ヨハネ文書の成立 4

  第四章 長老ヨハネの遺訓
                          
                                   ―― ヨハネの第一の手紙 ・ 翻訳と講解 ――


  はじめに ― 長老ヨハネの遺訓としての第一書簡

 ヨハネ福音書を生み出した共同体、すなわちヨハネ共同体は、福音書の他に新約聖書正典の中に含まれる三通の手紙を残しています。この三通の「ヨハネの手紙」の著者が誰であるのか、同じ著者か別の著者か、また福音書の著者または福音書の最終編集者と同じか別の人物かという問題は、議論が続いていて未だに決着はついていません。また、福音書と手紙はどちらが先に書かれたのか、三通の手紙はどの順序で書かれたのか、という成立時期の問題も解決していません。しかし、ヨハネ福音書と三通のヨハネの手紙は同じ共同体から出たものであることは確実であり、広く認められています。
 このヨハネ福音書と三通のヨハネの手紙の成立事情については、本稿『「もう一人の弟子」の物語―ヨハネ文書の成立について』の第三章「長老ヨハネとその共同体」で扱いました。ごく短い第二書簡と第三書簡については、これらの書簡の成立事情を見るところで、内容も同時に取り扱いました。三通の書簡の中でもっとも長くて内容的にも重要な第一書簡は、共同体の分裂の危機にさいして長老が各集会に呼びかけるために書いた回状であるという成立事情はそこで見ましたが、ここでその内容を講解することにします。
 このように、共同体分裂の危機に際して書き送られたこの書簡は、結果として長老ヨハネの「遺訓」となります。長老自身は決して自分の最後の近いことを意識して、この書簡を遺訓として書いたのではないでしょうが、おそらく晩年に書かれたこの書簡の後には、長老が書いた文書は伝えられていませんので、結果としてこの書簡が、世に残された長老ヨハネの最後の文書となり、キリストを信じる民に長老が最後に語りかけた遺訓となりました。これは、パウロがローマ書を書いたとき、遺言として書いたのではありませんが、結果としてローマ書がパウロの最後の文書となり、「パウロの遺言」と呼ばれるようになったのと同じです。
 これが「遺訓」であるというのは、この手紙が「遺訓文学」という類型に属する文書であると言っているのではありません。「遺訓文学」というのは、誰かが自分の主張を述べるのに、過去の著名な人物が死に臨んで語った(あるいは書き残した)言葉として著述した文書であり、一種の偽名文書です。ペトロの第二の手紙は、このような「遺訓文学」の文書です。それに対して、このヨハネ第一書簡は、そのような「遺訓文学」文書ではありません。これは長老ヨハネ自身の肉声であり、長老ヨハネが彼の長い活動の最後に残した貴重なキリスト証言の書です。わたしたちはこの書簡に、最初期の一人の比類ない証人の肉声を聴いているのです。


   このヨハネ第一書簡は、段落ごとにギリシア語原典からの翻訳と、その段落の要点を解説する略解を添えるという形で講解します。

     底本は  Nestle-Aland,  Novum Testamentum Graece,  27th Edition  (1993)  を用います。 



序言 ― 主題と目的(一・一〜四)

 1 初めから在(いま)した方、わたしたちが聞いた方、わたしたちが自分の目で見た方、わたしたちがよく見つめ、そして、わたしたちの手が触れた方、すなわち命の言葉について。―― 2 命が現されたのです。父と共にいましたが、今やわたしたちに現された永遠の命を、わたしたちは見て、証をし、あなたたちに告げ知らせます。
 3 わたしたちが見たこと、聞いたことを、あなたたちにも告げ知らせます。それは、あなたたちもまた、わたしたちと一緒に交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりとは、父との交わりであり、御子イエス・キリストとの交わりです。4 わたしたちがこれらのことを書き送るのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。


本書の主題(一・一〜二)

 この第一の手紙は、第二と第三の手紙と同じく「長老であるわたしから」書き送られた文書であると考えられますが、手紙の形式としての差出人・宛先・挨拶の部分や結びの挨拶がありません。これはおそらく、この文書がもともと各集会で読まれることを目的とした回状形式の勧告ないし説教であったからだと推察されます。
 この手紙は、いきなり本文から始まります。長老は、彼の共同体に伝えられ確立している信仰を改めて提示します。それは福音書(ヨハネ福音書)において表現されている信仰に他なりません。
 福音書(一・一〜一八)の序詩でうたわれていましたが、あの「初めに神と共にいまし、神であった」方が、肉体をとってわたしたちの間に来られたという受肉の真理が、ここで改めて提示されます。実は、これこそがこの手紙の主題であるのです。長老は、「イエスを肉体をとって来られたキリストであると言い表そうとしない」者たちが、共同体の交わりから出て行ったという事態に直面して、この手紙を書いています(二・一九)。それだけに、「わたしたちが聞いた方、わたしたちが自分の目で見た方、わたしたちがよく見つめ、そして、わたしたちの手が触れた方」という面を強調せざるをえないのです。
 本来その姿は人間の目は見ることができず、その声を聞くことはできず、触れることができない永遠の霊的実在者、「初めから在(いま)した方」が、人の姿をとって世に現れたのです。これが福音書の使信でした。長老は実際に、この方の声を聞き、自分の目で見て、手で触れたのです(原文では一節の代名詞はみな出来事を指す中性形ですが、その出来事が指し示す対象は人格的な実在ですから、あえて「方」と訳しています)。
 長老はこの方を「命の言葉」と呼びます。福音書の序詩では、この「初めから在(いま)した方」が《ロゴス》(言葉)と呼ばれていました。同時に、「彼によって成ったものは《ゾーエー》(命)であった」と言われていました。この《ロゴス》は《ゾーエー》をもたらす《ロゴス》、いや《ゾーエー》そのものであるのです。それで、ここでは一息に「命の言葉」と呼ばれることになります。
 長老は本書でこの「命の言葉について」説こうとします。こうして、本書の主題は「命の言葉」であることが、著者自身によって明示されています。しかし、その命に関わる真理の中で、とくにその命が、その声を聞き、自分の目で見て、手で触れることができるような形で世に「現された」ことが強調されます。
 そして、《ゾーエー》(命)は、(福音書における用例と同じく)ごく自然に、生まれながらの命とは別種の命であることを指し示す「永遠の命」と言い換えられて、本書の主題が福音書の主題と同じであることが示されます。そして、「父と共にいましたが、今やわたしたちに現された」方こそが「永遠の命」であるとして、その方を見、その声を聞き、自分の手で触れた者として、その出来事を証言し、「あなたたちに告げ知らせる」と宣言します。

本書の目的(一・三〜四)

 この「わたしたちはあなたたちにも告げ知らせる」(二節と三節)における「わたしたち」は、著者が「その方を見、その声を聞き、自分の手で触れた者」たちを代表して「わたしたち」と言っています。「あなたたち」は、「わたしたち」の証言を聞く人を広く指しています。特定の範囲の人たち(たとえば異邦人など)に限定する必要はないでしょう。
 長老は、この証言をする目的を、「あなたたちもまた、わたしたちと一緒に交わりを持つようになるためです」と書いています。ここの原文は「わたしたちと交わりを持つようになるため」とも訳せますが、「もまた」という表現があることと、以下に続く説明の文からして、ここは「(この証言を聞く)あなたたちもまた、わたしたちの仲間として、(証言する)わたしたちと同じ種類の交わりを持つようになるため」という意味であると理解すべきでしょう。この証言活動の集大成が福音書です。
 では、「わたしたちの交わり」とはどういう内容の交わりであるのかが、続く文で説明されます。それは「父との交わりであり、御子イエス・キリストとの交わり」です。「父との交わり」と「御子イエス・キリストとの交わり」は、別の交わりではなく一つです。わたしたちは「御子イエス・キリストとの交わり」に入ってはじめて、「父との交わり」を持つことができるのです。キリストにあってはじめて、わたしたちは御霊によって「アバ、父よ」と呼び、子として父との交わりを持つことができるのです(ローマ八・一五)。これは、福音書(一四・六)が「わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことはできない」と言っていることです。
 長老は改めてこの文書を書き送る目的を、「わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです」と述べます。ここを「あなたたちの喜びが満ちあふれるようになるため」と読む写本もあります。たしかに、こう読む方が理解しやすいようです。しかし、理解しにくい読み方が理解しやすい読み方に変えられるという写本の傾向からすると、「わたしたちの喜び」の方が原文であると考えられます。著者は、「わたしたちが」これを書き送ることを強調した上で(原文には強調の代名詞が用いられています)、あなたたちがこの証言を受け容れてくれることによって、書き送る「わたしたちの」喜びが満ちるのだと言っていることになります。
 あるいは、書き送る「わたしたち」と聞く側の「あなたたち」が、この文書の語りかけによって、同じ一つの信仰に達して、書き送る側と聞く側とが新しい一つの交わりを形成して、その「わたしたちの」喜びが満ちるようになることを願っているとも解釈できます。この手紙が、共同体の分裂(二・一九)に際して書かれたものであることを考慮すると、この解釈も考えすぎではないと思われます。


第一部 光の中の歩み  (1章5節〜2章17節)

書簡の区分

 ここから本論に入りますが、この長老ヨハネの勧告の書簡は、長老が日頃説教で語っていることをそのまま書き記して書簡にしたような文体で、論文のような明確な構成を取っていません。同じ主題と用語が繰り返され、議論は鎖のようにつながり、螺旋状に回りながら、先へ進んでいきます。それで、本書を区分してその構成を語ることは困難です。この講解では、便宜上、前書き(一・一〜四)と結び (五・一三〜二〇)を除く本体部分を、一応主要な関心が貫かれていると見られる次の三つの部分に分けて講解を進めていきます。

 第一部「光の中の歩み」     (1章5節〜2章17節)
 第二部「反キリストへの警戒」   (2章18節〜3章24節)
 第三部「神の愛に生きる」    (4章1節〜5章12節)


神は光である(一・五 〜 二・二)

 5 わたしたちがこの方から聞いてあなたたちに告げ知らせる使信とは、神は光であって、神の内には闇はまったくないということです。 6 もしわたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩んでいるのであれば、わたしたちは偽りを言っているのであり、真理を行っていません。
 7 しかし、もしわたしたちが、神が光の中にいますように、光の中を歩むならば、わたしたちは互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪からわたしたちを清めてくださいます。 8 もしわたしたちが自分には罪がないというならば、わたしたちは自分を欺いているのであり、わたしたちの中に真理はありません。
 9 もしわたしたちが罪を言い表すならば、神は信実で義なる方ですから、わたしたちの罪を赦し、すべての不義からわたしたちを清めてくださいます。 10 もしわたしたちが、罪に陥ったことがないと言うならば、わたしたちは神を偽り者としているのであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。
 2 1 わたしの子たちよ、わたしがこれらのことを書き送るのは、あなたたちが罪に陥らないようになるためです。また、もし誰かが罪に陥っても、わたしたちには父のみもとに弁護者がいてくださいます。すなわち、義なる方、イエス・キリストです。 2 この方こそわたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪のための贖いです。


神は光である(一・五〜六)

 長老は自分が直接接したイエスから教え聞かされこと、さらに復活者イエスとの交わりの中で教え示されて説いてきたことを、「わたしたちがこの方から聞いてあなたたちに告げ知らせる使信」と表現し、その長い生涯で受けた啓示の内容を、「神は光である」という一文に要約して宣言します。そして、その事実を、裏側から「神の内には闇はまったくない」と表現します(五節)。
 光と闇の対立は福音書の主題でした。福音書は、光と闇という二つの相容れない領域の対立を枠組みとして救済を語ってきました。闇の領域に閉じこめられている人間が、神から遣わされた御子によって、光の領域に移されることが救いでした。それは、死の領域から命の領域に移されることでした。
 「神は光である」という使信は、きわめて実践的な意味を持つ使信です。御子であるイエスによって光の領域に移されたと言い表す者が、光の領域で神との交わりを持っていると言いながら、その歩みがなお闇の中にあるならば、すなわちその実際の行動と生活が光に背き、闇の領域に属することであるならば、光の領域にいるとか、神との交わりを持っているという告白は偽りであり、「真理を行っている」のではありません(六節)。
 「神は光である」という真理の前で、わたしたちがどのように歩むかが、六節以下一〇節までの各節ごとに、「もしわたしたちが・・・・するならば」という形で問題にされます。

御子イエスの血が罪を清める(一・七〜一〇)

 このように語るとき、長老の念頭には、長老が「反キリスト」と呼ぶ、交わりから去っていった者たち(二・一八〜一九)のことがあったのかもしれませんが、ここではあくまで原理として語られています。「神は光である」と言い表す者が、その告白通り光の中を歩むならば、すなわち神の命を身いっぱいに受けて、その命に導かれて実際の行いを進めて行くならば、「わたしたちは互いに交わりを持ち」、その交わりが妨げられることはないはずです(七節前半)。
 ところが、実際には人間は弱い者ですから、罪に陥っています。罪は神の御心に反する行為であり、神との交わりを妨げます。それだけでなく、罪は人の間の交わりを妨げ破壊します。長老は、共同体の交わりが人間の罪によって妨げられ破壊されている現実を見つめているのでしょう。それを克服する道を説かないではおれないのです。神は、罪を行わざるをえない弱い人間が、光の中で交わりを維持することができるように、罪を克服する道を備えてくださいました。それが「御子イエスの血」です(七節後半)。
 わたしたちが光の中を歩む限り、「御子イエスの血がすべての罪からわたしたちを清めてくださる」ので、人間的な弱さから避けられない罪も清められて、交わりを妨げることなく、神が望まれる交わりが実現します。「すべての罪」というのは、御子イエスの血が清めることができない罪はないことを言っています。神の子であるイエスが十字架上に死なれたのは、わたしたちを罪の支配力から解き放つためであったという「キリストの血による贖い」が、ここでは光の中での交わりの維持という文脈で用いられています(七節全体)。
 その上で、長老は共同体の各員に、自分が罪を行う弱い存在であることを認めて、「御子の血による清め」を受け、互いの間の交わりを維持するように呼びかけます。自分には罪はないとして、相手を裁く心が交わりを破壊します。長老は、共同体全体を「御子の血による清め」の場に置こうとします(八節)。
 このような「御子の血による清め」を備えてくださった神の前で、わたしたちの態度が問題にされます。「もしわたしたちが罪を言い表すならば」(九節)の場合と、「もしわたしたちが罪に陥ったことがないと言うならば」(一〇節)の場合です。
 「もしわたしたちが罪を言い表すならば」の場合には、「神はわたしたちの罪を赦し、すべての不義からわたしたちを清めてくださいます」と宣言されます。― ヨハネにおいては「すべての不義は罪です」(五・一七)。― そして、その根拠として、「神は信実で義なる方ですから」と、神の信実と神の義があげられます。神は御子イエスを世に遣わし、その十字架の死によってすべて信じる者を赦すと語られたのですから、その福音の言葉通りに、罪を認めて言い表す者を赦されます。この「お言葉通りに」が神の信実です。そして、(パウロが明らかにしたように)不義なる者を義とする働きが「神の義」です(九節)。
 それに対して「もしわたしたちが、罪に陥ったことがないと言うならば」の場合は、「キリストはすべての者のために死なれた」という、福音の中に示された神の言葉を偽りとすることになります。自分には罪がないと言い張ることは、自分のためにはキリストが死ぬ必要はなかった、すなわち自分はキリストの贖いなしで、自分で義であるうるとすることであり、そのような自己義認の高ぶりは、福音に示された神の言葉を拒否することに他なりません(一〇節)。

罪の贖いとしてのキリスト(二・一〜二)

 ここ(二・一)で長老は、共同体の一人ひとりに「わたしの子たちよ」と呼びかけます。この呼び方は、ユダヤ教のラビが弟子に語りかけるときの呼び方です。長老は、自分が形成した共同体に向かって、改めてこの手紙を書く意図を説明します。すなわち、この手紙は「あなたたちが罪に陥らないようになるため」だというのです(一節前半)。  

     本書は新約聖書の中で、「罪」という用語が(その長さの割に)もっとも多く出てくる文書です。本書では名詞形の「罪」《ハマルティア》は単数形と複数形の両方でよく出てきます。とくにその動詞形の《ハマルタノー》は、ローマ書の7回に比べてもこの短い書簡に10回用いられており、その頻出ぶりが目立ちます。この動詞は普通「罪を犯す」と訳されていますが、こう訳すと規範に違反する個々の行為を指す感じが強くなります。しかし、本書では罪の中に生きる生き方とか状態を指していると考えられます。この状態を表現する適切な日本語が見当たりませんので、本講解では一応「罪に陥る」と訳しておきます。場合によっては「罪の中にいる」と訳してもよいでしょう。

 このように手紙の意図を説明した上で長老は、キリストの民は罪から解放された状態で歩むことができるように、そのための方法が神によって備えられていることを思い起こさせます。すなわち、もし誰かが罪に陥っていても、わたしたちには、その罪から解放して引き上げてくださる方、イエス・キリストが、父のみもとに「弁護者」(原語は《パラクレートス》)としていてくださるのです。
 ところで、罪に陥った者のために執り成し、弁護して、父との交わりに引き上げてくださる方は、御自身が父との全き交わりにある義人でなければなりません。それで、イエス・キリストに「義なる方」という称号が添えられています。(一節後半)。

     ここで父のみもとにいますイエス・キリスト、すなわち復活者イエスが《パラクレートス》と呼ばれています。福音書(一四・一六)では、イエスが世を去られた後に弟子たちのもとに遣わされる聖霊が「別の《パラクレートス》」と呼ばれていました。本来はイエス・キリスト御自身が、《パラクレートス》(共にいて助けてくださる方)なのですが、イエスが世を去られた後では、聖霊が地上でその役目を果たしてくださるという予告でした。それで、福音書の講解では「別の同伴者」と訳しましたが、本書では父のもとにあって、罪に陥った者のために執り成し、父のもとに引き上げてくださる方として(ローマ八・三四参照)、この用語の法廷的な意味を出して「弁護者」と訳すのが適切でしょう。

