ルカ福音書講解 2 


    第2章 ガリラヤ伝道の開始  

                           ―― ルカ福音書 四章(一四節〜四四節) ――



 T ガリラヤの歴史と社会

 

はじめに ― イエスとガリラヤ

 ルカは、イエスが舞台に登場されたときに系図を掲げてイエスの家系を提示するだけで、このようなユダヤ人の家系にお生まれになったイエスが、そのユダヤ教社会でどのようにお育ちになり、「およそ三十歳」になって活動をお始めになるまで、どのように生きてこられたのかには触れていません。ルカだけでなく、どの福音書もみな、イエスの容貌などの身体的特徴、受けた教育、経歴、職業、家族、社会環境など、人間的な側面にはほとんど触れていません。このような面については、福音を提示するさいに必要なごく僅かの情報を断片的に伝えるだけです。しかし、わたしたちは少しでも正確に、そして深くイエスの使信と働きを理解するために、イエスのこのような面についても、できるだけ詳しく知りたいと願います。現在では、イエスの時代のユダヤ教社会についての知見は増し加わり、研究も進んでいます。それらを駆使して「イエスの生い立ち」を記述するならば、それだけで一冊の著作が必要です。ここでは、これから福音書を読む上で必要で有益と考えられる最小限のことに触れておきたいと思います。詳しいことは、必要があるときに、その都度触れることにします。

 イエスは、ユダヤ教社会では「ナザレのイエス」として知られていました。両親のヨセフとマリアは、ガリラヤの小さな村ナザレの住人であり、イエスはナザレでお育ちになり、三十歳の頃に「ガリラヤのナザレから来て」洗礼者ヨハネからバプテスマをお受けになるまでは(マルコ一・九)、ナザレとその近辺のガリラヤで人生を過ごされました。後に見るように、イエスの「神の国」宣教の主要な舞台もガリラヤです。したがって、ガリラヤのユダヤ教社会を正確に知ることは重要です。同じユダヤ教社会と言っても、ガリラヤはエルサレムを中核とする南部のユダヤとは、様々な点で違っています。イエスのガリラヤでの伝道活動に入る前に、ガリラヤという地域の歴史と社会についてその概要を簡単にスケッチして、イエスの生い立ちの背景とその活動の舞台を見ておきましょう。


  ガリラヤの歴史

東方諸帝国の支配とガリラヤ

 ガリラヤは、モーセに率いられてエジプトを脱出した十二部族の一部がその地を得て住みました。その後、イスラエルの十二部族がダビデ王の下に統一されて王国を形成し、ガリラヤもその王国の一部となります。ところがダビデの王国は、次のソロモン王の後すぐに分裂して北王国イスラエルと南王国ユダヤに分かれます。ガリラヤは北王国の一部として、南王国のダビデ王朝に対立するようになり、同じイスラエルの宗教的伝統を持ちながら、南王国のユダヤとは別の歴史をたどることになります。

 北王国イスラエルは、北から勢力を伸ばしてきたアッシリアに征服されて滅びます(前七二二年)。そのさい、首都のサマリアが陥落する前にガリラヤはすでにアッシリアの属州として編入されていたので、首都サマリア陥落後、首都を中心として編成された属州とは違った扱いをうけることになります。北王国南部のサマリアにはアッシリアは住民混合政策をとり、外から移住させた五つの異民族をサマリアに定住させてイスラエルの民と融合させます。ところが、北部村落社会のガリラヤには住民混合政策をとった痕跡がなく、ガリラヤは北王国イスラエルの宗教的・文化的伝統を比較的よく守りながら村社会の生活様式を維持します。

 その後、南王国ユダヤもバビロニアに滅ぼされます(前五八六年)。しかし、バビロニアを滅ぼしたペルシャ王クロスから帰還の許可を得て、エルサレムに神殿を再建します。そのさい、サマリアが神殿再建を妨害したとして、ユダヤとサマリアは仇敵の間柄になります。こうして、ガリラヤとサマリアとユダヤは、それぞれ違う歴史をたどりながら、ペルシャの支配下に暮らすことになります。


ヘレニズムの波とガリラヤ

 ところが、マケドニアの若き将軍アレクサンドロスがペルシャに打ち勝ち、地中海からインドにおよぶ広大な帝国を打ち立てます(前三三〇年)。アレクサンドロスの死後帝国は四つに分裂しますが、イスラエルの民が暮らすパレスチナは、交通の要衝として戦略的に重要な位置をもつことから、南のエジプトを支配したプトレマイオス王朝と北のシリアを支配したセレウコス王朝の間の勢力争いの地となり、激しい戦いがこの地を戦場として繰り返され、交互の支配を受けることになります。ガリラヤも(サマリアやユダヤと共に)、前二〇〇年頃までは南のプトレマイオス王朝に支配され、それ以後は北のセレウコス王朝に支配されます。いずれにせよ外国王朝の支配は、ガリラヤの農民には重税を課せられる過酷なものとなります。

 この時期の歴史にとって重要なことは、政治・経済的な状況よりも、アレクサンドロスから始まる世界のギリシア化の流れです。ギリシア文化の信奉者であるアレクサンドロスは、征服した地域にギリシア風の文化と生活様式を持ち込み、地元の伝統的な宗教や文化と融合させようとします。この傾向また風潮は、アレクサンドロス亡き後も後継の王朝によって推し進められ、被征服各地はギリシア化の波にさらされることになります。ガリラヤを含むパレスチナも例外ではありませんでした。このようにギリシア化された地域と時代を、歴史家は「ヘレニズム世界」とか「ヘレニズム時代」と呼んでいます。「ヘレニズム」とは、ヘレネス化(=ギリシア化)された文化とか世界という意味です。

 この時代の大きな事件は、前二〇〇年以降パレスチナを支配したセレウコス王朝が、過激なギリシア化政策をとって、エルサレムに再建された神殿を中心にして形成されたユダヤ教を弾圧したため、熱烈なユダヤ教徒が蜂起して独立戦争が起こったことです。この「マカバイ戦争」で、ついにハスモン家の一族に率いられたユダヤ教徒が勝利し、神殿を解放し、セレウコス王朝の支配を脱して独立します(前一六四年)。その後ユダヤは、ハスモン家の一族が世襲する、王としての権力をもった大祭司に統治される独立の宗教国家となります。この宗教国家を統治した王朝を、「ハスモン王朝」と呼び、この王朝が支配した時代を「ハスモン時代」と呼びます。この時代は、パレスチナが前六三年にローマの支配下に陥るまで続きます。

 このハスモン時代の初期には、ガリラヤは(北イスラエルの宗教的伝統を維持する勢力もわずかに残っていたでしょうが)長年の異教諸王朝の支配下にあって浸透した異教文化と、最近押し寄せてきたヘレニズムの波に押し流されて、ハスモン王朝下の南のユダヤのように熱烈なユダヤ教一色の社会ではありませんでした。それで南のユダヤ教側からは、「異邦人のガリラヤ」と呼ばれていました。
 ところがハスモン時代に、ガリラヤは南のユダヤ教神殿国家体制に徐々に組み込まれていきます。ハスモン王朝は、軍事力を保有する宗教国家であり、大祭司ヨハネ・ヒルカノス一世(在位前一三四〜一〇四年)は、強大な軍事力を用いて、南はイドマヤ、ネゲブから、北はサマリアまで支配領域を広げます。アリストブロス一世(在位一〇四〜一〇三年)の時には、ガリラヤもハスモン家支配の地として扱われるようになります。ハスモン時代中期には、ユダヤ教宗教国家はダビデの国をしのぐ大きな領土国家となります。

 新しい地域に支配を広げたハスモン王朝は、土地の住民に割礼を強制してユダヤ教化し、エルサレムの神殿宗教国家体制に組み込んでいきます。このハスモン王朝の支配下に入ることによって、ガリラヤはユダヤ教徒が住む地域としての色彩を濃くしていきます。このように、イエスの時代においても、ガリラヤはユダヤ教の地になってから百年ぐらいしか経っていません。このような歴史的経緯からも分かるように、ユダヤ教の本拠地であるエルサレムとそこのユダヤ教指導層からは、ガリラヤはユダヤ教の辺境の地と見られ、なお「異邦人のガリラヤ」と呼ばれ、「ガリラヤから預言者が出ることはない」(ヨハネ七・五二)とさげすまれていました。

 

ローマとヘロデ家支配下のガリラヤ

 一〇〇年ほど続いたハスモン王朝の支配も、前六三年のローマの将軍ポンペイウスの侵攻以来傾き始め、ローマの傀儡政権としてようやくその地位を保ちます。その間、イドマヤ出身のヘロデ家のアンティパトロスは軍隊の実権を握り、暴動の鎮圧に功績を挙げ、カエサルに協力して認められ、カエサルからユダヤ州の総督に任じられます。彼はユダヤ州を分けて五人の息子たちに治安を担当させます。ガリラヤを担当したのが次男で、後に大王と呼ばれることになるヘロデです。ヘロデはその巧妙な軍事作戦で、ガリラヤで頻発する「盗賊集団」《レースタイ》を鎮圧し、ハスモン家の対抗勢力を打ち破ります。ここで「盗賊」《レースタイ》というのは、ローマやヘロデの過酷な支配に抵抗する宗教的・民族的武闘集団をローマ側から呼んだ名称です。

 ところが、反ローマのパルティア人の支援を受けて、ハスモン家のアンティゴノスがエルサレムを占領し、ローマの支配を排除して王と大祭司の地位に就きます。ヘロデはローマに逃れ、ローマ支配層に取り入って、元老院から「ユダヤの王」の称号を得ます(前四〇年)。パレスチナに戻ったヘロデは、ガリラヤで激しい抵抗を受けますが、ついに全ガリラヤを制圧し、エルサレムに上り、ローマ軍の支援を受けてアンティゴノスを打ち破り、パレスチナ全土の支配者となります(前三七年)。こうしてヘロデ王朝が始まります。

 ヘロデはローマの「同盟王」として、軍事力を強化して、その強権支配によって政治的安定を図ります。とくに若いときから騒乱に苦しめられたガリラヤには、要塞を強化するなど軍事支配を強化します。イドマヤ出身のヘロデは、ユダヤ教徒からは半ユダヤ人としてあまりよい感情をもたれていなかったので、ユダヤ教徒を懐柔するためにエルサレム神殿を再建する事業を始めます(前二〇年頃)。ヘロデは建築好きで、各地に多くの壮大な建造物を残しています。ヘロデは本質的にはヘレニズム信奉者であり、彼の建築事業にはギリシア風の都市や建築物が多く見られます。サマリアを再建して「セバステ」とし、カイサリアを建設してローマ皇帝に捧げるなどしています。しかし、農業地帯のガリラヤにはそのようなギリシア風の大きな建設事業は見られません。

