ヨハネ文書の成立 3

 第三章 長老ヨハネとその共同体


 1 共同体の危機と長老の書簡

巡回伝道者の活動

 ヨハネ福音書を生み出したヨハネ共同体の交わりはどのような質のものであったのか、ヨハネの書簡がそれを垣間見させてくれます。最初に、個人的な実際の手紙としての性格がもっともはっきりしている第三の手紙を取り上げます。

 第三の手紙は「長老」からガイオという人物に宛てられています(一節)。まず、挨拶で「長老」はガイオが「真理に歩んでいる」ことを賞賛しています(二〜四節)。ガイオが真理に歩んでいることは、「兄弟たちが来ては、証ししてくれる」と長老は言っていますが、これは離れた場所にある個別集会の間の頻繁な交流を示唆しています。
 
 長老はガイオに、「御名のために旅に出た人たち」を「送り出してください」と依頼しています(五〜八節)。「御名のために旅に出た人たち」とは、主イエス・キリストの御名を伝えるために各地を巡回して伝道する人たちのことです。「送り出す」というのは、そのような伝道者たちの働きを支援することで、その中には生活費も含めて彼らが必要とする費用を負担することも入っています。「送り出す」がその意味であることは、「彼らは異邦人(信徒でない人たち)からは何ももらっていません」という文面が説明しています。このように具体的な形で彼らを支援することが「真理のために共に働く者となる」のだと、長老はガイオと彼の家にある集会を励まします。ガイオはすでに「兄弟たち、それもよそから来た人たちのために誠意をもって尽くしてきました」。そのことは、ガイオの世話になった人たちが「教会(おそらく長老が居合わせる集会)で証しをした」ので、長老は今回もガイオの誠意を信じて、このような依頼をすることができると喜んでいます。
 
 巡回伝道者に対する支援を依頼する原則的な文面の後に(すこし離れて)、デメトリオという人物を推薦する文面があります(一二節)。デメトリオは、おそらくこの手紙を携えてガイオのもとに来た巡回伝道者であると思われます。「わたしたちも証しします」という長老の推薦の言葉は、デメトリオが長老と彼が代表する共同体から伝道の使命を委任されて送り出されていることを示しています。この依頼と推薦が、この短い手紙の主要な目的であろうと思われます。
 
 その間に、「指導者になりたがっているディオトレフェス」のことが取り上げられます(九〜一一節)。長老は、彼が「悪意に満ちた言葉で」長老の共同体指導を批判して、自分の指導権を主張していると非難しています。長老とディオトレフェスとの間の確執がどのような問題をめぐるものかについては議論があるところですが、おそらく第一の手紙や第二の手紙に見られるようなキリスト理解についての対立ではなくて、単独司教制への移行期に見られる制度的な問題でなかったかと考えられます。二世紀初め頃から、個々の教会は一人の監督(後に司教と呼ばれるようになります)によって指導されなければならないとする単独司教制が主張され、すでに二世紀初頭にはイグナティオスやポリュカルポスがそのような単独司教として活躍しています。このような方向に進むように主張したディオトレフェスと、長老の霊的権威を認めた上で、個々の信徒と集会が平等で自由な交わりを持つというこれまでの行き方が対立したのではないかと見られます。
 
 最後の結びの挨拶で、長老自身が近いうちにガイオを訪問して直接話し合いたいという希望を述べています(一三〜一五節)。長老自身も各地の家の集会を巡回して指導していたことがうかがわれます。このように、ヨハネ共同体は長老の霊的権威の下に個々の家の集会が自由な交わりをもつ信仰共同体であったことが、この短い手紙から分かります。

 なお、この短い書簡に出てくる三人の人名を見ますと、ガイオ(正式にはガイウス)はローマ名、他の二人はギリシア神話にちなんだ名前で、ユダヤ人ではないことが分かります。ヨハネ共同体は、長老自身はパレスチナ出身のユダヤ人であり、中核的なメンバーには多くのユダヤ人がいたことは十分推察できますが、エフェソというヘレニズム世界の大都市で異邦人的性格を強めていたことがうかがわれます。

ヨハネ共同体の信仰生活

ところで、このように各地の家の集会が一人の長老の霊的権威と指導の下に、何人かの巡回伝道者の働きで伝道活動を進めながら、自由で対等の交わりを持っていたと推察されるヨハネ共同体は、実際の信仰生活をどのようにしていたのでしょうか。これはヨハネ文書の解釈の問題になりますので、それぞれの文書の講解に譲りますが、ここでその概略を見ておきましょう。

 パウロ書簡や共観福音書および使徒言行録から、初期(使徒が活躍した時代)の信徒たちの集会の様子をある程度うかがうことができます。信徒たちは、(ユダヤ教の安息日である土曜日ではなく)主が復活されたとされる日曜日に集まり、共に主イエス・キリストの名によって祈りを捧げていました。まだ教会堂はありませんから、ゆとりのある個人の家に集まっていたようです。その集まりの中心は「主の晩餐」でした。復活者キリストの十字架の死を記念してパンとぶどう酒でする共同の食事が中心で、その前後に祈りや聖書(旧約聖書)の朗読、あるいは巡回してきた使徒や伝道者たち、または先輩集会員の説教や勧告があったようです。すでにパウロの時代に「監督たちと奉仕者たち」と呼ばれる役職の人々がいたことが知られています(フィリピ一・一)。
 