    「弁護者」イエス・キリストのことを語った長老は、この方がわたしたちを罪から解放してくださることができる根拠を思い起こさせるために、「この方こそわたしたちの罪のための贖いです」と述べます(二節前半)。いまは父のみもとにあってわたしたちを弁護してくださっている方イエス・キリストは、地上ではわたしたちのために、わたしたちの罪のために死んでくださり、わたしたちの罪の贖いとなってくださった方です。キリストの十字架こそ、わたしたちの罪が贖われて、罪に陥っていたわたしたちが父との交わりを回復することができるように、神御自身が備えてくださった場所です。
 この「わたしたち」は、直接には今長老が語りかけている共同体の人たちを指していますが、キリストの十字架が罪の贖いとして、神との交わりを回復する場であることは、特定のグループの人たちだけに与えられた場ではなく、すべての人のためです。このキリストの福音の使信を、長老はすぐに付け加えないではおれません。長老はすぐに続けて、「いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪のための贖いです」と言い直します(二節後半)。
 ここで長老が「罪の贖い」という表現を用いていることが注目されます。実は、福音書には「罪の贖い」という表現は出てきません。「贖い」という思想もきわめて希薄です。手紙の方にだけ出てくることから――他に「来臨」《パルーシア》という用語と思想もそうですが――、手紙の著者は福音書の著者とは別人であるという見方がなされます。しかしこの違いは、福音書と書簡という類型の違いと、成立状況の違いから説明できることであって、必ずしも著者が別人であることを証明するものではありません。手紙においては、周囲の主流のキリスト宣教に広く伝承されており、長老も若いときから共有している伝承にある「贖い」とか「来臨」の用語と思想を用いていると見られます。

     ここで長老はキリストを「わたしたちの罪の《ヒラスモス》」だと述べています。この語は新約聖書ではこの書簡に2回出てくるだけです(ここと四・一〇)。《ヒラスモス》というのは、一般の祭儀的な宗教においては神の怒りを宥めるための供え物を指す用語ですが、聖書では人間が神を宥めるために献げる供え物ではなく、神が備えてくださる罪の清めのためのいけにえを指しています。または、神の贖いの働き(人を罪の束縛から解放する神の働き)そのものを指しています(EDNTのローロフ)。ここでは文脈からも後者の意味に理解すべきでしょう。それで(解放という意味で)「贖い」と訳しています。これと同系の用語に《ヒラステーリオン》(ローマ三・二五、ヘブライ九・五)があります。この語も、罪のための供え物を指すのではなく、罪の贖いが為される場所(贖罪所、贖罪の座)を指すことについては、拙著『パウロによる福音書―ローマ書講解T』104頁の注記を参照してください。なお、パウロがユダヤ教内のキリスト宣教において伝承されているこの用語を使っていることを理由に、ローマ書がパウロの著作でないと言えないように、本書が一般に伝承されている用語を使っていることを理由に、長老が著者であることを否定することはできません。


  誡めを守る者(二・三〜一一)

 3 さて、もしわたしたちが彼の誡めを守るならば、そのことによってわたしたちは彼を知っていることが分かります。 4 彼を知っていると言いながら、彼の誡めを守らない者は、偽り者であり、そのような者の中に真理はありません。 5 しかし、彼の言葉を守るなら、まことにその人の中に神の愛が全うされ、わたしたちは彼の内にいることを悟るのです。6 彼の内にとどまっていると言う者は、あのお方が歩まれたように、その人自身も歩まなければなりません。
 7 愛する者たちよ、わたしはあなたたちに新しい誡めを書き送るのではなく、あなたたちが初めから受けていた古い誡めです。古い誡めというのは、あなたたちがすでに聞いた言葉です。8 でも他面、わたしはあなたたちに新しい誡めを書き送っているのです。それは、彼においてもあなたたちにおいても真実です。闇は過ぎ去り、まことの光がすでに輝いているのです。9 光の内にいると言いながら自分の兄弟を憎む者は、いまだに闇の中にいるのです。10 自分の兄弟を愛する者は、光の中にとどまっているのであって、その人の中につまずきはありません。11 しかし、自分の兄弟を憎む者は、闇の中におり、闇の中を歩んで、自分がどこへ行くのか知らないのです。闇がその人の目を見えなくしたからです。


誡めを守る者は主を知る (二・三〜六)

 この段落、とくに最初の部分(三〜六節)に繰り返し出てくる「彼」という代名詞が、神を指すのかイエスを指すのかが、解釈上の大きな問題となります。欧米の翻訳ではみな、「彼」という代名詞を用いて訳していますが、日本語では神とかキリストを「彼」というのは馴染まないので、「彼」という代名詞を用いない傾向があります。文語訳と口語訳(協会訳)では「彼」で訳されていますが(この私訳でも)、新改訳では神(一部キリスト)、新共同訳では神(一部イエス)と訳されています。
 実は一・五〜六でも「彼」という代名詞がよく用いられていたのですが、そこでは「神」という名詞も出てきますし、「彼の子」という表現もあって、文意から「彼」が神を指すのかイエスを指すのかは比較的容易に判断できました。しかしここでは、「神の愛」という表現があるだけで、それ以外はすべて「彼」が用いられていて、解釈に委ねられています。強いて区別を求めるならば、六節で「彼」ではなく「あの方」と特定の人を指す代名詞が用いられているので、そこを「イエス」または「キリスト」と訳し(「あの方」がイエスを指す用例は本書に他に五例あります)、他はすべて「神」と訳すことになります(新共同訳、新改訳)。
 この段落の「彼」を神と理解する理由の一つは、著者が批判している反対者たちが「彼を知っている」と言っていることです(四節)。共同体から出て行った人たちは神を知る知識《グノーシス》を誇る人たちだから、ここの「彼」は神でなければならないという理由です。しかし、この段階でグノーシス主義者との対決を前提にすることは問題があります。逆に、著者が「誡め」というときには、主イエスの誡めを念頭において語っているので、「彼を知っていると言いながら、彼の誡めを守らない者」(四節)と非難するときの「彼」は両方ともイエスを指しているとも理解できます。「彼の内にとどまる」も、ヨハネにおいては基本的に主イエスの内にとどまることを指しているので、六節の「彼の内にとどまる」の「彼」と「あのお方」とは、両方ともキリスト・イエスを指すと理解することができます。
  ヨハネにおいては神と主イエスは重なっています。ヨハネは、「彼」でイエスを指しながら、そのイエスとの関わりを語ることによって神との関わりを語っているのです。そしてこの段落で、「彼の誡め守る」ことが、彼を知り、彼の内にとどまることと同じであり、彼の誡めを守ることなしには、彼を知り、彼の内にとどまることはあり得ないとし、イエスの誡めを守らず、イエスが歩まれたように歩まない者は「偽り者」だと強く主張しています(三〜六節)。
 ここで、彼の言葉(=誡め)を守る者には「神の愛」が全うされると言っていますが(五節)、この「神の愛」を「神からの愛」とする理解と、「神への愛」とする理解の両方が可能です。ヨハネにおいては、基本的には「神の愛」は神が人を愛される愛を指すので(四・一〇参照)、ここも「神からの愛」と理解するのが順当でしょう。わたしたちが主イエスの誡めを守るとき、わたしたちを愛してくださった神の愛がその人の中に全うされて、愛の交わりの現実の中で、わたしたちは自分が「彼の内にいる」ことを悟ることになります。子の言葉を守る者を、父もその人を愛し、父と子がその人のところに来て住まわれるのです(ヨハネ一四・二三)。
 この「神の愛」を神への愛と理解するときは(たとえばNTD)、わたしたちがイエスの誡めを守るならば、神を愛することが十全に実現して、その中で自分が主イエスの内にいることが確認できるという意味になります(NTDはこの段落の「彼」を神を指すと理解しています)。
 長老ヨハネは、共同体から出て行った者たちのキリスト告白での誤りをも指摘していますが(二・二二)、それよりも以前に、主イエスの誡めを守るかどうかという実践的な問題を、真理と虚偽の判断の基準として重視しています。この傾向は、使徒以後の時代に、使徒の名を用いた書簡を書き送って、使徒たちの信仰を維持しようとした人たちと同じ傾向です。


古くて新しい誡め (二・七〜一一)

 長老は自分が委ねられている群れの人たちに、「愛する者たちよ」と呼びかけて、今自分が語っている「誡め」がどのような性格の誡めであるのかを語ります。まず、その誡めは、長老が今回新しい事態に直面して急に語り出した新奇な誡めではなく、共同体が信仰に入った当初から聞いていた誡め、信仰と共に古い基本的な誡めであることを思い起こさせます(七節)。
 その上で、同時にその誡めが、他面新しい誡めであるとします。八節の文頭に置かれている《パリン》は、「再び、重ねて」という意味と共に、「その上、加えて、他方」という意味があります。長老が今書き送っている誡めは、古い基本的な誡めであると同時に、他面、新しい状況に即して実現されなければならない「新しい誡め」だとします。その誡めを満たすことは、イエスにおいても自分たちの共同体においても等しく真理であるとして、それはイエスにおいて到来した「まことの光」が、今や信じる者たちの共同体においても輝いているからだとします。闇は過ぎ去ったのです。光が来ているのです(八節)。このことは、福音書においても繰り返し宣言されていました。
 ここで長老が光とか闇という象徴を用いて語ろうとしている事柄自体が表に出てきます。長老は、兄弟を憎む者は闇の中におり、彼の誡めを守っていない者だとし、兄弟を愛する者こそ光の中にとどまり、彼の誡めを守っている者だとします(九〜一一節)。
 長老の念頭には、共同体の交わりから出て行った者たちのことがあるのでしょうが、ここではあくまで一般原理のこととして兄弟愛が語られています。キリストの共同体に所属する者はみな、「自分は光の内にいる」と言っています。そう言いながら、同じキリストの民に所属する兄弟を憎む者は、実際にはまだ闇の中にいるのであり、「光の内にいる」という告白は偽りだとします(九節)。自分の兄弟を愛する者こそ、実際に光の中にとどまっているのです。その人は実際に光に照らされているので、その信仰の歩みにおいて、つまずき倒れることはありません(一〇節)。
 それに対して、自分の兄弟を憎む者は、闇の中におり、闇の中を歩んでいるのです。ですから、闇がその人の目を見えなくしていて、自分がどこへ行くのかが分かりません(一一節)。この表現は、自分はまことの知識《グノーシス》の光をもっているので、自分がどこから来て、どこへ行くのかを知っていると誇る人たちへの批判でしょう。
 長老は「新しい誡めを書き送っている」と言いながら、それがどういう誡めであるかを説明することなく、兄弟を愛するかどうかを問題にしています。すなわち、兄弟を愛することが「新しい誡め」だとしていることが分かります。福音書においても、兄弟を愛することが「新しい誡め」とされていました(ヨハネ一三・三四)。今、共同体の分裂の危機に直面して、長老は兄弟愛を「新しい誡め」として書き送ります。


  世を愛してはならない(二・一二〜一七)

 12 子たちよ、わたしがあなたたちに書き送るのは、あなたたちの罪過が彼の名のゆえに赦されているからです。
  13 父たちよ、わたしがあなたたちに書き送るのは、あなたたちが初めからいます方を知ったからです。
 若者たちよ、わたしがあなたたちに書き送るのは、あなたたちが悪しき者に打ち勝っているからです。
 14 子供たちよ、わたしがあなたたちに書き送ったのは、あなたたちが父を知ったからです。
 父たちよ、わたしがあなたたちに書き送ったのは、あなたたちが初めからいます方を知ったからです。
 若者たちよ、わたしがあなたたちに書き送ったのは、あなたたちが強くて、神の言葉があなたたちの内にとどまっており、あなたたちが悪しき者に打ち勝っているからです。
 15 世も世にあるものも愛してはなりません。世を愛する者があれば、父の愛はその人の内にはありません。16 すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生きざまの驕りは、父からのものではなく、世からのものだからです。17 世と世の欲は過ぎ去ります。しかし、神の御旨を行う者はとこしえにとどまります。

わたしが書き送るのは(二・一二〜一四)

 ここで長老は、このような書簡を共同体に書き送る心境を吐露します(一二〜一四節)。長老は共同体の様々な年代や立場の者たちに呼びかけます。しかし、呼びかけの用語の違いはあまりこだわる必要はないでしょう。長老はそれぞれの文で共同体全体に呼びかけているのです。長老は「わたしがあなたたちに書き送る」という句を六回も繰り返し、「〜だからである」という句を続けて、この書簡が意味をもちうる前提として、共同体の信仰の質を思い起こさせます。前半(一二〜一三節)では「書き送る」は現在形ですが、後半(一四節)では過去形で、前半で言ったのとほぼ同じことを繰り返しています。
 長老は共同体に向かって、最初に、この書簡を書き送るのは「あなたたちの罪過が彼の名のゆえに赦されているからです」と言います(一二節)。「赦し」《アフェシス》と「赦す」《アフィエーミ》は、最初期の福音宣教の特色ある重要な用語です。共観福音書はこの用語をよく用いています。とくにルカ文書においては「罪の赦し」は福音の中心的な内容をなしています。ところが、パウロはこの用語をほとんど用いていません。ヨハネ福音書も、復活者イエスが弟子を派遣されるところ(二〇・二一〜二三)以外には用いていません。ただ、パウロ名書簡になると、「贖い」と一緒に出てくるようになります。このヨハネ書簡でも二回(ここと一・九)出てきます。福音書に出てこない用語を使っているからといって、手紙の著者と福音書の著者は別だという議論が成り立たないことは先に述べた通りです。長老は、この手紙を書く段階では、周囲の主流の共同体の伝承を活用し、その用語を使って書いています。
 ただ、「赦し」《アフェシス》という語は、もともと(七十人訳ギリシア語聖書では)「解放」という意味が強く、「罪の赦し」は本来、罪の支配から解放されて生きることを意味します。長老もここでこの意味で用いていると理解すべきでしょう。罪過は赦されているのだから、裁きのことは心配しなくてもよいと言っているのではありません。あなたたちは罪の支配から解放されており、神の御心に従って生きることが出来るようにされているのだから、わたしは光の中に歩むように励ますこの手紙を書いているのだということです。
 次に長老は、「あなたたちが初めからいます方を知ったからです」と書きます(一三節前半)。「初めからいます方」とは復活者イエスのことです。長老は自分が若いときに接したイエスが復活して、今は神と共に永遠に生きておられる方であることを体験しています。そして、それゆえに復活者イエスは天地が造られる前から神と共にいます方であること、すなわち「初めからいます方」であるという深遠な思想に到達し、それを福音書の序詩(一・一〜一七)で美しく歌い上げています。福音書と書簡のどちらが先であっても、長老とヨハネ共同体がこの告白に生きていたことは事実です。このように、イエスを知ったことは「初めからいます方を知った」ことですから、天地や罪の起源についての人間の作り話に惑わされることなく、ただイエスに固着しているように励まします。
 さらに長老は、この手紙を書くのは「あなたたちが悪しき者に打ち勝っているからです」と言います(一三節後半)。神に対抗し、人を悪とか罪に誘う霊的存在を「悪しき者」と呼ぶことはイエスの語録にあり、主の祈りでも「悪しき者から救い出してください」と祈られています。ヨハネ福音書にはこの表現は出てきませんが、手紙では長老は周囲の共同体の伝承表現を用いて、イエスに結ばれている者は、罪に誘う者に打ち勝っている者であることを思い起こさせ、義に生きるように励まします。
 「わたしは書き送る」を三回繰り返して書き送りたい主題を掲げた長老は、その主題が胸中に溢れ、すでに書き送った感じになり、「わたしは書き送った」と言って、その内容を繰り返します(一四節)。そのさい、「初めからいます方を知った」ことはその方によって「父を知った」ことであるとし、「悪しき者に打ち勝った」ことは、「あなたたちが強くて、神の言葉があなたたちの内にとどまっている」からだと、付け加えています。


世を愛してはならない(二・一五〜一七)

 このように、この手紙を書き送る理由を箇条書きのように並べた長老は、それらを要約するかのように、普段から共同体の人たちに訴えてきたことを書き記します。それは、「世も世にあるものも愛してはならない」ということです。ヨハネにおいては、世《コスモス》は神と対立し、神が支配される光と命の領域とは相容れない闇と死の領域です。従って、世を愛する者は当然父を愛する愛はありません。また、父との関わりがないのですから、父からの愛もありません。ここの「父の愛」は、父への愛と父からの愛の両方を含んでいます(一五節)。
 ここで長老が「すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生きざまの驕り」と呼んでいるものは、パウロが「肉」《サルクス》とか「肉の欲」と呼んでいるものとほぼ同じです。パウロにおいては、肉《サルクス》は、自己中心の生まれながらの人間本性であり、肉の欲はその本性が欲求するものであって、それは神から賜る御霊の命の質と相反し、御霊が欲するところと逆方向に向かうものでした(ガラテヤ五・一七)。このようにパウロにおいては御霊と肉という人間内部で対立する命の質として描かれていたものが、ヨハネでは「神からのもの(=神に属するもの)」と「世からのもの(=世に属するもの)」の対立として描かれています(一六節)。
 そして、「世と世の欲は過ぎ去ります。しかし、神の御旨を行う者はとこしえにとどまります」と言って、世を愛することと父を愛することの結幕がいかに重大かを語ります(一七節)。世はいつまでも続くものではありません。世と世における栄光を追い求める者は、世の有為変転と共に、時には栄えますが、何時かは必ず衰え滅びます。それに対して、神はとこしえにいまし、最終的に勝利される方ですから、その神の命をいただき、その命に生きることによって神の御旨を追求する者は、世の有為変転を超えて、神の命の領域に「とこしえにとどまる」ことになります。長老はこう言って、世を愛するのではなく、父を愛して、光と命の領域にとどまるように説き勧めます。

