ルカは先の区分(五・一〜六・一六)で弟子団の形成を語りました。そこで見たように、その区分は、形式的には弟子団の形成を主題としていますが、実質的には、イエスの弟子たちはもはやユダヤ教律法の枠の中にではなく、別の原理、すなわち恩恵が支配する場に生きているという事実を、イエスとファリサイ派律法学者たちとの論争という形で物語っていました。その区分を書き終えて、ルカはその弟子たちにイエスが直接、恩恵の場に生きるとはどういうことかを語り出された内容をまとめます。
まず、イエスがその言葉を弟子たちに語り出された状況が描かれて、イエスの言葉の導入部となります(六・一七〜一九)。ここで、イエスが弟子たちに語られた教えの言葉が「平らな所」で語られたとされていますので(六・一七)、ルカによってまとめられたイエスの弟子たちへの教えは「平野の説教」とか「平地の説教」と呼ばれることになります。この「平地の説教」は、内容がマタイ福音書の「山上の説教」(マタイ五〜七章)と並行しているので、それとの比較によって、ルカのまとめ方の特色、ひいてはルカの思想とか神学が浮かび上がってきますので重要です。しかし、何よりもイエスが宣べ伝えられた「神の支配」告知の核心として、福音書の中心を形成する箇所として重要です。
先の段落(六・一二〜一六)で、「イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされ」、夜が明けたとき、弟子たちの中から十二人を選んで使徒と名付けられたことが語られていました。今や「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちに」なります(一七節前半)。ここの「彼ら」は、イエスと一緒に山に上った、十二人を中核とする弟子たちの一団を指すことになります。
モーセがシナイ山で啓示を受けて以来、イスラエルでは山は啓示の場所として重視されてきました。マタイがイエスの神の国告知を山の上でなされたものとして描いたのも、この伝統に従ったからでしょう。しかし、ルカにはこのようなイスラエルの伝統を重視する姿勢はなく、山を十二使徒選任の場所とするだけで、イエスの神の支配告知の説教は「平らな所」、すなわち民衆が生活する場所で行われたとします。
山の麓の「平らな所」には、「大勢の弟子」と「ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から来たおびただしい民衆」が、イエスと弟子たちの一行が山から下りてくるのを待ち受けています(一七節後半)。イエスの説教が行われた状況を語るこの段落は、マルコ三・七〜一二に相当する箇所ですが、マルコが群衆を「ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りから」来た者たちとしているのと較べますと、ルカは「ユダヤ、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側」を「ユダヤ全土」と大雑把にくくっています。しかし、「エルサレム、ティルスやシドンの海岸地方から」は、マルコを継承して、遠隔の地からも来ていることを強調しています。
彼らは「イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた」のです(一八節前半)。おびただしい群衆が、病気をいやしてもらうために、イエスに触れようとして押し迫ったことや、汚れた霊に悩まされていた人たちがいやされたこと(一八節後半〜一九節)はマルコと同じですが、ルカは彼らが「イエスの教えを聞くために」集まってきていたと書き加えて、「平地の説教」を導入する準備をしています。
イエスの「平地の説教」を聴いたのは誰でしょうか。イエスは誰に向かってこの教えの言葉を語りかけられたのでしょうか。ルカは「イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた」(六・二〇前半)と書いています。この「弟子たち」とは、どの範囲の人たちのことでしょうか。「平地の説教」が行われた状況を説明するこの段落では、「大勢の弟子」だけでなく、「ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から来たおびただしい民衆」が「イエスの教えを聞くため」に集まっています。イエスは弟子と民衆を区別して、弟子たちだけに語りかけられたとは考えられませんから、イエスは集まってきているすべての人たちに向かって、自分の弟子として語りかけておられることになります。「平地の説教」の状況を説明するこの段落は、イエスの教えの言葉は、イエスに救いを求めてやってきたすべての人に向かって語りかけられていることを指し示しています。
この聴衆の一人としてイエスの「平地の説教」を聴くにさいして重要なことは、わたしたちも、いやしを求めて集まってきた民衆の一人として、彼らと同じ立場で聴くことです。イエスのもとに集まってきたのは、自分ではどうしようもなくなって、ただイエスの内に働く神の救いの力に身を委ねるほかはないとする人たちです。自分は自分でやっていける、イエスが示す神の憐れみの力に頼る必要はない、と考えている人は、この「平地の説教」を聴くにふさわしい者ではありません。
イエスはいやしや救いを求めてくる者に、代価や資格を求められませんでした。どれだけ律法を守って敬虔な生活をしているか、社会生活で道徳的に立派な振る舞いをしているかなど、いっさい資格を問題にされませんでした。また、いやされた者に代価を求めたりされませんでした。病気のいやしに示される神の救いの働きは、無資格の者に無条件で与えられるものであり、神の恩恵の具体的な現れでした。これからイエスが語り出される「平地の説教」も、まさにこの絶対無条件の神の恩恵の宣言に他なりません。それは恩恵の場にひれ伏してはじめて聴くことができる言葉です。いやしの働きも教えの言葉も、共に神の恩恵の現れであるという点で一体です。
「さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て」語り出されます(二〇節前半)。原文での書き出しは、いやしを求めて押し迫る群衆と対比して、イエスご自身の方はこうされたと、イエスの姿勢を強調しています。イエスは「弟子たちの方に目を向けて」語り出されます。これから語られる言葉は、事実を客観的に描写する言葉ではなく、人格が人格に「目を見て」直接語りかける言葉です。
これから語られる言葉は、イエスを信じ、イエスに身を委ね、イエスに従う弟子たちに向かって語りかける言葉です。すでにイエスに従う決意をして自覚的に弟子である者もいますが、その周囲にはイエスを通して働く神の力に驚き、いやしを求めて来ているだけの人たちも多くいます。そのような人たちにも、イエスは弟子が受ける祝福とその道を語って、弟子として生きるように招いておられるのです。
すでに自覚的に弟子である者も、弟子となるように招かれている可能態の弟子も含めて、弟子である者に向かって発せられる最初の言葉、したがってもっとも根本的な言葉は、驚くべき言葉です。イエスはこう宣言されます。
「貧しい人々は幸いである、神の国はあなたがたのものである」(二〇節後半)。
イエスは弟子たちを「貧しい者」と呼ばれます。「貧しい者」という表現は、語られるイエスにも聴く者にも、聖書に親しんでいるユダヤ教徒にはなじみ深い句です。もちろんこの表現は、イスラエルでも第一に、貧乏で生活が苦しい階層の人たちを指していますが、それだけでなくイスラエルでは、貧しくて社会的に弱い立場であるゆえに、ひたすら神にすがる他はない敬虔な人たち、へりくだった魂の人たちを指す表現でもありました。すでに預言書においても「貧しい者」がこのような意味で用いられる場合が多くありますが、とくに詩編によく出てくるようになり、イスラエルの人々の日々の祈りに用いられて親しまれていました。イエスの時代の敬虔なユダヤ教徒の一派であるエッセネ派の人たちは、自分たちを「貧しい者たち」と呼んでいました。イエスの弟子は「貧しい者」です。
このような意味であることを明確にするため、マタイはこの箇所を「霊の貧しい人々は幸いである」と表現しています(マタイ五・三)。しかし、ルカは「貧しい人々」だけにして、「富める人たち」との対比を際だたせ、「貧しい人々は幸いである」という、イエスに特有の逆説的な表現を維持しています。イエスの語録には付加することはあっても、削除する可能性は低いという傾向も考慮に入れますと、ルカの方がイエスの語られた元の言葉に近いと考えられます。
貧しい者たちこそ神の祝福を受ける幸いな者たちであるという驚くべき宣言に続いて、「神の国はあなたがたのものであるのだから」と、その理由が語り出されます。原文には理由を示す接続詞が明示されています。神の国を受け継ぐとか、神の国に入ることは、当時のユダヤ教徒の究極の目標でした。来たるべき神の国で受ける命が「永遠の命」ですから、神の国を受け継ぐとは永遠の命を受け継ぐのと同じです。今は悪しき者が支配する苦難の時代であるが、やがて神が直接支配される栄光の時代が来る。その神の支配(=神の国)に入り、栄光にあずかり、永遠の命を受けるために、ユダヤ教徒は律法順守に励んだのです。神の《バシレイア》(王としての支配)に入り、永遠の命を受け継ぐことこそ当時のユダヤ教徒の目標であったことは、イエスになされた「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができますか」というユダヤ教徒の代表的な質問によく表れています(一八・一八以下)。
