ヨハネ福音書 翻訳と講解 

  イエスの逮捕と裁判

                           ―― ヨハネ福音書 一八章 ――


  58 イエスの逮捕 (18章 1〜14節)

 1 これらのことを言って、イエスは弟子たちと一緒にキドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスと弟子たちはその中に入った。 2 イエスを引き渡そうとしていたユダもその場所を知っていた。イエスはたびたび弟子たちとそこに集まっておられたからである。 3 そこでユダは、一隊の兵士と祭司長たちやファリサイ派の人たちから遣わされた下役たちを引き連れ、たいまつ、ともし火、武器をもって、そこに来た。
 4 さて、イエスは御自分の身に臨もうとしていることをすべて知っておられて、進み出て彼らに、「誰を捜しているのか」と言われる。 5 彼らは「ナザレのイエスを」と答えた。イエスは彼らに言われる、「わたしである」。イエスを引き渡そうとしていたユダも彼らと一緒に立っていた。 6 イエスが彼らに「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地面に倒れた。
 7 そこで、イエスが再び「誰を捜しているのか」とお尋ねになると、彼らは「ナザレのイエスを」と言った。 8 イエスはお答えになった、「わたしであると言ったではないか。わたしを捜しているのであれば、この者たちは行かせてやりなさい」。 9 それは、「あなたがわたしに与えてくださった者たちの中の誰ひとり滅びませんでした」と言われた言葉が成就するためである。
 10 ところで、シモン・ペトロは剣を持っていたが、それを抜いて大祭司の僕を打ってかかり、その右の耳を切り落とした。その僕の名はマルコスであった。 11 そこでイエスはペトロに言われた、「剣をさやに納めなさい。父がわたしにお与えになった杯は、それを飲まないでおくことができようか」。12 そこで、一隊の兵士と千人隊長およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、 13 最初にアンナスのところに連れて行った。彼は、その年の大祭司カイアファの義父であったからである。 14 カイアファは、一人の人間が民に代わって死ぬことは有益だと提言した人物であった。


ユダの裏切り行為

 これらのことを言って、イエスは弟子たちと一緒にキドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスと弟子たちはその中に入った。(一節)

 「これらのことを言って」は、先行する「訣別遺訓」を指していますが、もともとは一四章終わりの「さあ、立て。ここから出て行こう」に続いていたと推察されることについては、先に述べました。イエスは最後の食事の席で、後に残される弟子たちに「別の同伴者」が来ることを語られた後、いよいよ最後の一歩を踏み出されます。
 「キドロンの谷」は、「ケデロンの谷」とも表記されますが、エルサレムとその東にあるオリーヴ山との間にある深く切り込んだ谷です。その「向こう側」はオリーヴ山の山麓になります。「そこには園があり」とありますが、その「園」は共観福音書では「ゲツセマネの園」と名があげられています。

 イエスを引き渡そうとしていたユダもその場所を知っていた。イエスはたびたび弟子たちとそこに集まっておられたからである。(二節)
 この園は、イエスのエルサレム滞在中は、弟子たちと集まり祈る場所になっていました。それでユダもその場所をよく知っていました。祭司長たちは、イエスが自分たちの力を行使しやすいエルサレムにいる間に逮捕しようとしますが、祭りの群衆がいるところでは騒乱になる怖れがあるので、何とか「秘かに」逮捕する機会を狙っていました(マルコ一四・一〜二)。ユダはその機会を提供したのです。ユダの裏切りの動機は様々に推測され、決定的なことは言えませんが、すくなくとも彼の裏切り行為の中身は、イエスを「秘かに」逮捕する機会を密告したことであるのは確かです。過越祭を前にしてエルサレムの都が寝静まっている夜の闇の中で、イエスはいつものように都の外の寂しい園で祈っておられることを、ユダはよく知っています。

 そこでユダは、一隊の兵士と祭司長たちやファリサイ派の人たちから遣わされた下役たちを引き連れ、たいまつ、ともし火、武器をもって、そこに来た。(三節)
 「一隊の兵士」と訳したギリシア語は、ローマ兵制において一軍団の十分の一(通常は六〇〇人ほど)の部隊を指す用語です(他ではマルコ一五・一六など)。この「一隊の兵士」は、千人隊長に率いられるローマの正規軍です(一二節参照)。ローマの正規軍がイエス逮捕に向かったとするのはヨハネだけですが、反乱の疑いがある場合として、祭司長たちがピラトに出動を要請した可能性は十分にあります。「祭司長たちやファリサイ派の人たちから遣わされた下役」というのは、神殿警備の警察隊員です。神殿警備隊の長官は大祭司に次ぐ要職です。大祭司はローマ総督にピラトに正規軍の出動を要請し、自分の統率下にある神殿警護の警察隊も出動させます。ローマ軍はイエスの顔も知らないでしょうから、ユダヤ教側の協力も必要です。

 共観福音書では、逮捕の場面にはローマ軍は登場せず、武器をもった「群衆」が祭司長たちから遣わされて園にやって来ます。これは、ローマ側の責任を軽くしようとする護教的動機からではないかとも推察させます。あるいは、ただ報告が大雑把であるだけかもしれません。

 逮捕に来た者たちは、「たいまつ、ともし火、武器をもって」来ます。「たいまつ」はここだけに出てくる語ですが、「ともし火」の方はマタイ福音書二五章の「十人のおとめ」の比喩にも用いられている語で、油を入れた容器に灯心をさして点す灯火です。暗闇の中で行動するには欠かせません。多くのたいまつや灯火がゆらめく情景は、イエス逮捕の夜の暗闇の深さを想像させます。

 一隊は軍隊であり警備隊ですから当然武器をもっています。彼らはイエスとその弟子たちの一行を当時の過激派「熱心党」の一味と見て、かなりの規模の軍隊をさし向けたと考えられます。イエスと弟子たちが集まっている園を知っているユダが道案内をして、先頭に立ってやって来ます。

 