     ヨハネ文書(福音書と書簡)における「世」という用語については、『天旅』二〇〇六年5号24頁の「特注 ― ヨハネ福音書における『世』」を参照してください。

 

第二部 反キリストへの警戒   (2章18節〜3章24節)

 
反キリストの出現(二・一八〜二七)

 18 子たちよ、終わりの時が来ています。反キリストが来るとあなたたちが聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れました。このことによって、わたしたちは終わりの時が来ていると知るのです。19 彼らはわたしたちから出て行きました。しかしむしろ、彼らはわたしたちに属する者ではなかったのです。もし彼らがわたしたちに属する者であれば、わたしたちのもとにとどまっていたことでしょう。しかし出て行ったのは、彼らすべてがわたしたちに属する者でないことが明らかになるためでした。
  20 けれどもあなたたちには、聖なる方からの油が注がれており、あなたたちは皆分かっています。21 わたしがあなたたちに書き送ったのは、あなたたちが真理を知らないからではなく、あなたたちが真理を知っており、偽りはすべて真理から出たものでないことを知っているからです。
 22 偽り者とは、イエスはキリストでないと言って否認する者でなくて誰であろうか。このような者こそ反キリストであり、父と御子を否認する者です。 23 御子を否認する者はすべて父を持たず、御子を言い表す者は父をも持つのです。24 あなたたち自身が初めから聞いていたことが、あなたたちの内にとどまっているようにしなさい。あなたたちが初めから聞いていたことがあなたたちの内にとどまっているならば、あなたたち自身もまた御子と父の内にとどまることになるのです。25 これこそ彼がわたしたちに約束した約束、すなわち永遠の命です。
  26 以上のことを、あなたたちを惑わす者たちについて、わたしはあなたたちに書き送りました。27 しかしあなたたち自身は、彼から受けた油が内にとどまっているので、誰かがあなたたちを教える必要はありません。むしろ、その油御自身がすべてのことについてあなたたちを教えます。それは真実であり、偽りではありません。それがあなたたちに教えたとおり、彼の内にとどまっていなさい。

反キリスト出現の予言(二・一八)
 第一部でこの手紙を書き送る目的を一般論の形で述べた長老は、ここからこの手紙を書くようになった具体的な問題を取り上げます。それは、共同体から出て行った者たちの偽りの教えが共同体の信仰を損なうおそれがあったからです。長老は、出て行った者たちの教えが誤りであることを指摘し、残っている人たちが正しい信仰にとどまるように言葉を尽くして説き勧めます。
 長老は、今や終わりの時が来ていると宣言します。それは、終わりの時に出現すると予言されていた反キリストが多く現れているから、今は終わりの時であることを知るのだとします(一八節)。この語り方から、長老が率いる共同体も、周囲の一般の共同体と同じように、反キリストの出現を含む終わりの日の預言を知っており、キリスト来臨《パルーシア》の待望を共有していたことが分かります(三・二参照)。
 では、反キリスト出現の預言とはどのような預言だったのでしょうか。実は「反キリスト」という用語はこのヨハネ書簡だけにしか出てきません(ここと二・二二、四・三、U・七)。それでこの用語を手がかりにして新約聖書における「反キリスト」の像を描くことはできませんが、新約聖書が語る終わりの日の預言には、キリストが栄光の中に来臨されて世界を裁き完成される前に、この業を妨げる勢力が出現することは、様々な表現を用いて語られています。たとえば、パウロ系の共同体では、「まず、神に対する反逆が起こり、不法の者、つまり、滅びの子が出現しなければならない」と語られていました(テサロニケU二・三)。

     このような預言の成立とその内容については、このパウロ名書簡の箇所を講解した、拙著『パウロ以後のキリストの福音』170頁以下を参照してください。

 長老は、「あなたたちが聞いていたとおり」と言って、共同体がこのような預言を聞き知っていることを前提として、終わりの日に神の業に敵対するために出現する者を「反キリスト」と呼び、イエスについて長老が語る告白に従わず、違った教えによって共同体の分裂を引き起こした教師たちこそ、まさにこの「反キリスト」だとします。したがって、長老が言う「反キリスト」は単数ではなく、複数です。「今や多くの反キリストが現れた」のです。

ヨハネ共同体の分裂(二・一九)
 長老は、最近共同体の一部の者たちが共同体の交わりから出て行って、別のグループを形成した事実を見ています。長老が「彼らはわたしたちから出て行きました」と言うときの「彼ら」は、「わたしたちが見たこと、聞いたことを告げ知らせます」とする長老の主イエスの告白(一・一〜三)を否認して、自分なりの別の救済思想を説く偽りの教師たち、長老が「多くの反キリストたち」と呼ぶ者たちです(一九節前半)。
 この教師たちについて出て行った者たちは、別の交わりを形成し、ヨハネ共同体は分裂します。しかし、これは組織の分裂ではありません。ある組織の一部の者が脱退して別の組織を作ったのであれば、それは分裂です。しかし、ヨハネ共同体はもともと組織体ではなく、目撃証人である長老のカリスマ的説教と指導の権威によって形成された自由で緩やかな交わりであったと考えられます。長老は組織の分裂を憂いているのではありません。出て行った者たちの偽りの教えの出現、すなわち反キリストの出現を憂い、彼らの偽りの教えが共同体の信仰に影響して、共同体が正しいイエス・キリストの信仰から逸脱することを恐れているのです。
 彼らが出て行ったという出来事を、長老は「彼らすべてがわたしたちに属する者でないことが明らかになるため」であったと意義づけます(一九節後半)。彼らはもともと「わたしたちに属する者」ではなかったからだとします。わたしたちと真に命の質を同じくする者であれば、わたしたちのもとにとどまっていたはずです。出て行ったのは、彼らがその霊性の奥底でヨハネ共同体のそれと違っていたからです。長老は、彼らを突き動かしている霊は自分たちの内にいます霊とは違う霊であるとしています(四・一〜二参照)。

油を注がれた者たち(二・二〇〜二一)
 ここで長老は、共同体の交わりに残っている人たちに向かって呼びかけます。二〇節冒頭の「あなたたち」は強調されています。出て行った者たちにはないが、あなたたちには「聖なる方からの《クリスマ》」があり、あなたたちは全員が事態をよく理解しているはずだとします(二〇節)。

     二〇節後半は、「あなたたちはすべてのことを理解している」と読む写本も多くあります。しかし、底本に従って、「あなたたちすべての者は理解している」と読みます。

 この《クリスマ》という用語も、新約聖書ではこの手紙に三回(ここと二七節の二回)出てくるだけです。このギリシア語は、油を塗るとか油を注ぐ行為を指す場合と、塗られた(注がれた)油そのものを指す場合があります。ここでは《クリスマ》が「とどまる」とか「教える」の主語として用いられていることから(二七節)、塗油の行為ではなく、用いられた油そのものを指すと理解しなければなりません。

     旧約聖書では王や祭司が任命されるときには「油注ぎ」の儀礼が行われました。七十人訳ギリシャ語聖書では、この油注ぎを《クリスマ》で指していますが、注がれた油そのものを指す用例もあります。終わりの日に現れる救済者も「油注がれた者」と呼ばれ、それがギリシア語で「油注がれた者」を意味する《クリストス》と訳されました。ここで長老が《プニューマ》(御霊)ではなく《クリスマ》という語を用いている動機とか意味が議論されますが、これはおそらく、「反キリスト」《アンティ・クリストイ》に対して、キリストに属する者は《クリストイ》(油注がれた者たち)であることを示唆するために、同系の《クリスマ》という用語を使ったと推察されます。なお、この《クリスマ》は、後にグノーシス主義たちが、自分たちこそ神から霊の油を注がれた者であって真の知識を持っていると誇って、この用語を好んで用いるようになります。

 長老は、「あなたたち」(強調)が受けた《クリスマ》は、彼ら(出て行った者たち)とは違い、「聖なる方」(神に属する方、御子であるイエス・キリスト)から受けたものですから、それの霊が教えることこそ真理であると保証します。
 長老は、この手紙を書くのは、真理を知らないあなたたちに真理を教えるためではなく、あなたたちがすでに知っている真理を確認し、その真理に反する教えは偽りであることを知っている者たちを励ますためです(二一節)。長老がここで「真理」と言っている内容は、すぐに続く節から分かることですが、「イエスはキリストである」という事実です。

偽りの教え(二・二二〜二三)
 長老はここで交わりから出て行った教師たちを「偽り者」と呼んで、その偽りの核心を指弾します。彼らの教えは結局「イエスはキリストでない」と言っていることになり、「主イエス・キリスト」という福音の基本的な告白を否認しているのだと、彼らの教えの本質を暴きます(二二節前半)。
 長老は「偽り者」と呼ぶ教師の主張がどのようなものであるのか、その詳細を記述していません。それで、その内容について様々な推測がなされることになります。「偽り者」は、あからさまに「イエスはキリストでない」と主張したのではないでしょう。彼らも長年キリストの民に所属してきたのであり、表向きは「主イエス・キリスト」を信じる者であるという看板を掲げていますが、しかし、彼らが説いていることを突き詰めると結局「イエスはキリストでない」と言っていることになり、そこに「偽り」があるというのです。
 「偽り者」の主張を詳しく描くことは不可能ですが、それに反対するこの手紙の内容からすると、後(二世紀以降)に「グノーシス主義」として知られるようになる教説の萌芽的な形態ではないかと推察されます。「グノーシス主義」と呼ばれる複雑な宗教思想をここで描くことはできませんが、総じて、天地を創造し義をもって裁く旧約聖書の神はユダヤ人の神であるとして低く見て、イエスが説かれた慈愛の父なる神こそ真の神であり、人間はイエスから受ける霊界の知識《グノーシス》によって眠りから目覚め、魂が真の故郷である父のもとに帰ることが救いであるとする宗教思想です。
 この傾向の思想の中で「仮現論」と呼ばれるキリスト理解があります。それは、イエスは普通の人間であるが、バプテスマを受けたときにキリストが御霊としてイエスに降り、イエスを通して働かれたが、十字架にかけられる直前にイエスから去ったとする見方です。この見方によると、十字架の上で苦しみを受けたのは普通の人であるイエスであって、キリストではないことになります。イエスとキリストは分かれており、イエスは十全な意味でキリストではないことになります。イエスの十字架は神の子キリストがすべての人の罪を負って死ぬ贖罪の出来事ではなくなります。人間イエスが完全な意味で神の子キリストであって初めて、十字架につけられたイエスが人類の救済者キリストでありうるのです。
 長老は、このような仮現論のキリスト信仰を「イエスはキリストでない」とするもとのだとして厳しく批判していると見られます。そのことは別の箇所で、「イエスを肉体をとって来られたキリストと言い表さない者は、偽り者であり、反キリストです」(U・七私訳)とか、「イエスを肉体をとって来られたキリストと言い表す霊は、すべて神からのものです」(四・二私訳―この訳については後述)と言っていることからも分かります。二世紀の伝承は、長老ヨハネと同時代のケリントスという教師がこの仮現論を唱えたとし、ヨハネはこのケリントスを真理の敵と呼んで非難したと伝えています。また、エフェソの浴場でケリントスを見かけ、「真理の敵がいるから浴場が壊れるかもしれない」と叫んで裸で飛び出したというエピソードも伝えられています。

     ケリントスの仮現論については、エイレナイオス『異端論駁』一・二六・一が伝えています。エイレナイオスは、ヨハネはケリントスに反対するためにヨハネ福音書を書いたとしています(同書三・一一・一)。エフェソの浴場のエピソードについては同書三・三・四で、エイレナイオスはポリュカルポスを引用して、そのような物語を伝えています。

 このように、イエスとキリストが一つであることを否定する者は、イエスはキリストでないと言ってイエス・キリストを否認する者であり、反キリストです。そして、こうして御子であるイエスを否定する者は、御子であるイエスを通してご自身を現された父をも否認しているのです(二二節後半)。イエスこそご自身を現すために父が世に使わされた御子、父と一つなる御子なのですから(これがヨハネ福音書の基本的な使信でした)、「御子を否認する者はすべて父を持たず、御子を言い表す者は父をも持つ」ことになります(二三節)。

すべてを教える御霊(二・二四〜二七)
 このような反キリストの偽り教えに惑わされることなく、正しいキリスト信仰に踏みとどまり、命に至るように、長老は交わりに残っている者たちを励まします。命に至る正しいキリスト信仰は、「あなたたち自身が初めから聞いていたことが、あなたたちの内にとどまっている」ことによって維持されます。「あなたたちが初めから聞いていたこと」とは、長老が親しく接した主イエスのもとで見たり聞いたりしたことを伝えた言葉、長老が初めに「わたしたちが見たこと、聞いたことを、あなたたちにも告げ知らせます」(一・三)と言っていたことです。長老は、共同体(ヨハネ共同体)に保持されているこの使信に忠実にとどまるように説き勧めます。この長老の使信は、後にヨハネ福音書という形に結集されるようになりますが、この手紙が書かれ時にはどの程度まとめられ文書化されていたかは分かりません。しかし、その使信は「初めから聞いていたこと」として、共同体の共有資産であり、各員がよく承知していることです(二四節前半)。
 その「初めから聞いていたこと」が心と告白の言葉の中にとどまり、生活の中に生かされているならば、その人は「御子と父の内にとどまることになる」ので、永遠の命に生きる者となります。御霊による御子キリストとの交わり、そのキリストにあって実現する父との交わりこそ、上からの命、新しい命、「永遠の命」なのです(二四節後半〜二五節)。
 ここで「永遠の命」が、「彼がわたしたちに約束した約束」とされています(二五節)。この「約束」には二つの意味が考えられます。一つは、最初期の福音宣教において共通している、キリストに属する者に終わりの日に与えられると約束された永遠の命です。他の一つは、福音を信じる者に約束された御霊の命を指す場合です。ヨハネ福音書では後の意味で、信じる者はすでに約束の御霊を受けて、永遠の命を持っているという面が強調されています。しかし、この手紙では(とくにこの二・一八〜三・一〇の第二部では)、終わりの日の出来事が前面に出ており、この約束を終わりの日に与えられる永遠の命の約束と見ることもできます。両者を強いて区別する必要はありませんが、手紙が周囲の福音宣教との一致を示そうとしていることから、ここでは終わりの日の約束と見るのが順当でしょう。
 反キリストに対する警告を説いたこの段落(一八節以下)を、長老は、すべてのことを教える聖霊が共同体の内にとどまっていてくださる事実を思い起こさせて結びます(二六〜二七節)。先に見たように、ここで二回用いられている《クリスマ》は、塗油の行為(儀式)ではなく、注がれた油そのもの、すなわち聖霊を指しています。この御霊が別の「同伴者」《パラクレートス》として、キリストの民の内にとどまっていてくださるのです(ヨハネ一四・一五以下)。この聖霊こそ、御子キリストから受けた真理をわたしたちに示し、わたしたちをすべての真理に導き入れてくださる方です(ヨハネ一六・一三以下)。この御霊によってイエス・キリストの内にとどまることが永遠の命です。


  神の子の待望(二・二八〜三・一〇)

 28 さて、子たちよ、彼に内にとどまっていなさい。それは、彼が現れるときに確信をもち、彼の来臨にさいして彼の面前で恥を受けることがないためです。29 あなたたちが彼は義なる方であることを知っているのであれば、義を行う者もまたすべて彼から生まれたことが分かるはずです。
 3   1  わたしたちが神の子と呼ばれるようになるために、父がどのような質の愛をわたしたちに注いでくださったのか、よく考えてみなさい。事実、わたしたちは神の子なのです。世がわたしたちを理解しないのは、父を知らないからです。2 愛する者たちよ、わたしたちはいま現に神の子です。しかし、わたしたちがどのような者になるのかは、まだ明らかにはされていません。わたしたちは、彼が現れるならば、わたしたちは彼に似る者となることを知っています。わたしたちは彼をあるがままの姿で見ることになるのですから。
 3 彼にこの希望をかけている者はみな、あのお方が清いように自分を清くします。4 罪を行う者はみな、不法を行っているのです。罪は不法です。5 あなたたちも知っているように、あのお方が現れたのは罪を取り除くためでした。彼の内には罪はありません。6 彼の中にとどまっている者は、誰も罪に陥ることはありません。罪に陥っている者はみな、彼を見たこともなく、彼を理解したこともないのです。
 7 子供たちよ、誰にも惑わされないように。義を行う者が義(ただ)しい者なのです。あのお方が義しい方であるのと同じです。8 罪を行う者は悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を行っているからです。神の子は悪魔の働きを滅ぼすためにこそ現れたのです。9 神から生まれた者はすべて、罪を行いません。神の種子がその人の内にとどまっているからです。また、その人は神から生まれたのですから、罪を行うことができません。10 これによって、神の子と悪魔の子との区別は明らかです。義を行わない者はすべて、神から出た者ではありません。自分の兄弟を愛さない者も同じです。