 贅沢な宮殿、ローマ高官への贈り物、強大な軍事力を維持するための経費、マニア的な建築事業に要する莫大な費用など、すべての経費は農民たちから吸い上げられる税金でまかなわれます。ガリラヤの農民が重税で苦しんだことは十分推察できます。

 ヘロデの支配が残酷で過酷であったことは有名です。密告を奨励して警察国家体制を強化し、少しでも抵抗する者、その疑いのある者を容赦なく投獄処刑しました。とくに晩年は猜疑心が強くなり、すこしでも自分の権力を危うくする疑いのある者は、妻や息子でも処刑しました。このヘロデの最晩年にイエスがお生まれになります。

 ヘロデの没後(前四年)、彼の王国は彼の三人の息子に分けられて統治されます。南のユダヤ・サマリア・イドマヤはアルケラオスに、ガリラヤ湖の北と東の北方はフィリッポスに、そしてガリラヤとペレアはアンティパスに委ねられます。フィリッポスの統治は比較的安定し三四年まで続きますが、アルケラオスは悪政のゆえに追放されます(六年)。この年、ユダヤはローマ帝国の属州として編入され、ローマ総督が直接統治するようになります。

 ガリラヤを支配したヘロデ・アンティパスは、建設事業に力を注ぎます。反乱の砦となったためにローマ軍によって焼き払われたセッフォリス(ナザレから北6キロ)を立派なヘレニズム都市に再建します。さらに、ガリラヤ湖畔に大きなヘレニズム風の都市を建設し、時の皇帝ティベリウスに捧げて「ティベリアス」と名付け、ガリラヤの首都とします(二〇年頃)。このような建設事業はイエスの若いときの時期と重なります。

 ヘロデ・アンティパスは、東隣のナバテア国の王女を妻としますが、この妻を離縁して兄弟の妻であるヘロディアと結婚します(この結婚が洗礼者ヨハネによって厳しく批判されます)。怒ったナバテア国王から挑まれた戦いに敗れ(三六年)、甥のヘロデ・アグリッパ一世との抗争にも敗れ、三九年にはガイウス帝によってガリアに流刑されます。このヘロデ・アンティパスは、洗礼者ヨハネを処刑し、イエスの裁判にも関わるなど、領主としてイエスの生涯に深く関わります。福音書(三・一、一三・三一)に「ヘロデ」として名指される領主は、このヘロデ・アンティパスです。


  ガリラヤの社会

 ガリラヤの歴史をたどってイエスの時代まで来ましたので、ここでこの時代(一世紀前半)のガリラヤ社会の状況を見ておきたいと思います。この時期のガリラヤの社会こそ、イエスが生まれ育たれた環境であり、宣教活動をされた舞台ですから、それを少しでも正確に知ることは必要であり、有益です。

「ガリラヤ人」

 そもそもガリラヤに住んでいた人たちは、どのような人たちだったのでしょうか。先に「歴史」のところで見たように、北イスラエル王国の宗教的伝統を受け継ぐ農民たちが残っていたことは推察されます。しかし、周囲を異邦諸民族に囲まれ、長年異民族支配下にあり、ある程度の民族混淆があったことは事実でしょう。ただ、サマリアのようなアッシリアによる強制的な民族混淆政策を免れたことから、北イスラエルの宗教的伝統は比較的よく維持されていたと考えられます。「異邦人のガリラヤ」という呼び方は、南のユダヤのユダヤ教から見て、ユダヤ教が支配的でない地域のガリラヤに対する蔑称であり、異邦人だけの居住地という意味ではありません。
 ハスモン時代初期には、ガリラヤは異民族の支配下にありましたが、それでもユダヤのユダヤ教徒たちはガリラヤには自分たちの「同胞」がいるとして、「同胞」の救出に軍隊を送っています(マカバイT五章)。ハスモン時代中期には、ガリラヤもハスモン王朝の支配下に組み込まれ、ユダヤ教体制が浸透していきます。この時期以降は南のユダヤ教徒がガリラヤに移住してくるようになり、ユダヤ教の地域としての色彩が強くなります。イエスの家系もユダヤからの移民であった可能性があります(後述)。

 こうして、この時代のガリラヤには、ユダヤ人とと非ユダヤ人が住んでいましたが、住民の多くはユダヤ人であり、イエスもその弟子たちもユダヤ人です。しかし、南のユダヤ(実際にはエルサレム)では、イエスは「ガリラヤ人」と呼ばれ(二三・六、協会訳のマタイ二六・六九)、弟子たちも「ガリラヤ人」と呼ばれています(二二・五九、使徒二・七)。また、ガリラヤの住民一般を指す場合もあります(一三・一〜二)。このような呼び方は、イエスや弟子たちはユダヤ人でありながら、ユダヤ教の本拠地エルサレムでは、特殊な地域的傾向をもつユダヤ教徒として、やや差別的に見られていたことを示唆しています。

ガリラヤの都市と農村

 ほとんどの古代社会と同じく、ガリラヤの社会も都市と農村という二つの性格の違う社会から成り立っています。ガリラヤには大規模の都市はなく、せいぜいセッフォリスとティベリアスが二万四〇〇〇人程度の都市であったと推定されています。ヨセフスは、他にガバラという都市があったこと、また「ガリラヤには二四〇の都市と村がある」と報告しています。カファルナウム、ナザレ、カナ、ナインなどは、新約聖書で町とか村とか呼ばれていますが、カファルナウムで約一〇〇〇人、他は五〇〇人程度の農村です。当時のガリラヤの総人口は一五万人ほどではなかったかと推定されています。ガリラヤは、一部ガリラヤ湖の漁業(実際は半農半漁)で生計を立てる人もいますが、地域全体としては農業地域であるといえます。

 都市は周辺地域を支配するための拠点です。都市には支配階級(=領主や地主など貴族階級)、軍隊や徴税を担当する人たちが住んでいます。都市はまた、地域の経済活動の拠点でもあります。生活用品を生産する職人や、地域の産物を流通させる商人たちが活動しています。人口からすれば、支配層や富裕層に仕える使用人や、下積みの労働者が多かったことでしょう。また、都市はヘレニズム文化の拠点です。都市はギリシア風の宮殿、劇場、浴場、図書館などの建造物を持ち、そこでギリシア風の文化活動や生活が営まれます。都市の住民の多くはギリシア語を話したと考えられます。

 それに対して、農村は古くからの伝統的な宗教と生活様式を守り、昔からの地域の言語であるアラム語で暮らしています。ガリラヤの農村(漁村も含む)で生まれ育ったイエスとその弟子たちは、アラム語を話したことは確実ですが、ギリシア語を話したかどうかは確認できません。生活の必要上、また都市のギリシア語階層との接触から、ある程度のギリシア語を使った可能性はありますが、日常はギリシア語ではなくアラム語で生活する人たちであったはずです。

 農村で注目すべきは、地主と小作農民の関係です。イスラエルの民はもともと先祖から受け継いだ土地を耕し、自給自足で暮らす自営農民です。しかし、貨幣経済の流れの中で農産物が商品化されるようになり、干魃などの自然災害や戦争や厳しい租税のため貧窮した農民は、都市の富裕階級から金を借り、返済できない場合は土地を手放して小作人になります。ガリラヤでは、時代と共に農民の小作人化が進んだようです。小作人は、収穫の一定割合を地主に納めましたが、その割合は三分の一から二分の一に及んだとされています。

 このような地主と小作人の関係は、福音書のたとえ話にも用いられています(マルコ一二・一〜一二)。この「ぶどう園と農夫」のたとえで、不在地主から派遣されて収穫を取り立てる僕たちを農夫(小作人)が殴ったり殺したりしたという話は、実際の小作人の抵抗や暴動を下敷きにしていると見られます。

 自営農民や小作農民は、不足する収入を補うために季節労働者とか日雇いとして出稼ぎに行きます。日雇い労働者のことは、福音書の「ぶどう園の労働者」のたとえ(マタイ二〇・一〜一六)に描かれています。その他、農村には零細な職人や行商人たちが一緒に暮らしていました。そのような下層の人たちの中で、負債のために奴隷となった人たちもいました。奴隷はおもに都市の富裕階層の生産活動や家事のために厳しい労働を強いられました。本来奴隷はいないはずのイスラエルの社会に奴隷がいた事実は、モーセ律法の中に奴隷を人道的に扱うように求める規定が、時代と共に多くなっていった事実が雄弁に物語っています。

 それから、これはガリラヤ社会特有のことではありませんが、どの古代社会でそうであるように、ガリラヤの女性たちは男性に従属する存在でした。ここで女性の社会的立場を詳しく描くことはできませんが、ガリラヤも一世紀のローマ社会の父権制社会であったことを指摘するにとどめます。

 農村は、都市の支配階級によって徴収される小作料や各種の税金によって都市の生活と活動を支えます。都市の支配階級による収奪や強権的な徴税に対して、また古くからの宗教的伝統文化を否定するようなギリシア文化で繁栄する都市に対して、農村は敵意とか憎悪の感情を潜在させていたと考えられます。ヘロデ家とローマの支配が強くなり、横暴になるに従い、ガリラヤは抵抗と武装蜂起の温床となっていきます。

ガリラヤにおけるユダヤ教

 ユダヤ教における神礼拝は、ヨシヤ王の宗教改革以来、エルサレムの神殿だけで行われます。ガリラヤのユダヤ教徒は、年三回の巡礼祭でエルサレム神殿に詣でることでイスラエルの神ヤハウェを礼拝することになりますが、巡礼は大変な負担ですから、ガリラヤのユダヤ教徒が皆、忠実に年三回巡礼に出かけたのではないでしょう。ユダヤ教徒としての日常の生活は、会堂(シナゴーグ)を拠点にして行われていました。

 ユダヤ教徒の生活は、とくに農村においては、会堂を中心に営まれました。どの村にも会堂があり、村人は安息日には会堂に集まり、聖書朗読や、ラビによる聖書解説と説教、祈り(多くは定められた祈祷文の朗唱)などの宗教行事が行われました。しかし、会堂はユダヤ教の宗教行事だけではなく、子供たちに言語や宗教(聖書)を教える教育活動、村の様々な相談事をする場所として、日常生活の中心でした。ときには律法違反行為に対する裁判や懲罰(交わりの停止や鞭打ちなど)を行うなど裁判所の役目も果たしました。会堂は、古来の宗教伝統を維持し、押し寄せるヘレニズム文化に対するユダヤ教の砦としての役割も果たします。

