ヨハネ福音書 翻訳と講解 

  世に勝つ信仰

                           ―― ヨハネ福音書 一六章 ――


  54 真理の霊( 16章 4b〜15節 )

 4b 「これらのことを初めから言っておかなかったのは、わたしがあなたたちと一緒にいたからである。 5 今わたしは、わたしを遣わされた方のもとに行こうとしているが、あなたたちの中に、どこへ行かれるのですかと尋ねる者はない。 6 むしろ、これらのことをわたしがあなたたちに語ったので、悲しみがあなたたちの心を満たしている。 7 しかし、わたしはあなたたちに本当のことを語っているのだが、わたしが去っていくことはあなたたちに益となるのだ。わたしが去っていかなければ、同伴者があなたたちのところに来ることはないが、わたしが行けば、わたしはあなたたちに同伴者を遣わすことになるからである。8 その方が来ると、罪について、義について、裁きについて、その方は世を糾弾することになる。 9 罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、 10 義についてとは、わたしが父のもとに去って、あなたたちがもはやわたしを見なくなること、 11 裁きについてとは、この世の支配者が裁かれてしまっていることである。
 12 あなたたちに話しておくべきことはまだ多くあるが、今はあなたたちはそれに耐えることができない。 13 しかし、その方、すなわち真理の霊が来るときには、あなたたちをすべての真理に導き入れるであろう。その方は自分から語るのではなく、聞いたことを語り、来るべきことをあなたたちに告げることになるからである。 14 その方はわたしに栄光を与えるであろう。わたしのものから受けて、あなたたちに告げるからである。 15 父が持っておられるものはすべてわたしのものである。だから、その方はわたしのものから受けて、あなたたちに告げると言ったのである」。


イエスが去り、別の同伴者が来られる

 「これらのことを初めから言っておかなかったのは、わたしがあなたたちと一緒にいたからである」。(四節後半)
 「これらのこと」というのは、最後の食事の席でここまでに語られた、イエスが去って行かれて代わりに別の同伴者が来られることや迫害が来ること、とくに直前に語られたユダヤ教会堂からの迫害(一六・一〜四)を指しています。そのようなことは「初めから」、すなわちイエスが一緒におられる時には言われていませんでした。今、世を去って父のもとに行こうとして、「あなたたちと一緒にいる」ことができなくなる時が来たから、「これらのこと」を語るのだと、改めてこの訓話の状況が説明されます。一三章一節でなされていた、これがイエスの訣別の遺訓であるという状況が再確認されます。

 「今わたしは、わたしを遣わされた方のもとに行こうとしているが、あなたたちの中に、どこへ行かれるのですかと尋ねる者はない。むしろ、これらのことをわたしがあなたたちに語ったので、悲しみがあなたたちの心を満たしている」。(五〜六節)
 一三章三六節や一四章五節では、弟子たちはイエスがどこに行かれるのかを尋ねたり問題にしたりしています。本来の訣別遺訓(一三〜一四章)と拡張部分(一五〜一七章)との間の不整合ということになりますが、拡張部分を加えた編集者は不整合を問題にしないで、この時の弟子たちの状況を「悲しみが心を満たしている」と描いて、これから語ろうとする「世に対する勝利」の前提とします。
 ここに描かれている弟子たちの状況は、実際には最後の食事の時の心境よりも、イエスの十字架刑直後の状況に近いのではないかと推察されます。弟子たちは最後の最後まで、すなわち最後の食事の時までも、師イエスのメシアとしての勝利を疑わず、いよいよイエスによって大いなる働きがなされて神の支配が実現すると、期待に満ちていたのではないかと思います。ところが、その直後イエスは目の前で逮捕され、十字架刑という最悪の形で処刑されてしまいます。その期待は幻滅に終わります。弟子たちはユダヤ教指導層とローマ総督の探索の目を逃れるために、隠れ家に閉じこもり、「戸に鍵をかけて」ひっそりと息をひそめています(二〇・一九)。その時には、イエスがどこへ行かれたのか問う気力もなく(復活して父のみもとに帰られるのだということは思い浮かびもせず)、落胆と悲しみに打ちひしがれていたのではないかと推察されます。
 このような状況を自ら体験した著者は、そのあと復活のイエスが現れてくださり、息を吹きかけてくださった、すなわち聖霊を与えてくださったことを体験し(二〇・二二)、それが世に対する勝利の力となっていることも体験しています。その勝利を語る言葉(説教)が、ここに訣別遺訓という形で入れられているのではないかと、わたしは推察します。

 「しかし、わたしはあなたたちに本当のことを語っているのだが、わたしが去っていくことはあなたたちに益となるのだ。わたしが去っていかなければ、同伴者があなたたちのところに来ることはないが、わたしが行けば、わたしはあなたたちに同伴者を遣わすことになるからである」。(七節)
 「本当のこと」の原語は《アレーセイア》(真理)です。訳語の統一という観点からは、「真理」と訳すべきでしょうが、ここでは以下に語ることが気休めや偽りでないことを強調するために用いられているので、むしろ一三節の「真理」と区別するために、日常的な句で訳しています。
 わたしが去ることをあなたたちは悲しんでいるが、本当のことを言うと、わたしが去っていくことはあなたたちに益となるのだ、とイエスは言われます(七節前半)。そして、「益となる」のはなぜか、その理由が続きます(七節後半)。イエスが去って行かれてはじめて、「別の同伴者」、いつまでも一緒にいてくださる同伴者が来てくださることになるからです。
 ここでイエスは「わたしはあなたたちに同伴者(パラクレートス)を遣わす」と言っておられます。すなわち、ここでは復活者イエスが《パラクレートス》である聖霊を遣わされると明言されています。ところが、一四・一六や一四・二六では、聖霊は父が遣わされるとされています。この二つの表現があるので、後の教義論争で、聖霊は父からだけ出るのか、それとも「御子からもまた」(ラテン語で「フィリオクェ」)出るのかが、東方教会と西方教会の間の大論争になりました(いわゆる「フィリオクェ」論争)。しかし、聖霊は父から出て、必ず御子イエス・キリストを通してわたしたちのところに来るのですから、御子の立場から表現すれば「わたしが遣わす」ことになります。「父から出る」も「御子から出る」も真理であって、一方に限定する必要はないはずです。

 