長老ヨハネと共同体の来臨待望
 長老は、異説を唱えて交わりから出て行った人たちの中に反キリストの出現を見て、終わりの日が来ていることを実感します(二・一八)。そうであれば、終わりの日を完成するキリストの来臨も近いはずです。長老は、交わりに残っている人たちに、改めて「子たちよ」と呼びかけ、この段落(二・二八〜三・一〇)でその日に備えるように説き勧めます。
 ここで長老は、「彼が現れるとき」とか、「彼の来臨《パルーシア》にさいして」と言って、イエス・キリストの「来臨」《パルーシア》を待ち望んでいることを明言しています(二八節)。この段落全体は、キリストの来臨に備えて義を行い、自分を清く保つように説き勧める内容になっています。この段落(とくに二・二八〜三・二の箇所)は、ヨハネ共同体が最初期のキリスト者共同体に一般的であった来臨待望を共有していることを明白に示しています。この事実は、ヨハネ共同体とヨハネ文書の理解にとって重要です。
 ヨハネ福音書が《パルーシア》については語らず、もっぱら現在すでに永遠の命を持っていることを強調しているので、ヨハネ共同体には本来終末待望がなかったか希薄であったのに、長老(福音書の著者)が世を去った後に状況が変わって、後の編集者がこのような終末待望を前面に出してきたという説明がよくなされます。この見方では、福音書(六章)に見られる終末時の復活なども後の時代の編集者による挿入とされます。わたしは逆だと考えます。
 わたしは、三通の手紙は長老ヨハネの肉声であると信じています。若き日に「イエスが愛された弟子」として、イエスの身近に侍り、長年復活者イエスとの交わりに生きて、イエス・キリストを宣べ伝えてきたヨハネは、最初期のパレスチナ共同体の来臨待望を共有していたはずです。ヨハネは六〇年代にパレスチナからエフェソに移住し、晩年はエフェソで活動して彼の共同体を形成したと考えられます。そうすると、彼の活動の前半(三〇年ほど)はパレスチナで行われていたことになり、彼がこの時期(六〇年代のユダヤ戦争までの時期)のパレスチナの信仰共同体に深く浸透していた《パルーシア》待望を共有していたと見るのが当然です。そのヨハネが、後半のエフェソ時代のある時期(おそらくかなり晩年)に、共同体の分裂という事態に直面して、預言されていた背教が始まり、終わりの日が到来していると感じ、《パルーシア》の接近を語ったとしても、それはごく自然なことです。
 一方、ヨハネはその深い霊性から、聖霊によって復活者イエスとの交わりに生きる現実がどのようなものであるかを深く把握して、その命の事実を現在のこととして説いて来ました。ヨハネの福音提示(説教)には、ひたすら未来の救済を待ち望む黙示思想を克服して、永遠の命を現在の事実として説く面が強く出てきていました。実はすでにパウロも、黙示思想的な枠組みで思考しつつも、聖霊の体験によってキリストにある命の現実を深く把握し、それを明確に語っていました。ヨハネの福音提示がどの程度パウロから影響を受けて形成されたのか、なお検討すべき問題ですが、ここでは扱えません。とにかくヨハネは、パウロが指し示してた方向をさらに徹底して、救いと命の現在性を告知したと言えます。
 その長老ヨハネの福音提示(証言とか説教)が、それを受けて形成されたヨハネ共同体において蓄積され、書きとどめられ、(おそらく数次にわたって)編集され、ついに長老が召された後に現在の最終形態で流布するにいたります。それが「ヨハネ福音書」です。手紙は長老の生存中の成立ですから、すくなくともその最終形態において福音書は手紙より後の成立となります。その福音書では、共同体の終末待望は背後に退き、長老ヨハネの福音提示のきわだった特色である救いと命の現在性が前面に出てくることになったと見られます。

     ヨハネ文書における救いの現在性と終末待望との関係については、拙著『対話編・永遠の命 ― ヨハネ福音書講解T』271頁以下の「補論 ― 永遠の命と死者の復活」の項も参照してください。

終末待望と倫理(二・二八〜二九)
 主イエスの来臨を前にして、長老は共同体の各員に改めて「彼の内にとどまっている」ように説き勧めます。そうしなければ、来臨される主イエスの前に確信を持って立つことができないからです。「確信を持って立つ」と同じことが、「彼の面前で恥を受けることがない」とも表現されます。この表現には、共観福音書に伝承されている、「神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる」(マルコ八・三八、ルカ九・二六)という語録が響いています。ヨハネもこの語録伝承を知っていて、この表現を使って主の来臨に備えるように説いていると考えられます(二八節)。この二つの表現は共に、主の来臨のときに、わたしたちが主に所属する者として、主との栄光の交わりに受け容れられることを指しています。
 主の来臨に対する熱烈な待望は、ときには地上の生活に対する無関心を引き起こし、倫理的な弛緩を生み出すことがあるようです。パウロもテサロニケにおけるこの問題に対処しなければなりませんでした。ヨハネは、共同体の分裂を終わりの日の到来のしるしと見て、分裂の事態に現れている倫理的危機を主の来臨への心備えによって克服しようとします。この段落(二・二八〜三・一〇)がこのような性格のものであることは、この段落に、義、清さ、罪、不法というような用語が溢れ、義を行うことと罪を行うことが厳しく対比されていることからも分かります。
 主の来臨に備えて「彼に内にとどまる」必要があります。その「彼は義なる方である」ことを知っている者は、「義を行う者」こそ彼から生まれた者であることが分かり、義を行う者となるはずです(二九節)。この「義を行う」とはどういうことかが、ヨハネ特有の表現で続きますが(三・三〜一〇)、その前に、わたしたちが義を行う者として「彼(神)から生まれた者」、すなわち神の子であることの意義が挿入されます(三・一〜二)。ここでの「彼」は、イエスから自然に神に移っています。

神の子における「すでに」と「まだ」(三・一〜二)
 神から遠く離れていたわたしたちが、いま神の子と呼ばれて、神を父として信頼して生きる交わりに入れられていますが、そうなるためには父が「どのような質(種類)の愛」をわたしたちに注いでくださったのか、「よく考えてみなさい」と長老は促します(一節前半)。それは、背く者を赦して受け容れる無条件・絶対の愛です。それは、今まで人間が世で体験してきた愛とは種類が違う愛です。そのような無条件・絶対の愛《アガペー》はイエス・キリストの出来事において初めて人に啓示されたものです。その愛の質は後(四章)で詳しく語られることになりますが、ここでは、義を行うように説き勧める根拠として、それを考えてみるように促されるだけです。
 長老は「事実、わたしたちは神の子なのです」と言って、共同体の各員に自分が神から生まれた神の子であることを自覚するように促します。わたしたちが世間の人々と違った種類の人間になっていることを、周囲の人々は理解しません。彼らは、わたしたちがなぜ彼らとは違った生き方をするのか理解できません。それは彼らが、わたしたちの命の源となってくださった父を知らないから当然です。彼らに理解されないからといって、驚いたり落胆することはありません(一節後半)。
 わたしたちが神の子であるということには、「いま現に神の子である」という面と共に、それが将来どのような姿で現れるのかが「まだ明らかにはされていない」という面があることを長老は認めます。わたしたちが時間の中にいる限り、将来という面があり、それが最後にどのような姿で現れるかは、誰も正確に理解したり語ったりすることはできません。時間と空間の枠の中でしか思考できない人間にとって、時間を超えた世界の姿は想像を超えたことであり、理解できないのが当然です。しかし、現に神の子である以上、神の子の命の質が十全な姿で現れることは確実です。そのことが、「わたしたちは、彼が現れるならば、わたしたちは彼に似る者となることを知っています」と表現されています。今はわたしたちの目には隠されている栄光の主イエス・キリストが「現れる」とき、わたしたちは「彼をあるがままの姿で見る」ことになり、栄光のキリストとわたしたちの間を妨げるものがなくなり、わたしたちもキリストの栄光の姿に化せられるからです。これは、パウロが「わたしたちは、今は鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる」(コリントT一三・一二)と言っていることです(二節)。
 ここで長老ヨハネが言っていることは、パウロがローマ書(八・一八〜二五)で「神の子たちの顕現」とか「神の子たちの栄光への解放」と言っていることと同じです。ヨハネは、それを「彼に似る者となる」と、平易に、しかもその方の姿を見た者として具体的に語っています。
 ここでヨハネが主の来臨のことを語るのに、おもに「現れる」という表現を用いて語っていることが注目されます。これは、このヨハネ書簡も、「使徒名書簡の時代」(ヨハネ書簡もこの時代のものです)において、来臨の遅延が問題になり、それを克服するために「来臨」《パルーシア》という表現よりも「キリストの顕現《アポカリュプシス》」という表現が多く用いられるようになった流れの中にあることを示しています。

    この使徒名書簡の時代における「終末待望の変化」については、拙著『パウロ以後のキリストの福音』412頁「終末待望の変化」の項を参照してください。とくに「キリストの《アポカリュプシス》」という表現の用例については、同書315頁の注記を参照してください。

 なおこの機会に、ヨハネ文書における救いとか命の現在性と終末待望の関係について一言しておきます。ヨハネ福音書においては、永遠の命が現在のものであるという点が強調されていることは顕著な事実です。それで、福音書の中の将来の救済を語る部分は別の編集者、《パルーシア》待望を前面に出している手紙は別の著者の手によるものであるという見方がなされ、ヨハネ文書の成立と編集の過程について複雑な議論が行われています。この議論には、救いの現在性の主張と終末における救済待望は両立せず、両者が同じ人物の中に共存することはありえないという見方が前提されています。
 この前提は間違っています。御霊によって救いの現在を強く体験すればするほど、今は不完全な姿の救いが将来完全な姿で現れるのだという希望と確信が強くなります。「すでに」という語で語られる救いの現在性と、「まだ」という語で語られる待望は、矛盾するものではなく、互いに強め合う表裏の関係です。この関係は、イエスにおいては「神の国」がすでに到来しているという面と、将来の「人の子」の到来を待ち望む言説となって現れています。パウロにおいては、キリストにある命の御霊の現実を語る告知と、《パルーシア》における栄光の顕現を待ち望む告白となって現れています。ヨハネにおいては、この箇所(三・一〜二)で明言されているように、すでに神の子であるという告白と、「彼に似る者となる」という将来の希望が一息に語られることになります。
 御霊の働きが強くなればなるほど、すでに永遠の命を与えられている喜びも、将来にたいする希望も共に深く強くなります。それを表現する文書は、その成立の状況により、またその文書の性格や目的により、どちらかが前面に出てくることがありますが、背後にいつも両面を含む御霊の現実があります。

神の子は罪を行わない(三・三〜六)
 「彼にこの希望をかけている者」とは、主イエスが栄光の内に現れるときには、この自分も彼に属する者として、「彼に似る者」としてくださるであろう(=彼の栄光にあずからせてくださるであろう)という希望に生きている者です。このような希望に生きる以上、「あのお方」(イエス・キリスト)は清い方ですから、その方に似るように、当然自分も清くあることを願い、清く生きるように努めます(三節)。
 ここで長老が「清い」と言っているのは、すぐ後に続く文章から、「罪を行わない」生き方を指していることが分かります。長老は、「清い」ことを、その反面である「罪を行う」ことから説明します。
 まず、「罪を行う者はみな、不法を行っているのです」と、罪の実質が解説され、「罪は不法《アノミア》です」と、罪が定義されます(四節)。芯からのユダヤ人である長老ヨハネにとって、罪とは神の定めである《ノモス》(法)に違反すること、《ノモス》なしに生きること、すなわち《ア・ノモス》(《ア》はギリシア語で否定辞)の生きざま、《アノミア》に他なりません。
 そもそも神の子キリストがイエスとして世に現れたのは、人間の内に巣くい、世を支配している罪を取り除くためでした。世の罪を負い、十字架の死によって罪を贖うために、キリストは世に来られたのです。ヨハネはこのイエス・キリストを指して「見よ、世の罪を負う神の子羊」と告げ知らせていました(ヨハネ一・二九)。この「負う」は「取り除く」と同じ語です。この告知は、共同体の全員が初めから聞いていることであり、当然「あなたたちも知っている」こととされます。罪のないあのお方が、世の罪、わたしたちの罪を負い、罪を取り除かれたのです(五節)。
 このような罪のない方、罪を取り除く方と結ばれ、その方との交わりにとどまっている者は、「罪に陥る」ことはありません(六節前半)。ここの《ハマルタノー》という動詞は普通「罪を犯す」と訳されます。しかし、この訳語は個々の行為を指す感じが強いので避け、罪の支配下に生きる状態を指すと理解して、「罪に陥る」と訳しています。このような意味で「罪に陥っている」者は、彼の内にとどまっていない者、そもそも「彼を見たこともなく、彼を理解したこともない」者であることを示しています。

神の子と悪魔の子(三・七〜一〇)
 「罪を行う」の反対は「義を行う」です。ここで「罪を行う者」と「義を行う者」が対比され、改めて「義を行う者が義(ただ)しい者」という真理が強調されます。それは、偽りの教師たちが救いは(霊の悟りによるのであって)行為と関係ないと説いていたことに対する反論であると考えられます。長老は、そのような偽りの教えに「惑わされないように」呼びかけます。そして、「義を行う者が義(ただ)しい者である」という主張を、「あのお方が義(ただ)しい方であるのと同じです」と、イエス御自身が義を行う方であるから「義(ただ)しい方」と呼ばれている事実を根拠としてあげます(七節)。
 長老は、罪を行う者を「悪魔から出た者」とか「悪魔の子」と呼びます。新約聖書は、神に対立し敵対する霊的諸力の頂点に立つ元締めの霊的存在を「悪魔」《ディアボロス》とか「サタン」などと呼んでいます。とくにヨハネは、神が支配される霊的領域と悪魔が支配する霊的領域の相交わることのない二つの領域を峻別し、その対立を枠組みとして語る傾向があります(ヨハネの「二元論」と呼ばれています)。ここでも「義を行う者」と「罪を行う者」を峻別して、両者の起源と本性を描きます(八〜一〇節)。
 悪魔は、「初めから」、すなわちその起源と本性から神に敵対する力であって、神に背く人間を自分の支配下に置いて、神の《ノモス》に反すること、すなわち罪を行わせています。罪を行う者は悪魔の支配下にある者、悪魔に所属する者です。神の子であるイエス・キリストが世に現れたのは、このような人間を支配する悪魔の働きを滅ぼし、人間を悪魔の支配から救い出すためでした(八節)。
 このような悪魔に属する者に対して、神から生まれた者は、罪を行わないだけでなく、罪を行うことができないと言われます。そのことが「種子」のイメージで語られます(九節)。生物は種子から生まれます。種子は生む者の本性を生まれる者に伝えます。現代では種子の代わりにDNAというところでしょうか。神から生まれた者は「神の種子《スペルマ》」、すなわち神の命の質を伝えられ、内に宿しているのです。「神の種子《スペルマ》」とは、信じる者の内に宿る聖霊です。聖霊は神の命の質をわたしたちの内にもたらします。もしわたしたちが聖霊によって行為するならば、その行為は罪を行うことではありえません。
 こうして長老は、義を行うことと罪を行うことの区別によって「神の子と悪魔の子との区別」を明確にします。そして、いくら深遠な知識とか知恵を説いていても、「義を行わない者はすべて、神から出た者ではありません」と言います。それは、異説を立て、救いは行為と関係がないとして放縦な生活を続け、共同体から出て行った「反キリストたち」を「義を行わない者」とし、「神から出た者ではない」とします。長老がここで彼らのことを念頭に置いて語っていることは、この文に続けてすぐに「自分の兄弟を愛さない者も同じです」と付け加えて、兄弟愛に反する彼らの行為に言及していることからも分かります(一〇節)。

神の子と罪
 この段落で長老は、イエス・キリストに属する者は罪を行うことがないことを強調しています。神から生まれた者の内には神の種子がとどまるので、「罪を行うことができない」とさえ言っています。するとこれは、先に「もしわたしたちが自分には罪がないというならば、わたしたちは自分を欺いているのであり、わたしたちの中に真理はありません」(一・八)とか、「もしわたしたちが、罪に陥ったことがないと言うならば、わたしたちは神を偽り者としているのであり、神の言葉はわたしたちの内にありません」(一・一〇)と言ったことと矛盾するのではないか。罪を行うことに関する長老の発言は矛盾しているのではないか、という問題が起こります。これは解釈者を悩ます難問です。
 この難問を解決するために様々な解釈が提案されています。しかし、どの解釈も難点があって行き詰まります。もし、解釈で解決できるものであれば、とっくに権威的な解釈が普及しているはずです。ところが、この論理的に矛盾する二つの発言は解釈では解決できないままで聖書の中に残っています。
 しかし不思議なことに、キリストにある者としてこの論理的に矛盾する二つの発言を聞くとき、そのどちらにも「アーメン、その通り」と深く共感共鳴します。これはどうしたことでしょうか。わたしはこの問題に、個人的・内面的なアプローチを試みたいと思います。
 わたしはとうてい「自分には罪がない」などとは言えません。わたしは本性的に聖なる神に背く者であり、罪に陥っている者です。わたしが今神の子として父への信頼と交わりに生きることができるのは、「御子イエスの血がすべての罪からわたしたちを清めてくださり」、その御子の血によって信実で義なる神がわたしの罪を赦してくださっているからです。もしわたしが「自分には罪がない」と言うならば、それは、わたしの罪のために死んでくださった御子イエス・キリストの死を無意味なものとすることであり、この御子の死をもってわたしに「わたしはあなたを贖った」と語ってくださった神を偽り者とすることになります。
 ところが一方、「神から生まれた者はすべて、罪を行いません。その人は神から生まれたのですから、罪を行うことができません」という言葉を聞くとき、わたしの内にある何かが共鳴して、「そうだ、その通りだ」と叫びます。いったい神から生まれた命が、神に反すること(罪)を行うことができるでしょうか。それは、ありえません。わたしの内にある御霊の命が、この言葉に共鳴してそう叫ばせるのです。
 すると、論理的に矛盾する長老の二つの発言がどちらもわたしの中に共鳴を引き起こすのは、わたしの内に二つの相反する質の本性があるからだということになります。自分には罪があると告白するのは、生まれながらの人間本性、パウロが「肉」《サルクス》と呼ぶ本性です。生まれながらのわたしは、自分が罪であることすら自覚しませんでした。しかし、キリストにあって御霊の光を受けたとき、その光に照らし出された自分は、こう告白せざるをえない姿でした。
 他方、わたしの内にある御霊の命は、この命は神からのものであって、神の御心に反することは行うことができない質のものであることを知っています。この御霊に従って歩むときにのみ、神の御心を行うことができます。
 パウロは「御霊と肉」という用語でこの間の消息を詳しく語りましたが、長老ヨハネは厳密な神学者ではなく、自分が体験していることを、それが論理的に整合していようが矛盾していようがかまわず、そのまま述べます。わたしたちは、この二つの発言の論理的不整合を無理に説明しようとするのではなく、その発言のそれぞれが指し示している御霊の現実と人間の現実を、自分の一身の中で統合して歩むことが大切だと考えます。


