ルカ福音書講解 1 


    第1章 洗礼者ヨハネとイエスの登場  

                           ―― ルカ福音書 三章 〜 四章(一三節) ――



はじめに

「誕生物語」の扱いについて

 ルカ福音書には、イエスの誕生の次第と少年時代のエピソードを伝える「誕生物語」(一〜二章)があります。しかし、本来のルカの福音書は、序言(一・一〜四)の後、三章一節から始まっていたのではないかと推察されます。そう推察する根拠をあげておきます。

  著者自身が、先に著した第一巻(ルカ福音書)について、「イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました」と、第二巻の序文で言っています(使徒一・一〜二)。誕生から始まるイエスの生涯を伝えるとは言わないで、あくまでイエスが公の舞台に登場して活動し、その奇跡などの働きを示し、教え始めてからのことを書き記したとしています。イエスの登場は、洗礼者ヨハネの活動の時ですから、福音の告知は、洗礼者ヨハネのバプテスマ運動から始まるのが普通です。これは、マルコ福音書に典型的に見られるように、使徒たちの福音宣教に共通するパターンです(ルカ自身がまとめた使徒言行録一〇章のペトロの説教も参照)。また、使徒たちの福音告知は、弟子として目撃した師イエスの働きと教えの証言ですから、それが洗礼者ヨハネのもとでイエスと出会ったところから始まるのは自然です。ルカがこの共通のパターンに従って福音書を著述したとすると、それは三章の洗礼者ヨハネの活動を伝える記事から始まることになります。

  ルカは自分の著作をローマの高官であるティオフィロに献呈しています。その献呈の文(一・一〜四)の続きとしては、「皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督・・・・・・であったとき」(三・一)という文で、これから述べる出来事をローマの歴史に位置づけるのが自然です。そうしないで、ローマの教養人にはまったく無縁なユダヤ教の祭司のことから始め、「ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリヤという人がいた」(一・五)というような文を続けることは考えにくいことです。

  一章(五節)から二章にかけての「誕生物語」は、三章以下の本体部と違って、ユダヤ教の枠の中で記述されており、きわめて強くユダヤ教世界での成立を示唆しています。旧約聖書の引用が圧倒的に多いだけでなく、その用語(ヘブライ語の使用を予想させる語法)や思考がきわめてユダヤ教的であり、クムランなどの黙示思想の影響もかなり認められます(これは「誕生物語」を取り扱うときに触れることになります)。この事実は、「誕生物語」がルカの著述と別起源のものであり、後でルカの著述に組み入れられた可能性を示唆しています。著者のルカ自身が編集して自分の著作の序章として用いた可能性も十分あり、むしろそう見るべきですが、ここでは一応別起源の文書として扱います。

 このような根拠に基づいて、「誕生物語」を本来のルカの著述に属するものではないと推察するのは、けっして「誕生物語」の信仰的価値を無視するものではなく、また、それを不必要として削除するものでもありません。その成立とルカの著述に含まれるようになった経緯はともかく、この「誕生物語」もルカ福音書の不可分の一部であり、その使信を真剣に受け取らなければなりません。しかし、そのためには考慮にいれなければならない前提や要素があまりにも多いので、今回は割愛してルカの福音書の本体部分から入り、「誕生物語」の考察と解釈は、適当な機会を見て、別に行うことにします。


講解の進め方について

 この「ルカ福音書講解」は、新共同訳の「ルカによる福音書」をテキストとして、その段落区分に従い、段落ごとの解説という形で進めていきます。段落のテキストは、新共同訳新約聖書を見ていただくことにして、この講解の本文には掲げません。段落の標題と章節を、ゴシック体の文字であげておきますので、その段落の本文をお手持ちの聖書で読んでから、この講解に入っていただくようにお願いします。段落には通し番号をつけて、後で参照しやすいようにしておきます。

 段落区分は新共同訳に従いますが、ギリシア語テキストの日本語訳としては、新共同訳と協会訳(口語訳)を対等に扱い、必要に応じて文語訳、新改訳、岩波版新約聖書翻訳委員会訳の中の佐藤研訳、岩波文庫版の塚本訳を適宜参照します。また、必要に応じ、私訳による講解を行います。

 ルカ福音書の成立事情、その構成などについては、先に「序章・ルカ二部作の成立」で扱いましたので、繰り返しません。ただ、本講解では、一〜二章の「誕生物語」を別扱いとすることになりますので、三章以下を次のような区分で扱うことになります。

 序 章 洗礼者ヨハネとイエス(三章一節 〜 四章一三節)

 第一部 ガリラヤでの「神の国」宣教 (四章一四節 〜 九章五〇節)

 第二部 エルサレムへの旅  (九章五一節 〜 一九章二七節)

 第三部 エルサレムでの受難と復活 (一九章二八節 〜 二四章五三節)

 先に「ルカ二部作の成立」で見ましたように、第一部と第三部では、ルカはほぼマルコに従っています。その部分ではマルコとの違いに重点をおいて、ルカの福音理解の独自性を見ることになると思います。マルコと重なるところは、重複を避けるために、マルコ福音書講解に委ねて、この講解では簡単にしておきます。これは、マタイ福音書講解でしたのと同じ講解の進め方です。ルカの特殊資料が多く含まれる第二部には、ルカの独自性がよく出ていますので、その部分の講解が詳しくなることと思います。

   
  T 洗礼者ヨハネのバプテスマ運動

 

13 洗礼者ヨハネ、教えを宣べる(三・一〜二〇)

洗礼者ヨハネ登場の時代背景

 イエスが公の舞台に登場されるのは、洗礼者ヨハネのバプテスマ運動の中からです。それで、イエスの宣教とその働きを語り伝える福音書は、洗礼者ヨハネの登場から始まるのが基本的なパターンです。ルカの著述も、マルコ福音書と同じく、もともとは洗礼者ヨハネの登場から始まっていたと考えられます。ただ、マルコ福音書が洗礼者ヨハネの登場を、あくまでイエスの先駆者としての意義だけに絞って簡潔に描いているのに対して、ルカは歴史家らしく、洗礼者ヨハネの活動の歴史的状況と、その宣教内容の実際をやや詳しく描きます。まず、歴史的状況から見ましょう。これはイエスの活動の歴史的状況でもありますから重要です。

 1 皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、2 アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。(三・一〜二)

 ルカはこの著作をローマの高官テオフィロに献呈しています。それで、これから述べる出来事が、いつ、どこで起こったのかを、ローマの歴史の中に位置づけます。まず、それが皇帝ティベリウスの治世の時代の出来事であり、その発端が「皇帝ティベリウスの治世の第十五年」であることを明示します。この年代の明示はルカだけが行っており、ルカの歴史家としての面をのぞかせています。

 ティベリウスは、ローマに皇帝制を導入し初代の皇帝となったアウグストゥスの後を継いで第二代の皇帝となり、紀元14年から37年までローマ帝国を統治します。その「治世の第十五年」は紀元28年か29年になります。この年は、洗礼者ヨハネの宣教活動の開始の年であると共に、イエスの登場の年でもありますから重要です。

 ルカは続いて、この出来事が起こった場所とその政治状況を述べます。これから述べる洗礼者ヨハネの活動(とそれに続くナザレのイエスの活動)は、「ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき」に起こったことだと、世界の歴史の中に位置づけます。

 ヘロデ大王が前四年に死去したとき、彼は支配領域を三つに分け、三人の息子に統治を委ねました。彼らはローマから「領主」の称号を与えられて、その統治を認められました。南のユダヤ・サマリア・イドゥメアを支配したアルケラオスは、領民を残酷に支配したので、民は皇帝に訴え、アウグストゥス帝は彼を解任します(六年)。それ以後、この地域はローマから派遣される総督が統治する総督直轄領になります。洗礼者ヨハネとイエスの時代の総督がポンティオ・ピラトです(二六〜三六年)。ピラトはユダヤ人やサマリア人の宗教感情を無視する統治をしたため、絶えず紛争を招き、最後にサマリア教徒虐殺の咎を問われて召還されます。

 ヘロデ大王の息子の一人ヘロデ・アンティパスはガリラヤとペレア(ヨルダン川東岸)を受け継ぎ、前四年から三九年まで統治します。洗礼者ヨハネとイエスの活動はこのヘロデ統治の地域と時期になりますので、深い関わりをもつことになります。
 同じくヘロデ大王の息子の一人(従ってヘロデ・アンティパスの兄弟)のフィリポがイトラヤとトラコン地方(ガリラヤ湖北東に広がる地域、現在のゴラン高原を含む)の領主となります。

 アビレネというのはフィリポの領地のさらに北に続く細長い地域ですが、その領主のリサニアについては正確なことは分かりません。また、この領主は福音書の出来事とほとんど関わりはありません。