弁護人としての聖霊

 「その方が来ると、罪について、義について、裁きについて、その方は世を糾弾することになる」。(八節)
 聖霊を指すギリシア語《ト・プニューマ》は中性名詞ですが、ここでははっきりと男性名詞を指す代名詞が使われています。それで「その方」と訳しています。著者は人物を指す男性名詞《ホ・パラクレートス》を念頭に置いて語っていると考えられます。
 「糾弾する」という動詞は、本来は「明らかにする」という意味の動詞です(三・二〇)。それから「指摘する」とか「確認させる」という意味(八・四六)、あるいは誤りや不正を明らかにして「糾弾する」という意味に用いられます。ここでは最後の意味で用いられていると理解してこう訳しています。
 この部分では「世」はおもにユダヤ教世界を念頭において語られているので、「世を糾弾する」は、罪と義と裁きという神と人間に関する基本的な理解について、ヨハネ共同体を異端者(間違っている者)として迫害するユダヤ教会堂の側が間違っていることを明らかにして、その迫害の態度を糾弾するという意味になります。
 こうしてこの場面は、ユダヤ教の法廷に異端者として訴えられているイエスを信じるユダヤ人信徒が、聖霊の働きによって訴えている側の誤りを糾弾するという、法廷劇の場面になります。したがって、ここの《パラクレートス》は、その語の狭い意味の「法廷弁護人」という姿で登場しています。それは、共観福音書で聖霊の働きとされていること(マルコ一三・九〜一一、マタイ一〇・一八〜二〇)のヨハネ版です。ここの「その方」の働きは、一般的な「同伴者」よりも「弁護人」という呼び方の方が適切となります。

 「罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと」(九節)
 聖霊は「罪について、義について、裁きについて、世を糾弾することになる」のですが、その内容が以下の三節(九〜一一節)で説明されます。九節、一〇節、一一節はみな同じ構文で、「―について、〜すること」、または「―について、〜するから」という形をとっています。この《ホティ》で導かれる文を「〜すること」という名詞節と理解するか(塚本訳、新共同訳、岩波版)、「〜するから」という理由を示す副詞節と理解するか(協会訳、新改訳)、文法上は両方が可能です。前者の理解では、聖霊は「世の人々がイエスを信じないこと」を罪として糾弾する、という意味になり、後者の理解では、「世の人々がイエスを信じないから」糾弾するという意味になります。どちらをとっても内容的には大差はありません。ここでは「〜すること」と理解して訳しています。
 先にも述べたように、この部分では「世」はおもにユダヤ教世界を指しているので、「彼らがわたしを信じないこと」とは、ユダヤ人たちがイエスを神から遣わされた方であると信じないことを指しています。そして、イエスを信じるユダヤ人たちを罪を犯した異端者として裁判にかけ、会堂から追放したり殺したりしています。ところが、聖霊が働かれるところでは、聖霊はイエスの神の子としての栄光を啓示し、この神から来られた方に敵対することこそ罪の中の罪、究極の罪であることを明らかにします。
 このことがもっとも典型的に起こったのはパウロの場合です。パウロは律法に忠実で熱心な律法学者でしたので、イエスを信じる者たちが(パウロの立場から見て)律法をないがしろにするのを許すことができず、彼らを探索し、逮捕して裁判にかけ、罪ある者として断罪し、鞭打ちの刑などに処していました。ところが、ダマスコ途上で聖霊の激しい働きに接し、復活されたイエスに遭遇します。パウロは、復活者イエスの神の子としての栄光にひれ伏し、イエスを信じる者たちを迫害していたのはイエスを迫害したのであり、それは神に敵対していたことであることを示されます。この体験によりパウロは自分が「罪人のかしら」であると悟ります。

 「義についてとは、わたしが父のもとに去って、あなたたちがもはやわたしを見なくなること」(一〇節)
 神に敵対することが罪であるとすれば、その反対の神に喜ばれ受け入れられる人間の在り方が義です。その人間にとって根本的な義の本質について、聖霊はユダヤ教会堂が間違っていることを明らかにします。ユダヤ教は、義とは律法を順守することであるとしていました。その結果、イエスを律法に違反する異端者として処刑したのでした。ところが、神はイエスを復活させて、イエスこそ神の御心を行い、神に喜ばれる者として受け入れたことを公示されました。復活はイエスの義の確証です。
 ヨハネ福音書では「復活」という表現がイエスについて用いられることは少なく、ほとんどの場合「父のもとに行く(帰る)」という表現で語られます。ここでも「わたしが父のもとに去って行く」と表現されていますが、これはイエスが復活して栄光の座に上げられたことを指しています。このことによってイエスこそが義であると確証されたのです。
 ただ復活者イエスは、イエスを信じる者には見えますが、イエスを信じない者には見えません(一四・一九)。信じない者には、イエスの復活はただイエスが「もはや見えなくなる」だけのことでした。ここの「(イエスを)見なくなる」という動詞の主語は「あなたたち」となっていますが、この「あなたたち」はイエスが語りかけておられる弟子たちではなく(彼らにはイエスが見えています)、ヨハネ共同体が語りかけている相手の「信じない者たち」、すなわち対立するユダヤ教会堂を指すことになります。ここでもイエスの言葉が「継ぎ目なく」ヨハネ共同体の弁証の言葉に重なっています。

 「裁きについてとは、この世の支配者が裁かれてしまっていることである」。(一一節)
 「この世」(ユダヤ教)はイエスを裁いて処刑しましたが、そのとき実は、イエスを裁いた「この世(ユダヤ教)の支配者」が、義人を罪ありとして処刑するというその不義のゆえに神によって裁かれたのです。十字架の出来事は、実は「この世(ユダヤ教)の支配者」が神によって裁かれた出来事なのです。その裁きはすでに行われました(動詞は完了形)。著者はエルサレム神殿が崩壊したことを知っていますから、その事実がユダヤ教指導層に対する神の裁きの顕現であるとして、こう語ったのではないかとも考えられます(「支配者」が単数形であることについては後述)。
 聖霊をもたない「この世」(ユダヤ教)の指導者たちは、神殿の祭司たちも律法学者たちも、自分たちは律法に従って正しい裁きをしたと確信しています。イエスを処刑したのも、イエスを信じるユダヤ教徒を告発し裁いているのも、律法に従った正しい裁きであると確信しています。しかし、聖霊が働く場では、復活者イエスの栄光が見えていますから、イエスとイエスを信じて言い表す者を裁く行為自体が、神に敵対する行為として裁かれているのが見えています。
 ヨハネ福音書では「裁き」は終末のことではなく、現在すでに始まってます(三・一八〜一九)。神に属する者たちと神に敵対する者たちを「分ける」(《クリノー》する)ことが「裁き」《クリシス》です。復活者イエスを信じる者たちの中に働く聖霊が、現在すでに始まっている「裁き」を見させます。ヨハネ福音書では、光と命の領域と死と闇の領域が厳しく分けられていますが、それはこの「裁き」の結果です。

