について立てる証言は信用できないというユダヤ教の原則によって、イエスの自己啓示の宣言を、信用できない自己証言として退けます。

 イエスは答えて彼らに言われた、「たとえわたしが自分自身について証をしているとしても、わたしの証は真実である。わたしは自分がどこから来たか、またどこへ行くのかを知っているからである。あなたたちはわたしがどこから来たのか、またどこへ行くのかを知らない」。(一四節)
 五章三一節では、自己証言は信用できないとするユダヤ教の原則を認めて、(ヨハネ共同体は)別の証人(洗礼者ヨハネ、父、聖書)の証言を指し示しました(五・三二〜四〇)。しかし、ここではもはやユダヤ教の原則を顧みることなく、イエスが自分の出てきた所と行き先を知っているという別の根拠に立って、イエスの自己啓示が真実であることを主張します。
 イエスの自己証言が真実であるのは、イエスが自分の出てきた所と行き先を知っている、すなわち父から遣わされた者としての自己の本質を明確に自覚しているからだとされます。啓示は必然的に自己証言とならざるをえないのです。他者の証言に依存する啓示は、もはや絶対的啓示、最終的啓示ではありえません。
 イエスの自己証言を批判する者たちは、イエスの父から遣わされた者としての本質が理解できません。あくまでイエスを人間の目で判断しているのです。そこで続いて次節以下で、彼らの判断とイエスの判断の原理が違うことが語られます。

 「あなたたちは肉によって判断しているが、わたしはだれをも判断しない」。(一五節)
 ここに用いられている動詞《クリノー》は、「分ける、判断する、裁く」などの意味をもつ動詞です。ここでは法廷での判決を問題にしているのではなく、証言にたいする態度を問題にしているので、「判断する」と訳しています。
 ユダヤ人は、イエスの霊的次元での本質を理解できず、イエスの証言を「肉によって」、すなわち人間的な次元で(たとえば証言についての法律規定で)判断して退けています。それに対してイエスは、誰をもそのような人間的な基準で判断しないと言って、彼らの判断の仕方が誤っていることを示されます。これは、御霊を持たない人間の生まれながらの判断力(肉による判断)では、イエスが自分について証言される言葉を理解することはできないのだ、とヨハネ共同体が世に向かって宣言しているのです。

 「しかし、もしわたしが判断するとすれば、わたしの判断は真実である。わたしは一人いるのではなく、わたしとわたしを遣わした父とがいるのだからである」。(一六節)
 ファリサイ派の人たちは、イエスが自分について証言しているので、その証言は真実でないと批判しました(一三節)。それは「肉によって判断している」からだと、彼らの批判の基準を反駁(一五節)した上で、改めてイエスが自分についてなされる証言が真実であることが、「わたしは一人いるのではなく、わたしとわたしを遣わした父とがいるのだから」という理由を根拠にして主張されます。

 「あなたたちの律法にも、二人の人間の証は真実であると書かれている。わたしがわたし自身について証をする者であり、わたしを遣わされた父もわたしについて証をされるのである」。(一七〜一八節)
 そのさい、「二人の人間の証は真実である」という原則は、「あなたたちの律法にも書かれている」ように、相手も認めざるをえない原則です。それは、申命記一九章一五節を指していますが、聖書の箇所が「あなたたちの」律法と表現されていることが注目されます。ヨハネ共同体はファリサイ派に指導されるユダヤ教会堂と対峙しており、自分たちの主張が相手の立場からも見ても正しいことを論証しようとしているのです。
 イエスが父から遣わされた父と等しい子であるという主張は、自分がどこから来たかを知っておられるイエスが証言されるだけでなく、イエスを遣わされた父も一緒に証言しておられると、ヨハネ共同体はユダヤ教会堂に向かって主張するのです。

  そこで彼らはイエスに言った、「お前の父はどこにいるのか」。イエスはお答えになった、「あなたたちはわたしを知らず、またわたしの父をも知らない。もしあなたたちがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知ったであろうに」。(一九節)
 その主張に対して彼らは「お前と一緒に証言するという、お前の父はどこにいるのか」と反論します。イエスの敵対者たちは、イエスの言葉を「肉によって(人間的な次元で)判断して」、イエスの傍に肉親の父親がいないことを問題にしています。ここにも、イエスの言葉の霊的な次元と、それを理解できない相手の地上的次元の行き違いという、この福音書の対話の特徴が出ています。
 一九節のイエスの答えは、人間の論理としては循環論法です。あなたたちはわたしを知らないから、わたしを遣わした父を知ることがない。また、わたしを遣わした父を知らないから、わたしが分からない。わたしが分かったなら、わたしを遣わした父も分かる、という循環論法になっています。この論法は、イエスを知ることと、父を知ることは一つであることを主張していることになります。これは、この福音書全体の主張に他なりません。

 イエスを知らない(理解できない)から父を知らないし、父を知らないからイエスを理解できないという循環と、イエスを知ることによって父を知り、父を知るゆえにイエスを理解するという循環の間には、人間の論理では越えることができない淵が横たわっています。その淵を越えるのは信仰の飛躍だけです。その飛躍は、聖霊の働きとして信じる者の内に起こる出来事です。

 イエスはこれらの言葉を、神殿の境内で教えておられたとき、さいせん箱の傍で語られた。しかし、だれもイエスを捕らえる者はなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。(二〇節)
 著者ヨハネは、長い対話の最後に場所を特定して、その対話が実際に行われたという印象を強める傾向があります(六・五九参照)。ここでは「さいせん箱の傍で語られた」と、場所が特定されます。

 「これらの言葉」、すなわちイエスが仮庵祭で群衆に向かって語られた言葉と、批判者たちにお答えになった言葉は、イエスが自分を神と等しい者としているという訴えをするのに十分でしたが(五・一八参照)、この仮庵祭の時には誰もイエスを捕らえる者はありませんでした。著者はそれを「イエスの時がまだ来ていなかったからである」と説明します。この福音書では、イエスの生涯は、イエスが父から与えられた使命を果たすことになる決定的な出来事が起こる時、すなわち十字架と復活の出来事が起こる「イエスの時」に向かって進んでいきます。父が定められたその時が来るまでは、人間は誰も手を出すことができません。

  27 わたしは去って行く  (8章 21〜29節)

 21 さて、イエスは再び彼らに言われた、「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すが、自分の罪の中に死ぬことになる。わたしが行くところにあなたたちは来ることができないのである」。 22 そこでユダヤ人たちは言った、「『わたしが行くところに、あなたたちは来ることができない』と彼は言っているが、自殺するのであろうか」。 23 イエスは彼らに言われた、「あなたたちは下からの者であるが、わたしは上からの者である。あなたたちはこの世からの者であるが、わたしはこの世からの者ではない。 24 それで、わたしはあなたたちに、あなたたちは自分の罪の中に死ぬであろうと言ったのだ。『わたしはある』を信じないならば、あなたたちは自分の罪の中に死ぬことになる」。 25 彼らが「いったいお前は誰か」と言ったので、イエスは彼らに言われた、「それは初めからあなたたちに話している。 26 わたしには、あなたたちについて言うべきこと、裁くべきことがたくさんある。しかし、わたしを遣わされた方は真実であり、わたしもまたその方から聞いたことを世に語るのである」。 27 彼らは、イエスが父のことを語っておられるのが分からなかった。 28 そこで、イエスは言われた、「あなたたちは人の子を上げたとき初めて、『わたしはある』が分かるであろう。すなわち、わたしが自分からは何もせず、父がわたしに教えられた通りに語っていることが分かるであろう。 29 わたしを遣わされた方は、わたしと一緒にいてくださる。わたしをひとりにはされない。わたしはいつもその方の御旨に適うことを行っているからである」。


帰って行くイエス
  さて、イエスは再び彼らに言われた、「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すが、自分の罪の中に死ぬことになる。わたしが行くところにあなたたちは来ることができないのである」。(二一節)
 イエスはすでに七・三三で「わたしは去っていく」と述べておられます(ここと同じ動詞が用いられています)。七章と八章は仮庵祭を舞台としたひとまとまりの論争ですが、そこではイエスが「去っていく」という主題が予告の形で取り上げられています。このように繰り返される予告は、共観福音書で三回繰り返されている「受難予告」に相当します。共観福音書では、イエスの受難は「引き渡される」など「〜される」という受動態で語られますが、ヨハネ福音書では、イエスの死は「わたしは去って行く」という能動態で語られます。イエスの十字架上の死は、ヨハネ福音書ではいつもイエスが進んで御自分の命を与えられる行為として描かれます。
 この福音書は闇と死の領域と光と命の領域を峻別する二元論の枠組みで福音を提示し、イエスはつねに「上から」、すなわち光と命の領域から来て、再びその領域に帰っていく方として描かれます。上の領域に帰ることができるのは、本来その領域に属する方だけであり、「下からの者」、「この世から者」はその領域に入ることができないので、その領域に帰られたイエスを捜しても見つけることはできません(七・三四参照)。
 イエスを批判し訴えるユダヤ人たちが、イエスと共に光と命の領域に上ることはできないことが「自分の罪の中に死ぬことになる」と表現されます。彼らは不信の罪の中に放置されて、闇と死の領域に留まることになります。著者は、復活者イエスを信じようとしないユダヤ人たちに対して、「自分の罪の中に死ぬ」という預言者的な言葉(申命記二四・一六、エゼキエル三・一九、一八・二四)で警告するのです。