  兄弟を愛しなさい(三・一一〜一八)

 11 というのは、互いに愛し合うことこそ、あなたたちが初めから聞いてきた使信だからです。12 カインのようになってはなりません。彼は悪しき者から出た者であり、自分の兄弟を殺したのです。彼はなぜ兄弟を殺したのか。それは、彼の行いが悪く、兄弟の行いが義(ただ)しかったからです。13 兄弟たちよ、世があなたたちを憎んでも驚かないように。14 わたしたちは、死から命に移っていることを知っています。それは、わたしたちが兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死の中にとどまっています。15 兄弟を憎む者は、みな人殺しです。そして、人殺しは誰も自分の中に永遠の命をとどめていないことは、あなたたちもよく知っています。16 あのお方は、わたしたちのためにご自分の命を差し出してくださいました。このことによってわたしたちは愛ということを知りました。 わたしたちもまた、兄弟のために命を差し出すべきです。17  世の富を持っていながら、兄弟が必要に迫られているのを見たとき、同情の心を閉ざす者があれば、そのような者の中に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。18 子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いと真実をもって愛し合おうではないか。

カインの実例(三・一一〜一二)
 長老はここまで、神の子と悪魔の子の区別を明らかにして、「義を行わない者はすべて、神から出た者ではありません」と結論し、それに「自分の兄弟を愛さない者も同じです」という文を付け加えていました(三・一〇)。この「自分の兄弟を愛さない者」は、義を行わない者と同じく、神から出た者ではなく悪魔に属する者であることを、長老はここでカインの例をあげて詳しく説きます。
 この段落は、「というのは・・・・だからです」という理由を示す語で始まります。互いに愛し合うことは、あなたたちが初めから聞いてきた使信そのものであり、主がご自分の民に求めておられる最も基本的な誡めですから、それに背くことは最も深刻な意味で「義を行わない」ことになります(一一節)。
 長老は、この神の最も基本的な誡めに背いた者の実例として、聖書(創世記四・八)に最初の兄弟殺しとして語られているカインを取り上げます(一二節)。カインが自分の兄弟であるアベルを殺したのは、彼が悪しき者に属し、彼の本性あるいは在り方そのものが悪い者であったからです。彼の「行い」《エルガ》が悪いというのは、個々の行為が悪いというより、彼の生き方、在り方そのものが悪いという意味でしょう。反対に、兄弟アベルはその在り方が、神に喜ばれる義(ただ)しい在り方でした。カインは自分のではなくアベルの献げ物が神に受け入れられたことで、自分の悪しき在り方が告発されたと感じ、アベルを憎み、ついに殺すに至ります。

     一二節に2回用いられている「殺す」という動詞は、本来犠牲獣などを屠殺することを指すギリシア語です。この動詞は、ここ以外にはヨハネ黙示録に8回出てくるだけです。黙示録では「屠られた小羊」という表現に用いられています。

世の憎しみ(三・一三〜一四)
 このカインの実例は、一五節の「兄弟を憎む者は、みな人殺しです」という結論に受けつがれますが、長老はその前に、神の子たちに対する世の憎しみを取り上げます。世が神の子を憎むのは、カインの場合と同じく、その在り方が悪く、神の子の在り方が義であるからです。従って、世が神の子を憎んでも当然であって、何も驚くことではありません(一三節)。それは、わたしたちが「死から命に移っている」ことの結果です。悪しき者に属するカインが義の在り方をしているアベルを憎んだように、神に背き死の中にとどまっている世は、命の領域に生きる神の子たちを憎むのです。わたしたちキリストに属する者は死から命に移っている者であることは、わたしたちが兄弟を愛している事実によって確認することができます。この愛こそ命の現れであって、もしキリストの民の中にいても兄弟を愛さない者があれば、その者は死の中にとどまっているのです(一四節)。

命を差し出す愛(三・一五〜一八)
 カインはアベルを憎み、その結果彼を殺しました。憎しみには殺す行為が潜在的に含まれています。実際の殺人行為に至らなくても、兄弟を憎む者は、神の前では「人殺し」と同じです。これは、イエスが「山上の説教」(マタイ五・二一〜二二)で、兄弟に腹を立て罵る者は人を殺す者と同じ裁きを受けると言われたお言葉と同一線上にあります(一五節前半)。
 「人殺し」には永遠の命がないことは、当然のこととして誰もがよく知っています。兄弟を愛さず、兄弟を憎む者は「人殺し」であって、彼の中には永遠の命はありません(一五節後半)。すなわち、兄弟を愛さない者は「死の中にとどまっている」のです。一五節は直前の「愛さない者は、死の中にとどまっています」という句を説明しています。
 このように語るとき、長老の念頭には異説を唱えて交わりから去っていった者たちのことがあったのでしょう。長老は彼らを「反キリスト」と呼んで激しく非難しています。ここで長老は、彼らの行為を兄弟への愛を欠く行為、兄弟を憎む行為として、「人殺し」とさえ呼び、死の中にとどまる者たちだとします。

     長老は一五節で2回「人殺し」《アントローポクトノス》という珍しい語を用いています。この名詞は、新約聖書ではこことヨハネ福音書八章四四節に1回出てくるだけです。この事実は、「悪魔の子」というような表現と共に、この手紙の反キリストに対する激しい非難がヨハネ福音書八章後半(30節以下)の「イエスを信じたユダヤ人」に対する論争の記事に組み込まれているのではないかという推察を促します。この点については、拙著『対話編・永遠の命―ヨハネ福音書講解T』337頁を参照してください。

 では、集会の交わりから出て行く行為はすべて、兄弟への愛を欠く行為として、「死の中にとどまる」者の烙印を押されて断罪されるのでしょうか。ルターなどの宗教改革者はローマカトリック教会から出て行きました。ピュリタンたちは英国国教会から出ました。彼らの行為は、兄弟への憎しみとして断罪される性質のものでしょうか。決してそのようなことはありません。霊の生命は、肉によって硬化した人間的制度から出て行かなければ生きることはできません。そもそもヨハネ共同体を含む最初期のキリストの民は、ユダヤ教団から出て行ったのです。彼らの御霊の命の発現としての改革の行為と、ヨハネの手紙に見られる「イエスがキリストであることを否定する」者たちの分派行為を同一視することは誤りです。ヨハネは「イエスこそ肉をとって来られたキリストである」という真理を護持するために、その真理を否定して出て行った者たちを激しく非難したのです。しかし、彼らの行為を批判するすべての言葉を、文脈から離れて絶対化してはなりません。
 兄弟への愛を欠く行為を「人殺し」と呼んで非難した長老は、その対極にある愛の姿としてイエスを指し示し、「あのお方は、わたしたちのためにご自分の命を差し出してくださいました」と言い、「このことによってわたしたちは愛《アガペー》ということを知りました」と言います(一六節前半)。
 復活によって神の子・キリストとして立てられたイエスが、地上では十字架につけられて死なれた事実はわたしたちにとって何を意味するのか、それを明らかにすることが最初期の福音告知の最重要課題でした。最初期に福音を担った弟子たちはみなユダヤ人でしたから、キリストの十字架の死の意義を「わたしたちの罪過のための死」とか、「罪の贖い」というユダヤ教の祭儀的な用語で語りました。ヨハネもユダヤ人ですから、このような意義は十分承知しているはずです(たとえば一・七)。しかし、ヨハネは祭儀的な用語で語ることは少なく、誰よりも多くキリストの十字架の死を神の愛の啓示として語ります(ヨハネ三・一六など)。
 このイエスに従う者として、このキリストであるイエスによって示された神の愛を受けている者として、「わたしたちもまた、兄弟のために命を差し出すべきです」と、長老は説きます(一六節後半)。この言葉は、神の絶対無条件の愛を受けることは、わたしたちに何をしても、また何もしなくても赦されているという放縦や無為を認めることを意味するのではなく。「兄弟のために命を差し出す」という最も激しい倫理を要求し、それを可能にすることを意味しています。それは、父の無条件絶対の恩恵を説かれたイエスが、「父が慈愛深いのであるから、あなたたちも慈愛深い者であれ」(ルカ六・三六)と言われたのと同じです。
 この「兄弟のために命を差し出す」愛の姿を、長老は具体的な実例で説きます。「世の富を持っていながら、兄弟が必要に迫られているのを見たとき、同情の心を閉ざす者があれば、そのような者の中に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか」と言って、窮迫している兄弟を助ける実際の行動を求めます(一七節)。このような実際的な愛を説く聖書の言葉が、すべての隣人を兄弟と見るキリスト者を励まし、窮迫者を助ける慈善の行為と事業を生むことになります。こうして、長老は「言葉や口先だけではなく、行いと真実をもって愛し合う」ように、共同体に呼びかけます(一八節)。
 この箇所(一七〜一八節)は、信仰だけでなく行為の必要を説いたヤコブ書(二・一四〜一七)の言葉を思い起こさせます。しかし、ヤコブは実際に必要な物を与えなければ、口先の励ましは窮迫している者には何の助けにもならないことを比喩として、行いを伴わない信仰の空しさを主張しているのに対して、ヨハネはここで(比喩ではなく)愛は実際の行為を生むものであること、愛の具体性を説いている点で違います。けれども、ヤコブもヨハネも共に、信仰におけるユダヤ人の具体性をよく体現しているという点で共通しています。ともすればギリシア人の信仰が思想的・観念的になりがちな状況で、信仰も愛も、この身体でする行為に結果しなければ空しいという主張は同じです。総じて「使徒名書簡の時代」の文書は、ギリシア的観念性に対してユダヤ教的具体性を擁護しようとする姿勢で貫かれています。

     ヤコブ書二・一四〜一七の意義については、拙著『パウロ以後のキリストの福音』269頁を参照してください。


  神の御前での確信 (三・一九〜二四)

 19 このことによって、わたしたちは自分が真理から出た者であることを知り、神の御前で自分の心を落ち着かせることになります。20 というのは、もしわたしたちの心が責めるところがあっても、神はわたしたちの心よりも大きく、すべてのことをご存知だからです。21 愛する者たちよ、心が責めるところがなければ、わたしたちは神に対して確信をもち、 22 求めるものを神から受けることになります。それは、わたしたちが神の誡めを守っており、神の御前に喜ばれることを行っているからです。23 神の誡めとは、神の御子イエス・キリストの御名を信じ、この方がわたしたちにお与えになった誡めの通りに、わたしたちが互いに愛し合うことです。24 彼の誡めを守る者は、彼の内にとどまっており、彼もその人の内にとどまってくださいます。このことによってわたしたちは、彼がわたしたちの内にとどまっておられることを知ります。すなわち、彼がわたしたちに与えてくださった御霊によってです。

人の心よりも大きい神(三・一九〜二〇)
 長老は、前段で述べたこと、すなわち具体的な行動で互いに愛し合うことを受けて、「このことによって」と言い、そのように愛し合っている事実が「自分が真理から出た者であることを知る」ことの根拠であるとします。この具体的な愛を根拠として真理の確信を持つことが、「神の御前で自分の心を落ち着かせる」結果を生みます(一九節)。
 人の心は落ち着かず、変わりやすいものです。「ころころと変わる」から「こころ」と言うのだという説もあるくらいです。神の恵みを感じて感謝と平安に満たされているかと思うと、次の日には自分の弱さとか失敗に気落ちして、祈ることもできないほど落ち込むようなことが起こります。もしわたしたちが信仰を自分の心の在り方に置いているのであれば、そのような信仰は激しい波間にもてあそばれる木の葉のようなものになります。この人の心の弱さを知る長老は、「神の御前で自分の心を落ち着かせる」道を指し示します。それが次の二〇節です。
 それは、自分の心を見るのではなく、「わたしたちの心よりも大きく、すべてのことをご存知である」神を見て、その神に信仰の根拠を置くことです。神はわたしたちの心のどのような振幅よりも大きな方で、わたしたちの心のどのような姿をも包み込んでおられます。わたしたちの心の喜びも悩みもすべてをご存知であって、それを知った上で、わたしたちの心の状態を条件とはせず、無条件にわたしたちを愛し、受け容れてくださっているのです。また、わたしたちの心が信仰に溢れていても、疑いに激しく動揺していても、神の信実は岩のように動くことはなく変わることはありません。この神の無条件絶対の愛と信実を、長老は「神はわたしたちの心よりも大きく、すべてのことをご存知だ」と表現し、その神の無条件絶対の愛と信実に自分を委ねるように説きます(二〇節)。

     ここでわたしたちの心の姿を、長老は「心が責めるところがある(または、ない)」と表現しています(二〇節と二一節)。原文は心が主語で、「心が責める」という形になっていますが、何を責めるのかは特定されていません。それで、「心に責められることがある(または、ない)」という意訳(新共同訳)もなされます。しかし、この訳では受動態が用いられているので、誰が何を責めるのかが隠され、ただ心の状態だけが記述されます。そうすると、責める主体としての「わたしたちの心」と神の対比が見えなくなり、次節の理由づけが弱くなります。

 前段の内容からすると、その直後にあるという文脈から、この「責める」は、わたしたちが「命を差し出す愛」の誡めに十分応じていないことを「心が責める」ということになります。その場合も、先に述べたように、「神はわたしたちの心よりも大きく、すべてのことをご存知だから」、神の御前に心を安んじていることができます。
 
求めるものは受ける(三・二一〜二二)
 このように、わたしたちが無条件絶対の神の愛と信実に心を委ねることで神の前に「心が責めるところがなければ」、神に対して子としての確信を持って父に願い求めることができます。そうすれば、父は子の求めに応じて、求めるものを与えてくださいます(二一節〜二二節前半)。ヤコブ(一・五〜八)も言っています、「だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい(=求めなさい)。そうすれば、与えられます。いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません」。
 主イエスは、「求めなさい。そうすれば、与えられる。・・・・だれでも求める者は受けるのだから」と言われました(マタイ七・七〜八)。このイエスのお言葉を、ヨハネやヤコブの言葉と較べますと、「心が責めるところがなければ」とか「いささかも疑わず信仰をもって」というような条件は何もついていないことに驚きます。求める者の心とか信仰を何も問題としないで、まったく無条件に「だれでも求める者は受ける」ことを根拠にして、「求めなさい。そうすれば、与えられる」と断言しておられます。どうしてこのように無条件に「だれでも求める者は受ける」というようなことを根拠にできるのでしょうか。それは、イエスが父の無条件絶対の恩恵の場に生きておられるからです。その場では、「だれでも、求める者は受ける」のです。イエスはその恩恵の場からわたしたちに呼びかけておられます。

     この言葉が出てくる「山上の説教」は、イエスによる父の恩恵の告知であることについては、拙著『マタイによる御国の福音―「山上の説教」講解』、とくに333頁以下を参照してください。

 それに対してヨハネやヤコブは、「神はわたしたちの心よりも大きい」とか、「だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神」と言って、まずその無条件の恩恵の場に入るように説かなければならないのです。その上で、「求めるものは与えられる」と説くことになります。
 長老は、「求めるものは与えられる」ことの根拠として、「わたしたちが神の誡めを守っており、神の御前に喜ばれることを行っているからです」と語ります(二二節後半)。これは、わたしたちが神の子として父との親しい交わりにあることを指すヨハネ的表現です。神が人間に求められる在り方をしていることを指します。それで、その内容が次節で「神の誡めとは」と、単数形の「誡め」で語られることになります。

神の誡めを守る者(三・二三〜二四)
 ここで語られる単数形の「神の誡め」とは、神が求めておられる人間の在り方の総体です。その総体を、ヨハネは「神の御子イエス・キリストの御名を信じ、この方がわたしたちにお与えになった誡めの通りに、わたしたちが互いに愛し合うこと」であるとします。神が人間に求めておられるのは、これがすべてであって、それ以上とかそれ以外のことを求めておられません(二三節)。
 神は御子を世に遣わして、その方によってわたしたちの救いを成し遂げてくださいました。イエス・キリストこそ神から世に遣わされた御子に他なりません。イエスをそのような御子と信じることが「神の御子イエス・キリストの御名を信じる」ことです。イエスがそのような御子である以上、このイエスを拒んでおれば、他に何をしても神が求められるところを満たし、神に喜ばれることはできません。
 そして、神はこの御子であるイエス・キリストを通して、人間が互いに愛し合うことをお命じになりました。人間が互いに愛し合うことは、初めから父の願いであったはずですが、御旨の奥義を啓き示すために最後に世界に遣わされた御子によって、この願いを明確な誡めとして新たに人間にお与えになりました。ヨハネはイエスから「互いに愛し合いなさい」というただ一つの誡めを聞いています(ヨハネ一三・三四)。
 この御子であるイエスの誡めを守る者、すなわち兄弟を愛する者は、御子イエス・キリストの内にとどまっており、イエス・キリストもその人の内にとどまり、その人の内に生きてくださいます(二四節前半)。

     二四節で繰り返し用いられている「彼」という代名詞が、(誡めを守る人を指す場合は別として)神を指すのかキリストを指すのかが問題になります。日本語訳はみな「神」と訳しています。たしかに本書簡には神と人との相互内住を語るところがあります(四・一五〜一六)。しかしここでは、二三節の「彼がわたしたちに与えた誡め」の「彼」がキリストを指しているとも理解されますから、二四節の「彼の誡めを守る者」と「彼」の相互内住は、神ではなくキリストとの相互内住を語っているとも理解できます。英訳は大体「彼」という代名詞のままで訳し、ドイツ語訳とフランス語訳は「神」と訳す傾向があります。ヨハネにおいてはキリストの内住は神の内住です。厳密に区別する必要はないでしょう。