 会堂には、会堂を管理し、そこでの集会を司る「会堂司」がいました。また村の長老たちによって構成される「長老会」が必要に応じて招集され、重要な事柄の決定に当たりました。会堂が宗教行事だけでなく、地域の生活全般にわたる活動拠点であったため、会堂にはユダヤ教徒だけでなく、地域の非ユダヤ教徒も集まっていたと見られる(考古学的)痕跡があります。ガリラヤの農村では、ユダヤ人と非ユダヤ人が、生産や日常生活を共にしていたことがラビ文書にも示されているということです。

 ところで、会堂でユダヤ教(=律法)を教えたのは律法学者(ラビ)たちですが、彼らはおもにファリサイ派の律法学者であったと見られます。ガリラヤには神殿はないのですから、サドカイ派の祭司階級はいなかったでしょう。ファリサイ派はもともと神殿の外での日常生活の中で「清さ」を追求する運動ですから、神殿のないガリラヤで支配的になることは自然です。エッセネ派の影響がどの程度ガリラヤに及んでいたかは分かりません。とにかくガリラヤではファリサイ派のユダヤ教が支配的であったと見られます。それで、ガリラヤは有力な律法学者を輩出することになります。たとえば、エルサレム神殿崩壊後のユダヤ教を再建したラビのヨハナン・ベン・ザッカイはガリラヤ出身です。また、エルサレムがローマによって破壊占領された後に、律法学者たちはガリラヤに集まり、そこに学院を建て、ミシュナを編纂し、後にはエルサレム・タルムードを生み出します。こうして、ガリラヤは後のラビ・ユダヤ教の揺籃の地となります。ガリラヤのファリサイ派ユダヤ教は、イエスの生い立ちと宣教活動の両面で最も重要なコンテクスト(背景)となります。

ガリラヤ人の抵抗運動

 ガリラヤは農業地帯といっても、北部ガリラヤと南部ガリラヤではかなり事情が違います。南部は比較的肥沃な平野や丘陵地帯が多い地域ですが、北部は山岳地帯が多く、山腹の洞窟などは武装抵抗集団の格好の拠点となりました。もともとガリラヤ人は北イスラエルの宗教的伝統に育まれ、ヤハウェだけを拝み、異教徒の支配に抵抗してきた体質を受け継いでいて、ローマとヘロデ家の支配に対しては果敢に抵抗しました。ヨセフスは、ガリラヤ人の勇敢さ、自由への愛、律法への熱心を賞賛し、同時にこのような武装蜂起の抵抗集団を鎮圧するためのローマ軍やヘロデ軍とのガリラヤでの激しい戦いを数多く報告しています。「洞窟の抵抗者たち」は、「捕虜よりも死を」と叫んで激しく抵抗し、最後には全滅していったと伝えられています。

 このようなガリラヤ人の抵抗運動の中でとくに注目される一例をあげますと、六年にアルケラオスが追放され、ユダヤがローマ総督の直轄領となったときに行われた徴税のための人口調査に反対して、「ガリラヤのユダ」が蜂起しました(使徒五・三七)。彼はローマに税を納めることは、神の主権を侵害し、第一戒への違反だとしてローマへの納税を拒否するように呼びかけ、抵抗運動を組織します。ユダの抵抗運動は、人口調査が行われたユダヤにおける運動であり、ガリラヤで行われたのではありませんが、「ガリラヤ人ユダ」と呼ばれているように、彼の思想はガリラヤの抵抗運動の中から生まれたものであり、ガリラヤ的な性格を示しています。

 彼は単なる革命的な軍事指揮者ではありません。ファリサイ派の律法学者であり、彼の思想はファリサイ派の中の過激派と見ることができます。彼も、終末的な神の力によるイスラエルの解放が近いことを唱え、信仰によって立ち上がるように説き、民を反ローマの運動に糾合しました。それで、彼の宗教的立場や思想をヨセフスはユダヤ教の一派として扱い、(サドカイ派、ファリサイ派、エッセネ派と並ぶ)「第四哲学」と呼んでいます。このユダの思想と実践によって統合され進展した運動の担い手たちを「熱心党」《ゼーロータイ》といいます。この呼称はユダヤ戦争の時から用いるべきだとする反対論もありますが、ヘンゲルが詳細に論証したように、「ガリラヤ人ユダ」から始まる、この時代のユダヤ教の一派を形成した宗教運動を指す呼称として用いてよいでしょう。イエスの時代は、この「熱心党」がますます影響力を強め、ユダヤ戦争の破局に向かっていく時代であったことになります。

 


 U イエスの生い立ち

 

 ガリラヤ社会の中のイエス

イエスの家系と両親

 先に「系図」のところで見たように、イエスの父となったヨセフはダビデの家系に属しますので、イエスの家系はイスラエル十二部族の中ではユダ族に属すことになります。先の「系図」には「ヤコブ、ユダ・・・・・ダビデ・・・・ヨセフ」の系列が見られます。そうすると、ユダ族に割り当てられた土地は南のユダヤですから、ヨセフあるいは彼の先祖はもともと南のユダヤの住人であった可能性が高いことになります(ディアスポラのユダヤ人であった可能性も否定できませんが)。イエスがお生まれになった土地の問題は後で取り上げますが、少なくともイエスの幼少の頃から、両親はガリラヤのナザレに住んでいます。おそらくヨセフ自身か、あるいはヨセフの父とか祖父の世代にユダヤからガリラヤに移住した可能性があります。先にマカバイ時代のところで見たように、ガリラヤがマカバイ家の勢力下に入るようになったマカバイ時代の中期(前一〇〇年前後)から、南のユダヤからガリラヤに移住するユダヤ人が多くなっていました。

 母のマリアについては、詳しいことは分かりません。ヨセフと婚約したときは、年若い(一〇歳代の)信仰深いユダヤ人の処女であったことは間違いないでしょう。当時のユダヤ教社会の状況からしますと、婚約する若い女性が処女であることを当然であり、疑う理由はありません。

 

イエス誕生の時と場所

 イエスの誕生の次第については、マタイ福音書とルカ福音書の「誕生物語」が語っています。そこで語られている物語、とくに処女降誕の物語をどのように受け取るかは、信仰の問題として「誕生物語」の講解で扱いますが、ここではイエスがこの世に誕生されたという歴史的事実に関連する問題だけを見ていきます。

 「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった」という伝承(マタイ二・一)は、最初期の共同体で広く受け入れられていました。その伝承で、イエスが「ヘロデ王の時代に」お生まれになったことは、現代の研究者にも広く認められていて問題はありません。ヘロデ王が没したのは前四年ですから、イエスはそれ以前に生まれておられることになります。ルカ(二・一〜二)があげているシリアの総督キリニウスが行ったとされる「最初の住民登録」の記述の歴史的正確さについては、現代でも論争が続いていて、イエス誕生の年を決める決定的な根拠とすることはできないとされています。現在では、イエスの誕生はヘロデの最晩年、おそらく前七年と前四年の間であろうとされています。

 一方、「ユダヤのベツレヘムで」お生まれになったとされる誕生の地については、議論があります。イエスは、ユダヤ教社会では「ナザレのイエス」として知られていた方であり、当然ガリラヤのナザレでお生まれになったと考えられていました。もしわたしたちがマルコ福音書とヨハネ福音書しか持っていなかったら、わたしたちも当然イエスはガリラヤのナザレでお生まれになったと考えたことでしょう。それにもかかわらず最初期の共同体は、「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった」という伝承を形成し、伝えてきました。マタイとルカは「誕生物語」で、それぞれ違った形で、イエスがユダヤのベツレヘムでお生まれになったことを物語っています。では、「ナザレのイエス」がどうして、遙かに遠いユダヤのベツレヘムでお生まれになったとされたのでしょうか。

 まず、ユダヤ人に向かってイエスをイスラエルに約束されたメシア・キリストであると宣べ伝えるためには、イエスがダビデの家系に属す方であることを示す必要があります。当時のユダヤ教では、メシアはダビデの子孫でなければならないという確信が強くなってきていました。それで、ユダヤ人に向かって福音書を書いているマタイは、イエスがダビデ家の出身であることを、系図と本文で繰り返し強調しています。ユダヤ人の信仰共同体で形成された告知の定式《ケリュグマ》も、「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められた」という形をとります(ローマ一・三〜四)。この告知の形は、異邦人への宣教においても保持され、イエス・キリストはダビデの子孫であることが、復活の事実と並んでいます(テモテU二・八)。

 さらに、当時の律法学者たちは、メシアはダビデの家系に属すだけでなく、預言(ミカ五・一〜三)によれば、ダビデが生まれ、王として油を注がれた「ダビデの町」ベツレヘムから出るとしていました(マタイ二・五〜六、ヨハネ七・四二)。それで、最初期のユダヤ人に向かってなされた宣教において、イエスが預言を成就する方としてお生まれになったことを補強するために、イエスがベツレヘムで生まれたことを語るようになり、ベツレヘムでの誕生に関する伝承が形成されます。

 ただ、その語り方がマタイとルカでかなり違うことが問題になります。マタイは、ローマ総督による住民登録には全然触れず、ヨセフとマリアがベツレヘムの住民であることを当然のこととして前提しています。ただ、自分の王位を脅かす男子の誕生の預言に恐れを感じたヘロデ王がベツレヘム一帯の男の幼児を殺戮したので、ヨセフとマリアは難を逃れてエジプトに下り、ヘロデが死んだ後、その子のアルケラオスがユダヤを治めていると聞き、彼の支配の及ばないガリラヤに移住し、ナザレに住むことになったとしています。
 他方、ルカはヘロデの虐殺には一切触れず、ナザレに住んでいたヨセフとマリアが、ローマ総督の命令により住民登録のためにベツレヘムに行き、その旅先の馬小屋でマリアがイエスを出産し、再びガリラヤのナザレに戻ったとしています。

 マタイの「誕生物語」は、預言成就をモティーフとするユダヤ人のための聖書物語の感があり、ルカの「誕生物語」は、諸国民の救い主の出現を賛美する賛美歌集のおもむきがありますが、(以上の注記のように)詳細に検討すると両方に歴史的な核があることが分かります。マタイとルカは、それぞれ違った伝承を用いて、自分の著作意図に従って物語を構成していますが、その二つの物語は、「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった」という歴史的事実を確認しています。イエス誕生の後、ヨセフはガリラヤのナザレに戻り、イエスはナザレで育たれることになります。こうして、イエスはユダヤのベツレヘムで生まれ、ガリラヤのナザレでお育ちになります。

 