 このような政治的な支配者よりも重要なのは、当時のユダヤ教共同体の宗教的指導者である大祭司です。政治的には三分割されていますが、以上の地域は、サマリアとアビレネを除いて、ユダヤ教徒が多数を占める地域です。ユダヤ教徒でないギリシア人もいましたが、この地域のユダヤ教徒共同体を統治する大祭司は王のような強大な権力をもち、その地位は絶えず争奪の的でした。大祭司は原則として一人ですが、この時期の大祭司としてアンナスとカイアファの二人の名があげられています。アンナスは六年から一五年まで大祭司職にありましたが、退いてからも絶大な権勢をふるい、五人の息子と孫までも大祭司の地位につけて背後から権力を振るいました。このようにアンナスによって操られる大祭司の一人で、洗礼者ヨハネとイエスの時代に大祭司職にあったのがカイアファ(アンナスの女婿、在位一八〜三六年)です。このような実情をルカは「アンナスとカイアファとが大祭司であったとき」と伝えています。この二人の大祭司の関わりは、イエスの裁判の時に問題になります。

 

洗礼者ヨハネとクムラン共同体

 ヨハネがバプテスマ活動を始めたのは、「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った」からです。ここでそれが「荒れ野」で起こったと言われていることを検討しておきます。

 荒れ野は、イスラエルの民がその神ヤハウェと遭遇し、ヤハウェから啓示を受け、ヤハウェの民として形成される場所でした。それはモーセに率いられてエジプトを脱出し、荒れ野を四十年間旅をした期間の物語に典型的に示されています。それだけでなく、イスラエルの預言者たちの多くは、荒れ野で神の啓示を受けたのでした。洗礼者ヨハネが啓示を受けたのも「荒れ野」においてです。

 このような一般的な啓示の場所としてだけでなく、洗礼者ヨハネの場合は特別な具体的意味があります。すでに誕生物語で洗礼者ヨハネの誕生のことを語った後、「幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた」と語られていました(一・八〇)。ルカはこの誕生物語の中に伝えられている伝承に従い、洗礼者ヨハネの召命を「荒れ野」で起こったこととします。では、この「荒れ野」とは具体的にはどのような場所、またはどのような環境を指しているのでしょうか。

 現在、多くの研究者がこの「荒れ野」とはクムランにあったエッセネ派の修道院的共同体ではないかと推察しています。エルサレムから東に下り死海に至る地域は荒涼とした荒れ野で、死海西北岸のクムランの山地には建造物の廃墟があり、それがエッセネ派のユダヤ教徒が共同生活を営んだ建物跡であると推定されています。その近辺の洞窟から多数の古文書の巻物や断片(死海文書)が発見され、その共同体の信仰や思想が明らかになりました。その内容からこの共同体が、エルサレム神殿の大祭司支配から離脱して荒れ野で共同生活をしたエッセネ派の共同体であると推定されるのですが、この見方は現在ではほぼ定説となっていると見てよいでしょう。

 祭司の子であるヨハネは、幼いときからこのクムラン共同体に預けられ、そこで育ったのではないかと推察されます。ヨハネの宣教と活動に、このクムラン共同体と深いつながりが見られるからです。洗礼者ヨハネは「荒れ野で叫ぶ者の声」であり、イザヤ書四〇章三〜五節の預言を成就する者とされていますが(三・四〜六)、この預言はまさにエッセネ派の人たちがエルサレム神殿体制を批判して荒れ野に逃れたことを根拠づける預言の言葉でした。

 クムラン共同体が生み出した死海文書は、黙示思想的傾向が強く、終末審判の到来を熱く説いています。これは(すぐ後に見るように)洗礼者ヨハネの「差し迫った神の怒り」の説教と通じるものです。さらにヨハネは、この神の審判に備えて悔い改めるように説きましたが、その悔い改めをバプテスマで表現しました。バプテスマは水に浸される儀礼ですが、これはまさにクムラン共同体が罪の汚れを清めるために日々励み行っていた儀礼でした。クムランやエッセネ派が居住していたエルサレムのシオン地域には多くの水槽跡が発掘されています。

 洗礼者ヨハネはクムラン共同体の一員であったか、少なくともエッセネ派と深いつながりのある人物であったと見られますが、ヨハネが「荒れ野」で神の言葉を受けてバプテスマを授ける活動を始めたときには、エッセネ派の枠の外にいました。クムラン共同体のバプテスマはあくまで共同体内部の成員だけに繰り返し行われた汚れを清める儀礼ですが、ヨハネはイスラエルの民一般に悔い改めを呼びかけるために用いました。それでヨハネのバプテスマは、繰り返される儀礼ではなく、一回限りの告白行為となっています。ヨハネがクムラン共同体にいたときに神の言葉が降ったのか、またはヨハネがクムランの在り方に限界を感じて出て行った後、それが起こったのかは確認できません。とにかく、ヨハネはクムラン共同体から、あるいはエッセネ派の枠から出て、独立で、差し迫った終末到来の使信をイスラエルの民に広く宣べ伝えたと言えます。

 

洗礼者ヨハネのバプテスマ活動

 3 そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。 4 これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。5 谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、6 人は皆、神の救いを仰ぎ見る』」。(三・三〜六)

 神の言葉を受けたヨハネは、「ヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めのバプテスマを宣べ伝え」ます。バプテスマは水に浸す儀礼ですから、水のあるところでしか行えません。ヨハネは特定の場所に水槽を造って、そこでバプテスマを授けるのではなく、広くイスラエルの全土に呼びかけるため「ヨルダン川沿いの地方一帯」に出て行ってバプテスマを宣べ伝えます。「荒れ野」には、呼びかける相手(聴衆)はいません。ヨハネがバプテスマを行った「ヨルダン川沿いの地方」について、ヨハネ福音書は「ヨルダン川の向こう側のベタニア」(一・二八)とか「サリムの近くのアイノン」(三・二三)というような地名をあげていますが、それがどこかは確認できません。

 ヨルダン川は北の山地から発してガリラヤ湖に注ぎ、ガリラヤ湖を出て南に流れて死海に注ぎます。ヨハネはその沿岸地方一帯でバプテスマを行います(洗礼者ヨハネの活動をユダヤ地方だけに限定することはできません)。ベトサイダの住人であるペトロたちは、ヨルダン川がガリラヤ湖に注ぐ場所の近くでヨハネからバプテスマを受けたのでしょう。イエスも同じ場所でバプテスマを受け、そこでペトロたちと会ったと推測する学者もいます(フルッサー47頁)。

 すでにマルコ(一・四)が、ヨハネのバプテスマを「罪の赦しへの(=赦しに至らせる)悔い改めのバプテスマ」と呼んでいます。ルカはそれを字句通りに引き継いで用いていますが、マタイ(三・二)はこのようなバプテスマの意義を説明する表現を用いないで、ただ「悔い改めよ。天の支配は近づいた」という告知の言葉だけにしています。おそらく、マタイは洗礼者ヨハネの活動を伝える「語録資料Q」の内容に忠実に従っているのに対し、ルカは「罪の赦し」を福音の中心とする立場(二四・四七)から、すでにマルコに見られるこの表現をそのまま受け継いだと見られます。

 洗礼者ヨハネの告知は、すぐ後に見るように、神の終末審判が迫っているというものでした。その裁きに備えて悔い改めることを求める説教でした。当然、悔い改めは神に受け入れられることを予想していますから、悔い改めは「罪の赦しのための」と表現することができます。このような洗礼者ヨハネの告知を「罪の赦しに至らせる悔い改め」と意義づけたのは、キリストの十字架を贖罪として告知した最初期のキリスト信仰の共同体であったと考えられます。すでにマルコがそれを用い、ルカは(マタイと同じく語録資料Qを用いて洗礼者ヨハネの本来の告知を伝えていますが)マルコの「罪の赦しに至らせる悔い改め」をそのまま引き継ぐことになります。

 共観福音書はみな洗礼者ヨハネのバプテスマ運動を預言の成就として、イザヤ書を引用しています。これは、洗礼者ヨハネの活動から始まるイエスの出現が、預言者が終わりの日に起こるとしたことの成就であるとする福音の基本的な使信の表現です。ただルカは、マルコが引用しているマラキ(三・一)の「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう」という預言を省略しています。マルコ(九・九〜一三)とマタイ(一七・九〜一三)は、変容の山から下りるときにイエスと弟子たちの間で行われたエリヤに関する問答で、洗礼者ヨハネをメシヤ到来の前に現れると預言されていたエリヤであるとしているのに対し、ルカはこの問答そのものを完全に省略しています。ルカは、イエス御自身を終末時に現れる預言者とし、洗礼者ヨハネからエリヤの役割を取り除いたと考えられます。

 ルカはイザヤ書を引用するさい、四〇章三〜五節を引用しています。これはマルコとマタイが三節だけを引用しているのと較べると詳しい引用となります。おそらくルカは、異邦の諸国民に福音を告げ知らせようとする立場から、五節最後の「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」という言葉を入れたかったのでしょう。イザヤ書四〇章は、バビロンに捕囚となっていたイスラエルの民がやがて解放されるという預言ですが、それが洗礼者ヨハネの出現によっていよいよその終末的な成就、すなわち人間の罪と死の捕囚からの解放が始まったと宣言しているのです。

 