 パウロは、自分がキリストの内《エン・クリストー》にあることを繰り返しながら、「キリストがわたしの内に生きておられる」ことも深く体験し、告白しています(ガラテヤ二・二〇)。ヨハネもその線上で、福音書一五章の「ぶどうの木とその枝」の比喩に典型的に見られるように、キリストと信じる者との相互内住を語っています。その上で、キリストが「わたしたちの内にとどまっておられる」事実は、「彼がわたしたちに与えてくださった御霊によって知る」と言って、この相互内住の体験は御霊によってはじめて実現し認識されるのだと、御霊に言及します(二四節)。そして続く四章以下で、この御霊によるキリストとの交わりと、そこから生まれる神認識を詳しく展開します。


第三部 神の愛に生きる   (4章1節〜5章12節)


  偽りの霊と真実の霊 (四・一〜六)

 1 愛する者たちよ、すべての霊を信じるのではなく、神から出た霊かどうかを吟味しなさい。多くの偽預言者が世に出て来ているからです。2 あなたたちはこうして神の霊を見分けるのです。すなわち、イエスを肉の形をとって来られたキリストと言い表す霊はすべて神からの霊です。3 そして、このイエスを言い表さない霊は神からのものではありません。これは反キリストの霊であり、かねてあなたたちはそれが来ることは聞いていましたが、今やすでに世に来ているのです。
 4 子たちよ、あなたたちは神に属しており、彼らに打ち勝っています。あなたたちの内にいます方は、世にいる者よりも大いなる方だからです。5 彼らは世に属しており、それゆえ世から語り、世は彼らに耳を傾けます。6 わたしたちは神に属しており、神を知る者はわたしたちの言うことを聞きます。神に属していない者は、わたしたちに耳を傾けません。このことによって、わたしたちは真理の霊と偽りの霊を識別するのです。


イエス・キリストを言い表す霊(四・一〜三)
 長老は前段の最後で、御子イエス・キリストとの親しい交わりとそこに生まれる神認識は、「彼がわたしたちに与えてくださった御霊によって知る」と言いましたが、その御霊による体験と認識を語る前に、長老は霊を見分ける必要を説きます。霊の働きを受けるとき、それが霊の働きというだけで見境なく身を委ねるのではなく。それが神からの霊であるかどうかを確かめる必要があります。日本や世界の各地で見られるように、多くのカルト集団が出現して、純粋な青年や悩みを抱える魂を誘惑し、自己の支配下に引き込み、光と命の中にではなく、闇と死の中へと陥れています。そこに働くのは偽預言者の霊であり、反キリストの霊です(一節)。
 では神の霊と偽預言者の霊はどうして見分けることができるのでしょうか。長老は、神の誡めの二つの条項に対応して二つの基準を示しています。先に長老は、神の誡めを「神の御子イエス・キリストの御名を信じ、わたしたちが互いに愛し合うこと」の二つにまとめていました(三・二三)。神の霊は、当然この神の誡めを実現する霊でなければなりません。長老はまずこの段落で、「神の御子イエス・キリストの御名」を言い表すかどうかを基準としてあげ、次の段落(七節以下)で、その霊が愛《アガペー》をもたらす霊であるかどうかを問題にします。
 霊を見分ける第一の基準は、「イエスを肉の形をとって来られたキリストと言い表す霊はすべて神からの霊であり、このイエスを言い表さない霊は神からのものではない」という形で示されます(二〜三節)。この表現の背後には、「このイエスを言い表さない」で、交わりから出て行った人たちのことがあるのでしょう。
 彼らがイエスをどのような方として言い表していたのか正確なことは分かりませんが、先に見たように仮現論的なイエス告白であった可能性があります。すなわち、イエスは普通の人間であるが、バプテスマを受けたときにキリストが御霊としてイエスに降り、イエスを通して働かれたが、十字架にかけられる直前にイエスから去ったとする見方です。イエスはキリストの仮の現れだする見方です。
 それに対して長老ヨハネは、イエスを「肉の形をとって来られたキリスト」と言い表します。直訳は「肉において来られたキリスト」です。ヨハネのいう「肉」は、パウロのように御霊に対立する人間本性という意味ではなく、身体と同じ意味で用いられています。イエスを肉体という形をとって世に来られたキリスト御自身であると言い表す信仰です。

     この箇所をすべての日本語訳は「イエス・キリストが肉となって来られたことを言い表す」としています。外国語聖書も同じです。しかし、「イエス」という名は地上の現実の人を指す名ですから、「肉において来られた」をイエスにかけるのは(同意反復的で)不自然です。それに対して、「キリスト」は様々な様態の存在が意味されえます。天上にいまして、世界ではただ人間の霊性の内に働くだけのキリストという理解も可能です。「霊なるキリスト」は、このようなキリスト理解に至る可能性もあります。グノーシス主義の「キリスト」は、この方向を突き詰めたものでしょう。それに対してヨハネは、イエスを「肉において来られたキリスト」、すなわち完全に人間の身体をとって世界に現れたキリストとし、イエスこそそのようなキリストであると言い表します。この私訳は、「イエスをキリストと言い表す」という基本的な信仰告白形式を、グノーシス主義的傾向のキリスト理解に対抗するために、キリストに「肉において来られた」という句を付した形として理解した結果です。この私訳は、内容的には「イエス・キリストが肉となって来られたことを言い表す」という標準的な訳と変わらないと思いますが、あえて一つの試訳として用います。なお、三節で「イエスを言い表す」のイエスに(普通は固有名詞にはつかない)定冠詞がついています。この場合の定冠詞は(定冠詞本来の)指示的な意味があり、「このイエス」という意味になります。すなわち、前節で言い表された「肉の形をとって来られたキリストとしてのイエス」という意味です。「このイエス」を言い表さない霊は神からではないということになります。

 長老は、「このイエスを言い表さない霊」、すなわち「肉の形をとって来られたキリストとしてのイエスを言い表さない霊」を反キリストの霊と断じ、彼らの出現を共同体が受け継いでいる伝承にある終末預言の成就とします(三節)。これは先(二・一八)に述べていたことの繰り返しです。この預言に関しては、二章一八節の講解を参照してください。

神に属する者と世に属する者(四・四〜六)
 長老は、どのようなイエスを言い表すかを霊の真偽を見分ける基準として述べた上で、「このイエス」を言い表す長老と共に共同体に残っている人たちに向かって「子たちよ、あなたたちこそは」と(強調して)呼びかけ、「あなたたちこそは(この真理の霊に従うことによって)神に属する者であり、彼ら(反キリストたち)に打ち勝っている」のだと励まします(四節前半)。
 そして、「あなたたちは彼らに打ち勝っている」のは、「あなたたちの内にいます方は、世にいる者より大いなる方だから」と、その理由をあげます。「あなたたちの内にいます方(単数形)」は、直接には御霊を指すのでしょうが(二・二七)、御霊の形における復活者イエス・キリスト、さらにキリストにおける神の臨在という霊的現実を含んでいると考えられます(ヨハネ一四・一五〜二四)。「世《コスモス》にいる者(単数形)」は、《コスモス》(世・宇宙)を構成する原理として、《コスモス》の中に働き、《コスモス》を支配している霊の総体を指しています。ヨハネにおいては、世《コスモス》は、神の領域と対立する霊の領域ですが、対等に対峙する二元論ではなく、神は《コスモス》の内にいる霊よりも大きい方であり、最終的には《コスモス》を克服して、神の支配と栄光だけになります。だから、神に属するあなたたちは世に属している彼ら(反キリストたち)に惑わされることなく、誤りに引き込まれることなく、真理にとどまり、神の栄光にあずかるという勝利に至るのだと、長老は共同体を励まします(四節後半)。
 長老は、共同体から出て行った「彼ら」と、長老と共に共同体に残っている「わたしたち」を、「世に属す」者たちと「神に属す」者たちとして対比します(五節〜六節前半)。長老は、その鋭い霊的判断力によって、「彼ら」を世に属する者、世(の原理)から語り出す者であるとし、したがって世に属する者たちが多く耳を傾けるのだと、彼らの「成功」を同類が集まる結果だとします。共同体の交わりから出て行った者はかなりの多数になり、長老と共に残ったのはむしろ少数派であったとする見方もあります。長老の危機意識は深刻だったのでしょう。

     ブラウンは、出て行った者たちは後にグノーシス主義教会を形成して正統派と対立することになり、残った者たちは(ペトロを代表使徒とする)周囲の主流の共同体に吸収されていくことになったと見ています。また、「彼ら」はヨハネ福音書を自分たちの福音書として携えていったので、グノーシス主義たちはヨハネ福音書を愛好し、正統派共同体は長らくこの福音書を受け容れることを躊躇したと見ています。R.E.Brown, The Community of the Beloved Disciple, p.166 Chart One ( The History of the Johannine Community )を参照。

 長老は、「彼ら」と対比して「わたしたち」を強調し、「わたしたちこそは神に属する者(神から出た者)である」とし、「神を知る者はわたしたちの言うことを聞き、神に属していない者はわたしたちに耳を傾けない」と述べて、「わたしたちの言うこと」を聞くかどうかが、神に属す者であるかどうかを示す標識であるとします(六節前半)。
 長老は自分を「使徒」と呼んではいませんが、直接イエスに接し、その教えを聴き、復活者イエスの顕現を体験して、このイエスを世に宣べ伝えるために遣わされた者の一人として、「使徒」の立場で語っています。したがって、「わたしたちの言うこと」とは、使徒および使徒と共にいる共同体が言い表す信仰ということになります。これが後に「使徒性」として正統信仰の基準となり、正典も使徒性を基準にして選ばれることになります。
 ここで長老は、「このことによって、わたしたちは真理の霊と偽りの霊を識別するのです」言っています(六節後半)。文の流れと形からすると、「このことによって」は、直前に述べたこと、すなわち「わたしたちの言うこと」を聞くかどうかを指し、それが真理の霊と偽りの霊を識別する基準となると言っていることになります。しかし、ヨハネの文章では、文頭の「このことによって」は、しばしば後に続く内容を指しています(二・三、三・一〇、三・一六、三・二四、四・二など多数)。わたしは、この文を書いたとき長老の念頭にはこれから語ろうとする「愛」の問題があり、思いは「愛」《アガペー》にことでいっぱいであったのではないかと推察します。長老にとっては《アガペー》をもたらす霊であるかどうかが、真理の霊と偽りの霊を識別する基準であったと見られます。これは、先に見たように、霊の真偽を見分ける基準として、神の誡めの二つを満たすことを基準としていたことと一致します。すなわち、使徒たちが言い表すように「イエスを肉において来られたキリスト」と言い表し、お互いに愛するようにという神の誡めを満たす霊が真理の霊であることになります(四・一の講解を参照)。

  神は愛である(四・七〜二一)

 7 愛する者たちよ、わたしたちは互いに愛し合おうではないか。愛は神から出るものであり、愛する者はすべて、神から生まれ、神を知っているからです。8 愛さない者は神を知りません。神は愛だからです。9 神は、その方によってわたしたちが生きるようになるために、御自身の独り子を世にお遣わしになりました。このことによって、神の愛がわたしたちに明らかにされたのです。10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、その独り子をわたしたちの罪過のための贖いとしてお遣わしになりました。ここに愛があります。
 11 愛する者たちよ、このように神がわたしたちを愛されたのですから、わたしたちもまた互いに愛し合うべきです。12 いまだかって神を見た者はありません。もしわたしたちが互いに愛するならば、神はわたしたちの内にとどまり、神の愛がわたしたちの内に全うされるのです。
 13 神は御自身の御霊をわたしたちに分け与えてくださいました。そのことによって、わたしたちは神の内にとどまっており、神がわたしたちの内にとどまっていてくださることが分かります。14 そしてわたしたちは、神が御子を世の救い主として遣わしてくださったことを見て、証しています。15 イエスは神の御子であると言い表す者があれば、神はその人の内にとどまり、その人は神の内にとどまっています。16 わたしたちは、神がわたしたちに対して持っておられる愛を知り、かつ信じています。神は愛です。愛にとどまる者は神の内にとどまり、神もその人の内にとどまっておられます。
 17 このように愛がわたしたちの間に全うされているので、わたしたちは裁きの日に確信を持つことができます。それは、この世において、あのお方がそうであったように、わたしたちもまた同じ在り方をしているからです。18 愛には恐れがありません。完全な愛は恐れを外に追い出します。恐れは処罰と関わり、恐れている者は愛において全うされていないからです。19 わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。20 もし誰かが、「わたしは神を愛している」と言いながら、自分の兄弟を憎んでいるならば、その人は偽り者です。現に見ている兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできません。21 神を愛する者は自分の兄弟をも愛すべきです。これこそわたしたちが彼から受けた誡めです。

神の愛の啓示(四・七〜一〇)
 長老は、共同体の分裂の危機にあたって、自分のもとに残った人たちに、イエスへの正しい信仰告白と共に、互いに愛する愛の重要性を、この書簡で言葉を尽くして訴えてきました。その愛の訴えがここで頂点に達します。おそらくかなりの高齢になっている長老は、自分の長い生涯を通して主イエスから聞いてきた神についての教えを一点に絞り、もはや枝葉のことに触れることなく、その一点を繰り返し語ります。その一点とは、神は愛であるから、神からの者(神に属する者)は互いに愛すべきであるということです。この一点は、用語は違いますが、イエスが「父が慈愛深いのであるから、あなたたちも慈愛深い者であれ」と言われたのと同じです。ヨハネはこれを「愛《アガペー》」という用語で表現します。神は愛ですから、愛は神から出るものであり、愛する者は神から生まれ、神を知る者であり、愛さない者は神を知らないということになります(七〜八節)。
 ヨハネの神認識はきわめて実践的です。「愛する者はすべて、神から生まれ、神を知っている」のです。互いに愛するという実践的な場で、人間は神を知るのです。民族とか宗教とか文化の差異を超えて、人間は互いに愛するならば、その愛の中で人は誰でも神を知るのです。ある特定の宗教の者だけが神を知ることができるのではありません。厳しい修行と瞑想に没頭する者だけが神を知るのではありません。どの宗教の人間でも、もしその人が愛に生きているならば、その人は神を知っているのです。
 では、その愛に生きることが直ちに神を知ることであるという「愛」とは、どのような愛でしょうか。人間は誰でも生まれながらに愛を知っています。男は女を愛し、女は男を愛します。親は子を愛し、子は親を慕います。肉親の兄弟姉妹を愛し、友人・同胞を愛します。もしそのような愛に生きることが直ちに神を知ることになるのであれば、生まれながらの人間は全員神を知るはずであり、啓示も贖いも要りません。しかし、それは人間の愛であって、その愛で神の愛を知ることはできません。神の愛は人間の愛と異なる別種の愛であり、神がそれを啓示してくだされなければ知ることができない愛です。
 ヨハネは、「このことによって、神の愛がわたしたちに明らかにされたのです」(九節文頭)と言って、神が独り子を世に派遣された出来事、すなわちイエスが神を啓示する者として働き、わたしたちを命の領域に導き入れてくださった出来事を指さします(九節)。さらに、「ここに愛があります」(一〇節文頭)と言って、神の独り子イエス・キリストがわたしたちのために死なれた十字架の出来事を指し示します(一〇節)。ヨハネもイエスの十字架の死を、神の独り子によるわたしたちの罪過のための贖いと理解し、そう宣べ伝えています。これは、パウロが「わたしたちがまだ罪人であったときに、キリストがわたしたちのために死なれたことによって、神はわたしたちに対する御自身の愛を示された」(ローマ五・八)と言っているのと同じです。

     ヨハネはここで「贖い」《ヒラスモス》という語を用いています。この用語については二章二節の講解を参照してください。

 そして、このイエス・キリストの出来事によって啓示された神の愛は、生まれながらの人間がもつ愛と別種であるので、ヨハネはそれを別の用語で語ります。ギリシア人は、男女とか親子とか友人とか人間の間の自然の情愛は《フィリア》とか《エロース》という語で指しました。そういう情愛とは別種の愛が現れたので、その愛を受けて体験した新約聖書の証人たちは、それを《アガペー》という別の語で語りました。その中でもヨハネはとくにこの《アガペー》を多く用いて、自分の福音告知の中心に置いています(ヨハネ三・一六など)。
 「神の愛」と言っても、それは「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛してくださった」ことを指しています。ヨハネの言う愛は、高みに向かう人間の愛、より高い価値を慕う人間の愛《エロース》ではなく、低いところにいる人間、罪の中にいる人間に向かう神の愛です。《アガペー》は「降下する愛」です。

     新約聖書における《アガペー》・《フィリア》・《エロース》の用法と、ヨハネにおける《アガペー》の用例については、拙著『キリスト信仰の諸相』の第三部第三講「愛はすべてに勝つ―新約聖書における《アガペー》」、とくにその中の178頁以下「ヨハネにおける愛」を参照してください。そこでかなり詳しく触れていますので、ここでは簡略にします。また、《フィリア》とか《エロース》と呼ばれる人間の本性的な情愛と《アガペー》がどのような関係になるのかについては、同書195頁以下の「本性的な愛とアガペー」の項を参照してください。