イエスの「神の国」告知には、洗礼者ヨハネの神の支配切迫の使信を継承して、神の終末的な支配が迫っていることを告知するという一面があります。イエスの「神の国」告知は、現在すでに到来している神の支配を語っているという面があることは事実であり、本講でもその面を強調することになりますが、神の支配の終末的切迫の使信がなくなったわけではありません。とくにここのルカの「祝福と禍いの宣言」(六・二〇〜二六)では、貧しい者が「満たされる」とか「笑う」ようになり、富める者が「飢える」、「悲しむ」、「泣く」ようになるという動詞はみな未来形であり、やがて神の正しい裁きが現れる終末時の出来事を指しています。
すべてのユダヤ教徒が終わりの日の顕現を待ち望んでいるあの「神の国(=神の支配)」はあなたたちのものである、とイエスは「貧しい者」である弟子たちに宣言されます。だから「貧しい者」は幸いなのです。神から祝福されているのです。すでに神の国が自分のものであり、そこでの命と栄光が自分のものであることが確かであるならば、地上で何を欠いていても、これにまさる幸いはありません。いや、地上では貧しいがゆえに神の国を受けているのであれば、貧しいことこそ幸いであることになります。
現在必要なものを欠いている状態が「今飢えている者」と表現されます。それは「貧しい者」の具体的な姿です。必要なものを欠くゆえに、そしてそれを満たすために自分では何もできないことを知っているゆえに、神の無条件の恩恵にすがる他のない砕けた魂は、幸いだというのです。それは、神の支配が現れる終わりの日に、すべての必要が満たされ、命と栄光にあふれるようになるからです(二一節前半)。
地上での不幸を慰めるものがなく、ただ泣くことしかできない者は幸いだとイエスは言われます。泣く者が幸福だとは、何という逆説でしょうか。このような逆説が成り立つのは、現在に神の終末という将来が突入してきているからです。現在泣いている者は、ひたすら神の恩恵に依り縋るので、すぐに来る終わりの日には、恩恵の神が与えてくださる命の喜びに満たされて笑うようになるからです(二一節後半)。
ルカは「飢えている」とか「泣いている」という動詞に「今」という語を添えて、「満たされるようになる」と「笑うようになる」という将来との対比を際だたせ、強調しています。この「今」という語は、ルカとマタイの共通の資料となった「語録資料Q」にはなく、ルカが付け加えたものと見られます。そのことによって、ルカは終末時の大逆転を強調しています。
何も持たない貧しい者が幸福であるという逆説が成立するのは、神の無条件の恩恵が支配している場においてです。神の恩恵は、自分に何も持たない貧しい者に注がれるからです。自分に必要なものはすべてあると高ぶっている「富める者」は、無資格の者に無代価で与えられる神の恩恵を受けることはできません。「富める者」は、自分が持っているものに満ち足りているので、神の恩恵を受けようとしません。ルカは、貧しい者の幸いを際だたせるために、続いて富める者の不幸を描きます。
その前に貧しい者の幸いへの付加として「人々に憎まれるとき」の幸いが(散文で)語られますが(二二〜二三節)、これは「すべての人にほめられるとき」の不幸とまとめて後で扱います。幸いの宣言(二〇節後半〜二一節)には、同じ詩形の不幸の宣言(二四〜二五節)が対応しています。
貧しい者の幸いと対比して、富める者の不幸が「しかし」という反対の事柄を導入する接続詞に導かれて描かれます。「富んでいる者」が不幸であるのは、「もう慰めを受けているから」です。この文章も理由を示す接続詞で始まっています。この地上で(=このアイオーンで)満たされているので、来るべき世《アイオーン》では神から受けるものが何もないからです(二四節)。
続いて「富んでいる者」の現在の姿が、「今」という語を添えて「今満腹している者」と「今笑っている者」という形で具体的に描かれ、それと対比して、来たるべき世で受けるものが何もなく、来るべき世での命と栄光に関しては「飢えるようになる」、「悲しみ泣くようになる」と、その不幸が宣言されます(二五節)。
この富める者の不幸を宣言する言葉(二四〜二五節)は、マタイ福音書にはそれに対応する言葉がありません(マルコ福音書にもありません)。これはルカ福音書だけの独自の言葉になります。これは、元のイエスの語録伝承には「富める者の不幸」の言葉がなく、ルカが自分で付け加えた言葉であるのか、あるいは、元の語録伝承にはあったが、マタイがそれを略して独自の「幸いの言葉」(マタイ五・三〜一〇)を形成したのかが問題になります。わたしは、次の二つの理由から、後者(マタイが略した)と考えます。
第一の理由は、イエスの語録伝承の忠実な継承者であるエルサレム共同体が「富める者への断罪」を強調している事実です。ヤコブ書は「主の兄弟ヤコブ」自身が書いたものか、ヤコブの後継者が書いたものかは議論されていますが、いずれにしてもヤコブ書がエルサレム共同体の「ユダヤ教内キリスト信仰」の証言であるという事実は変わりません。直接イエスの言葉を聞いてそれを伝えた十二使徒と主の兄弟ヤコブによって形成され指導されたエルサレム共同体が、貧しい者への祝福を語り(ヤコブ一・九、二・五)、同時に富める者への厳しい断罪を語っている(ヤコブ二・六〜七、五・一〜六)のは、それがイエスの語録伝承にあったからだと考えられます。「貧しい者は幸いだ」という逆説を宣言されたイエスが、それを裏側から「富める者はわざわいだ」と語られたことは、イエスにふさわしいことです。
第二の理由は、マタイには「祝福の言葉」に「富める者の不幸」を取り入れない理由があるからです。マタイは「山上の説教」の始めに「祝福の言葉」を置きましたが、マタイはその祝福の言葉をユダヤ教知恵文学の伝統に従って、倫理的な勧告の視点で再構成しています(それは「山上の説教」全体の視点です)。たとえば、「飢えている人々は幸いである」という祝福は、「義に飢え渇く人々は幸いである」とされて、地上のものではなく、「神の前に義であることを飢え渇く者のように慕い求めよ」という勧告となっています。また、「柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」という祝福は、だから柔和であることを追い求めよという勧告の意味で入れられています。このように、倫理的勧告の視点から構成された「祝福の言葉」には、富める者の不幸は勧告の材料としては使いにくいという面があって、取り入れなかったと考えられます。
ルカは、貧しい者には「あなたたちは幸いだ」と呼びかけ、富める者には「あなたたちはわざわいだ」と断罪するイエスの語録を伝えました。そうすることによって、「今」という語を加えて描く現状と、未来形の動詞を用いて描く将来の姿を対比して、来るべき終末に神の支配が現れるときに起こる大逆転を宣言しています。これはユダヤ教黙示思想の待望に他なりません。ルカは、ユダヤ教黙示思想に特有の《アイオーン》というような用語は用いていませんが、その内容は黙示思想そのものです。このような黙示思想的逆転の待望は、先に「ルカ二部作の成立」で見ましたように、ユダヤ教黙示思想を脱却して新しい救済史理解を提起しているルカの著作の中では、異質に感じられます。
このような現象は、おそらくルカが歴史家として資料に忠実に伝えようとしたからではないかと考えられます。ルカは(七〇年以前の)エルサレムやアンティオキアの共同体に伝えられているイエス伝承を集めたと見られますが、その伝承の基本的な性格を成している黙示思想的待望を、そのまま忠実に伝えたのではないかと考えられます。
その結果、ヘレニズム世界での異邦人向けの福音を総合するような位置にあるルカの著作と、ユダヤ教内のキリスト信仰の典型的な証言として対極の位置にあると見られるヤコブ書との間に、この貧しい者と富める者の扱いについては共通の面が出てくるという不思議な現象が起こっています。この点については、知恵文学の倫理的勧告の視点からイエスの語録を再構成したマタイより、ルカの方がイエスの本来の言葉に近いのではないかと見られます。
かなり厳密な対称形をなして詩の形で述べられた、貧しい者への幸いの言葉と富める者への不幸の言葉に、ルカはそれぞれ散文で、人々に憎まれる時の幸いとほめられる時の不幸を付け加えます。人々に憎まれる時の幸いを語る部分(二二〜二三節)はマタイ(五・一一〜一二)にもあり、おそらくルカが共通の資料となった「語録資料Q」に従った結果だと考えられます。しかし、用いられている語句は、マタイとルカでは違っています(次の補注)。富める者の不幸を語る言葉がマタイにはない事実と対応して、すべての人にほめられる時の不幸を語る言葉(二六節)は、マタイにはありません。
この「人々に憎まれる時の幸い」を語る言葉は、貧しい者の幸いを語る部分と、文の形が違う(詩形でない)だけでなく、性格が違います。貧しい者というのは、人の在り方とか状態を指しているのに対して、「憎まれる時」というのはある時に起こる出来事を指しています。このような出来事が起こる時には、あなたたちは幸いだという宣言です。その出来事とは、イエスを信じて言い表すときに受ける迫害を指しています。