終末審判の切迫

 7 そこでヨハネは、バプテスマを授けてもらおうとして出て来た群衆に言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。8 悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。9 斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」。(三・七〜九)

 洗礼者ヨハネの告知に応えて、バプテスマを受けるために「群衆」がヨハネのもとに集まってきます。マルコ(一・五)は「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て」としています。マタイ(三・五)は、洗礼者ヨハネの活動がユダヤ地方に限られてはいないことを知っていたのでしょう、「エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て」と、マルコを修正しています。それに対してルカは、すでにヨハネの活動地域を「ヨルダン川沿いの地方一帯」としているのですから、ここではただ「群衆」と言っています。

 聴衆の描写の前後で、マルコ(一・五)とマタイ(三・四)は洗礼者ヨハネの風貌について、「らくだの毛衣を着、腰に川の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた」と伝えています。それに対してルカは、洗礼者ヨハネの風貌については何も書いていません。異邦人の読者に、パレスチナの荒れ野の預言者の風貌を伝えることはあまり意味がないと考えたのでしょう。あるいは、エリヤ預言を無視したルカにとって、エリヤの風貌(列王記下一・八)を思い起こさせるこの描写は、必要ではなかったのでしょう。

 ここの洗礼者ヨハネの告知の内容は、マタイの並行箇所(三・七〜一〇)と同じです。原語でも(ごく僅かの例外がありますが)字句通り一致しています。これは、マタイとルカが共通の文書資料を用いていることを示しています。この現象はこれからもしばしば現れます。このマタイとルカが用いている共通の文書資料は、イエスの語録をおもな内容としているので「語録資料Q(キユー)」と呼ばれています(Qは資料を意味するドイツ語のクウェレの頭文字)。この「語録資料Q」には、洗礼者ヨハネに関する資料がかなり多く含まれています。これは、この「語録資料Q」を生み出した最初期のパレスチナ・ユダヤ人の信仰運動が、洗礼者ヨハネの集団と深い関わりがあり、洗礼者ヨハネの集団に伝えられていた伝承を多く取り入れていたからであると考えられます。

 ヨハネはバプテスマを受けに来た群衆に、「蝮の子らよ」と、厳しい非難の言葉を投げつけています。マタイ(三・七)の並行箇所を見ますと、ヨハネはこの激しい非難の言葉を「ファリサイ派やサドカイ派の人々」に向けたことになっています。マタイ福音書(とくに二三章)には「律法学者とファリサイ派の人々」に対する激しい非難があり、その中に「蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか」という言葉があります(マタイ二三・三三、他にも一二・三四参照)。このような激しい非難の言葉はもともと、イエスをメシアと言い表す信仰のゆえに体制派のファリサイ派やサドカイ派から激しい迫害を受けていたパレスチナ・ユダヤ人が、迫害者に向かって投げつけていた非難の言葉であると考えられます。それが「語録資料Q」に書きとどめられ、ルカがそのまま「群衆」に用いたものと見なければなりません。その結果、「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れるようにと、だれが教えたのか」(私訳)という断罪の言葉と、一般民衆にヨハネが説く悔い改めにふさわしい実の要求(一〇〜一四節)が、やや整合しない印象を受けることになります。

 もしこの言葉が(マタイ福音書のように)「ファリサイ派とサドカイ派の人々」に対して向けられたものであれば、「悔い改めにふさわしい実を結べ」という要求は、自分たちだけが正しいとする傲慢から反体制の批判者を迫害することを止めて、洗礼者ヨハネが伝える神の言葉に謙虚に耳を傾けよ、ということになります。しかし、ルカはこれを「群衆」に向けられたものとしていますから、その「悔い改めにふさわしい実」は、別に改めて説明されることになります(次の一〇〜一四節)。

 洗礼者ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派だけでなく、一般のユダヤ人に潜む根源的な傲慢を突きます。ユダヤ人は「我々の父はアブラハムだ」と誇っていました。我々はアブラハムの子孫であり、神がアブラハムに与えられた契約(約束)の下にある民だと誇っていました。だから、神が世界を裁かれるとき、諸国民は裁かれても、アブラハムの子孫であるイスラエルの民は、アブラハムに与えられた契約のゆえに、実際の姿がどうであっても、神の民として栄光の中に受け入れられるのだとしていました。ヨハネは、ユダヤ人がもつアブラハムの子孫としてもっているこの傲慢を粉砕します。

 ヨハネは、このユダヤ人の傲慢を粉砕するために、「言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」と言います。お前たちは自分たちがアブラハムの血統を引く子孫だと誇っているが、神はアブラハムの血統と何の関わりのない人間からでも、いやこのような石ころからでも、「アブラハムの子」を造り出して、御自分の民とすることができる方である。人が神の民であるかどうかは、神が一方的にお決めになる事柄であって、人間の側の血統とか宗教とか価値は、一切根拠にもならないということを、「石ころからでも」という言葉で印象深く表現します。

 神が最終的に世界を裁かれるとき、アブラハムの子孫だからといってユダヤ人を特別扱いして、他の民と違った基準で裁かれることはありません。すべての民を同じ秤、同じ基準で計られます(ローマ書二章)。そうであれば、アブラハムの子孫であることを誇るユダヤ人も、自分たちが神がアブラハムに与えた契約の下にあるということに根拠を求めることなく、他の異邦人と同じ地面に立って、人間として神に喜ばれる生き方をすることこそが求められていることになります。それが「悔い改めにふさわしい実」を結ぶことです。

 その神の審判が迫っています。そのことが「斧は既に木の根元に置かれている」という比喩で語られます。木を切り倒すための斧が、すでに(この語は文頭に置かれて強調されています)木の根元に当てられているのです。木を切る者の一振りで、木は切り倒されるばかりの状況です。木が切り倒されるのは、その木がよい実を結ばないからです。「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」のです。

 この比喩は、洗礼者ヨハネが活動した実際の歴史的状況に置いてみると、イスラエルの民、とくにエルサレム神殿を拠点とするユダヤ教体制派の支配に対して、神の審判が迫っており、それが崩壊する時が目前に迫っているという告知です。「よい実を結ばない」というのは、昔の預言者たちが繰り返して用いた比喩であり、契約の民であるイスラエルが、神が期待しておられた生き方をしないことを糾弾するための比喩です(たとえばイザヤ書五章)。洗礼者ヨハネは、その時が来たことを告知する預言者とされたのです。そして、その後の歴史の経過も、これがエルサレム神殿の崩壊をクライマックスとするユダヤ教神殿体制の崩壊を預言する告知であることを示しています。この点で、洗礼者ヨハネの審判の告知を「ファリサイ派とサドカイ派の人々」に対して向けられたものとするマタイの方が、歴史的な状況を正確に反映しているとしなければなりません。

 実は、イエスもエルサレム神殿体制の崩壊を預言するのに、この比喩を用いておられます。ルカ(一三・六〜九)だけが伝えている「実のならないいちじくの木」のたとえは、実のならないいちじくの木が切り倒されるまでの神の忍耐という要素を入れていますが、やはり最終的に木が切り倒されることを主題としています。そして、イエスは最後の過越祭のとき、葉っぱだけで実のないいちじくの木を枯らすという象徴行為(マルコ一一・一二〜二六)で、神殿体制の崩壊を預言し、それを「一つの石の上に他の石が残ることはない」と、明白な言葉で弟子たちに語られることになります(マルコ一三・一〜二)。イエスは、この預言に関しては、洗礼者ヨハネと同じ線上におられます。

 

悔い改めにふさわしい実

 10 そこで群衆は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。11 ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。12 徴税人もバプテスマを受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。13 ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。14 兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。(三・一〇〜一四)

 神の終末審判の切迫を告知し、悔い改めの告白としてバプテスマを受けることを求めた洗礼者ヨハネは、バプテスマを受ける者たちに「悔い改めにふさわしい実」を結ぶように説きます。それを聴いた群衆は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねます。その質問に対して洗礼者ヨハネは、各人の立場とか状況に応じた生き方を指示します。

 民衆の社会生活一般について、ヨハネは「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えます。少しでも多く自分のものを持とうとする貪欲を戒め、正義を愛し貧しい者(持たざる者)を憐れまれる神に受け入れられるようになるための行動規範を具体的に指示しています。これは、神の審判の切迫を動機とする終末論的倫理の典型です。

 バプテスマを受けるために来た徴税人や兵士に、ヨハネはバプテスマを授けることを拒んでいません。このヨハネの態度は、このような職業の者を異教徒(ローマ人)の支配に荷担する汚れた裏切り者とし、「罪人」と呼んでイスラエルの民から排除していたサドカイ派、ファリサイ派、そしてエッセネ派とも違っています。ヨハネは、このような職業の人たちにもバプテスマを施し、神の民として受け入れています。彼らには、「規定以上のものは取り立てるな」とか、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」とだけ言って、節度のある職業倫理を説くだけです。イスラエルの人間を「罪人」とするその職業をやめなければ神の民となれないとは言っていません。