 そこでユダヤ人たちは言った、「『わたしが行くところに、あなたたちは来ることができない』と彼は言っているが、自殺するのであろうか」。(二二節)
 最初の「去っていく」の予告の時も、ユダヤ人たちはその意味が理解できず、「離散のユダヤ人のところに行くのか」などと考えましたが(七・三三〜三六)、ここではその無理解はさらに進んで「自殺するのか」という疑問になっています。

 イエスは彼らに言われた、「あなたたちは下からの者であるが、わたしは上からの者である。あなたたちはこの世からの者であるが、わたしはこの世からの者ではない。それで、わたしはあなたたちに、あなたたちは自分の罪の中に死ぬであろうと言ったのだ。『わたしはある』を信じないならば、あなたたちは自分の罪の中に死ぬことになる」。(二三〜二四節)
 この福音書は繰り返し、イエスを光と命の領域に属し、そこから来た者として、「上からの者」と呼びます(三・三一など)。それに対して、イエスを信じないユダヤ人たちは、この闇と死の領域であるこの世に属する者として「下からの者」と呼ばれます。本節では同じことが「この世からの者」と「この世からでない者」の対比で繰り返されます。イエスは「上からの者」であり、ユダヤ人たちは「下からの者」であるので、イエスが行かれる所に行くことができないという前節の事実を受けて、「それで」と、二一節の「あなたたちは自分の罪の中に死ぬであろう」という宣言を改めて繰り返します。

 ここで自分の罪の中に死ぬのは、『わたしはある』を信じないからだと、その理由が明示されます。すでにイエスを信じないことが様々な表現で語られていましたが、ここで「『わたしはある』を信じない」という、この福音書にきわめて特徴的な表現で語られます。この福音書でイエスは「上からの者」とか「神から遣わされた者」と呼ばれてきましたが、ここでは神秘的な《エゴー・エイミ》という称号で呼ばれることになります。

イエスとは誰か
 彼らが「いったいお前は誰か」と言ったので、イエスは彼らに言われた、「それは初めからあなたたちに話している」。(二五節)
 共観福音書のイエスは「神の国」を宣べ伝えておられますが、ヨハネ福音書のイエスは「神の国」のことはほとんど語らず、もっぱら自分は誰であるかだけを語っておられます。これはイエスについてのヨハネ共同体の証言です。ヨハネ共同体は、繰り返し繰り返し、世界に向かって、とくに対立するユダヤ教団に向かって、用いることができる限りの表現を駆使して、イエスが神から遣わされた方であることを語るのです。しかもそれをイエス御自身の言葉として語ります。

 「わたしには、あなたたちについて言うべきこと、裁くべきことがたくさんある。しかし、わたしを遣わされた方は真実であり、わたしもまたその方から聞いたことを世に語るのである」。(二六節)
 著者ヨハネとその共同体は、対立するユダヤ教団に対して反論すべきこと、その不信と誤りを指弾すべきことを多く持っています。それを、「わたしにはたくさんある」と、イエスの言葉として突きつけます。イエスを信じないユダヤ人たちは、ヨハネ共同体側からの反論と糾弾を受け付けないでしょうが、「しかし」、イエスを遣わされた方は真実であり、イエスはその方から聞いたことを世に語っておられるのですから、この反論と糾弾は真実である、と続きます。

 彼らは、イエスが父のことを語っておられるのが分からなかった。そこで、イエスは言われた、「あなたたちは人の子を上げたとき初めて、『わたしはある』が分かるであろう。すなわち、わたしが自分からは何もせず、父がわたしに教えられた通りに語っていることが分かるであろう」。(二七〜二八節)
 ヨハネ共同体のユダヤ教団に対する批判が続きます。彼らユダヤ人たちは、イエスが霊なる神を父として語っておられることが分からなかったので、「お前と一緒に証言するという(肉親の)父親はどこにいるのか」などと尋ねるのです。そのような無理解なユダヤ人に対して、イエスは「あなたたちは人の子を上げたとき初めて、『わたしはある』が分かるであろう」と言われます。
 初期の教団はイエスを、ユダヤ教黙示思想において待望されていた終末的な審判を行う「人の子」であると告知しました。共観福音書は、復活して天に昇ったイエスが地上に来臨されるという形で黙示思想的な面を残しています。ヨハネ福音書もこの「人の子」思想を継承して用いていますが、「人の子」の到来を未来に待望するのではなく、徹底的に現在化して、地上のイエスが「人の子」であるとしています(三・一三、五・二七の講解を参照)。したがって、イエスの十字架上の死は「人の子が上げられる」と表現されます(三・一四)。
 この福音書は、イエスが十字架につけられたことを、地上から「上げられる」という独自の表現で語ります。それは、イエスが復活して神の右にまで「上げられた」ことと重ねるためです。イエスの十字架は復活者キリストの身に起こった出来事であることを「上げられる」の一語で表現しているのです。地上のイエスを「上げた」のはユダヤ人たちでしたが、神はそのイエスを「上げて」、主《キュリオス》とされたのです。このことが起こったときユダヤ人たちも、イエスが《エゴー・エイミ》であること、すなわち神の啓示者であり神の顕現であることが「分かるであろう」と言われます。動詞が未来形であるのは、このイエスとユダヤ人たちの対話をあくまで地上での対話としているからです。
 そして、イエスが《エゴー・エイミ》であることの意味を説明するための同格の文が続きます。イエスが《エゴー・エイミ》であるというのは、イエスが自分からは何もせず、父が教えられた通りに語っている方であることを意味しています。イエスは自分からは何もせず、ただ自分を遣わされた父の言葉を語り、父の業をなしておられるのです。イエスは完全な意味で、父の啓示者であり、父の地上での顕現、すなわち《エゴー・エイミ》なのです。

 「わたしを遣わされた方は、わたしと一緒にいてくださる。わたしをひとりにはされない。わたしはいつもその方の御旨に適うことを行っているからである」。(二九節)
 イエスとは誰であるか、すなわち《エゴー・エイミ》とはどういう存在かが、この節でさらに説明されます。本節ではイエスが父と一体であり、父がいつもイエスと一緒におられることと、イエスがいつっも父の御旨を行っておられることが語られます。

特注   ヨハネ福音書における《エゴー・エイミ》

「わたしはある」
 この仮庵祭でユダヤ人と論争されるイエスは、しばしば「わたしはある」という不思議な称号を用いて御自分を指しておられます。この表現はわたしたちには分かりにくいものですので、ここで簡単な解説をつけておきます。
 「わたしはある」は、ギリシア語の《エゴー・エイミ》の直訳です。《エゴー・エイミ》は、英語の I AM に相当する語法です。これは、本来旧約聖書で神の自己啓示の言葉です。すでにモーセが燃える柴の中に現れた方にその名を尋ねた時、こう答えられています。

 神にはモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと」。
(出エジプト記三・一四 新共同訳)

