ルカ福音書講解 3


    第3章 弟子団の形成  

                            ― ルカ福音書 五章〜六章(一六節) ―



はじめに ― この区分の主題と構成

 今回は五章一節から六章一六節までを取り上げます。この区分(セクション)は、イエスのガリラヤ伝道を総括する四章四二〜四四節の段落21と、いわゆる「平野の説教」の導入をなす六章一七〜一九節の段落30とに囲まれて、ひとまとまりの部分となっています。そして、この区分には(新共同訳では)次の八つの段落が含まれます。

 1  段落22「漁師を弟子にする」
 2  段落23「重い皮膚病を患っている人をいやす」
 3  段落24「中風の人をいやす」
 4  段落25「レビを弟子にする」
 5  段落26「断食についての問答」
 6  段落27「安息日に麦の穂を摘む」
 7  段落28「手の萎えた人をいやす」
 8  段落29「十二人を選ぶ」

 このように並べてみると、この区分はペトロたち漁師を弟子として召す記事に始まり、中間に収税人レビの召命を置き、最後に十二弟子の選びで終わっており、弟子の召命が主題になっていることが分かります。この区分では、たしかにルカは基本的にマルコの順序に従って段落を配置しています。しかし、マルコではカファルナウムでの働きの前に置かれていたペトロたちの召命の記事が、内容を変えてこの区分の最初(カファルナウムでの働きの後)に持ってこられ、マルコでは十二人の選びの前に置かれていた「湖の岸辺の群衆」の段落が、十二人の選びの記事の後に置かれて、次の「平野の説教」の導入とされていることが違います。ルカは、このようにマルコの順序を変えることによって、この区分を弟子の召命という明確な主題をもつひとまとまりとして形成していることが見えてきます。

 ルカは、このように段落の順序を変えることによて、第一と第二の召命記事の間に二つのいやしの記事が、第二と第三の召命記事の間に三つの断食や安息日律法に関する記事が来るようにして、マルコ福音書の内容を弟子の召命を主題とする区分の中に巧みに配置しています。なお、4と5の段落を一つの段落として、三つの召命記事の間に、二つの癒しの記事と二つの安息日関連の記事が置かれているとして、さらに厳密な前後対称形の配置と見る見方もあります。

 もちろん、弟子の召命が構成上の主題となっていると言っても、この区分の内容はそれだけではありません。その間には二つのいやしの記事と、三つのファリサイ派の者たちとの論争の記事が入っています。全体としては、前の区分(四・一四〜四四)で会堂でのイエスの宣教活動が提示された後を受けて、そのイエスの宣教に対するユダヤ教内の人たちの応答が描かれていると言えます。ユダヤ教共同体の中では汚れた者とか罪人として交わりから除外されていた人たちは、イエスにひれ伏して神の恵みの力を受け、素朴なユダヤ教徒のある者は弟子となって、すべてを捨ててイエスの宣教活動に参加し、ユダヤ教の指導的立場にある律法学者たちは、自分たちの律法主義の立場に固執してイエスに敵対します。

 

22 漁師を弟子にする(五・一〜一一)

 

マルコ福音書との位置の違い

 ルカはマルコ福音書をよく知っています。おそらくその写し(それが現在のマルコ福音書とまったく同じものであったかどうかは議論されていますが)を目の前に置いて自分の福音書を書いています。そのことはこの区分でよく分かります。この区分のルカの物語は、その内容も順序もほぼマルコ福音書を踏襲しています。ところが、ペトロたちガリラヤの漁師が弟子として召されたことを伝えるこのルカの記事だけは、マルコ福音書(一・一六〜二〇)の記事と較べて、内容も位置も大きく違ってきています。

 その記事が置かれている位置の違いについては先に述べました。マルコがこの記事をイエスのガリラヤ宣教の最初に置いて、カファルナウムでの働きの前としているのに対して、ルカはナザレでの拒否の記事やカファルナウムでの働きの後に置いています。ペトロの一家はカファルナウムに住んでいて、イエスが会堂で教えられた後、ペトロの家に入り、彼のしゅうとめの熱病をいやしておられます。また、ペトロの家を舞台として、イエスは多くの病人をいやしておられます。ルカの順序では、ペトロが弟子として召されたときには、ペトロはすでにイエスの多くの働きを目の前に見ており、よく知っていることになります。

 ところがマルコでは、まだイエスの働きが何も語られていない時に、ガリラヤ湖畔でペトロは突然イエスに出会い、弟子として召され、網を捨ててイエスに従ったとされています。これはあまりにも唐突で不自然ですが、これを復活されたイエスがガリラヤに戻っていたペトロに現れた復活顕現の記事として見れば、素直に理解できます。マルコは、ペトロが語る圧倒的な復活顕現と召命体験の物語を、地上の出来事としての不自然さを意に介せず、地上の出来事に重ねて物語り、ガリラヤでの最初の出来事として書いたと見られます。

 それに対してルカは、この記事をカファルナウムでのイエスの働きの後に置くことで、すでにイエスの神的な権威と力を見ているペトロが、ガリラヤの漁に際してイエスの不可解な指示に従ったことや、イエスの召しに応じてすべてを捨ててイエスに従ったことを自然に理解できるようにしています。しかしルカの場合も、この記事が復活されたイエスがガリラヤに戻っていたペトロに現れて、復活者イエスを宣べ伝える使徒として召された出来事ではないかと推察させる重大な理由があります。それは、この記事の内容がガリラヤでの復活者イエスの顕現を伝えるヨハネ福音書二一章の記事と共通しているからです。

 

ヨハネ福音書の記事との関係

 ヨハネ福音書の本体部分は二〇章で終わっていますが、その後に補遺として二一章が書き加えられています。本体部分では、復活されたイエスの顕現はエルサレムに限られていますが、補遺の部分では復活者イエスがガリラヤで弟子たちに現れたことが報告されています(ヨハネ二一・一〜一四)。ヨハネ福音書を最終的に編集した人物が、「十二人」とは別の「もう一人の弟子」によって形成されたヨハネ共同体も、ペトロを代表使徒と仰ぐ主流の宣教活動と協調する必要を感じて、ペトロへの復活顕現を福音書に取り入れ、ペトロの権威を認めた上で、ペトロとこの「もう一人の弟子」との関係を調整するために加えた補遺ではないかと考えられます。

 そのさいこの補遺の著者は、当時キリストの民の共同体に広く伝えられていたペトロへの復活顕現の伝承を用いたと考えられます。その伝承はルカもよく知っていて、それを自分の福音書でペトロの召命記事に用いた可能性があります。とくにヨハネ共同体もルカも同じエーゲ海地域で活動したことを考えると、この可能性は高く、真剣に考慮されなければならない問題となります。しかし、記事の比較検討から、ルカがヨハネ福音書を知っていてその記事を用いたとか、その逆にヨハネ福音書補遺の著者がルカ福音書を用いた可能性は考えにくく、共通の伝承を両者がそれぞれの著述意図に従って用いたと見るのが順当だと考えられます。

 その共通の伝承は、ガリラヤ湖で漁をしていたペトロたちが、一晩漁をして何も獲れなかったのに、湖畔に現れた不思議な人物の指示によって網を降ろしたところ多くの魚が獲れたこと、それによってその人物が復活されたイエスであることが分かったこと、そのイエスの前にペトロがひれ伏したことを主要な内容としていたと考えられます。このガリラヤ湖での復活顕現の伝承を用いて、ヨハネ福音書補遺の著者は、主流の代表的使徒であるペトロと、ヨハネ共同体の創設者である「もう一人の弟子」が、共に復活の主から委託を受けた弟子であることを主張しています。それに対してルカは、この復活顕現の伝承をペトロの召命を語る出来事して用います。ルカにはそうする動機があります。

 ルカはその二部作(ルカ福音書と使徒言行録)全体で、イエスによってガリラヤで始められた福音活動がエルサレムに達し、次に使徒たちによってエルサレムからローマに至る過程を描いています。この福音の進展において、エルサレムはその中心点となっています。弟子たちはエルサレムで復活者イエスの顕現に接し、エルサレムから離れないで上からの力を受けるのを待つように命じられます。そして、約束の聖霊を受けた弟子たちは、エルサレムから宣教活動を始め、ついにローマに達します。この図式では、弟子たちは十字架の後ガリラヤに戻り、ガリラヤで復活されたイエスに出会うという出来事は入ってくる余地はありません。マルコとマタイが伝えているガリラヤでの復活されたイエスの顕現は、ルカでは一切触れられません。イエスや天使によってなされたガリラヤへ行くようにという指示を、ルカは削除しています。

 ルカは、出来事から半世紀以上も経った時期に、しかもその出来事の舞台であるパレスチナから遠く離れた地域(おそらくエーゲ海地域)で著述しています。復活顕現の順序や場所というような細かい点にはこだわることなく、エルサレムを中心点とする彼の図式に従って、十字架・復活・聖霊による宣教開始の出来事を叙述していきます。それで、十字架のあと弟子たちがガリラヤへ戻った事実や、ガリラヤでの復活顕現はすべて省略されることになります。

 このようにルカが知っていながら用いなかったガリラヤでの復活顕現の伝承の中の一つを用いて、ルカはペトロの召命物語を書きます。そのさい目の前にあるマルコ福音書(一・一六〜二〇)の記事を用いないで、大漁の奇跡の伝承を用いた理由は、推察する他ないのですが、おそらくこれがこの召命物語の中心になる「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」という宣言によりふさわしい劇的な奇跡であるからでしょう。ルカは、この劇的な奇跡物語を放棄するに忍びず、これをペトロの召命物語として活用したと推察されます。
 同じ伝承を用いているヨハネ福音書補遺の復活顕現の物語と比較しながら、ルカがこの記事で語ろうとするところを聴いていきましょう。

 

ヨハネ福音書の記事との比較

 ルカは、この復活顕現の伝承を地上のイエスの働きの場に置くために、マルコ(四・一)が伝えている、イエスが舟の中から陸地の群衆に教えられたという伝承を用います(一〜四節)。ヨハネ福音書補遺では、ようやく夜が明けた早朝に、漁から戻った弟子たちは誰とは分からない人物が岸辺に立っているのを見ます(ヨハネ二一・四)。出会った人物が初めは誰か分からないということが、復活顕現物語の共通の特色です。その不思議な現れ方をした人物がイエスであると分かる(ヨハネ二一・七)ことが、復活顕現物語の本質です。ヨハネ福音書補遺の物語は、この復活顕現物語の特質がよく出ています。それに対してルカでは、復活顕現物語の特色はなくなり、地上の出来事を語る物語として、二そうの舟とか、漁師たちは網を洗っていたとか、イエスは押し迫る群衆を避けて舟に乗られたというような実際の状況が具体的に描写されています。

 登場人物も違います。マルコではシモンと彼の兄弟アンデレ、それにゼベダイの子であるヤコブとヨハネの兄弟の四人が対等に扱われています。ヨハネではシモン、トマス、ナタナエル、ゼベダイの子たち(名をあげないで)、それに他の二人の弟子の計七人の弟子が居合わせたことになっていますが、舞台で活動する主役はシモン・ペトロ一人です。ルカでは、アンデレの名が出てきませんし、ゼベダイの子のヤコブとヨハネも附加的に言及されるだけで(一〇節)、やはり主役はシモン・ペトロ一人です。この違いは、マルコでは比較的イエスが最初に弟子を集められたときの状況がよく反映されているのに対して、ヨハネとルカはかなり時が経ってから書かれ、ペトロが使徒団の代表としての地位を確立していた状況を反映しているからだと考えられます。

 なお、ルカでは、イエスがペトロと名付けられる(六・一四)までは、彼はいつも「シモン」と呼ばれているので、ここでも「シモン」という名で登場しています。ただ一カ所(五・八)だけで「シモン・ペトロ」という名で呼ばれているのは、この節の告白が「ペトロの告白」として有名で重要視されていたからではないかと考えられます。ヨハネ福音書ではすべて「シモン・ペトロ」と呼ばれていますが、これは彼を「シモン」と呼ぶパレスチナ起源の伝承を用いるさい、いつも「もう一人の弟子」と一組で登場するあのペトロであることを印象づけるためかと考えられます。

 ヨハネ福音書補遺の物語では、岸に立つ見知らぬ人物が食べ物を求め、弟子たちが何もないと答えたのに対して、その人物が舟の右側に網を打つように指示します。その指示通りに網を打つと、網を引き上げることができないほどの多くの魚が獲れます。そのとき弟子たちはその人物がイエスだと分かります。ガリラヤ湖の岸辺に現れた復活者イエスと弟子たちは、今獲れた魚を焼いて食事を共にします。復活されたイエスと食事をしたという体験は弟子たちの復活証言の中で繰り返されたことが、ルカの記事(使徒一〇・四一)からもうかがえますが、ヨハネ福音書補遺の復活顕現の記事はこのような体験をよく伝えています。

 それに対してルカは、大漁の奇跡と復活されたイエスとの食事の体験を切り離しています。ルカは五章で、大漁の奇跡をその状況として用い、地上のイエスがペトロたちガリラヤの漁師を弟子として召されたことを描いています。ここには、当然のことながら、復活されたイエスとの出会いの体験の具体性を保証するためのイエスと共にした食事のことは出てきません。そして、復活されたイエスと食事を共にした体験は、復活後のイエスの顕現を語る二四章(三六〜四三節)で、イエスが弟子たちの前で焼いた魚を食べられたという記事で報告しています。しかも、それはガリラヤ湖畔ではなくエルサレムで起こったことになっています。

 網を打つようにというイエスの指示も、ヨハネ福音書では「舟の右側に網を打ちなさい」と具体的ですが、ルカ福音書では、舟の中から岸辺の群衆に語り終えて、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と、やや一般的な指示になっています。もっとも、この「沖」(原文では「深いところ」)については、広い異邦人世界を指すとか様々な象徴的解釈が行われるようになります。また、獲れた魚の多さについても、ヨハネは「百五十三匹もの大きな魚」と数字まであげていますが、この数字についても様々な象徴的解釈が行われています。しかし、ここはあくまで伝承の用い方の違いを比較しているだけで、そのような象徴的解釈を取り上げる場所ではないので触れません。

 なお、網を打つとき、ペトロは夜通し苦労したが何もとれなかった事実を訴えた後、「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と言っています。ここは信仰の消息を語る重要な箇所としてよく引用されます。人間の体験とか理解ではあり得ないことも、それが主の言葉であるからという理由だけで、その言葉に従って行動するとき、人の思いを超えたことが実現するのです。ペトロの召命も、神の選びであると共に、信仰の出来事です。

 

ペトロの「わたしは罪深い者です」

 一晩中漁をしても何も獲れなかったのに、イエスの言葉に従って網を打ったところ網が破れそうになる(ルカ)、あるいは網を引き上げることができない(ヨハネ)ほどのおびただしい数の魚が獲れたという奇跡を見て、ヨハネではその見知らぬ人物がイエスだと分かるのですが、ルカではすでによく知っているイエスの(それまで覆われていた)神的威厳の顕現に接して、シモン・ペトロが「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」とひれ伏すことになります。ヨハネでは、「イエスの愛しておられたあの弟子」がペトロに「主だ」と言うのを聞いたとき、裸同然であったペトロは上着をまとって湖に飛び込みます。このペトロの行動は、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」という心の行動による表現と見てよいでしょう。