 この一段(一〇〜一四節)はルカだけにあり、同じく洗礼者ヨハネの終末審判の告知を伝えているマタイにはありません。マタイ福音書を生み出したユダヤ人信者のマタイ共同体は、ユダヤ教会堂側から激しい迫害を受け、厳しく対立していましたから、洗礼者ヨハネの告知も「サドカイ派とファリサイ派」に対する断罪の面だけが出てきています。それに対してルカは、洗礼者ヨハネを諸民族の救い主として到来されるキリストの先駆者として、一般民衆にその到来を準備させる預言者と見ています。この一段で洗礼者ヨハネが一般の民衆や徴税人や兵士たちに言っていることは、イエスもこう言われたのではないかと思わせるような内容です。このルカ独自の記事の背後には、当時の社会あった抑圧、暴虐、不正義に対するルカ自身の激しい批判があるように思われます。同じ「語録資料Q」を用いながら、マタイとルカの視点の違いが見えてきます。

 

時代のメシア待望

 15 民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。

 洗礼者ヨハネの声がイスラエルの民の中に響き渡った一世紀前半は、ユダヤ教の中にメシア待望が燃え上がっていた時代でした。異教徒であるローマ人の支配を覆し、純粋にユダヤ教律法に基づく支配を実現しようとして、「律法への熱心」を合い言葉にして活動する運動が、様々な形で始まっていました。その中には、ローマに税を納めることを拒否し、武力を用いてでもローマの支配を打ち破らなければならないとする一派の人たちもいました。彼らは「熱心党」《ゼーロータイ》と呼ばれていました。すでに一世紀の初めに、ガリラヤのユダがこのような反ローマ運動を起こしていました。その後、ザドク、チゥダ、「あるエジプト人」など、「わたしこそがメシアである」と唱えて、律法に熱心な人々を糾合してローマへの反乱を企てる指導者が後を断ちませんでした。ユダヤの民衆も、神から油を注がれた者《メシア》が到来して、イスラエルの民を異教の支配者から解放し、栄光の時代をもたらしてくれるのを待望していました。

 洗礼者ヨハネは、このような信仰のゆえに反ローマ運動を扇動する行動預言者ではありません。彼は神から受けた言葉をイスラエルの民に告知する、イザヤやエレミヤのような言葉の預言者でした。しかし、ヨハネの霊の力に溢れ、権威ある言葉を聴いた民衆は、彼こそ終わりの日にイスラエルに遣わされると約束されていたメシアではないかと考えるようになります。そして事実、洗礼者ヨハネがヘロデによって処刑されて殉教した後、彼ををメシアと仰ぐユダヤ教徒の集団が形成されるようになります。この集団は、後にイエスをメシアと仰ぐユダヤ教徒集団と競合したり、協同したりする複雑な関係に立つことになります。

 

火による審判

 16 そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水でバプテスマを授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちにバプテスマをお授けになる。17 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」。

 洗礼者ヨハネこそメシアではないかという期待を持つようになったイスラエルの民に、ヨハネ自身がはっきりと自分はメシアではないと宣言します。自分の後に、自分よりもはるかに優れた方が来られる。自分はその方の履物のひもを解く値打ちもない。あなたたちはその方の到来をこそ期待して待つべきであると、ヨハネは民衆に告知します。

 自分とその方の違いをヨハネは、「わたしはあなたたちに水でバプテスマを授けるが、その方は、聖霊と火であなたたちにバプテスマをお授けになる」からだとします。この表現には、最初期のキリスト信仰共同体の信仰告白が重なって響いています。最初期のキリスト信仰共同体《エクレーシア》は、洗礼者ヨハネをメシアと言い表すユダヤ教徒の集団に対して、復活されたイエスこそメシアであり、最終的な救済者であることを主張しました。そのさいヨハネとイエスの違いを、ヨハネは水でバプテスマを授けたが、復活されたイエスはキリストとして聖霊によってバプテスマされる方であり、それによって終末的な救済をもたらされる方であるからであるとしました。

 実は、洗礼者ヨハネの終末審判切迫の告知はもともと、「わたしはあなたたちに水でバプテスマを授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。その方(やがて到来されるメシア)は、火であなたたちにバプテスマをお授けになる。その方は、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」というものではなかったかと考えられます。

 洗礼者ヨハネは、やがて到来する最終的な審判を収穫の時の比喩で語っています。収穫の比喩は昔の預言者がよく用いた比喩でした。イエスもこの比喩を用いておられます(マルコ四・二九、一二・二、マタイ一三・三〇)。「箕」というのは脱穀場で用いられる農具で、木製の熊手状の道具です。打った穀物と籾殻をそれで空中に放り上げて、風によって実と殻に吹き分けました。実である麦は集められて倉に入れられますが、殻は火で焼き払われます。そのように、神が最終的に世界を裁かれるとき、実質のある神の民は栄光の国に入れられますが、中身のない外形だけのイスラエルは「消えることのない火」で焼き払われることになるぞという警告です。

 洗礼者ヨハネは、やがて到来されるメシアのなさることを、自分がしているバプテスマのイメージで語っています。すなわち、自分は悔い改める者を水に浸しているが、その方は「火でバプテスマされる」、すなわち世界を火に浸して、火の審判に耐える者を栄光の中に迎え、耐えない者を焼き尽くすという形で裁きを行われるというイメージです。このイメージはパウロが用いていますが(コリントT三章)、ヨハネが用いている収穫の比喩は少し違います。吹き分けるのは風であって、火は吹き分けられた殻を焼くだけです。バプテスマのイメージと収穫の比喩はずれがありますが、審判が火によって行われるという告知は同じです。

 この時代には、ユダヤ教では黙示思想が盛んになっていました。黙示思想は、罪と苦しみとに満ちた「今の世《アイオーン》」が終わって、神が直接世界を支配される「来るべき世《アイオーン》」がやがて到来することを説く終末的な信仰思想です。黙示思想にも様々な形態があり、一様ではありませんが、この時代には、その「来るべき《アイオーン》」をもたらす神の終末審判は火をもって行われるという思想が広がっていました。洗礼者ヨハネの終末審判の告知も、この火による審判が用いられています。もっとも、火は清める力の象徴でもありますから、来るべきメシアは、水ではなく火をもって民を清められるのだという理解もありえます。しかし、先の「切り倒されて火に投げ込まれる」や、ここの「消えることのない火で焼き尽くす」というのは、やはり審判のイメージです。

 

聖霊によるバプテスマ

 洗礼者ヨハネが、自分が行う水のバプテスマと対比して、来るべき方が行われるバプテスマを「火によるバプテスマ」としたことを、最初期のキリスト者の共同体は、現在自分たちが体験している、復活者キリストが行われる「聖霊によるバプテスマ」の象徴とし、ヨハネの宣教をこの「聖霊によるバプテスマ」の予告と意義づけました。最初の福音書であるマルコ福音書は、洗礼者ヨハネの本来の終末審判切迫の告知をすべて省略し、ヨハネの宣教をただこの一点に絞って伝え、「わたしは水であなたたちにバプテスマを授けたが、その方は聖霊であなたたちにバプテスマをお授けになる」と書いています(マルコ一・八)。 

 それに対してマタイ福音書とルカ福音書は、洗礼者ヨハネの本来の終末審判の告知を伝えるために、「火によるバプテスマ」という表現を保持しようとします。それで、マルコ福音書と同じように、洗礼者ヨハネの告知を復活者キリストが行われる聖霊のバプテスマの先駆であるとするために、火を聖霊の象徴として扱い、「聖霊と火でバプテスマを授ける」という表現を用います(三・一六、マタイ三・一一)。火は古来聖霊の象徴として用いられてきたのですから、この「聖霊と火で」という並置は自然に受け取ることができます。

 このようにしてルカも、マルコ福音書と同じく、来るべきメシアの働きについてのヨハネの預言を「聖霊によってバプテスマする」という一点に絞ります。この「水によるヨハネのバプテスマ」と「聖霊によるキリストのバプテスマ」の対比は、ルカ二部作全体を通して重要な対比となり、第二部の使徒言行録でも、復活されたイエス御自身が弟子たちに、「ヨハネは水であなたがたにバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によるバプテスマを授けられる」と語り、その聖霊の力によって地の果てまで復活者イエス・キリストを証言するように命じられたとされています(使徒一・五、八)。

 18 ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。(三・一五〜一八)

 ルカはヨハネの説教活動を「福音を告げ知らせる」《エウアンゲリゾー》という動詞を用いて語っています。ルカはイエスの活動もこの動詞を用いて描いています(四・四三、八・一、九・六)。後にルカは洗礼者ヨハネの宣教とイエスの「神の国」告知は救済史上の段階が違うことを強調していますが(一六・一六)、この終わりの時に神の言葉を受けて民に伝える活動をすべてこの動詞で表現するという一面もあることになります。たしかに、ヨハネの激しい審判の告知も、それによって悔い改めるならば赦しを受けるのですから、この「罪の赦しに至らせる悔い改めのバプテスマ」も「福音を告げ知らせる」活動であるわけです。

 