 

世と御霊

 ここまで、この遺訓が語られた状況(一六・二)に即して「世」とはユダヤ教会堂勢力を指すとしてその内容を見てきましたが、聖霊が「世」を糾弾するというこの箇所の言葉は、さらに広い射程を持っています。それは「この世の支配者が裁かれてしまっている」という表現にも示唆されています。
 「この世の支配者《アルコーン》」という表現は、は典型的な黙示思想の用語です。「支配者《アルコーン》」は単数形です。著者ヨハネは、イエスとイエスを信じる者を迫害するユダヤ教指導者たちの背後に、《アルコーン》(支配者)と呼ばれる単数の霊的支配力を見ているのです。彼らを操るこの《アルコーン》は、ユダヤ教指導者たちだけでなく、この世界、この時代全体を支配する、神に敵対する霊的勢力です。この霊的支配力は「サタン」とも呼ばれます。神が支配される「来るべき世」が到来するまでは、この世界はこの《アルコーン》に支配されているというのが黙示思想の基本的な枠組みです。終わりの時に、この《アルコーン》は神に裁かれて滅び、神が支配される世(時代)が到来するというのが黙示思想の待望です。
 ところが、ヨハネはイエスの十字架において「この世の支配者《アルコーン》が裁かれてしまっている」と宣言します。十字架された姿の復活者キリストにおいて、サタンはすでに裁かれ、神の支配が始まっているのです。キリストにあっては、サタンの支配力は打ち破られ、御霊の命がすでに支配しているのです。ヨハネは黙示思想の用語を使っていますが、黙示思想は乗り越えています。
 しかし、キリストの外の「世」においては、なお「この世の支配者」が支配し、人々を「罪について、義について、裁きについて」盲目の中に閉じこめています。世界の人々は、キリストを拒否することが罪であるとは知りません。義の根源である復活者キリストを、見えないからといって無視しています。そして命の領域と死の領域が現に峻別されていることを知らず、死から命に移る道も知りません。
 世界の現実、歴史の現実を見ますと、その闇があまりにも深くて、どうすればよいのか途方にくれます。人間の知恵と努力ではどうしようもないと感じます。このような世の誤りを指摘し、無知を啓発して、世の人々を真理と命に導くのは「真理の御霊」、神の御霊だけです。キリストの民は世にあって、この御霊が働く場を確立することが使命です。


真理の御霊が来るとき

 「あなたたちに話しておくべきことはまだ多くあるが、今はあなたたちはそれに耐えることができない」。(一二節)
 弟子たちを世に残して去ろうとされるイエスは、弟子たちに語っておくべきことが山ほどあるのですが、その中のごく一部しか語ることができません。今語っても弟子たちはその言葉に「耐えることができない」からです。「耐えることができない」と訳した動詞は、もともと「担う」を意味する動詞です。イエスの言葉を担う力がない。与えられる啓示の言葉を理解し、受け入れ、それに従って苦難に耐えて生き抜く力がない、ということです。
 「あなたたちに話しておくべきことはまだ多くあるが、あなたたちはそれに耐えることができない」という文の(原文では)最後に、「今は」という語が加えられます。弟子たちが自分の理解と力で歩まなければならない今は、の意です。この「今は」によって、弟子たちの現状が、「真理の霊」が来て、すべての真理に導き入れてくださるという将来の時(次節)と対照されています。したがって、今この訣別遺訓で語られていることは真理のごく一部分であって、「すべての真理」は、「真理の霊」が来られて弟子たちを真理に導き入れてくださる時、御霊によって語る弟子たちの告白に待つことになります。この弟子たちの告白が新約聖書を形成します。

 「しかし、その方、すなわち真理の霊が来るときには、あなたたちをすべての真理に導き入れるであろう。その方は自分から語るのではなく、聞いたことを語り、来るべきことをあなたたちに告げることになるからである」。(一三節)
 イエスが去られた後、父のもとから遣わされる「別の同伴者」は、すでに「真理の霊」と呼ばれていましたが(一四・一七、一五・二六)、ここでそう呼ばれる理由が説明されます。すなわち、その「同伴者」は人を「すべての真理に導き入れる霊」であるからです。ヨハネ福音書における「真理」《アレーセイア》とは、御子イエス・キリストを知って、キリストにあって霊なる父との交わりに生きる霊的リアリティー(現実)を意味します。聖霊だけが人間をこのリアリティーに導き入れるのです。その意味で聖霊は「真理の霊」と呼ばれます。聖霊の働きなしでは、福音は人間の観念の領域に留まります。
 イエスも「わたしは自分から語っているのではない」と強調されました(五・一九、一四・一〇)。イエスは父のもとで聞いたことを語られました(八・二六、八・四〇、一五・一五)。この点で聖霊はイエスと同じです。聖霊は自分から語るのではなく、父のもとで聞かれたイエスから受けて語られる(次節)ので、真理を語る方であると保証されます。
 聖霊はイエスから受けて語られるのですが、その中でとくに「来るべきこと」を告げると言われていることが注目されます。ふつう「来るべき方」とか「来るべきこと」は、終末思想と黙示思想での定型句であり、終末の事態を指しています。では、黙示思想的な「終わりの日」のことを何も語らないヨハネ福音書において、「すべての真理に導き入れる」聖霊の働きとして、「来るべきことを告げる」とは何を意味するのでしょうか。
 ヨハネ福音書において「来るべき事態(こと)」とは、イエスが世を去られた後に到来する新しい事態、聖霊による神との交わりのリアリティー(現実)を指しています。そのことはすでに一四章(一五〜二〇節)で詳しく予告されていました。「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」(一四・一九〜二〇)という事態です。ヨハネは、イエスが去られた後に到来する事態、すなわち聖霊による復活者イエスとの交わりの現実こそ、預言者たちや黙示思想家が待ち望んだ「終わりの日」とか「かの日」の実現であるとするのです。ヨハネとその共同体にとっては、「終わりの日」はすでに到来しているのです。この点で、ヨハネ福音書は黙示思想を決定的に乗り越えています。