イエスの家族と職業

 ヨセフとマリア夫妻にはイエスの後に、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの四人の男の子と何人かの女の子が生まれます(マルコ六・三)。イエスは、四人の弟と何人かの妹をもつ長兄として育たれます。

 父のヨセフは「大工」《テクトーン》でした(マタイ一三・五五)。《テクトーン》とは、家を建てる大工ではなく、家具や家の木造部分を造る職人を指し、むしろ「木工職人」と呼ぶ方が適切です。村に住む職人は、農民たちと一緒に暮らす村落社会の一員であり、社会階層としては都市に住む支配階級ではなく、農民階層に属します。イエスが都市の富裕な支配階層や祭司階級の出身ではなく、このような農民階層の出自であり、農民たちと生活感覚を共有しておられたことは、イエスの宣教活動の性格を決める一つの重要な要素になります。

 当時の社会では、息子は父親の職業を見習って技術を身につけ、社会に出ました。イエスも父親から木工職人としての技術を習い、父親の仕事を手伝い、長じては大家族の長兄として、その職業に励み、家族を支えてゆかれました。イエスが公の宣教を始められた時、故郷のナザレの人たちは、イエスについて「この人は大工《テクトーン》ではないか」と言ったと伝えられています(マルコ六・三)。

 父親のヨセフは、イエスの十二歳の時の物語(二・四一〜五二)に出てくるのを最後に、イエスが公に活動を始められた後には、舞台に登場しません。それで、イエスが宣教の活動を始められた時には、すでに亡くなっていたと推察されています。それがイエスの何歳の頃からであったのかは確認できませんが、イエスはヨセフ亡き後、一家を支えてその職業に励まれたことでしょう。

 イエスの時代には、ナザレから北6キロのセッフォリスやガリラヤ湖畔のティベリアスで大規模な建設事業が行われています。イエスも木工職人として工事に参加して、都市の支配階級の贅沢な暮らしを見ておられる可能性があります(七・二五参照)。

 ユダヤ教徒は成人すれば結婚することが宗教的な義務でした。結婚してユダヤ教徒の子孫を残すことがユダヤ教団の存続にとって必要だったからです。しかしイエスの時代には、エッセネ派のように結婚しないで宗教生活に励むことを勧める宗派もありました。洗礼者ヨハネも結婚していませんでした。イエスはどの程度エッセネ派と接触されたのかは確認できませんが、おそらくイエスはひとり神の霊に導かれて深く聖書に沈潜し、結婚して自分の家族をもつことなく(エレミヤの先例もあります)、「天の国のために結婚しない者」(マタイ一九・一一〜一二)の一人として、祈りに専心されたのではないかと見られます。

イエスとユダヤ教

 ヨセフは熱心なユダヤ教徒でした。ヨセフの家系は(ダビデの家系に属する家族として)代々ベツレヘムの住人であって(ヨセフ自身またはヨセフを育てた父親もベツレヘムの住人であった可能性があります)、ヨセフはエルサレムを本拠とするユダヤ教の直系に属する熱烈なユダヤ教徒であったと見られます。そのことは、ヨセフが「義人」と呼ばれており(マタイ一・一九)、その息子であるヤコブもエルサレムのユダヤ教徒たちに「義人」として名を知られていたことからも推察されます。

 ヨセフは大工《テクトーン》であって、祭司ではありませんから、彼が励んだユダヤ教はファリサイ派ユダヤ教であったと考えられます。とくにガリラヤに移住してからは、ガリラヤの会堂で支配的なファリサイ派ユダヤ教の中で、律法(聖書)を学び、律法に基づく生活に励んだと見られます。当時エッセネ派も(クムランだけでなく)エルサレムやパレスチナ各地で在家の生活をする教徒もいたのですから、エッセネ派の影響を受けていた可能性もありますが、エッセネ派との関わりは確認できません。

 イエスも幼い頃は父親からユダヤ教の基本である「シェマ」や十戒を繰り返し聞かされ、また父祖のの物語を聞かされたことでしょう。敬虔なユダヤ教徒の家庭では、自家の巻物(律法の基本的な部分の巻物でしょうが)を持っていて、イエスも父親から文字を教えられて、聖書の巻物を読めるようになっていたことでしょう。

 子供が成長すると、会堂の学校に送られて、会堂付属の学校で律法(聖書)を学びます。聖書(旧約聖書)はヘブライ語ですから、イエスは日常生活で用いるアラム語の他に、ヘブライ語にも習熟されていたと見られます。イエスは(後で見るように)律法の学習で天才的な能力を見せられたと考えられます。イエスはエルサレムの高名な律法学者(ラビ)の下に送られて、その門下で律法を学ばれたのではありませんが、幼い時からの深い霊感による聖書理解は天才的な鋭さを見せていたようです。

 そのことを示す一つのエピソードをルカが伝えています(二・四一〜五二)。ヨセフは熱心なユダヤ教徒として年ごとにエルサレムに巡礼して神殿に詣でていました。イエスが十二歳になったとき、(おそらく初めて)イエスを巡礼に連れて行きます。両親は帰途について一日の道のりを行ったとき、イエスがいないことに気づき、エルサレムに引き返します。そして、イエスが神殿で律法学者たちの中に座って、学者たちと律法を論じておられるのを見つけます。その時、周囲の人たちはイエスの鋭い受け答えに驚いていたと伝えられています。この出来事を引いて、フルッサーは、イエスを「無学な農民」とする誤りを指摘した上で、こう言っています。

 「イエスは聖書と口伝律法の双方に完璧なまでに通じており、またこのユダヤ教の学問的伝統をどのように応用すべきかを知っていた。イエスのユダヤ教の教養は聖パウロが受けた教育より比較できないほどすぐれていた」(フルッサー31頁)。

     シュタウファーは、イエスの誕生を前七年とし、イエスが十二歳になったのは紀元六年とします。この年はキリニウスの住民登録(正確には税額査定)が行われた年になるので、ヨセフはこの時にベツレヘムに赴いて税務を処理したとしています。そうすると、両親が少年イエスを見失った状況が納得しやすくなります。

 イエスは、生まれたとき神殿で捧げられ、幼いときからユダヤ教律法によって教育され、ユダヤ教徒の中で教え、ユダヤ教の代表者から死刑の判決を受け、ユダヤ教聖書の一節を口にして死なれた方、すなわち誕生から死に至るまで、その生涯を徹底的にユダヤ教徒として送られた方です。そのイエスの福音が、ユダヤ教を超えてすべての人間に救いの使信となる姿を、わたしたちは福音書の中に見ていくことになるのですが、その前提として、イエスが「ユダヤ人イエス」であること、すなわちイエスがユダヤ教徒としてその生涯を歩まれた事実と、それが意味するところを見過ごしてはなりません。

     イエスが聖書とファリサイ派の口伝律法以外のユダヤ教文書や思想にどれだけ通じておられたかは難しい問題です。それと関連して、イエスがどれだけギリシア語に通じ、ギリシア語で書かれた黙示文書などの外典に接しておられたかも確認困難な問題です。パレスチナにもギリシア語を話すユダヤ人は多くいたのですから、イエスもある程度の日常的なギリシア語は用いられた可能性はありますが、イエスの母語と日常の用語はアラム語であったことは確実です。イエスの教えや言葉が、当時のユダヤ教各派とどのように関わるのかの問題は、福音書の講解で個々の出来事や語録を扱う時に触れることになります。

 


V ガリラヤでの宣教開始

 

17 ガリラヤで伝道を始める(四・一四〜一五)

 

ユダヤからガリラヤへ

 イエスは御霊の力に満ちてガリラヤに帰られた。(四・一四前半)

 このような性格の土地ガリラヤでお育ちになり、また生活してこられたイエスは、「およそ三十歳」になられた時(前七年の誕生とすると三十三歳、前四年の誕生とすると三十歳の時)、ヨルダン川の流域に広く響き渡った洗礼者ヨハネの声に神の呼びかけを聞かれます。そして、「イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けられ」ます。それがどこかは明示されていませんが、ヨハネ福音書(一・二八)によると「ヨルダン川の向こう側、ベタニア」であったとされています。ベタニアがどこかは確定できませんが、エルサレムの視点から書いているヨハネが「ヨルダン川の向こう側」というときは、(ガリラヤではなく)ユダヤのヨルダン川東岸であると見られます。マルコ福音書(一・五)も、「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨハネからバプテスマを受けた」と書き、イエスも「ガリラヤのナザレから来て」(一・九)バプテスマを受けられたとして、その場所がユダヤであることを示唆し、その後荒れ野で試みに遭われたのもユダヤの荒れ野であるとしているようです。

 ルカは、「荒れ野の誘惑」の記事の後すぐに、「イエスは御霊の力に満ちてガリラヤに帰られた」と続け、ガリラヤの諸会堂で教える活動が始まったとしています。ルカはイエスをガリラヤの人とする視点から、「ガリラヤに帰られた」という表現を用いています。
 ルカはマルコに従ってそう記述したのでしょうが、事実はそう単純ではなかったようです。ヨハネ福音書によると、ユダヤの荒れ野で御霊の満たしと試練によって召命を確認されたイエスは、その後もユダヤでバプテスマを授ける活動をしておられます(前号38頁参照)。イエスがバプテスマを受けてからガリラヤで公の宣教活動を開始されるまでの行動については、ヨハネ福音書が詳しく伝えていますので、ここにそれを要約しておきます(数字はヨハネ福音書の章節)。

1 ユダヤの地でヨハネからバプテスマを受ける(一・二八)
2 ヨハネの弟子数名を召してガリラヤへ(一・四三)
3 ガリラヤのカナの婚礼に参加(二・一〜一一)
4 カファルナウムに滞在(二・一二)
5 過越祭でエルサレムへ上り、神殿で商人を追い出すなどの象徴行動(二・一三〜二五)
6 エルサレムでニコデモと対話(三・一〜一五)
7 ユダヤに行きバプテスマ活動(三・二二) ― 洗礼者ヨハネはまだ投獄されていない
8 サマリア経由で再びガリラヤへ(四・三〜四) ― 洗礼者ヨハネの投獄を聞いて?
9 サマリアでの活動(四・五〜四二)
10 ガリラヤでの宣教活動(四・四三〜五四)

 ヨハネ福音書を生み出したヨハネ共同体は、イエスのエルサレム近辺の活動を目撃して熟知している証人の指導で形成された共同体であり、その記述は歴史的事実に基づいていると考えられます。ペトロ系の伝承に基づいて福音書を書いたマルコは、このようなイエスの初期の行動を伝える伝承を知らなかったのか、あるいは知っていて省略したのかは断定できませんが、それは福音の提示には不必要だとして、2から9までの項目をとばして、イエスはユダヤでバプテスマをお受けになり、荒れ野での試みに打ち勝たれた後、洗礼者ヨハネの投獄を聞いて、ガリラヤに行かれたとしています。しかし、エルサレム神殿での象徴行為は省略できませんので、イエスの最後の過越祭での出来事としています。