 ヨハネ共同体の場合は、「主の晩餐」と呼ばれる共同の食事、または後に「聖餐」と呼ばれるパンとぶどう酒による儀礼が行われていたかどうかが問題になります。共観福音書(マルコ一四・二二〜二五および並行箇所)には、主イエスが最後の食事の席で弟子たちにパンを裂いて与え、ぶどう酒の杯を回して飲ませ、「これはわたしの体、わたしの血である」という言葉で意義づけ、「わたしの記念としてこれを行え」と言われたとする記事(いわゆる「制定記事」)があります。パウロもこれを自分も受けた伝承として自分が形成した集会に伝えています(コリントT一一・二三〜二五)。ところが、ヨハネ福音書では最後の食事の記事に、過越祭の背景でパンとぶどう酒を意義づける記事がなく、「主の晩餐」を制定する記事もありません。代わりに、六章(五二〜五八節)に「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む」ことの霊的意味を強調する記事が置かれています。
 
 ヨハネ福音書に「制定記事」がないからといって直ちに、ヨハネ共同体は「主の晩餐」とか「聖餐」を行っていなかったと結論することはできません。それを行っていることは当然のこととして、その精神を教えるためにイエスが弟子の足を洗われた記事を置いたという理解も可能です。しかし、「神は霊である。神を礼拝する者は霊と真理によって礼拝しなければならない」(四・二四)というヨハネ福音書の基本的な主張からすれば、「聖餐」が祭儀化しつつある傾向に対抗して、あえて「制定記事」を省いたという理解も可能です。最後の食事の席でイエスの一番近いところにいた目撃証人である「愛弟子」が、そして少なくともマルコ福音書を知っていると考えられる長老ヨハネが、あえて「制定記事」を書いていないという事実は重く受け止めるべきであると思います。

 二世紀初頭のアンティオキア司教イグナティオスには、聖餐を永遠の命を与える秘薬のように理解する祭儀化が見られることと比較すると、一世紀末のヨハネ福音書におけるサクラメントとしての聖餐についての無関心は注目されます。

 バプテスマについても、ヨハネ福音書は水のバプテスマに対比して聖霊のバプテスマを強調しています。復活者キリストは(マタイのように)水のバプテスマを授けるように命じられたことはなく、聖霊でバプテスマする方として指し示されています(一・三三)。水のバプテスマを示唆するとされる「水と霊によって生まれなければ」という三章五節も、御霊の自由な働きを語る文脈の中に包み込まれています。ヨハネ共同体の信仰を提示するヨハネ福音書は、総じてサクラメントには無関心で、本来それが来るべき位置に御霊の自由な働きと、それによる復活者キリストとの霊の交わりを置いています。教会制度についてもまったく無関心です。「使徒」という地位を示す用語は一度も用いられていません。
 
 このような事情を総合すると、ヨハネ共同体は長老ヨハネの証言と指導に依拠して、ひたすら御霊による復活者イエスとの交わりを追求し、形式的・制度的な関心から解放されて、御霊による自由な交わりを形成しようとした共同体ではないかと考えられます。
 
 これは教会とかセクトではなく、長老ヨハネを霊的な権威と仰いで、小アジアの諸集会を横断する形で展開した信仰運動ではなかったかと考えられます。日本のキリスト教史においては、内村鑑三とか賀川豊彦の運動に近いものではなかったかと推察することも可能です。そうであれば、洗礼とか聖餐という儀礼は教会のものとして認めた上で、この運動の中では無関心でいることができることになります。このような運動としてのヨハネ共同体の在り方は、現在のわたしたちのモデルとして重要な意義を担うことになります。

ヨハネ共同体の危機

 このような共同体に分裂の危機が襲います。共同体の中に対立と亀裂が生じていたことは、すでに第二の手紙が示しています。この手紙ではまだ分裂まで行っていませんので、すでに分裂が起こってから書かれた第一の手紙(二・一九参照)よりも先に書かれたと見られます。ここでまず、先に書かれたと見られる短い第二の手紙の概略を見ておきます。

 「長老」は「選ばれた婦人とその子たち」に書き送っています(一節前半)。「婦人」《キュリア》という語は、《キュリオス》(主人)の女性形で、もともと奴隷に対して女主人を指す語です。この語に「選ばれた」という説明がついていることと、「その子たち」について語ることが集会員のことですから、この「婦人」は宛先の集会を象徴的な用語で指していると理解することができます。
 
 長老は手紙の挨拶文(一節後半〜三節)で、特愛の用語である「真理」と「愛」を繰り返し用いて、共同体がいかに真理と愛の中にある交わりであるかを(ややくどい文体で)強調しています。
 
 長老は宛先の集会がもはや一枚岩ではなく、亀裂が入っていることを知っています。長老は「あなたの子供たちの中に」、すなわち集会員の中に「わたしたちが御父から受けた掟どおりに、真理に歩んでいる人たち」がいることを知って喜んでいると言っていますが(四節)、その言葉の背後にはそうでない人たち、すなわち真理に従って歩んでいない人たちがいることを知った苦悩があります。そこで、長老は「さて、婦人よ、あなたにお願いしたいことがあります」と言って、長老が教えたとおりに真理に歩むように勧告します(五〜一一節)。
 
 では、長老が言う「真理に歩む」と「真理に歩まない」の違いはどこにあるのでしょうか。長老は最初に、愛に歩むように、すなわち互いに愛し合うという御父の掟に従って歩むように求めています(五〜六節)。しかし、愛に歩むということはあまりにも一般的な戒めであり、それに従って歩んでいるかどうかで、「真理に歩んでいる」人であるとか、「真理に歩んでいない」人であると線を引くことは困難です。
 