 「その方はわたしに栄光を与えるであろう。わたしのものから受けて、あなたたちに告げるからである」。(一四節)
 「真理の霊」である聖霊は、イエスが復活者キリストであり、神の本質をもつ御子であるという事実を啓示されます。これは、「聖霊によらなければ、だれも主イエス《キュリオス・イエスース》と言うことはできない」(コリントT一二・三)という、もっとも初期の基本的な信仰告白の延長上にあります。聖霊によってはじめて、わたしたちはナザレのイエスが《キュリオス》であり、神の栄光を体現する復活者キリストであることを、自ら体験した真理として告白することができるのです。
 聖霊は、預言をしたり異言で語らせたり癒したりして、驚くべき働きをされますが、聖霊の本来の使命は復活者キリストの御子としての栄光を信じる者たちの共同体に啓示することです。聖霊は復活者キリストから発する霊として、その方の栄光と本質を受けて、それを共同体に告げてくださいます。その働きは、最後の食事の席でイエスが語られる時から見て将来のことですから、動詞はみな未来形で語られています。

 「父が持っておられるものはすべてわたしのものである。だから、その方はわたしのものから受けて、あなたたちに告げると言ったのである」。(一五節)
 ここでも復活者イエスが神と一つに重なって語られるというこの福音書のキリスト論が繰り返されます。そして、ここで訣別遺訓における《パラクレートス》語録はすべて終わることになります。


  55 悲しみが喜びに(16章 16〜22節)

 16 「あなたたちは、しばらくするとわたしを見なくなるが、またしばらくするとわたしを見ることになる」。 17 そこで、弟子たちの中のある者たちは互いに言った。「『あなたたちは、しばらくするとわたしを見なくなるが、またしばらくするとわたしを見ることになる』とか、『わたしは父のもとに行くのだ』と言われるが、これは何のことだろう」。 18 彼らは、「『しばらくすると』というのは、何のことだろう。わたしたちには、お話になっていることが分からない」と言った。 19 イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って、言われた。「わたしが『あなたたちは、しばらくするとわたしを見なくなるが、またしばらくするとわたしを見ることになる』と言ったので、このことであなたたちは互いに論じ合っているのか。 20 アーメン、アーメン、わたしはあなたたちに言う。あなたたちは泣き、嘆くことになるが、世は喜ぶであろう。あなたたちは悲しむことになる。しかし、あなたたちの悲しみは喜びに変わる。 21 女は子を産むとき、その時が来たというので苦しむものである。しかし、子が産まれてしまうと、人が世に生まれたという喜びのために、もはやその苦痛を思い出すことはない。 22 そこで、あなたたちもまた、今は悲しみがあるが、わたしは再びあなたたちに会うことになり、あなたたちの心は喜びに溢れるであろう。そして、その喜びをあなたたちから奪い去るものはない」。

 

しばらくすると

 「あなたたちは、しばらくするとわたしを見なくなるが、またしばらくするとわたしを見ることになる」。(一六節)
 ここでは「見なくなる」と「見ることになる」と同じ「見る」で訳していますが、原語では違う動詞が用いられています。先の「見なくなる」は、目で見ることを指す普通の動詞ですが、後の「見ることになる」は、復活されたイエスが「現れた」ことを表現するのに、「(誰それに)見られた」と受動態で用いられる動詞(たとえばコリントT一五・五〜八)が能動態で用いられています。この節は、イエスが世を去って、もはや普通の意味では見ることができないようになりますが、その後すぐに復活者として弟子たちには見られるようになることを予告しています。

 そこで、弟子たちの中のある者たちは互いに言った。「『あなたたちは、しばらくするとわたしを見なくなるが、またしばらくするとわたしを見ることになる』とか、『わたしは父のもとに行くのだ』と言われるが、これは何のことだろう」。彼らは、「『しばらくすると』というのは、何のことだろう。わたしたちには、お話になっていることが分からない」と言った。(一七〜一八節)
 著者とその共同体は、イエスが十字架上に死なれたあと復活して、イエスがそこから来られた元の場所、すなわち父のもとに帰られたことを知っています。そのことを生前のイエスはしばしば「わたしは父のもとに行くのだ」と語られたと描きました。そして、この最後の食事の席でも、すぐに起ころうとしているその出来事を、「しばらくすると」という句を繰り返して、「あなたたちは、しばらくするとわたしを見なくなるが、またしばらくするとわたしを見ることになる」と語られたとします。
 しかし、同時に著者は、自分自身を含めて、イエスの生前にその言葉を聞いた弟子たちは、その言葉が十字架の死と復活を指していることは理解できなかったことも熟知しています。弟子たちは、最後の食事の席においてもまだイエスの言葉を理解していません。弟子たちは最後の最後まで、メシアとしての働きと栄光が現れることを期待しており、師の真意を理解していませんでした。弟子たちは師の不可解な言葉に困惑し、互いに議論しています。著者はその事実をよく知っています。そのことをイエスと弟子たちの対話のドラマの中で描きます。
  しかし同時に、著者はこの「しばらくすると」というお言葉について一般の信徒たちが正しく理解していないとして、その無理解を正そうとしている面があります。「弟子たちの中のある者たち」とはヨハネ共同体の外の一般の信徒共同体を指しており、彼らはイエスが「しばらくするとわたしを見ることになる」と語られた言葉を正しく理解していないと、著者は心配しています。著者は、彼ら自身が「わたしたちには、お話になっていることが分からない」と言っているとし、無理解を告白しているとします。
 ヨハネ共同体の外の一般の信徒共同体では、この「しばらくすると」は「来臨」《パルーシア》までの時が短いことを指すと理解され、復活されたイエスがすぐに栄光の中に来臨されると待ち望まれていました。そのような理解に対して、ヨハネ共同体はこの「しばらくすると」を復活までの時が短いことを指すのだとして、「またわたしを見ることになる」という再会の約束を、来臨ではなく復活顕現を指すとします。世を去って行かれたイエスに再会するのは、将来の来臨ではなく、聖霊によって復活者イエスに出会うときに起こるのだというのが、ヨハネ共同体の主張です。

 イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って、言われた。「わたしが『あなたたちは、しばらくするとわたしを見なくなるが、またしばらくするとわたしを見ることになる』と言ったので、このことであなたたちは互いに論じ合っているのか」。(一九節)
 このように、「またしばらくするとわたしを見ることになる」というお言葉について、弟子たちの間に論争があることを知っている著者は、その論争にイエスご自身が語りかけるという形(二〇〜二二節)で、一般に終末時のこととして将来に待ち望まれている勝利の事態が、聖霊によって復活者イエスと出会う体験においてすでに来ていることを、以下の数節(二〇〜二二節)で証言します。

 