洗礼者ヨハネの投獄

 19 ところで、領主ヘロデは、自分の兄弟の妻ヘロディアとのことについて、また、自分の行ったあらゆる悪事について、ヨハネに責められたので、20 ヨハネを牢に閉じ込めた。こうしてヘロデは、それまでの悪事にもう一つの悪事を加えた。(三・一九〜二〇)

 マルコ(六・一七〜二九)は、洗礼者ヨハネの投獄と処刑を詳しく物語っています。マルコは、洗礼者ヨハネの弟子団から伝えられたヨハネの最後に関する伝承を用いたのでしょう。マタイ(一四・三〜一二)は、やや簡単にしてはいますが、マルコの物語をほぼそのまま伝えています。それに対してルカは、詳細はすべて省略して、ヘロデによる投獄の事実だけを伝えます。投獄の理由も、「自分の兄弟の妻ヘロディアとのことについて」ヨハネから律法に違反する行為として責められていたことだけがあげられています。

 ヘロデは、ナバテア国王の娘を妻としていましたが、この妻を離縁してナバテアに送り返し、自分の異母兄の妻であったヘロディアと結婚します。離婚は律法で認められていますが、兄弟の妻をめとることは律法違反になります。預言者ヨハネはこれを非難したとされています。自分の娘が送り返されたことに激怒したナバテア王は、後にヘロデに戦いを挑み、手ひどい敗北を与えます。民衆は、これこそ洗礼者ヨハネを処刑したことへの神の罰だと噂します。たしかに、この結婚問題は非難に値しますが、ヘロデがヨハネを投獄した真の理由は他にありそうです。

 ヘロデ(ヘロデ大王の息子のヘロデ・アンティパス)は先に「ガリラヤの領主」と言われていましたが(三・一)、正確には「ガリラヤとペレアの領主」です。ペレアはユダヤのヨルダン川(中流から下流)と死海の東岸の広い地域です。したがって、ガリラヤとペレアの領主ヘロデは、洗礼者ヨハネが活動した「ヨルダン川沿いの地方一帯」の領主ということになります。この地方一帯における洗礼者ヨハネの活動は、当時盛んになっていたメシヤ運動の様相を見せ始めていたので、ローマの庇護によって領主となっているヘロデは、領地における反ローマ運動の拡大を恐れて洗礼者ヨハネを投獄した、というのが真相でしょう。しかし、ルカは洗礼者ヨハネの投獄や処刑を、自分の福音物語にとっては本質的でないと考えたのか、マルコの記事を大幅に簡略にします。投獄については簡単に触れますが、処刑についてのマルコの物語は一切省略しています。

 洗礼者ヨハネの投獄についてルカがマルコ・マタイともっとも大きく違う点は、マルコ・マタイにおいてはヨハネはイエスにバプテスマをした後に投獄され、その投獄がイエスのガリラヤ伝道開始のきっかけとなっているのに対して、ルカはイエスが舞台に登場される前にヨハネ投獄の記事を置いていることです。そのためにイエスのバプテスマの記事にはヨハネが登場しません。ルカ福音書では、イエスが舞台に登場されるまでに、ヨハネは舞台から退場しています。したがって、イエスがヨハネからバプテスマを受けたことは明示されないことになります。この点については、次のイエスのバプテスマの段落で扱うことにします。

 


  U イエスの登場

 

14 イエス、バプテスマを受ける(三・二一〜二二)

イエスに聖霊が降る

  21 民衆が皆バプテスマを受け、イエスもバプテスマを受けて祈っておられると、天が開け、22 聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。(三・二一〜二二)

 ここからイエスが舞台に登場されます。イエスという名をあげるだけで、読者には周知のあの方、そしてますます詳しく知りたいと熱い視線を向けているあの方が指し示されています。ルカはすでに一〜二章の誕生物語でイエスの出生と育ちの一端を語っていますが、ここに登場されるイエスは、その物語がなくても読者が「あの方だ」と知っているイエスです。それは、誕生物語のないマルコ福音書やヨハネ福音書がここからイエスの物語を始めていることからも分かります。

 この一段でルカが言いたいことは、イエスの働きはすべて神の霊をお受けになったところから始まるのだということです。民衆は皆、差し迫っている神の裁きの日に備えて、罪の赦しに至らせる悔い改めのバプテスマをヨハネから受けていましたが、イエスだけはバプテスマをお受けになったときに、神の霊、聖霊を受けられたのです。この事実が、イエスをイエスならしめるのです。これはどの福音書も同じですが、ここでルカ特有の伝え方に見られる特徴を見ておきます。

 

ルカの記事の特徴

 まずルカの記事には洗礼者ヨハネが出てきません。イエスはヨハネによってバプテスマをお受けになったことは当然の事実ですが、ルカはヨハネがイエスにバプテスマを授けたとは言わず、イエスは民衆の間に交じってバプテスマを受けている一人のように描き、「民衆が皆バプテスマを受け、イエスもまたバプテスマを受けて」と言うだけです。

 実際の出来事の順序としては、イエスはヨハネからバプテスマをお受けになったのであり、洗礼者ヨハネはイエスにバプテスマを授けた後に投獄されたとしなければなりません。ところがルカは、先に見たように、洗礼者ヨハネ投獄の記事を先に置いて、イエスのバプテスマよりも前に洗礼者ヨハネを舞台から退場させ、イエスのバプテスマの場面にヨハネを登場させません。これは、イエスがヨハネからバプテスマを受けたという事実を述べることを避けるためであると考えられます。

 イエスがヨハネからバプテスマを受けた事実は、時が経つと共にイエスをキリストと言い表す信仰共同体《エクレーシア》には重荷になってきていたと見られます。洗礼者ヨハネをメシヤと仰ぐユダヤ教徒共同体との競合関係に立つようになったとき、イエスはヨハネからバプテスマを受けたのであるからヨハネの弟子であり、ヨハネこそメシヤであるとする洗礼者ヨハネの教団の主張に対抗するため、イエスがヨハネからバプテスマを受けた事実に触れることを避ける傾向が出てきます。

 最初の福音書マルコ(一・九)は、率直にイエスがヨハネからバプテスマを伝えていますが、後になるほどこの事実を避ける傾向が見られます。マタイ(三・一三)はマルコを忠実に継承し、イエスがヨハネからバプテスマをお受けになった事実を伝えていますが、本来はヨハネがイエスからバプテスマを受ける立場であることをヨハネ自身が認めているという文章を入れて、イエスの優位を主張しています(三・一四〜一五)。

 ルカはここで見たように、先にヨハネを退場させることで、この問題を回避しています。ヨハネ福音書になると、イエスがヨハネからバプテスマをお受けになった事実そのものが語られなくなります。そして、ヨハネは水でバプテスマしたが、イエスは聖霊によってバプテスマする方であることが、ますます強調されるようになります。

 次に、聖霊が鳩のようにイエスに降ったという描写は四福音書に共通しています。マルコ、マタイ、ヨハネの三福音書はただ「鳩のように」というだけですが、ルカは「鳩のように目に見える姿で」という表現を用いています。イスラエルの宗教的伝統には霊を鳩で象徴することはないと言われており、この「鳩のように」は霊の形ではなく、霊が降るときの波動を体験することが、鳩の羽音にたとえられて語られているのだとわたしは理解しています。しかし、時代が降るほど霊的体験を肉体的表現で具体的に描く傾向が出てきます。たとえば復活者との遭遇体験を食事を共にするという肉体的行動で描くようになります。この傾向はルカが一番強いようです。ここでもルカだけが、「鳩のように身体的な形で」(直訳)というように、明らかに霊の形のこととして描いています。

 イエスが聖霊をお受けになった時に、天からの声が言った言葉については、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」というマルコの表現を、ルカはそのまま引き継いでいます。マタイは「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と、三人称に変えています。ヨハネ福音書は、イエスに聖霊が降ったのを見た洗礼者ヨハネに、イエスが神の子であることを証言させています。

 

イエスの召命体験

 イエスに聖霊が降ったとき、イエスは「あなたこそわたしの子、愛される者。わたしはあなたを喜ぶ」(直訳)という天からの声を聴かれます。これは、イザヤの書にある「主の僕」の詩の冒頭の言葉です(イザヤ四二・一)。この預言者の言葉は、ヘブライ語原語では「見よ、わたしの僕」で始まっています。この「僕」《エベド》の召命と働き、またその苦難を語る詩が第二イザヤ(イザヤ書四〇〜五五章)に四カ所ありますが、ここはその最初の行になります。イエスは、この天からの声により、聖書に預言されている「主の僕」を成就する者として召されていることを自覚されたことが、この記事からうかがえます。同時に、イエスはこの語りかけの中に、自分を子と呼びかける父の声を聞き取られたことが、この後のイエスの言行からうかがえます。イエスの子としての自覚については、すぐ後に出てくる「荒れ野での試み」(四・一〜一三)の段落で詳しく扱うことになります。