 長老は、常日頃強調している愛による一致を前置きとして繰り返した上で、その後で本題を出します。長老が訴えたい本題は、「人を惑わす者たち」の偽りの教えに耳を傾けないようにという勧告です(七〜一一節)。長老は「人を惑わす者たち」のことを「イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表そうとしない」者たちだと説明した上で、彼らを「反キリスト」だと決めつけます。長老は、彼らの教えに耳を傾け、その教えに従うならば、「わたしたちが努力して得たものを失う」ことになると警告します。「わたしたちが努力して得たもの」とは、長老を中心に長年にわたって伝道の努力をして形成したキリストの民の信仰を指していると見てよいでしょう。長老は正しい信仰の崩壊を心配しています。彼らの教えに聴き従う者は、「キリストの教えを越えて、これにとどまらない者」であり、そのような者は「神を持たず」(直訳)、「豊かな報いを受ける」こともないと警告が続きます。長老が証言し共同体が保持してきた教えこそ「キリストの教え」であり、「その教えにとどまる人こそ、御父と御子を持つ」(直訳)のだと断言します。
 
 ここで「教え」が「真理に歩む」ことの基準となっていることが注目されます。長老が説き続け、共同体が保持してきた教えこそ「キリストの教え」であり、その教えから逸脱して、「イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表そうとしない」者たちの教えは「反キリストの教え」とされます。長老から見て「反キリストの教え」をもって巡回する伝道者の働きが始まり、共同体は分裂の危機にあることを長老は真剣に危具しなければならなくなります。それで、長老は各集会に、何よりも彼ら「人を惑わす者たち」を家に入れず、挨拶もしないように、すなわち集会で語る機会を与えないように警告します。彼らに「挨拶する」人は、彼らの仲間になるのであり、彼らの偽りの所行に荷担することになると厳しく警告します。
 
 長老は最後の結びで、「あたながたに書くことはまだいろいろありますが、紙とインクで書こうとは思いません。あなたがたのところに行って親しく話し合いたいものです」と、第三の手紙で言ったのと同じ言葉を用いています(一二節)。長老の指導は書いたもの(文書)によるのではなく、直接語る形で行われたようです。長老は書くことはあまり得意ではなかったのかもしれません。
 
 最後に「あなたの姉妹、選ばれた婦人の子供たち」からのよろしくの挨拶が加えられて、手紙は結ばれます。この「あなたの姉妹、選ばれた婦人」は今長老がいる集会を指しています。ヨハネ共同体では、各地の集会はお互いに姉妹として対等で親しい交わりを形成していたようです。
 
 第二の手紙の書き方はきわめて一般的で、どの集会に宛てられたものとしても読むことができます。同じ文面の手紙が共同体の各集会に送られた可能性があります。おそらく長老は「惑わす者たち」の活動を封じるために各地の集会を訪問しようとして、その予告としてこの手紙を各集会に送った(あるいは回状として回した)のではないかと推察されます。宛先が固有名詞ではなく「選ばれた婦人」という象徴的な用語になっているのもそのためであると考えられます。

共同体の分裂と長老の対応

 長老の必死の努力にもかかわらず、亀裂は深まり、ついに一部の者たちは共同体の交わりから出て行きます(T二・一九)。ある意味で共同体は分裂したのです。
 
 「ある意味で」と言ったのは、この場合「分裂」の実情が曖昧であるからです。ある組織的な団体から一部の構成員が出て行って別の組織を作ったのであれば、それははっきりと「分裂」です。しかし、ヨハネ共同体というのは、教会とか教団というような組織体ではなく、どの教会や集会の所属員も自由に長老ヨハネの教えに接することができる開放的で流動的な交わり《コイノーニア》であったと見られます。
 
 したがって、その交わりから一部の者が出て行ったとしても、それは厳密な意味での「分裂」(組織の分裂)ではなく、交際をやめるという程度のものであると見られます。長老は組織の分裂とか崩壊を恐れているのではなく、共同体の交わりから出て行った者たちの「偽りの教え」が、共同体全体の信仰を誤りに導き、地域(この場合は小アジア)のキリスト者共同体全体に浸透することを恐れているのです。
 
 その危機に際して、長老が共同体に残っている者たちに、正しい信仰にとどまるように説き勧めるために書いた勧告の書が「第一の手紙」です。これは手紙というよりは長老の説教です。その内容は「ヨハネの手紙講解」として別に扱わなければなりませんが、ここではその成立の事情だけに触れておきます。
 
 この書の中で長老はしきりに「わたしは書いた」とか「わたしは書いている」と繰り返しています(一人称単数形の「書く」という動詞は13回出てきます)。普段書くよりも直接語ってきた長老が、この多くの集会に緊急に対応しなければならない危機に際して、思いあまって慣れない筆を執っている姿が思い浮かびます。本書は、共同体の各集会への回状として、特定の宛先なしで始まります。挨拶部分はあったのかもしれませんが、集会での朗読用にそれを抜いた形で保存されたと見られます。

 手紙が口述筆記による可能性もあります。長老が口述して筆記させているとしても、「わたしは書いている」という表現と矛盾しません。

 長老は読者に「子たちよ」とか「若者たちよ」と呼びかけています。これはラビが弟子たちに呼びかけるときの言い方です。長老の教え子である読者は、長老が「わたしが」書いていると言えば、それだけでその文の重さ(権威)を十分理解するはずだという気持ちが感じられます。その調子は、議論して説得しようとするのではなく、普段教えていることを繰り返し宣言するという性質のものです。本書の繰り返しの多い単調な文体は、老人に典型的な文体であると見る研究者もいますが、長老の説教の調子を反映していると見てよいでしょう。