愛における神の内住(四・一一〜一六)
 どのようにして神の愛がわたしたちに啓示されたか、そして啓示された神の愛とはどのような愛であるのかを語った上で、長老は改めて、「このように神がわたしたちを愛されたのですから、わたしたちもまた(このような質の愛をもって)互いに愛し合うべきです」と繰り返します(一一節)。そして、「もしわたしたちが互いに愛するならば」、どのようなことがわたしたちに起こるのかを語ります(一二〜一六節)。
 わたしたちが互いに愛するとき、わたしたちに起こることは、一言で言うならば、「神がわたしたちの内にとどまる」ということです。神がわたしたちの内にとどまるようになるという驚くべき出来事(それはわたしたち人間の内に起こる出来事です)が、この一段(一一〜一六節)を貫く主題です。その主題が様々な角度から見られて語り出されます。
 神は人間の五感で直接感知することはできません。「いまだかって神を見た者はありません」。その神がわたしたちの内にとどまり、働かれるのです。その姿を見ることはできませんが、現実に神がとどまって働いてくださり、わたしたちを愛される神の愛がわたしたちの内に貫かれ、現実のものとなります(一二節)。
 長老は、神との関わりの現実を語るとき、御霊のことに言及せざるをえません。神との関わりを現実にしてくださるのは御霊の働きであることを、身をもって体験しているからです。先には《クリスマ》(油)という用語で語られていましたが(二・二〇、二七)、ここでははっきりと《ト・プニューマ》(御霊)が用いられ、「神の御霊から与えられた」(直訳)と言われています。御霊がわたしたちの内に働いてくださっている事実によって、わたしたちは神の内にとどまっており、見えない神がわたしたちの内にとどまっていてくださることを、わたしたちは身をもって知るのです(一三節)。
 長老は、互いに愛する者の内に神がとどまってくださるということを語りながら、本書のもう一つの主題であるイエスを正しくキリストと言い表すことの必要に触れないではおれません。「わたしたち」、すなわち長老とその共同体は、「神が御子を世の救い主として遣わしてくださったことを見て、証して」きました。その証が結集されたものがヨハネ福音書です。その証を受け容れ、「イエスは神の御子であると言い表す者があれば」、その人は「命《ゾーエー》をもつ」と福音書では言われていました(ヨハネ二〇・三一)。そのことがこの書簡では、「神はその人の内にとどまり、その人は神の内にとどまる」と言われます。永遠の命とは、死生を超えて神の内にとどまることに他なりません(一四〜一五節)。
 「もしわたしたちが互いに愛するならば、神はわたしたちの内にとどまる」(一二節)と語り出した長老は、話題を一巡して再び出発点に戻ります。長老は改めて、「わたしたちは、神がわたしたちに対して持っておられる愛を知り、かつ信じています」と言います。わたしたちキリストにある者は、キリストの十字架においてわたしたちに対する神の愛が現されたことを見ており、また内に与えられた聖霊によって神の愛が注がれていることを体験しています。わたしたちは神の愛を「知っています」。そして、知っているだけでなく、その神の愛に自分の生涯と存在を委ねています。わたしたちの状況がどうであろうと、どのようなことが起ころうと、わたしたちは神が愛であるという事実に自分を委ねて生きています。この生き方が、「わたしたちは神の愛を信じています」と表現されます。長老は、自分の全存在をかけて、「神は愛です」と言い表し、神は愛であるから、その「愛にとどまる者は神の内にとどまり、神もその人の内にとどまる」と確言します(一六節)。
 このように、この一段(一一〜一六節)は「愛にとどまる者は神の内にとどまり、神もその人の内にとどまる」ことを語り出しています。ところが、この「人が神の内にとどまり、神が人の内にとどまる」という神と人との相互内住を明白に語る表現は、実は全新約聖書の中でここだけなのです。
 たしかに、「とどまる」という動詞はヨハネ特愛の表現であり、福音書と書簡に繰り返し出て来ます(計六七回)。しかし、福音書においては、イエスは弟子たちに「わたしにとどまっている」ことを求めておられるのであって(ヨハネ一五・四〜七)、「神の内にとどまる」ことは話題になっていません。書簡においても、「神」という名辞を用いて明白に「神の内にとどまる」ことが語られているのは、ここ(一五〜一六節)の二回だけで、他はすべて代名詞を用いて「彼の内にとどまる」です。
 そこで、この「彼」が神を指すのか、キリストを指すのかが問題になります。たとえば、「彼の誡めを守る者は、彼の内にとどまっており、彼もその人の内にとどまってくださいます」(三・二四)の「彼」は、日本語訳はみな「神」と訳しています。ここに明白に「神の内にとどまる」という表現がある以上、そう訳するのは間違いではありません。
 しかし、その箇所の講解で述べたように、キリストを指すと理解する方が適切ではないかと、わたしは考えます。そこで述べたように文脈からの解釈からもそう考えられますが、それ以上に、ヨハネ福音書に見られるように、ヨハネにおいても「イエスの内にとどまる」、あるいは「キリストの内にとどまる」ことが信仰の基本的表現であると見られるからです。
 パウロは「キリストの内に」《エン・クリストー》ということは繰り返し強調しますが、「神の内に(人がとどまる)」という表現は用いていません。また「神がわたしたちの内に(とどまる)」という意味の表現も用いていません。これは当時のユダヤ教徒においては当然のことと考えられます。捕囚以後のユダヤ教においては、神の超越性が強調されるようになり、神は人間から限りなく遠く離れた高みにいます方、近づきがたい光の中にいます方とされていましたから、「人が神の内にとどまり、神が人の内にとどまる」というようなことは考えられないことでした。それだけに、芯からのユダヤ人であるヨハネが「人が神の内にとどまり、神が人の内にとどまる」と言うようになったことは、福音、あるいはキリスト信仰がユダヤ教にもたらした変革がいかに重大なものであるかをうかがわせます。
 この変革への突破口を開いたのは、やはりパウロではなかったかと考えられます。パウロが《エン・クリストー》と言って、キリストにあって、あるいはキリストの内にあって体験した神との関わりを語るとき、そのキリストは復活して神と共にいます方ですから、自分が「神の内に」あるのだというところまであと一歩です。また、「キリストがわたしの中に生きておられる」(ガラテヤ二・二〇)というのも、神が私の内に生きておられる」という告白へあと一歩です。事実、「あなたたちの内に働いておられるのは神です」(フィリピ二・一三)と言って、神が人の内に働いておられることを明言しているところもあります。しかし、全体として見るとパウロは、その一歩を踏み越えず、あくまでキリストとの内住関係にとどまっています。ヨハネもキリストとの内住関係を信仰体験の基本としていますが、パウロよりも大胆にその一歩を踏み出して、「人が神の内にとどまり、神が人の内にとどまる」という神と人との相互内住まで進んでいます。これはおそらく、ヨハネがパウロよりもキリストを神とする告白において大胆だったからでしょう。ヨハネが「彼の内にとどまる」とか「彼がわたしたちの内にとどまる」というとき、その「彼」はキリストを指すのか神を指すのか、区別できないところまで来ています。
 しかし、超越的な神をいただくユダヤ教の中で、神が人間の内にあって働かれるという現実を地上にもたらされたのは、やはりイエス御自身であったと見ることができます。イエス御自身が内にいます神の霊によって語り働かれたからこそ、弟子たちに「(迫害されるとき)・・・実は、話すのはあなたたちではなく、あなたたちの中で語ってくださる父の霊である」と言われたのです(マタイ一〇・二〇)。この神の霊によって父と一つの交わりに生きられたイエスの現実を、同じ御霊によって体験しているヨハネ共同体は、イエスを「父の内にとどまる」方として、またその内に「父がとどまり、語り、働かれる」方として、その福音書において明確に描くに至ります。そのようなキリスト信仰の質が、ここで「人が神の内にとどまり、神が人の内にとどまる」と宣言させるに至ったと見ることができます。

愛は恐れを取り除く(四・一七〜二一)
 ここで述べたように、神の愛がイエスをキリストと信じる者たちに注がれ、その愛をもって兄弟が互いに愛し合う愛の交わりが生まれ、その愛の交わりの中に愛の神がとどまってくださるという、愛における神と人との相互内住が実現するとき、その愛の交わりに生きる者たちは、もはや神を終わりの日にわたしたちの罪過を責めて裁く方として恐れる必要はなく、神が世界を裁かれる日に、すでに親しい愛の交わりの中にある方として、安心して御前に出ることができます(一七節前半)。
 「愛がわたしたちの間に全うされているので、わたしたちは裁きの日に確信を持つことができる」理由として、長老は「それは、この世において、あのお方がそうであったように、わたしたちもまた同じ在り方をしているからです」と述べます(一七節後半)。長老はここで「あのお方」と言って、明らかにイエスを指しています。イエスが地上で生きられたように生きているので、神は御子イエスを愛されたように、同じように生きる者たちを愛し、御霊によって愛を注いでくださるので、ここに述べた愛の交わりが全うされることになり、その結果「わたしたちは裁きの日に確信を持つことができる」ようになります。
 長老とその共同体は、やがて「裁きの日」が世界に臨むこと、また「わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立つ」(コリントU五・一〇)ようになるという終わりの日の待望を、(パルーシア待望と同様に)周囲の主流の共同体と共有しています。それで、イエスと同じように生きることを裁きの日に確信をもって御前に立つことができることの根拠にすることになります。イエスと同じように生きてきた者を、裁き主であるイエス・キリストが断罪されることはないのですから。

     17節は、文頭の「このことにおいて」が文末の《ホティ》節を指すと見て、「この世において、あのお方がそうであったように、わたしたちもまた同じ在り方をしていることによって、愛がわたしたちの間に全うされ、わたしたちは裁きの日に確信を持つことができます」と訳すこともできます。この私訳は(新共同訳と共に)文末の《ホティ》節を理由を示す節と理解しています。どちらの訳をとっても、この節の大意は変わりません。

 わたしたちの内に愛が全うされるとき、わたしたちは裁きの日に確信をもつことができるという前節の内容を、長老は「愛には恐れがありません。完全な愛は恐れを外に追い出します」と、「恐れ」という語を用いて言い直します(一八節前半)。ここでいう「恐れ」は裁きの日に断罪されるのではないかという不安とか恐れです。そういう意味の「恐れ」であることを、すぐに続く「恐れは(裁きの日における)処罰と関わるものであるからです」という文で説明します。ですから、もし裁きの日の断罪を恐れている者があれば、その人はまだ「愛において全うされていないから」ということになります(一八節後半)。
 一八節の「恐れ」は、直接的には裁きの日の処罰に関わるものですが、この「愛には恐れがない」という一文は、さらに一般的な意味で愛の本質を語っています。わたしたちの人生には様々な不安や恐れがあります。そのような人生の中で、わたしたちが愛に徹して生きるならば、「愛は恐れを追い出す」ことになり、わたしたちは不安とか恐れのない人生を歩むことになります。それは、聖書のいう愛は、自分をゼロの場に置いて、無条件絶対の神の愛を受け、その愛によって無条件に隣人を愛するのですから、自分や周囲の状況が将来どうなるかは不安とか恐れの対象ではなくなるからです。パウロは愛について、「愛はすべてを包み、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを担う」(コリントT一三・七私訳)と言いましたが、この「すべて」をどのような相手をも、またどのような状況でもと理解すると、このような愛は人生における恐れを駆逐することが理解できます。
 「恐れている者は愛において全うされていない」のだと言った長老は、そのような者と対比して、「(この共同体に属する)わたしたちは愛している」のだと強調します。「わたしたち」は強調されています。そして、「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」と、共同体の内に宿る愛の根拠を改めて指し示します。神がまずわたしたちを愛してくださったからこそ、その愛を受けてわたしたちも互いに愛し合うことができるのです(一九節)。
 長老は、これまで繰り返し、神を愛することと兄弟を愛することが一体であることを強調してきました。神の愛を語るこの段落を、やはりこのことを説いて締めくくります。長老が、神を愛していると言いながら兄弟を憎む者を偽り者だと決めつけるのは、おそらく共同体の交わりから出て行った者たちのことを語っているのでしょう。彼らは自分たちが霊なる神との深い交わりを持つことを誇り、神に愛され神を愛していることを標榜していたのでしょう。ところが、自分たちの知識に誇り、長老の証に飽きたらないとして共同体から出て行った者たちは、その際に長老のもとに残る兄弟たちに軽蔑とか反感を露わにして出て行ったのでしょう。長老はそれを「兄弟を憎んでいる」と表現しています。そして、「現に見ている兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできません」と、その行動を神を愛していないことの証拠として突きつけます(二〇節)。
 最後にもう一度、「神を愛する者は自分の兄弟をも愛すべきです」と説き、「これこそわたしたちが彼から受けた誡めです」と締めくくります。「彼から受けた誡め」とは、ヨハネにおいては、神から主イエス・キリストを通して受けた誡めという意味になっています。神から受けた愛をもって兄弟を愛すること、これこそイエス・キリストを通して御自身を示された神、新約の神の唯一究極の誡めなのです(二一節)。

「壁の中の愛」?
 ところで、ヨハネは兄弟を愛することの重要性を繰り返し強調しますが、イエスが語られた「隣人を愛する」という表現を用いていません。それで、ヨハネの説く愛は、イエスを信じる者たちの共同体の内部での愛に限定され、広く社会で接する隣人への愛、敵をも愛する愛は視野に入っていない、すなわち「壁の中の愛」ではないかという批判が出てきます。この問題は、すでに前著『キリスト信仰の諸相』(185頁)で取り上げましたが、ヨハネの手紙の理解において重要ですから、ここでもう一度要約しておきましょう。
 長老が兄弟愛を強調するのは、今までに見てきたように、共同体の分裂の危機に対処するという実際上の必要があるからでしょうが、それだけでなくヨハネの思考の枠組みという基本的な視点から見なければなりません。ヨハネの思考は、福音書に見られるように、命と光の領域と死と闇の領域という、交わることのない二つの領域の対立という枠組みの中で動いています。このような枠組みの中では、愛《アガペー》は命の領域を構成する原理であって、死の領域にはありません。イエスを信じることによって死の領域から命の領域に移った者たちにとって、その領域で出会う隣人はすべて同じ父から生まれた兄弟であり、愛《アガペー》は兄弟の間での愛となります。その愛は、その兄弟の(この世の物差しで測った)価値と無関係に、ただ同じ父から生まれた兄弟であるがゆえに愛する愛となります(五・一参照)。その愛は、特定の価値を共有する仲間内の愛とか、自分にとって価値ある相手に対する愛(相対的な愛)ではなく、人間の物差しを絶した無条件の愛となり、イエスが説かれた相手の価値に絶した絶対の愛となっています。ヨハネが説く兄弟愛は、このような相手の価値に絶した絶対の愛ですから、兄弟愛を意味する《フィラデルフィア》という語が、一視同仁の「博愛」という意味になりうるのです。


  世に勝つ信仰(五・一〜一二)

 1 イエスがキリストであると信じる者はすべて、神から生まれたのであり、また、生んだ方を愛する者は皆、その方から生まれた者を愛します。2 このことによってわたしたちは、神を愛し、その誡めを守るときは、神の子たちを愛していることを知ります。3 神を愛するとは、神の誡めを守ることです。そして、神の誡めは難しいものではありません。4 すべて神から生まれた者は、世に打ち勝つからです。そして、わたしたちの信仰こそ、世に打ち勝った勝利です。
 5 世に打ち勝つ者とは誰か。それは、イエスを神の御子と信じる者の他にあろうか。6 この方は水と血とによって来られた方、すなわちイエス・キリストです。この方は、水だけでなく、水と血とによって来られた方です。そして、証する方は御霊です。御霊は真理だからです。7 証するものが三つあります。8 御霊と水と血です。そして、この三つは一致します。9 もしわたしたちが人間の証を受け容れるのであれば、神の証はさらに大きいものです。神の証とは、御自身の御子についてなされた証だからです。10 神の御子を信じる者は、この証を自分の内にもっています。神を信じない者は、神を偽り者とするのです。それは、神が御自身の御子についてなされた証を信じないからです。11 そして、その証とは、神がわたしたちに永遠の命を与えてくださったこと、また、その命が御子の内にあることです。12 御子をもつ者は命を持つのです。神の御子をもたない者は命を持っていません。

愛は打ち勝つ(五・一〜四)
 最後に長老はこの段落(五・一〜一二)で、イエスをキリストと信じる信仰こそ世に打ち勝つ力であることを語ります。ヨハネにおいては、世《コスモス》とは、神に背き、神に敵対する霊的な力が支配する闇と死の領域に他なりません。その闇の支配から救い出されて光と命の領域に移ることが救いです。そして、その「世から救い出される」ことを、ここでは積極的に「世に打ち勝つ」と表現します。
 人間は、自分の力と努力で世に打ち勝つことはできません。命と光の領域から遣わされてこの世に来られたイエス・キリストを信じ、その方に合わせられることによってのみ、世の支配を脱し、光と命の領域に移ることができるのです。これがヨハネの使信の核心です(ヨハネ六・二九参照)。この使信がここで、「世に打ち勝つ」という表現を用いて詳しく展開されます。
 段落の前半(一〜四節)では、イエスを神が世に遣わされたキリストであると信じる者は、神から生まれた者であるゆえに世に打ち勝つのだと、その勝利の消息が語られます。神から生まれた者は、生んだ方(親)を愛し、生んだ方(親)を愛する者は皆、その同じ親から生まれた者(兄弟)を愛するので、互いに愛しなさいという神の究極の誡めを守っていることになります。こうして、イエスがキリストであると信じる者は、このキリストを通して賜る愛の命(それは神の命です)によって、自我性を原理とする世に打ち勝ち、神の命の領域に生きることになります。愛《アガペー》は、先に見たように、すべてに打ち勝つ力だからです。
 ところで、長老は「イエスがキリストであると信じる者はすべて、神から生まれたのである」と言って、神を「(わたしたちを)生んだ方」と呼んでいますが、奇妙なことに、ヨハネの手紙には神を父と呼ぶ用例がありません(唯一の例外はヨハネ書U三節の定型的な挨拶文だけ)。これは、ヨハネ福音書のイエスがいつも神を父と呼んでおられただけに、奇妙だという印象を避けることができません。イエスが神を父と呼んでおられたことは、共観福音書の伝承が一致して伝えるもっとも確実な伝承であり、ヨハネ福音書も他のどの福音書よりも多く、イエスが神を「父」と呼ばれた事例をあげています。それだけに、この手紙で一度も神を「父」と呼ぶ事例がないのが不思議です。イエスが神を父と呼ばれた事例を繰り返し語った長老も、自分の言葉で手紙を書くときには、ユダヤ人としての生地が出て、神という呼び方しかできなかったのでしょうか。