 エーゲ海地域で活躍したルカは、エフェソで成立したヨハネ福音書の伝承を知っていたと推察されますが、それを無視してマルコの記述に従ったのは、先に見たように(前号40頁)、すでにマルコ福音書が当時のキリスト信仰の共同体に広く受け入れられ、十二使徒の代表であるペトロの権威によって尊重されていたので、ルカはその枠組みの中でイエスの出来事を記述することを原則としていたからであると考えられます。

ガリラヤの諸会堂で教える

 その評判が周りの地方一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。(四・一四後半〜一五)

 ルカは最初に、ガリラヤでのイエスの活動をごく一般的な記述でまとめています。「周りの地方一帯」とはどこを指すのか、具体的な地域名はあげられていません。後に続くガリラヤでの活動を語る記事からすると、ガリラヤでのイエスの活動範囲は、カファルナウムを拠点として、マグダラ、コラジン、ベトサイダなどを含む、おもにガリラヤ湖の西岸北部から北岸にかけての農漁村地域であったと見られます。故郷のナザレやカナなど、ガリラヤ湖から少し離れた山地にも入っておられますが、ナザレの近くの大都市セッフォリスやガリラヤ湖畔に最近に建設された州都ティベリアスなどのギリシア風の都市に足を踏み入れられた形跡はありません。

 同じマルコ福音書に依拠しながら書いたマタイは、イエスのガリラヤ伝道を次のようにまとめています。
 「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気をいやされた」。(マタイ四・二三)
 このマタイの総括と較べると、ルカはイエスが病気を癒されたことに触れていませんが、それは「 イエスは御霊の力に満ちて」という記事と、「その評判が周りの地方一帯に広まった」という記事に含まれています。御霊の力が一般の民衆の目にもっとも顕著に表れて評判になるのは、病気のいやしなどの「力ある業」ですから、ルカの記事にも病気のいやしの働きが含まれていると見ることができます。ルカはイエスのいやしの働きを別の場所(六・一七〜一九)で詳しくまとめていますが、ここのまとめ方を見る限り、ルカは御霊の力の現れを、第一にイエスの教えの力と新しさに見ていることになります。

 「イエスは、皆から尊敬を受けられた」とありますが、実際にはすぐに続くナザレでの出来事が示すように、反対や非難も多く、この表現はイエスのポピュラリティ(人気)を語るだけで、「その評判が広まった」と同じことを言っています。

 イエスの「教え」、すなわち御国の福音を宣べ伝える働きは、まず会堂で行われました。会堂で教えるとはどういう形でなされるのか、それが次のナザレの会堂での出来事を扱う段落で描かれていますので、そこで詳しく見ることにします。


18 ナザレで受け入れられない(四・一六〜三〇)

会堂での教え

 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。(四・一六)
 イエスが故郷のナザレに来て、そこの会堂で教え、故郷の人々から拒否された出来事は、マルコ福音書ではガリラヤ伝道の最後の時期に置かれています。それをルカはガリラヤ伝道の最初にもってきています。それは何を意味するのかが、この段落の理解にとって最大の問題ですが、それはこの段落の講解の最後で触れることにして、ここではまずナザレの会堂での出来事自体を見ていくことにします。

 「いつものように」という句が示唆しているように、「安息日に会堂に入り」、会堂で教えることが、イエスのガリラヤ伝道の基本的な形でした。先に「ガリラヤの社会」のところで見たように、会堂はガリラヤの村社会における生活の中心でした。とくに安息日には全員が会堂に集まり、ユダヤ教の神礼拝が行われ、聖書(律法や預言書)が教えられ、祈りと賛美が捧げられました。イエスはそこで、ご自分が御霊によって新しく受けた啓示を伝え始められます。

 安息日の会堂礼拝は、典礼的な第一部と教育的な第二部から成り、第一部では「シェマ」や「十八祈願」が唱えられ、第二部では聖書の朗読と講解が行われます。ユダヤ教会堂においては、聖書を朗読し、それについて説教をする者は、現代のキリスト教の教会のように司祭とか牧師に限定されず、男性の会員であれば誰でも許されていました。最初にモーセ五書から、次いで預言書から朗読され、講解または説教が行われました。律法や預言書を朗読する者は、立ち上がって朗読します。イエスはナザレの会堂で、預言書の朗読を担当され、開かれた預言書の言葉について大胆な宣言をされることになります。

 

聖書が成就した

 預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。(四・一七)

 その日、会堂で朗読すべく係の者から手渡された預言書はイザヤ書でした。会堂に置かれている聖書は巻物でした。イエスは巻物を開いて、次の預言の言葉が記されている箇所を「見つけ」られます。ここに用いられている動詞は、たまたま目にとまったというのではなく、探して見つけたという意味です(二・四四〜四六の用例参照。ここは新共同訳より新改訳・・・・が適切)。イエスは次のイザヤ書の箇所を意識的に選び出して朗読されます。

 「主の霊がわたしの上におられる。
  貧しい人に福音を告げ知らせるために、
  主がわたしに油を注がれたからである。
  主がわたしを遣わされたのは、
  捕らわれている人に解放を、
  目の見えない人に視力の回復を告げ、
  圧迫されている人を自由にし、
  主の恵みの年を告げるためである」。(四・一八〜九)

 これはイザヤ書六一章一〜二節の預言です。この預言が含まれるイザヤ書の部分(五六〜六六章)は「第三イザヤ」と呼ばれ、イスラエルが捕囚の地からエルサレムに戻り、神殿を再建した頃の預言の集成と見られています。この箇所は、この時代にイザヤの系列に属する預言者が、再建される神殿を超えて、将来イスラエルの民を救うべく神から遣わされるメシヤ(油を注がれた者)の到来を預言した言葉です。

 この預言には、捕囚の末期に、捕囚の軛からの「贖い」(=解放)を預言した第二イザヤ(四〇〜五五章)の使信が響き渡っています。彼が預言したバビロンからの解放は実現しました。しかし、人間が捕らわれ、圧迫され、目の見えない状況にあることは変わりません。神は終わりの日に、主の霊を与えられたメシヤを遣わして、このような捕らわれの状態にある人間を解放してくださると語られます。用語も、福音、油を注がれた者、解放、自由、恵みなど、第二イザヤの用語を引き継いたものが用いられ、第二イザヤに現れていた「主の僕」の姿が、さらに集約された形で現れています。とくに、時代の状況から、将来現れるメシヤの救いの告知が「貧しい人」に向けられるとされていることは、やがて到来する新約の救済告知をよく先取りしています。

 イエスは普段からイザヤ書を深く読み込んでおられたと推察されます。それは、イエスの語録の端々にイザヤ書の言葉が響いていることからも確認できます。とくに「主の僕」の預言はイエスのお心に深く刻み込まれていたことでしょう。イエスはこの時、イザヤの預言のこの一段を選び取って、会衆の前で力強く朗読されます。

 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。(四・二〇)

 立って聖書の朗読をした者は、その聖書の箇所について解釈や奨励説教をするときには、座ってします。イエスが巻物を巻き、係の者に返して席に座られると、「会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた」という張り詰めた空気になります。それは、ナザレの人たちはイエスがカファルナウムなどでなされた力ある業のことを聞いていたので(四・二三参照)、この同郷の人物に特別の興味と関心を寄せていたからです。この人物が、このイザヤの預言についてどのようなことを語り出すのであろうかと、固唾をのんで見つめていたのです。

 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき実現した」と話し始められた。(四・二一)

 そのような会衆に向かって、イエスは実に驚くべき言葉を発せられます。イエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と宣言し、その内容を説き始められます。預言の個々の句についてイエスが解説された内容は伝えられていませんが、ルカはこの時のイエスの講話の核心を、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」という宣言として要約しています。

 これは、実に大胆で驚くべき宣言です。聖書が終わりの日に現れると預言したメシヤ、主から油を注がれた者、主の霊がとどまる方が、今目の前に立っているという宣言です。マルコ福音書(一・一五)は、イエスの宣教の要約として、「時は満ちた」と宣言しています。イエスの出来事は聖書の成就であるという宣言は、福音告知《ケリュグマ》の第一項目です(コリントT一五・三〜五、ローマ一・二〜四など)。ルカは、このことをナザレの会堂でのイエスの宣言で告知しているのです。

ナザレの人たちの反応

 皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか」。(四・二二)

 イエスは、引用されたイザヤの言葉の一つ一つについて語られたことでしょう。イエスは、ヨベルの年が無条件に負債者を負債から解放したように、貧しい者が無条件に主の御霊の働きによって苦悩から解放される「恵みの年」の到来を告知されます。引用されているイザヤの預言の最後の節は、「主の恵みの年と神の報復の日を告知する」とありますが、イエスは「主の恵みの年」だけにして、「神の報復の日」を省略しておられます。これは、イエスの働きが「恩恵の支配」の告知であることにふさわしい引用の仕方です。ここでも、イエスはその働きを先取りして、イザヤの預言の言葉によって神の終末的な恩恵の時の到来を諄々と語られたことでしょう。自分たちがよく知っているイエスの口から出るこのような恩恵の言葉に、ナザレの同郷人は驚きます。

 この驚きは、このような聖書の深い内容が、今まで聞いたことのないような権威ある仕方で(マルコ一・二二)語られることに対する驚きですが、実は、それがごく身近な、自分たちの一員であるイエスによってなされたことに驚いているのであることが、「この人はヨセフの子ではないか」という言葉で表現されています。自分たちが「ヨセフの子」として子供の頃からよく知っているイエスがこのように語られることへの驚きが、このナザレの会堂での物語のポイントです。

 彼らの思いを見抜いて、彼らが言おうとしていることを、イエスの方から言い出されます。

 イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない」。(四・二三)

 ルカは、ナザレの会堂での出来事をガリラヤ伝道の最初に置いていますが、この記事はイエスの活動がすでにカファルナウムで始まっていたことを示しています。ナザレの人たちは、イエスがすでにカファルナウムで病気を癒し悪霊を追い出す力ある業をなされたことを聞いているのです。マルコ(一・二一〜三九)は、ガリラヤに戻ってこられたイエスは最初にカファルナウムで活動を始められたと伝えています。ルカはマルコの記事を知っており、ほぼそれと同じようにカファルナウムでのイエスの働きを伝えていますが(四・三一〜四四)、マルコがガリラヤ伝道の最後に置いているナザレの会堂での出来事を、あえてその前に置いています。その意図が問題になりますが、それは最後に触れることにします。
 ナザレの人たちがイエスの行う奇跡を見たいと願っていることを見抜いておられるイエスは、その要求を拒否されます。

 そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。また、預言者エリシャの時代に、イスラエルにはらい病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった」。(四・二四〜二七)

 「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」というイエスの言葉は、表現は少しずつ違いますが、四つの福音書すべてに伝えられています。共観福音書ではみな故郷のナザレで語られたとされていますが、ヨハネ福音書(四・四四)では違った文脈に出てきて、エルサレムとかユダヤが故郷として扱われています。

 預言者が故郷で歓迎されず「敬われない」(ルカ以外の福音書の用語)のは、故郷の人たちは預言者の人間としての面をよく知っているので、預言者の外面だけを見て、内なる神の霊の働きが覆われて見えないからです。しかしルカは、諺となっているこの言葉を、福音がユダヤ人にではなく異邦人に向かうようになることの預言として用います。

 預言者は自分の故郷では歓迎されないものであることを、イエスはイスラエルの歴史の中で代表的な預言者とされているエリヤとエリシャの事例を論拠として語られます。エリヤの事例は列王記上の一七章からの引用です。エリシャの事例は、列王記下の五章にあります。両方とも、神から遣わされた預言者が、神から受けた言葉で助けたのは、イスラエルの人ではなく、異邦の女や将軍であったことを語っています。このように、「預言者は自分の故郷では歓迎されない」という言葉は、イエスの福音が同族のユダヤ人には歓迎されずに拒否され、異邦諸族に向かうことの預言として用いられています。

 イエスが自分を受け入れないナザレの人たちに向かって、このようなことを語られたとするのはルカ福音書だけです。マルコとマタイは、イエスは故郷の人たちの不信仰をいぶかり、あまり奇跡を行うことができなかったと語るだけです。それに対してルカは、福音がイスラエルではなく異邦人に向かうことを、イエスのガリラヤ伝道の初めに、イエスの宣言として置くのです。福音がイスラエルではなく異邦人に向かうことは、序説の「ルカ二部作の成立」で見たように、第二部「使徒言行録」の主題です。それと対応する形で、ルカは第一部の福音書においても、その主題をイエスご自身の宣言として最初に置くことになります。

 これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。(四・二八〜二九)

 このようなイエスの発言を聞いたナザレの人たちは皆、初めの驚きが激しい憤りに変わります。その憤りの理由には、次のような多くの要素が絡まっていると見られます。

 まず「ヨセフの子」として自分たちと同じように育った仲間の一人であるイエスが、自分こそ「主の霊」がとどまり、神から油を注がれたメシヤとして、聖書の預言を成就し、最終的に民を解放する者であると宣言することは、認めることができない不遜であり、許されない僭越ではないかという怒りです。

 さらに、そのように主張するイエスが、その主張を根拠づけるために要求したしるしを拒否するのは、自分たちを軽蔑しきっている態度ではないか。その上、律法に忠実に歩むユダヤ教徒である自分たちを無視して、律法を知らない異邦人に救いが与えられると主張することは、聖なる神の律法を汚す発言ではないか。このような感情が爆発して、皆が総立ちになります。

 人間でありながら自分を神のような立場に置く者、神の聖なる律法をないがしろにするような発言で律法を汚す者は、神を汚す者であり、そのような者はイスラエルの中から取り除くことが、イスラエルの民の義務とされていました。そして、その方法として石打の刑が定められていました。

 石打の刑は、犠牲者を崖や城壁のような高いとことから突き落とし、その上に死ぬまで石を投げつけます。ナザレの会堂の人たちは、律法に対する熱心から、イエスを石打にしようとします。彼らは「イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうと」します。

 しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。(四・三〇)

 激しく憤ってイエスを取り囲み、イエスを崖から突き落とそうとしている人々の「間を通り抜けて立ち去る」のがどうして可能かということは問題になっていません。ヨハネ福音書では、ユダヤでユダヤ人たちがイエスを石打にしようとしたが、イエスは身を隠して逃れたという出来事が繰り返されています(ヨハネ八・五九、一〇・三一〜三九)。ルカがヨハネ福音書の記事や伝承を知っていたかどうかは分かりませんが、ルカもヨハネと同じく、同郷または同族のユダヤ人がイエスを石打にしようとしたと書いて、ユダヤ人のイエスに対する拒否と敵意を表現しています。しかし事実は、イエスがユダヤ人の石打によってではなく、ローマ人の十字架刑によって死なれたのですから、「まだ時が来ていなかったので」として、どの石打も逃れて行かれたとしなければなりません。

ナザレの会堂記事の位置について

 以上がイエスの故郷のナザレの会堂で起こったこととしてルカが伝える内容ですが、この段落の問題点は、内容だけでなくその位置です。マルコ福音書では、ナザレの出来事はガリラヤ伝道の最後の時期に置かれており、その内容もルカのように詳しいものではなく、イエスとその家族を身近に知っている同郷の人たちがイエスを信じないので、イエスはごくわずかの病人をいやされただけで、彼らの不信仰を驚かれたとあるだけです(マルコ六・一〜六)。

 ところが、マルコ福音書に基づいて福音書を書いているルカが、このナザレの出来事をあえてガリラヤでの活動の最初に置き、しかもマルコにはない聖書成就の宣言や福音が異邦人へ向かうことの宣言を入れ、それに対するユダヤ人の激高が石打にまでなったとしているのはなぜか、ルカの意図、あるいはこのような内容でこの位置に置かれている意義が問題になります。著者の意図を推察するのは難しいことですが、このような内容の記事がガリラヤ伝道の最初に置かれていることの意義は、ほぼ次のようにまとめることができると考えられます。

 第一に、イエスの福音告知の内容を、その活動の最初に綱領的に掲げるために、ルカはこのような書き方をしたと考えられます。マルコ(一・一五)は、イエスの福音告知の活動を、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」というイエスの言葉でまとめ、それをガリラヤ伝道の最初に置いています。ルカは、それをナザレの会堂でのイエスの説教で行います。聖書が来たるべきメシヤについてしている預言がイエスにおいて成就したという宣言は、マルコの「時は満ちた」という宣言の内容を詳しくしたものです。イエスこそ、神の霊がとどまる終わりの日のメシヤ(油注がれた者)であるという宣言です。そして、イザヤ書の預言を用いることで、イエスによる告知が「恩恵の支配」の告知であることを指し示します。このように、ルカが提示しようとする福音のもっとも基本的な内容を、イエスご自身が宣言されたとして、イエスのガリラヤ伝道の最初に置きます。

 第二に、ルカはその二部作で、イエスの福音が同族のユダヤ人に拒否されて異邦の諸民族に向かうことを歴史的に論証しようとしていますが、これもイエスが同郷の人たちに拒否されるという象徴的な出来事の中で、イエスご自身によってなされた宣言であるとして、ルカはイエスの宣教活動の最初に置きます。ルカは二部作の第一部と第二部を対応する形で書いていますが、第二部の主題であるユダヤ人から異邦人への福音の進展を、第一部では冒頭で、郷里のナザレでの同郷人の拒否と、イエスご自身の宣言という形で提示します。

 第三に、イエスの宣教活動全体が激しいユダヤ人の敵意の中で行われたことを示すために、イエスを石打にしようとした同郷のユダヤ人の行為が最初に置かれたと考えられます。マルコ福音書で見る限り、イエスに対するナザレの人たちの対応は、石打にしようとするような激しいものではなかったと見られます。この後、マルコに従ってイエスのガリラヤ伝道を描くルカの記述には、そのような激しい敵意は見られません。イエスはガリラヤのユダヤ人の中に入って行き、食事を共にしたりして彼らと親しく語っておられます。ルカ自身もイエスのガリラヤでの働きを「皆から尊敬を受けられた」と総括しています。それにもかかわらず、このような記事を最初に置いたのは、イエスを石打にしたいと願うほど激しくイエスに反発したユダヤ教指導層の姿を、ナザレのユダヤ人たちに代表させ、それを最初に置いて、イエスの宣教活動全体がユダヤ教指導層の激しい敵意の中で行われたことを印象づけようとしたと考えられます。

 このように見てくると、ナザレの会堂での出来事を描くルカの記事は、実際にあった出来事の記述というより、ルカが告知しようとしている福音の綱領的・図式的提示であることが分かります。だからといって、この記事の価値が下がるわけではありません。まさにこのような性格の記事こそが、福音書という文書の性格をよく示しています。この記事は、ルカの福音理解を示す典型的な記事となります。

 

19 汚れた霊に取りつかれた男をいやす(四・三一〜三七)

 この段落から「平地の説教」(六・二〇〜四九)の前までは、ルカはほぼマルコと同じ内容の記事を、マルコの順序に従って書き進めています。例外は、マルコではガリラヤ伝道の最初に(したがってカファルナウムでの活動の前に)置かれているガリラヤ湖畔でのシモンの召命を、カファルナウムでの伝道活動の後に置き、その出来事の経緯もマルコと違う内容になっているところ(五・一〜一一)です。

カファルナウム

 イエスはガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には人々を教えておられた。(四・三一)

 ルカは異邦人読者のために、カファルナウムに「ガリラヤの町」という説明の句をつけています。「町」《ポリス》という語を用いていますが、その規模は一〇〇〇人程度と推定され、都市ではなく、大きめの村です。山地にあるナザレから湖畔のカファルナウムに来るのは「下る」という動詞が用いられるのは自然です。

 カファルナウムはガリラヤ湖北岸に面した農業と漁業を主要な産業とする村で、ガリラヤ湖周辺の村々の間では主要な村であり、地中海岸の重要な港湾都市プトレマイス(現在のハイファの北)からダマスコに至る幹線道路の中程にある中継地点として重要視され、収税所が設けられ(マタイ九・九)、ローマの軍隊も駐留していました(七・一〜一〇)。

 イエスがカファルナウムに来られたのは、しばらくの間そこで活動するための滞在ではなく、そこに住み、そこを拠点として活動するためです。マタイ(四・一三)は、「ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた」と書いています。カファルナウムはイエスのガリラヤ伝道の拠点となり、イエスは「自分の町に帰ってこられた」(マタイ九・一)とか、「家におられる」(在宅しておられる)と語られる町になります(マルコ二・一)。

 「安息日には人々を教えておられた」というのは、当然会堂に入って(四・一五)、安息日にそこに集まる人たちに教える活動をされたということです。安息日に会堂で説教する様子については、前段のナザレの会堂の記事で見たとおりです。