偽りの教え

 では、長老がその影響を恐れている「偽りの教え」とはどのような教えでしょうか。長老はすでに第二の手紙で、「人を惑わす者たち」のことを「イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表そうとしない」者たちであると説明していました。長老はこの第一の手紙の中で、彼らの偽りの教えをさらに詳しく描いています。詳細は講解に委ねなければなりませんが、ここで概略を見ておきます。

 長老はこの手紙の二箇所で「偽り者」について述べています。二章(一八〜二五節)と四章(一〜六節)です。二章(二二節)では「偽り者とは、イエスがメシア(キリスト)であることを否定する者でなくて、誰でありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです」と言っています。そして、同じことを四章(二節)では「イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです」と、逆の方向から同じことを述べています。
 
 長老はこの手紙全体で繰り返し繰り返し、イエスをメシア・キリスト、神の子と信じ告白することが正しい信仰であって、イエスが肉となって(人間となって)現れた御子であることを否定する者は「偽り者」であり、「反キリスト」だと決めつけています。長老の主張の強調点は、完全な意味で人間であるイエスが神の子であり、救済者たるキリストであるという点、すなわちイエスとキリストの同一性にあります。
 
 「偽り者」は、神の子キリストを信じないのではありません。ただ、人間であるイエスが直ちに神の子キリストであることを否定するのです。イエスはヨセフとマリアの子であり、一人の人間に過ぎない。たしかにイエスに神の霊が降り、神の子キリストはイエスを通して語り働いたが、キリストは霊的存在であって苦しむことはできないのであるから、イエスが十字架につけられる前にイエスを去って天に帰った。十字架の上で苦しんだのは人間イエスであって、キリストではないとするのです。人間イエスと神の子キリストを別の存在として分離するのです。これは後の時代にグノーシス主義として知られるようになる思想の一つの典型です。このような教えでは、「イエスは神の子キリストである」という信仰告白が否定されています。

 エイレナイオスは、このような教えはケリントスの教えだとし(『異端論駁』一・二六・一)、ヨハネはケリントスを論駁するためにヨハネ福音書を書いたとしています(同書三・一一・一)。ケリントスは100年前後に小アジアで活動した人物(おそらくユダヤ人キリスト教の教師)で、長老ヨハネと出会った可能性もあります。エイレナイオスは、師ポリュカルポスから聞いたこととして、エフェソの浴場でケリントスに会ったヨハネは、「真理の敵がいるから、浴場が崩れるかもしれない」と言って飛び出したというエピソードを伝えています。しかし、ケリントスに関する二世紀の教父たちの証言は混乱していて、その実像を把握することは困難です。

 パウロは信仰によって義とされるという福音の真理のために戦い、その真理を否定する律法主義者に「アナテマ」を投げつけましたが、それから半世紀近くを経て、長老ヨハネの時代には信仰による義についての論争は遙かなる過去のこととなり、決着しています。今や真理をめぐる戦いはキリスト論をめぐる戦いになっています。
 
 おそらくこの変化は、一世紀末にはキリスト信仰が当時のヘレニズム社会の上層部まで浸透し、彼らのもつ通俗的なギリシア哲学の素養がキリスト理解に影響を及ぼし初め、ヨハネから見れば「この世の霊」に惑わされたキリスト理解が現れるようになったからだと考えられます。

福音書と手紙

 ところで、長老ヨハネが共同体の危機に直面して手紙を書いたとき、すでに「福音書」は文書として存在していたのでしょうか。現在では、福音書が先に書かれ、手紙はその後で書かれたと見る見方が大勢を占めています。

 たとえば、新共同訳新約聖書注解Uの「ヨハネの手紙・序論」(松永希久夫)はこう述べています。「ヨハネの教会を襲った第一の危機とも言うべきユダヤ教との訣別の時期に福音書が記され、その後、この福音書の読み方について福音理解の誤りが生じ、異端の危機が第二の危機として襲った。これに対応するために書かれたのがヨハネ書である」。これは現在のヨハネ文書理解の大勢をよく要約しています。

 しかし、手紙の中には福音書の存在を示唆する文言はありません。福音書の記事を論拠として引用する箇所はありません。たしかに福音書と手紙の思想内容と用語や文体に共通するものがきわめて多いのは顕著な事実です。しかし、この事実は手紙の書き手がすでに存在する福音書を利用したことの証明にはなりません。その事実は、すくなくとも福音書と手紙が同じ共同体において成立したものであることを証明するだけです。さらにこの事実は両者が同じ著者から出たものであることを強く示唆しています。しかし、前後関係を証明するものではありません。
 
 先に福音書の成立の事情を見たときに述べたように、福音書はある時期に一気に書かれたものではなく、長い年月にわたる編集過程を経て成立したものです。その最終的な形は長老が亡くなった後に確定し、「ヨハネによる福音書」として文書化され流布するようになりました。手紙は明らかに長老の生存中の執筆ですから、この最終形態の福音書よりは先に書かれたことになります。
 
 では、手紙が書かれた時には、共同体において福音書の内容はどのような形で知られていたのでしょうか。それを確定することは困難ですが、説教や対話による長老の絶えざる口頭の証言活動により、福音書の内容は共同体の共通の知識となり、そのキリスト理解は共通の資産となっていたと推察することができます。もちろん、それが部分的にあるいは段階的に文書化されていたことを否定することはできません。