 「これこそ、とこしえにわたしの名」とされたことに応えて、イスラエルはこの名を自分たちの神の名として告白し賛美してきました。それは様々な形で詩篇の中で証言されています。そしてこの名は、捕囚期の大預言者第二イザヤにおいて神の啓示の中心に据えられて重要な役割を果たすようになります。
 たとえば、イザヤ書四三章(一〜一五節)で主がイスラエルに語りかけてご自身を啓示される時、「アニー」(強調の「わたしは」)が、「わたしはヤハウェである」、「わたしは神である」、「わたしはそれである」というような形で繰り返し用いられています。その中で「アニー・フー(わたしはそれである)」の定式は(ヘブライ語では「フー(彼)」が繋辞「である」の意味でも用いられることから)ギリシア語訳では「エゴー・エイミ(わたしはある)」と訳されることになります(一〇節など)。捕囚後のユダヤ教団では、この「アニー」とか「アニー・フー」という定式が神の自己啓示の定式として確立し、イエスの時代にはとくに過越と仮庵の大巡礼祭によく唱えられたのでした。
 この旧約聖書およびユダヤ教の背景から、新約聖書では復活者イエスがその神的臨在を現されるときの定式として用いられるようになります。共観福音書では最高法院での裁判(マルコ一四・六二)とか、また湖上に顕現された時(マルコ六・五〇)など、イエスがご自分の栄光の本質を啓示される特別の場合に出てきます。決定的な場面は最高法院でのイエスの宣言です。「お前はほむべき方の子、メシアなのか」という大祭司の質問に対して、イエスはこの宣言をもって答えておられます。「『エゴー・エイミ』。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」(一四・六二)。大祭司はこれを聞いて、衣を引き裂きながら言ます、「これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は冒涜の言葉を聞いた」。当時のユダヤ教における「アニー・フー」定式の使用の背景からすれば、「人の子」宣言の句がなくても、この「エゴー・エイミ」の宣言だけで大祭司が衣を引き裂くに十分です。
 イエスが最も決定的な瞬間に口にされたとされるこの一語が、湖上での顕現のようなイエスが御自身の神的栄光を啓示されるときの言葉として用いられるようになります。あるいは逆かもしれません。すなわち、復活者イエスの顕現にさいして、神的な臨在に圧倒された弟子たちが、その臨在を「アニー・フー」という言葉で聞き(普段その神的臨在の定式を唱えているユダヤ教徒には自然なことです)、それを最高法院での裁判でのイエスの宣言に用いたのかもしれません。いずれにせよ、最初期の教団はイエスを神の臨在として告白するときにこの「エゴー・エイミ」の定式を用いるようになります。
 イエスが用いられる「エゴー・エイミ(わたしはある)」という宣言の重大性を最もよく理解したのはヨハネ福音書です。この宣言は最初にサマリアの女に向かって発せられています(四・二六)。次に、仮庵の祭でエルサレムに上られたイエスに対して疑問や批判を投げかけたユダヤ人との論戦(ヨハネ福音書七〜八章)で、イエスは「『わたしはある』を信じないならば、あなたたちは自分の罪の中に死ぬことになる」(八・二四)と語り、さらに「あなたたちは人の子を上げたとき初めて、『わたしはある』が分かるであろう」(八・二八)と言っておられます。そして、最後に「アブラハムが生まれるまえから、わたしはある」と宣言されます(八・五八)。ユダヤ人たちはこの宣言の重大さをよく理解しました。それは自分を神とすることです。「ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした」(八・五九)。このように自分を神として神を汚す者を生かしておくことはできないとしたのです。しかし弟子たちには最後の食事の席で、イエスは自分が弟子の一人に裏切られて十字架されることがつまずきにならないように語られるところでこの宣言が用いられています。「事が起こる前に、今言っておく。それは、事が起こったときに、『わたしはある』をあなたたちが信じるようになるためである」(一三・一九)。

「わたしが〜である」
 ところでヨハネ福音書には、「わたしが命のパンである」とか「わたしが世の光である」というような、「わたしが〜である」というイエスの自己啓示の宣言の後に、「わたしを信じる者(またはそれに相当する句)は〜するであろう」という、この啓示を受け入れる者に救済を約束する文が続く形で福音を提示する形が多く出てきます。この形で福音を提示することが、ヨハネ福音書の特色です。
 「わたしが〜である」という部分のギリシア語原文は、《エゴー・エイミ》の後に補語として「光」、「復活・命」、「道・真理・命」などの著者特有の語句が置かれ、とくに「パン」、「門」、「羊飼い」、「ぶどうの木」というような象徴的語句が置かれることが多いようです。
 著者ヨハネはこの句の後に補語として象徴語句(パン、羊飼い、ぶどうの木などだけでなく、光、道、真理、復活、命なども著者にとって深い意味で象徴です)を置いて、「わたしが〜である」というキリスト論的宣言文を形成していますが、この文の理解には次の二点を注意しなければなりません。

 1 ヨハネ福音書における《エゴー・エイミ+補語》の形の文は、たんに「わたしは田中である」とか「わたしは教師である」というように、自分を特定したり、自分の状態などを記述する文ではなく、イエスの神的自己啓示の宣言《エゴー・エイミ》に説明的な補語が加えられたものです。復活者イエスは、《エゴー・エイミ》という神の自己顕現の定式をもって自らを現されますが、著者ヨハネはその後に象徴語句を加えて、復活者イエスがどのような働きをもって現れるのかを世に提示するのです。たとえば、「わたしが命のパンである」(六・三五)という文は、《エゴー・エイミ》という句で自己を啓示しておられる復活者イエスが、「命のパンとして」現れておられるのです。すなわち、自分を信じる者に永遠の命を与える者として現れておられるのです。このような意味で補語が加えられているので、「わたしが〜である」という宣言には、必然的に「わたしを信じる者は〜するであろう」という救済の約束が伴うことになります。この文における神的自己啓示の宣言《エゴー・エイミ》の重大性を見落としてはなりません。

 2 「わたしが〜である」の文は、「わたし」が強調されており、他の誰でもなく、また他のどのような事柄でもなく、この復活者であるわたしこそが、またわたしだけが、その象徴語句が指し示す本体であることを宣言しています。それは、基本的には象徴に対する本体(ぶどうの木の場合)ですが、期待や約束に対して成就(パンの場合)、偽物に対して本物(羊飼いの場合)など、様々な意味合いを含んでいます。ヨハネ福音書における「わたし」は、復活者イエスの「わたし」であることを見落としてはなりません。


  28 真理は自由を与える  (8章30〜38節)

 30 これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。 31 そこでイエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたたちがわたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子であり、 32 真理を知るようになる。そして、真理はあなたたちを自由にするであろう」。 33 彼らはイエスに向かって答えた、「わたしたちはアブラハムの子孫である。今まで誰の奴隷にもなったこともない。どうしてお前は『あなたたちは自由になるであろう』などと言うのか」。 34 イエスは彼らにお答えになった、「アーメン、アーメン、わたしはあなたたちに言う。罪を行っている者はみな、罪の奴隷である。 35 奴隷はいつまでも家にとどまることはないが、子はいつまでもとどまる。 36 だから、もし子があなたたちを自由にするならば、あなたたちは真に自由になるであろう。 37 あなたたちがアブラハムの子孫であることは分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉があなたたちの中に入っていないからである。 38 わたしは父のみもとで見たことを語っている。そして、あなたたちは父のところで聞いたことを行っている」。

真理と自由
 これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。(三〇節)
 この節は、先の段落(二一〜二九節)の結びとして読むこともできます(RSVや新共同訳など多数)。ヨハネ福音書では、「イエスを信じた」という表現が内容の区切りとして現れることがよくあります(二・二二、七・三一、一二・一一)。しかしここでは、「イエスを信じた」ユダヤ人に対する論争が(次節から)始まっているので、底本の区切り方に従って、ここから新しい段落が始まっているという理解で訳しています。

 そこでイエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたたちがわたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子であり、真理を知るようになる。そして、真理はあなたたちを自由にするであろう」。(三一〜三二節)
 ここで「イエスを信じたユダヤ人たち」と言われているユダヤ人とはどのようなユダヤ人であるのかが困難な問題となります。このユダヤ人たちが、イエスの言葉にとどまることによって本当の弟子になった者でないことは、三三節以下の対話によってすぐに明らかになります。著者ヨハネがこの「イエスを信じたユダヤ人」で、どのグループのユダヤ人を指していたのか確定することは困難ですが、おそらく最後までユダヤ教の枠の中に堅くとどまったユダヤ人信徒を指すのでしょう。ヨハネ共同体はこのようなユダヤ人信徒のグループと厳しく対立し、彼らを論駁するために以下のような議論をすることになったと考えられます。この「イエスを信じたユダヤ人」との対話は、ここから五九節まで、よくまとまった論争物語を形成しています。

 ここでイエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに、「もしあなたたちがわたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子であり、真理を知るようになる」と言っておられます。このことから、ここでは著者は、「イエスを信じる」ことと「本当にイエスの弟子である」こととを区別していることが分かります。他の箇所では、「イエスを信じる」ことが直ちに永遠の命であると言われていますが、ここではイエスをメシア・キリストと言い表す者たちの陣営にいるという意味だけで用いられており、その陣営の中で、本当にイエスの弟子である者とそうでない者の区別が語られることになります。
 「本当の弟子」とそうでない者の区別は、「イエスの言葉にとどまる」かどうかにあります。ところで、「とどまる《メノー》」という動詞は著者特愛の用語で、新約聖書の他の文書に比べてヨハネ文書(ヨハネ福音書とヨハネ書簡)に圧倒的に多く用いられています。そして、多くの場合、「あなたたちがわたしの内にとどまる」とか「わたしがあなたたちの内にとどまる」というように、人格的・霊的結びつきと内住の現実を指しています(たとえば一五・四〜一〇など多数)。
 ここでは「わたしの言葉にとどまる」と言われていますが、これは「わたしの内にとどまる」と同じであると見ることができます。ここの「言葉」は複数形ではなく単数形です。しかも、単純な「わたしの言葉に」ではなく、「わたしのものである言葉の内に」という特殊な表現になっています。すなわち、これはイエスが語られた諸々の戒めの言葉を守るという意味ではなく、復活者イエス御自身である《ロゴス》に結ばれて歩む現実を指していると見られます。
 ヨハネ福音書の「わたしの内にとどまる」は、パウロの「キリストにあって」と同じです。ヨハネ福音書の「わたし」は復活者キリストを指しているからです。したがって、ここの「本当の弟子」とそうでない者の区別は、ただ口先でイエスをキリストと言い表している信者と、御霊によって現実に霊なる復活者キリストと結ばれて生きている者の違いであると言えます。
 イエスの内にとどまることによって「本当の弟子」となるならば、「真理を知るようになる」、とヨハネ福音書のイエスは言われます。「真理」《アレーセイア》は、ヨハネ福音書特愛の用語の一つです。共観福音書のイエスの宣教においては、その内容を指すのに「真理」という用語は出てきません。パウロでは「真理」は、「福音の真理」とか「真理に従う」というような形で用いられていますが、まだ(義とか和解、自由とか命というような)キリストにある救済の現実を指す中心的な位置を占めるには至っていません。ヨハネ福音書になって「真理」は、キリストにおける救済の事態を指し示すさいの中心的な用語になってきます。
 ヨハネ福音書における「真理」は、キリストにあって神が啓示し、かつ与えてくださる霊的次元の現実(リアリティー)であると理解してよいでしょう。復活者キリストであるイエスは「恵みと真理」に満ちた方であり(一・一四)、この方が世に来られたことによって「恵みと真理」が世に現れたのでした(一・一七)。ヨハネ共同体にとって、イエスは恩恵と真理の体現者であり、救いとはイエスにおいて与えられている恩恵と真理を受け取ることです。復活者イエス・キリストこそ「道であり、真理であり、命である」方です(一四・六)。ヨハネ福音書の「真理」は命そのものです。
 神とかかわる場における霊的リアリティーは、神の御霊によって実現するものですから、「真理」はいつも御霊と一組で語られることになります。御霊は「真理の御霊」と呼ばれ(一四・一七)、この御霊がわたしたちを「真理」に導き入れてくださるのです(一六・一三)。御霊によって真理に導き入れられ、その場で父との交わりに生きること、すなわち「御霊と真理にあって父を礼拝する」ことこそ、父が求めておられる「まことの礼拝」です(四・二三)。
 ヨハネ福音書において「真理」はこのように救済の現実を指し示す中心的な用語ですから、真に復活者イエスとの交わりに生きる者が受ける境地が「真理を知る」と表現されることも理解できます。この場合の「真理を知る」は、頭で「知る」(第三者として認識する)のではなく、神との現実のかかわりに入り、そのリアリティーを体験するという意味です。
 ここでイエスは「そして、真理はあなたたちを自由にするであろう」と言われます。ここでは真理が「自由」をもたらす源泉とされています。この節では「自由にする、解放する」という動詞が用いられていますが、「自由」という用語が現れるのは、ヨハネ福音書ではこの段落(八・三〇〜三八)だけです。
 「自由」とか「解放」(両者はギリシア語では同じ語です)を救済の中心において福音を語ったのはパウロです。ガラテヤ書やローマ書に見られるように、パウロは救済を罪と死からの解放、また律法からの解放として語りました。パウロにおいては、キリストにあって罪と律法の支配から解放されて自由になることが救済でした。他では自由について語ることのないヨハネ福音書が、ここでは「真理はあなたたちを自由にするであろう」と、パウロ的な主題を取り上げていることになります。

アブラハムの子孫
 彼らはイエスに向かって答えた、「わたしたちはアブラハムの子孫である。今まで誰の奴隷にもなったこともない。どうしてお前は『あなたたちは自由になるであろう』などと言うのか」。(三三節)
 ここに用いられている「自由にする」または「解放する」という動詞は、一般に奴隷を解放することを指すのに用いられている動詞です。当時の社会環境では、これを聞いた者が奴隷の解放のことが語られていると理解するのは自然なことです。イエスの言葉を聞いたユダヤ人たちはそう理解して、「今まで誰の奴隷にもなったこともないのに、どうして解放されるであろうなどと言うのか」と抗議します。ここでも、イエスは霊的な次元の出来事を(奴隷解放の比喩で)語っておられるのに、聞く者は地上の人間的な体験の次元で理解している、というすれ違いが起こっています。
 ユダヤ人は、自分たちはアブラハムの子孫であり、アブラハムとその子孫に神から与えられた契約(約束)を受け継ぐ者(創世記一七・七〜八)であることを誇っていました。ユダヤ教徒は自分たちの特権と特別の立場を「アブラハムの子孫」という標語で誇っていたのです。この箇所(八・三〇〜五九)のひとまとまりの論争には、アブラハムの名が繰り返し現れ、議論は「アブラハムの子孫」であることをめぐって行われます。パウロもガラテヤ書三章で、アブラハムの子孫であることをめぐってユダヤ主義者と論争しています。この箇所は、「自由」という主題と「アブラハムの子孫」であることをめぐる論争で、パウロ的な色彩が強く出ています。
 ユダヤ人は、自分たちはアブラハムの子孫であるから、「今まで誰の奴隷にもなったこともない」と自負しています。アブラハムの子孫であるイスラエルの民も、エジプトやアッシリア、またバビロニアやペルシャ、ローマなどの諸強国に支配され、奴隷的な境遇を甘受してきました。しかし、契約を受け継ぐアブラハムの子孫として、直接神に所属し、神以外の誰にも奴隷として所属して仕えたことはないという宗教的自負があり、また、個人的に奴隷になったことはないという社会的身分の誇りからの発言でもあるのでしょう。ユダヤ教徒は、イエスを信じたユダヤ人を含め、自分たちが律法の奴隷であり、それは罪の奴隷であることを自覚していません。

 イエスは彼らにお答えになった、「アーメン、アーメン、わたしはあなたたちに言う。罪を行っている者はみな、罪の奴隷である」。(三四節)
 自分たちはアブラハムの子孫であり奴隷ではないと自負しているユダヤ人に向かって、ヨハネ共同体は「あなたたちは奴隷だ」と断定します。この宣言の重大さを強調するために、この宣言は「「アーメン、アーメン、わたしはあなたたちに言う」という荘重な定式が用いられます。
 「罪を行っている者」の「罪」は単数形です。「罪(単数形)を行う《ポイエイン》」とは、罪の中に生きていること全体を指します。個々の律法規定に違反する行為を指す「罪(複数形)を犯す」とは違います。罪の中に生きている限り、ユダヤ教徒であろうが何教徒であろうが、みな等しく「罪の奴隷」だと宣言します。

 「罪を行っている者」は、罪(単数形)の力に支配され、引きずられて罪の中に生きているのであるから、罪の力の支配下にある者、すなわち「罪の奴隷」であるとされます。人間は、異邦人もユダヤ人もすべて「罪の力の支配下にある」ことを強調し、生まれながらの人間はみな「罪の奴隷」(ローマ六・一七)であるとしたのはパウロです。ヨハネ(あるいはヨハネ共同体)がパウロを直接知り、その思想を受け継いでいるのかどうかは議論がありますが、ここの「罪の奴隷」という理解は、パウロの延長線上にあると言えます。

 「奴隷はいつまでも家にとどまることはないが、子はいつまでもとどまる。だから、もし子があなたたちを自由にするならば、あなたたちは真に自由になるであろう」。(三五〜三六節)
 パウロも「奴隷はいつまでも家にとどまることはないが、子はいつまでもとどまる」ものであることを、二人の女の比喩で語っています(ガラテヤ四・二一〜五・一)。当時の奴隷制社会の実情を比喩として用いて、パウロもヨハネも同じように、罪や律法の奴隷である者は父との交わりにとどまることはできないのであって、奴隷状態から解放されて真に自由になった者だけが父の家にとどまることができるという原理を明らかにします。その上で、「子が自由にする」方であることを語ります。
 人を罪の奴隷から解放するのはキリストですが、ここの文脈では、そのキリストが「いつまでも(父の)家にとどまる」資格のある「子」として、奴隷の解放を行うことが強調されます。「子が解放する」ことによって、解放された者は、子と一緒に「いつまでも父の家にとどまる」者となるのです。子と一緒にいつまでも父の家で父との交わりに生きるようになることで、完全に奴隷の身分からの解放が実現します。