この地上でイエスを「人の子」と言い表したために周囲の人々に憎まれ迫害されるときには喜び踊れ、と励まされています。「天には大きな報いがある」からです。地上での苦難の体験と天での報酬が対照されていますが、実際の中身はこの世《アイオーン》での苦難と来るべき世《アイオーン》での栄光の対照です。この地と天の対照がこのような意味であることは、後にパウロがローマ書八章(一八〜二五節)で明確に語り出すようになります。
このようにイエスを信じるゆえに受ける苦難は、昔の預言者たちが受けた苦難と同列・同質のものとされます。昔の預言者が神の霊を受け、神の言葉を語ったゆえに苦難を受けたように、今イエスを信じる者は神の霊によって神の言葉を生きているのです。それは人の思いを超えた生き方であり、人間の思いで生きている周囲から迫害されることになります。それゆえ迫害されることは預言者の系統に連なり、預言者と同じ報い、すなわち神の栄光にあずかるという報いを受けることになります。
それに対して、「すべての人にほめられるとき」は警戒しなければなりません。昔イスラエルの民は、自分の思い、自分の夢を語る偽預言者、聞く耳に心地よく響く言葉を語る偽預言者をほめそやしました。もしわたしたちが「すべての人間から」誉められるならば、それはわたしたちが生まれながらの人間本性の次元に生きている者であることを示すことになり、この世で満ち足り、天において受ける報いはありません。「今笑っている者」として、来るべき《アイオーン》では悲しみ泣くことになります。
ここで迫害のことを語る表現を見ますと、マタイでは「わたしのために」とあるのが、ルカではユダヤ教独特の「人の子のために」となっていることが目立ちます。さらに、ルカでは「人の子のために」受ける迫害が、「追い出され、ののしられ、汚名を着せられる」という、ユダヤ教会堂で用いられた特殊な表現である三つの動詞で表現されています。この三つの動詞は、イエスを「人の子」と言い表す者に対するユダヤ教会堂の厳しい態度を示しています。「追い出される」は、会堂からの追放処分を受けることです。「ののしられる」は、預言者の受ける定めとして旧約聖書に定着した表現で、ユダヤ教徒にあるまじきことをなす者として、ユダヤ教社会全体から悪罵を浴びることです。「汚名を着せられる」は、直訳すると「あなたたちの名が汚れたものとして(会堂とかユダヤ教社会から)投げ出される」こと、すなわちユダヤ教会堂からの除名処分を指しています。ユダヤ人にとって会堂から追放されることは、社会から抹殺されることであり、殺されるのと同じくらいの激しい迫害であったのです。このように、ルカのテキストは、「人の子」待望を固持したエルサレム共同体とか、「語録資料Q」を形成したユダヤ人の信仰運動が、周囲のユダヤ人社会から受けた迫害をかなり忠実に伝えています。
それに対してマタイは、ユダヤ人だけに理解される「人の子のために」を「わたしのために」として、ユダヤ人社会だけでなく、どこでも起こりうる出来事として一般化しています。比較的一般的な意味で使える「ののしられる」は保持されていますが、「追い出される」とか、「あなたたちの名が汚れたものとして投げ出される」というユダヤ教会堂の専門用語は、「迫害される」とか「偽ってさまざまな悪口を言われる」というような一般的な表現に変えられています。マタイでは、迫害の記述がユダヤ教社会の外でも通用する一般的な表現になっていると言えます。
この事実は、異邦人を対象とするルカ福音書と、ユダヤ教の体質を色濃く残しているマタイ福音書とでは逆の特色を示しているように感じられます。しかしこの現象は、マタイの場合はこれから異邦世界に乗り出して行こうとする姿勢のために起こった一般化の現象であり、ルカの場合は、先に「富める者へのわざわい」のところで述べたように、使用した資料への歴史家としての忠実さが、資料のユダヤ教的性格を残した結果であると理解できます。
ルカとマタイに見られるこの違いは、預言者に対する態度について語るところにも出ています。ルカでは、「この人々の先祖も、預言者に同じことをしたのである」と、明らかにユダヤ人に向かって、彼らの先祖が昔のイスラエルの預言者たちにしたことを語っています。ところがマタイでは、「彼らはあなたがたより前の預言者たちをも、同じように迫害したのである」(マタイ五・一二直訳)となっていて、迫害したのはユダヤ人の先祖には限定されていません。イエス運動の預言者も含んでいます。
イエスは自分の言葉に耳を傾けている弟子たちに語り出されます。この世で富んでいる者たちと対照して、あなたたち貧しい者は幸いだと語りかけられた弟子たちに向かって、「しかし」という語で世の人たちとの対照を背景にして、イエスの弟子が在り方を語り出されます。
「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」。(六・二七〜二八)
冒頭の「しかし」という語は、これまで述べてきた事柄とか主張の反対の事柄とか主張を導入する語ですが、ここでは何に反対の事柄を述べようとしているのか、先行する位置に対照される事柄は明示されていません。直前に先行するのは貧しい者と富める者の対照ですから、この「しかし」は、この世で富み栄えている者たちと対照して、「しかし」貧しい者であるあなたたちはこのように生きなさいと呼びかけている、と一応理解できます。
ルカはここでイエスが語り出された「敵を愛しなさい」という驚くべき言葉を、この段落の結びの位置(三五節)で繰り返していますが、そこでは明らかに先行する箇所(三二〜三四節)で描かれている、自分を愛してくれる者だけを愛する世の人たちの在り方と対照して、「しかし、(わたしの弟子である)あなたたちは敵を愛しなさい」と言われています。ここの「しかし」が対照している事柄は明らかです。
ところがここでは、「しかし、わたしはあなたたちに言う」という形で用いられており、何と対照して「しかし、わたしは言う」のかが明示されていません。マタイは、この「しかし、わたしは言う」を「昔、モーセはこう言った」と対照して、イエスが語り出された新しい教えを、モーセ律法と対立する六つの「対立命題」にまとめています(マタイ五・二一〜四八)。
ルカは、イエスの語録に出てくる「しかし、わたしは言う」を、マタイのようにモーセ律法との対照ではなく、この世の原理との対照で用いていると言えます。これは、マタイがおもにユダヤ人を対象としているのに対して、ルカが異邦人を対象として福音書を書いていることから生じる当然の結果であると考えられます。
イエスが「しかし、わたしはあなたたちに言う」と言って、わたしたちに語り出される言葉を聞いて、わたしたちは驚きます。「敵を愛しなさい」と言われると、どうしてそんなことができようかという驚きを感じます。「敵」という言葉を聞くと、わたしたちは武器を持って攻めてくる敵を思い浮かべるので、その敵を愛することなど不可能だと感じてしまいます。これは、事柄を端的に表現されるイエスの言葉が最初に引き起こす驚きの感情です。しかし、イエスが言おうとされている内容をじっくり聞き取ると、これはイエスが示される恩恵の支配の場に生きる者の当然の姿であることが分かります。
イエスが弟子たちに最初に求められる生き方は、二組の並行句で表現されています。第一の並行句は「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」で、第二の並行句は「悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」です。この二組の並行句で用いられている四つの句は、同じ内容の言い換えです。「敵を愛する」は「憎む者に親切にする」、「悪口を言う者に祝福を祈る」、「侮辱する者のために祈る」と同じ姿勢、同じ生き方を指しています。「敵」とは、わたしを憎む者、悪口を言う者、侮辱する者の包括的な表現です。わたしたちに悪を企み、悪意を向けてくる者たちの総称です。
わたしたちはいつもこのような「敵」に取り囲まれて生きています。そして、そのような敵から憎まれ、悪口を言われ、侮辱されると、思わず悪口を言い返し、呪い、侮辱し返し、相手を憎みます。それが普通の人間の反応です。それに対して、イエスは言われます。「しかし、わたしの弟子であるあなたたちはそうであってはならない。悪口を言う代わりに祝福を祈り、侮辱し返すのではなく相手の幸いを祈り、憎しみには親切をもって応えなさい」。それが敵を愛することです。このような敵に対する対応こそが、イエスの弟子であることの標識になります。
実は、これとまったく同じことを、パウロは別の表現を用いて、次のように言っています。
「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって呪ってはなりません」。
「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい」。
「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる」。
「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」。
これはパウロが、キリストにある者が御霊の愛をもって生きるときの姿を語った箇所(ローマ一二・九〜二一)の抜粋です。パウロは、イエスと同じことを、善と悪という用語を用いて表現しています。わたしたちに悪をもって向かってくる者(それが敵です)に対して、悪を返すのではなく、善をもって報い(それが愛です)、そうすることで「善をもって悪に打ち勝つ」ように説き勧めています。これは、イエスが「敵を愛しなさい」と言われたこととまったく同じです。イエスが端的に「敵を愛しなさい」と表現されたことを、パウロは抽象的な(しかしきわめて常識的な)善と悪という語を用いて語っているのです。