イエスの言葉の権威

 人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。(四・三二)

 故郷のナザレでは、自分たちがよく知っている木工職人の息子が、自分を聖書を成就する者だとするような発言をしたので驚いたのですが、ここではイエスの言葉の権威に圧倒されて驚いたと、マルコの記事をそのまま引き継いでいます。ただ、マルコ(一・二二)では、「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」としているところを(マタイも同じ)、律法学者との比較は異邦人読者には必要ないとしたのか、ルカは省略しています。

 ところが会堂に、汚れた悪霊に取りつかれた男がいて、大声で叫んだ。「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」。(四・三三〜三四)

 霊的な権威ある言葉が語り出されると、それに対抗する霊が叫び出すことはしばしば実際に起こります。イエスが神の支配について権威ある言葉を語り出されたとき、会堂にいる一人の男が大声で叫び出します。この男のことをマルコ(一・二三)は「汚れた霊に取りつかれた男」と言っていますが、ルカは「汚れた《ダイモニオン》の霊に取りつかれた男」と言っています。

 《ダイモニオン》はもともと人間に働きかける神的・霊的な力とか存在を指すギリシア語ですが、新約聖書では《ダイモニオン》はもっぱら悪を為す霊力を指し、「悪霊」と訳されています。これはマルコの「汚れた霊」と同じであり、ルカの「汚れた《ダイモニオン》の霊」は重複した表現になりますが、ルカはヘレニズム世界の読者に親しまれている《ダイモニオン》という用語を使って丁寧に説明したのでしょう。
 霊界の住人は、地上の人間よりも霊界の消息をよく知っています。この男に取りついている悪霊《ダイモニオン》は、霊界におけるイエスの地位を知っており、そのイエスが自分のところにまで来られた目的を知っています。悪霊は取りついている男の口を通して叫びます。

 「ああ、ナザレのイエスよ、お前は我々と何のかかわりがあるのか。お前は我々を滅ぼしに来たのだ。わたしはお前が誰であるか知っているぞ、神の聖者だ」。(三四節私訳)

 この悪霊は「我々」と言っています。一人の人に多くの悪霊が取りつくこともありますが、「わたしは知っている」とか、次節の悪霊が単数形であることから、この人に取りついている悪霊は一霊であると見られます。ここの「我々」は、自分のような悪霊仲間一般を指して、イエスが悪霊を追放し滅ぼすために来られたことを知っていて、今自分が居座っているこの男から追い出さないように抵抗し、哀願しているのです。

 地上の人間がまだ誰もイエスが誰であるか、その霊界の地位を知らないとき、霊界の住人である悪霊はそれを知っていて、「神の聖者だ」と叫んでいます。「神の聖者」は、神から遣わされた人、神に属する人を指す表現であり、後に弟子たちがイエスへの信仰を言い表すときにも用いています(ヨハネ六・六九)。

 イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った。(四・三五)

 放っておけば悪霊は叫び続けたことでしょう。イエスは、悪霊がそれ以上イエスの身分について語ることをお許しにならず、叱りつけて「黙れ。この人から出て行け」と命じられます。すると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、その人から出て行きます。マルコが「けいれんを起こさせ」と書いているところを、ルカは「人々の中に投げ倒し」と変え、マルコにはない「何の傷も負わせずに」という医者らしい説明を加えています。これは、イエスの悪霊追放の業が何の危険も伴わない完璧なものであることを印象づけるためでしょう。

 人々は皆驚いて、互いに言った。「この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは」。(四・三六)

 ここは「すべての者に驚愕が起こった」という強い表現が用いられています。「驚愕」は、驚きと恐怖が混じった感情です。会堂にいる全員は、人間が聖なる現実に直面するときに覚える畏怖の念に襲われます。その驚愕は、イエスの教えの内容よりもまず、イエスの言葉が示す権威と力に対する驚愕です。イエスが命じられると、悪霊はその言葉に従って出て行くのです。このような次元の言葉には、人間はまだ出会ったことがありません。わたしたちも、カファルナウムの会堂の人たちと共に、イエスの言葉に驚愕し、イエスの中にまったく新しい事態が到来していることを知ることになります。その新しい事態こそ、「神の支配」と呼ばれる福音書の主題です。

 こうして、イエスのうわさは、辺り一帯に広まった。(四・三七) イエスの働きは、福音書では「病気をいやし、悪霊を追い出す」という二重の表現でまとめられていますが、この二つは深く重なっています。それは、当時では病気は「病気の霊」の仕業とされていたからです。イエスが神の霊の力によって悪霊を追い出す働きをされたことは、これ以後繰り返し福音書において報告されることになりますが、ルカもマルコに従い、カファルナウムの会堂での悪霊追放の出来事を代表的な事例として最初に置き、この出来事によってイエスの噂が辺り一帯に広まったとします。


20 多くの病人をいやす(四・三八〜四一)

シモンの家での出来事

 イエスは会堂を立ち去り、シモンの家にお入りになった。シモンのしゅうとめが高い熱に苦しんでいたので、人々は彼女のことをイエスに頼んだ。(四・三八)

 ルカ福音書では、ここで初めてシモンの名が出て来ます。ペトロという呼び名は、十二弟子の名が列挙されるところ(六・一四)で、イエスが「ペトロと名付けられたシモン」という形で出てくるところから始まります。それよりも先にイエスがシモンを弟子とされた記事(五・八)に「シモン・ペトロ」という形で出てきていますが、この記事をどのような性格の記事として理解するかは問題がありますので(当該箇所の講解を参照)、この段落を別にしますと、シモンという名で出てくるのは、ここと最後の晩餐の記事(二二・三一〜三三)、および復活後の弟子仲間の会話(二四・三四)だけで、他はすべてペトロという名で呼ばれています。

 シモンという名はギリシア語の名であり、ギリシア人にもユダヤ人にもよくある名です。シモンというギリシア名は、イスラエルの父祖の一人シメオンにちなんだ名として用いられていました。それで、ユダヤ人仲間ではシメオンという名が用いられることもありました(使徒一五・一四、ペトロU一・一)。彼はガリラヤ湖東北岸に面したベトサイダの生まれです(ヨハネ一・四四)。

 ベトサイダは、ヘロデの息子でギリシア文化の心酔者であるフィリポスによってギリシア風の都市として再建され、アウグストゥスの娘の名をとってユリアスと名付けられました(前二年)。したがってギリシア人住民も多く、ギリシア風の施設も多くあって、ギリシア風の生活が営まれていました。そのような町の生まれの彼は、その兄弟アンデレと同じくギリシア語の名を与えられていました。十二弟子の一人フィリポも同じベトサイダの出身です(ヨハネ一・四四)。このようなギリシア風の都市で育ったフィリポはかなりギリシア語が出来たようですが(ヨハネ一二・二〇〜二二)、シモンとアンデレがどれほどギリシア語を使えたかは確認できません。

 シモンがイエスと出会った時には、結婚していてカファルナウムに住んでいます。「しゅうとめ」というのは、彼の妻の母親のことですから、シモンが結婚していたことが分かります。おそらく子供もあったことでしょう。カファルナウムへの移住が結婚前であるのか、結婚して移住したのか、いつ頃であったのかは分かりません。イエスに出会った頃には、彼はカファルナウムに一戸を構えていました。

 先に見たように、シモンが洗礼者ヨハネのところでイエスに出会い弟子となっていたのであれば、彼はバプテスマを受けた後、カファルナウムに帰り、生業である漁業の生活に戻っていたときに、再びイエスに会ったことになります。しかしルカは、ここで初めてシモンを登場させ、このような形でイエスに出会い、その後で弟子として召された(五・一〜一一)としています。

 会堂での集まりは午前にあります。それが済むと、親族や友人を家に招いて、食事をしたり懇談することが普通でした。シモンは自分の家にイエスを招きます。シモンの家では、彼の妻の母親が高熱を出して苦しんでいました。人々はイエスに彼女をいやすように頼みます。おそらくシモンも進んで頼んだことでしょう。

 イエスが枕もとに立って熱を叱りつけられると、熱は去り、彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした。(四・三九)

 ここでも高熱を伴う病気が「病気の霊」の仕業とされ、イエスがその霊を叱りつけて命じられると、病気の霊が出て行って熱が去ったとされています。彼女はすぐに起き上がって「彼らに仕えた」とされていますが、この「彼ら」はイエスを含む招かれた知人たちや縁者を指すのでしょう。

 

夕暮れのいやし

 日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスはその一人一人に手を置いていやされた。(四・四〇)

 イエスが会堂で悪霊に取りつかれた男から悪霊を追い出し、続きに入られたシモンの家で彼のしうとめの熱病をいやされたのは安息日でした。「日が暮れると」安息日が終わります。安息日には病人を運んだり、病気をいやす行為は律法によって禁じられていましたから、日が暮れて安息日が終わると、すでにイエスの評判を聞きつけていたカファルナウムの人々は、大挙して病人を連れてきます。シモンの家の中庭は病人を連れてきた人々で一杯になったことでしょう。

 イエスは連れてこられた病人の一人一人に手を置いていやされます。ここでは説教もなく、イエスはもっぱら病人をいやす霊能者として活動されています。おそらくイエスは病人に手を置くだけでなく、病人に語りかけ、病気の霊に命じるなど、言葉を用いられたと考えられますが、手を置くとか、手を取って起こす(マルコ一・三一)などの行為は、霊の働きの接点となるだけでなく、それを受けた人の信仰を発動させるきっかけになると考えられます。

 悪霊もわめき立て、「お前は神の子だ」と言いながら、多くの人々から出て行った。イエスは悪霊を戒めて、ものを言うことをお許しにならなかった。悪霊は、イエスをメシアだと知っていたからである。(四・四一)

 イエスのもとに連れてこられた病人の中には、現代では精神病とされている人たちも多くいました。イエスのもとに連れてこられた病人の中に巣くう悪霊どもは、イエスの前に出るとわめきだし、「お前は神の子だ」と叫びながら、取りついている人から出て行きます。これは、先に会堂で起こったことと同じですが、そこでは「神の聖者」と表現されていましたが、ここでは「神の子」と言われています。両方とも、神から遣わされた方、神に属する方を指しますが、「神の子」はさらにその人物と神との同質性を指す方向にあります。

 当時のユダヤ教では、終わりの日にイスラエルの救いのために神から遣わされるメシアは「神の子」であるという見方もありました(マルコ一四・六一)。弟子たちもイエスをメシアと言い表すときに「神の子」という表現を用いたと伝えられています(マタイ一六・一六)。悪霊はイエスがメシアであることを知っており、そのことを「お前は神の子だ」という形で叫び出します。