 「あなたたちがアブラハムの子孫であることは分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉があなたたちの中に入っていないからである」。(三七節)
 ユダヤ人がアブラハムの血統を受け継ぐ子孫であることは事実です。そのアブラハムの子孫であることを誇る民ユダヤ人が、アブラハムへの約束を成就するために来た方を殺そうとしているのです。イエスが地上におられる時の発言として「殺そうとしている」と未来形で語っていますが、著者ヨハネはユダヤ人がすでにイエスを殺した事実を知っています。アブラハムの子孫たちが、「アブラハムの子孫」であるキリスト・イエス(ガラテヤ三・一六)を殺したのです。ここに救済史の秘義があります。
 「イエスを信じたユダヤ人」も、御霊によって生まれることなく律法の文字に生きている限り、律法を超えているイエスを理解できず、律法を汚す者として殺そうとします。「イエスを信じたユダヤ人」も、律法に固執する限り、イエスを憎む点で他のイエスを信じないユダヤ人と同じになります。「イエスを信じたユダヤ人」である「ユダヤ主義伝道者」がパウロを抹殺しようとしたのも同じ線上にあります。「肉によって生まれた者は、霊によって生まれた者を迫害する」(ガラテヤ四・二九)のです。
 なぜこのようなことになるのか。著者は論争相手の「イエスを信じたユダヤ人」に向かって、それは「わたしの言葉があなたたちの中に入っていないからである」と断定します。「イエスを信じたユダヤ人」は、自分の判断でイエスの言葉を認めただけで、まだ自分が主体です。イエスの言葉、いや神の言葉としてのイエス(原文は「わたしのものであるロゴス」)が、中に突入してきて、変革し、支配するようにはなっていないのです。彼らはまだ自分の本性の中に生きています。
 「わたしの言葉があなたたちの中に入っていない」という文の動詞は、「とどまる《メノー》」ではなく、「場所をあける、場所を占める」という意味の別の動詞です。彼らがイエスという神のロゴスに自分を明け渡していないので、その結果、そのロゴスが彼らの中に場所を占めていないことを指しています。

 「わたしは父のみもとで見たことを語っている。そして、あなたたちは父のところで聞いたことを行っている」。(三八節
 この節では、「わたしは」と「あなたたちは」がそれぞれとくに強調されていて、イエス(実はヨハネ共同体)と論争相手の「イエスを信じたユダヤ人」がまったく別の起源であることが明らかにされます。ここにもヨハネの二元論が出ていることになります。イエスはイエスの父から、彼らは彼らの父から出た者とされます。
 「あなたたちは父のところで聞いたことを行っている」という文で、父に「あなたたちの」という句はついていませんが、この「父」はイエスの父とは別の父を指していることは明らかです。「自分の本性の中に生きている」ことが、イエスの父からの派遣との対比で、このように表現されています。この表現を受けて、彼らの父とは誰であるかが、次の段落の主題となります。

29 悪魔の子ら (8章39〜47節)

 39 彼らは答えてイエスに言った、「わたしたちの父はアブラハムだ」。イエスは彼らに言われる、「あなたたちがアブラハムの子供であるなら、アブラハムの業をしてきたはずだ。 40 しかし今、神のもとで聞いた真理をあなたたちに語った者であるこのわたしを、あなたたちは殺そうとしている。そのようなことをアブラハムはしなかった。 41 あなたたちは自分の父の業をしているのである」。そこで彼らはイエスに言った、「われわれは淫行から生まれたのではない。われわれには父がいる。すなわち、神御自身である」。 42 イエスは彼らに言われた、「もし神があなたたちの父であるならば、あなたたちはわたしを愛したことであろう。わたしは神から出て、ここにいるからである。わたしは自分から語っているのではなく、その方がわたしを遣わされたのである。 43 なぜあなたたちはわたしが語ることを悟らないのか。それは、あなたたちはわたしの言葉を聴きとることができないからだ。 44 あなたたちは悪魔という父から出た者であり、自分たちの父の欲望を行なおうとしているのだ。彼は初めから人殺しであり、真理には立ってこなかった。彼の中には真理がないからである。彼が偽りを語るとき、彼は自分の本性から語っている。彼は偽り者であり、偽りの父だからである。 45 ところが、わたしが真理を話すので、あなたたちはわたしを信じない。 46 あなたたちの中の誰が、罪についてわたしを責めることができるか。わたしが真理を語るのであれば、どうしてあなたたちはわたしを信じないのか。 47 神から出た者は神の言葉を聴く。あなたたちは神から出た者でないから、聴かないのだ」。

父は誰か
  彼らは答えてイエスに言った、「わたしたちの父はアブラハムだ」。(三九節前半)
 イエスが「あなたたちは父のところで聞いたことを行っている」と言われたので、彼らは「わたしたちの父はアブラハムだ」と応えます。ユダヤ人はみな、自分たちはアブラハムの子孫であるから、それだけで自動的にアブラハムとその子孫に神から与えられた契約(約束)を受け継ぐ者(創世記一七・七〜八)であると誇っていました。この自覚と誇りは、イエスを信じたユダヤ人もイエスを信じないユダヤ人と同じです。以下の論争は、もはやイエスを信じるユダヤ人かイエスを信じないユダヤ人かの区別を超えて、アブラハムの子孫であるだけで自動的に約束の継承者であることを誇る「ユダヤ人性」そのものに向けられることになります。

 イエスは彼らに言われる、「あなたたちがアブラハムの子供であるなら、アブラハムの業をしてきたはずだ。しかし今、神のもとで聞いた真理をあなたたちに語った者であるこのわたしを、あなたたちは殺そうとしている。そのようなことをアブラハムはしなかった。あなたたちは自分の父の業をしているのである」。(三九節後半〜四一節前半)
 「アブラハムの業」とは、アブラハムの生き方そのものです。アブラハムは生涯、神の言葉にひれ伏して従う歩みを全うしました。現在のユダヤ人がアブラハムの子供であるならば、すなわちアブラハムの命の質を継承している者であるならば、アブラハムのように神の言葉にひれ伏して従ったはずです。ところが現実のユダヤ人は、「神のもとで聞いた真理を語った者である」イエスを殺そうとしています。そして、実際殺したのです。アブラハムは、神の言葉に対してそのような反抗はしませんでした。彼らがイエスを殺した事実は、彼らがアブラハムの子供ではないこと、すなわち彼らの父はアブラハムではなく、他に父がいることを示しています。彼らは「自分の父の業をしている」のです。

 そこで彼らはイエスに言った、「われわれは淫行から生まれたのではない。われわれには父がいる。すなわち、神御自身である」。(四一節後半)
 「あなたたちは自分の父の業をしている」というイエスの言葉に、神以外の父から生まれた者たちだという非難を聞き取って、彼らはこのように反論します。
 「われわれは淫行から生まれたのではない」という反論は、母親の淫行から生まれたという噂のあるイエスに対するあてこすりと見る解釈があります(ケルソス以来)。イエスの出生については(結婚前の懐妊などの)秘密があることが母親のマリアから漏らされ、イエスの復活を信じる者たちの教団で、それが聖霊による処女の懐妊と誕生として物語られるようになり、マタイとルカの誕生物語が形成されます。それに対抗して、イエスを非難する側では、マリアはローマ兵士との私通によって懐妊したのだというような噂が流されるようになります。
 そのような非難があったことは、すでに福音書にも示唆されています。すなわち、ナザレの人々がイエスのことを「マリアの息子」と呼んだと伝えられていますが(マルコ六・三)、これは父親がいないか分からない子に対する差別的な呼び方です。ユダヤ人社会では、男の子はいつも(父親が亡くなった後も)父親の名を冠して「誰それの息子」と呼ばれていたので、「マリアの息子」という呼び方は、ヨセフとの間の正式の子ではないという非難がこめられています。
 しかしここでは、そのようにイエスの出生についてのあてこすりと解釈する必要はありません。すぐ後の「われわれには父がいる。すなわち、神御自身である」という言葉から、反論したユダヤ人は(そして著者も共に)、ヤハウェ以外の神に仕えることを「淫行」と呼んだ預言者の伝統(ホセヤ、エレミヤ、エゼキエルに多数)を受け継ぐ用語法で語っていると理解してよいでしょう。
 ユダヤ人は、自分たちはヤハウェがアブラハムとその子孫との間に結ばれた契約関係から生まれた嫡子であることを誇っていました。他の神々との交わり(それが「淫行」です)から生まれたのではない。アブラハムの神、天地万物を創造し、イスラエルの民を選ばれた唯一の神から生まれた者、その神を父とする民であると主張します。
 その主張に対して、ユダヤ人と対立するヨハネ共同体は激しく反論します。その反論は、いつもと同じくイエスの言葉として表現されます。