イエスの教えの中でもっとも強烈な印象を与える言葉は、「敵を愛しなさい」という言葉です。弟子たちがこの言葉をイエスの教えの核心であると理解していたことは、この言葉がイエスの語録資料の最初に置かれていることからも分かります。「語録資料Q」においても、ルカがそうしているように、「幸いの言葉」の直後に、この愛敵の言葉が置かれていたと推察されます。
B・マックも『失われた福音書』において「Qの教本(オリジナル版)」を復元するさい、最初に貧しい者、飢えている者、泣いている者への三つの幸いの言葉を置き、その直後に敵を愛しなさいというルカの段落を続けています(邦訳104頁)。マタイ福音書では、マタイ独自の編集と構成により、この「敵を愛しなさい」という言葉は、対立命題の最後(五・四四)に置かれています。
ルカは、イエスが弟子たちに求められる在り方をまとめるにあたって、この「敵を愛しなさい」を最初(二七節)に置き、最後(三五節)にも同じ言葉を置いて、その間に敵を愛するということの具体的な現れ方を語るイエスの言葉を置いています。その間に出てくる、もう一つの頬を向けよとか、上着を奪う者に下着も与えよとか、何も当てにしないで貸してやれというような語録は、様々な機会に語られたイエスの言葉でしょうが、ルカ(あるいはすでに資料の語録集)はそれを「敵を愛しなさい」という標題の中にまとめて置き、イエスの弟子の在り方を一つの段落にまとめています。
「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない」。(六・二九〜三〇)
これは、パウロが言う「だれに対しても悪に悪を返さず」ということですが、それをイエス独特の具体的で、かつ強烈な印象を与える表現で語っています。「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい」というのは、相手の頬を打ち返すなということです。頬を打つという暴力を加えてくる相手に、打ち返すという暴力をもって報復するなということです。持ち物を奪う(強奪する)という暴力行為に対抗して、こちらも暴力を用いて奪い返すようなことはするな、ということです。そのことが「上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない」という極端な形で表現されています。この一段は、暴力を加えてくる悪人に対しても、暴力という悪をもって対抗したり、報復してはならないと語っています。マタイはこの一段を「悪人に手向かってはならない」という標題的な言葉で始めています(マタイ五・三九)。イエスの「敵を愛しなさい」という教えは、非暴力・無抵抗の形をとります。
ただ、その中に「求める者には、だれにでも与えなさい」という、暴力に関係しないように思われる一文があります。「悪人に手向かってはならない」という非暴力・無抵抗の在り方は、悪に対して悪をもって報いないという消極的な面を指していますが、そのような在り方が出てくる源泉が、「求める者には、だれにでも与えなさい」という積極的な言葉で指し示されます。同じ言葉がマタイ(五・四二)では「求める者には与えなさい」という形で伝えられています。
この言葉は、「だれでも、求める者は与えられる」(マタイ七・八)という、イエスが生きておられる絶対無条件の恩恵の場から出てきています。人間の世界では、与えられるためには厳しい資格が求められます。ところが、イエスが生きておられる恩恵の場では、父はだれにでも、すなわち求める者の資格や価値を問わないで、無条件に良いものを与えてくださるのです。そのような無条件の恩恵の場に生きるように召されているイエスの弟子は同じように、相手がだれであろうと、その資格や自分に対する価値を問うことなく、たとえ相手が自分に敵対する者であっても、良いものを与えるように求められるのです。これも、敵を愛する愛の一つの表現です。「だれでも、求める者には与えなさい」という言葉の背後に、「だれでも、求める者は与えられる」という絶対無条件の恩恵の言葉が響いています。
そのように、悪に対して悪を報いることなく、誰にでも無条件で良いものを与えるようにという愛敵の教えを、ルカはイエスが語られた「黄金律」の言葉をここに置くことによって根拠づけます。おそらく「語録資料Q」においても愛敵の教えの中に置かれていたと推察されますが、マタイは独自の編集と構成から別の位置に置いています。
「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」。(六・三一)
この原則は、人間の倫理的規範のすべてを要約する原理として、「黄金律」と呼ばれています。「黄金律」は古代インド思想にも、中国の儒教にも、古代ギリシア文学にも出てきており、人類の知恵といってもよい世界的な広がりをもっています。ただ、新約聖書以外では圧倒的に、「人からされたくないことを、人にするな」という否定の形で述べたものが多いようです。
新約聖書の直接の源流となったユダヤ教においても、自分自身のように隣人を愛することを求めたモーセ律法(レビ一九・一八)が、ヘレニズム時代にギリシアの知恵と合流して、律法全体を要約する言葉としてこの黄金律が用いられるようになります。イエスの少し前に活躍した代表的な律法学者ヒレルは、ある異邦人が片足で立っている間に律法の全体を教えるように頼んだとき、「おまえにとって痛みとなるようなことは、他人にしてはならない。これが律法の全体である。他はみなその解説である」と答えたという有名なエピソードが伝えられています。
イエスはこの黄金律を肯定形で語られます。それは、父の慈愛に促されて愛を行うように求められた文脈の中でふさわしい形です。このような肯定形の黄金律が、愛敵の教えと並べて置かれることによって(原文は「そして、また」ではじまっています)、愛敵の教えは人類の知恵である黄金律と別のものではなく、むしろ黄金律の徹底した形であることを指し示しています。人間は、人に悪を行っていても、自分にはよいことをしてもらいたいと願うものです。そうであれば、自分にそうしてもらいたいように、自分に悪をなす人にも、よいことをすることが、黄金律が求めるところとなります。
マタイはこの黄金律を「山上の説教」の主要部をしめくくる位置(七・一二)に置いて、その後に「これこそ律法と預言者である」という言葉を加えています。マタイはおもにユダヤ人に向かって書いていますから、イエスの教えがモーセ律法と預言者に代表されるイスラエルの宗教を成就完成するものであることを強く主張しています(五・一七)。したがってここでも、イエスが語られた黄金律を律法と預言者の全体を成就するものと意義づけています。しかし、ルカはおもに異邦人に向かって書いていますので、このような意義づけは必要なく、「これこそ律法と預言者である」という文は入れていません。
ルカはこの段落の主題である敵を愛する愛の具体的な現れ方(二九〜三一節)を描いた後、そこで描かれたイエスの弟子の愛と対比して、弟子でない人たちの愛、世間の人たちの間で行われている愛の姿を描きます(三二〜三四節)。その上で、その一般社会での愛と対極にあるイエスの弟子に求められている愛、敵を愛する愛の主題に戻り、段落を締めくくります(三五〜三六節)。
「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである」。(六・三二〜三四)
世間では普通、「自分を愛してくれる人を愛し」ています。ルカはその世間の人の愛を「罪人でも、愛してくれる人を愛している」と表現してます。マタイ(五・四六)は同じところを「徴税人でも、同じことをしているではないか」としています。ここでも、マタイはユダヤ人が罪人として軽蔑している「徴税人」を用い、ルカはどの民族にも通用する「罪人」という用語を使っています。
このように「自分を愛してくれる人を愛する」ことは、世間の人が誰もすることであって、それに対して「あなたがたにどんな報いがあろうか」とマタイは書いています。同じところをルカは「あなたがたにどんな恵みがあろうか」と表現しています。ルカは「どんな《カリス》があろうか」と書いています。この《カリス》は、新約聖書では(とくにパウロにおいて)普通神の恩恵を指す用語であって、圧倒的に「恵み」と訳される場合が多い語です。しかし、ここで「恵み」と訳すると意味が分かりにくくなります。おそらく「恵み」という訳は、そのような愛は神からの恵みを受けるに値しないという意味で用いられているのでしょう。しかし、「恵み」は値しない者に与えられる神の賜物ですから、この訳は不自然に感じられます。ほとんどの英訳はここを「あなたたちにどんなcreditがあろうか」と訳しています。creditは「賞賛、賛美、名誉、栄誉、手柄」という意味です。マタイが「報い」という語を用いていることからも、ここは英訳のように、「あなたたちにとってどのような手柄、栄誉(神から受ける誉れ)になるだろうか」と理解するのが順当でしょう。