 この箇所では、ルカでもヨハネでも、イエスが「主」《キュリオス》と呼びかけられています。ルカでは、弟子が地上のイエスに呼びかけるときは、普通「先生」《ディダスカロス》とか「師」《ラビ》ですが、とくにその権威に対して個人的に帰依の気持ちをこめて呼びかけるときは、「主人」とか「先生」を意味する《エピスタテース》が用いられます。五節ではこの呼びかけが用いられています。しかし、八節では「主よ」《キュリエ》(呼格)が用いられています。この語《キュリオス》は、呼びかけとしては日常生活の場面で「ご主人様」という意味でも用いられますが、復活後のイエスの称号としても用いられる語です。この段落で、ここで急にこの呼びかけが出てくることは、元の伝承が本来復活顕現の物語であり、ペトロに聖なる現臨を現された復活者イエスに向かって、ペトロが思わず発した呼びかけであることを示唆しています。

 ここのペトロの「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」という告白については、二つの解釈が行われています。一つは、これを地上のイエスがその大漁の奇跡によってその神的威厳を現されたとき、ペトロが聖なる方の現臨に触れて畏怖の念を抱き、聖なる方の前での自分の罪深さを自覚してこう告白したという理解です。これは、イザヤなど預言者の体験(イザヤ書六章)と同種の体験と見る理解です。もう一つは、これを復活顕現の物語として、復活してペトロに現れたイエスに向かって、イエスの受難にさいして三度までイエスを否定してイエスを裏切ったことに対するペトロの深い自責の念から発せられた言葉だとする理解です。

 わたしは第二の理解をとるべきだと考えます。この出来事を地上のイエスが弟子を召された時の記事として読む限りは、第一の解釈をとらざるをえませんが、この解釈には無理があります。まず、イエスはすでに多くの奇跡を行い、その神的権威を示しておられます。なぜこの大漁の奇跡になって突然、ペトロが神の現臨を感じて罪の自覚を告白したのか、説明ができません。また、イエスがその奇跡によって神的威厳を示されたのは、周囲のすべての人たちに対してであって、ペトロだけがそれを見たのではありません。このペトロの告白は、復活してペトロに現れたイエスに向かって、先に三度までイエスを否認して裏切ったペトロの告白として理解するとき、もっとも自然に理解できます。

 

人間をとる漁師

 この物語のはじめにルカは、岸に二そうの舟があったことを語っています(二節)。そして、シモンがイエスのお言葉に従って網を打つと網が破れそうになるほどの魚が獲れたとき、「そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった」とあります(七節)。この「もう一そうの舟にいる仲間」のことが、「シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブとヨハネも同様だった」(一〇節前半)と記されていると見ることができます。

 マルコ福音書(一・一六〜二〇)では、まずシモンとアンデレ兄弟が召され、続いて同様にヤコブとヨハネ兄弟が召されています。ところが、ルカ福音書では、どうしたわけか、アンデレの名が消え、シモンだけが召された記事になり、ヤコブとヨハネ兄弟のことも、ごく付随的に付け加えられているだけです。ヨハネ福音書の記事(二一・二)にも、ゼベダイの子らは言及されていますが、アンデレの名はありません。復活者イエスによってなされた大漁に奇跡の場に、アンデレは何かの事情で居合わせていなかったのでしょうか。あるいは、ルカの時代には十二使徒団の中でもペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の指導体制が確立していたから、それを反映しているのでしょうか。確認は困難です。

 イエスはシモンに言われます。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(一〇節後半)。この「恐れることはない」という語りかけの言葉も、この出来事が復活者イエスの顕現であることを示唆しています。この言葉は、圧倒的な神的存在の顕現に接して恐れに陥っている人間に向かって、現れた方からつねに最初に語りかけられる言葉です。預言者の召命体験でも繰り返し見られます。新約聖書では、天使や復活者イエスの顕現にさいして繰り返し出てきます(たとえばマルコ六・五〇、マタイ二八・五など)。この言葉は、ラビが一人の弟子をとるときの言葉としてはふさわしくありません。

 また、「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」という言葉も、ペトロが地上のイエスの弟子として従い、師であるイエスから教えを受けながらガリラヤを巡回した時期よりも、聖霊によって復活者イエスを宣べ伝え、多くの人を神の国に招き入れた復活後の時期にふさわしい表現です。ルカは、マルコにあるこの言葉をそのまま用いていますが、ルカは、マルコの記事は復活されたイエスがガリラヤでペトロを宣教に召された時の言葉であることをよく知っていて用いたと考えられます。

 さらに、先に「福音の史的展開」シリーズへの序章「復活者イエスの顕現」で見たように、「そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った」(一一節)という事態は、一人のユダヤ教徒がラビに入門するさいの記述としては異常で、やはり復活されたイエスの顕現に接した弟子が、ガリラヤでの生業を捨てて、復活者イエスを証しするためにエルサレムに移住する決意をしたことを描く記事として理解すべきです。
 以上に見たような諸点を総合すると、ここのルカの記事(五・一〜一一)は、イエスの受難の後ガリラヤに戻って漁に出ていたペトロたちに、復活されたイエスが現れて、福音の宣教に立ち上がるように召された出来事を伝える伝承を、ルカが地上のイエスがペトロを召された記事として用いたものであると理解せざるをえません。


 

23 重い皮膚病を患っている人をいやす(五・一二〜一六)


「重い皮膚病」

 ここから十二人の選びまで、ルカはマルコの順序に従って物語を進めていきます。ただし、マルコでは十二人の選びの記事の前にある「湖の岸辺の群衆」の段落を、「平野の説教」の導入とするために十二人の選びの記事の後に置きます。内容もマルコと同じですが、マルコの記事をただ引き写しにするのではなく、ルカは自分の文体で、自分の著述の目的に合わせて書き改めています。ルカは、シモンの召命から始まり十二人の選びに至るこの区分の段落を、レビの召命と断食についての問答の段落以外はみな、《エゲネト》(〜が起こった)という語で始めており、出来事が立て続けに起こったことと、この区分の一体性を印象づけています。

 この重い皮膚病の人の清めの記事においても、この物語の核心部をなす、「主よ、もしあなたの御心であれば、あなたはわたしを清めることができます」という病人の言葉と、それに対する「わたし意志だ。清くなれ」というイエスの言葉は、ルカはほぼマルコの文章をそのまま引き継いでいますが、その他の物語の部分では、マルコとは違う用語と文体で語り進めています。たとえば、その人がイエスを見て「ひれ伏して」願ったと、ルカはマルコにはない「ひれ伏して」を入れています。しかし、マルコが《スプランクナ》(五臓六腑)を語幹とする動詞を用いて「イエスが深く憐れんで」と言っているところを、ルカは省略しています。また、マルコが「厳しく注意して追いやられた」という語で、この時イエスがある種の憤りを示されたことを示唆していますが、ルカはここを「お命じになった」という一般的な動詞で表現しています。

 しかし、このような用語や文体の相違は、福音の本質を理解する上で重要ではないでしょう。重要なことは、イエスがその言葉で重い皮膚病の人を清められた事実です。これが何を意味するのか、いかなる事態を指し示しているのかを見ましょう。

 「重い皮膚病」《ツァーラアト》と判定されて社会から隔離され、人に近づくことも許されていなかったこの病人は、あえてイエスの前に出てきてひれ伏します。彼が当時のユダヤ教の枠の中にとどまりイエスの前に来なければ、彼は救われることはなかったでしょう。彼がユダヤ教の不浄の者の禁令を超えて、イエスの前にひれ伏したところから救いが始まります。彼はイエスのことを聞き及び、またその働きを遠くから見て、この方こそ神から遣わされた方、その内に神の力が働く方であると知って、その方に身を投げ出します。

 

終わりの日のしるし

 彼はイエスに言います。「あなたが(清めてやろうと)ただ意志してくだされば、あなたはわたしを清めることができる方です」(私訳)。彼の言葉は、自分が部下に命じる言葉が必ず実行されることを知っているローマ軍の百人隊長が、ただイエスの言葉だけを求めた(マタイ八・五〜一三)のと同じく、イエスの言葉に対する絶対の信頼を示しています。彼は人間の力が絶するところで、ただイエスの内に働く神の力だけにすがり、自分の生死をイエスの意志に委ねます。

 イエスはこの信仰に応えられます。イエスは「手を差し伸べてその人に触れ」られます。このような重い皮膚病の者に触れることは、感染の恐れだけでなく、自分も祭儀上の不浄に陥ることとして、極度に嫌われていました。しかし、イエスはこのような祭儀上の浄・不浄の差別を超えた命の次元におられ、この絶望的な病人への深い憐れみから、その人に手を置いて、その人と一つになられます。そして言われます、「わたしはそれを意志する。清くなれ」(私訳)。この神の憐れみ(恩恵)と病人の信仰が出会うところに神の力が注がれ、「たちまち重い皮膚病は去った」という驚くべき出来事が起こります。

 「重い皮膚病」《ツァーラアト》を清めることは、人間には不可能で、ただ神だけができることであるとされていました。それは普通の病気のいやしとは次元の違う奇跡として、終わりの日に神がなされる「しるし」でした。獄中の洗礼者ヨハネが弟子を遣わして、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と尋ねたとき、イエスは「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」と答えておられます(七・二二〜二三)。重い皮膚病《ツァーラアト》を清めることは、生まれながら目の見えない人を見えるようにしたり、死人を生き返らせるのと同列の、神だけがすることができる奇跡であり、終わりの日の到来を指し示す「しるし」でした。それで、マルコも《ツァーラアト》の清めや、生まれながらの麻痺で歩けない人が歩いた出来事を、他の大勢の病人のいやしの中に埋没させないで、特別の意義をもった出来事として扱ったのでした。ルカもそれに従って、別扱いで取り上げています。

 

清められた者の社会復帰

 イエスはこの重い皮膚病の病人をいやしたとき、「だれにも話してはいけない」と厳しく命じておられます。この場合だけでなく、奇跡が行われたとき、イエスは繰り返し、それを言い広めることを禁じておられます(とくにマルコ福音書で)。これは、このような奇跡期待が一人歩きして、イスラエルの民がイエスを自分たちの期待通りのメシアとして歓呼し、ご自分が召されている「主の僕」としての道を歩むことを妨げる結果になることを心配されたからではないかと推察されます。

 イエスはこのように命じてから、「ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい」と指示しておられます。イスラエルの祭儀に参加し、社会復帰を果たすためには、その祭儀共同体が定めた規定の手続きをとる必要があります。イエスは、神の恵みと力によって清められた者に、そのような人間社会の規定に従って復帰するように指示されます。

 この病人はそのような手続きをして社会に復帰したのですが、その喜びのあまりにイエスが自分にしてくださったことを言い広めます。マルコ(一・四五)は、「しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た」と書いています。それまでは町に入り会堂で教えておられたのに、この出来事以降は「もはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられ」て、海辺や家の中、山辺や旅路で教えられることになります。おそらく、イエスの周囲に多くの人が集まるようになり、権力者や宗教指導者が不穏なメシア運動になることを恐れて監視を強めたからでしょう。イエスがこの病人にある種の憤りを示して追い出されたのは、このようなご自身の意図に反する結果を予見されたからではないかと考えられます。

 このようにマルコがイエスの働きの場が変わり、状況が変わったことを明言しているのに対して、ルカは、その病人が言い広めたことには触れず、ただ「イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た」と、その結果だけを描き、その上で「イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた」と、イエスの祈りの生活の場面にしています。このような書き方の変化は、ルカが福音運動と支配階層との対立をできるだけ目立たないようにしようとする護教的意図からと考えられます


 

24 中風の人をいやす(五・一七〜二六)

律法学者たちの登場

 ルカはマルコの順序に従い、次に足が麻痺して歩けない人が立ち上がって歩いたという奇跡を伝えます。このような奇跡は、先に終わりの日の到来を指し示す「しるし」としてあげられていた、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り」(七・二二〜二三)という奇跡の中の一つで、四福音書がすべて取り上げて報告しています。共観福音書だけでなく、ヨハネ福音書(五・一〜九)も、エルサレムのベトザダの池での出来事としていますが、同じ奇跡を報告しています。四福音書すべてに共通するのは、足が麻痺して立てない人に、イエスが「起き上がり、床を担いで歩きなさい」とお命じになると、その人が立ち上がって、床を担いで歩いたという点です。このような神の力の劇的な現れは重視されて語り伝えられ、三つの共観福音書では少しずつ違った形で、そしてヨハネ福音書では大きく違った形で記録されることになります。

 マルコ福音書(二・一〜一二)の並行記事と較べると、ルカでは「ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たファリサイ派の人々と律法の教師たち」が物語の最初から登場していることが大きな違いです。マルコでは、カファルナウムの自宅に戻られたイエスが大勢の病人をいやしておられるとき、足が不自由で歩けない人が運ばれてきます。イエスがこの人に「子よ、あなたの罪は赦される」と言われたのを聞いて、その場にいた数人の律法学者が心の中で批判します(マルコ二・五〜六)。マルコではここから律法学者が登場しますので、律法学者に対する反論の部分(原文で五節後半〜一〇節)は本来の奇跡物語に後から挿入されたものではないかという推察が行われることになります。たしかに、その部分を括弧に入れますと、一つの典型的な奇跡物語が現れますので、マルコまたはマルコ以前の伝承の段階で、このような罪の赦しの宣言に対するユダヤ教側からの批判に答える部分が、元の奇跡物語に後から挿入された可能性が考えられます。

 それに対してルカは、初めからファリサイ派の人々と律法学者たちを登場させて、この物語全体を福音における罪の赦しの宣言に対するユダヤ教からの批判を論駁する記事にしています。ルカは、すでにその部分を含むマルコ福音書を見ているのですから、全体を罪の赦しの福音を提示する記事とするのは当然です。また、罪の赦しはルカが福音の中心に置く使信ですから、このような書き方はルカにふさわしいと言えます。
 なお、ここに登場するファリサイ派の人々と律法の教師たちに、ルカでは「ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来た」という丁寧な説明がつけられています。ガリラヤにはファリサイ派の人々と律法の教師たちもいるのですから、そのような人たちがイエスの働きに注目してそこに来ていたとしても不思議ではありません。しかし、遠くの「ユダヤのすべての村、そしてエルサレムから」もそのような人たちが来ていたというのは何を意味するのでしょうか。

 すでにマルコ福音書も、ガリラヤでのイエスの宣教活動が始まったことを語る記事の直後に、ファリサイ派の律法学者たちとの論争を描く大きな区分を置いています(マルコ二・一〜三・六)。ルカもマルコの順序に従ってこの区分をまとめていますが、ルカでは(先に見たように)順序を少し変えることで、この区分を弟子の召命を主題とする区分にしています。しかし、マルコの物語を踏襲していますので、やはり律法学者たちとの論争という性格も強く残っています。そして、イエスが行かれるいたるところに現れて、イエスを批判的な目で監視していた律法学者たちが、「ユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来た」者たちであるとルカが報告していることには歴史的事実の核があると見ることができます。マルコも少し後で、この律法学者たちがエルサレムから来た者たちであることを明言しています(マルコ三・二二、七・一)。