 イエスは彼らに言われた、「もし神があなたたちの父であるならば、あなたたちはわたしを愛したことであろう。わたしは神から出て、ここにいるからである。わたしは自分から語っているのではなく、その方がわたしを遣わされたのである」。(四二節)
 聖書が啓示する神があなたたちの父であるならば、その神から遣わされて、その方の言葉を語るイエスを愛するはずだ、と著者は反論します。ところが、ユダヤ人はそのイエスを拒み、殺そうとしている。彼らは神から生まれた者ではない。彼らの父は別にいるという反論です。

 「なぜあなたたちはわたしが語ることを悟らないのか。それは、あなたたちはわたしの言葉を聴きとることができないからだ」。(四三節)
 ユダヤ人がイエスは父から遣わされて父の言葉を語っておられるということが理解できないのは、彼らはイエスの言葉を「聴きとることができない」からだと、著者はユダヤ人の不信の理由を示します。
 イエスは、ユダヤ人が日常用いているアラム語で、また彼らの宗教用語を用いて語られたのでしょうが、その内容が彼らの宗教的常識とあまりにもかけ離れていたので、外国語を聴き取ることができないように、彼らはイエスの言葉を聴き取ることができなかったのです。イエスは光の領域の言葉を語っておられるので、闇の領域にいるユダヤ人には、イエスの言葉は別世界の言葉として響き、聴き取ることができないのです。ここにも、ヨハネ福音書の厳しい二元論が貫かれています。

悪魔から出た者
  「あなたたちは悪魔という父から出た者であり、自分たちの父の欲望を行なおうとしているのだ。彼は初めから人殺しであり、真理には立ってこなかった。彼の中には真理がないからである。彼が偽りを語るとき、彼は自分の本性から語っている。彼は偽り者であり、偽りの父だからである」。(四四節)
 ここでわたしたちはこの福音書の中でもっとも衝撃的な言葉に遭遇します。この福音書のイエスはユダヤ人に向かって、「あなたたちは悪魔という父から出た者である」と言い放たれます。

 悪魔は神に敵対する霊的諸力の頭です。共観福音書にも悪魔とかサタンという用語が現れます。しかし、共観福音書では悪魔はイエスを試みたり民を病苦に縛り付ける力であったりしますが、ユダヤ人が悪魔から出た民であるというような激烈な言葉はありません。もともとのイエス語録伝承にも、イエスが自分を批判する律法学者たちを悪魔呼ばわりされたという記録はありません。この言葉は、ヨハネ福音書の著者(またはヨハネ共同体)が自分が提示するイエスの真理に反対する勢力に投げつけた言葉であるとしなければなりません。

 では、その勢力とはどのような勢力なのかという問題は、この福音書の成立の状況とからまっており、複雑であり、単純に割り切った解答を見いだすことはできません。この問題を考える上でヒントになるのは、この「悪魔という父」が初めから、すなわち本性的に「人殺し」であり「偽り者」であると記述されていることです。この表現は、著者ヨハネとその共同体が置かれていた状況を示唆しています。
 この段落ですでに何回も、ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていることが語られていました。少し後には、イエスを信じる弟子たちを殺すことが神に仕える方法だと考える勢力が現れることが予告されています(一六・二)。ヨハネ共同体は、イエスを殺し、自分たちをも殺そうとする勢力と直面していて、その勢力に向かって、「あなたたちの父は、人殺しを本性とする悪魔だ」と言わないではおれなかったとも考えられます。
 ヨハネ共同体にとって自分たちを殺そうとする勢力の第一は、イエスを信じないユダヤ教会堂勢力です。ところが、この箇所(八・三〇以下)は「イエスを信じたユダヤ人」に向かって語られているので、この言葉を直接会堂勢力に向けられたものとすることはできません。しかし、先に見たように(三七節および三九節前半の講解を参照)、この箇所の論争は、もはやイエスを信じるユダヤ人かイエスを信じないユダヤ人かの区別を超えて、アブラハムの子孫であるだけで自動的に約束の継承者であることを誇り、ユダヤ教律法の枠に固執する「ユダヤ人性」そのものに向けられています。著者は、イエスに敵対する会堂勢力も、イエスを信じる陣営にいながらイエスの真理の言葉にとどまっていない者たちも、同様にイエスと真の弟子(ヨハネ共同体)を憎み殺そうとしていると断じて、「あなたたちの父は、人殺しを本性とする悪魔だ」と断定します。
 イエスを信じる者たちの陣営の中にも、福音の真理に生きる真の弟子に敵対する者たちがいたことは、イエスを信じるユダヤ人たちの中の「ユダヤ主義者」が、律法からの自由を説くパウロに激しく反対したのと同じです。ヨハネの時代にはその対立がさらに激化していたという事情が考えられます。
 さらに、ここで「悪魔の父」は「偽り者」と呼ばれています。これは「彼は初めから真理には立ってこなかった。彼の中には真理がないからである」と言われているように、「真理」に敵対する者です。イエスを信じる者の陣営の中で、著者ヨハネが提示する真理に敵対し、異なる教えを説いて、弟子たちを真理から逸脱させようとする勢力です。著者は、このような者たちを本性的に「偽り者」である悪魔から出た者であると断定します。
 実は、ヨハネ共同体自体の中に、著者とは異なる教えを説いて弟子たちを集めて出て行ったグループがあり、ヨハネ共同体は分裂の危機を体験したことがヨハネの手紙から分かります(ヨハネT二・一九)。手紙の著者は、このような者たちを「反キリスト」、「偽り者」、「悪魔から出た者」、「悪魔の子」、「人殺し」と呼んで痛烈に非難しています(それぞれヨハネTの二・一八、二・二二、三・八、三・一〇、三・一五)。

 この非難は、福音書のこの箇所の論敵への非難とほぼ一致していますので、ヨハネ共同体を分裂させた勢力に対する非難が、福音書の中に書き込まれたという理解も可能です。その場合には「人殺し」は、「兄弟を憎む者は皆、人殺しです」(ヨハネT三・一五)という意味の「人殺し」、すなわち兄弟愛の教えに背いて共同体を分裂させ、「兄弟を憎む者」となった「人殺し」と理解できますから、福音書のこの箇所の「人殺し」を、必ずしも実際に迫害による処刑を指していると見なくてもよいことになります。この推定によれば、ここで「あなたたちは悪魔という父から出た者である」と言われているのは、「イエスを信じたユダヤ人」でヨハネ共同体から出て行ったグループを指すことになります。

 このように、「あなたたちは悪魔という父から出た者である」と言われている論敵が、もはやイエスを信じるか信じないかの区別を超えてユダヤ教律法の枠に固執するユダヤ人を指すのか、または、ヨハネ共同体から出て行ったグノーシス主義的な傾向のユダヤ人信徒のグループを指すのか、解釈が分かれますが、いずれにせよ、著者は自分が提示する復活者イエスの真理に敵対するユダヤ人と激しい論争を続けます。

 「ところが、わたしが真理を話すので、あなたたちはわたしを信じない」。(四五節)
 この箇所のイエスの言葉には、敵対するユダヤ教会堂勢力あるいは著者ヨハネの言葉に聴き従わないで共同体から出て行った者たちに対するヨハネ共同体の論争が強く重なっています。著者あるいは著者に率いられるヨハネ共同体は、自分たちが聖霊により体験した復活者イエスの真理(リアリティー)を語り続けてきました。ヨハネ共同体はこの証言を復活者イエスの言葉として語ってきました。ところが、まさにそれが真理であるゆえに、真理から出た者たちではない敵対勢力は、この証言を受け入れることができないのです。