同じことが表現を変えて、「自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている」と言われています。これに相当するマタイの箇所(五・四七)では、「自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか」となっています。自分の仲間内の者にだけ挨拶して(交際をして)相互に助け合うのは、神を知らない者たちとして軽蔑している異邦人(異教徒)でさえしていることであって、神の民として何の優れたところもない、というユダヤ人向けの語り方です。ルカはここでも「罪人」を用いています。
さらに、現によいことをしてくれているのではないが、将来同じものを返してくれることを期待して貸すのは、「罪人でさえ」仲間同士の間でしていることであって、何の誉れにもならないと言います。
ここで言われている「自分を愛してくれる人を愛する」とか、「自分によくしてくれる人に善いことをする」とか、「返してもらうことを当てにして貸す」という人間の愛のあり方とか姿勢は、「相対的な愛」と呼ぶことができます。ここで「相対的」というのは「相手の出方に対応して」という意味です。相手が自分を愛してくれるならば愛する、自分によくしてくれるならば相手にも善いことをする、という愛のあり方です。相手が与えてくれた善いものに相応する善いものを与える愛、相手から自分が与えたものに相応するお返しを求める愛です。
その相対的な愛に対して、イエスは弟子たちに「絶対的な愛」を求められます。ここで「絶対的」というのは、「相手の価値とか出方に絶して(と関係なく)」という意味です。相手が善い人か悪い人かに関わらず、相手が自分によくしてくれるか、悪をもって向かってくるか、すなわち敵として向かってくるかに関わらず、こちらからは相手に善いことをなすという性質の愛です。このような意味の「絶対的な愛」を、イエスは「敵を愛しなさい」という一語で表現されるのです。
「しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである」。(六・三五)
文頭の「しかし」は、以上に見た世間一般の人たちの相対的な愛とは違って、「あなたたちわたしの弟子は」敵を愛するという絶対的な愛に生きなさいと、世間の相対的な愛とイエスの弟子の絶対的な愛を対照しています。
最初にイエスが語り出された「敵を愛しなさい」という言葉にわたしたちは驚きましたが、この段落にまとめられたお言葉によって、わたしたちはイエスが求めておられる愛が「絶対的な愛」であることを理解することができるところまで来ました。最後にイエスはその絶対的な愛を、「人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい」と、簡潔な言葉でまとめられます。
「人に善いことをし」は、どのような人にも無条件に善いことをするように、という意味です。相手が自分の仲間であろうが敵であろうが、相手が自分にどのような態度で向かってこようが、どのような仕打ちを向けてこようが関係なく、相手のあり方とか態度とか行動に関係なく、無条件に善いことだけをするようにという意味です。これは、先に見たパウロがローマ書一二章で求めていたことの要約です。
また、「何も当てにしないで貸しなさい」という言葉は、相手から相応の報いを求めない愛、すなわち相対的な愛ではなく絶対的な愛に生きるようにということを、具体的な形で表現したものです。そして最後に、この相手からの報いを求めない絶対的な愛は、神から大きな報いを得ることが語られます。
「そうすれば、あなたたちの報いは大きく、いと高き方の子となるであろう」(私訳)。「そうすれば」、すなわちわたしたちが絶対的な愛に生きるならば、人からの報いはありませんが、「いと高き方の子となる」という大きな報いが与えられます。ここで「報い」につけられている形容詞は、量的に多いという意味だけでなく、価値が大きいという意味もあります。ここでは受ける報いの価値が大きいという意味であり、報いの質が高いことを指しています。
その報いの内容は「いと高き方の子となる」、すなわち神の子となるという内容です。神の子というのは、神から子として受け入れられ、子として愛され、子として神の命と栄光を受け継ぐ者として、人間にとって最高の資格です。ただ、ここの文は「報いは大きいであろう、子となるであろう」と未来形で語られていることが注目されます。この未来形は、「幸いの言葉」にあった「満たされるようにようになる」とか「笑うようになる」の未来形と同じく、来るべき世での報いと栄光を語っているとも理解できます。ユダヤ教の世界ではそのように理解されるのが自然でしょう。しかし重点は、来るべき世で神の子としての栄光を受け継ぐ者は、地上ではこのように絶対的な愛に生きることが求められているという点にあります。イエスはご自身が生きておられる場に、弟子として共に生きようとする者に、そのよな愛に生きることを求められます。そして、そのような愛が求められる理由がすぐに続けて語られます。
「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである」。
この文は理由を示す接続詞で始まっています。この文は先行する三五節の理由または根拠を指し示しています。いと高き方(神)は、恩を知らない者にも悪人にも情け深いのであるから、その方の子となるように招かれているあなたたちも、敵を愛するという絶対的な愛に生きるように、と勧めています。わたしたちが敵を愛する絶対的な愛に生きる根拠は、いと高き方(神)は、恩を知らない者にも悪人にも情け深いからです。すなわち、神が相手の在り方に絶した愛、絶対的な愛でわたしたちを愛してくださっているからです。
この神の絶対的な愛を語るのに、ルカは「恩を知らない者にも悪人にも情け深い」という、比較的抽象的な表現を用いていますが、マタイは同じことを、日常的・具体的体験(とくに農民にとって切実な体験)を比喩として語っています。
「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」(マタイ五・四五)。
おそらくマタイの表現の方がイエスが語られた言葉に近いのでしょう。あるいは、別の機会に両方の表現を用いて語られたのかもしれません。両方とも、神は人の在り方に関係なく、受ける側の資格に条件をつけることなく、無条件に善いことをしてくださるという、神の無条件・絶対の愛を指し示しています。このように、神の愛が相手の価値とか資格に関係なく無条件に与えられるという相を、聖書は《カリス》、日本語では「恩寵」とか「恩恵」、「恵み」と呼んでいます。この《カリス》は、とくにパウロが目立って多く用いています。パウロは「恩恵の使徒」と呼ぶことができます。
わたしたちはこのような無条件絶対の神の愛によって生かされているのですから、わたしたちがこの神との交わりの中にとどまろうとするかぎり、わたしたちもお互いの間でこのような無条件絶対の愛に生きなければならないのです。イエスが弟子たちに絶対的な愛を求められるのは、神の絶対的な愛を深く体験しておられるからであり、ご自分に従う者にもその神の絶対無条件の愛にとどまり、その愛を受けて、神と同質の愛に生きるようにならせるためです。そのように、神と同質の愛に生きる者こそ、神と同質の命に生きる者、すなわち神の子となるのです。そのように生きる者にとって、神は実質的に父となります。わたしたちが神の子であるならば、神はわたしたちの父です。ここに至って、絶対的な愛への招きが、父と子の関わりの中で語られることになります。
「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」。(六・三六)
ルカ福音書で、神が父と呼ばれるのは、実はここが最初なのです。誕生物語で少年イエスが神を父と呼んでおられるところ(二・四九)を別とすれば(誕生物語は三章以下の本体部分と別に考察すべきことは本稿の最初に述べました)、ここで初めて神が「父」と呼ばれることになります。
前節で語られた「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも情け深い」という事実が、「あなたがたの父は憐れみ深い」と言い換えられ、それを根拠にして、「(子である)あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」と求められます。ルカの文章では「のように」という語が用いられています。これは「と同じように」という意味の語ですが、同じようになることを目標として努めなさい、という意味ではなく、「それを根拠として、同じようにしなさい」、「であるのだから、同じようにしなさい」という意味であることは、前節で同じことが明確に理由とか根拠を示す接続詞を用いて語られていることからも明らかです。
ここで用いられている「憐れみ深い」という語は、前節の「情け深い」とは違う用語ですが、この「憐れみ深い」は、前節の「恩を知らない者にも悪人にも情け深い」を指しています。すなわち、絶対無条件の愛を日常的な用語で指していると理解できます。父が「憐れみ深い」のであるから、その憐れみ(絶対無条件の恩恵)を受けて生かされているあなたたちも、同じように無条件の愛をもって互いに愛するのが当然である、ということになります。わたしは、訳語としては「憐れみ深い」よりも「慈愛深い」の方が適切ではないかと考えています。