産みの苦しみと命の喜び

 「アーメン、アーメン、わたしはあなたたちに言う。あなたたちは泣き、嘆くことになるが、世は喜ぶであろう。あなたたちは悲しむことになる。しかし、あなたたちの悲しみは喜びに変わる」。(二〇節)
 この証言は、この福音書特有のアーメンを繰り返す荘重な形式で、復活者イエスが共同体に語りかける言葉として書き記されます。
 頼りにしていた師であるイエスが取り去られ、弟子たちは泣き嘆くことになりますが、イエスを憎んでいた世は、イエスがいなくなったことを喜ぶことになります。この節の動詞はみな未来形です。それは、この最後の食事の時から見れば、十字架と復活は「しばらくすると」起こる未来の出来事であるからです。
 しかし、弟子たちの嘆き悲しみは、すぐに喜びに変わることが約束されます。そして、その約束が、女が子を産むときの体験を比喩として印象深く語られます。

 「女は子を産むとき、その時が来たというので苦しむものである。しかし、子が産まれてしまうと、人が世に生まれたという喜びのために、もはやその苦痛を思い出すことはない」。(二一節)
   出産の時が近づくと、妊婦は陣痛の苦しみを味わいます。しかし、無事出産して、赤ちゃんの元気な泣き声を聞きますと、新しい生命の誕生を喜ぶ命の喜びに満たされて、陣痛の苦しみは忘れてしまします。この節(二一節)では比喩だけが語られていますが、出産を比喩として描かれる弟子たちの体験、悲しみが喜びに変わるという体験は次節(二二節)で語られることになります。しかし、ここで「産みの苦しみ」が比喩として用いられていること自体が重要です。
 「産みの苦しみ」という表現は、共観福音書では黙示思想的な終末時の苦難を指すのに用いられています(マルコ一三・八)。終わりの時が来て、世界に新しい時代が生まれ出る前には、出産の前に陣痛が伴うように、世界には飢饉や地震や戦争というような激しい患難、とくに義人への迫害が臨むと、黙示思想の諸文書は予告し、それを「産みの苦しみ」と表現していました。それを受けて、復活されたキリストが間もなく栄光の中に来臨されることを宣べ伝えた初期の福音宣教も、その前に迫害など「産みの苦しみ」があることを語っていました(テサロニケT五・三、ローマ八・二二)。ローマ帝国からの迫害の予感の中で書かれたヨハネ黙示録には、キリスト来臨の前に信徒と世界に臨む苦難が激しいイメージ表現で列挙されています。「産みの苦しみ」という表現自体は出てきませんが、その内容は「産みの苦しみ」の提示そのものです。
 それに対してヨハネ福音書は、その「産みの苦しみ」の比喩を十字架・復活の場面で用います。新約聖書の中の黙示思想的な部分がキリストの復活と来臨の間の歴史的出来事としたものを、ヨハネ福音書は師の刑死と復活された栄光のキリストに出会う間の弟子たちの内的な出来事に凝縮していることになります。そして、この出産の比喩が指し示す弟子たちの体験が、次節(二二節)で語られることになります。

 「そこで、あなたたちもまた、今は悲しみがあるが、わたしは再びあなたたちに会うことになり、あなたたちの心は喜びに溢れるであろう。そして、その喜びをあなたたちから奪い去るものはない」。(二二節)
 最初の句「あなたたちもまた」において、「あなたたち」が強調されています。出産に臨んだ女と同じように、あなたたちもまた同じ状況にある、の意です。イエスが去っていくと語られたので、弟子たちは「今は」悲しみで一杯です(六節参照)。しかし、先にも述べたように(六節の講解)、この「今」の悲しみは、実際は師が刑死された直後の弟子たち状況を指しています。正確には、二〇節が語っているように未来形で語られる状況です。事実としては十字架直後の状況が、今のこととして語られ、今のこの悲しみがすぐに喜びに変わることが約束されます。それは、陣痛の後に出産の喜びを体験する妊婦のように、確かなこととして語られます。
 そのように悲しみが喜びに変わるのは、去って行かれたイエスに「再び会う」ことになるからです。この「再び会う」は、ヨハネ福音書においてはキリストの来臨《パルーシア》を指すのではなく、「別の同伴者」の姿で戻ってこられる復活者イエスにお会いすることを指しています(一四・一八)。このことは、訣別遺訓の主題として著者が繰り返し強調するところです。
 聖霊による復活者キリストとの交わりから発する命の喜びは、存在の最奥から溢れ出る喜びですから、地上の状況がどのようなものになろうとも、それに左右されることはありません。また、神の右に座す方との交わりですから、霊界のいかなる力もその喜びを妨げることはできません。パウロがローマ書八章の末尾であげている勝利の凱歌が、この喜びを彩ります。

 


  56 世に対する勝利(16章 23〜33節 )

 23 「そして、その日には、あなたたちはわたしに頼むことは何もないであろう。アーメン、アーメン、わたしはあなたたちに言う。あなたたちがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたたちに与えてくださるであろう。 24 あなたたちは今までわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい。そうすれば受け取って、あなたたちの喜びは満ちあふれるであろう。
 25 これらのことを、わたしはこれまで謎の形であなたたちに語ってきた。もはや謎の形で語るのではなく、父について明らかに告げ知らせる時が来る。 26 その日には、あなたたちはわたしの名によって求めることになる。わたしは、あなたたちに代わってわたしが父に頼んであげようとは言わない。 27 あなたたちがわたしと親しくし、わたしが神から来たことを信じたので、父御自身があなたたちを親しく愛しておられるからである。 28 わたしは父のもとから出て世に来たのであるが、世を去って再び父のもとに行くのである」。
 29 弟子たちが言う、「今あなたは明らかにお話になり、もはや謎を語られません。 30 あなたはすべてのことを知っておられ、誰かがあなたに頼むのを必要とされないことが、今はわたしたちにも分かります。このゆえにわたしたちは、あなたが神から来られたことを信じます」。 31 イエスは彼らにお答えになった、「今あなたたちは信じているのか。 32 見よ、あなたたちがそれぞれ自分の所に散らされ、わたしを独り置き去りにするようになる時が来ようとしている。いや、すでに来ている。だが、わたしは独りではない。父がわたしと一緒にいてくださるからである。 33 わたしの内にいることであなたたちが平安を得るように、わたしはこれらのことをあなたたちに語った。世にあってあなたたちは苦しみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは世に打ち勝っている」。


直接父に求めよ

 「そして、その日には、あなたたちはわたしに頼むことは何もないであろう。アーメン、アーメン、わたしはあなたたちに言う。あなたたちがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたたちに与えてくださるであろう」。(二三節)             「わたしに頼むことは何もない」というのは、「その日」を境にして、それまでは弟子たちは地上のイエスに頼って、何でも師であるイエスにお願いしていたが、その日になると、イエスの名によって(イエスの立場で、イエスがそうしておられたように)直接父に求めるようになるので、それ以前のようにイエスに頼むことはなくなる、という意味です。