 「あなたたちの中の誰が、罪についてわたしを責めることができるか。わたしが真理を語るのであれば、どうしてあなたたちはわたしを信じないのか」。(四六節)
 この言葉には、イエスを断罪して十字架の死に追いやったユダヤ教側の誤りを糾弾するヨハネ共同体の論難がこめられています。イエスは父の御旨に従う歩みをされた方であり、父に背いているという意味の罪はありません。ところが、ユダヤ教側は自分たちの律法解釈に違反するからという理由で、最高法院でイエスを罪ある者と断罪しました。そして今も、ユダヤ教会堂勢力はイエスに従うヨハネ共同体の者たちを、ユダヤ教に背く者、異端者として断罪しています。
 なぜ罪なく真理だけを語る者を拒み断罪するのか。これは質問とか疑問ではなく、論難です。彼らがそうする理由は、すぐ次節で明らかにされます。

 「神から出た者は神の言葉を聴く。あなたたちは神から出た者でないから、聴かないのだ」。(四七節)
 「神から出た者」は「神に所属する者」という意味です。神に属する者は当然神の言葉に耳を傾け、聴いた言葉を神の言葉として受け入れます。それは命の繋がりからくる自然の結果です(このことは後で羊飼いと羊のたとえで詳しく語られることになります)。「あなたたち」、すなわちイエスに敵対し、今ヨハネ共同体の証言に敵対するユダヤ人たちは、神に所属していない者だから、イエスが(そして今ヨハネ共同体が)語る真理の言葉を聴き取ることができないのだとします。これは、イエスに敵対する現在のユダヤ教会堂は神に属する者ではないとする重大な宣言です。これは、彼らの父は神ではなく悪魔であるとするこの段落の結論です。

  30「わたしはある」  (8章48〜59節)

 48 ユダヤ人たちはイエスに答えて言った、「お前はサマリア人で、悪霊につかれていると、わたしたちが言うのも当然ではないか」。 49 イエスはお答えになった、「わたしは悪霊につかれているのではなく、父を敬っているのであるが、あなたたちはわたしを卑しめている。 50 わたしは自分の栄光を求めていない。栄光を求め、かつ裁く方がおられる。 51 アーメン、アーメン、わたしはあなたたちに言う。誰でも私の言葉を守るならば、その人はいつまでも死を見ることはない」。 52 そこで、ユダヤ人たちはイエスに言った、「今こそ、お前が悪霊につかれていることが分かった。アブラハムも預言者たちも死んだ。それだのに、お前は『わたしの言葉を守るならば、いつまでも死を味わうことはない』と言う。 53 お前はわたしたちの父祖アブラハムよりも偉いのか。彼も死に、預言者たちも死んだ。いったいお前は自分を何者とするのか」。 54 イエスはお答えになった、「もしわたしが自分自身に栄光を帰すのであれば、わたしの栄光はない。わたしに栄光を与えるのは、わたしの父である。すなわち、あなたたちが自分たちの神であると言っている方である。 55 あなたたちはその方を認めてこなかったが、わたしはその方を知っている。もしわたしがその方を知らないと言えば、わたしはあなたたちと同じように嘘つきになるであろう。わたしはその方を知っており、その方の言葉を守っている。 56 あなたたちの父祖アブラハムは、わたしの日を見ることを大きな喜びとした。そして、見て喜んだ」。 57 そこで、ユダヤ人たちはイエスに言った、「お前は五十歳にもなっていないのに、アブラハムを見たのか」。 58 イエスは彼らに言われた、「アーメン、アーメン、わたしはあなたたちに言う。アブラハムが生まれるまえから、わたしはある」。 59 そこで、ユダヤ人たちは石を取り上げて、イエスに投げつけようとしたが、イエスは身を隠して、神殿から出て行かれた。


ヨハネ共同体とサマリア教徒

  ユダヤ人たちはイエスに答えて言った、「お前はサマリア人で、悪霊につかれていると、わたしたちが言うのも当然ではないか」。(四八節)
 前の段落でイエスが語られた言葉を聞いて、「イエスを信じるユダヤ人たち」は猛烈に反発します。その反発とイエスに対する非難に「お前はサマリア人だ」という言葉が用いられています。これは、ユダヤ教の枠に固執する保守的なユダヤ教徒の信徒がヨハネ共同体に見られるサマリア教的な要素に反発していることの反映であると見られます。同じイエスを信じるユダヤ人でありながら、ヨハネ共同体は保守的ユダヤ教徒のグループからそのサマリア的傾向を激しく非難されていたようです。
 ヨハネ福音書(四章)は、他の福音書にはないイエスのサマリアでの伝道活動を詳しく描き、多くのサマリア教徒がイエスを信じるようになったことを伝えています。この事実は、ヨハネ共同体には多くのサマリア教徒の信徒が含まれていたことを示しています。サマリア伝道がイエス御自身によって行われたのか、または使徒言行録(八章)が伝えるようにフィリポが初めてサマリアに福音を伝えたのかは議論があるところですが、ヨハネ共同体にサマリア教徒の信徒がかなり含まれていたのは事実であると考えられます(ヨハネ福音書はフィリポを重視して言及することが多い福音書です)。
 当時のユダヤ教徒はサマリア教徒を汚れた異教徒として接触を避けていました。そのサマリア教徒を含むようになったことで、ヨハネ共同体はユダヤ教の枠から一歩踏み出したことになります(ヨハネ共同体はサマリアにあったという説もあります)。神の礼拝はもはやエルサレム神殿に限られるものではなくなりました。さらに、サマリア教徒の存在を触媒として(それだけではありませんが)、ヨハネ共同体はメシアをダビデの子とするユダヤ教のキリスト論を超え、ヨハネ福音書に見られるイエスを御子の受肉であるとする高度のキリスト論を形成するようになったと見られます。ヨハネ福音書は、保守的なユダヤ教徒が決して認めることができないイエスの《エゴー・エイミ》宣言を繰り返しています。そのことが、ユダヤ人たちがイエスを殺そうとする原因になります(八・五八〜五九)。
 保守的なユダヤ教徒にとって、サマリア人はモーセの啓示(モーセ五書)を受け継いでいながら悪霊に唆されて正しい信仰から外れた者たちであり、「悪霊につかれた」者たちだとされていました。それで、イエスを信じるユダヤ人であってもユダヤ教に固執する限り、イエスを信じない外のユダヤ人と同じく、ヨハネ共同体のようなイエス告白に対しては、「お前はサマリア人で、悪霊につかれている」と非難するようにならざるをえません。

 イエスはお答えになった、「わたしは悪霊につかれているのではなく、父を敬っているのであるが、あなたたちはわたしを卑しめている」。(四九節)
 イエスは「お前はサマリア人だ」という非難は無視されます。もはやユダヤ人かサマリア人かは問題になりません。しかし、「悪霊につかれている」という批判にはきっぱりと否と答えられます。イエスの言葉は悪霊につかれた者の言葉ではなく、真に父を敬う者の言葉です。ただ、それを聴き取ることができない者たちが、イエスを非難して卑しめているだけです。

 「わたしは自分の栄光を求めていない。栄光を求め、かつ裁く方がおられる」。(五〇節)
 イエスは自分を空しくして(フィリピ六・六〜八)ひたすら父の御旨を行い、「父よ、あなたの名が崇められますように」(マタイ六・九)と、父の栄光だけを求められました。イエスが弟子たちに教えられたとされる「主の祈り」のこの一節は、イエス御自身の祈りにほかなりません。著者ヨハネは先にこのことを、「自分から語る者は自分自身の栄光を求めるが、自分を遣わされた方の栄光を求める者は真実であって、その中に不義はない」(七・一八)と表現していましたが、この段落(とくに本節と五四節)で再びイエスが御自分の栄光を求めるのではなく、イエスに栄光を与えるのは父であることを明確に語ります。
 後半の「栄光を求める方」は、五四節との並行関係から父を指すと理解しなければなりませんが、そうすると「かつ裁く方」は、(前節の)イエスを卑しめる者たちを裁く方という意味に理解するか、ここの《クリノー》という動詞を「判断する」という意味にとって、論争中の誰が正しくて栄光を受けるに値するかを判断する方は父であると理解することになります。おそらく後者の意味に理解するのが自然でしょう。

アブラハムよりも先にいます方
 「アーメン、アーメン、わたしはあなたたちに言う。誰でも私の言葉を守るならば、その人はいつまでも死を見ることはない」。(五一節)
 イエスとはいったい誰かという問題が激しく争われている論争の中に、著者はやや唐突に、アーメン句を用いた荘重な形で、普段共同体が宣べ伝えているイエスの宣言を挿入します。これはすでに五章で語られていた「アーメン、アーメン、わたしはあなたがたに言う。わたしの言葉を聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は永遠の命を持っており、裁きに到ることなく、死から命に移っている」(五・二四)と同じことを簡潔に言い表しています。イエスとは、わたしたちがその言葉を守り、そのことによってその方との結びつきに生きるならば、もはや「死を見ることはない」、すなわち永遠の命に生きることになる、そういう方であると宣言しているのです。