進み出るイエス

 さて、イエスは御自分の身に臨もうとしていることをすべて知っておられて、進み出て彼らに、「誰を捜しているのか」と言われる。(四節)
 いよいよイエス逮捕の場面です。共観福音書では、ユダがイエスに接吻してイエスを特定しますが、ヨハネ福音書にはユダの接吻の記事はありません。ヨハネ福音書はイエスの受難を、共観福音書のように「引き渡される」という受動態ではなく、いつもイエスが進んでなされる行為として能動態で描きます。ここでも、「イエスは御自分の身に臨もうとしていることをすべて知っておられて」、すなわちイエスはこれから自分の身に起こることがどのようなことであるかを知り、それが父の定めであり、聖書の預言しているところであることを悟り、「進んで」その事態に身を委ねられます。
 イエス逮捕の情景はすべて過去形の動詞で物語られていますが、ここと五節のイエスの言葉は「イエスは言われる」と現在形が用いられています。

 彼らは「ナザレのイエスを」と答えた。イエスは彼らに言われる、「わたしである」。イエスを引き渡そうとしていたユダも彼らと一緒に立っていた。 (五節)
 「誰を捜しているのか」というイエスの問いかけに、彼らは「ナザレのイエスを」と答えます。それに対してイエスは、「わたしである」と言われます。この「わたしである」は、この福音書が繰り返しイエスの口に置いてきたあの《エゴー・エイミ》です(八・二四、二八、五八、一三・一九)。共観福音書では、湖上の顕現の時(マルコ六・五〇)と、大祭司による裁判の席(マルコ一四・六二)でイエスが口にされたあの《エゴー・エイミ》、神の自己啓示の言葉です。ヨハネ福音書では、逮捕に来た軍勢にイエスはこの神が自己を指し示されるときの啓示の言葉を発せられます。この神の永遠の現臨を啓示する言葉だから、ヨハネは「イエスは言われる」と現在形で書くのでしょう。

 イエスが彼らに「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地面に倒れた。(六節)
 この場面での《エゴー・エイミ》は、たんに「それ(あなたたちが捜している人物)はわたしである」というだけの意味ではなく、神の臨在を指す言葉です。その言葉に直面して、イエスに押し迫っていた軍勢は「後ずさりして、地面に倒れた」のです。これは、この言葉を発せられたイエスの神的威厳に打たれたからです。少なくともヨハネはそういう意味の出来事として、この箇所を書いています。ヨハネはこの記事によって、ローマの軍勢と大祭司の警備隊が逮捕しようとしている人物は、神の《エゴー・エイミ》を体現する方であると言っているのです。

 そこで、イエスが再び「誰を捜しているのか」とお尋ねになると、彼らは「ナザレのイエスを」と言った。(七節)
 《エゴー・エイミ》という神的な啓示の次元から、場面は「再び」地上の逮捕劇に戻ります。先の「誰を捜しているのか」と「ナザレのイエスを」という問答が繰り返されます。

 イエスはお答えになった、「わたしであると言ったではないか。わたしを捜しているのであれば、この者たちは行かせてやりなさい」。(八節)
 イエスは「わたしを捜しているのであれば、この者たちは行かせてやりなさい」と言って、弟子たちをこの場から去らせようとされます。

 それは、「あなたがわたしに与えてくださった者たちの中の誰ひとり滅びませんでした」と言われた言葉が成就するためである。(九節)
 イエスが逮捕に来た軍勢に自分だけ身を任せて、弟子たちをかばって去らせようとされた行為が、イエスの言葉の成就として意義づけられます。「と言われた言葉」の「言われた」は、イエスが主語です。イエスは地上におられるとき、繰り返して「あなたがわたしに与えてくださった者たちの中の誰ひとり滅びませんでした」という意味のことを語っておられました(六・三九、一〇・二八、一七・一二)。今、逮捕の場面でそのイエスの言葉が成就します。

 

剣をおさめよ

 ところで、シモン・ペトロは剣を持っていたが、それを抜いて大祭司の僕を打ってかかり、その右の耳を切り落とした。その僕の名はマルコスであった。(一〇節)
 共観福音書では、居合わせた者たちの中の一人が剣をもって打ちかかったとされていますが(弟子とは言われていません)、ヨハネ福音書ではシモン・ペトロと名指されています。それだけでなく、右の耳を切り落とされた大祭司の僕(原語は「奴隷」)も「マルコス」と名が上げられています。これは、彼の身内の者がイエスと一緒にいるペトロを目撃しているので、ペトロの否認の伝承の中でその名が伝えられたと見られます(一八・二六)。なお、切り落とされたのは、マルコとマタイでは「片方の耳」、ルカとヨハネでは「右の耳」となっています。

 この場面の報告において、ヨハネ福音書が人物の名を上げるなど、きわめて具体的であることが注目されます。このことは、ヨハネが用いている伝承が具体的で正確であるを示唆していると考えられます。

 そこでイエスはペトロに言われた、「剣をさやに納めなさい。父がわたしにお与えになった杯は、それを飲まないでおくことができようか」。(一一節)
 「剣をさやに納めなさい」という言葉は、マタイ二六・五二にも伝えられています。ただし、この後に続く言葉は違っています。マタイでは、「剣をとる者は皆、剣で滅びる」となっています。ヨハネでは、イエスが父の御旨に進んで身を委ねられる姿を表現する言葉になっています。

 イエスは、これから自分に臨もうとしている苦難を、「父がわたしにお与えになった杯」と表現されています。イエスが受けるべき苦難を「杯」の象徴で語られたことは共観福音書にも伝えられていますが、違った場面(ヤコブとヨハネの願いとゲツセマネの園での祈り)で用いられています(マルコ一〇・三五〜四五、一四・三六)。ヨハネ福音書で「杯」が出てくるのはここだけです。
 旧約聖書では、杯は神からの救いや祝福の象徴として用いられる(詩編二三・五、一六・五、一一六・一三など)と同時に、神の審判の象徴としても用いられています(イザヤ五一・一七〜二三、エレミヤ二五・一五〜二九、詩編七五・八など)。イエスはここでご自分が受けなければならない苦難を、「父がわたしにお与えになった杯」と表現しておられます。それは単なる肉体の苦しみではなく、神の裁きに身を委ねる魂の苦しみ、死の苦悩です。