 マルコは、この出来事(イエスに聖霊が降った出来事)が起こった時のことを、「天は裂け」という激しい語で表現しています。これは、イザヤ(六四・一)が「どうか、あなたが天を裂いて下ってくださいますように」と祈った、新しい時代、終末の時の到来を告知する表現です。ルカはこれを「天が開け」という一般的な表現に変えていますが、この句が終末の到来を象徴する表現であることを聞き逃してはなりません。「天」は、新約聖書においてはしばしば、空間的に地に対立するものではなく、地上の時間に対して終末の永遠を象徴する語です。この時、終末が地に突入してきたのです。イエスは、終わりの時に現れる「主の僕」として召され、その召しに従って生涯を貫かれた方です。

 マルコはイエスの召命体験をイエスがヨルダン川でヨハネからバプテスマをお受けになった時の出来事としています。マタイとルカもそれに従っていますが、事実はそう単純ではなかったのではないかと推察させる記事がヨハネ福音書にあります。

 先にも触れたように、ヨハネ福音書にはイエスがヨハネからバプテスマをお受けになったことを語る記事はありません。したがって、バプテスマをお受けになったときに聖霊が降ったという記事もありません。イエスがいつ聖霊をお受けになったかについては何も説明していません。ただ、洗礼者ヨハネが「わたしは御霊が鳩のように天から降り、この方の上に留まるのを見た」と証言したことを伝えています。この証言から、イエスが聖霊をお受けになったのは、イエスがヨハネのもとにおられた時期であるということは分かります。ヨハネからバプテスマを受けて、ヨハネと共にバプテスマ運動に加わっておられた時期に(このような時期があったことはヨハネ福音書だけが伝えています)、しばしば荒れ野で一人祈り、その深い祈りの中で聖霊を受け、「主の僕」として召される父の声を聴かれたのではないかと推察されます。イエスご自身から出たこの召命体験の(おそらく断片的な)証言が、後に伝承の過程で単純な形にまとめられて現在のマルコ福音書のような形の物語になったのではないかと考えられます。

 イエスの実際の姿を探求しようとするとき、おもにマルコ福音書とそれに基づく共観福音書だけが資料とされ、ヨハネ福音書はあまりにも霊的・神学的議論に集中していて歴史的資料としては価値がないとして排除されがちですが、子細に検討すると歴史的事実についてはヨハネ福音書の方が信頼できると判断せざるをえない場合が多くあります。かえってマルコ福音書の方が、自分の神学的構想によってイエスの生涯の事実を単純な枠組みの中に押し込んでいると考えられます。このことは、これからもイエスの御生涯を追求するさいに、しばしば取り上げることになります。

 

15 イエスの系図(三・二三〜三八)

イエスの家系

 23 イエスが宣教を始められたときはおよそ三十歳であった。イエスはヨセフの子と思われていた。ヨセフはエリの子、それからさかのぼると、24 マタト、レビ、メルキ、ヤナイ、ヨセフ・・・・・・・ナタン、ダビデ、エッサイ・・・・・・・ヤコブ、イサク、アブラハム・・・・・・ 38 エノシュ、セト、アダム。そして神に至る。

 バプテスマの場面で、このドラマの主役であるイエスが舞台に登場されることになったので、ここでルカはこの主役を紹介する記事を入れます。このイエスが活動を始められたときは「およそ三十歳」であったとされます。先に見たように、洗礼者ヨハネがバプテスマ運動を始めたのが二八年とすると、イエスは紀元前数年のお生まれということになります。現在ではイエスの誕生はヘロデ大王の最後の年になる紀元前四年と見られていますが、そうするとこの時イエスは三二歳になっておられたことになります。ルカの記述は正確だとしなければなりません。

 ユダヤ人の社会では男子は普通「誰それの子」という呼び方で紹介されます。ルカはイエスを読者に紹介するにあたって、ユダヤ人の習慣に従って「ヨセフの子」と呼ぼうとしますが、そこに「と思われていた」という句を加えています。この句は、実際はそうでないのだが、世間ではヨセフの子として通っていたという意味を付け加えています。

 誕生物語によりますと、イエスは聖霊によって身ごもったマリアからお生まれになったのであり、婚約者のヨセフはイエスの誕生には関与していません。しかし、ヨセフはマリアを妻として迎え、イエスを自分の息子として受け入れて育てます。このことによって、イエスはダビデの子孫であるヨセフの家系につながる者となり、ダビデの子孫という系図が成立します。誕生物語の成立と福音書の一部として組み入れられた経緯はどうであれ、少なくともルカがこの福音書をテオフィロに献呈したときには、誕生物語を含む現在の形で献呈しているのですから、ルカは誕生物語の内容と世間での実際の呼び方のつじつまを合わせるために、この「と思われていた」という句を加えることになります。ユダヤ教社会でヨセフの子として通っていたのですから、ユダヤ人に向かって福音を宣べ伝えるときに、イエスを「ダビデの子」と呼ぶことができたわけです。

 その上でルカはヨセフの系図をさかのぼります。新約聖書にはイエスの系図はもう一つマタイ福音書(一・一〜一七)にありますが、ルカの系図がマタイの系図と違うところは、マタイの系図がアブラハムから始めてダビデに至り、さらにダビデからヨセフに至るというように時代を降っていきますが、ルカの系図はヨセフから時代をさかのぼっています。ルカの系図もダビデとアブラハムを含んでおり、イエスがダビデの子、アブラハムの子孫であることを主張することでは一致しています。

 二つの系図は、七を周期として用いる当時の黙示思想の影響でしょうか、七の倍数を好んで用いています。マタイの系図は明確にこのことを宣言しています(マタイ一・一七)。ルカの系図も七の倍数を数組用いて合計で七十七人の人名をあげています。二つの系図は、アブラハムからダビデまでは一致していますが、ダビデからヨセフまでは違っています。この違いについては様々な説明が提案されていますが、決定的なものはありません。両者とも聖書の記事をたどって作り上げた系図でしょうが、わたしたちにとって両者の異同を厳密に調べることは重要ではなく、系図をこのような形で提示した著者の意図を理解することが大切です。

 マタイの系図がアブラハムから始まり、イエスがアブラハムの子であり、ダビデの子であることを主張する意図が明白であるのに対して、ルカの系図はヨセフの先祖をさかのぼり、ダビデとアブラハムを経てアダムに至り、さらに「神に至る」としていることです。ルカがヨセフの系図を、ダビデとアブラハムを超えてアダムに、さらに神にまで至らせているのは何を主張するためであるのか、その意図が問題になります。

 マタイはユダヤ人に向かって福音書を書いていますので、イエスがアブラハムとダビデに与えられた約束を成就する子孫であることを、系図によって主張しているのに対して、ルカは異邦の諸国民に向かってこの福音書を書いています。それで、系図をアダムまでさかのぼらせて、イエスが単にユダヤ人に与えられた約束を満たすために現れた救済者ではなく、世界のすべての人類を救済するために来られた方、アダムに与えられた約束を成就するために来られた方である主張していると理解できます。なお、パウロが(コリントT一五章で)キリストを「第二のアダム」とか「終わりのアダム」と呼んだ見方を受けて、イエスをアダムと対応させるために系図をアダムまでさかのぼらせたと見ることもできます。

 しかし、神にまでさかのぼっているのは何のためでしょうか。これはイエスが神の子であることを系図の形で主張しているのだという説がありますが、これは受け入れることはできません。そうであれば、人間はすべて神の子であるというだけで、イエスの系図をたどる意味はありません。強いて言えば、アダム(人間)は神から出た者であるという聖書の人間理解を思い起こさせ、先祖をさかのぼれば神に至るイエスは、同じく神から出た者であるすべての人間を救う方であることを印象づけるためでしょう。
 系図全体として印象深いのは、アダムから出るすべての人間の中で、イエスは(他の家系ではなく)アブラハムから始まりダビデを経てヨセフに至る生粋のユダヤ人の家系に属しているという事実です。イエスは生粋のユダヤ人としてこの世に生を受け方です。モーセ律法による敬虔を根幹とするユダヤ教徒の伝統の中に生まれ育った方です。この事実が意味するところを詳しく述べることは本稿の限度を超えますが、これからの福音書理解にとって重要な点に絞ってでも、ユダヤ教社会におけるイエスの生い立ちと立場を見なければなりません。しかし、ここでそれを扱うと、(すぐ後に見るように)本来一連の記事として扱うべきイエスのバプテスマの記事と荒れ野の誘惑の記事があまりにも遠く離れすぎますので、次章で扱うことにします。


16 誘惑を受ける(四・一〜一三)

イエスの荒野体験

  1 さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を御霊によって引き回され、2 四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。

 マルコ福音書(一章)では、イエスがバプテスマをお受けになったときに聖霊が降ったという記事の後すぐに、イエスが荒れ野で四十日間サタンの試みに遭われたという記事が続きます。ところが、ルカはイエスのバプテスマの場面を、主役イエスの登場の場面として、その後にイエスの家系を示す系図を長々と入れたので、本来バプテスマの場面と一続きの場面であるはずの荒れ野の試みの記事が、遠く離れてしまっています。しかし、バプテスマの場面と荒れ野の場面は、共に聖霊によるイエスの召命を語る場面として、マルコのように(そしてマタイのように)一続きとして読まなければなりません。