 イエスがエルサレム神殿で犠牲の動物を売り買いしたり両替をする商人の台をひっくり返して追い出すという過激な象徴行為をされたことは、イエスの生涯の中で重要な意義を持つ出来事として、四福音書すべてが報告しています。ただその時期が、マルコ(およびマルコに従う共観福音書)では最後の過越祭の時とされ、ヨハネ福音書ではイエスがガリラヤで宣教活動をお始めになる前の出来事とされています。マルコに従っても、ガリラヤでのイエスの活動が多くの民衆を集め、過激なメシア運動になることを恐れたエルサレムのユダヤ教指導層が、監視のために律法学者を派遣したことは考えられますが、それよりもヨハネ福音書に従って、イエスが初期にエルサレム神殿で過激な象徴行為をされたので、イエスを危険視したエルサレムの指導層が、イエスを訴えるための口実をつかむために監視団を派遣したと見る方が、ガリラヤでの状況をよく説明することができると考えられます。他の状況も考慮すると、この出来事に関してはヨハネ福音書の記事の方が歴史的に正確だと、わたしは考えています。

 

罪の赦しの福音

 マルコはこの出来事をイエスがカファルナウムに戻り自宅(おそらくペトロの家)におられる時のこととしていますが(マルコ二・一〜二)、ルカはこのような状況には触れず、ただちに律法学者たちを登場させて、段落全体を律法学者たちとの論争の記事としています(一七節)。

 足の麻痺した人が運ばれてきた様子はほぼマルコと同じですが、マルコでは「四人の男」とあるのが、ルカでは人数は略されて「男たち」となっています。また、マルコが「屋根をはがして穴をあけ」と書いているところを、ルカは「屋根に上って瓦(タイル)をはがし」と書いています(一八〜一九節)。当時のパレスチナの家屋は屋根に上る階段が外にあり、屋根は材木の梁に木の枝を編んだものと粘土の覆いをのせただけの簡単な造りでしたから、このような「屋根をはがして穴をあけ」、病人を吊り降ろすことが可能でした。ところがルカは「瓦(タイル)をはがし」としています。これはルカが自分の周囲にあるタイル葺きの屋根をもつ(ヘレニズム都市の)家屋のイメージから使った表現でしょうが、パレスチナ農村の状況とは合いません。しかし、そうまでしてこの人をイエスのもとに連れて行きたいという熱い思いは伝わります。

 イエスは「その人たちの信仰を見て」、救いの言葉をお与えになります。元の奇跡伝承では、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と続いていたのでしょう。足の麻痺した人本人も、その人を運んできた男たちも、イエスのもとに来て、イエスから一言葉をいただくなり、手を置いて祈っていただくならば、イエスの内に働く神の力によっていやされると信じたことが、彼らの切実な行動によく表れています。イエスはこの行動に表れた「彼らの信仰を見て」、救いの言葉をお与えになります。このようなイエスを神からの方と信じ、イエスの中に働く力を神の力と信じる信仰に出会うとき、イエスを通して神の救いの力が注ぎこまれます。「その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って」行きます。それを見た人たちは、大いに驚き、神を賛美します(二五〜二六節)。しかし、故郷のナザレの人たちのように、イエスをそのような方と信じない人々の中では、イエスの中に来ている神の力は働くことができません(マルコ六・一〜六)。

 ところが、マルコ以来福音書は、イエスがこの人にまず「あなたの罪は赦されている」と宣言されたとし、それを批判した律法学者たちに「人の子が罪を赦す権威を持っている」ことを知らせるために、この足の麻痺した人を立ち上がらせたとしています(二〇〜二四節)。これは、最初期の福音がまずキリストにおける罪の赦しを告知し、その福音が神からのものであることを示す「しるし」として病気のいやしを行ったことの反映であると見られます。

 はじめ福音が人々にキリストによる罪の赦しを告知したとき、ユダヤ教側からは厳しい批判の矢が放たれました。メシア・キリストであるイエスが信じる者に罪の赦しを与えられるという福音の告知に対して、ユダヤ教からは「神を冒?するこの男は何者か。ただ、神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」という批判・非難が行われたのは当然です。ユダヤ教では、罪を赦す権限は神だけのものです。来るべき終末時のメシアも、イスラエルを異教徒の支配から解放することは期待されていましたが、民の罪を赦す権限は考えられていませんでした。

 マルコ福音書が書かれるようになるまでには、福音活動はすでに四〇年ほど続けられています。その間、キリストにおける神の贖いの働きは、「罪の赦し」という解りやすい表現で宣べ伝えられました。パウロは「罪の赦し」という表現をほとんど用いないで福音を語っていますが、一般の福音活動の大勢は「罪の赦し」を中心に置いていたようです。そのことは、パウロ以後のキリストの福音を証言するコロサイ書(一・一四、二・一三)やエフェソ書(一・七)などで「罪の赦し」が福音の中心に置かれていることや、パウロ以後のキリストの福音を集約するような位置にあるルカ文書が「罪の赦しの福音」を前面に出している事実(ルカ二四・四七、使徒一三・三八など)からも十分推察することができます。

 そうであれば、マルコまたはマルコ以前の伝承が、罪の赦しを前面に出して福音を語り、それに対するユダヤ教からの批判に対して反論しようとしたことは当然です。マルコはその反論を、イエスご自身がユダヤ教律法学者たちになされた反論として書き記します。マルコではまだこの反論の部分は本来の奇跡物語伝承に後から挿入された可能性が残りますが、「罪の赦しの福音」を中心にするルカは、はじめから律法学者を登場させて、この段落全体を「罪の赦しの福音」を弁証する記事にしています。

 

「人の子」の権能

 神だけが人間の罪を赦すことができるのに、人間が罪を赦す権威を行使するのは、神への冒?だとするユダヤ教からの批判に対して、イエスをメシア・キリストと宣べ伝える福音は反論します。「イエスは、彼らの考えを知って、お答えになった」というのは、ユダヤ教からの批判を十分に知っている福音の宣教共同体が、彼らへの反論をイエスの口に置いているのです。その反論の要旨はこうです。

 ――イエスは足が麻痺して立ち上がれない人を、「立って歩け」という命令の一言葉で立ち上がらせたではないか。だいたい、「あなたの罪は赦された」と言うのと、足の麻痺した人に「起きて歩け」と言うのと、どちらがやさしいか、答えてほしい。どちらも人間にはできないことではないか。ところが、イエスが足の麻痺した人に「起きて歩け」と命じられると、その言葉によって現にその人が立ち上がって、自分を運んできた床を取り上げて歩いて帰ったのだ。この事実は、イエスが人間にはできないこと、神だけができることをしておられることを示している。すなわち、地上の一人の人であるイエスが、神から遣わされた方として、神の権能をもって行為しておられることを証明している。そのイエスが、本来は神だけの権能である「あなたの罪は赦されている」という宣言をしたとしても、どうしてそれを冒瀆だと言うのか。 そもそもイエスは終わりの日に現れると預言されている「人の子」なのだ。「人の子」は終わりの日に神の審判を執り行う。その「人の子」が地上に現れて、「あなたの罪は赦されている」と宣言しても、それは当然ではないか。あなたたちはイエスをそのような神から遣わされた方、終わりの日の「人の子」と信じないで、イエスの行為を冒?と批判するが、イエスは足の麻痺した人を立ち上がらせるなどの多くのしるしによって、「人の子」であることを示されたではないか。あなたたちの方こそ、イエスをこのような「人の子」と信じて受け入れなければならない。――

 この反論は、イエスに「人の子」という称号を帰して、イエスが誰であるのかを宣言しています。この事実は、これが初代の宣教共同体による反論であることを示唆しています。こう理解するのは、イエスご自身が批判する律法学者たちに反論された可能性を否定するものではありません。しかし、イエスが反論されたとしても、その語録を伝承した最初期の共同体が、それを伝承する過程で「人の子」という称号を用いて自分たちの批判者たちに答える反論を形成したことも事実です。イエスをこのような終わりの日に現れる「人の子」として宣べ伝えたのは、黙示思想的待望に燃える最初期の共同体なのですから。

 イエスが「人の子」という表現を用いて語られたことは、イエス伝承に深く組み込まれている事実です。これがユダヤ教黙示思想世界の特殊な表現であって、ギリシア語世界では理解されないものであるにもかかわらず、ギリシア語で伝承されたイエスの語録伝承で語り伝えられてきた事実は、これがイエスご自身の用語として尊重され、変更されることなく伝えられたからです。ただ、イエスがどのような意味内容をこめてこの称号を用いられたのか、また、ご自分を指して用いられたのか、他の誰かを指しておられるのか、さらに最初期の黙示思想的待望に生きた共同体の影響がどの程度及んでいるか、議論が絶えず、福音書研究の難関です。

 ここでその議論の詳細に立ち入ることはできませんので、ここでの必要最小限のことに触れて、この段落の意義を考えてみましょう。「人の子」という称号は、ダニエル書などのユダヤ教黙示文学に出てくる、終わりの日に天から現れて神の支配をもたらす超自然の審判者であり救済者を指す称号です。ところが、この時代のアラム語の用法では、「ある人」とか「一人の人間」を指す場合もあり、むしろこの方が普通の用法でした。もしイエスが面前の律法学者に反論されたのであれば、この意味で用い、「一人の人間が地上で罪を赦す権威を持っていることを示すために」という意味で用いられた可能性が高いことになります。

 ところが、ギリシア語の世界ではこの「人の子」という奇妙な表現は、「ある人」とか「一人の人間」と言う意味ではありえず、どうしてもユダヤ教黙示文学の「人の子」称号を指すことになります。それで、パウロとかパウロ名書簡の著者は決してこの「人の子」という句を用いません。この称号がギリシア語でのイエス伝承に用いられた結果、福音書では「人の子」称号は、いつもユダヤ教黙示思想における「人の子」、すなわち終わりの日に天から現れて神の支配を実現する超自然的人格を指すことになります。イエスご自身がこのような意味内容を承知の上でお用いになったとしなければならない場合もあります。

 以上の事情を総合すると、もしイエスが反論されたとしても、どのような言葉で反論されたかは確認困難ですが、少なくとも現在の福音書の記事は、罪の赦しの福音に対するユダヤ教からの批判に対して、最初期の共同体が「人の子」という称号を用いて行った反論であると理解するのが順当であると考えられます。

 


25 レビを弟子にする(五・二七〜三二)

 

徴税人レビの召命

 マルコの順序に従って、次に徴税人レビが弟子として召された記事が来ます(二七〜二八節)。当時のユダヤ教社会では、徴税人は汚れた者としてのけ者にされていましたから、イエスが徴税人を弟子とされたことは事件であり、このイエスの行為をめぐって批判と議論が巻き起こります。

 前段の足の麻痺した人のいやしはカファルナウムでの出来事です。イエスがカファルナウムから「出て行って」、湖沿いに少し行かれると収税所があります。カファルナウムは交通の要衝ですから(前号34頁参照)、その近くに収税所が置かれ、通過する人や物品から税を徴収していました。そこの「収税所に座って」税を徴収していた徴税人がレビでした。

 イエスはレビに、「わたしに従いなさい」と声をかけられます。するとレビは「何もかも捨てて」立ち上がり、イエスに従います。レビがイエスの呼びかけに応えて直ちに従っていった出来事は、ペトロたちが「何もかも捨てて」イエスに従った出来事(五・一一)をモデルにして書かれています。しかし、これは(そこで見たように)復活者イエスの召しに応えたペトロたちの行動であって、地上のイエスの巡回伝道に従ったときは、家や漁師の仕事はそのまま残っています。レビの場合も、イエスの弟子となってからイエスのために盛大な宴会を自分の家で開いています。

 レビはイエスの弟子の一人となりますが、レビの名は「十二人」のリスト(六・一四〜一六)には出てきません。並行するマルコ(三・一六〜一九)とマタイ(一〇・二〜四)のリストにも出てきません。注目すべき点は、マタイが十二人の中の「マタイ」という名に「徴税人」という元の職業を添えていることです。マタイ福音書を生み出した伝承は、マタイが元徴税人であることを知っており、マルコ福音書のレビの召命記事をマタイの召命記事にしています(マタイ九・九〜一三)。マタイ福音書を生み出した共同体は、その共同体が依って立つ伝承の源に立つ人物が、「十二人」の中の一人であり、ペトロと同じように直接主イエスから召された者であることを語るために、徴税人レビの召命記事を徴税人マタイの召命記事としたと見られます。

 ルカはマタイ福音書を知らないと考えられます。また、ルカにはレビとマタイを同一人物としなければならない理由はありません。レビもここに出てくるだけですし、マタイも名前が出てくるだけで、両者の関係はありません。したがって、ルカはマルコの記事をそのまま踏襲します。マタイによれば、レビとマタイは同一人物となりますが、これは確認できません。レビもマタイもユダヤ名であり、ユダヤ名シモンがペトロというギリシア語名を持っていたのとは事情が違います。同一人が別人かは確認できませんが、いずれにせよ、徴税人が弟子として召されたことが重要です。このことの意義が、続く宴席の場で語られます。

 

徴税人レビの家での宴会

 レビは「自分の家で盛大な宴会を催し」ます。宴会は喜びを分かちあうためにするものですから、レビにとってイエスから招かれて弟子とされことは、よほど嬉しいことであったのでしょう。ペトロたちが悲壮な決意をもって「何もかも捨てて」宣教活動に乗り出した状況とはかなり違います。社会からのけ者にされていたレビにとって、高名な教師であるイエスから呼びかけられ、弟子の一員として身近に置いてもられるようになったことは、ユダヤ教社会で認められて誇らしい立場を得た思いであり、感謝と喜びからこのような大盤振る舞いをすることになったのでしょう。この感謝と喜びは、「徴税人の頭」(関税請負人)であるザアカイの場合も同じです(一九・一〜一〇)。

 レビが催した宴会がこのような性格のものであったことは、この宴会に「多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた」(マルコ二・一五)ことからも分かります。彼は同じような境遇の人たちを招いて、喜びを分かちあおうとしたのでしょう。ルカは「そこには徴税人やほかの人々が大勢いて」と書いて、マルコの「罪人」という表現を削除していますが、これは異邦人には誤解されやすい「罪人」という表現を避けたからでしょう。しかし、すぐ後でイエスの行動を批判した人たちの言葉では「徴税人や罪人」というマルコの表現をそのまま使っています。

 「罪人」という表現は、法律に違反した行為で裁判を受けた犯罪者とか前科者という意味ではなく、ユダヤ教社会で、神がイスラエルの民に求められる基準、すなわち律法の基準からして、神の民としての資格のない者、ユダヤ教社会の除外者という意味です。個々の行為が人を罪人とするのではなく、職業とか立場が人を「罪人」とするのです。徴税人はその典型です。そのほか遊女とか高利貸しなど、その職業とか社会的立場にあること自体が、ユダヤ教律法の基準に達することができない者として、「罪人」というレッテルを貼られて差別されます、これは、律法順守を神の民の要件とするユダヤ教特有の差別概念です。

 イエスの周りにこのような「罪人」が大勢集まってきていたことは、ルカではここで初めて出てきます。イエスの周りに集まったのは病人だけではありません。徴税人レビを弟子として身近に置かれたことを典型的な事例として、福音書はイエスの行かれるところには「罪人」たちが大勢集まったこと、また、イエスはこのような人たちと飲食を共にして自分の仲間であることを示されたことを伝えています。実はこのことこそ、イエスが宣べ伝えられた福音の質を示す重要な事実なのです。そのことが、イエスのこの行動や振る舞いを批判した人たちとの間に行われた以下の問答で示されます。

 