 そこで、一隊の兵士と千人隊長およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、最初にアンナスのところに連れて行った。彼は、その年の大祭司カイアファの義父であったからである。(一二〜一三節)
 ここで改めてイエスの逮捕に向かった軍勢が、千人隊長に率いられる大規模のローマ正規軍と、ユダヤ人の神殿警護隊であったことが確認されます。彼らは、進み出て来られたイエスを捕らえて縛ります。他の弟子たちは、イエスの言葉通りに見逃されて、その場から闇に紛れて逃げ去ります。

 イエスは「最初にアンナスのところに連れて行かれ」、尋問を受けます、イエスが最初にアンナスの尋問を受けられたことを伝えるのはヨハネ福音書だけです。共観福音書では、すぐに大祭司カイアファのところに連れて行かれることになっています(マタイ二六・五七)。「最初に」という表現は、次にカイアファのところ送られる(一八・二四)ことを前提にしています。

 逮捕されたイエスが「最初に」アンナスのところに連れて行かれた理由が、「彼は、その年の大祭司カイアファの義父であったからである」と説明されます。アンナスは大祭司カイアファの義父として、隠然たる勢力を振るっていました。危険な異端の教師であり、騒乱の煽動者の容疑をかけられたイエスは、当時のユダヤ教の最高実力者であったアンナスの予備尋問を受けることになります。

 カイアファは 一八年から三六年まで大祭司でした。「その年の大祭司」というは、その年(イエスの裁判が行われた年)に大祭司として在位したという意味であって、大祭司職が一年交代であったという意味ではありません。アンナスはカイアファの義父で、六年から一五年まで大祭司でした。

 カイアファは、一人の人間が民に代わって死ぬことは有益だと提言した人物であった。(一四節)
 その年の大祭司カイアファは、イエスがベタニアで死んだラザロを生き返らせたという報告を受けて、イエスの影響力で騒乱になることを恐れ、「一人の人間が民に代わって死んで、民族全体が滅びないですむのが、あなたがたにとって得策だと考えないのか」と言って、イエスを殺すことを最高法院に提案した人物です(一一・四五〜五三二)。アンナスからカイアファに至る大祭司の一族は、ユダヤ教団を代表する者として、当時ローマの支配下にあって騒乱のたえない不穏な情勢の中で、何よりも教団の安泰と存続を画策した勢力です。騒乱の芽を摘むためには、その原因になりかねない一人の罪なき者を殺すことをためらわない勢力です。

 

  59 大祭司の尋問とペトロの否認  (18章 15〜27節)

 15 さて、シモン・ペトロともう一人の弟子がイエスについて行った。その弟子は大祭司の知り合いで、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入った。 16 ペトロは門のところで外に立っていた。大祭司の知り合いであるもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。 17 その門番の女中が言う、「お前もあの男の弟子たちの一人ではないのか」。彼は言う、「わたしは違う」。 18 僕たちや下役たちが立っていて、寒かったので炭火をおこし、火にあたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。
 19 大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた。 20 イエスはお答えになった、「わたしは世に向かって公然と語ってきた。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿境内で教えてきた。ひそかに語ったことは何もない。 21 なぜ、わたしに尋ねるのか。わたしが何を語ったかは、それを聞いた人たちに尋ねなさい。見よ、この人たちが、わたしが言ったことを知っている」。 22 イエスがこう言われると、そばに立っていた下役の一人が、「大祭司に向かってそんな答え方をするのか」と言って、イエスを平手で打った。 23 イエスはその男に答えられた、「わたしが何かまちがったことを言ったのであれば、そのまちがいを示しなさい。正しいことを言ったのであれば、なぜわたしを打つのか」。 24 そこで、アンナスはイエスを縛ったまま、大祭司カイアファのところに送った。
 25 ところで、シモン・ペトロは立って火にあたっていた。そこで、人々が、「お前もあの男の弟子たちの一人ではないのか」と言うと、彼は否定して、「わたしは違う」と言った。 26 大祭司の僕の一人で、ペトロが耳を切り落とした男の身内の者が言う、「お前が園であの男と一緒にいるのを、わたしは見たではないか」。 27 そこで、ペトロは再び否定した。するとすぐ、鶏が鳴いた。

ペトロの否認

 さて、シモン・ペトロともう一人の弟子がイエスについて行った。その弟子は大祭司の知り合いで、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入った。(一五節)
 共観福音書では、イエスについて行ったのはペトロだけですが、ヨハネ福音書は、「もう一人の弟子」がシモン・ペトロと一緒に逮捕されたイエスについて行ったことを報告しています。この「もう一人の弟子」は「大祭司の知り合い」であるので、逮捕されたイエスが大祭司の屋敷に連れて行かれたときに、一緒に大祭司の屋敷の中に入って行くことができました。「大祭司の知り合い」は、エルサレムのかなりの身分の家族に属するはずですから、ガリラヤの漁師には考えられない記述です。イエスの弟子はみなガリラヤの人たちですから、この「もう一人の弟子」だけがエルサレムの住人で、しかも大祭司の知り合いという上層祭司階級の出身であることになります。

 この「もう一人の弟子」と、先に登場している「主が愛された弟子」(一三・二三)とはどういう関係なのか、問題点が多くありますが、古代ギリシア教父たちと現代の多くの注解者は両者を同一人と見ています。もしこの「無名の弟子」がヨハネ福音書の著者(または伝承の源となり、ヨハネ共同体の中心にいて、この福音書を生み出す原動力になる人物)を指しているとすれば、この福音書の「著者」はエルサレムの祭司階級に属する知識人であったことになります。この節の記述は、ヨハネ福音書の成立を探求する上で重要な情報を提供しています。この点については、別稿『「もう一人の弟子」の物語―ヨハネ文書の成立をめぐって』で詳しく扱うことになります。

 この「もう一人の弟子」という表現は、ここではペトロの他に「もう一人の弟子」が大祭司の屋敷までイエスについて行ったという意味で使われていますが、この福音書全体では、ペトロを代表とする十二人の弟子団の外に「もう一人の弟子」がいたのであって、その弟子こそ「イエスが愛された弟子」であり、この弟子が伝えるイエスに関する伝承と教えの内容は、ペトロを代表とする十二使徒団のそれと較べて、優るとも劣らない質のものだという気持ちをこめて使われているようです。