わたしたちは神の恩恵によって救われ、神の命の世界に導き入れられた者であることは、とくにパウロが強調してやまないところです。神がわたしたちに資格を求めたり、わたしたちの在り方とか道徳的価値に条件をつけられるならば、自分はとうてい救われることはできないことを、わたしたちはよく知っています。福音はキリストにおいて与えられている神の恩恵の告知です。その恩恵を根拠にして、福音はわたしたちが無条件絶対の愛に生きることを求めるのです。
実は敵を愛する愛を語る言葉は、イエス以前にもあるのです。パウロがローマ書(一二・一九)で引用している旧約聖書や古代の知恵の言葉も、悪に悪をもって報いず、善をもって悪に打ち勝つことを語っています。古代バビロニアのテキストにも同じような言葉があるとされています。イエスとほぼ同時代の死海文書にもよく似た言葉があり、セネカにも「神々に倣おうとするならば、恩を知らぬ者にも善いことをなせ。太陽は悪しき者の上にも昇り、海は海賊たちにも開かれているのであるから」という言葉が伝えられています。
イエスの独自性は、そのような敵を愛する愛を神の無条件絶対の恩恵によって根拠づけられた点にあります。それはもはや人間の倫理的目標ではなく、神の恩恵の支配の一面として、恩恵によって与えられた事実となります。その消息は、パウロ書簡などで詳しく展開されることになりますが、イエスは端的にその事実を宣言されます。
イエスは神の支配の到来を福音として告知されました。イエスが告知された神の支配の実質は、恩恵の支配です。このことは福音書全体の講解で追求しなければならない主題ですが、ここでは結論を先取りしておきます。この三六節の言葉こそ、イエスが告知され神の国の大憲章です。神が支配される現実を「神の国」というならば、そしてその国に憲法があるならば、その憲法は次のただ一箇条です。
「あなたたちの父は慈愛深いのだから、あなたたちも慈愛深くありなさい」。
(ルカ福音書 六章三六節 私訳)
イエスは父の絶対無条件の恩恵を告知されました。そして、その恩恵が支配する場に生きる者に、父と同じように恩恵の原理で隣人に関わるように、すなわち「慈愛深い」者であるように求められました(三六節)。続いて、その慈愛深い在り方が、まず消極面から「裁くな、断罪するな、赦しなさい」という三つの動詞で具体的に描かれ(三七節)、次に「与えなさい」と積極面を示す動詞で描かれます(三八節)。
「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される」。(六・三七)
ここで「裁くな」という語の意味は、並行する「罪人と決めるな」で説明されています。イエスはここで民事や刑事の裁判のことを言っておられるのではなく、わたしたちが関わりを持つ隣人に対して宗教的・道徳的判断をすることを取り上げておられます。「罪人と決める」は、もともと法廷用語で有罪と判決すること、「断罪する」ことです。これは「義とする」(法に背いていない、正しいと判決する)の反対の動詞です。それはユダヤ教社会では、モーセ律法による神の前での有罪の判定を指していました。
人間は何らかの規準を用いて他人を裁く(=価値を決める)ことをしたいものです。その規準は、ユダヤ教社会ではモーセ律法であり、他の社会ではその社会の道徳観念とか文化価値ですが、結局人間は自分を裁く者の立場に置いて、自分を規準として他人を裁く(価値判断をする)ことをしたいのです。自分と同じであるとか自分に好都合であれば価値があり、違っていたり不都合であれば価値がないとか悪であると判定するのです。
恩恵が支配する場では、このように自分を裁く立場に置いて他人を裁くことはありえません。恩恵の場に生きる者は、自分が無価値であるにもかかわらず神の恩恵によって受け容れられていることを自覚しているので、自分を価値ある者の立場において他者を判断することはできません。もし自分を裁く者の立場において他者を判断するようなことをするならば、それは自分も神の規準で神から判断される(裁かれる)場に置くことであって、恩恵の場から自分を追い出すことになります。
「裁くな、断罪するな、赦しなさい」という勧告に従った結果を示す文は、「裁かれない、断罪されない、赦される」と、すべて受動態で語られています。神の事柄を述べるとき受動態を用いるのは、イエスの特徴的な語し方です。これらの受動態の文の隠された主語は神です。「神は裁かない、神は断罪しない、神は赦す」のです。
この消息は、イエスが決算をする王と家臣のたとえで語っておられます(マタイ一八・二一〜三五)。王は、返しきれない巨額の負債を負っている家臣を憐れんで、負債を赦してやります。ところがその家臣は、自分が僅かの金を貸している同僚に、厳しく返済を求めて訴え、裁判にかけます。それを知った王はその家臣に、「わたしがお前を憐れんでやったように、自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」と言って、その家臣を獄に投じます。このたとえはマタイだけにあってルカにはありませんが、恩恵の場に生きる者は、仲間にも同じ恩恵の原理で対し、裁くことなく、赦すべきことを見事に語っています。三八節の「与えなさい」の理由としてつけられている「あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである」という秤の比喩は、この三七節の「裁くな、断罪するな、赦しなさい」の理由でもあります(マタイ七・二はそうしています)。わたしたちは「自分の裁く裁きで裁かれる」のです。
だから、自分が赦されるためには、仲間を赦す必要があります。ところが人間にとって赦すことは本性的に難しいことです。自分になされた悪には報復したいものです。自分に借りがある者からは厳しく取り立てたいものです。自分と違う者は厳しく排除しようとします。赦すとは、自分に対してなされた悪に報復しないだけでなく、自分と違う者を無条件に受け容れることも含んでいます。このような意味を含め、わたしたちがどのような相手も、無条件に隣人として受け容れ愛していくことは、人間本性には難しいことです。しかし、わたしたちが恩恵の場に生きるときには、そうしないではおれない必然の生き方になります。そしなければ、自分が恩恵の場にとどまれないからです。
「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである」。(六・三八)
「赦す」には、たんに報復しないという消極面だけでなく、無条件に相手を受け容れるという積極面があることを見ましたが、その積極面が「与えなさい」という言葉でさらに押し進められます。
わたしたちが人に無条件に与えるならば、その気前の良さの何倍もの豊かさで、わたしたちに与えられるようになるというのです。そして、わたしたちに与えられる豊かさが、「押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる」という穀物の売買のときのイメージで描かれます。当時のパレスチナでは穀物を買うときに、買い手が衣の裾を巻き上げて穀物を入れてもらいました。もう一杯で入らないと言っているのに、売り手がまだまだ入ると言って、穀物があふれ出るほどに量りをよくして、押し入れ、揺すり入れる様子が、比喩として用いられています。
ここでも「与えられる」という受動態の隠された主語は神です。人が与えてくれるのではありません。わたしたちが惜しみなく、無条件で与えるならば、神がわたしたちに何倍もの豊かさで良いものを与えてくださいます。その「何倍も」は量ではなく、わたしたちが与えるものの何倍も優れたものという質の豊かさです。
世の人たちは、返してもらうことを当てにして貸したり与えたりします。しかし、恩恵の場に生きるイエスの弟子は、自分が無条件に神から善いものを与えていただいているのですから、隣人に何も当てにしないで、無条件で与えるように求められています。そして、そのように人からの報いを求めないで与えるならば、わたしたちが人に与えたものとは較べものにならない、はるかに勝る善きものを神から与えられるのです。
神から与えられる善きものとは聖霊です(一一・一三)。イエスに従う者、キリスト・イエスにあって生きる者には、賜物として、父の無条件絶対の恩恵による賜物として、神の御霊が与えられます。この御霊こそ、わたしたちが父の恩恵の場にあるゆえに、人を赦し、無条件に与えるとき、父から与えられる善きものです。この聖霊が、わたしたちの人生に満ちあふれる幸いをもたらすのです。
ルカはここに「あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである」という秤の比喩を置いています。この秤の比喩は、マルコ(四・二四)ではイエスのたとえ話しを聴く者の悟りについて用いられ、マタイ(七・二)では「裁くな」という勧告の理由として用いられています。ルカはその比喩を、与える者の幸いの根拠として用いています。
「受けるよりは与える方が幸いである」という、四福音書には出てこない語録がイエスご自身の言葉として伝えられています(使徒二〇・三五)。わたしたちはともすれば受けることに幸いを感じます。しかし、ここで見たように、イエスは与える者の豊かな幸いを明確に語っておられるのですから、この語録も同じ線上にある言葉として、確かにイエスから出たものとして受け取ることができます。