義人ではなく罪人を招くために

 このような徴税人レビが催した宴会に「ファリサイ派の人々やその派の律法学者たち」が同席していたことは、やや不自然です。たしかに、婚宴や宴会には、土地の名士として律法学者が招待されることは普通ですので、この場合も律法学者がいたことはありえます。しかし、「ファリサイ派の人々やその派の律法学者たち」と表現されるグループの人たちが宴席にいて、「イエスの弟子たちに」に向かって、「なぜ、あなたたちは・・・・」と言ったという表現は、この場合やや不自然です。これは、ユダヤ教から見ればとうてい神の民となりえないような人たちを集めて、自分たちこそ新しい神の民であると主張している最初期のキリストの民に対して、ユダヤ教会堂が向けた批判を反映している可能性があります。もちろん、イエスのときにもこのような批判はあったはずです。しかし、福音書として書かれたときの状況が、イエスの状況に重ねて書かれたので、このような不自然な形になったのではないかと推察されます。

 「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」というユダヤ教からの批判に対して、イエスは医者のたとえを用いて答えられます。たとえを用いて、簡潔に、そして的確に問題の本質を射貫かれるのは、イエスの言葉の特色であり、共同体は伝承されたイエスの語録を引用して、ユダヤ教からの批判に答えます。

 イエスが用いられた医者のたとえは、マルコ(二・一七)では、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく、病人である。わたしが来たのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」となっています。ルカはほぼそれと同じ言葉を引用していますが、最後の「罪人を招くために」の後に「悔い改めへと」(=悔い改めに至らせるために)という句を加えています。これは、まことにルカらしい付加ですが、この句の解釈を間違えると、イエスの言葉が指し示す福音を台無しにする危険があります(この点については後述)。

 イエスは、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく、病人である」と、医者の働きを引き合いに出した上で、そのように「わたしが来たのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」と宣言されます。このマルコの形が、本来のイエスのお言葉を伝えていると考えられます。ただ、ここでイエスが「義人」とか「罪人」と言っておられるのは、批判者たちの用語を使っておられることに留意しなければなりません。

 「ファリサイ派の人々やその派の律法学者たち」は、律法を守って生活している者を「義人」と呼び、律法を学ばず、律法を守らず、律法と無縁な生活をしている者を「罪人」と呼んで、そのような人は神の国には無縁な者としていました。「ファリサイ派の人々やその派の律法学者たち」は、熱心に律法を学び、実行している自分たちこそ「義人」であると自任していました。そして、徴税人や遊女はその職業から汚れた「罪人」でしかありえないし、律法を持たない異邦人はもともと汚れた「罪人」だとしていました。そして、そのような人たちと交わることは彼らの汚れに染まることだとして、極力接触を避けていました。一緒に食事をすることなど、彼らの仲間であることを表明することであり、とんでもないことです。

 ところがイエスは、まさに「罪人」の典型である徴税人を弟子として仲間に入れ、徴税人や罪人たちと一緒に食事をしているのです。これは、ファリサイ派律法学者たちからすれば、義を追い求める者、イスラエルの民に義を教える者にはあるまじき行為です。ルカの文は「なぜ」で始まる疑問文ですが、マルコの文は、激しい非難を示す感嘆文として、「(何たることか)彼は徴税人や罪人と一緒に食事をしている!」と読むこともできます。どちらにしても、イエスの行動はファリサイ派律法学者たちから見ればとうてい見過ごすことができない行為、意図的に律法を無視する行為として、非難・詰問しているのです。

 このファリサイ派律法学者たちからの激しい非難詰問に対して、イエスは医者のたとえを語られます。医者は丈夫な人のところに来るのではなく、病気の人のところに来て、苦しんでいる人を助けます。そのように、わたしが神から遣わされて世に来たのは、あなたたち「義人」を神に国に招き入れるためではなく、あなたたちが「罪人」と呼んで神の国から追い出している人たちを神の国の恵みに招き入れるためである、とイエスは言っておられるのです。あなたたち「義人」は、自分の義で満ち足りているとして、わたしがもたらす神の恩恵を必要としていない人たちである。それに対して、あなたたちが「罪人」と呼んで神の国から排除している人たちは、わたしがもたらす神の恩恵がなければ神の前に立てない人たちである。彼らは、病人が医者を必要としているように、わたしの中に到来している神の無条件絶対の恩恵が必要なのだ。わたしは、この神の無条件絶対の恩恵をたずさえて、彼らを招くために来たのだ、とイエスは宣言されます。

 

「貧しい人たち」と恩恵の支配

 では、この「罪人」が批判者たちの用語であるとすれば、イエスご自身はこのようなユダヤ教社会で排除されている人たちをどう呼んでおられるのでしょうか。それは、すでにナザレの会堂でご自分の使命を預言者イザヤの言葉で宣言されたときに出てきています。イエスはイザヤ(六一・一)の言葉を引いて、「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人たちに福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである」と言っておられます(四・一八)。この「貧しい人たち」は、旧約聖書の預言書や詩編で、富める者や権力者から苦しめられていながら、対抗するものを自分の内に持たず、ただ神に縋るほかのない者たちを指す呼び名です。イエスは、このような伝統を受け継いで、ご自分が呼びかけ招く人たちを「貧しい人たち」と呼んでおられます。イエスはこのような人たちに、「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである」と言われるのです(六・二〇)。

 このような「貧しい人たち」は、律法が支配するユダヤ教社会では、律法の基準を満たすことができない者として、「罪人」と呼ばれて排除されていました。それに対してイエスは、律法とは別の原理で彼らを扱われます。すなわち、恩恵の原理です。イエスが告げ知らされる「神の支配(バシレイア)」とは、「恩恵の支配(バシレイア)」のこと、神の恩恵が圧倒的に支配する場のことです。このことは福音書全体を通して確認しなければならないことですが、ここですでに明確に告知されています。マタイは、イエスが徴税人を招かれた行為に「恩恵の支配」が告知されていることを明言しています。マタイは、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく、病人である」という医者のたとえと、「わたしが来たのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」という宣言の間に、「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい」という、ホセア(六・六)の言葉を入れています。ルカはこのような引用は入れていませんが、イエスが告知された「神の支配」とは「恩恵の支配」であることは、ナザレの会堂での宣言で引用された、「主の恵みの年を告げるため」というイザヤの預言を用いて明言しています。

 「憐れみ」とか「恵み」とは、相手の資格とか善悪を問わず(条件としないで)、無条件で相手を受け入れ、交わりをもち、自分のよきものを与える姿勢とか行為です。イエスはこれを父の「慈愛」とも言われました。パウロはこれを《カリス》(恩恵)と呼んでいます。この「恩恵」が、人間の側の状況を圧倒して支配している場が「神の支配(バシレイア)」です。イエスが、足の麻痺した人に無条件に「あなたの罪は赦されている」と宣言されるのも、徴税人に「わたしと一緒に来なさい。あなたはわたしの仲間だ」と言われるのも、すべて恩恵が支配する場での出来事です。
 

「悪人正機」の思想

 このように、イエスがもたらされた「神の支配」が「恩恵の支配」であるならば、恩恵が招くのは「貧しい人たち」になるのは当然です。自分で「義人」だと考えている人たちには無縁です。「義人」たちは、あの「罪人」たちと同列に、ただ神の恩恵によって扱われることに耐えられません。それでは、自分たちが律法を順守して義を追求している努力は無意味になります。自分たちの宗教的価値を否定する「恩恵の支配」を唱えるイエスを許すことはできません。厳しく批判し、憎み、ついには死に追いやることになります。

 これとよく似た出来事が、日本の宗教史にも起こりました。このイエスの出来事から千年ほど後のことですが、日本の仏教界に法然や親鸞が現れて、弥陀の本願に寄り頼む信仰によってどのような悪人凡夫も救われると唱えたとき、既成の仏教界の僧侶たちは、それでは悟りを求める菩提心を無意味にすると激しく反発し、法然や親鸞を朝廷に訴えるなどして迫害しました。

 親鸞の思想を世に伝えるために、弟子の唯円が親鸞の言葉をまとめて著した著作に、有名な「歎異抄」があります。その中に、親鸞の信仰思想を典型的に示す言葉として、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という言葉が伝えられています。これは、もともと悪人こそ阿弥陀仏の救いの主対象だとする「悪人正機」の思想を実に簡明直截に表現しています。そして、その意味がこう説明されています。

 「煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて、願を起こしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力を頼みまつる悪人、もとも往生の正因なり。よて善人だに往生すれ、まして悪人は、とおほせさふらひき」。(『歎異抄』第三章)

 この「悪人」は、自分を清浄心なき汚濁の悪人と深く自覚した親鸞自身から出た言葉として、一人ひとりの自覚の告白として読まなければなりませんが、この「悪人正機」の宗教思想は当時の庶民階級の人々に大きな共感を呼び起こしました。武士や漁師・猟師など殺生をしなければ生きて行けない人たち、商人や遊女など、社会道徳上いつも非難されている人たち、貧しい農民や職人など、生活に追われて仏法をならう機会がない人たち、このような階層の人たちにとって、「悪人正機」の教えはまさに自分たちに向けられた救いの声として響いてきました。

 このような法然・親鸞の阿弥陀信仰が日本人の宗教性に大きな影響を及ぼしたことは、わたしたちが身近に知っていることです。しかし、法然・親鸞よりも千年も前に、イエスは「わたしが来たのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」と宣言しておられるのです。「罪人」こそ、「貧しい人たち」こそ、イエスが神の国の祝宴に招くために呼びかける人々なのです。

 

悔い改めさせるために

 イエスは「わたしは罪人を招くために来た」と言っておられますが、「罪人」、すなわちイエスが「貧しい人たち」と呼ばれる人たちを何に招いておられるのでしょうか。マルコが伝えるイエスのお言葉には、その点についての説明はついていません。イエスの宣教全体が「神の国」への呼びかけであることから、また、このお言葉が発せられた場が宴席であることから、この招きは神の国の祝宴への招きであると受け取ることができます。事実、イエスご自身、「貧しい人たちは幸いである。神の国はあなたたちのものである」と言って、この点を明確に語っておられます。神の国の祝宴に招かれるのは、自分を義人だとしている者たちではなく、自分の中にはいかなる義もなく、ただ神の恩恵にすがらないではおれない「貧しい人たち」だと、イエスは宣言しておられるのです。

 ところが、ルカは「罪人を招くために」の後に、「悔い改めへと」という句を入れて、その招きが「悔い改め」に至らせるためだとしています。そして、この句が「義人」とか「罪人」という用語で語られる文の中に出てくるため、イエスの言葉が次のように理解される危険があります。すなわち、イエスは罪人たちに、罪を悔い改めて義人としての生活に立ち戻るように呼びかけておられるという理解です。これは誤解です。イエスの福音を台無しにする誤解です。

 この言葉がこういう意味であるならば、イエスもファリサイ派律法学者たちと同じ立場に立つことになります。そうであればイエスも、「義人」を招いておられることになります。律法を順守する義人だけが神の国に入ることができるのだから、律法に背く生活をしている罪人は、その罪を悔い改めて、律法に従う義人の生活に戻り、それによって神の祝福を受けるようになりなさい、と呼びかけておられることになります。それができるのであれば、イエスが来られる必要はなかったのです。それができない人々を、無条件に神の国の祝宴に招くためにイエスは来られたのです。

 イエスの神の国の告知は神の無条件絶対の恩恵の告知であるという基本的な理解からすれば、ここの「悔い改め」《メタノイア》は、預言者たちが叫んだ「立ち帰り」《シューブ》の意味に理解しなければなりません。すなわち、今や神の無条件絶対の恩恵が現れたのだから、自責や絶望というような自己の殻の中に閉じこもっていないで、立ち上がり、自分から出て、神に立ち帰り、この神の恩恵に自分を投げ入れなさい、という意味に理解しなければなりません。ルカがこのような意味で「悔い改め」を用いていることは、やがて一五章の有名な「放蕩息子」のたとえで明確に語られることになります。

 この「悔い改め」を誤解してイエスの福音を台無しにするような事態が、現代の教会に起こってはいないでしょうか。現代のキリスト教会は「義人」を招く教会になっていないでしょうか。外の人をまず自分の規準にあった「義人」に変えて、「義人」になった者だけに神の救いとか祝福を約束する教会になっていないでしょうか。洗礼や聖餐の儀式にあずかり、酒やタバコをのまず、日曜日には礼拝に出て聖書を学ぶなど、敬虔な生活をし、教会の教義を信奉し、慈善的社会活動をするなど、教会が求める生活の規準を満たしている者に救いを約束し、その規準に合わない者を退けているならば、その教会は「義人を招く」教会になっているのです。

 キリストの福音は、そのようなキリスト教の規準にあわない外の人々に、そのままで、すなわち教会から見れば世俗の生活のただ中で、神の恩恵を受けるように招くのです。そのままで、イエス・キリストを信じ、その信仰によって神の恵みの賜物、すなわち神の命である御霊を受けるように招くのです。

 そのままで神の救いの恵みを受けるのであれば、キリスト教が求める高い宗教性や道徳性は達成できないではないか、という反論は成り立ちません。無条件・無代価で賜る聖霊によって、神は人間を変容する働きを始めてくださるのです。人間が神の御霊によって内から変革されてはじめて、キリスト教がかかげる高い宗教性や道徳性が実現できるのです。それがなければ、キリスト教会はいつまでも「義人を招く教会」にとどまり、イエスが宣べ伝えられた「恩恵の支配」を世界に告知することはできないのです。恩恵が支配する場を世界に提示することで、福音は世界を変革へと招くのです。

26 断食についての問答(五・三三〜三九)

 

ユダヤ教における断食

 マルコ(二・一八)では徴税人レビの家での宴会の後で、別の場面として「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々」が登場して、イエスの間に断食についての問答が行われたと読めますが、ルカは宴会と断食問答の間に切れ目を入れず、問答がレビの宴席で行われたように描いています。ルカによると、レビの家の宴会で医者のたとえを用いて、「わたしが来たのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われたイエスに向かって、宴席にいた「ファリサイ派の人々とその派の律法学者たち」が問答をしかけたことになります。彼らは洗礼者ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々がしている断食の祈りの習慣と対照して、イエスの弟子たちが断食の習慣を守らず、「飲んだり食べたりしている」事実を取り上げて、こう言います。「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています」(三三節)。これはもちろん、イエスの弟子たちがユダヤ教の断食の習慣や規定を守らないことを批判し、非難するための対照です。マルコやマタイでは、「なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのか」となっています。

 ここで、この問答の背景になっている当時のユダヤ教の断食の習慣について簡単に触れておきます。もともと断食は宗教的祭儀の一部として、また懺悔・痛恨の表現として古代の諸民族の間で広く行われていた習慣です。イスラエルの中でも、早くから断食は行われていました。サウルとヨナタンが死んだときの人々の断食(サムエル記下一・一二)や、ダビデが重病の子のために祈るときにした断食(サムエル記下三・三五)など、捕囚前にも少数ながら事例が報告されています。このような個人的な断食だけでなく、戦争の時に誓いの断食が行われ(サムエル記上一四・二四)、神殿祭儀においても断食が行われていた痕跡があります(エレミヤ三六・六)。

 正典の律法の中で命令されている断食は、年に一度の大贖罪日の断食だけです(レビ一六・二九〜三四)。これはおそらく捕囚前から行われていたと考えられます。しかし、断食がすべての国民の守るべき宗教行事と規定され、イスラエルの宗教生活の中で盛んに行われるようになるのは捕囚後です。バビロン捕囚の悲惨な体験の後、国民的懺悔の日として、エルサレム包囲が開始された日(十月十日)、エルサレム陥落の日(四月九日)、神殿破壊の日(五月七日)、ゲダリヤ殺害の日(七月二日)の四回が加えられます(ゼカリヤ八・一九参照)。さらに、エステル記(四・一六)に基づいて、プリムの断食が加えられます。