 ヨハネ福音書が現在の形をとるにいたるまでの過程は複雑で、研究者の間で多くの異なった説と議論があります。たとえば、「原ヨハネ福音書」というようなものの存在を想定することができるとすれば、それは手紙よりも先にあったことは考えられます。しかし、本稿では福音書の編集過程について立ち入ることはできませんので、概論にとどめます。

 このように、手紙が書かれたとき福音書はまだ生成の過程にあったとすれば、手紙が伝えている共同体の危機は、福音書の叙述にも影響を与えていることが考えられます。これは福音書講解の問題になりますが、福音書の理解にさいしてはこの観点からの検討も必要であることを示しています。
 
 福音書と手紙の関係については、その前後関係だけではなく、著者が同じであるか別人であるかも議論されています。この問題でも、現在の学界の大勢は別人説に傾いています。すなわち、神学思想の微妙な、しかし重要なズレから見て、ヨハネ福音書を最終的に現在の形に編集した弟子が、共同体の危機に際して手紙を書いたという理解です。

 岩波版新約聖書の「ヨハネの手紙解説」(大貫隆)も別人説をとっています。なお、この「解説」の「三 成立場所」についての論述で、同じような異端説に言及しているシリアのアンティオキア教会司教イグナティオスがヨハネの手紙に言及せず、この手紙の存在を最初に証言しているのが小アジアのポリュカルポスやパピアスであることから、手紙の成立地を小アジアとする説も「かなりの蓋然性があると言わざるを得ない」としています。そして、福音書の成立地をシリア・パレスチナの境界領域だとする解説者は、「ヨハネ福音書をシリアで生み出した者たちが、その後一定の事情から小アジアに移動し、そこでの新しい状況の中でヨハネの手紙が執筆されたと想定する研究者が少なくない」と述べています。このような言い方は、ヨハネ文書の成立をシリアだとする説の「ほころび」を示していると言えるでしょう。

 しかし、これまで見てきたようなヨハネ文書の成立事情からすれば、福音書と三つの手紙の著者はすべて同じ長老ヨハネとせざるをえません。「長老のわたしから」という形で、あのような内容の手紙を書くことができるのは長老本人しかありません。そして、福音書が複雑な編集過程を経ているとしても、その内容が長老ヨハネの証言の統一的な提示であるという意味で、長老の作品であり、長老がその「著者」であると言えるのであれば、福音書と手紙すべての著者は長老ヨハネ自身であるとしなければなりません。

 「ヨハネ文書」の中で「ヨハネ黙示録」だけは問題が残ります。しかし、長老がエフェソ移住後の早い時期にパトモスに流刑されたことはあり得ることであり、またその時の霊的体験を伝えたことが核となって、一世紀末の終末待望が燃えた時期に、このような黙示思想的文書が、ヨハネ共同体の周辺で成立した可能性を否定することはできません。この問題は機会を改めて別に取り扱うことにします。

  2 ヨハネ文書の正典化

長老ヨハネ以後の小アジア

 長老ヨハネはヨハネ共同体の中ではもっとも重要な指導的人物ですが、その交わりの外ではそれほど著名な人物ではなかったのではないかと見られます。ヨハネが活躍した時期には、シリアから小アジア、ギリシア、ローマにいたる地域では、使徒としてのペトロとパウロの権威がすでに確立していました。ペトロもパウロも60年代には殉教していると見られますので、ヨハネが没した90年代には、使徒としての二人の名は地域全体に十分浸透していたはずです。ヨハネが活動した時期(または少し後)に、おそらくこの地域で成立したと見られるルカの使徒言行録では、使徒と言えばペトロとパウロだけのように扱われています。

 このような状況の小アジアで、長老ヨハネの没後すぐに、弟子たちは長老ヨハネの証言を文書にまとめて、それを「ヨハネによる福音書」として地域のキリスト教世界に提供します。すでに、ペトロが伝えたイエス伝承に基づいて書かれた「マルコによる福音書」が流布していたと考えられますので、それと区別して、主の「もう一人の弟子」の証言による福音書であるという控えめな主張を掲げて、「ヨハネによる福音書」が現れることになります。
 
 この福音書はこの「もう一人の弟子」をけっして「使徒」とは呼んでいません。先に見たように、この少年弟子は「イエスが愛された弟子」ではありましたが、年少の故に「使徒」として選ばれることはなく、宣教に派遣されることもなかったからです。しかし同時に、これまでに見てきたように、この「もう一人の弟子」は、ペトロに勝るとも劣ることのないイエスの出来事の証人であることを、これも控えめに「愛弟子」の姿の中に書き込んでいます。
 
 ヨハネ共同体は閉鎖的な集団ではなく、誰でも長老の教えを聴くことができる開放的な交わりであったので、この共同体が生み出した「ヨハネによる福音書」は、比較的急速に広い地域に流布していったようです。二世紀初頭のエジプトで読まれていたことが、砂漠で発見された(二世紀初頭のものと鑑定される)パピルスの断片にヨハネ福音書の一部があることからも分かります。
 
 長老ヨハネの個人的権威によって成り立っていたヨハネ共同体の交わりは、ヨハネの没後は比較的早く解消したのではないかと見られます。しかし、彼の教えに接した多くのキリスト教界の指導的人物が、その記憶から長老ヨハネのことを語っています。長老ヨハネに関する二世紀の教父たちの証言が小アジアに集中しているという事実からも、ヨハネ共同体が小アジアにあったことが確かです。そのことは先に見た通りですので、繰り返しません。
 