 このような劇的な変化が起こる「その日」とは、この訣別遺訓で繰り返し語られていた「真理の御霊」が来られる日、その御霊において復活者イエスが戻ってきて、同伴者としていつも信じる者と共に、またその内にいてくださるようになる日です(一四・一六〜二〇)。黙示思想が「かの日」とか「その日」と呼んで将来に待ち望んできた終わりの日に起こる決定的事態が、イエスの十字架・復活、そして聖霊到来の事態においてすでに起こっているとし、ヨハネ福音書はその出来事が起こる時を「その日」と呼びます。
 ヨハネ共同体は(そして現代のわたしたちも)「その日」に生きています。その共同体に復活者イエスが語りかける言葉(おそらく霊感された預言者によって語り出された言葉)が、荘重にアーメンを繰り返すこの福音書独自の定型句で書きとどめられます(二三節後半)。これはすでに本来の訣別遺訓(一三〜一四章)に置かれていましたが(一四・一三〜一四)、この拡張部分でも繰り返されます。ただ、一四章では「あなたたちがわたしの名によって求めることは、わたしがそれをする」と言われていましたが、ここでは「父が与えてくださる」となっています。ヨハネ福音書では父と復活者イエスが(わたしたちへの働きかけにおいては)重なっていることが、ここにも現れています。

 「あなたたちは今までわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい。そうすれば受け取って、あなたたちの喜びは満ちあふれるであろう」。(二四節)
 「わたしの名によって」という句は、本来「わたしの名代として」の意です。その名の人物の代わりに行動する立場を指しています。「その日」以後は、弟子たちはイエスの立場で父に求めることを許されます。父はイエスにされたように、イエスの立場で求める者にしてくださると約束されます。
 「求めよ、そうすれば受けるであろう」というこの句には、「求めよ、そうすれば与えられるであろう」という「語録資料Q」の語録(マタイ七・七、ルカ一一・九)が、用語を変えて響いています。ヨハネ共同体もこの語録を受け継いでいたと見られます。

 

もはや謎ではなく

 「これらのことを、わたしはこれまで謎の形であなたたちに語ってきた。もはや謎の形で語るのではなく、父について明らかに告げ知らせる時が来る」。(二五節)
 地上のイエスは神の国について、また父についていつも「謎《パラボレー》の形で」、すなわち隠された形で語られましたが、「その日」には復活者イエスは聖霊によって父の栄光を魂に直接、もはや何も隠すことなく明白に告げ知らせることになります。

 「時が来る」というのは、この訣別遺訓で繰り返し「その日には」と語られている時を指します。その時は、イエスが世を去り「別の同伴者」(聖霊)が来られる時です。その日は復活されたイエスに会う日であり、栄光の主が世に臨まれる日です。ヨハネ福音書ではイースター(復活顕現)、ペンテコステ(聖霊降臨)、パルーシア(キリスト来臨)が重なっています。

 「その日には、あなたたちはわたしの名によって求めることになる。わたしは、あなたたちに代わってわたしが父に頼んであげようとは言わない」。(二六節)
 この箇所(二三〜二八節)では、「その日には」父と弟子たちの関わり方が変わることに重点が置かれています。それまでは弟子たちはイエスを介して初めて父と関わりを持つことができたのですが、「別の同伴者」である聖霊が来られる「その日には」、弟子たちは「イエスの名によって」(イエスの立場で)直接父と関わるようになるのです。もはや、イエスが弟子たちに代わって父に頼んでくださるという仲介を必要としなくなります。そして、そうなる理由が次節で語られます。

 「あなたたちがわたしと親しくし、わたしが神から来たことを信じたので、父御自身があなたたちを親しく愛しておられるからである」。(二七節)
 そのように弟子たち(わたしたち)が、もはや地上の人であるイエスの仲介なしで直接父の求めることができるようになるのは、父御自身がイエスに属する者を直接「親しく愛しておられるから」です。ここでは肉親や友人など身近な親しい者を愛するという意味の《フィレオー》が用いられているので、こう訳しています。
 父が弟子たちを親しく愛しておられるという文が、二六節の言明の理由として(原文では前節に)すぐに続いていて、その後に「あなたたちがわたしと親しくし、わたしが神から来たことを信じたので」という、父が弟子たちを親しく愛される理由を示す文が続いています。この文にも弟子たちがイエスを「愛した」《フィレオー》とありますが、ここでは「親しくした」と訳しています。ここではイエスと親しくすることの中に、イエスが「神から来たことを信じる」ことが含まれます。この福音書では、イエスが神から来られた方であることを信じることだけが求められていますが(六・二九)、ここではそれが「親しくする」《フィレオー》という具体的で人間的な情愛に包まれて登場しています。そして、父とわたしたちのかかわり方も、「父御自身があなたたちを親しく愛しておられる」という、暖かみを感じさせる表現になっています。

 「わたしは父のもとから出て世に来たのであるが、世を去って再び父のもとに行くのである」。(二八節)
 イエスは父からこの世に遣わされた方であり、その死とそれに続く出来事(復活)は、イエスが世を去って再び父のもとに行かれることであるという使信こそ、この福音書が世に向かって、とくにユダヤ教会堂に向かって語る使信の核心です。それがここで繰り返されます。

 弟子たちが言う、「今あなたは明らかにお話になり、もはや謎を語られません。 あなたはすべてのことを知っておられ、誰かがあなたに頼むのを必要とされないことが、今はわたしたちにも分かります。このゆえにわたしたちは、あなたが神から来られたことを信じます」。(二九〜三〇節)
 この部分の解釈は混乱しています。混乱の理由の一つは、「必要としない」という動詞の主語がほとんどの邦訳であいまいだからです。邦訳はほとんどみな「誰もお尋ねする必要がない」と訳していますが、これは「必要とする」の主語を「誰か」(三人称単数)として読んでいることになり、文法的に成り立ちません。「必要としない」という動詞は二人称単数形であって、主語は「あなた」です。英訳はみな「あなたは(誰かがaskすることを)必要とされない」と正しく理解しています。日本語訳では、文語訳の「人の汝に問うを待ち給はぬこと」だけがこの意味に理解しています。