 捕囚後のイスラエル宗教は、律法の編纂とその研究・解釈も進み、律法順守の生活を重視する方向に進みますが、その過程で断食も神に喜ばれる敬虔の業として重要な地位を占めるようになります。とくに律法の研究と実践に熱心なファリサイ派の人たちは、モーセが律法を受けるためにシナイ山に登ったといわれる週の第五日(木曜日)と、下山したといわれる第二日(月曜日)の週二回の断食を守り、それを律法に忠実な生活として誇っていました(一八・一二)。ファリサイ派と共に「敬虔な者たち」《ハシディーム》の運動から出たエッセネ派も、その派の文書とされる死海文書には大贖罪日の断食以外に断食規定はありませんが、その荒野の禁欲的傾向から断食はよく行われたと推察されます。

 エッセネ派から出たと見られる洗礼者ヨハネも、荒野で断食の祈りに没頭しました。彼が食べも飲みもしないのを見た周囲の人たちは、「彼は悪霊に取りつかれている」と言ったとされています(七・三三)。洗礼者ヨハネを信奉する弟子たちの集団も、師の祈りを受け継ぎ、度々断食して祈るようになります。イエスもヨハネのもとにおられたとき、荒野で断食の祈りをされたと伝えられています。

 洗礼者ヨハネだけでなく、彼の時代のユダヤ教には、断食など厳しい禁欲的な祈りの生活で有名になる人物も出ます。当時のユダヤ教は、断食を祈りと施しと並ぶ「義の業」(敬虔の業)として強く推奨するようになります(そのことはマタイ六・一〜一八に見られます)。そのような当時のユダヤ教の傾向から、一世紀のローマ社会で、「ユダヤ人(=ユダヤ教徒)のように断食する」という諺が行われるようになります。それだけに、イエスが洗礼者ヨハネの終末的な神の国告知の運動から出ていながら、もはや断食をせず(少なくとも人々の前では)、底辺の人々と飲み食いを共にされた行動は特異であり、周囲のユダヤ教徒から、「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」と嘲笑・批判されることになります(七・三三)。
 

婚礼の客の比喩

 このようなイエスの姿勢を受け継いで、イエスの弟子たちも断食をしませんでした。レビの家での徴税人たちの宴会に典型的に見られるように、弟子たちはイエスと一緒にその宴席で飲み食いしました。それを見たファリサイ派律法学者は、まずイエスが徴税人や罪人と一緒に食事をして、彼らの汚れと接触することを批判しました(先の段落)。その批判については、イエスはすでに医者のたとえを用いて答えておられます。ここではイエスと弟子たちが、「断食しないで飲んだり食べたりしている」ことについての批判に、イエスが答えられます。

 ここではイエスが断食しないことではなく、イエスの弟子たちが断食しないことが批判されています。これは、先に見たように、イエスを信じる者たちの共同体が断食しないことについて、ユダヤ教会堂勢力から受ける批判を、福音書記者がイエスの働きの時期に重ねて書いた結果だと考えられます。もちろん、イエスが断食しないで徴税人たちと宴席を共にされたとき、批判があり、それにイエスが答えられたことは事実でしょう。いま福音書の著者は、その時のイエスの答えを伝える語録を引用して、対立するユダヤ教からの批判に答える形で、自分たちが生きている終末的現実を言い表します。

 イエスの答えは、ここでも比喩を用いた簡潔な宣言です。
 「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか」。(三四節)

 イエスは批判者に向かって、婚礼の比喩を用いて逆に質問し、イエスの弟子たちが断食しない理由を示されます。この質問は、「もちろん、そんなことはできない」という答えを当然としています。イエスは言っておられるのです。「わたしの弟子たちは、花婿と一緒にいる婚礼の客なのだ。彼らが断食しないのは当然ではないか」。

 イスラエルでは結婚して子をもうけることは男子の神聖な義務でした。婚礼は重視され、招かれて婚礼に出席するためには、ラビが律法の教授を中断することも許されていました。飲食し、歌い、踊る華やかな婚宴は、一夜だけでなく一週間も続きました。断食を「義の業」として重視した当時のユダヤ教でも、婚礼の期間には経札をつける義務や断食する義務から解放されていました。花婿と一緒に過ごす喜ばしい婚宴の席で、婚礼の客が断食することなど、どうしてできるでしょうか。

 イエスは、弟子たちが断食しない理由として、彼らは今花婿と一緒にいるのだから、と言っておられます。これは実に重要な宣言を含んでいます。イエスの答えを引用する形で、弟子たちの共同体は、自分たちは今花婿と一緒にいるのだと宣言しているのです。花婿が到来しておられると、宣言しているのです。

 イスラエルの預言者たちは、神とイスラエルとの契約関係を結婚の比喩で語って来ました(ホセア一・二〜九、エレミヤ二・二、イザヤ五四・五など)。それを受けてイエスも終わりの日の到来、御自分の到来の意義を婚礼の比喩で語られました(ルカ一四・一五〜二四、マタイ二二・一〜一四、二五・一〜一三)。ヨハネ福音書も、イエスを花婿とする伝承を知っています(ヨハネ三・二九)。そのイエスがここではっきりと、今や花婿が到着し、喜びの婚礼が始まっているのだ、と宣言しておられるのです。

 イエスの弟子たちの共同体《エクレーシア》は、まだメシアの到来を将来に待望しているユダヤ教会堂や洗礼者ヨハネの弟子たちの集団に対して、このイエスの言葉をもって、自分たちはすでに預言者が預言し、イスラエルが待望してきた終わりの日の現実に生きているのだと宣言します。花婿がすでに到来し、自分たちは花婿と一緒に婚礼の祝いの祝宴にいるのだと宣言します。新約聖書全体がこの宣言をしているのですが、この断食に関する問答でイエスがなされた宣言、そしてそれを用いて《エクレーシア》が世に向かってなしている宣言は、その代表的な宣言としてきわめて重要な位置を占めています。

 

イエスの弟子たちの断食

 ところが、この明確な宣言に一つの但し書きがついています。
 「しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる」。(三五節)

 「彼ら」、すなわち婚礼の客として花婿と一緒にいるのだから断食はしないはずのイエスの弟子たちも、「花婿が奪い取られる日には断食するであろう」と未来形で語られています。この但し書きは何を意味するのでしょうか。

 「花婿が奪い取られる」という表現は、その動詞が無理矢理暴力的に取り去ることを意味する動詞ですから、イエスの十字架の死を指していると見てよいでしょう。しかし、ここを「十字架の後の時代ではイエスの弟子たちも断食するであろう」という意味に理解すれば、それは先のイエスの鋭い言葉を無効にしてしまいます。もしこの但し書きがそういう意味であるならば、「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることができようか」という言葉は、イエスが地上で弟子たちと一緒におられる時期だけのものであり、十字架の死以後は意味をもたないことになります。十字架以後の時代には、イエスは弟子たちと一緒におられないことになり、復活者イエスと共に生きているのだという初代共同体の確信、全新約聖書の使信と矛盾します。復活者イエスは「世の終わりまで、わたしはあなたたちと一緒にいる」と語られるイエスです。

 そもそもこの断食に関する問答は、先に見たように、イエス復活後の弟子の共同体が断食しないことを問題にした問答です。最初期の共同体《エクレーシア》が断食しないことに対して、洗礼者ヨハネの弟子たちやファリサイ派など、周囲のユダヤ教各派からなされた批判に対して、共同体がイエスの語録を用いて反論し、自分たちの終末的霊的体験を言い表している段落です。それがユダヤ教熱心派と比較しての批判であること、また異邦人信者が断食しないことをユダヤ教徒が批判する理由はないことから、この批判は断食しないユダヤ人のキリスト信仰共同体に向けられたものと考えられます。すなわち、エルサレム共同体をはじめ最初期のキリスト信仰のユダヤ人が、当時のユダヤ教徒には当然の断食を行わなかったことに対するユダヤ教からの批判であり、それに対する反論であることになります。

 ところが、新約聖書には新約聖書時代の共同体が断食をしたことを指し示す記事があります。最初期の共同体の姿を伝える使徒言行録では、熱心な祈りと断食は一組で語られています(一三・二〜三、一四・二三)。また、マタイ福音書では、イエスの弟子は断食をしていることが前提されています(マタイ六・一六〜一八)。これは、ある意味では当然です。最初期の共同体の指導者はユダヤ人でしたし、共同体もその中核はユダヤ人でした。彼らがその信仰生活で、当時のユダヤ教徒には当然であった断食を行ったとしても不思議ではありません。しかし、それはあくまで一部の者(ユダヤ教徒で信者である者)の宗教生活上の習慣であって、原理としては、キリスト信仰共同体は御霊のキリストと一緒に生きる現実から、もはや断食などの宗教規定を必要としていません。パウロは、この原理の中で、ユダヤ人信者の宗教生活上の規定や習慣をどう扱うかに苦心しています。
 最初期の共同体の一部に断食の事実があるので、この但し書きはこの最初期共同体の断食の事実を正当化するために、伝承の過程で加えられた但し書きであるとする学説があります(ブルトマンら様式史学派)。この説は、最初期の共同体では、イエスの十字架の死を記念するのは「主の食卓」と呼ばれる食事であって、断食がイエスの死を記念することはなかったという事実からすると無理があります。金曜日ごとの断食や、復活祭前の聖金曜日の断食が行われるようになったのは、新約聖書時代よりもずっと後のことです。

 もっともこのユダヤ教徒の断食の習慣は、徐々に異邦人共同体にも浸透し、広がっていったようです。第一福音書として尊重されるようになるマタイ福音書が断食を当然としていることや、使徒教父文書の一つとされる「十二使徒の教訓」(ディダケー)が、「あなたたちの断食を偽善者のそれのようにしてはならない。彼らは週の第二日と第五日に断食するのだから、あなたたちは第四日と金曜日にしなさい」としていることなどから、後の時代の教会には敬虔の表現としての断食が行われるようになっていきます。しかしその際、もしこの但し書きが原理的に十字架以後の時代の断食を根拠づける意味に理解され、「だからイエスの弟子は、十字架以後には断食すべきである」というのであれば、花婿が一緒におられるのは地上のイエスの時期だけとなり、先に見たように、それは福音の終末的霊的喜びの使信を台無しにしてしまう危険があります。

 この但し書きの解釈については、もう一つの提案があります。「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています」という問題提起は、ヨハネの弟子からなされたもので(マタイ九・一四)、ファリサイ派のことは後の付け足しであるとした上で、この問いかけを、洗礼者ヨハネが処刑された後、ヨハネの弟子たちはヨハネの死を悼んで断食しているのに、ヨハネの仲間であったイエスの弟子たちが断食しないのはどうしたことか、と言っているのだとする理解です。この問いかけに対して、イエスは婚礼の客の比喩で、イエスの到来は花婿の到来、すなわち終わりの日、成就の日の到来を示しているのだという原理的な宣言によって、今は弟子たちも飲食していることを説明した上で、「花婿が取り去られる日」、すなわちイエスが十字架の死を遂げられる時には、イエスの弟子も、ヨハネの弟子と同じく断食をするであろう、とお答えになったとする解釈です。

 しかし、この解釈をとるにしても、弟子たちがイエスの十字架の死を嘆き断食するのは翌日の一日のことであり、三日目には復活されたイエスに出会って喜びに満たされます。その後は、花婿が一緒にいてくださる婚礼の喜びの日として、断食しないことが原理となります。先に見たように、最初期の共同体はイエスの死を悼むための断食をしませんでした。復活者イエスと共に歩む御霊による喜びが基調となります。

 では、十字架・復活以後の共同体は、断食をどのように位置づけ理解すべきなのでしょうか。現代のわたしたちは、但し書きのイエスのお言葉をどのように理解すべきなのでしょうか。それは、復活者イエスと共に生きる御霊の喜びの中で、十字架をどのように受け取るかという問題に帰すと考えられます。

 そもそも断食は自己否定の表現です。真実の自己否定のないところで、ただ律法の規定だから、あるいは自分の宗教的敬虔を示すために断食するのは、真実の断食ではありません。人間は自分の力で自己を否定することはできないので、そのような断食は実質のない表面的な行為、すなわち偽善に陥り易いものです。すでに預言者はイスラエルの断食の偽善を厳しく責めていました(イザヤ五八・六〜一二)。イエスも断食については人の前にみせびらかす偽善を責め、隠れたことを見ておられる神の前に断食すること、すなわち内面の自己否定を求められました(マタイ六・一六〜一八)。
 キリストに属する者は、花婿と一緒にいる者として、すなわち霊なる復活者キリストと合わせられて生きている者として、もはやユダヤ教徒のように断食することはありません。しかし同時に、その復活者キリストと共に生きる霊的現実は、十字架の場において与えられているものであることを知っています。すなわち、キリストがわたしのために死んでくださったのだから、わたしは死んでいるのだということを知っています。「一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人は死んだことになります」(コリントU五・一四)。わたしは十字架に合わせられて死んだのです。十字架はわたしの否定です。キリストにある者は、キリストの十字架に合わせられて死んだのです(ローマ六・四)。断食が目指している自己否定が、キリスト者の内面で実現しているのです。もはや外の形としての断食は必要ありません。

 このような意味で、「しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる」というイエスの言葉は、花婿と一緒にいる婚礼の客であるキリスト者の中に同時に実現しています。キリストにある者は、この十字架の場で実現している自己否定を、御霊の喜びの中で、地上の生活に現していくことになります。それは、もはや断食という形ではなく、自己否定から出る愛の行為として現れることになります。

 

新しいぶどう酒は新しい革袋に

 イエスは弟子たちが断食しない理由を婚礼の客の比喩で語られましたが、その意義(イエスの弟子たちが断食しないことの意義)を、さらに二つのたとえで語り出されます。一つは継ぎ当ての比喩、もう一つはぶどう酒を入れる革袋の比喩です。両方とも新しい事態が古い体制には納まらないことを語っています。

 イエスはたとえを話されます。「だれも、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう」。(三六節)

 マルコにある同じ比喩と比較すると、マルコでは織りたての布から取った布切れで古い服に継ぎ当てをすると、その新しい布の継ぎ当ては古い服を引き裂き、古い服の破れがいっそうひどくなると、視点は古い服の被害に向けられています。それに対してルカでは、古い服に継ぎ当てをするために「新しい服」から布切れを切り取る愚かさ、またそのような愚かな行為によってもたらされる新しい服の被害にに重点が置かれています。その上で、そのような継ぎ当ては古い服にも合わず、古い服をも駄目にすることが付け足されています。

 この比喩で、「織りたての布から取った新しい布切れ」とか「新しい服」は、イエスの中に来ている新しい御霊の事態を指し、「古い服」はユダヤ教という伝統的な古い宗教体制を指しています。同時にそれは、イエスの弟子たちが今生きている新しい御霊の現実と、彼らを批判するファリサイ派の古いユダヤ教体制を指しています。今イエスの弟子たち(キリスト信仰共同体)が、花婿と一緒にいる喜び、すなわち御霊による復活者キリストとの交わりの現実を、(ユダヤ教会堂が要求するように)断食や安息日規定や食物規定のような古いユダヤ教体制の中に押し込めようとするならば、それは「新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てる」のと同じ愚かな行為であり、キリストの民の御霊の自由と喜びは台無しになり、ユダヤ教体制も内側に爆弾を抱えるように致命的な損傷を受けることになる、と警告しています。