 そこで、ユダヤ人たちはイエスに言った、「今こそ、お前が悪霊につかれていることが分かった。アブラハムも預言者たちも死んだ。それだのに、お前は『わたしの言葉を守るならば、いつまでも死を味わうことはない』と言う。お前はわたしたちの父祖アブラハムよりも偉いのか。彼も死に、預言者たちも死んだ。いったいお前は自分を何者とするのか」。 (五二〜五三節)
 ユダヤ人はこの言葉を誤解します。というよりは、理解することができないのです。イエスは御霊によって与えられる「永遠の命」のことを語っておられるのに、ユダヤ人はイエスが地上の肉体が死なないと約束していると受け取り、そのような約束をするイエスは自分を不死身の存在だとするのかと詰め寄ります。アブラハムも預言者たちもみな死んだのに、自分は彼らよりも偉大な存在で、自分だけは死なない者であるとするのかという詰問です。ユダヤ人にとって、アブラハムやモーセを初めとする預言者たちよりも偉大な人間はありません。そのアブラハムや預言者たちも死んだのに、自分だけは死なないかのように語るお前は「いったい自分を何者とするのか」という激しい非難です。

 イエスはお答えになった、「もしわたしが自分自身に栄光を帰すのであれば、わたしの栄光はない。わたしに栄光を与えるのは、わたしの父である。すなわち、あなたたちが自分たちの神であると言っている方である」。(五四節)
 ユダヤ人の非難に対してイエスは、自分に栄光を与えて、自分がどのような者であるのかを示すのは「わたしの父、すなわち、あなたたちが自分たちの神であると言っている方である」と答えられます。これは、イエスが苦しみを受けた後、復活によって御子の栄光を現すようになることを指しています。神がイエスを復活させて、イエスに神の子としての栄光をお与えになるのです。
 イエスを復活させて栄光をお与えになるのはイエスの父ですが、イエスの父はユダヤ人が「自分たちの神であると言っている方」、すなわちイスラエルの歴史の中に働いてこられた神、旧約聖書の神に他なりません。これは、イエスの父はユダヤ人の神、すなわち旧約聖書の神とは別の神であるとする後の時代のマルキオンやグノーシス主義たちの主張とは反対の発言です。著者は明確にグノーシス主義とは反対の陣営に属しています。

 「あなたたちはその方を認めてこなかったが、わたしはその方を知っている。もしわたしがその方を知らないと言えば、わたしはあなたたちと同じように嘘つきになるであろう。わたしはその方を知っており、その方の言葉を守っている」。(五五節)
 イエス(ひいていはヨハネ共同体)とユダヤ人は同じ方を神としているのです。しかし、その神とのかかわり方が違います。著者は、ユダヤ人はその神を認識しなかったが、イエスこそはその神を知る方であり、その方の言葉を守り、その方の言葉を語る方であると宣言します。
 「認めてこなかった」という動詞は現在完了形です。ユダヤ人は今にいたるまでずっと自分たちの神の真実の姿を認識してこなかった。それに対して、イエスはその神を知っているとされます。イエスとユダヤ人との対立(実際はヨハネ共同体とユダヤ教会堂の対立)は、同じ神を知っているか知らないかの対立であって、違う神の対立ではありません。
 旧約聖書を生み出したイスラエルの民の子孫であるユダヤ人が、その旧約聖書の神を知らないというのは実に激烈な宣言です。この福音書は繰り返し、ユダヤ人に向かってそう宣言しています。この福音書のイエスはユダヤ人に向かって、「あなたたちはいまだかってその方の声を聴いたこともないし、お姿を見たこともない」(五・三七)と断言されます。この方の声を聴き、その方のお姿を見て、その方の言葉を語るのはイエスであり、イエスに従う自分たちであると、ヨハネ共同体はユダヤ教徒に向かって宣言するのです。
 イエスは、「もしわたしがその方を知らないと言えば、(その方を知らないのに知っていると言い張る)あなたたちと同じように、わたしは嘘つきになるであろう」と言われます。この言葉は、自分たちこそ神を知り、神の約束を継承する者であると主張するユダヤ教団は偽りであり、イエスに従う民こそ神を知り、聖書の神の救済史を継承する者であると主張しています。

 「あなたたちの父祖アブラハムは、わたしの日を見ることを大きな喜びとした。そして、見て喜んだ」。 (五六節)
 ユダヤ人は、自分たちはアブラハムの子孫であり、父祖アブラハムに与えられた神の約束を受け継ぐ者たちであると誇っていますが、そのアブラハムは自分に与えられた約束が成就する日を熱望していました。その熱望が「大きな喜びとした」という表現で語られています。
 霊感を受けたイスラエルの預言者たちは、神の約束がことごとく成就する日の到来を熱望しました。黙示文書では、それは「人の子の日を見る」と表現されていました(ルカ一七・二二参照)。福音書は、その日がイエスにおいて来ていると宣言します(ルカ一〇・二三〜二四)。著者ヨハネは、アブラハムをこのように待望し、イエスにおける成就を見て喜んだ一人とします。

 そこで、ユダヤ人たちはイエスに言った、「お前は五十歳にもなっていないのに、アブラハムを見たのか」。(五七節)
 ここでまた、復活者イエスを信じないで地上のことだけを見ているユダヤ人の誤解ないしは無理解が露呈されます。「お前は五十歳にもなっていないのに、どうして『アブラハムはわたしの日を見て喜んだ』というような、二千年も前のアブラハムを見たようなことを言うのか」と詰め寄ります。

 イエスは彼らに言われた、「アーメン、アーメン、わたしはあなたたちに言う。アブラハムが生まれるまえから、わたしはある」。(五八節)
 それに対してイエスは荘重なアーメン句を用いて決定的な宣言をされます。「アブラハムが生まれるまえから、すなわち、アブラハムが存在するようになる前から、《エゴー・エイミ》(わたしはある)」と、あの神的な自己宣言の句を用いて御自分が永遠の先在者であることを宣言されます。

 そこで、ユダヤ人たちは石を取り上げて、イエスに投げつけようとしたが、イエスは身を隠して、神殿から出て行かれた。(五九節)
 ヨハネ福音書は対話編であると最初に書きましたが、その対話はしばしば同じ土俵に立って議論するというような対話ではなく、復活者イエスの宣言と地上のことしか考えていない周囲の者たちの無理解という形で、別次元の二つの世界のすれ違いと衝突を描く結果になっています。とくにこの仮庵祭での論争のように、《エゴー・エイミ》の宣言が中心にくる論争ではそうです。この宣言の前では、これを受け入れて全面的に神としての復活者イエスに信従するか、このように自分を神とする人間を認めることはできないとして殺すか、どちらかになります。
 ユダヤ人たちは、イエスの言葉が自分を神と等しくするものだと(正当に)理解し、「石を取り上げて、イエスに投げつけようと」しました。人間が自分を神とすることは、神を汚すことです。神を汚す者を殺すことは宗教的な義務です(レビ記二四・一五〜一六)。ユダヤ教会堂が、復活者イエスを《エゴー・エイミ》の句を用いて神的先在者と告白するヨハネ共同体を、神を汚す者として迫害することは避けられないことでした。
 この時、「イエスの時」はまだ来ていなかったので、「イエスは身を隠して、神殿から出て行かれた」という結末で、仮庵祭での長い論争は打ち切られます。

結び―イエスを信じたユダヤ人との論争
 著者ヨハネはユダヤ人であり、彼が指導する共同体の中核はユダヤ人であると見られますが、その共同体が生み出したこのヨハネ福音書は「ユダヤ人」と厳しく対立し、その全編で「ユダヤ人」を真理の敵として激しく非難しています。それは、マタイ福音書と同じく、ヨハネ共同体がユダヤ戦争以後のファリサイ派ユダヤ教会堂勢力から迫害される状況から出たものと考えられます。その中で今回取り上げた八章後半(三〇〜五九節)の箇所は、「イエスを信じたユダヤ人」との論争として特異な内容になっています。すなわち、自分たちを迫害する外のユダヤ教会堂勢力ではなく、同じイエスを告白する陣営内でのユダヤ人との対立であり、彼らとの論争が外のユダヤ教会堂勢力との論争と重なって、きわめて複雑な様相を見せています。この論争は、用語や思想内容からして、ユダヤ教の枠に固執し続ける「ユダヤ主義者」と戦ったパウロを思い起こさせるものがあり、改めてパウロとヨハネの関わりを考えさせます。この論争は、福音における真理と自由の追求がいかに激しい戦いを必要とするかを思い起こさせます。


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