 ペトロは門のところで外に立っていた。大祭司の知り合いであるもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。(一六節)
 この段落で、大祭司の尋問(一九〜二四節)を挟む形で描かれているペトロの否認の記事(一五〜一八節と二五〜二七節)は、共観福音書におけるペトロの否認の記事(マルコ一四・六六〜七二)と較べると、起こった事実の報告が端的で具体性があります。マルコはペトロが「中庭」で火にあたっていたとだけ報告していますが、ヨハネはペトロのようなガリラヤの漁師がどうして大祭司の屋敷の「中庭」にいることができたのかを、この節で具体的に報告しています。

 ヨハネ福音書の記事に較べると、マルコの方が、ペトロの否認の言葉の激しさや、ペトロの号泣など、劇的な構成を感じさせます。おそらくこれは、ペトロの否認の出来事が主の恩恵のしるしとして語り伝えられていく過程で、出来事の細部は省略されて、人間ペトロの心情が前面に出てきたからではないかと推察されます。

 その門番の女中が言う、「お前もあの男の弟子たちの一人ではないのか」。彼は言う、「わたしは違う」。(一七節)
 門番の女中とペトロの対話が現在形の動詞「言う」を用いて、生き生きと描かれています。女中が「あの男」と言うのは、もちろん、逮捕され、目の前を鎖につながれて引かれていったイエスを指しています。女中の問いに対して、ペトロは「わたしは違う」と端的に否定します。共観福音書のように、ペトロの否認の言葉が段々と激しくなり、呪いの言葉さえ口にして誓ったというような描写はなく、否認の言葉はいつも「わたしは違う」だけです。

 僕たちや下役たちが立っていて、寒かったので炭火をおこし、火にあたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。(一八節)
 過越祭は春先にありますが、パレスチナではその時期でも夜になると冷え込んだのでしょう。大祭司の屋敷の下僕たちや、イエスを逮捕して帰ってきた警備隊の者たちは、火にあたっていました。ペトロも、彼らの中に紛れて、自分もその一人であるかのような態度で、なにくわぬ顔で火にあたっていたのでしょう。ペトロの否認の物語は、大祭司の尋問の記事でいったん中断され、二五節で再開されます。


大祭司の尋問

 大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた。(一九節)
 この年の大祭司はカイアファですが(一八・一三)、この箇所(一八・一九〜二三)ではアンナスが大祭司と呼ばれています。前の大祭司として、また現大祭司カイアファの義父であり、多くの祭司長たちを擁している一族の長として、アンナスが実権を握っていたから、そう呼ばれているのでしょう。あるいは、最高法院の構成員として「祭司長たち、律法学者たち、長老たち」と言われるときの「祭司長」も同じ語であるので、その意味で用いられている可能性もあります。そうだとすると、アンナスは祭司長の一人として行動していることになりますが、その実力からして、この予審(これが予審であることについては後述)では大祭司の代わりに尋問をしていると見られていることになります。アンナスはイエスに弟子団の規模や構成、イエスの教えの内容などについて尋問します。

 イエスはお答えになった、「わたしは世に向かって公然と語ってきた。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿境内で教えてきた。ひそかに語ったことは何もない。なぜ、わたしに尋ねるのか。わたしが何を語ったかは、それを聞いた人たちに尋ねなさい。見よ、この人たちが、わたしが言ったことを知っている」。(二〇〜二一節)
 「公然と語ってきた」という言葉は、共観福音書では逮捕の時に語られたことになっていますが(マルコ一四・四九と並行箇所)、ヨハネ福音書では裁判の場で大祭司の尋問に対して答えられたときの言葉となっています。イエスは弟子たちだけに秘密の教えを説いたのではなく、会堂や神殿で公然と語ってきたのだから、あなたたちもよく知っているはずだとし、大祭司の質問を無意味なものとされます。

 イエスがこう言われると、そばに立っていた下役の一人が、「大祭司に向かってそんな答え方をするのか」と言って、イエスを平手で打った。(二二節)
 共観福音書には、ユダヤ教側の裁判でイエスが打たれたという記事はありません。平手打ちは、当時のユダヤ教社会ではひどい侮辱の行為です。イエスは、ローマの兵卒から鞭打ちの虐待を受ける前に、ユダヤ教の神殿警備隊からも侮辱を受けておられたことが、ここで語られます。

 イエスはその男に答えられた、「わたしが何かまちがったことを言ったのであれば、そのまちがいを示しなさい。正しいことを言ったのであれば、なぜわたしを打つのか」。(二三節)
 その男の侮辱の平手打ちに対して、イエスは毅然としてその不当なることを問いつめられます。イエスは「右の頬を打たれたら、左の頬を向けなさい」(マタイ五・三九)と教えられたと伝えられていますので、この語録とこの時のイエスの行動との関係がよく問題にされます。イエスがご自分の教え通りに徹底的に敵を赦されたことは、十字架の上で自分を殺す者たちのために執り成しの祈りをされたことに十分示されています。しかし、敵を赦すことと、善と悪、真理と虚偽、義と不義、正しいことと正しくないことを区別することは別であり、この区別がなければ赦しも無意味になります。イエスは最高法院の法廷で毅然としてこの区別に基づいて行動されます。

 そこで、アンナスはイエスを縛ったまま、大祭司カイアファのところに送った。(二四節)
 ここではアンナスではなくカイアファが大祭司とされています。共観福音書では、イエスは逮捕された後すぐにカイアファのところに連れて行かれ、カイアファから尋問され、その後ピラトに引き渡されることになっています。ペトロの否認は、このカイアファの尋問の前後に置かれています。ところがヨハネ福音書では、まずアンナスのところに連れて行かれ、アンナスから尋問され、それからカイアファのところに送られることになります。そして、カイアファによる尋問の記事はなくて、すぐにピラトに引き渡されます(一八・二八)。ペトロの否認の記事は、アンナスの尋問の前後に置かれています。

 このように、ピラトに引き渡される前のユダヤ教側の尋問と裁判の過程について、共観福音書とヨハネ福音書は食い違っており、この違いは調整困難です。おそらく事実は、アンナスの屋敷における夜の尋問は予審であり(正式の法廷は昼間でないと開けません)、夜が明けてから最高法院での正式裁判が開かれ(マルコ一五・一はこれを示唆しています)、大祭司カイアファを議長とする裁判でイエスの死刑が正式に議決されたと見られます。その夜の予審(その時にペトロの否認が起こる)は実力者アンナスによってなされたが、夜が明けてからの最高法院の裁判では「その年の大祭司カイアファ」が議長として死刑判決を下したと考えられます。