 イエスはさらにたとえを話されます。「また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない」(三七〜三八節)。

 この比喩はマルコにある形とほぼ同じで、実質的な違いはありません。新しいぶどう酒はまだ発酵を続けていて、ガスを出しています。そのようなぶどう酒を、弾力を失い硬化している革袋に入れると、ガスの圧力で革袋が破裂することがあります。新しいぶどう酒は弾力性がある新しい革袋に入れなければなりません。これは、水やぶどう酒を羊の革で作った袋に入れて遊牧した遊牧民の知恵であり、そこから生まれた格言です。

 このたとえは明らかに、イエスによってもたらされた新しい御霊の生命は、それにふさわしい新しい形の中で生きるものであることを宣言しています。それは、もはやユダヤ教律法という古い器、固い殻の中に納まらない生命です。それは、パウロが「わたしたちは文字という古い次元ではなく、御霊という新しい次元に生きるようになるため」(ローマ七・六)と言って、命がけで主張したことでした。イエスの弟子たちがもはや断食しないのは、そのような御霊の次元に生きていることの一つの現れです。

 マルコにおける断食論争はここで終わっています。ところが、ルカは今のぶどう酒の比喩に、さらに一つの諺を付け加えています。
 「また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである」。(三九節)

 ぶどう酒の好きな方は、「古いものの方がよい」と言って、古い年代物のぶどう酒を好まれる方が多いようです。この事実を比喩として用いて、ルカは、イエスによってもたらされた新しい御霊の事態を受け入れようとせず、ひたすら古いユダヤ教体制にしがみつくユダヤ人の態度を批判します。この比喩による批判は、ユダヤ人がユダヤ教に固執することに対してだけではなく、宗教一般に潜む根深い保守性に対する批判でもあります。

 この節は、マルコにも、他のどの福音書にも並行記事はなく、ルカだけの独自の記事です。ルカは長年にわたるユダヤ教会堂との対立を経験して、このような一節を加えないではおれなかったのでしょう。

 

レビの家での宴席の記事

 この断食についての問答は、マルコとマタイではレビの家での宴会とは別の時に起こったと理解できますが、ルカは二つの段落を区切らず、この問答をレビの家での宴会の席で行われたとしています。そこで、(最初にこの区分の構成を見たときに述べたように)弟子団の形成を主題とするこの区分(五・一〜六・一六)で、この二つの段落(段落25と26)だけが《エゲネト》(〜が起こった)という動詞で始まっていないという文体上の観察も加わって、この二つの段落を一体として扱い、この大きな段落(五・二七〜三九)をこの区分の中心記事と見る注解者もあります。どうしてもそう見なければならないほどの強い必要はありませんが、この見方はこの一つにまとめられた大きな段落が、新しく形成されたイエスの弟子たちの共同体《エクレーシア》が古いユダヤ教体制といかに違うかを、またその理由を要約して提示していることになるので、弟子団の形成と性格を語る区分の中核記事として見ることができるという利点があります。

 レビが弟子として召された記事は、ペトロの召命(五・一〜一一)や十二人の選び(六・一二〜一六)とすこし性格が違うようです。ペトロや十二人は、福音宣教と共同体指導のために選ばれて召された者の記事ですが、レビの場合はそのような性格の記事ではなく(レビは十二人の中に含まれません)、徴税人や罪人がイエスの仲間として迎え入れられたことを示す典型的な出来事として語られています。そして、その宴席での出来事として、イエスの弟子の共同体がそのような人たちを迎え入れる理由を語ることによって、この共同体がいかに古いユダヤ教諸派とは違っているかを示す記事になっています。

 弟子団の形成を語るこの区分は、レビの家での宴席の記事を中心に、その前にペトロの召命と二つのいやしの記事、その後に二つの安息日についての論争と十二人の選びの記事を置く前後対称形の構成を見せることになります。そして、それは弟子団形成の経緯を語るだけでなく、同時にイエスの弟子の共同体がこれまでのユダヤ教と違う原理で形成される共同体であることを宣言する重要な区分になります。むしろ、重要なのはこの共同体の特質を語る面です。わたしたちはこの区分の記事から、福音に生きるキリストの民が、これまでのユダヤ教やその他の宗教体制からはいかに違った原理に生きる民であるかを学び知ることになります。


 

27 安息日に麦の穂を摘む(六・一〜五)

 

ユダヤ教における安息日

 レビの家での宴会の記事に続いて、ルカはマルコに従い、二つの安息日に関する論争を置いています。マルコは第一章でガリラヤでのイエスの宣教活動の開始を語った後、すぐに第二章でイエスの活動がユダヤ教律法学者と衝突して引き起こした激しい論争をまとめていました。先に見たように、ルカは段落の位置を変えることによって、その区分を弟子団の形成を主題とするまとまりにしていますが、その内容がユダヤ教律法学者との激しい論争であることには変わりはありません。とくに安息日に関する衝突は、それがイエスを死に追い込む直接の原因となる重大なものですから、その内容をやや詳しく見ておきましょう。

 「安息日を覚えて、これを聖とせよ」という規定は、ユダヤ教の律法の中で最も根本的な律法である「モーセの十戒」の中の一つです。その内容は「六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるからなんのわざもしてはならない」というものです(出エジプト記二〇・八〜一〇)。この律法は「殺してはならない」という律法と同じ重さの律法であって、これを犯す者は死をもって罰せられると律法に明記されています(出エジプト記三一・一二〜一七)。

 実際に死刑が行われたのかどうかは問題にされています。しかし、このような明文規定があるという事実は、イスラエルの民が安息日規定の順守をいかに真剣に受け止めていたかを示しています。最近の研究では、バビロン王がエルサレムの攻城を始めた「第十の月の十日目」(エゼキエル二四・一〜二)は安息日であったとされています。その他、アッシリヤの王やバビロンの王が、イスラエルが安息日には行動できない規定を利用して軍事攻撃をしかけたことが証明されています。マカベヤ戦争の前、イスラエルが安息日に異教の軍勢の攻撃を受けた時、信仰深い民は安息日を守るために武器をとって戦うことを拒み、全滅したこともありました(マカベヤT二・三二〜三八)。

 安息日の順守がこれほど真剣に考えられていたのは、安息日は主ヤハウェの日であって、代々にわたって「ヤハウェとイスラエルとの間の契約のしるし」とされていたからです(出エジプト記三一・一二〜一八)。安息日を守る者がヤハウェの民であり、安息日の規定を守らずこれを汚す者は、ヤハウェとの契約を破る者とされました。ラビ・ユダヤ教では、安息日はユダヤ人だけのために制定された制度であり、安息日順守とユダヤ人のアイデンティティーは同じと考えられていました。

 安息日制度の起源とかその発展の歴史について触れることはできませんが、捕囚後に律法(モーセ五書)が正典として成立して、安息日の律法も最終的な形で確立した後も、社会や生活の具体的な状況においてどのようにすれば「いかなる仕事もしてはならない」という安息日の律法を守ることになるのか、安息日を汚さないためにはどうすればよいのかが律法学者たちによって討論され研究されて、多くの細かい規定が生み出されていきました。このような規定の集積を、ユダヤ教では「ハラハー」(または「ハラカ」)と呼んでいます。イエスの時代のユダヤ教においては、「安息日にしてはならないこと」を定めた禁止「主要労働表」が三九項目もあって、日常生活の隅ずみにまで及び、その各項目にさらに細かい禁止規定が加えられる傾向が続いていました。

 

イエスと安息日

 イエスは一人のユダヤ教徒として、安息日ごとに会堂の礼拝に加わり、同胞のユダヤ人と一緒に聖書を朗読し、祈りを捧げておられました。ところが、この安息日の順守の仕方について、イエスと律法学者たちの間に激しい論争が起こるのです。この論争は各福音書に伝えられていますが、ルカもこの区分において、マルコに従い二つの安息日論争をおいています。そのうちの一つが、この段落の麦畑での論争です。

 ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれたとき、弟子たちが麦の穂を摘み、手でもんで食べます(一節)。ユダヤ教律法では、他人の畑で鎌を使うことは禁じられていますが、麦の穂を手で摘んで食べることは許されています(申命記二三・二六)。これは、貧しい人たちに落ち穂を拾って持ち帰ることが許されているのと同じ人道的な配慮から出た規定です。ところが、これを見たファリサイ派のある人々が、「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか」と言って咎めます(二節)。これは、弟子たちが麦の穂を手でもんだことが、安息日にはしてはならないとされている脱穀の仕事に相当するからです。律法学者たちが集積してきた解釈では、食べ物を調理する動作についても、・・・・などは、安息日にしてはならない労働として禁止されていました。麦の穂を手でもむことは、この禁止規定に含まれていたわけです。

 ここで注目されるのは、イエスの行動や教えを監視するためにエルサレムからガリラヤまで来ている律法学者たち(五・一七)が、イエスが町を出て畑の中を通って歩いて行かれるときもついて来ている事実です。これは、先にも見たように、イエスがすでにエルサレムの神殿で過激な象徴行為をなさっていたので、イエスがどこに行かれるときも、イエスを訴える口実をつかむための厳しい監視が行われていたことを示しています。

 安息日に歩くことが許されている距離も二〇〇〇キュビト(約九〇〇メートル)と決まっています。律法学者たちがそのことを問題にしていないところをみると、この点の違反はなかったのでしょう。律法学者たちも同じ距離を歩いているのですから。ところが、麦の穂を手でもんだことが、律法学者たちの口伝伝承(ハラハー)では収穫作業になるとして問題とされます。イエスもそのハラハーの規定は十分知っておられたはずです。また、日が暮れて安息日が終わる夕方まで待っても飢え死ぬほどの状況でもなかったはずです。イエスは監視の律法学者がついて来ているのを知りながら、弟子たちが麦の穂を手でもむのを止められませんでした。イエスは意識的にユダヤ教のハラハーに挑戦しておられるように見られます。

 律法学者の「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか」という詰問に対して、イエスはお答えになります。
 「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを取って食べ、供の者たちにも与えたではないか」。(三〜四節)

 これはサムエル記(上二一・一〜六)に記されているダビデの行動です。イエスはこれを引用して、弟子たちの行動は律法違反ではないと、弟子たちを擁護されます。しかしこれは、正当防衛の理論のように、人は生存を脅かされるような緊急事態においては、律法違反も許されると主張しているのではありません。そうであれば、それは律法学者たちの「律法の支配」の枠の中の論争となります。病気の治療行為でも災害に対処する行為でも細かく禁止行為を定めたハラハーも、命にかかわる事態の場合にはそのような規定に違反する行為も認めていました。イエスがダビデの実例を引用されるのは、律法の本来の意義を示して、ユダヤ教の「律法の支配」を乗りこえるためです。

 

共観福音書間の異同

 律法学者の「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか」という詰問に対して、ダビデの行動を一つの実例として引用した上で、イエスは安息日とは本来何であるかを指し示す言葉を語られます。マルコ福音書では、こういう言葉で伝えられています。

 「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。このように、人の子は安息日にもまた主なのである」。(マルコ二・二七〜二八)

 この語録の前半、「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない」という言葉は、ダビデの行動を意義づけるのにぴったりの言葉です。神が安息日の制度を律法として定められたのは、人間を祝福するためであって、人間を安息日制度の道具としてお造りになったのではないのです。もしダビデが律法の規定に従って「祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパン」を取って食べず、供の者たちにも与えなかったら、ダビデと一行は飢えで滅んでいたことでしょう。そうなることは神の御旨ではありません。神が様々な律法の規定を民にお与えになったのは、人間を祝福するためであって、その規定に縛り付けて、人間をその規定の奉仕者とするためではありません。ダビデの場合は安息日のことではありませんが、総じて律法とはそういう性格のものだから、安息日律法についても、「人の子(人間)が安息日の主人(目的)である」と言えることになります。マルコ福音書の言葉は、ほぼこのように理解できます。

 ところが、律法の立場からすれば、このダビデの行為を論拠とする議論には弱点があります。ここで律法学者が弟子たちの行動を非難したのは、空腹に迫られて他人の畑の麦の穂をつんで食べたという行為ではなく(それは律法で許されている行為です)、穂をしごくという安息日には許されていない労働をした点にあるからです。それに、ダビデの行為は安息日のことではありません。ダビデの行為を論拠とする議論は、批判に答えていないという再批判が出ることになります。

 自ら律法学者としての素養のあるマタイは、この議論の弱点を理解していたのでしょう。マルコの議論を補って再構築しています(マタイ一二・三〜八)。マタイは、マルコと同じくサムエル記からダビデの行動を引用した上で(そのさい「大祭司アビアビアタル」という不正確な句を削除しています)、「安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか」という言葉を入れて、ダビデの行動を安息日に関連づけています。神殿で仕える祭司は、通常であれば安息日には許されない労働行為をすることが認められています(民数記二八・九〜一〇など参照)。そうした上で、「言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある」と言って、「神殿よりも偉大なもの」(中性名詞で、イエスと共に到来している神の支配の事態)に仕える弟子たちは、神殿で仕える祭司以上に、安息日規定に拘束されていないとします。

 マタイはさらに預言者からの論拠を加えます(律法と預言者の両方を論拠とするのはラビの議論の通例です)。マタイがここに引用するホセア(六・六)の預言、「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」は、すでに徴税人たちと食事を共にされるイエスに対してなされた批判に応えるときに引用されていました。マタイは、この預言者の言葉の意味を理解しておれば、安息日の細則を守るために人間に犠牲を要求し、本来「罪のない人たちをとがめる」過ちを犯さなかったであろうと、律法学者たちの律法主義を非難します。

 このように律法解釈の立場からする議論を進めたマタイは、マルコにある「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」という、律法規定をまったく問題としないイエスの革命的な精神を現す語録を入れることにためらいを感じたのか、この語録を削って、「人の子は安息日の主である」だけを結論として置きます。

 ところが、律法問題とは遠いところにいるルカも、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」という重要な言葉を入れず、マタイと同じく、「人の子は安息日の主である」だけを結論としています。ルカは、マルコにあるこの言葉を見ていながら削除したのでしょうか。マタイの場合は削除した可能性も考えられますが、ルカの場合は削除の可能性は低いと考えられます。このようなルカの人間重視の傾向にぴったりの重要な語録を、ルカが意図的に削除したとは考えられません。

 だいたいイエスの語録は、付け加える傾向はあっても、資料にある語録を意図的に削除することは考えにくいことです。それで、マタイとルカが依拠したマルコ福音書は、現形のマルコ福音書ではなく、それ以前の形(原マルコ福音書)であり、そこには「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」という言葉はなかったのではないか、という推定がなされることになります。もしそうであれば、現形のマルコ福音書は、マタイやルカが用いたものに後からこの言葉が加えられたことになります。

 マルコの場合、「このように」という語で続く「人の子は安息日にもまた主なのである」という語録の「人の子」は、自然に先行する語録の「人」と同じ意味で理解され(アラム語では「人の子」は人と同じです)、人間こそ安息日制度の主人であり目的であるという意味に理解できます。それに対して、「人の子」を黙示思想的なメシア称号として用いるQ運動(「語録資料Q」を生み出したユダヤ人の信仰運動)の流れに属するマタイは、この語録を、黙示文書がいう終末的な「人の子」であるイエスこそ安息日律法を支配する主人であるという意味にしています。