このように、わたしたちが人を裁かず、断罪せず、赦し、与えるならば、神から裁かれず、断罪されず、赦され、豊かに与えられるという扱いを受けます。これは神からの報酬です。これはわたしたちの行動や在り方に対する報酬ですから、当然わたしたちの行動の後に起こるものとして未来形(またはそれに相当する形)で描かれます。しかし、この未来形は、そのような当然の論理的順序を示すだけでなく、恩恵の場に生きる者の将来に待っている神の報酬を指し示しています。すなわち、神が終わりの時に世界を裁かれるとき、恩恵の場にあって、人を裁かなかった者は裁かれることなく、人を断罪しなかった者は断罪されず、人を赦した者は赦され、人に無条件に与えてきた者は、神の豊かな栄光をあふれるまでに与えられるという、終末的な報酬を指しています。
このような終末時における神の豊かな報酬の約束は、「幸いの言葉」にも見られた現在の貧しさと終末の豊かさの逆転の宣言と同じ線上にあり、イエスの福音の基本構造、すなわち、悪が支配する現在の世と神が支配される栄光の来るべき世(終末)の対比を保持しつつ、同時にその終末がすでにこの世界に突入して来ているという構造に由来しています。
ここでルカは、イエスが語られた人を裁くことの愚かさを示す二つのたとえを置きます。それは「盲人の道案内をする盲人」(三九節)のたとえと、「おが屑と丸太」(四一〜四二節)のたとえです。その間に師と弟子の関係を扱う語録(四〇節)が入れられていますが、この挿入の意義は議論の多い問題です。それで、先にこの二つのたとえを取り上げ、その後に師と弟子の語録を扱います。
「イエスはまた、たとえを話された。盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか」。(六・三九)
恩恵の場に生きる者から見れば、人を裁く思いや行為は自分を恩恵の場から追い出して裁きの場に追いやる愚かなことです。イエスが告知される父の絶対無条件の恩恵を律法の意義を破壊する立場だとして批判し、イエスを追及した周囲のユダヤ教指導者たち、とくにファリサイ派の律法学者たちを、イエスは盲人の道案内をする盲人という比喩で、その愚かさを指摘されます。この比喩がファリサイ派の人たちを指していることは、マタイ(一五・一二〜一四)が明言しています。
ファリサイ派をはじめ当時のユダヤ教指導者たちは、モーセ律法の順守によって民を神の民として導こうとしていました。モーセ律法と派生する細かい規定によって民の生活を規定し、違反する者を裁いていました。ところが、彼らは神と民との関係の根本を理解していないのです。神の絶対無条件の信実と慈愛こそが、神と民の関係を形成するのであって、民が律法を行うことが土台となるのではありません。この根本を理解しないで民を導こうとするユダヤ教指導者たちは、まさに盲人の道案内をする盲人です。盲人が盲人の道案内をすれば穴に落ち込む結果になります。現在のユダヤ教指導者たちは、この愚かな道案内であると、イエスは暴露されます。根本問題が見えていない指導者たちに指導される民の悲惨は、多くの歴史的事件が証明しています。
この根本の問題が見えていないのに、他者の細かい行為の善悪を批判する者の愚かさが、次の「おが屑と丸太」のたとえで、さらに誇張した形で語られます。
「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる」。(六・四一〜四二)
目の中にある丸太(あるいは梁)とは誇張した表現ですが、針の穴とらくだの比喩のように、イエスの語り方の特色でもあります。イエスは、人を驚かす意外な表現で、根本問題が見えていない者たちの愚かさを印象づけられます。この比喩は、他人の欠点はよく見えるが、自分の欠点には気づかないという程度のことではなく、自分の根っこの問題に気づかないで、他人の枝葉の問題ばかり見ている者の愚かさを語っています。丸太とおが屑(協会訳では「梁とちり」)は根本問題と枝葉の問題の対比を示しています。根が悪ければ木は枯れます。枝葉には欠陥があっても、根がしっかりしている限り、再生して、よい実を結ぶことができます。
そして、ここでの根本問題とは、イエスが「神の支配」と呼んでおられる恩恵の支配の事実です。恩恵の支配が到来しているのに、それに気づかず、それを告知するイエスを迫害する者たちの盲目が、「自分の目の中の丸太に気づかない」者と言われています。そのように根本問題が分かっていないのに、他人の日常の些細な行為がモーセ律法やその細則に違反していないかどうかということだけを問題にして、他人を裁いている者の愚かさが、自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、「さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください」と言う者の比喩で語られます。このように言う者は、自ら盲人でありながら、盲人の道案内をしようとする者と同じです。
それは愚かさであり、偽善です。自分で勝手に自分を善として、他人の善悪を決める(裁く)立場に自分を置いている偽善です。このような者たちに向かってイエスは、「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け」と呼びかけられます。もし彼らが自分の目から丸太を取り除くならば、すなわち自分が無価値・無資格であるにもかかわらず神の恩恵によって存在しているのだという事実に気づくならば、その恩恵の光に照らし出されて、人間の諸問題の実相が「はっきり見えるようになり」、具体的な問題もその根本から解決する道が開けます。
根本問題が見えれば、枝葉の問題、ここでは日常の行為の問題はどうでもよい、というのではありません。おが屑は取り除かれなければなりません。しかし、おが屑が取り除かれるためには、恩恵の場にしっかりとどまり、そこから見るという根本問題が解決していなければなりません。
なお、ここで裁く仲間内の相手が「兄弟」と呼ばれていることが目を引きます。この呼び方はユダヤ教でも行われていることで、イエスが用いられた可能性は十分にありますが、キリストの民がお互いに呼ぶ呼称でもありますから、この比喩は福音書を読むキリストの民の中で、お互いに裁くことの愚かさを語り続けることになります。
ところで、人を裁くことの愚かさを語る二つの比喩、「盲人の道案内をする盲人」と「おが屑と丸太」の比喩の間に、師と弟子とについての語録が置かれています。
「弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる」。(六・四〇)
この語録は、その文意と、その位置(それがここに置かれている意義)が問題になります。両者は深く関わっています。
この語録は、マタイとルカが用いた共通の資料である「語録資料Q」にあったものと考えられますが、マタイは全然別の文脈で用いています。マタイでは、イエスが弟子を宣教に派遣されるとき、迫害を予告されるところ(マタイ一〇・一六〜二五)にこの語録が用いられています。神の国を告げ知らせる弟子たちは、行く先々の町で迫害されるであろうと予告された後、こう言われます。
「弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう」。(マタイ一〇・二四〜二五)
マタイでは、師であるイエスが迫害されたのであるから、その弟子が迫害されるのは避けられない。師と同じように扱われるならば、弟子としてはそれで十分である、という意味で用いられています。
ところがルカではこの「弟子は師にまさるものではない」という格言が違った文脈で用いられ、違った意味になっています。ここに置かれている意義を考えるために、その文意を正確に理解する必要があります。ここで「十分に修行を積めば」と訳されているギリシア語は、「整える」とか「完全にする」という動詞の受動態です。「十分訓練を受けた者は」(新改訳)とか「整えられたならば」(岩波訳)が近いと考えられます。「修行を積む」という人間の側の精進努力を求める思想はルカにはありませんし、新約聖書にも無縁です。この語録は次のように訳すべきでしょう。
「弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも十分に鍛えられたならば、その師のようになるであろう」。
このような意味の言葉が、根本問題が見えていない指導者を批判する二つのたとえに挟まれて出てくると、その解釈はその文脈でなされなければならないことになります。師とは知識を与える教師ではなく、自分のような人物にするために導く指導者、道案内です。弟子は訓練を受けて、師のような人物になることを目標にして従います。その師が、根本問題の見えていない盲人であって、弟子の知識や生活の枝葉のことだけを問題にするような偽善者であれば、弟子は同じ盲目と偽善に陥るだけです。弟子たちは、今は師のイエスが見ておられるように根本問題が見えていないかもしれないが、イエスに従い、十分に鍛えられるならば、師のイエスと同じように根本問題を理解して、兄弟たちの目からおが屑を取り除くことができる良き指導者、すなわち具体的な諸問題を正しく解決できる良き指導者となるであろう、と言っていると解釈できます。
イエスの弟子として父の絶対恩恵の場に生きる生き方を、敵を愛することと人を裁かないという主題にまとめたルカは、その本論部分(六・二七〜四二)の結びとして二つのたとえを置きます。「良い木と悪い木」のたとえと「家と土台」のたとえです。
「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない」。(六・四三〜四四)