 共観福音書は、夜の予審と朝の正式裁判を厳密に区別せず、イエスは夜の裁判でカイアファによって厳しく尋問され、死刑の判決を下されたとしています。それに対してヨハネ福音書は、ピラトの裁判に重点を置いて詳しく描いていますが、ユダヤ教側の裁判はほとんど無視して、その内容をほとんど伝えていません。ただ、夜の予審がアンナスによってなされたことは、事実である可能性が高いと見られます。この福音書の記事は「大祭司の知り合い」の弟子を情報源としていると見られるからです。いずれにしても信仰の問題としては、ユダヤ教最高法院がイエスに死刑判決を下したことが重要であって、その裁判の過程でアンナスとカイアファがどう関わったかは、本質的な問題ではありません。

ペトロの否認(続)

 ところで、シモン・ペトロは立って火にあたっていた。そこで、人々が、「お前もあの男の弟子たちの一人ではないのか」と言うと、彼は否定して、「わたしは違う」と言った。(二五節)
 ここでペトロの否認の物語が再開されます。先には門番の女中がペトロに「お前もあの男の弟子たちの一人ではないのか」と問いつめましたが、今度はペトロと一緒に火にあたっていた人々が、同じ言葉でペトロを問いつめます。彼らはイエスの逮捕に向かった軍勢の中にいた者たちであり、その時ペトロの顔も見ていたのでしょう。現場にはいなかった先の女中の詰問よりも差し迫った場面になります。その詰問に対しても、ペトロは「わたしは違う」と、同じ言葉で否定します。これが二度目の否定になります。

 大祭司の僕の一人で、ペトロが耳を切り落とした男の身内の者が言う、「お前が園であの男と一緒にいるのを、わたしは見たではないか」。(二六節)
 ペトロがイエスの仲間だという詰問はさらに具体的になります。「ペトロが耳を切り落とした男」は大祭司の僕の一人で、マルコスという名の男であったことが伝えられていますが(一〇節)、そのマルコスの身内の者(この者も「大祭司の僕の一人」と説明されています)が、イエスが逮捕されたときマルコスと一緒にいて、ペトロの顔を見たと証言します。ペトロはますます窮地に追いつめられます。

 そこで、ペトロは再び否定した。するとすぐ、鶏が鳴いた。(二七節)
 それでもペトロは必死に否定します。ペトロはすでに二度否定していますから、これは三回目の否定になります。ペトロが三回目に否定したとき、鶏が鳴きます。これは、最後の食事の席でイエスが、ペトロに向かって「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言うであろう」と予告しておられましたが(一三・三八)、その予告通りになります。

 ヨハネ福音書におけるペトロの否認の記事を共観福音書のそれと較べますと、その報告が具体的で確かな伝承に基づいているという印象を受けます。ペトロが大祭司の屋敷の中に入れた事情や、耳を切り落とされた男の名前の報告など、当時の神殿関係の事情に身近な立場の人物で、現場の状況を見た者からの情報に基づいていることをうかがわせます。

 一方、ヨハネ福音書の記事は、事実を淡々と報告しているという感じがします。ペトロの否定の言葉も「わたしは違う」と極めて簡潔です。おそらくこれが事実でしょう。それに較べると、共観福音書の記事は、ペトロの否定の言葉がだんだんとエスカレートしていく様子が詳しく描かれ、最後には外に出て激しく泣いたとされます。その記事は、ヨハネ福音書の記事と較べると、劇的効果を高めるように構成されているという印象を受けます。これは、この場面を主の恩恵の重要なしるしとして語り伝えたペトロ自身と、最初期の共同体の手による構成ではないかと考えられます。

 ヨハネ福音書は、ペトロに対して「もう一人の弟子、主が愛された弟子」を優位に立たせようとする傾向がありますが、それだけにペトロのマイナス面をこのように抑えた形で、事実だけを淡々と報告するという姿勢が目立ちます。もし著者が共観福音書(少なくともマルコ)を知っていたとすれば、ますますその姿勢が顕著になります。著者は「もう一人の弟子」の優位を描くのに、その弟子の優れた点を語っても、対抗者の弱点を強調することを好まなかったのでしょう。


  60 ピラトの法廷 (18章 28〜40節)

 28 さて、彼らはイエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。早朝であった。彼らは汚れを受けることなく過越の食事をするために、自分たちは官邸に入らなかった。 29 そこで、ピラトは外にいる彼らのところに出て来た。そして言う、「この男について何の訴えを持ってきたのか」。 30 彼らはピラトに答えて言った、「この男が悪事を働く者でなかったら、貴下に引き渡すことはないのです」。 31 そこでピラトが彼らに言った、「自分たちでその者を引き取って、自分たちの律法で裁くがよかろう」。ユダヤ人たちは言った、「われわれは誰ひとり処刑することも許されていません」。 32 それは、御自分がどのような死に方で死ぬことになるのかを示そうとして語られたイエスの言葉が成就するためであった。
 33 そこで、ピラトは再び官邸に入り、イエスを呼び出して言った、「お前がユダヤ人たちの王であるのか」。 34 イエスはお答えになった、「あなたが自分からそう言うのか。それとも、他の者たちがあなたにわたしのことをそう言ったのか」。 35 ピラトは答えた、「わたしはユダヤ人であるものか。お前の国の者と祭司長たちがお前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか」。 36 イエスはお答えになった、「わたしの国はこの世のものではない。もしわたしの国がこの世のものであったら、わたしの部下たちはわたしがユダヤ人たちに渡されないように戦ったであろう。しかし事実、わたしの国はここから出たものではない」。 37 そこでピラトはイエスに言った、「では、お前は王なのか」。イエスはお答えになった、「わたしが王だと言うのはあなただ。わたしは真理に証を立てようとして、そのために生まれ、そのために世に来た。真理からの者はみな、わたしの声を聴く」。 38 ピラトはイエスに言う、「真理とは何か」。
 こう言って、ピラトは再びユダヤ人たちの前に出て来て言う、「わたしはこの者に何の咎も見出せない。 39 ところで、過越祭にはあなたたちのために一人を釈放する慣例がある。それであなたたちは、わたしがあのユダヤ人の王を釈放することを願うか」。 40 すると、彼らは再び叫び出して言った、「この男ではなく、バラバを」。バラバは強盗であった。