 「あなたは人が頼むのを必要とされない」というのは、人から頼まれてはじめて何かを行う方ではなく、人が頼む前にすべてを知って事をなされる方である、という意味に理解することができます。この文は、直前の「あなたはすべてのことを知っておられる」と並行しており、「すべてのことを知っておられる」ことを別の表現で語ったものです。
 このように文意を理解して読むと、「今あなたは明らかにお話になり、もはや謎を語られません」という弟子の言葉は、イエスがこの訣別遺訓で「その日」に起こることを予告しておられる事態を指していると見ることができます。「その日」に起こることは、弟子たちが頼んだので起こるのではなく、すべてを知っておられるイエスが、これから起こることをすべて知っておられ、これからしようとすることを「明らかに」予告されたのだと、弟子たちは気づきます。イエスがこのような方であると分かって、弟子たちは「あなたが神から来られたことを信じます」と告白するに至ります。
 イエスは先に「これらのことを、わたしはこれまで謎の形であなたたちに語ってきた。もはや謎の形で語るのではなく、父について明らかに告げ知らせる時が来る」(二五節)と、未来形で語っておられました。その箇所の講解で述べたように、その「時」とは、イエスが世を去り「別の同伴者」(聖霊)が来られる時です。その日は復活されたイエスに会う日です。その時には復活者イエスは「もはや謎の形で語るのではなく、父について明らかに」告げ知らせてくださることになります。したがって、弟子たちがここで「今あなたは明らかにお話になり、もはや謎を語られません」と言い表しているのは、聖霊が来られて、聖霊によって復活者イエスが明らかに父のことを語ってくださるのを聴いているヨハネ共同体の現在の体験を、先取りして告白していることになります。
 「その日」の弟子たちは、明らかにされる父とイエスの一体関係を理解して、イエスを神から来られた方として力強く告白することになるでしょう。しかし、最後の食事の席の弟子たちは、まだその理解はありません。「その日」以前の弟子たちは、わたしたちは信じます」と言っても、力はありません。現実には、彼らが目の前で苦しみを受けるイエスを見棄てて逃亡するようになることが予告されます。


イエスは世に勝っている

 イエスは彼らにお答えになった、「今あなたたちは信じているのか。見よ、あなたたちがそれぞれ自分の所に散らされ、わたしを独り置き去りにするようになる時が来ようとしている。いや、すでに来ている。だが、わたしは独りではない。父がわたしと一緒にいてくださるからである」。(三一〜三二節)
 イエスの死にさいして弟子たちがイエスを見捨てて逃亡することは、共観福音書(マルコ一四・二七と並行箇所)では最後の晩餐の後ゲッセマネへ行く途上で、イエスがゼカリヤ書の預言を引用する形で予告されたとされていますが、ヨハネ福音書では最後の食事の席での訣別遺訓の中で予告されています。用語と状況は違いますが、弟子たちの逃亡をイエスが予告されたことについて共通の伝承があったと見られます。
 弟子たちが受難する師を見棄てて逃亡することが予告され、その時が「来ようとしている」と言われた直後に、「いや、すでに来ている」と言い直されます。この食事の直後にそのことが起ったことを知っている著者は、こう言い直さないではおれなかったのでしょう。
 「そんな人は知らない」と言って、イエスとのつながりを否定したのはペトロだけではなかったでしょう。弟子たちはみなイエスを否定し、「それぞれ自分の所に散らされ」、ガリラヤの生活に戻ります。
 弟子たちはイエスを見棄てて逃げ去り、イエスはひとり世からの迫害の苦しみをお受けになりますが、そのことを覚悟しながら、イエスは「だが、わたしは独りではない」と断言されます。イエスはどんな時、どのような状況においても「父が一緒にいてくださる」という現実に生きておられます。

 「わたしの内にいることであなたたちが平安を得るように、わたしはこれらのことをあなたたちに語った。世にあってあなたたちは苦しみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは世に打ち勝っている」。(三三節)
 最後に、この訣別遺訓でイエスが語られたことは、「わたしの内にいることであなたたちが平安を得るように」なるためであると、この遺訓全体の意図が説明されます。この世界の中でイエスに従う弟子であることは、多くの苦しみを引き受けることになるが、すでに世に打ち勝たれたイエスの内にとどまることによって、平安と勝利を得ることが約束されます。だから「勇気を出しなさい」という励ましで、この遺訓が締め括られます。
 「勇気を出しなさい」という表現は、ヨハネ福音書ではここだけに出てきます。マルコでは二回(六・五〇と一〇・四九)、マタイでは三回(九・二、九・二二、一四・二七)ありますが、新約聖書での用例は比較的少ないようです。マルコ六章とマタイ一四章では、湖上で顕現された復活者イエスが恐れる弟子たちにこう呼びかけておられます。
 「勇気を出しなさい」という励ましの根拠は、「わたしは世に打ち勝っている」という言葉で表現されています。復活者イエスはすでに死と闇の領域である世に打ち勝っておられるのですから、復活者イエスの内にとどまる者は、復活者イエスと共に「世に打ち勝つ」ことができるのです。この確信が勇気の根拠となります。

 


  特注―ヨハネ福音書における「世」

二つの用語

 では「世に打ち勝つ」とはどういうことでしょうか。それを理解するために、まずヨハネ福音書において「世」という語がどういう意味で使われているかを確認しておきましょう。

 新約聖書で「世」と訳されているギリシア語原語は二つあります。一つは《アイオーン》で、もう一つは《コスモス》です。《アイオーン》というギリシア語はもともと限りなく長い時、すなわち永遠を指す語ですが、比較的長い時間的スペースを指す語として、「世代、時代、時期」という意味でも用いられます。この語はヘブライ的終末論とか救済史上の時代区分として、とくに黙示思想においてよく用いられ、神が特定の仕方で民を扱われる時代区分を指すのに用いられます。とくに、神の支配が実現する「来るべき《アイオーン》」に対して、悪しき者が支配する現在の時代を「この《アイオーン》」と呼ぶのが典型的な用法です。このように《アイオーン》は時間についての用語ですから、「代」と訳す方がよいのかもしれません。

 それに対して《コスモス》というギリシア語は、本来「秩序、整然としていること」を意味する語であり、ギリシア人はこの語を宇宙とか存在界全体を指すのに用いました。ギリシア人は存在界全体を秩序ある美しい統一体と見て、それを《コスモス》と呼んだのです。そして、ギリシア思想においては、この秩序ある存在界全体は、その秩序に合致して生きることが人にとっての善であるとして、価値の源泉、神的存在とされていました。