 先に、イエスがバプテスマをお受けになった場面の講解で、イエスの「召命体験」はマルコが描いているほど単純なものではなかったのではないかという点に触れました。イエスがバプテスマをお受けになったときに強い御霊の注ぎを体験されたことは確かでしょう。その御霊が「イエスを荒れ野に送り出した」のです。イエスは、人里離れた「荒れ野の中を御霊によって引き回され」、四十日間何も食べず、ひたすら祈りに没頭して神と対面されます。その聖霊体験全体の中で、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という、父の召命の言葉を聴かれ、確信されたのではないかと推察します。マルコはそれをバプテスマをお受けになったときの出来事として簡潔にまとめ上げ、マタイとルカがそれを引き継いだと見てよいのではないかと考えます。

 そう推察する根拠は、荒れ野の誘惑の内容がイエスの神の子という資格をめぐる試みであるからです。神に敵対する霊的諸力の頭であるサタン(または悪魔)は、「お前が神の子であるなら」と言って、イエスが神の子であるという栄光の立場を、自分(悪魔)に奉仕するように用いさせようと誘惑します。その誘惑の内容については、すぐ後に詳しく見ることになりますが、その全体はイエスを神の子の立場から引きづり降ろすための誘惑です。イエスはその誘惑に打ち勝ち、悪魔に勝利されます。その勝利によって、イエスは神の子としての立場で、神を父として宣べ伝える宣教に立たれることになります。このイエスの勝利については、誘惑の内容を見た後でまとめることにします。

 「四十日間」という期間は、聖書においては苦難と試練の時を指す象徴的数字です。大洪水は四十日四十夜続き、イスラエルの民は四十年間荒れ野をさまよいます。モーセは四十日四十夜シナイ山で断食し、エリヤはホレブ山に達するのに四十日四十夜荒れ野を渡ります。イエスにとって神の啓示にあずかる荒れ野は、同時に悪魔に誘惑され、悪魔と苦闘する試練の場でもありました。
 マルコ(一・一二〜一三)は、このイエスの荒れ野体験をきわめて象徴的な筆致で簡潔に描いています。したがってこの「四十日」も象徴的に用いられていますが、ルカ(とマタイ)は、この四十日間をイエスが断食された具体的な日数として扱い、第一の誘惑の機縁としています。

 イエスは「その間(四十日間)、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた」とあります。わたしたちは一日か二日も断食すれば耐え難い空腹感に襲われますので、この表現は奇異に感じられます。しかし、断食は数日続けると、食事をしないことが自然になって、あまり空腹を感じなくなります。ところが、断食も四十日近くにもなると、飢餓状態になり、人間の肉体は回復不能の衰弱に陥ります。イエスは、この人間の限界ぎりぎりのところまでいかれたのです。

 

第一の誘惑

 3 そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」。4 イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。

 この時に、すなわち荒れ野で飢えておられるイエスに誘惑する者が語りかけます。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」というのは、もしお前が神の子であり、神の力と助けによって何でもできるのであれば、まずこの石をパンに変えて、自分の命を救ったらどうだ。それをやって見せたら、パンに飢えている民衆は必ずお前をメシアとして受け入れ、お前はメシアとして成功するはずだ、というささやきです。「悪魔が言った」というのは、飢えの状況にあるイエスが御自分の内面にそのようなささやきの声を聞かれたということです。

 これは、神の子としての力を自分のために用い、まず自分の利益を求める民衆の期待に応えるメシアの道を歩むように唆す誘惑です。その声に対してイエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」と答えて、この誘惑を退けられます。これは申命記(八・三)にある言葉です。申命記八章(一〜一〇節)は、主がイスラエルの民を四十年の間荒れ野にさまよわせマナだけで養われたのは、「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」ものであることを思い知らせるためであった、と語っています。イエスは、この言葉によって、自分の力で自分を救う働きをすることを拒否して、自分の存在と生死を神が与えられる言葉にお委ねになります。このイエスの拒否によって、悪魔の誘惑は退けられます。

 

第二の誘惑

 5 更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。6 そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。7 だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる」。8 イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」。

 並行するマタイ(四・八)の誘惑記事では、悪魔はイエスを「非常に高い山に連れて行き」、世のすべての国とその繁栄ぶりを見せますが、ルカでは悪魔はイエスを山に連れて行くのではなく、「イエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せ」ます。すなわち、霊的高揚(エクシタシー?)の状態にして、その中で世界の国々のビジョン(映像、幻)を見せるのです。そして言います、「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ」。この六節の言葉はマタイの並行記事にはなく(おそらく資料の「語録資料Q」にもなく)、ルカ独自の付加であると見られます。ルカは、世界の国々の権力は「この世の君(サタン)」に委ねられているという最初期のキリスト者の思想を代弁しています。

 「だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる」という悪魔の誘惑を、イエスは再び申命記の言葉を用いて退けられます。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」という言葉は、申命記六・一三や一〇・二〇に見られますが、それはモーセ律法の根本律法とされる「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」という「シェマ」の精神の表現に他なりません。また、十戒の第一戒の精神にほかなりません。それがどのように合理的に見え、繁栄に好都合であっても、神以外のものを神として拝むこと(絶対化すること)は、悪魔の支配を認めることであり、神の支配の拒否になります。歴史にしばしば現れる政治権力の絶対化は、この悪魔の誘惑に屈した人類の悲劇です。イエスは、自分を拝むならば、すべての権力と栄光を与えようという悪魔の誘惑を、律法の根本的精神、すなわち神と人との関わりの根本原理をもって退けられます。イエスは、権力によって支配するメシアの道を退けられます。

 

第三の誘惑

 9 そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。10 というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる』。11 また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』」。12 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。

 マタイでは二番目にあるエルサレムでの誘惑の記事を、ルカは最後にもってきてクライマックスとします。これはおそらく、ルカのエルサレム中心主義からでしょう。「悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせ」ます。これは荒れ野での誘惑の一場面ですから、この光景も霊的なビジョンの場面としなければなりません。そのビジョンを用いて、悪魔はイエスにエルサレムでの示威行動を唆します。エルサレムの神殿の屋根から飛び降りて無事であれば、民衆は力あるメシアの出現を待望しているのだから、それを見て驚き、「この方こそ神の子だ」と歓呼するに違いない、それによってお前のメシアの働きは成功するではないか、という誘惑です。事実この時代には、自分の衣で水を打てばヨルダン川は分かれると称して民衆を集めた自称メシアや、エルサレムの城壁から飛び降りて死んだ自称メシアもいたと伝えられています。

 その示威行動に踏み出させるために、悪魔は聖書を引用します。悪魔が引用している聖書の言葉は二つとも、神が信じる者を守ってくださることを歌った詩編九一編の一一〜一二節にあります。苦難と危険の中にあるとき、もはや自分の力に頼らず、神だけを避け所とする者は、神がこのように守ってくださることを確信しています。その信頼が象徴的に「あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える」と歌われています。それを文字通りに受け取って、危険もないのに、神がその言葉通りに行動してくださるかどうかを実験するために自分を危険に投げ入れるのは、「神を試みてはならない」という戒めに違反する行為です。
 イスラエルの民は、エジプトを出た後四十年間荒れ野をさまよいますが、その間繰り返し「主を試みる」行為を繰り返したので、その具体的な行為を指して「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない」と戒められることになります(申命記六・一六)。イエスは、イスラエルが荒れ野でした「主を試みる」という失敗を繰り返さず、三度(みたび)申命記の言葉で悪魔の誘惑を退けられます。


誘惑物語の成立

 荒れ野で一人祈られたイエスの内面に起こったことを誰が推察できるでしょうか。イエスがヨハネからバプテスマをお受けになった後かなりの期間一人で荒れ野で過ごされた事実は、周囲の人間も見ることができるでしょうが、イエスの内面のことは誰も分かりません。したがって、この時期のイエスについては、マルコ福音書(一・一二〜一三)のようにその荒れ野滞在の事実の意義を象徴的に描く以上のことはできないはずです。ところが、ルカ(とマタイ)はイエスの内面に起こった悪魔の誘惑の内容を三つあげて具体的に描いています。このようなことはどうして可能なのでしょうか。

 それは、イエス御自身が自分の内面で体験されたことを弟子たちに語られたことが伝承されて、このような誘惑物語が形成されることになったとしか考えられません。イエスは弟子たちと共に歩んだ御自分の働きの全期間を「わたしの諸々の試練《ペイラスモス》のさいに」という表現で語っておられます(ルカ二二・二八、なおヘブライ書四・一五も参照)。イエスが父から受けた使命を果たそうとして歩まれるとき、その道から離れさせようとする様々な形の誘惑と試練が襲いかかりました。奇跡を求める民衆の声、「天からのしるし」を要求する律法学者の論争、時には弟子からも受難を諫める声など、イエスを受難の「主の僕」の道から離れて、当時のユダヤ教の政治的なメシアとしての道を行かせようとする誘惑や圧力があったことがうかがえます。イエスはそのような誘惑や試練に立ち向かい、子として父の御旨に従いきられます。その誘惑に対する最後の戦いがゲツセマネの祈りです。そこでイエスは血の汗を流すように苦闘して、別の道を願う自分の思いを克服して、父の御心にすべてを委ねられます。イエスの御生涯は、ヨルダン川でのバプテスマの時から十字架の死に至るまで、試練と誘惑《ペイラスモス》に対する激しい戦いの期間でした。