ピラトへの引き渡し

 さて、彼らはイエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。早朝であった。(二八節前半)
 先に「アンナスはイエスを縛ったまま、大祭司カイアファのところに送った」(二四節)とありました。その年の大祭司カイアファの下に開かれた最高法院の議事のことは全然触れられないで、イエスはすぐに総督ピラトがいる総督官邸に連れて行かれます。そして、その時刻は「早朝であった」と報告されます。

 当時属州シリア(パレスチナも含まれる)を統治する総督の官邸(総督府)はカイサリアにありましたが、全国のユダヤ人がエルサレムに集まる過越の大祭などの時には、都の治安維持のために、総督はエルサレムに滞在しました。神殿域の北西角に「アントニアの砦」と呼ばれる一段と高い建造物がありますが、総督はエルサレム滞在中ここで執務したと推察されます。あるいは、ヘロデの宮殿に滞在したという見方もあります。いずれにせよ、総督の執務所が「総督官邸」(プラエトリウム)と呼ばれていました。イエスは、カイアファのところ、すなわちカイアファの下に開かれた最高法院から、この総督官邸に引いて行かれます。

 共観福音書では、「夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと一緒に、全最高法院で議決をして、イエスを縛って引き出し、ピラトに引き渡した」(マルコ一五・一私訳)となっています。その記事が、夜明けと共に始まった最高法院での正式裁判を意味するのであれば、そこですぐに死刑判決を出して、まだ「早朝」と言える午前の早い時刻にピラトに引き渡したことになります。ピラトの判決は「正午ごろ」になります(一九・一四)。夜には正式の法廷は開くことが(律法で)許されていませんから、アンナスの屋敷での夜の尋問はあくまで予審に過ぎず、夜が明けてから正式の最高法院の法廷が開かれ、そこで死刑の判決がなされたと見なければなりません。

 カイアファの下で開かれた最高法院の法廷については、共観福音書が裁判の成り行きを詳しく報告しているのに較べると、ヨハネ福音書が何も伝えていないことが目立ちます。アンナスの屋敷での予審も含め、ヨハネ福音書はユダヤ教側の裁判の内容をほとんど伝えていません。最高法院での裁判は、議員だけしか法廷に入れないので、その成り行きの詳細を知ることは、部外者にとって、とくに敵視されている信徒の共同体にとってきわめて難しいと考えられます。ヨハネは、確かな情報がないのでユダヤ教側の裁判については、裁判があった事実を報告するだけで、その内容まで立ち入らなかったと見てよいでしょう。すると、むしろ共観福音書における最高法院での裁判の記事が、最初期の共同体とかマルコの構成によるものではないかという視点から検討されなければならないことになります。

 彼らは汚れを受けることなく過越の食事をするために、自分たちは官邸に入らなかった。(二八節後半)
 ユダヤ人にとって異邦人との接触は祭儀上の汚れとされていました。それで、その日の日没に続いて行われる過越の食事を汚れのない状態でするために、「自分たちは官邸に入らなかった」とあります。ということはイエスだけを官邸の中に押し入れて、自分たちは官邸の外に留まり、外から訴えを叫んだことになります。

 この記事からすると、ピラトの裁判とイエスの処刑は過越の食事の前に行われたことになります。すなわち、ヨハネ福音書によれば、(日没から一日が始まるユダヤ暦によれば)過越の食事の前日、準備のために子羊が屠られる日、「過越祭の準備の日」になります。一九章一四節は明確にそう記述しています。この日付は、過越の食事をした後、逮捕、裁判、処刑が行われたとする(すなわち、過越祭の当日とする)共観福音書と食い違います。この一日の食い違いは調停困難です。

 そこで、ピラトは外にいる彼らのところに出て来た。そして言う、「この男について何の訴えを持ってきたのか」。(二九節)
 イエスを訴えるために来たユダヤ教側の祭司長たちは官邸の中に入ろうとしないので、やむなく総督ピラト自身が外に出て来て、彼らの訴えの内容を尋ねます。

 彼らはピラトに答えて言った、「この男が悪事を働く者でなかったら、貴下に引き渡すことはないのです」。(三〇節)
 ピラトの問に対して祭司長たちは、自分たちがこの男の悪事を十分確認したので、最終的な判決を得て処刑してもらうために、総督に引き渡すのだと答えます。

 そこでピラトが彼らに言った、「自分たちでその者を引き取って、自分たちの律法で裁くがよかろう」。ユダヤ人たちは言った、「われわれは誰ひとり処刑することも許されていません」。(三一節)
 ピラトはその答えを引き取って、「では(=自分たちで十分調べて悪事を確認したのであれば)、自分たちでその者を引き取って、自分たちの律法で裁くがよかろう」と突き放します。「悪事を働く者」に対する裁判権は、最高法院などのユダヤ教体制に認められているのであるから、そこで裁判をするがよい、とピラトは突き放すわけです。ピラトにすれば、訳の分からない「律法(ユダヤ教)」内の紛争に関わることにうんざりしていたのでしょう。

 それに対して、「ユダヤ人たち」は言います。ここでイエスを訴えたユダヤ教指導層の者たちが「ユダヤ人」と呼ばれていますが、ここにもユダヤ教団と対抗するヨハネ共同体の厳しい姿勢が顔を覗かせています。彼らはこう言います。「われわれは誰ひとり処刑することも許されていません」。

 ここの「処刑する」の原語の動詞は「殺す」です。死刑の判決を出すことではなく、実際に処刑することを指しています。当時、最高法院に死刑執行権がなかったというこの証言については議論があります。しかし、もし死刑執行権があるのであれば、ピラトに引き渡す必要はないのですから、これは歴史的事実であるとしなければなりません。同じ属州シリアの中でも、ガリラヤなどの「領主」は死刑執行権を認められていました(ヘロデ・アンティパスは洗礼者ヨハネを処刑しています)。また、少し後ではユダヤでも、ローマから王とされたヘロデ・アグリッパ一世(在位41〜44年)は、十二人の中の一人であるゼベダイの子ヤコブを逮捕処刑しています(使徒一二・一〜二)。しかし、6年の反乱以来イエスの時代のユダヤは総督直轄領となっており、死刑執行権は総督だけにあったとされます。これは、ローマ側につく者を現地の権力が処刑することを防ぐ意味もあったとされています。