 ヨハネ共同体は比較的早く解消したとしても、その影響は小アジアのキリスト教に深く刻まれることになります。彼に接した小アジアの多くの教父たちが、ヨハネを敬意を込めて「長老」とか「教師」と呼び、やがて「神学者」とも呼ぶようになります。小アジアは(シリアと並んで)もっとも重要な原始キリスト教の揺籃の地ですが、そのキリスト教の形成にとって、長老ヨハネはパウロに次いで重要な影響を与えていると言えます。
 
 その影響の中で、歴史的に興味深い出来事を数例見ておきましょう。

ヨハネ文書とマルキオン聖書

 「ヨハネによる福音書」は「ヨハネの手紙集」と一緒に一体として流布していたと考えられます。そうでなければ、第二の手紙や第三の手紙のような小書簡が後に正典に入ることはないでしょう。そうすると、あのマルキオンがルカ福音書とパウロ十書簡から成る自派の教会のための聖書を作ったのは、このヨハネ共同体が提供した「福音書と手紙」という形に触発されたのではないかと推察する可能性が出てきます。

 マルキオンについては、これまで何回かパウロ書簡の講解で触れてきました。彼はアジア州の北にあるポントス州シノペ出身のキリスト教徒で、エフェソに来てパウロの福音に接し、すっかりパウロに心酔し、過激なパウロ主義者となったと見られます。その後、ローマに出て自分の教えを説き、自分の教会を形成しますが、既成の教会からは異端としてローマから追放されます。その追放が144年ですから、彼がエフェソに来たのは二世紀前半の中頃になり、そこで福音書と手紙という形の「ヨハネ文書」に接した可能性があります。

 マルキオンがエフェソを中心とする小アジア西部に来ていたことは、スミルナの司教であるポリュカルポスがマルキオンに会ったというエイレナイオスの証言(『異端論駁』三・三・四)があります。

 マルキオンは、その教えとしては、律法とは別のキリスト信仰による義を主張したパウロの福音をさらに過激にして、イエスの神とユダヤ教律法(旧約聖書)の神は違う神だとしたのですが、その教えの基準として自分たちの聖書、いわゆる「マルキオン聖書」を作るに際しては、当時すでに「福音書と手紙」という形で流布しているヨハネ文書に触発されたのではないかと想像することができます。後に教会が信仰の基準として正典を定める努力をして、同じように福音書と使徒書簡を二本の柱とする現在の新約聖書を正典と確定するにいたるのですが、その努力は「マルキオン聖書」に対抗するためであったと言われています。もしマルキオンが「福音書と手紙」という形のヨハネ文書に触発されて自分の聖書を作ったのであれば、手紙を添えて福音書を刊行したヨハネ共同体は、新約聖書正典の形成にいたるプロセスの最初の出発点を作ったと言えます。 
 

ヨハネ文書とモンタニズム

 二世紀の小アジアのキリスト教でもう一つ見逃せない歴史的現象は「モンタニズム」(モンタノス派)の発生です。小アジアのフィルギア地方出身のモンタノスが172年に、フィルギアのムシア(エフェソ北方の山地)で預言活動を始めます。彼は聖霊によって預言の霊を与えられたとして、この世の終わりが迫っていることを預言し、この世から分離した厳しい悔い改めの生活を要求します。彼に従った二人の女性預言者、マキシミラとプリスキラもエクスタシー状態で預言し、フィルギアのペプザという村に天から新しいエルサレムが降ってきて、終末の時代がすぐに始まるとしました。

 彼らのカリスマ的預言運動は急速に拡大し、二世紀末にはローマでもモンタノス運動にどう対処するかが大問題になっていました。その論争でモンタノス派がヨハネ福音書(一四〜一六章)の「パラクレートス」を自分たちの新しい預言の源としたために、(「アロゴイ」と呼ばれる)反対派の論者はヨハネ福音書そのものの正統性を否定し、それを異端者のケリントスの著作だとする主張も行われました。そして、ヨハネの名で流布していた黙示録も、モンタノス派の主張の根拠とされているとして否定され、ケリントスの著作だとされました。
 
 モンタノス運動は聖霊によるカリスマ的な預言運動でしたが、聖霊の自由な働きを強調する点で、教会改革の運動としての面があり、当時司教制や教義の確立に向かっていた教会にとって脅威となり、教会教父からは異端の扱いを受けることになります。しかしその勢力は衰えることなく、すぐに北アフリカにも波及し、三世紀初頭には西方ラテンキリスト教の最初の大神学者といわれるカルタゴのテリトリアヌスがこのモンタノス運動に参加するにいたります。
 
 このような聖霊による黙示思想的な預言運動は、「パラクレートス」による新しい啓示を約束するヨハネ福音書と、黙示思想的な終末を描くヨハネ黙示録が流布していた小アジアでこそ成立し、燃え上がることができたと見られます。その意味でヨハネ共同体とヨハネ文書の存在は、モンタノス運動の苗床となったのかもしれません。しかし同時に、モンタノス運動に対する反発が、主流の教会内に一種のヨハネ文書アレルギーとなって残ったという一面もあるようです。

ヨハネ文書とグノーシス主義

 二世紀にはキリスト教内にグノーシス主義が盛んになります。二世紀前半には、グノーシス主義者のバシリデスがアレクサンドリアで活躍し、多くの著述と弟子を残したと伝えられています。マルキオンは140年前後にローマで教えています。マルキオンの過激なパウロ主義の背景には、世界の創造者である旧約聖書の神とイエスの父である慈愛の神を区別するグノーシス主義の影響があると見られます。そして、ほぼ同じ頃、すなわち二世紀の半ば頃、キリスト教グノーシス主義の大成者であり代表的教師であるとされるヴァレンティノスがローマで活動しています。その後、彼の弟子のプトレマイウスやヘラクレイオンらもローマを中心に活躍し、ヘラクレイオンは最初の「ヨハネ福音書注解」を書いたとされています。彼らの活動と教えに対して、使徒的信仰の継承者であることを自任する「正統」派教会からは激しい批判がなされます。その批判の集大成が、二世紀末のエイレナイオスの『異端論駁』であると言えるでしょう。