 おそらくイエスご自身はアラム語で人という意味で用いられた「人の子」という表現が、最初期の共同体でギリシア語で伝承され、それがユダヤ教会堂との対論で黙示思想が待望する終末的な「人の子」という意味で用いられるようになった消息については、先に足の麻痺した人のいやしの記事の講解で見た通りです(前号21頁)。

 ルカはQ運動に属しているわけではありませんが、パレスチナで成立した「語録資料Q」を主要資料として用いていますので、この「語録資料Q」での「人の子」の意味と用例で用いられることになり、マタイと同じく、イエスが終末的審判者・救済者としてユダヤ教律法を超える方であるという主張になっています。

 もともとイエスの働きはすべて神の霊によるものですから、イエスが安息日律法を破るような振舞いをされるのも神の霊に駆られてされることです。御霊の働きは人間の律法解釈の集積である安息日規定に拘束されないのです。マタイやルカの場合、「人の子は安息日の主である」という言葉は、このような御霊の人であるイエスの立場を宣言する意味なのでしょう。「わたしは安息日の主である」という御霊の人イエスの宣言(アラム語で「人の子」は「わたし」を指す用例もあります)が、「人の子」というギリシア語で伝承され、ユダヤ教との論争で用いられたため、ユダヤ教黙示思想の「人の子」と重なって、問題が複雑になっているという面があります。

 

安息日の本質

 では、安息日とはそもそもどういう制度、何のための制度なのでしょうか。旧約聖書に遡って見ることにしましょう。
 七日目に仕事を休むという習慣ないし制度はモーセ律法よりも古いものであって、おそらく悪霊が跳梁する日である七日目には農作業を休んで、収穫に悪影響が及ぶことを避けた古代の農耕社会の制度であったと言われています。それがイスラエルにおいては、ヤハウェとイスラエルとの契約関係の基礎となる制度として、モーセ律法に取り入れられることになります。ヤハウェとイスラエルとの契約関係の根本規定である「十戒」にも歴史的進展が見られますが、その中で重要な申命記典のものと祭司典のものとを較べてみましょう。

 申命記典の「十戒」(申命記五・一〜二二)では安息日はこのように規定されています。

  「あなたがたはかってエジプトの地で奴隷であったが、あなたの神ヤハウェが強い手と伸ばした腕とをもって、そこからあなたを導き出されたことを覚えなければならない。それゆえ、あなたの神ヤハウェは安息日を守ることを命じられるのである」。(一五節)

 前後の文脈からすれば、これは奴隷たちにも休息を与えるように、イスラエル自身がエジプトで奴隷であったことを思い起こさせるためのものですが、そのことは同時に、イスラエルが奴隷の境遇から救い出されたのはただヤハウェの働きによるのであって、人間の側の働きは何もなかったという事実を思い起させます。「それゆえ」、安息日を守るのは自分たちが贖われてヤハウェの民として存在しているのは、ただヤハウェの働きによるのであって自分の働きは何もないことを確認し、ヤハウェだけを讃め讃えるためです。すなわち、安息日はヤハウェの一方的な贖いのみ業を祝う祝祭の日であると言えます。
 ところで、モーセ律法の最終段階をなす祭司典の「十戒」(出エジプト記二〇・一〜一七)では、

  「ヤハウェは六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それでヤハウェは安息日を祝福して聖とされた」。

と意義づけられています。すなわち、安息日は創造の完成を祝う祝祭です。ここでも人間は自分の手の業をいっさい休んで、ただ神の創造の業によって自分と世界が存在することを喜び感謝し、同時にやがて終末の時には神の創造の業が完成して、栄光の中に顕れることを讃め讃えるための制度です。

 このように、安息日は本来まことに喜ばしい神と人との祝祭の日です。創造と贖いと完成を祝う喜びの日です。神はそのように、人間が神の前に自分の存在を喜び祝う日として安息日を定められた。まさに「安息日は人のためにある」のです。それがいつの間にか変質し、イエスの時代のユダヤ教においては、「これはしてはならない。あれはしてはならない」という規則に人間が縛られる日になってしまっていました。人間は安息日の規定を満たすための素材とか道具のように扱われるようになっていました。どうしてこのような倒錯が起こったのでしょうか。

 それはイスラエル(神の民)が神との契約関係に正しく留まっていなかったからです。ヤハウェはアブラハムの子孫をエジプトの奴隷の家から救い出して御自分の民とされました。彼らが神の民となったのは、彼らにそうなるだけの価値があったからではなく、ただヤハウェが彼らを選ばれたからであり、ただヤハウェの働きによって解放されたからです。すなわち、神との関わりはひたすら神の恩恵に基づいているのです。契約の条項である「十戒」もこの無条件の恩恵の中で与えられています。それは、「あなたがたはわたしの恵みによって選ばれ、救われてわたしに属する民となったのであるから、このようなことはしない」という恩恵の言葉です。ところが、イスラエルはその「十戒」とそれに基づくすべての律法を、それを自分が行うことによって神との関係を造り出す手掛りに変えてしまったのです。それはすべてのことにおいて、神との関係においても自分が主人になろうとする人間本性から起こった悲劇です。安息日の規定も例外ではありません。本来神の恩恵によって人間の喜びのために賜った祝祭の日を、「仕事をしない」という定めを守ることによって神との関係を確立する努力の日にしてしまい、それを破る者への処罰を恐れて「これはしてはならない。あれもしてはならない」という細かい規定に縛られるようになったのです。

 このような状況において、イエスの「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない」という言葉はまことに革命的です。イエスは当時のユダヤ教が求めているような律法順守はもはや必要ではない、と言っておられるぬです。イエスの中では、すでに安息日が成就しているのです。律法を行うのとは全く別に、賜った聖霊により神との交わりが実現し、イエスの中では創造・贖い・完成の祝祭がすでに祝われているのです。聖霊によりイエスの中に到来している「神の支配」の現実は、律法の細則順守を要求するユダヤ教に対する挑戦とならざるをえません。

「このように、人の子は安息日にもまた主なのである」。

 人間が安息日のために造られたのではありません。人間のために安息日の制度が定められたのです。そうであるならば、終わりの日に人間が本来の姿に回復される時、人間はもはや安息日律法に縛られた奴隷ではなく、安息日の定めを自分の内に成就している者となり、その主人となります。イエスは、このように終わりの日に出現する新しい人間を先取りし代表する者として、ご自身を「人の子」と呼ばれるのです。共同体はイエスを「人の子」として、安息日の主と宣言するのです。「人の子」イエスは、聖霊による神との交わりの中で、すでに「安息日の主」になっておられます。しかしこれはイエスだけのことではありません。やがてイエス・キリストあって贖われ、同じ聖霊の現実に生きるようになる新しい人間すべてに成就することです。今や人間は、キリストにあって、創造と贖いと完成の喜びの祝祭である安息日を毎日祝うことができます。それをどのように表現するかは人間の自由です。もはやユダヤ教の規定には縛られていません。人間は安息日の主人です。

 キリスト教会はユダヤ教の安息日(土曜日)を廃して、イエスが復活された週の第一日(日曜日)を「聖日」として祝うようになりました。ユダヤ教では安息日の定めを守ることが神の民のしるしとされていたのですから、この事実は最初期の共同体がユダヤ教とはっきりと訣別したことを示しています。イエスが安息日の律法に対して語られた言葉が事実となって実現しました。現代の教会は、このことの意義をしっかりと保持していなければなりません。もし教会が「これをしてはならない。このような教会活動をしなければならない」というような形で「聖日を守る」ことを要求するならば、それは人間を再び律法の奴隷にすることになります。


 

28 手の萎えた人をいやす(六・六〜一一)

 

監視する律法学者たち

 麦畑での安息日論争に続いて、ルカはマルコの順序に従い、手の萎えた人のいやしの記事を置きます。この記事は、基本的にはマルコと同じですが、細かい点では違うところもあります。

 ほかの安息日に、イエスが会堂に入って教えておられたとき、そこにその右手が萎えている一人の人がいました(六節)。マルコでは「片手の萎えた人」ですが、ルカは利き手である「右手の萎えた人」にして、その人の苦しみを具体的にしています。病人や障害者のいるところでは、そのような人たちをいやされるイエスの日頃の働きを知っている「律法学者たちやファリサイ派の人々」は、イエスが安息日にも病気をいやされるかどうか、注目してイエスの言動を見つめます(七節)。マルコではただ「人々は注目していた」ですが、ルカは「律法学者たちやファリサイ派の人々」が注目していたと明言しています。そのような人たちがイエスの言動を監視するためにエルサレムから来ていたことの意義については、すでに述べました(前号18頁)。

 彼らが成り行きを見つめるのは、イエスを訴える口実を見つけるためです。病人を治療する行為も一種の仕事ですから、口伝律法の細則(ハラハー)では原則として「安息日にしてはならないこと」とされていました。ただ生命にかかわる緊急の場合には例外として認められていました。この人の場合は明らかに緊急の場合ではありません。もしイエスがこの人をいやす働きをされたならば、それは明らかに安息日の律法を破る行為であり、民衆に律法違反を唆す異端の教師として最高法院に告発することができます。

 イエスの言動を監視するために会堂に来ていた律法やファリサイ派の人たちの思いを見抜いて、イエスはあえて挑戦されます。イエスは片手のなえたその人に、「立って、中に出てきなさい」と言われます。その人は身を起こして立ち、人々の前に出て来ます(八節)。その人を前に立たせて、イエスは彼ら律法学者やファリサイ派の監視団に向かって言われます。

 「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか」。(九節)
 病人を癒すことは命を救うことの一つの現れであり、いつも善です。それに対して、行うべき善があるのに行わないのは悪であり、救うべき命を救わないのは、その命を滅ぼすことであり、悪です。いま目の前にいる病人をいやして命を救うことと、それが安息日の律法(じつは人間の言い伝えに過ぎないのであるが)で禁じられている行為であるからといって見過ごしにすることとでは、いったいどちらが真に律法にかなうところ、すなわち神が求めておられるところ、神が喜ばれるところであるか、とイエスは病気で苦しんでいる人を目の前に立たせて批判者たちを問い詰められます。

 

善と悪

 ここで本題から少し外れますが、「善と悪」の問題に触れておきます。ここでイエスが、「善を行うこと」と「命を救うこと」を、「悪を行うこと」と「(命を)滅ぼすこと」を等置しておられることが注目されます。善とは何か、悪とは何かという問いには、実に様々な答えがなされています。見る人の立場と視点によって、その問いへの答えは違ってきます。しかし、命を救うことは善であり、命を滅ぼすことは悪であるという答えは、どのような宗教や文化の中にいる人にとっても、どのような立場の人にとっても納得できる答えです。それは、いかなる人間にとっても、命は最高のもの、価値の源泉であるからです。命が十分に生きることを妨げる障害から救い出し、命が十全に生きるように助けることは善であり、命が生きることを妨げ、ついには命が滅びるように仕向けることは悪である、ということは万人の同意をえることができるでしょう。

 神は善なる方であり、善をなされます。善だけを行われます。神は「完善」なる方、すなわち絶対無条件に善をなす方です。神のいのちを受けて、神の子として歩まれたイエスは、この神の完善を生きたかたです。このイエスにとって、人間が作り上げた律法の細則が善を行うのを妨げることはできません。イエスはあえて安息日の律法を破って善を行われます。

 イエスは弟子たちにも完善を求められます。イエスが「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全でありなさい」と言われるとき、その「完全」は、「だから」という言葉が指し示しているように、この言葉に先行する「敵を愛し、迫害する者のために祈る」とか、「悪人にも善人も太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる父」のように、無条件絶対の善を行うこと、すなわち完善を指しています(マタイ五・四三〜四八)。

 パウロもキリストにあって生きる者に、「悪を憎み、善から離れず、・・・・悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように、・・・・悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」と勧めています(ローマ一二・九〜二一)。その箇所の講解で書きましたように、ここでの善と悪は、哲学的に定義する必要はなく、ここで見たような「命が十分に生きることを妨げる障害から救い出し、命が十全に生きるように助けることは善であり、命が生きることを妨げ、ついには命が滅びるように仕向けることは悪である」という実践的な定義で十分でしょう。そのような悪は、たとえ悪をなされた場合でも、その悪への対抗として悪をなすことなく、善だけをなすように使徒は求めています。すなわち「完善」を求めています。

 ここで、律法を破っているように見えるイエスが、実は神が求められる善を行うことによって律法を満たしておられるのです。愛から出る完善は、律法を満たします(ローマ一三・一〇)。それに対して、安息日律法を絶対化してイエスを違反者として訴えようとしている律法学者たちは、イエスに殺意を抱くことによって、殺人という最大の悪をなしているのです。彼らがイエスに対して殺意を抱いたことは、この段落の最後(とくにマルコの並行記事)に明言されています(後述)。

 

律法学者たちの殺意

 そこでイエスは、「彼ら一同を見回して」、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われます(一〇節前半)。ルカはただ「彼ら一同を見回して」とだけ書いていますが、この時のイエスの様子をマルコは次のように伝えています。

 「そこでイエスは怒りをもって彼らを見回し、その心のかたくななことを深く悲しみ」、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われます(マルコ三・五)。
 福音書が「怒り」とか「悲しみ」というようなイエスの感情を描くことはごく稀です。マルコの描写は、おそらくその場に居合わせて、イエスの感情の動きを察知した弟子たちによって語り伝えられたものでしょう。このイエスの怒りと悲しみは、かたくななイスラエルに対して預言者たちを通して示されていた神の怒りと悲しみと同質のものです。かたくなに主に背き続けるイスラエルの民に、アモスやイザヤは主の怒りと裁きを告げ、ホセヤやエレミヤは背く者を受け入れようとされる主の憐れみと悲しみとを体験して語りました。そのような主のしもべたちを殺してきたイスラエルは、今最後に遣わされた神の御子に殺意をもって対しています。イスラエルのかたくなさは頂点に達し、神の怒りと悲しみも極限にきているのです。それがイエスの怒りと悲しみとに反映していると見られます。

 ルカやマタイは、マルコに基づきながら、イエスの感情など細かい状況は省略して、奇跡の事実だけを伝える傾向があります。ここでもルカはイエスの感情には触れず、ただイエスが「手を伸ばしなさい」と言われ、その人が言われたようにすると、手は元どおりになったという奇跡の事実だけを伝えます(一〇節後半)。

 この奇跡を目の当たりに見て、一般の民衆は驚き、神を誉め讃えたことと思われますが、ここではもはや民衆の驚嘆は当然として書かれることなく、ここで決定的となった律法学者たちのイエスに対する殺意がこの段落の結びとなります。マルコははっきりと彼らの殺意を明言しています。
 「ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人たちと一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた」。(マルコ三・六)

 マタイは、「ヘロデ派の人たちと一緒に」を削除していますが、同じ文言で彼らの殺意を明言しています。ところが、ルカは「彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った」と書いています(一一節)。ルカでは「祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀った」と明言されるのは、イエスが最後の過越祭のとき、神殿で商人を追い出すなどの過激な象徴行為をされた時が初めてです(一九・四七)。ルカは、律法学者たちは初めからイエスを殺そうとしたのではなく、律法に対するイエスの態度に疑念を抱き、イエスの律法違反を唆すような行動が重なるに従って、告発などの対応を考えるようになり、最後に神殿でイエスの側から指導層に対する過激な告発が行われるに至って殺意を固めた、という過程を見ていたと理解することもできます。