 イエスは、弟子たちもまたこのような誘惑と試練に遭遇することをご存知で、それに立ち向かうように教え励まされたことでしょう。そのさい、御自分の体験を基にして、申命記を引用しながら教えられたのでしょう。そのようなイエスの語録は、もともと独立した形で伝承されたのでしょうが、後に「語録資料Q」にまとめて収められ、その「語録資料Q」を用いてルカとマタイが独自の誘惑物語をまとめたのではないかと推定されます。このような誘惑物語の成立過程がどのようなものであれ、その内容はイエス御自身や弟子たちを含め、わたしたち地上に歩む人間が神の子として遭遇する試練と誘惑の実相をよくまとめています。それでこの誘惑物語は、イエスの伝記的な意義を超えて、代々のキリスト者にとって、神の子として地上を歩むさいの励ましとなるのです。

 

悪魔に対する勝利

 13 悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。

 悪魔は、この三つの誘惑だけでなく、多くの誘惑をもってイエスを試みます。そして、「あらゆる誘惑を終えてイエスを離れた」とされます。イエスはあらゆる種類の悪魔の誘惑に屈することなく、勝利されます。悪魔はイエスから離れ去ります(その後に「時が来るまで」と付け加えられていることについては後で見ます)。

 イエスが神の御霊の力によって悪魔に勝利されているからこそ、イエスのあの力に満ちた宣教活動が実現したのです。神の支配に敵対する霊的な勢力がすでに克服されていることをイエスが語り出された語録や比喩が、福音書に伝えられています。イエスは弟子たちに、「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた」と言っておられます(一〇・一八)。これは、荒れ野でイエスが見られた光景としてよいでしょう。また、「決闘のたとえ」とでも呼ぶべき比喩で、御自身が悪魔に打ち勝っておられるこことを語っておられます(一一・二一〜二二、マルコ三・二七、マタイ一二・二九)。これは、イエスが悪霊を追い出しておられるのを悪霊どもの頭であるベルゼブルによって追い出しているのだと批判した者たちに対して、イエスが用いられた比喩であり、その中で「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国(神の支配)はあなたたちのところに来ているのだ」と明言されます(マタイ一二・二八)。ルカ(一一・二〇)では「神の指で追い出している」となっていますが、その「神の指」は実質としては神の霊を指しています。

 このように福音書に見られるイエスの勝利の記事、すなわち神の霊によるサタン的な霊の克服の言葉や比喩は、荒れ野におけるイエスの勝利の結果であり、その表白です。ところがルカは、「悪魔は時が来るまでイエスを離れた」と書いています。この「時が来るまで」とは何を意味するのでしょうか。

 ルカが言おうとするところはおそらく、この時以降は悪魔はイエスに手出しをすることができなくなったが、(定められた)イエスの受難の時が来たとき、再び悪魔はイエスの身に悪の手をのばして(二二・三)、イエスを敵対者の手に陥らせることができた、ということでしょう。これは、イエスがしばしば危機に陥ったときに(不思議な仕方で)そこから逃れられたことを、ヨハネ福音書(七・三〇、八・二〇)は「イエスの時がまだ来ていなかったからである」としているのと同じ見方であると考えられます。イエスの逮捕、裁判、処刑は、この世のあらゆる勢力が手を組んで神の子であるイエスを苦しめたのであり、「この世の君」であるサタンが(一時的にせよ)イエスを手中にした時であるという、最初期の共同体の理解を反映している句であると理解できます。

 しかしこの一三節によって、これ以降はイエスに対する悪魔の試みがなくなったと考えることはできません。先に見たように、イエス御自身はその働きの全期間を「わたしの諸々の試練《ペイラスモス》のさいに」という表現で語っておられることを、ルカ自身が伝えています(二二・二八)。イエスはその期間を通して、涙をもって父に祈り、誘惑と戦い、試みを乗り越えていかれたのです。そのことはゲツセッマネの祈りの記事が典型的に伝えています。

 

初期のイエスのバプテスマ活動

 洗礼者ヨハネとイエスの関係についてしばしば見過ごされがちなことですが、イエスはヨハネからバプテスマをお受けになった後、ヨハネのもとにとどまり、ヨハネと活動を共にされます。ヨハネからバプテスマを受けたユダヤ教徒はそれぞれの故郷と家に戻りました。しかし、イエスはヨハネのもとにとどまられます。イエスの荒れ野体験はこの時期のものと見られます。その後イエスはヨハネと同じようにバプテスマを授ける活動をされます。その中で、バプテスマを受けるためにヨハネのもとに来たペトロやアンデレ、またフィリポやナタナエルと出会い、彼らを弟子とされます(ヨハネ福音書一章)。

 イエスがバプテスマを授ける活動をされたことは、ヨハネ福音書(三・二二以下、四・一)が明言しています。その期間がどれくらい続いたのかは確定できませんが、洗礼者ヨハネが領主ヘロデによって投獄されるに至って、イエスはガリラヤへ行き、独自の宣教活動を始められます(マルコ一・一四)。その時には、イエスはもはやバプテスマを授けることはなく、またバプテスマについて語られることもありません。イエス独自の「神の支配」を告知する活動が始まります。

 現代の聖書学は、イエスの生涯の歴史的叙述に関しては、マルコが信頼できるとして、マルコ福音書(およびマルコに従う共観福音書)に基づいて叙述し、ヨハネ福音書はあまりにも霊的・神学的著作だとして、イエスの生涯の歴史的叙述においては無視する傾向があります。しかしヨハネ福音書は、イエスの働きの目撃証人の証言活動から生み出された作品であり、イエスの生涯の事実について重要な報告を多く含んでいます。むしろマルコ福音書の方が、イエスの働きを福音宣教《ケリュグマ》の図式で構成している面があり、歴史的事実としてはヨハネ福音書の方が信頼できる場合が多々あります。このイエスのバプテスマ活動の報告もヨハネ福音書だけにありますが、イエスの生涯を追究する上で信頼できる重要な情報源となっています。

 ところで、イエスがエルサレムの神殿で犠牲獣を売る商人の台や両替商の机を倒して、彼らを神殿から追い出すという過激な行動をされたことは、すべての福音書が伝えています。マルコ福音書は、それがイエスの最後の過越祭の時になされたとし、その行動が大祭司が代表するユダヤ教指導層がイエスを殺そうとする直接の理由となったとしています。それに対して、ヨハネ福音書はこのイエスの過激行動を、イエスがまだ洗礼者ヨハネと共にバプテスマ活動をされていた初期の出来事としています(ヨハネ福音書二章)。

 この過激な行動は、(マルコでもヨハネでも)エルサレム神殿の崩壊を預言する預言者の象徴行為とされていますが、神殿体制そのものに対するイエスの厳しい批判行動であることは間違いありません。大祭司に代表されるエルサレム神殿のユダヤ教に対して、エッセネ派はそれを非正統な祭司制であるとして厳しく批判し、その体制から逃れて荒れ野に共同体を設立して、エルサレム神殿と対立したのでした。エッセネ派の流れにあると見られる洗礼者ヨハネが、この体制の担い手であるファリサイ派やサドカイ派に対して「蝮の子らよ」と激しく非難したのもうなずけます。エルサレム神殿におけるイエスの過激な行動も、イエスがヨハネと活動を共にしておられた時期の出来事とすると、理解しやすくなります。イエスは洗礼者ヨハネの神殿体制批判をもっとも先鋭な形で表現されたことになります。

 最後の過越祭のとき、エルサレムに上られたイエスは毎日神殿で巡礼に来た人々に教えを説かれました。その中には神殿体制に対する厳しい批判もあったはずです。すでに神殿の崩壊を見ておられるイエスが(一九・四一〜四四)、その崩壊を預言する象徴行為をこの時に行われたとするマルコの書き方も納得できます。ルカはヨハネ福音書にある伝承も知っていたと考えられますが、マルコに従って神殿での象徴行為を最後の過越祭の時に置きます(一九・四五〜四六)。これは、すでにマルコ福音書が当時のキリスト信仰の共同体に広く受け入れられ、ペトロの権威によって尊重されていたので、ルカはその枠組みの中でイエスの出来事を「順序正しく」記述しようと決めていたからであると考えられます。しかし、ヨハネ福音書の明確な証言がある以上、イエスの神殿での象徴行為を、イエスが洗礼者ヨハネと共にバプテスマ活動をしておられた時期のものと見る見方も十分な根拠があるとしなければなりません。

 そのイエスの行動がいつなされたものであれ、わたしたちはイエスが命をかけてなされた神殿宗教への批判、それを通して示された体制化し絶対化した宗教を相対化する視点をしっかりと受け止めなければなりません。

 


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