この「良い木と悪い木」のたとえを、ルカがどのような意味で用いているのか、ルカの特色を理解するために、マタイの用い方と較べてみましょう。マタイ(七・一五〜二〇)はこの比喩を明らかに偽預言者を警戒するようにという文脈で用いています。この部分は「偽預言者を警戒しなさい」という言葉で始まっています。これは、マタイ共同体の諸集会が巡回してくる預言者たちによって指導されていた状況で、その中でマタイから見て弟子を間違った道に導く危険のある偽預言者を警戒するように呼びかけ、「良い木と悪い木」のたとえで、偽預言者を見分ける規準として、彼らの行為の善し悪しを見るように促しています。
ルカは違った状況で著作しています。エーゲ海地域のパウロ系異邦人諸集会の間で成立したと見られるルカ福音書では、そのような状況はなく、ルカはこの語録伝承に伝えられたこの比喩を、偽預言者についての警告としてではなく、人間の心と行動の関係についてのきわめて一般的な真理を指し示す比喩にしています。そして、この比喩が指し示す真理を、倉のイメージを用いて次のように語ります。
「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである」。(六・四五)
良い木が良い実を結ぶように、善い人はその心の倉(心という倉)から良いものを出します。その心という倉に良いものが入れられているからです。それに対して、悪い木が良い実を結ばず、悪い実だけを結ぶように、悪い人はその心の倉から悪いものを出します。その心という倉には悪いものが詰まっているからです。このように木と実の関係が、人間における心と行動の関係を指し示す比喩として用いられています。
そして、その行動が口の行動として、人が語る言葉に集中して問題とされ、「人の口は、心からあふれ出ることを語るのである」と続きます。先に「敵を愛しなさい」というところで、その中身を語るとき、「悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」と、言葉による対応が大きな部分を占めていました。傲慢とか憎しみという悪いものが詰まった心からは、呪いとか侮辱の言葉が出て来ます。愛が詰まった心からは、いたわりや励ましの言葉が出て来ます。人間の中身は、その人が語る言葉にまず表れてきます。人間の中身は結局言葉です。
このことを、ルカのこの部分と並行するマタイ福音書の記事(一二・三三〜三七)が明言しています。マタイ福音書はここで、ルカと同じく「良い木と悪い木」のたとえの後に、倉のイメージを用いて「人の口からは、心にあふれることが出て来るのである」と言って、人は自分が語る言葉に神の前で責任を問われると明言しています。すなわち、人間の中身は、その語る言葉で表現されているということになります。
イエスの言葉を聴こうとして集まってきている人々に、以上のように神の恩恵の支配を語られた後、イエスは最後に今聴いた言葉を実際に行うように求められます。ところで、この最後の勧告は、「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか」という警告で始まっています(六・四六)。これはどのような人たちを指しているのでしょうか。ここでも比較のためにまずマタイの解釈を見てみます。
マタイは、イエスを「主よ、主よ」と呼びながらイエスの言葉を行わない者に関する記事を、偽預言者に対する警戒を呼びかける言葉(七・一五〜二〇)の直後に置いて、彼らが主の御前から追い出されるという偽預言者に対する裁きの記事にしています(七・二一〜二三)。彼らは、「主よ、主よ、わたしはたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか」と言っています。この場合の「主よ、主よ」は、復活されたイエスを主《キュリオス》として呼びかけていることを指し、この一段は巡回預言者が「主イエス」《キュリオス・イエスース》という御名を用いて奇跡を行い、預言して主の言葉を教えるカリスマ的な伝道活動をしていた状況を前提にしています。
そのように復活されたイエスを「主」と呼んでカリスマ的な伝道をする預言者たちの中に、マタイから見れば聖なる神の律法を無視するような者たちがいて、彼らを危険な偽預言者として警戒するように共同体に呼びかけることになります。イエスの教えはモーセ律法を廃止するのではなく完成するのであるというマタイの立場(五・一七)からすれば、自分の霊的能力を誇り、あえて律法に違反するような生活をし、そう教える巡回伝道者は「不法を働く者ども」であり、「父の御心を行う者」ではなく、天国に入ることはないのです。この「山上の説教」で語られたイエスの言葉を実行する者こそ、父の御心を行う者です。
このように、マタイの記事は、イエス復活後の福音活動の状況で書かれていますが、ルカにはそのような状況はありません。復活されたイエスを「主」《キュリオス》と呼んでいた復活後の共同体の状況で読むこともできますが、必ずしもそう理解しなければならないことはありません。地上のイエスがこの時の聴衆に語りかけておられる言葉として、十分理解することができます。
この当時「主よ」という呼びかけは、家の主人や、目上の人、宗教的な指導者であるラビに対する呼びかけとして、日常的に用いられていました。福音書にも、弟子がイエスに「主よ」と呼びかけている実例は多くあります。ここに集まってきている人々も、イエスを主と呼んで尊敬し慕ったいる人々でしょう。イエスはそのような人たちに語りかけられます。「あなたたちはわたしを主と呼んでいる。そうであれば、わたしの言葉を行いなさい。そうすれば、もっとも確かな土台の上に自分の人生を建て上げることになるのだ」。
このように構成しているルカの形の方が、マタイよりも元の語録資料の形に近いと考えられます。マタイはこの「主よ、主よと呼びながら」の語録を、マタイ共同体の特殊な状況に適用して構成しています。わたしたちはそのような限定にとらわれず、現在のわたしたちに語られる言葉として聴くべきです。
「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった」。(六・四六〜四九)
イエスの教えをまとめて提示するこの「平地の説教」の締めくくりとして最後に、聴いた言葉を実行することの重要性が語られます。それも、イエスの語り方の特色である比喩を用いてなされます。
この比喩そのものは一読してすぐ理解できます。イエスの言葉を聴いて行う人は、確かな土台の上に家を建てた人のようで、人生の困難や迫害などの逆境になっても、信仰を失ったり神の子としての立場を失うことなく、しっかりと立ち続けることができます。それに対して、イエスの言葉を聴くだけで行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人のようで、このような困難が押し寄せると、たちまち信仰を失い、神の子としての喜びを失ってしまいます。
ここで重要なことは、イエスの言葉を「聴いて行う」という時の、「行う」の意味内容です。それは、イエスの言葉をどのようなものとして聴くかと深く関わっています。もしイエスの言葉を、ユダヤ教徒がモーセ律法の言葉を聴くように、モーセ律法をさらに厳しく内面化した律法として聴くならば、それはわたしたちをいっそう厳しい律法の支配の下に置くだけです。この場合の「行う」は、律法の規定を守り行うという意味になります。
イエスの言葉は、しばしば誤解されるように、モーセ律法をさらに厳しく内面化したものではありません。イエスの言葉は、これまで強調してきたように、恩恵の支配を告知する言葉です。したがって、イエスの言葉を聴いて「行う」とは、イエスが告知される恩恵の場に実際に生きることです。恩恵の場に実際に生きるということは、激しい行為です。激しい生き方です。
イエスは「敵を愛しなさい」と言われました。この言葉は、先に見たように、絶対無条件の父の恩恵の場に生きる者は、同じように相手の価値とか在り方に絶して無条件に善を行うことを端的に表現した言葉でした。これは、世の常識とか倫理基準を超えた激しい生き方です。イエスは弟子に、このような激しい生き方、行動を求められます。それは、イエスご自身が父の恩恵の場で激しく生きておられるからです。そのような恩恵の場に生きる者に求められる生き方は、「あなたたちの父は慈愛深いのだから、あなたたちも慈愛深くありなさい」という言葉に集約されていました。この言葉を実際に生きることが、ここでイエスが求められる「わたしの言葉を聞き、それを行う」ことです。
父の恩恵の告知を聴いているだけで、その恩恵に身を投げ出して、その恩恵の場に実際に生きることをしなければ、恩恵は空虚な言葉であり、実際に聴く者を変えていくことはありません。この恩恵の告知に全存在を投げ入れ、その恩恵の場に生きることによって敵を愛する慈愛に生きるようになるとき、父の絶対無条件の恩恵という岩の上に自分の人生を築くことになります。逆に、この恩恵の言葉に身を委ねないで、自分の努力や力で生きていこうとする者は、土台のない家のように、人生の困難や世の迫害に押し流されるだけです。
以上、ルカがまとめた「平地の説教」の内容を見てきましたが、その内容はマタイの「山上の説教」よりもいっそう明確に、それが倫理的説教ではなく、恩恵の告知であり、恩恵の場に生きる者の姿であることを指し示しています。