ルカ福音書講解 8

    第八章 七十二人の派遣

                           ― ルカ福音書 九章五一節〜一〇章四二節 ―



はじめに

 ルカ福音書では、九章五一節からエルサレムに向かわれるイエスの最後の旅が始まります。そして、一九章二八節から始まる段落でエルサレムに入られることが語られるまで、ほぼ一〇章にわたってこの旅の記事が続きます。この部分は「ルカの旅行記」と呼ばれ、ルカ福音書の中心部を形成し、この福音書の特色を示す部分となっています。

 この部分は「旅行記」と呼ばれていますが、その内容を見ますと、イエスとその一行がガリラヤからエルサレムに向かう旅の出来事を語るところは僅かで、大部分はイエスの教えの言葉やたとえであり、ルカによるイエスの言葉の一大集成の観を呈しています。その中には、他の福音書にはないルカ独自のものが多く、ルカだけが持っている独自の資料(ルカの特殊資料L)が多く見られます。

 ではルカはどういう原理でこの部分を配置し構成したかは理解困難で、研究者の間で様々な意見があります。その一つ一つについて検討することはできませんし、必要もないでしょう。わたしたちは、受難の地エルサレムに向かわれるイエスと一緒に旅の途上にあることを念頭に置いて、ルカによってここに集められた順序に従って、イエスの教えの言葉やたとえに耳を傾けたいと思います。


  59 サマリア人から歓迎されない(九・五一〜五五)

サマリア人の拒否

 イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。(九・五一)

 イエスがエルサレムで逮捕され、ローマ人に引き渡されて処刑されるに至ったのは、イエスがユダヤ教徒として過越祭に行かれたときに、ガリラヤではできなかった逮捕と訴追がエルサレムではできるとして祭司長たちが決行したという成り行き、イエスにとって思いがけない成り行きの結果ではなく、イエス御自身の自発的な決意から出た出来事であることがここで明言されます。このように旅の初めに、それがイエスの決意によるものであることを明言するのは共観福音書の中ではルカだけです。この節を協会訳は、原文にある「顔を向けた」という表現に忠実に、「さて、イエスが天に上げられる日が近づいたので、エルサレムへ行こうと決意して、その方へ顔をむけられた」と訳しています。

 イエスご自身にとっては、これは死地に赴く決意であったのでしょうが、死の後に復活と昇天が続き、十字架の死と復活・昇天を一体の出来事として知っている共同体の理解に従い、ルカはそれを「天に上げられる時期」と記しています。

 そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。(九・五二〜五三)

 巡礼者がガリラヤからエルサレムに向かう道は二つあります。南に隣接するサマリアを通る道と、サマリアを避けてヨルダン川の東側を迂回する道です。サマリアを通る道の方が近いのですが、ユダヤ人はサマリア人と交際していなかったので、普通はヨルダン川東の遠い迂回路を行きました。しかし、イエスは南のユダヤと北のガリラヤを行き来するとき、あえてサマリアを通る道を選ばれました(ヨハネ福音書四章)。ここでもサマリアを通ってエルサレムに向かおうとされます。イエスはユダヤ教徒とサマリア教徒を差別することなく、同じように「神の国」を告げ知らせようとされます。

 「イエスは顔の前に使いの者を派遣された」(直訳)。この「顔の前に派遣された」という表現は七十二人を派遣されたところにも用いられており(一〇・一)、両方の箇所の関連をうかがわせます。「イエスのために準備する」というのは、普通は宿舎などの準備をすることですが、イエスのために「道備えをする」、すなわちイエスを受け容れるように、前もってイエスの名代として「神の国」を告げ知らせる働きを委ねられたと理解することも可能です。この使者を人々は「受け容れない」という動詞も、両方の箇所(九・五三と一〇・一〇)で同じです。

 使いの者たちが入ったサマリアの村人は、イエスの使者を迎え入れようとはせず拒否します。その理由として、「イエスの顔がエルサレムに向けられていたからである」(直訳)とされています。サマリアの村人たちは、イエスの一行がエルサレムに向かうユダヤ教徒の一団であることを知り、ユダヤ教徒に対する敵対意識から村に入ることを拒否します。それだけでなく、彼らはガリラヤにおけるイエスの評判を聞いており、イエスがユダヤ人のメシアとしてエルサレムに入城されることを阻もうとしたこともあるのかもしれません。イエスはユダヤ教徒とサマリア教徒の区別を超えておられますが、住民の方は宗教の違いという「隔ての中壁」に閉じこもったままです。

 弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。イエスは振り向いて二人を戒められた。そして、一行は別の村に行った。(九・五四〜五六)

 使いの者たちの報告を聞いて弟子たちは腹を立てます。ユダヤ教徒である弟子たちは、サマリア教徒の相変わらずの敵意とイエスに対する侮辱に憤慨し、中でも気性の激しいヤコブとヨハネの兄弟は、天からの火で彼らを焼き滅ぼすことまで口にします。「天からの火を降らせ」という表現はカルメル山でエリヤがバアルの預言者と対決したときの情景(列王記上一八章)を思い起こさせます。それだけでなく、エリヤは実際王の出頭命令を伝えに来た兵士たちを「天から降ってきた火」で焼き尽くしています(列王記下一・九以下)。ヤコブとヨハネの念頭にはエリヤについてのこのような聖書の伝承があったのでしょう。事実、ペトロのメシア告白から山上の変容にかけて、しばしばエリヤのことが話題になり、イエスとエリヤの関係が取り上げられています。