神の証し(五・五〜一二)
 段落の後半(五〜一二節)では、同じ「世に打ち勝つ者」という主題が、「イエスを(キリストの代わりに)神の御子と信じる者」と言い換えられて続きます(五節)。後半では、イエスを神の御子と信じる根拠となる「神が御自身の御子についてなされた証し」が取り上げられます。
 イエス・キリストは「水と血とによって来られた方」とされ、そのことが「水だけでなく、水と血とによって来られた方」と補足されて、「血によって来られた方」であるという面が強調されています(六節前半)。この表現は、長老ヨハネの教えに批判的な教師たちが、イエスが水のバプテスマをお受けになったときキリストが降り、イエスが十字架につけられる直前にキリストはイエスを去ったとする仮現論的なイエス・キリストを説いたことに対する反論であると考えられます。
 イエス・キリストは「水を通して」来られました。すなわち、イエスが洗礼者ヨハネからバプテスマを受けられたとき、聖霊が降り、その聖霊がイエスは神の子であることを証ししました。長老の批判者たちは、イエスはこの時から神の子キリストとして、すなわち霊界の奥義の啓示者として働かれたが、このキリストはイエスが十字架につけられる直前にイエスを去って、十字架の上で苦しんだのは人間イエスであるとしました。神の子であるキリストが十字架につけられて苦しむというようなことはありえないとするからです。
 それに対して長老は、イエス・キリストを「水だけでなく、水と血とによって来られた方」とします。すなわち、キリストはバプテスマのときに受けられた聖霊によってキリストとしての働きをされただけでなく、十字架の上で血を流した方として、真に救済者キリストあるのだとするのです。長老がキリストを「血によって来られた方」であると強調するのは、パウロが「十字架につけられたままのキリスト」《クリストス・エスタウロメノス》を強調したのと同じ線上にあります。

     六節前半の「水と血とによって来られた方」では《ディア》(を通して、によって)という前置詞が用いられていますが、それを補足する「水だけでなく、水と血とによって来られた方」では《エン》(において、によって)が用いられています。この前置詞の違いはとくに意味があると考えられないので、両方とも「によって」と訳しています。
     なお、ここの「水と血によって来られた方」という記事と、ヨハネ福音書一九章三四〜三五節の「血と水が流れ出た」という記事との関連については、同箇所の講解を参照してください。

 イエス・キリストは「水だけでなく、水と血とによって来られた方」であるという宣言に、「証する方は御霊です。御霊は真理だからです」と、聖霊の証が続きます(六節後半)。イエスがバプテスマをお受けになったとき聖霊が降り、天から「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声があったことは、各福音書が伝えています。キリストが「水を通して来られた方」であることが、聖霊によって証しされたのです。では、キリストが「血によって来られた方」であることは、どのようにして聖霊によって証しされたのでしょうか。
 イエスが逮捕され、裁判を受け、十字架刑によって処刑された様子は、各福音書が詳しく物語っています。しかし、そのとき実は「キリスト(復活者であり救済者であるキリスト)がわたしたちの罪のために死んでくださった」という出来事が起こっていることは、いったい誰が知ることができましょうか。これは「人の心に思い浮かびもしなかったこと」です。ただ神の御霊だけがこの奥義を啓示してくださいました。この啓示の働きはすでに旧約の預言者から始まっています。イスラエルの預言者たちは神の霊を受けて、やがて世に遣わされるメシアは、世の人々に代わって苦しみを受けることによって人々を救うことになると証ししました(たとえばイザヤ書五三章)。そして、その出来事が実際に起こったとき、御霊はイエスに従う弟子たちに働き、イエスが復活して生きておられることを現すと同時に、その十字架上の死が「キリストがわたしたちの罪のために死んでくださった」出来事であることを啓示したのです。
 この「御霊の証し」は、パウロの場合はとくに明確です。イエスを信じる者を迫害していたパウロは、実はイエスを迫害していたのです。そのパウロは復活されたイエスの顕現に接して回心し、その後、聖霊の導きの中で、キリストであるイエスが死なれたのは自分のためであることを深く自覚するようになります(ガラテヤ二・二〇)。そして、「十字架につけられたままのキリスト」《クリストス・エスタウロメノス》を福音として宣べ伝えることに生涯を捧げます。この「御霊の証し」は、その後も連綿として続き、二〇〇〇年後に(イスラエルの地から見れば)地の果てにいる塵のようなわたしにも、御霊は働いてくださり、「わたしはあなたのために死んだ」という「十字架の言葉」そのものである復活者キリストを啓示してくださったのです。
 こうして、「イエスこそ肉を取って来られたキリストである」という長老の告知は、「証するものが三つあります。御霊と水と血です。そして、この三つは一致します」と、三つの証しによって保証されます(八〜九節)。イエスにおける水(バプテスマ)と血(十字架)の出来事は、内なる御霊の啓示と一致して、イエスが肉の形をとって世に来られた神の御子キリストであることを保証しています。
 この三つの証は、神が御自身の御子についてなされた証し、すなわち「神の証し」として、人間は当然受け容れるべきものであることが説かれます(九節)。人間社会でも、二人の証人が一致すれば、その証言は真理として受け容れられ、それに基づいて判決が言い渡されます。まして、「神の証し」は人間の証しよりも確かなものですから、すべての人間はそれを受け容れて、イエスを神の御子キリストと信じ、その事実に基づいて生きるべきです。
 この「神の証し」に直面して、人は二つに分かたれます。この証しを受け容れてイエスを神の御子と信じる者は、この証しを「自分の内に」持つことになります。イエスが神の御子であるという事実は、もはや外からそう言い表すように強制される教義や信条ではなく、自分の魂の奥深くに宿る真理となり、そこから神の御子であるイエスに従う生き方が自然にあふれ出てくるようなります。それに対して、この証しを受け容れない者は、神が御自身の御子についてなされた証しを信じないのですから、「神を偽り者とする」という不条理きわまる罪を犯しているのだと、長老は警告します(一〇節)。
 神の証しを受け容れる者と拒む者の対比を明らかにした上で、御子を信じる者が自分の内にもつ証しがどのような内容であるか、「その証とは、神がわたしたちに永遠の命を与えてくださったこと、また、その命が御子の内にあることです」と明らかにします(一一節)。御子を信じる者は、永遠の命が今自分の内にあるという証し(確証)を持っています。しかも、この永遠の命は御子の内にあるのです。御子がおられないところには、永遠の命はありません。「御子をもつ者は命を持つのです。神の御子をもたない者は命を持っていません」(一二節)。この確信と理解からヨハネ福音書が生み出されています。

     一二節の「命を持つ」とか「御子を持つ」というのは、日本語としては不自然な表現ですが、ギリシア語原語では「持つ」という同じ動詞を用いて、「その命が御子の内にあること」を語っているので、その点を明確にするため、不自然な日本語になりますが、あえて「持つ」という同じ動詞を用いて訳しておきます。


  結び(五・一三〜二一)

 13 神の御子の名を信じているあなたたちにこれらのことを書き送ったのは、あなたたちが永遠の命を持っていることを知ってもらいたいからです。
 14 そして、神に対するわたしたちの確信はこうです。すなわち、もしわたしたちが神の御心にかなうことを願うならば、神は聞き届けてくださいます。15 また、わたしたちが願い求めたことは聞き届けてくださることを知っているのであれば、わたしたちが神に願い求めたものはすでに得ていることを知ります。
 16 もし兄弟が死に至らない罪に陥っているのを見たならば、願い求めなさい。そうすれば、その人に命を与えることになります。それは、死に至らない罪に陥っている者たちの場合です。死に至る罪があります。そのような罪については、願い求めるようにとは言いません。17 不義はすべて罪です。しかし、死に至らない罪もあります。
 18 わたしたちは知っています。すべて神から生まれた者は罪に陥ることはありません。神から生まれた方がその人を守り、悪しき者がその人に触れることはありません。19 わたしたちは知っています。わたしたちは神からの者ですが、世の全体は悪しき者の下に置かれています。20 わたしたちは知っています。神の御子が来て、真理なる方を知る理解力をわたしたちに与えてくださいました。わたしたちは真理なる方の内におり、その方の子であるイエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真正の神、永遠の命です。21 子たちよ、偶像から身を守りなさい。


手紙の意図(五・一三)
 長老はここで、「これらのことをあなたたちに書き送ったのは」と言って、ここまで書いてきた手紙の意図と内容をまとめます。長老は、「神の御子の名を信じているあなたたち」、すなわち自分が告知してきた神の御子イエス・キリストを信じている者たちの共同体に向かって書いてきました。その手紙の目的は、「あなたたち(御子の名を信じている者たち)は現に永遠の命を持っている」ことを悟ってもらいたいからです。原文には「現に」という語はありませんが、長老が言いたいことを明確にするためには補うとよいでしょう(一三節)。
 手紙の全体としての意図を明らかにした上で、長老は筆を擱く前に、なお気にかかることを二三、念を押すように書き加えます(一四節以下)。
祈りについて(五・一四〜一五)
 最初に、「神に対するわたしたちの確信はこうです」と言って、祈りに関する勧告をします(一四〜一五節)。この勧告は、「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる」(マルコ一一・二四)と言われたイエスの語録を敷衍しています。この箇所で「神」と訳した原語はすべて「彼」ですが、祈りは本来神に向けられたものであるという理解から、ここの「彼」は神を指すと理解して訳しています。ヨハネ福音書(一四・一三)では、イエスが「あなたたちがわたしの名によって求めることは何でも、わたしがそれをする」と約束しておられます。ヨハネにおいては、神がなしてくださることと、復活者イエス・キリストがなしてくださることが重なっています。
 このイエスの語録は、祈りに関する重要な教えとして広く共同体に伝承されていたと見られます。しかし、実際の祈りの体験においては、「そのとおりになる」とはならない場合も出てきます。それで、このような聞き届けられない願い(祈り)について、「願い求めても与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです」(ヤコブ四・三)のような説明がなされるようになります。ヨハネも、「もしわたしたちが神の御心にかなうことを願うならば」という一文を加えて、この問題に対処しています。
 しかし、わたしたちが主イエス・キリストの名によって、すなわちイエス・キリストと一つに合わせられた者として、自分の全存在を父の絶対恩恵に委ねて祈り求めるとき、動機とか条件は吹っ飛び、父はその祈りを聞き届けてくださっていることを確信することができます(ヨハネ一五・七)。ただ、それがどのような形で自分の身に起こるのかは父に委ねて、「願い求めたものはすでに得ている」と、平安の内に父がなしてくださるのを待つことができます。一五節はこの境地を語っています。

罪に陥っている兄弟について(五・一六〜一七)
 次に、罪に陥っている兄弟のための祈りについて勧告します(一六〜一七節)。長老は、罪にも「死に至らない罪」と「死に至る罪」があるとして、「死に至る罪」については、命への復帰を神に祈り求めるようにとは言いません。ただ、「死に至らない罪」に陥っている兄弟については、「(神に)願い求めなさい。そうすれば、その人に命を与えることになります」と勧告します。
 「死に至らない罪」でも、罪は罪です。神の御心に背き、御霊を悲しませる在り方です。それを悔い改めることなく続けると、ついには命《ゾーエー》を失うことになります。そのような状況に陥っている兄弟については、執り成しの祈りをもって願えば、神は赦して再び命を与えてくださり、その祈りはその兄弟を十全な命の交わりに復帰させることになる、と励まします。   
 この「死に至らない罪」と「死に至る罪」の区別はどこにあるのか、具体的にはどのような罪を指しているのかが注解者の間で議論されてきました。この手紙自体の中では、もはや執り成しの祈りをすることができない「死に至る罪」とは、イエスがキリストであることを否定することを指しているのでしょう。そのような人たちに対しては、もはや神に願い求めることはないと、長老は突き放します。しかし、イエスをキリストと言い表す信仰の交わりの中で、弱さのゆえに犯す罪の行為や罪の状況については、兄弟は互いに執り成しの祈りをもって、命の交わりを保つようにと励まします(ヤコブ五・二〇)。
 ところが、この「死に至らない罪」と「死に至る罪」の区別は、その後のキリスト教の歴史において重大な影響を及ぼすことになります。もともとイエスも「赦される罪」と「赦されない罪」があることを語られました(マルコ三・二八〜二九)。それがどのような罪を指すのか、各時代の教会が様々な解釈をして、改悛を経て赦す場合と、教会から最終的に放逐する場合を規定しました。その解釈の歴史については、この講解の範囲を超えますので、その方面の専門書に委ねることにします。

真理の認識(五・一八〜二一)
 最後に長老は「わたしたちは知っています」を三回繰り返して、共同体が認識し、それによって生きている基本的真理を確認します(五・一八〜二一)。
 まず、「わたしたちは知っています。すべて神から生まれた者は罪に陥ることはありません」と言って、御子を信じることによって神から生まれた者は罪の支配から解放されており、罪を克服して生きることができること、すなわち信仰は実際の生き方を変えることを確認します。そして、その理由として、「神から生まれた方がその人を守り、悪しき者がその人に触れることはありません」と続けます。「神から生まれた方」イエス・キリストが「神から生まれた者」であるわたしたちを守ってくださり、神に敵対し、神からわたしたちを引き離そうとする「悪しき者」がわたしたちに触れるのを許されないからです(一八節)。

     ここでわたしたちを指す「神から生まれた者」とイエス・キリストを指す「神から生まれた方」が、同じ「生む」という動詞の受動態分詞形で表現されています。わたしたちを指す形は現在完了形で、イエス・キリストをさす形はアオリスト(過去形)であるという時制の違いだけです。わたしたちの場合は、神から生まれた者として現に今ここにいるという意味であり、イエス・キリストの場合は過去の出来事として見られているのでしょう。しかし、ここで救われる者と救う者の同質性が語られていることが注目されます。

 さらに長老は、「わたしたちは知っています。わたしたちは神からの者ですが、世の全体は悪しき者の下に置かれています」と述べます(一九節)。ここで、イエスを神の御子キリストと信じる者の共同体「わたしたち」と、「世《コスモス》の全体」の対立が、「神からの者」と「悪しき者の配下に置かれている者」の対立として、すなわち神と(神に敵対する)悪しき者の対立として語られています。ヨハネにおえる「世」は、世間一般を指したり、ユダヤ教共同体を指したり、様々な意味合いで用いられていますが、ここのギリシア語《コスモス》を当時のギリシア人が用いていた「宇宙、全存在界」という意味で受け取りますと、《コスモス》を悪と見るグノーシス主義と同じ方向にあることになります。これは、ヨハネ文書が後の時代のグノーシス主義者たちに愛好された理由の一つとなります(グノーシス主義は「反宇宙論的二元論」を特色とします)。
 最後に長老は、「わたしたちは知っています。神の御子が来て、真理なる方を知る理解力をわたしたちに与えてくださいました」と語ります(二〇節前半)。この「真理なる方」は、続く句に「その方の子であるイエス・キリスト」とあることから、神を指すことが分かります。神の御子である方がイエスとして世に来られて、「真理なる方(神)を知る理解力をわたしたちに与えてくださいました」。ここで「理解力」と訳した《ディアノイア》は、「理解、悟り、心」と訳してもよい語です。《グノーシス》(知識)という語こそ用いていませんが、救い主の働きを、真理なる神を悟る理解力を与えて、悪の世《コスモス》から救い出すこととするのは、まさにグノーシス主義の特色です。
 このような表現(一八〜二〇節)を見ると、ヨハネを「素朴な形のグノーシス主義」とする見方(ケーゼマン)も分からないこともないのですが、やはりヨハネは贖いとか来臨とか終わりの日の裁きというようなユダヤ教の救済史的な理解を核とするユダヤ人であって、それを語るのに当時のギリシア人の思想の枠組みや用語を用いているために、このようなグノーシス主義的な表現が出てくるだけだと見るべきでしょう。それは、エフェソ書がギリシア人にキリストを提示するために、ギリシア思想の土俵でグノーシス主義と戦い、その結果文書自体がグノーシス主義的な雰囲気を染みこませているのと同じ現象でしょう。

     ヨハネはここで神を「真理なる方」と呼んでいます。「真理」《アレーセイア》はヨハネ特愛の用語ですが、ここでは、真理の総体、真理を体現する人格存在としての神を指す語として、男性単数形の形で用いられています。イエス・キリストにつけられた「真正の神」という表現も、直訳すれば「真理な神」とでも言うべきでしょうか、「真理」《アレーセイア》の形容詞形が用いられています。

 「神の御子が来て、真理なる方を知る理解力をわたしたちに与えてくださいました」結果、「わたしたちは真理なる方の内におり、その方の子であるイエス・キリストの内にいる」ようになりました。ヨハネにおいては、これまでも繰り返し見てきたように、真理なる方(神)の内にいることと、イエス・キリストの内にいることは重なっています。イエス・キリストはその「真理なる方」(神)の子、すなわち神と同質の方だからです。そのことを長老は、「この方(イエス・キリスト)こそ、真正の神」と断言します。この告白は、福音書においては、最後にトマスが復活者イエスに向かって、「わたしの主、わたしの神」といった言葉で告白されていました(ヨハネ二〇・二八)。さらに一息に「そして(この方こそ)永遠の命です」と続けます。イエスをこのような方と信じ、この方の内に生きることが永遠の命です。この永遠の命を世に示すことがヨハネ福音書の目的でした(ヨハネ二〇・三一)。永遠の命を語るためのこの手紙(一・二)は、「永遠の命」という言葉で結ばれます(二〇節後半)。
 ただ、やや取って付けたように「子たちよ、偶像から身を守りなさい」という警告が加えられます(二一節)。イエス・キリストこそ、まことの神、永遠の命なのですから、この方から離れることは永遠の命を失うことになります。このまことの神であるイエス・キリストに背を向けて、他の何かを神として拝むならば、それは偶像礼拝であり、命を失う行為となります。それこそ「死に至る罪」となります。このことだけは心するようにと、長老は付け加えないではおれなかったのでしょう。

 


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