グノーシス主義については、多くの参考文献が出ていますが、
   日本語のものでは次の二書をあげておきます。
     荒井献 『原始キリスト教とグノーシス主義』 (岩波書店 1971)
     ハンス・ヨナス『グノーシスの宗教』(秋山・入江訳、人文書院 1986)
  なお、グノーシス文書のテキストと詳しい注や解説は、岩波書店版の
  『ナグ・ハマディ文書』(全四巻)に見ることができます。

 ここではグノーシス主義の複雑な体系に触れることはできませんので、ヨハネ文書(とくにヨハネ福音書)との関係に限定して見ておきたいと思います。それも、福音書以前のグノーシス主義的伝承や思想がどのように福音書の成立に影響しているかという問題ではなく、福音書成立後におけるヨハネ福音書をめぐる正統派とグノーシス主義陣営との論争をごく簡単に一瞥する程度に限定せざるをえません。
 
 たしかにヨハネ福音書の光と闇の二元論やその象徴言語には、グノーシス主義との近親性を示唆すると受け取られる要素があります。事実、ヨハネ福音書を素朴ながらすでにグノーシス主義化しつつある文書であると見る見方もあります(ケーゼマン)。それでグノーシス主義者たちが好んでヨハネ福音書を取り上げ、この福音書の象徴言語を自分流に解釈して、自分たちの思想の根拠づけに用いたのも事実です。たとえば『真理の福音』や『フィリポ福音書』などには、霊、愛、自由、知識《グノーシス》など、ヨハネ福音書に特有の用語がよく出てきて、語り方や表現にも近親性が感じられます。しかし、もちろんその思想内容は、ヨハネ文書が強調してやまないイエスとキリストの一体性とは異なる方向に向いていることは明らかです。
 
   グノーシス主義者がヨハネ福音書を特に好んで用いたのは、おもにヴァレンティノス派のグノーシス主義者たちについて言えることであって、その他のグノーシス主義者では他の福音書の方が多く引用されている事実に、ヘンゲルは注意を促しています。エイレナイオスも福音書が四つでなければならないことを論じた箇所で、一つの福音書だけを使用する派の誤りを指摘していますが、その中でヴァレンティノス派はヨハネ福音書だけを用いて、それによって誤りに陥っていると論じています(『異端論駁』三・一一・七)。ここに例としてあげた二つのグノーシス文書もヴァレンティノス派のものです。
 
 ヨハネ福音書を書いたのはグノーシス主義的異端者ケリントスであったという説があったことは、教父(エピファニウス)も言及しているところですが、エイレナイオスは、ヨハネはケリントスを論駁するために福音書を書いたのだと、ヨハネ福音書の正統性を擁護しています。先に見たように、長老ヨハネは神の子キリストが肉となって現れたことを否定する者を「偽り者」として、その誤りを論駁していますが、この「偽りの教え」は、後にグノーシス主義として現れる体系の萌芽であると見ることができます。エイレナイオスは、長老ヨハネが「偽りの教え」としたものが成熟して現れた形であるグノーシス主義と戦っていることになります。
 
 なお、長老ヨハネとゼベダイ子である使徒ヨハネを混同して、ヨハネ福音書を使徒ヨハネの著作であるする見方は、二世紀半ば頃から、正統派の教会とグノーシス主義の陣営の両方で、並行して進んでいたようです。

 ヨハネ福音書とグノーシス主義の関係については、この両分野の専門家である著者によって書かれた次の著作がよくまとめていますので、参考にしてください。
   大貫隆『ロゴスとソフィア―ヨハネ福音書からグノーシスと初期教父への道』(教文館 2001)

正典決定の過程におけるヨハネ文書

 最初期の信徒の集会では、旧約聖書が神の言葉として唯一の権威ある書でしたが、徐々に使徒たちが書いたとされる文書が集会で朗読され、教えの根拠として引用されるようになります。その中で最初に使徒の文書としてまとめられ、広く用いられるようになったのはパウロ書簡集でした。

 パウロ書簡がまとめられた経緯については、「フィレモンへの手紙」の講解(『天旅』二〇〇一年5号)で取り上げていますので参考にしてください。

 次に福音書の集成が行われて、一般の教会で広く用いられるようになります。各福音書は別の地域で異なる時期に成立しましたが、イエスの働きと教えを伝える「使徒たちの思い出」または「使徒たちの覚え書き」として重視され、比較的早くその写しが広まっていったようです。福音書は70年前後のマルコに始まり一世紀末までの期間に成立したと見られますが、二世紀初頭には四つの福音書すべてが広く流布していたことがうかがわれます。それは、一世紀末に出たヨハネ福音書の一部が、二世紀初頭のエジプト砂漠のパピルス写本にあったことや、二世紀初頭に書かれたとされる『ディダケー』に四つの福音書の内容が言及されていることからもうかがわれます。
 
 二世紀半ばになると、四福音書が一つのまとまりとして知られていたことが、殉教者ユスティノスの著書(155年頃)からも分かります。また、タティアノスが四福音書を一つの福音書にまとめて『デアテッサローン』を作ったのも、この頃(160年頃)です。このような事実から、ヨハネ福音書もこの頃にはすでに他の福音書と並んで、広く受け入れられていたことが分かります。
 