 しかし、これまで見てきたように、神殿での過激な象徴行為がイエスのガリラヤ伝道以前の初期に行われていたとすれば(これが事実であると見る方が順当です)、エルサレムから派遣されていた律法学者たちの監視団が、イエスの確信犯的な安息日律法違反の言動を見て、イエスに対する殺意を固め、その実行方法を相談し始めたとしても不自然ではありません。マルコの記事は十分歴史的事実として受け取ることができます。

 マルコは、「ファリサイ派の人たちは出ていって、すぐにヘロデ派の者たちと、なんとかしてイエスを殺そうと相談を始めた」と書いています。ファリサイ派の者たちにとって、どのような目覚ましい奇跡を行う者も、律法(律法学者たちが定めた口伝律法の細則も含めて)を守らない者は異端者であり、イスラエルの民に律法を破るように計画的に扇動する教師は「背教の説教者」として最高法院に告発して処刑すべき者でした。そうすることが、律法に忠実なユダヤ教徒の義務でした。ただガリラヤではイエスは多くの民衆に慕われ支持されていますから、下手に扱うと、それでなくても反ローマ運動やメシア運動が多発する不穏な情勢のガリラヤに暴動の火種を持ち込むことになりかねないという心配からでしょう、彼らも直ちに行動を起こすことはできなかったようです。それで「ヘロデ派の者たち」と、どうすれば民衆を刺激することなくイエスを殺すことができるか、その方法を相談し始めたと考えられます。

 

福音書の二重性

 この区分(五・一〜六・一六)は、形式からすると、最初と中間と最後に弟子の召命の記事を置き、弟子団の形成を主題とする区分となっていますが、実質は、その弟子たちによって形成される新しいキリスト信仰の共同体が、古いユダヤ教体制といかに違う次元のいのちに生きているかを提示する部分になっています。それがイエスと律法学者たちとの対立として描かれています。

 この二重性、すなわち、一つの記事においてイエスの出来事と共同体の体験とが重なって描かれているという二重性は、福音書の性格から必然的に出てくるものです。それは、福音書はイエスの出来事を世に伝えるための単なる伝記ではなく、イエスの出来事を語ることによって復活してキリストとされたイエスを世に告知する文書であるからです。その告知をする共同体の現在の体験と状況が、イエスの出来事を語るときに重なって出てくることは避けられません。この区分においても、イエスの名による罪の赦し、罪人と呼ばれる人たちの受容、もはや断食をしない事実、安息日(土曜日)ではなく「主の日」(日曜日)を守る習慣など、ユダヤ教会堂との激しい論争の中で確立してきた共同体の在り方が、イエスと律法学者たちとの対立を描くさいに影を落としています。

 しかし、福音書はイエスの出来事の事実から離れることはありません。物語の枠組みとか語り方には福音を提示するという目的が染みこんでいますが、素材はあくまでイエスの生涯の事実です。この区分においても、福音を告知する共同体の主張が響いていますが、その中にイエスの生涯の事実が伝えられています。イエスは、ここに見られるように、ガリラヤ伝道の初期からユダヤ教体制と対立し、その体制を代表する者たちからの殺意にさらされ、ついには十字架の死に至るのです。エルサレム神殿におけるあの過激な象徴行為がガリラヤ伝道に先立つ初期に行われたとするならば(それが事実であると見ざるをえません)、イエスのガリラヤ伝道は、以前よく言われたような、のどかな「ガリラヤの春」ではなく、初めから厳しい監視の目と殺意にさらされる激しい戦いの日々であり、イエスの働きの最後の局面をなす時期となります。


 

29 十二人を選ぶ(六・一二〜一六)

 

十二人選出の経緯

 マルコは、安息日のいやしの記事の後に、「海辺の群衆」と呼ばれる段落(マルコ三・七〜一二)を置き、その後に「十二人」の選びの記事を置いています。ルカはその順序を変えて、安息日のいやしの記事の後にすぐ「十二人」の選びの記事を置き、その後にマルコの「海辺の群衆」に相当する段落(六・一七〜一九)を、いわゆる「平野の説教」の導入部として置いています。したがって、この「十二人を選ぶ」という段落は、弟子団の形成を主題とする区分の最後に位置することになり、その区分の締めくくりとなります。

 マルコはこの出来事を、「さて、イエスは山に登り、ご自分が望んでおられた者たちを呼び寄せられたので、その人たちはみもとに来た」とだけ書いています(マルコ三・一三)。ルカはそれをもう少し詳しく、「そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた」と伝えています(一二〜一三節)。ルカは、イエスが山に登られたのは祈るためであり、「神に祈って夜を明かされた」と、十二人を選ぶにあたってイエスがいかに真剣に祈られたかを強調しています。これは、祈りを重視するルカの傾向が現れていますが、それ以上に、十二人の選任がイエスにとっていかに重大なことであったかをうかがわせます。

 夜明けになって、イエスはお心にかなう者を呼び寄せられます。早朝の山の霊気の中で、徹夜の祈りから立ち上がられたイエスの周りに、選ばれた十二人の弟子たちが集います。これは、シナイ山から下りてきたモーセをイスラエルの民が迎えた時以上に厳粛な時であると言えるでしょう。

 ここでマルコ(三・一四)は、イエスは「十二人」を「創設された」と書いています。この文で用いられている動詞は、このような場合に期待される「任命する」とか「選任する」という動詞ではなく、「造る」という動詞《ポイエーン》です。ここで行われたことは、十二人という数の弟子が何か既存の役職に任命されたということではなく、新しい共同体が創造されたのです。ちょうど新しい事業を行うために新会社が設立されるように、新しい使命を担う新しい共同体が創設されたのです。それに対してルカは、ただ「選ばれた」とだけ書いています。この新しい共同体は「十二人」と呼び慣わされるようになります。

 マルコ(三・一四〜一五)は、この「十二人」が創設されたのは、「それは彼らをご自分と一緒におらせるためであり、また宣教に遣わし、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった」と、その目的とか使命を明記しています。それに対してルカは、ただ「使徒と名付けられた」とだけ書いて、その役目については具体的には何も書いていません。マルコの記述は、実際にイエスが十二人を選任された時の状況が反映していますが、ルカはもはやその状況には関心がなく、この十二人が最初期の共同体で「使徒」として活動した事実だけに関心が集中しているので、後で第二部として書く「使徒言行録」に登場する「使徒」は、このようにしてイエスに選ばれたのだ、とその選出の経緯を語るだけになっています。

 

選ばれた十二人

 こうして選出された十二名の弟子たちの名前が列記されます。

 「それは、イエスがペトロと名付けられたシモン、その兄弟アンデレ、そして、ヤコブ、ヨハネ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、熱心党と呼ばれたシモン、ヤコブの子ユダ、それに後に裏切り者となったイスカリオテのユダである」。(一四〜一六節)

 比較のためマルコ(三・一六〜一九)があげているリストを並べておきます。

 「まずシモンにはペテロという名をつけられた。ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち『雷の子ら』という名をつけられた。さらに、アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、カナン人シモン、それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである」。

 最初に「イエスがペトロと名付けられたシモン」があげられているのは、ルカもマルコと同じです。「十二人」の名があげられるときには、いつもこのシモン・ペトロが筆頭者としてあげられています。これは、十二人のことを語る福音書伝承が成立するころには、全共同体のトップとしてのペトロの権威が確立していたことを示すのでしょう。

 彼のヘブル名は「シメオン」ですが、ギリシア音読みで「シモン」と呼ばれていました。「バルヨナ」と呼ばれている(マタイ一六・一七)ことから、ヨナの子(あるいはヨハネの子)であることがわかります。「十二人」のひとりアンデレの兄弟であり、ガリラヤ湖の東北岸ベッサイダ出身の漁師でした。イエスと出会ったときにはカファルナウムに住み、すでに結婚していて妻があり、おそらく子供もいたと考えられます。

 バプテスマのヨハネが宣教を開始した時、兄弟のアンデレと一緒に馳せ参じて、ヨハネの弟子になります。そしてヨハネのもとにいる時、アンデレに紹介されてイエスに出会います。その時すでに、イエスは彼に「ケパ」という名(アラム語で岩の意)を与えておられます(ヨハネ一・三五〜四二)。このアラム語にあたるギリシア語が「ペテロ(岩)」であり、これが後に彼の呼び名として最もよく用いられるようになります。その後ガリラヤに帰って漁師をしていた彼を、アンデレと共にイエスが弟子として召されることになります。マルコの記事では、イエスが彼を十二人団の一人として召されたときに、ペトロという名をつけられたことになりますが、ヨハネ福音書では洗礼者ヨハネのところで出会ったときにペトロと名付けておられます。ルカは名付けられた時期にふれないで、イエスがその名をつけられた事実だけを伝えています。

 次にアンデレが来ます。アンデレはペテロの兄弟であり、ペテロと一緒に召されています。彼はペトロよりも先にイエスを知り、ペテロをイエスのもとに導いた重要な人物ですが、マルコは、イエスのもっとも内輪の弟子団を形成し、最初期共同体で最高指導部となったペテロ・ヤコブ・ヨハネの三人のグループを初めにあげるためか、アンデレの名を四番目に置いています。しかし、ルカはペテロの兄弟として、ペトロのすぐ次に置いています。マタイも同じです。

 ルカでは、ペトロとアンデレの兄弟の後に、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネがあげられています。この二人の兄弟も、シモンとアンデレと同じくガリラヤ湖の漁師であり、同じように召されています(マルコ一・一九〜二〇)。彼らの父ゼベダイは雇い人もいるかなりの資産のある家であったと推察されます。彼らの母は、「ゼベダイの子らの母」として、イエスの十字架のもとに立っていた数人の女性の中にいますが、その記事(マルコ一五・四〇、マタイ二七・五六、ヨハネ一九・二五)の比較から、彼女はイエスの母マリヤの姉妹であって、この二人がイエスの従兄弟になる可能性があります。また、彼らがペテロやアンデレと一緒にバプテスマのヨハネの弟子になっていた可能性はありますが、その記録はなく、確認できません。マルコでは、この二人には「ボアネルゲ」という呼び名が与えられています。この名はアラム語の崩れた形で正確な意味はわかりません。マルコはこれを「雷の子」と解して伝えています。これはおそらく彼らの気性の激しさから来たものでしょう。しかし、これを彼らのゼロテ的傾向を示す呼び名であるとする説もあります。ルカはこのような呼び名にはふれず、名前だけをあげています。この二人はペテロと共に、イエスの生涯の重要な場面に立ち会うイエスに最も身近な三人のグループを形成します。

 フィリポは、ペテロとアンデレの同郷のベッサイダの人で、彼らと同じくバプテスマのヨハネの弟子となっていた時、イエスに出会っています。それ以上のことはわかりません。

 バルトロマイの名は「トロマイの子」の意味であり、このリストに名があげられているだけです。ナタナエルと同一人物であるとする試みもありますが、確証はありません。

 マタイは徴税人であったという伝承は確かなようです。マタイ福音書(一〇・三)では「徴税人マタイ」と明記されています。マタイ福音書では、この人物が徴税人レビと同一人物とされていますが、「徴税人レビの召命」の項で述べたように、ルカは同一人物とする必要も理由もないので、そのような同一視はしていません(前号24頁参照)。

 トマスは、共観福音書ではこのリストに名前が出てくるだけですが、ヨハネ福音書では「デドモ(双子)と呼ばれているトマス」と言われており(一一・一六)、数回登場して、重要な役割を果たしています。これまでの経歴はわかりません。

 アルファイの子ヤコブは、ゼベダイの子のヤコブと区別するために「小ヤコブ」とも呼ばれています。経歴など詳しいことは何もわかりません。マルコ二・一四の徴税人「アルファイの子レビ」と同一視しようとする試みがありますが、これも無理です。

 マルコとマタイにあげられている「タダイ」という名はルカのリストにはなく、かわりに「ヤコブの子ユダ」があげられています。「十二人」の中に二人のユダがいたことは確かであると考えられます(ヨハネ一四・二二)。同名の者がいる場合には副名を用いて区別するのが通例ですので、ルカは本名を伝え、マルコとマタイは副名のタダイを伝えたと考えられます。この「ヤコブの子ユダ」も、ここに名があげられているだけで、詳しいことはわかりません。

 十一番目のシモンのことを、マルコ(とマタイ)は(ギリシア語原語で)「カナン人シモン」と呼んでいますが、これは「カンナー(熱心党)」というアラム語を民族名と誤解したものと考えられます。これを「熱心党と呼ばれたシモン」と訳したルカの方が正しいと考えられます。このシモンについても、元熱心党員であったこと以外は何もわかりません。

 最後に「イスカリオテのユダ」の名があげられ、の名「後に裏切り者となった」という説明がつけられています。イエスが選ばれた弟子の一人がイエスを裏切った事実は、イエスをメシアと宣べ伝える共同体にとって重荷でしたが、その事実が率直に記録されています。「イスカリオテ」という語は「ケリオテの人」の意味であると考えられます。彼はイスカリオテのシモンの子であって(ヨハネ六・七一)、「十二人」の中でただ一人、ガリラヤではなく南のユダヤの地の出身者であることになります。ユダがイエスを裏切ったことについては、その該当箇所で触れることになります。

 さて、この「十二人」の名前を見ると、ギリシア名やギリシア読みにされた名が多くあり、当時のガリラヤがヘレニズム世界と深い交流の中にあったことがうかがえます。また彼らの出身や経歴を見ると、漁師や徴税人や熱心党員というように、さまざまの職業や違った立場の人たちが混じっています。その中に律法学者はいません。イエスは「無学のただ人」、「地の民」を選んで新しいイスラエル、まことの神の民を創設されたと言えます。
 

「使徒」の称号

 四福音書の中で、この「十二人」を使徒と呼ぶのはルカ福音書だけです。他の福音書はこの「十二人」を使徒と呼ぶことはありません。ルカだけが、この段落で「十二人を選んで使徒と名付けられた」と明記し、以降福音書の中でもこの「十二人」を使徒と呼び、その呼び方を第二部の「使徒言行録」に自然に続けていきます。むしろ、使徒言行録で「使徒」とされる「十二人」を福音書の時期に遡らせたと見るべきでしょう。

 パウロ書簡などでは、この「十二人」以外の人たちも「使徒」と呼ばれていますが、ルカはイエスによって直接任命されたこの「十二人」以外の人を「使徒」と呼ぶことはありません。パウロでさえ、ルカは「使徒」と呼んでいません。使徒言行録で「使徒」という語が出てくるのは十六章四節までです。すなわち、ペトロを主人公とする前半だけで、パウロの活動を描く後半には出てきません。

 最初期の共同体においては、「使徒」の概念は流動的でした。「十二人」以外の人も使徒と呼ばれていました。しかし、時と共に共同体の土台となる使徒の範囲は固定されるようになり、ペトロやパウロが天に召された以後の時代においては、ペトロを代表とする「十二人」のように、直接イエスによって任命された者だけを使徒とし、彼らの証言を信仰の土台として語るようになります。ヨハネ黙示録(二一・一四)になると、「都の城壁には十二の土台があって、それには小羊の十二使徒の十二の名が刻みつけてあった」と語られるようになります。このような時代の福音の進展を総括するような立場でその二部作を書いたルカは、「使徒」をイエスが任命された「十二人」に限るようになったと考えられます。  


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