 それは、御自分がどのような死に方で死ぬことになるのかを示そうとして語られたイエスの言葉が成就するためであった。(三二節)
 イエスは先に「わたしが地から上げられるならば、すべての人をわたしのもとに引き寄せるであろう」と言って、「自分がどのような死を遂げようとしているかを、しるしとして示そうとしてこう言われた」とされています(一二・三二〜三三)。ここで祭司長たちがピラトにイエスの処刑を求めたことは、イエスがユダヤ教式の石打の刑ではなく、ローマ式の十字架刑によって死なれることになるための行動とされています。イエスは「自分がどのような死を遂げようとしているか」も予め知っておられて、それに身を委ねられるのだと、この福音書は解説します。なおこの福音書では、「上げられる」という用語が、十字架につけられて地から上げられると意味と、復活して天に上げられるという意味の二つが重なっていることについては、これまでに度々見てきた通りです。

イエスとピラトの問答

 そこで、ピラトは再び官邸に入り、イエスを呼び出して言った、「お前がユダヤ人たちの王であるのか」。(三三節)
 一度外に出て訴えるユダヤ人たちと問答したピラトは、「再び官邸に入り」、イエスと一対一で対面します。ここから三八節前半までは、イエスとピラトとの一対一の対話になります。対話によって福音を提示しようとするこの福音書の姿勢はここでも貫かれています。

 ここまで祭司長たちがどういう内容の訴えをしたのか語られていませんが、この質問からユダヤ人たちは、イエスが自分は王であると称して民衆の反ローマ運動を扇動する者として訴えたことが分かります。ユダヤ人たちはイエスを神を汚す律法違反の異端者として死刑判決を下していながら、ローマ総督に訴えるときは政治的な反逆者として訴えます(ルカ二三・二)。ローマ人がユダヤ教の宗教問題に理解も関心もないことをよく知っているからです。このピラトの質問は、裁判の焦点として共観福音書にも同じ言葉で伝えられています(マルコ一五・二と並行箇所)。

 イエスはお答えになった、「あなたが自分からそう言うのか。それとも、他の者たちがあなたにわたしのことをそう言ったのか」。(三四節)
 共観福音書では、「お前がユダヤ人たちの王であるのか」というピラトの質問に、イエスは「あなたが(それを)言う」とだけ答えておられます。これは「あなた」が強調された文で、「そう言うのはあなたの方だ」(私訳)という意味です(新共同訳は「それはあなたが言っていることです」)。おそらく、これがピラトの尋問に対するイエスの答えとして伝えられた言葉であろうと見られます。ヨハネはそれに「あなた自身から」という句を加え、「他の者があなたに言ったのか」と対照させて、質問の形にしています。三七節では「わたしが王だと言うのはあなただ」となっています。

 ピラトは答えた、「わたしはユダヤ人であるものか。お前の国の者と祭司長たちがお前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか」。(三五節)
 イエスの問いかけに対するピラトの答え、「このわたしがユダヤ人であるのか」(直訳)は、「そんなことはあるものか」と、否定の答えを予想し強調する疑問文です。わたしはユダヤ人ではないのだから、お前が王であると考えたり言ったりするはずはない、という意味です。ピラトはイエスの反問に、わたしがそう言うのではなく、お前の同国人たちがそう言ってお前を訴えたのだと答えます。お前の同国人がそう言って訴えるからには、お前がそれに相当する何かをしたからだろう。いったい何をしたのか、と問いただします。

 イエスはお答えになった、「わたしの国はこの世のものではない。もしわたしの国がこの世のものであったら、わたしの部下たちはわたしがユダヤ人たちに渡されないように戦ったであろう。しかし事実、わたしの国はここから出たものではない」。(三六節)
 イエスは、「わたしの《バシレイア》(王の支配、王国)」という表現を用いて答えておられます。イエスの宣教が「神の《バシレイア》」を主題としていたことは、共観福音書が繰り返し詳しく伝えています。それに対してヨハネ福音書では、この《バシレイア》という用語はほとんど出てきません。三章(三節と五節)に二回と、本節の三回だけです。しかし、ヨハネもイエスの宣教の内容が「神の《バシレイア》」であり、イエスがこの《バシレイア》をいう語を繰り返し使われたことをよく知っています。ユダヤ人たちも、イエスがこの語を用いられたことを利用して、イエスが自分を王と主張したと訴えたのでしょう。その語を用いて、ヨハネはイエスとピラトの対話を構成します。

 「お前は王であるのか」というピラトの質問に、イエスは「たしかに、わたしは《バシレイア》(王としての支配)を説いた。しかし、わたしの《バシレイア》はこの世のことではないのだ」と答えておられるのです。イエスは、「わたしの《バシレイア》はこの世からのものではない」(直訳)と答えておられます。この世から出たもの、この世に起源をもつもの、この世に属すもの、この世の事柄ではないという意味です。もしわたしの支配がこの世のことであるならば、敵対するユダヤ教勢力に引き渡されたら実現できないのだから、部下たちがそうならないように戦ったであろう。しかし事実、わたしも部下も戦うことなく、わたしはユダヤ人たちの手に身を委ねた。この事実が、わたしの《バシレイア》がこの世のことではないと証明している、とイエスは答えられます。そのことがもう一度、「わたしの《バシレイア》はここ(地)から出たものではない」と、表現を少し変えて繰り返されます。

 そこでピラトはイエスに言った、「では、お前は王なのか」。イエスはお答えになった、「わたしが王だと言うのはあなただ。わたしは真理に証を立てようとして、そのために生まれ、そのために世に来た。真理からの者はみな、わたしの声を聴く」。ピラトはイエスに言う、「真理とは何か」。(三七節〜三八節前半)
 ピラトにとって「この世のことではない支配」というようなことは理解できません。支配とは一つしかありません。この世で誰が支配するのか、ローマ皇帝か、誰か他の者か、それだけが問題です。イエスが《バシレイア》(王の支配)という言葉を用いて「わたしの支配」と言われたので、ピラトは「では、お前は《バシレウス》(王)なのか」と詰問します。