 四福音書の調和を図ったタティアノスの『デアテッサローン』は、イエスの生涯を語る年代の枠組みとして、共観福音書ではなくヨハネ福音書の枠組みを用いています。
 
 先に触れたように、二世紀後半には、モンタノス派に対する反発からヨハネ福音書をケリントスの作として拒否する人たちもいましたが、大勢はヨハネ福音書を含め四福音書をひとまとまりとして受け入れていました。その代表的論客はエイレナイオスです。彼はその著『異端論駁』(185年頃)で、天地に四つの方向があるように、福音書も四つでなければならないと論じ、ヨハネ福音書もその四つの中の一つとして、その正統性を擁護しています。
 
 そのさい、エイレナイオスは著者を「主の弟子のヨハネ」と呼び、「使徒ヨハネ」とは一度も言っていないことに注意すべきことは、先に述べました。
 
  このようにヨハネ福音書は一セクトの中で読まれている文書ではなく、偉大な教師の書として、比較的早くから主流をなす教会で広く受け入れられ、読まれていたようです。それでヨハネ福音書は、その後の正典に関する議論でも、四福音書の一つとして「全世界の教会で異議なく承認されているもの」に分類されていますが、ヨハネの手紙については、第一の手紙は福音書と共にこの分類に入れられ、第二と第三の手紙は「疑わしいもの」に分類されています。
 
  これは三世紀前半の状況をまとめて、流布している諸文書を「異議のないもの」、「疑わしいもの」、「偽作として拒否されているもの」の三つに分類したオリゲネスの報告に基づいていますが、四世紀初頭のエウセビオスの『教会史』も、ほぼオリゲネスの分類を踏襲しています。

  手紙がこのように区別して扱われたのは、おそらく、第一の手紙に発信人の名がなく、その用語や内容から福音書と同じ著者、すなわち使徒ヨハネの作とされたのに対して、第二と第三の手紙ははっきりと「長老」からとしているので、その使徒性が疑われたからだと考えられます。
 
  ある文書を正典として受け入れるかどうかの基準は、その文書の使徒性、つまりそれが使徒または使徒の直弟子(マルコとかルカの場合)から出たものかどうかによりました。ただし、使徒の名を冠していても、その内容とか成立事情(とくに成立時期)が疑わしい場合は退けられました。こうして多くの偽典が退けられました。
 
  長老ヨハネとゼベダイの子である使徒ヨハネを混同することは、すでに二世紀半ばからはじまり、三世紀や四世紀にはすっかり定着していたようですが、この混同がヨハネ福音書と第一の手紙を問題なく正典に受け入れさせ、第二の手紙と第三の手紙を疑わせたことになります。
 
  ヨハネ黙示録については、事情はやや複雑です。この黙示録はヨハネの名を冠しているので、早くからヨハネ文書の一つとして扱われていました。そして、長老ヨハネと使徒ヨハネの混同の結果、この黙示録も福音書と共に使徒ヨハネの作とされて、流布するようになっていました。二世紀半ばの殉教者ユスティノスも本書を「キリストの使徒の一人であったヨハネ」の書としています(『トリュフォンとの対話』81)。しかし、二世紀後半のモンタノス運動が、この黙示録を自分たちの新しい預言活動の根拠として用いたので、モンタノス派に反対する一部の人たちがこれを異端者ケリントスの作だとして退けたことは先に述べた通りです。
 
  モンタノス派に対する反発だけではなく、制度的教会への道を進めていた当時の教会にとって、このように黙示思想的傾向の極めて強い文書には反発するものがあったと想像されますが、それでも受け入れられたのは、それが使徒の著作だとされたからだと考えられます。エイレナイオスは、福音書と黙示録を同じ著者によるものとして受け入れています。二世紀末の西方教会の正典目録とされる「ムラトリ正典目録」もヨハネ黙示録を入れています。西方教会ではその後も黙示録の正典性は疑われることはありませんでした。
 
  東方教会では、事情はそれほど単純ではありませんでした。オリゲネスはヨハネ黙示録を「異議のないもの」に入れていますが、オリゲネスの弟子で231年頃にアレクサンドリア教校の校長になったディオニュシオスは、福音書と黙示録は別の著者ではないかと疑っています。他の弟子たちは黙示録の正典性を否定し、三世紀後半になるとアンティオキア学派の教父たちも同調して黙示録の正典性を否定しています。東方教会においても、結局367年のアタナシオス書簡によってその正典性を認められるのですが、現存する新約聖書写本の約三分の一しかヨハネ黙示録を含んでいない事実が示すように、実際には教会であまり尊重されなかったようです。そして、367年のアタナシオス書簡以後も東方では、ヨハネ黙示録を含む正典表と含まない正典表が作成されるなど、不安定な状況が続きます。
 
  こうした歴史を見ると、「ヨハネ問題」はすでに古代教会の時代から、教会を悩ませてきたことがうかがわれます。古代教会がヨハネ文書を正典として受け入れたのは、それらが使徒ヨハネの著作であるとされたからでした。しかし、現代の聖書学はその伝統を否定するに至りました。ヨハネ文書の権威はもはや、長老ヨハネと使徒ヨハネの混同から始まった伝統的な「使徒性」に依存することはできません。「主の弟子」であり、豊かな賜物に恵まれた「神学者」が、初期の聖霊の力強い働きの中で、長い証言活動の成果として生み出した文書であるという、霊的内容から出る権威によって、現代のわれわれの信仰の基準として受け入れていかなければならないと考えます。

 
 

   

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