 ギリシア語を用いたヘレニズム期のユダヤ教において、神が創造された天地の万物がこの《コスモス》という語で語られるようになり、地に住む人間の世界もこの《コスモス》という語で指し示されるようになります。ユダヤ教においては、人間は神によって造られたものでありながら、創造者なる神に背いていると見られているので、《コスモス》という語も、この人間世界を含む被造物世界全体を指すと同時に、神の被造物でありながら神に背いている世界を意味することになります。新約聖書各文書の著者たちは(パウロもヨハネも)基本的にこのヘレニズム・ユダヤ教の用法を引き継いで《コスモス》という語を用いています。

 ところで、パウロは《アイオーン》と《コスモス》の両方の用語を用いていますが、ヨハネになると《アイオーン》の方はほとんど用いられず、もっぱら《コスモス》が用いられています。ということは、パウロが「世」というときは、なお救済史的・黙示思想的な「時代」という意味が残っていますが、ヨハネになるとそのような救済史的・黙示思想的な時間の枠組みはほとんどなくなり、ギリシア思想的な空間的な概念が前面に出て来ています。

     ヨハネが《アイオーン》を用いるのは、「永遠に」とか「いつまでも」という意味の熟語として用いるだけで、救済史的な時代を指す用例はありません。それに対して《コスモス》の方は、全新約聖書の一八六回の用例の中、ヨハネ文書(福音書と手紙)で一〇八回を占めています。ヨハネが《コスモス》をいかに強く意識していたかがうかがわれます。

 

対立する二つの領域

 ヨハネも、先に見たヘレニズム期ユダヤ教における《コスモス》の用法を受け継いでいますが、ヨハネはこの語にヨハネ独自の意味合いをこめて用いている面があります。ヨハネは、自分たちが復活者キリストにおいて体験し生きている新しい命《ゾーエー》の領域と、その自分たちに対立し別の原理で存立している外の世界とを峻別して、両者をまったく相容れない領域として描きます。ヨハネ福音書においては、復活者キリストにあって生きる共同体は命と光の領域にあり、それに敵対する外の領域は死と暗闇の領域を形成することになります。この外の死と闇の領域を、ヨハネは「世」《コスモス》と呼ぶのです(たとえば三・一九、八・二三、一五・一八〜一九、一七・九、一八・三六)。

 著者ヨハネとその共同体にとって、自分たちがとどまっている命と光の領域を支配されるのは父なる神であり、父から遣わされた子である復活者イエスです。そして、父と復活者イエスの支配は重なっています。それに対して、対立する死と闇の領域を支配するのは「この世(コスモス)の支配者(アルコーン)」と呼ばれる霊的勢力です(一二・三一、一四・三〇、一六・一一)。これは他の箇所では「サタン」とか「悪魔」と呼ばれています。

 この二つの領域は、相交わることなく、まったく別の原理で支配され成り立っている世界であるとされるので、この二つの領域の峻別はよくヨハネの「二元論」と呼ばれます。哲学的には厳密な呼称ではないかもしれませんが、ヨハネの思想傾向をよく現しています。

 もちろんヨハネは、この《コスモス》という語を自分たちと価値的に対立する暗闇の勢力とか領域を指すのに用いるだけでなく、先に見たヘレニズム・ユダヤ教における神に背く被造世界とか人間界一般という意味でも多く用いています(大部分がこの用例です)。しかし、ヨハネが《コスモス》と言うときには、この二つの意味合いが溶け合っていて、どちらか一方に決めることができない場合もあります。

 ヨハネが自分たちの共同体に対立する領域やその勢力を「世」と呼ぶとき、その代表的勢力はユダヤ教会堂です。ヨハネ共同体は、イエスが神から遣わされた方であるという告白をめぐって、その時代のユダヤ教会堂と厳しく対立し、会堂側から激しい迫害を受けています(一六・二〜三)。したがって、ユダヤ教会堂を批判し攻撃する言葉も激しくならざるをえません。この福音書が「世」を激しく攻撃するとき、それはユダヤ教会堂に対する攻撃である場合がかなりあります(たとえば七・七、八・二三、一四・一九)。

 ヨハネ共同体は、直接には対立するユダヤ教会堂勢力と論争しつつ、ユダヤ教会堂と同じ原理で構成される外の世界一般と戦っているのです。「世」《コスモス》は、イエスを受け入れず、真理の御霊を受け入れようとはせず、自分の力で立とうとする世界です(一四・一七)。この外の世界に対してヨハネ共同体は、ただイエスを神から来られた方として受け入れ信じることだけが命と光の領域に入る道だと、説いて止みません。

 イエスが最後の食事の席で語られたとされる「訣別遺訓」では、世に残される弟子たちのために、世にあっていかに戦うのか、去って行かれるイエスが弟子たちを教え励まされれることになります。したがって、弟子たちがこれから対峙する「世」が主題となり、最後に「世にあってあなたたちは苦しみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは世に打ち勝っている」という励ましの言葉で締め括られるのも当然です。

 弟子たち(イエスを信じる者たち)は、世から引き出されて、もはや世に属する者ではありませんが、現実には世にあって歩んでいます。対立する原理で成り立っている世からは、憎しみと迫害が来るでしょうが、その「世」に打ち勝つには、世から命の領域に移るのはイエスを信じることだけであったように、どのような状況にあっても、死から復活して世に打ち勝たれた復活者イエスの中にとどまる以外にはありません。世にありながら、どのような困難な状況にあっても、そこから導き出された元の世に戻ることなく、世と峻別される命と光の領域にとどまり続けることが(ヨハネが言う)「世に対する勝利」です。そのとき(わたしたちが復活者イエスの内にとどまるとき)、復活者イエスが遣わしてくださる「別の同伴者・助け主」である聖霊が、わたしたちを助けて力を与え、勝利させてくださるのです。このことが「訣別遺訓」全体の内容でした。

 なお、ヨハネ福音書の《コスモス》に対する厳しい態度ないし反感は、後のグノーシス主義者たちにこの福音書に親近感を覚えさせる一因になったのではないかと考えられます。グノーシス主義は、《コスモス》を価値の源泉として仰ぐ正統のギリシア思想に反抗して、《コスモス》を悪と見る思想であり、《コスモス》の外に、あるいは《コスモス》を超えたところに神的世界があるとし、そこへの帰還を救済とする宗教思想です。しかし、ヨハネ福音書とグノーシス主義との関係は、問題があまりにも大きくて、この講解の範囲を超えますので、ここでは《コスモス》に対する態度にある種の共通点が見られる事実を指摘するにとどめます。
 


     前章に戻る  次章に進む  

      目次に戻る 総目次に戻る