 それに対してイエスは、「わたしが王だと言うのはあなただ」とお答えになります。共観福音書では「あなたが言う」あるいは「言うのはあなただ」という形で伝えられていますが、ヨハネは言う内容を加えて、「わたしが王だと言うのはあなただ」としています。このヨハネの文は、共観福音書の「言うのはあなただ」というイエスの言葉はこの意味で理解されるべきことを指し示しています。

 イエスは自分が王だとは主張されていません。しかし、ピラトはイエスを王の僭称者として処刑します。それは十字架につけられた「罪状書き」からも明らかです。ピラトがイエスを王だと言っているのです。この「お前は王か」と「それを言うのはあなただ」というピラトとイエスの問答は、ピラトの法廷の核心部分です。共観福音書が伝えるように、ピラトの法廷でイエスが発せられた言葉はこれだけだと考えられます。

 最高法院での裁判と違って、ピラトの法廷は公開で行われ、訴える者たちや群衆が取り巻いています。それで、この問答も多くの人が聞き、それを伝えたと考えられます。共観福音書はこの問答の事実だけを伝えていますが、ヨハネ福音書はそれを核として、イエスとピラトの対話を構成しています。官邸内でのイエスとピラトの二人だけの対話は、誰も聞いていないのですから、この対話は著者ヨハネの構成によるものと見ざるをえません。ヨハネは自分が理解しているところ、すなわちイエスの言われる《バシレイア》はこの世のことではないという理解で、このイエスとピラトの対話を構成したと考えられます。

 このことをヨハネはさらに「真理」という彼特愛の言葉(この用語は他の新約聖書の文書に較べてヨハネ文書に圧倒的に多く出てきます)で表現します。イエスが世に来られたのは、この世に支配をうち立てるためではなく、「真理に証しを立てる」ためであるとします。イエスは世に向かって「真理」を語ってこられました(八・四〇、四五、四六)。ですから、「真理からの者(真理から生まれた者、真理に属する者)はみな、わたしの声を聴く」のですが、真理に属さない者、真理に無縁な者はイエスの声を聴くことができません。まことの羊飼いに属さない羊は、その羊飼いの声を聞き分けることはないのです。

 こうして、イエスは生死をかけた裁判の場で、「真理に証しを立てる」ことを貫かれます。ヨハネはピラトの前で証しを立てられたイエスをこのように描きます。
 ピラトは「真理とは何か」と尋ねます。この問いには、イエスはもはや答えられません。それは言葉で解説できるものではないからです。真理を体現するイエスと、真理の外にいるピラトの対話はここで終わります。

 

バラバ釈放の要求

 こう言って、ピラトは再びユダヤ人たちの前に出て来て言う、「わたしはこの者に何の咎も見出せない」。 (三八節後半)
 ここから四〇節までは、内容的には一九章(一〜一六節)のピラトによる死刑判決を描く段落に属します。その箇所と一緒に講解すべきところですが、伝統的な章分けに従って、一八章の一部としてここで見ておきます。本来ならば、ここで章を分けるべきであり、伝統的な章分けは適切ではないようです。

 イエスと一対一の対話を終えて、ピラトは再び官邸の外に出て来て、訴えているユダヤ人たちに宣言します。「咎」と訳した原語は、裁判に訴える理由を指す語です。ピラトはイエスに何の訴追理由も見出せないとして釈放しようとします。

 「ところで、過越祭にはあなたたちのために一人を釈放する慣例がある。それであなたたちは、わたしがあのユダヤ人の王を釈放することを願うか」。(三九節)
 ところが、あくまでもイエスの処刑を求めるユダヤ人たちの気勢に押されたのか、ピラトは別の釈放理由を提案します。神殿勢力の代表者たちはイエスを訴えているが、民衆はイエスを慕っていて、イエスの釈放を求めるであろうとピラトは予想したのでしょう。

 この「過越祭に(ユダヤ人の囚人)一人を釈放する慣例」は、ローマ側の資料にもユダヤ教側の資料にも記録がないので、歴史的事実であったかどうか疑問視されています。しかし、6年にユダヤがローマ総督直轄領になったとき、最高法院から死刑執行権が取り上げられた代償に、このような特赦の権利が与えられた可能性があります。あるいは、31年にピラトの後盾であり反ユダヤ主義者のセヤヌスが失脚するのですが、その前後の時期にピラトは自分の地位を護るためにユダヤ人の歓心を買う必要を感じていたので、このような特赦を与えていた可能性もあります。

 すると、彼らは再び叫び出して言った、「この男ではなく、バラバを」。バラバは強盗であった。(四〇節)

 ピラトの予想に反して、裁判の場に押し寄せていた群衆は「この男ではなく、バラバを」と叫びます。著者は「バラバは強盗であった」と説明を加えています。「強盗」の原語《レーステース》は、たしかに「強盗」という意味の語ですが、反ローマの武装革命家をローマ側がこう呼んで逮捕処刑しました。イエスと一緒に十字架刑に処せられた二人もこう呼ばれています。「暴徒」と訳してもよいでしょう。たんなる物取り強盗の類ではなく、宗教的な動機から支配者であるローマの権力に武力をもって反抗した運動家たちを、ローマ側がこのような蔑称で呼んだのです。事実、彼らの中には軍資金を得るために、金持ちを襲うという強盗行為をした者もあったようです。

 バラバもこのような暴力主義の運動家でした。「バラバ」という名は、「バル・アッバ」(師父の子)という意味のアラム語で、著名な律法学者の子であったと推察されています。おそらくこれは本名ではなく、指導的な革命家に民衆から敬愛の念をこめて与えられたニック・ネームでしょう。マタイ福音書(二七・一六)のある写本では「バラバ・イエス」と呼ばれています。そうすると、ピラトは群衆に「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか」と、選択を迫ったことになります。このとき、ユダヤ人たちが恩恵の支配、愛の王国を説いたナザレのイエスではなく、剣をもって立とうとしたバラバ・イエスを選んだことが、その後のユダヤ人の歴史を決めることになります。

 


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