 イエスは悪霊がそのように叫ぶのを聞いて、悪霊を叱りつけて、悪霊が語ることをお許しになりませんでした。ここに用いられている「戒めた」という動詞は、会堂で汚れた霊を「叱りつけた」とか(三五節)、シモンのしゅうとめの熱を「叱った」というときの動詞(三九節)と同じです。力ある言葉で対抗するものを圧倒する働きを指しています。

 イエスが悪霊にもの言うことをお許しならなかったのは、悪霊どもがイエスをメシアだと知っていたからだと、その理由が説明されています。マルコ福音書では、イエスはメシアでありながら、自分がメシアであることをけっして公にされず、それを知った者たちにそれを秘めておくように厳しく命じられたとする、いわゆる「メシアの秘密」の動機が貫かれています。ルカではそのような動機はとくに強調されていませんが(マルコ九・九にある、山上での変容の後、見たことを口外しないように命じられたイエスの言葉を、ルカは省略しています)、イエスがメシアであることを秘められたという事実は、ここではマルコに従ってその通りに伝えています。

 


21 巡回して宣教する(四・四二〜四四)

神の支配を福音する使命

 朝になると、イエスは人里離れた所へ出て行かれた。群衆はイエスを捜し回ってそのそばまで来ると、自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた。(四・四二)

 ペトロの家で夕暮れから夜にかけて多くの病人をいやされたイエスは、翌朝、おそらく人々がまだ寝静まっている早朝に起きて、人里離れた所に出て行かれます。ルカは書いていませんが、もちろんそれは祈るためであったはずです。イエスは祈りの人でした。人の前で祈るのではなく、隠れたところで、隠れたところにおられる父に祈るように教えられたイエスは(マタイ六・六)、ご自身がまず「人里離れた所」で、ただ一人になって、父との交わりの中で祈ることを習慣とした人でした。

 イエスが早朝、人里離れた所で祈りに没入されたことは、ここに報告されているだけですが、これはこの日だけのことではなく、イエスの日頃の習慣であったと見られます。福音書はここで、この日のことを典型的な実例を挙げていると見るべきでしょう。イエスは、昔の預言者と同じく、荒れ野で一人神と向き合う霊の人でした。「荒れ野の誘惑」の記事も、このようなイエスの日頃の祈りの姿が背景にあると考えられます。

 イエスがおられないことに気づいた人たちは、イエスを捜し回ります。やっと見つけてそばまで来ると、自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めます。カファルナウムの人たちにとって、イエスのように病人をいやすことができる方が、自分たちの村にいつもいてくださるならば、これほど有難いことはありません。イエスも、自分を慕ってくれる素朴な村人たちのところにとどまり、病人をいやしたり、律法を教えたりしておられるだけであれば、十字架につけられることもなかったはずです。

 しかし、イエスは言われた。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ」。(四・四三)

 しかしイエスは、とどまるように願う彼らに、このように言われます。イエスの言葉を直訳すると、「わたしは他の町にも神の《バシレイア》を福音しなければならない。わたしはそのために遣わされたのだから」となります。ここで二つの重要な用語が出てきます。一つは「神の《バシレイア》」で、他の一つは「福音する」という動詞です。

 「神の《バシレイア》」は普通「神の国」と訳されています。しかし、《バシレイア》は本来《バシレウス》(王)が統治・支配することを指し、王の権能とか、王の支配体制を意味する抽象名詞です。、したがって、「神の《バシレイア》」は、神が王として統治・支配する行為とか出来事を指し、「神の王権支配」とでも訳すべき表現です。

 《バシレイア》は、この本義から転じて、王によって統治される国とか王国、国民という意味にも用いられますから、「神の国」という訳語も誤りではありません。しかし、聖書での用語は、本来神が王として統治するという神の行為とか出来事を指すので、このことを明らかにするためには、「神の国」という訳語は避け、「神の支配」とか「神の統治」とするほうがよいと考えます。日本語聖書のほとんどが「神の国」という表現を用いていますので、わたしは著作でこの表現も用いながら(とくに聖書引用などで)、それが神の支配・統治行為を指すことを思い起こしてもらうために、「神の支配」という表現を互換的に用いています。どちらの用語も、聖書では神の支配行為とか支配の出来事を指すことを忘れてはなりません。

 それで、「神の《バシレイア》を福音する」という表現は、病気をいやし悪霊を追い出すという目立ったカリスマ的な(=霊能者的な)働きと並んで、イエスの働きの重要な側面を指し示す表現になります。マルコやマタイは、イエスの働き要約するところでいつもこの二つをあげています(マルコ一・三九、マタイ四・二三など)。ルカもこの二つの面を伝えながら、この段落の文脈からすると、病人をいやす働きよりも、「神の《バシレイア》を福音する」ことこそ、イエスが地上に遣わされた本来の使命であるとしていることになります。この点で、ルカはマルコ(一・三五〜三九)に従っていますが、マルコがイエスの本来の使命を「宣教する、宣べ伝える」《ケーリュッセイン》という一語で指しているのに対して、ルカは「神の《バシレイア》を福音する」という特色ある表現で指しています。しかし、この「宣教する、宣べ伝える」《ケーリュッセイン》という動詞を次の節で、イエスの働きを要約するさいに用いています。

 そして、ユダヤの諸会堂に行って宣教された(四・四四)。

 ルカはここで、イエスの働きを要約する文章で「宣教する、宣べ伝える」《ケーリュッセイン》という動詞を用いています。この動詞は本来、王の伝令《ケーリュクス》が王の布告などを大声で町や村に告げて回ることを指す動詞です。イエスの復活後、使徒たちはイエス・キリストの十字架と復活の出来事を神の救済の出来事として、世界の諸都市に告げ知らせていきました。このキリストの出来事を告げ知らせる行動を《ケーリュッセイン》という動詞で指したのです。キリストの出来事を世界に告知する働きをこの動詞で指すことは、パウロ以前に始まっていますが、パウロの書簡に「キリストを告げ知らせる」とか「福音を告げ知らせる」という形で繰り返し用いられるようになります。

 なお、ここでルカは「ユダヤの諸会堂へ行って」と書いています。ガリラヤでの活動開始を語るこの箇所で突然「ユダヤ」という地名が出てくるのは、唐突で不自然な感じを免れません。この「ユダヤ」を北方のガリラヤ対して南方のユダヤの地域を指すとすると、これは明らかに変です。それで、「パレスチナの地誌に不案内なルカのミスか」という説明がなされることになります(岩波版佐藤訳)。しかし、著者がパウロの同伴者のルカであるとすると、彼がガリラヤとユダヤを混同するとは考えられません。これは、ルカがかなり年月が経ってから異邦人世界でこの福音書を書いたとき、遠いエーゲ海地域の異邦人世界から見れば、ガリラヤもユダヤも含めて、「ユダヤ教徒が住んでいる地域」という意味で、漠然とした地名として使ったと見ざるをえません。

イエスの告知の終末性

 イエスが「神の《バシレイア》を福音された」とか「《ケーリュッセイン》された」というとき、それがどのような内容であり、どのような性格の告知であったのか、ここではまだ何も語られていません。それは福音書全体を通して探求すべき問題ですから、ここで結論を出すことはできません。ところで、ルカ福音書はルカの福音理解に立って書かれていますから、イエスの活動を描くにも、ルカの福音理解という枠の中で描かれています。それで、イエスの告知が実際にはどのようなものであったのかを知るためには、その枠の存在を考慮に入れて考察する必要があります。その枠を超えて、実際のイエスの告知内容を確認することは至難の課題ですが、少なくともイエスの活動が洗礼者ヨハネの運動から出ているという事実から出発しなければならないと考えられます。

 前章で見たように、洗礼者ヨハネはイスラエルの民に神の終末的な審判が迫っていることを告知しました。マタイやルカが伝える洗礼者ヨハネの説教には火による審判が前面に出ていますが、審判は神の支配到来の一面です。神の世界統治は審判を通して来ます。洗礼者ヨハネの告知は、世界の終末に実現される「神の《バシレイア》」切迫の告知です。事実、マタイ(三・二)は洗礼者ヨハネの告知を「悔い改めよ。天の《バシレイア》は近づいた」と要約しています。

 イエスの「神の《バシレイア》」の告知には、洗礼者ヨハネとは違うイエス独自の面が出てきますが、基本的には「神の《バシレイア》」の切迫という使信は継承されています。そのことをもっとも典型的に示しているのは、マタイがイエスの告知を洗礼者ヨハネの告知とまったく同じ言葉でまとめている事実です(マタイ三・二と四・一七)。マルコもイエスの告知を、「時は満ち、神の支配《バシレイア》は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という第一声でまとめています(マルコ一・一五)。

 ところがルカは、来臨遅延による信仰の動揺を克服するために、来臨《パルーシア》の切迫を前提としない別の枠組みの救済史を提唱しようとして、その二部作を書いています。そのため、イエスの告知をまとめる第一声も、ナザレの会堂での説教で見たように、終末的な神の支配到来の切迫ではなく、神の恩恵の時代の到来という内容になっています。たしかに、この恩恵の支配こそがイエスの告知の本質的な内容ですが、しかしイエスの告知に終末的な神の支配の切迫という面があったことを見落としてはなりません。

 現在の福音書には、その面は痕跡をとどめているに過ぎません。たとえば、イエスが弟子たちを宣教のために送り出されるときに、「行って、『天の支配《バシレイア》は近づいた』と宣べ伝えなさい」と命じておられます(マタイ一〇・七)。弟子たちに病人をいやし悪霊を追い出す権能が与えられたのは、その使信を確証するためのしるしです。その使信は洗礼者ヨハネの使信を継承されたイエスの告知と同じです。イエスはご自分がしておられないことを弟子たちに命じられることはありません。イエスご自身がガリラヤを巡り歩いてなさっていることを弟子たちもするように命じておられるのです。したがって、イエスが「神の支配《バシレイア》」ということを口にされるとき、神の支配という終末の事態の到来が迫っているという面があることを忘れてはなりません。

 ルカはこれと並行する箇所(九・二)で、「神の支配を宣べ伝え、病人をいやすために遣わすにあたり」とだけ書いて、「近づいた」という句を入れていません。ルカの著作全体の意図と構想の枠の中で書かれている記事の背後にある実際のイエスの告知や教えの内容を確認することは困難な課題ですが、イエスが「神の支配《バシレイア》を福音する」ことを使命とされたという要約記事も、このような神の支配到来の終末的切迫が含まれていることを見落とさないようにしなければなりません。

 


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