 このようなヤコブとヨハネの憤慨と性急な発言をイエスは「振り向いて戒め」られます。この後にある写本では、「そしてイエスは言われた、『あなたたちは自分が誰の霊のものであるかを理解していない』」という文が付けられています。有力な写本にはないので底本は入れていませんが、この文はこの段落の理解にとって示唆的です。たとえそれが聖書にあるエリヤのような有名な預言者の事蹟であろうと、それをそのまま模範とすることはイエスの霊に導かれる者にはふさわしくないことがあると教えています。聖書の文字通りの原理主義的理解は危険だということです。

 さらに五六節の最後に、「人の子は人々の命を滅ぼすためではなく、救うために来たからである」という解説的な文を加えている写本があります。これは、他のイエスの語録(一九・一〇、マルコ三・四、ヨハネ三・一七など)から、この場面でのイエスの行動の意義を解説する文として、後代に挿入されたものと考えられます。底本も入れていません。

 

イエスとサマリア

 「一行は別の村に行った」とありますが、その別の村がサマリアの村なのか、またはサマリア以外の村なのかは語られていません。先にも触れたように、以下の「ルカの旅行記」には具体的な旅の行程がほとんど触れられていないので、イエスとその一行がどこを通ってエルサレムに向かったのかは確認できません。ルカは実際の行程には関心がなく、この「旅行記」を、マルコの枠から離れて彼独自の福音提示をするための場所としているように見受けられます。ルカは、マルコにもマタイにもないルカ独自の資料(ルカの特殊資料)と、マルコにはないがマタイとは共通している資料(「語録資料Q」)をここに集中して用いて、イエスが告知された福音の内容と性格を際だたせようとしています。その目的のために、出来事の地理的な場所にこだわることなく、当然ガリラヤで起こったことと見られることでもこの「旅行記」の中で扱うことになります。

 このエルサレムへの旅は、エリコを通ってエルサレムに入っておられることからも、ヨルダン川の東側を迂回するユダヤ教徒の通常の巡礼路を行かれた可能性が高いのですが、ここに見るように、少なくともイエスは旅の初めにはサマリアを通ることを計画されたのですから、この機会にイエスのサマリアとの関わりについて触れておきます。

 ヨハネ福音書によると、イエスは洗礼者ヨハネと共にされた初期のユダヤでの活動を終えてガリラヤに行かれるとき、サマリアを経由しておられます(四章)。たんに通過するだけでなく、そこで教えを説き、イエスを信じる者が出ています。その後も、イエスは祭りの時にガリラヤとエルサレムを往復しておられます。この点では、エルサレムへの旅を最後の一回だけとするマルコよりも歴史的に正確だと考えられます。そのさい、すでに信じる者がいるサマリアを通られたことは十分可能性があります。そうすると、最後となるこの過越祭の旅においても、イエスがサマリアに入ろうとされたのは自然なこととなります。

 ところがマタイ福音書(一〇・五〜六)に、弟子たちを派遣するとき、イエスが「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」と言われたとする語録が伝えられています。ヨハネ福音書が伝えるように、イエスがサマリアでも伝道されたことが事実だとすると(それを疑う理由はありません)、この語録はどう受け取ればよいのでしょうか。

 おそらくある状況で、イスラエルの民に神の支配の到来を急いで告知する必要に迫られ、イエスがこのようにお命じになった言葉が、ユダヤ人の間での福音運動を担っている人たち(エルサレム共同体や「語録資料Q」の担い手たち)によって伝承され、最後にマタイ福音書に書きとどめられてのではないかと推察されます。この言葉は「語録資料Q」にあったのでしょうが、異邦人への福音告知を使命とするルカは、もちろんこの語録を用いていません。この語録がエルサレム共同体をはじめユダヤ人に対する福音活動を担った人々の間でも絶対的なものでなかったことは、イエス復活後にはエルサレム共同体がサマリアにペトロとヨハネを派遣して福音の働きを進めたことからも分かります(使徒言行録八章)。

 マルコ福音書とマタイ福音書にサマリアという名が出て来るのは、この「サマリア人の町に入るな」という一カ所だけです。それに対してルカ福音書は、異邦人(非ユダヤ教徒)向けの福音書にふさわしく、非ユダヤ教徒の代表としてサマリア人を称揚する傾向があります。イエスが隣人愛のモデルとして語られ「善きサマリア人」のたとえ話の主人公はサマリア人ですし(一〇・三三)、十人の「汚れとされる皮膚病」の人たちがいやされたとき、イエスのもとに帰ってきて感謝したのはサマリア人だけです(一七・一一〜一九)。ルカは、イエスがサマリアを通られたことを明言はしていませんが、サマリア人に対して好意的であったことを伝え、イエスがユダヤ教とサマリア教という宗教の区別を超えておられたことを指し示しています。ヨハネ福音書(四・二一〜二四)はこのことをイエスご自身の言葉として明白に語っています。


 60 弟子の覚悟(九・五七〜六二)

人の子には枕する所がない

 一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」。(九・五七〜五八)

 受難の地であるエルサレムに向かって道を進まれるイエスに、ある人が「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言います。この人は、イエスがエルサレムに入られたならば神の国はすぐにでも現れるものと思っていた人たち(一九・一一)の一人であったのでしょう。イエスから受難の予告を聞いていた弟子たちでさえ、イエスがエルサレムに入られたなら直ちにメシアの栄光が現れると考えていたのです(マルコ一〇・三五〜三七)。イエスの輝かしい奇跡を見ていた周囲の人がそう考えるのは無理もありません。その栄光にあずかるために、その人はイエスに従う決意を示します。

 その期待と決意に対してイエスは、イエスに従う道は栄光の道ではなく、この世から拒絶される道であることを指し示されます。ここで「狐には穴があり、空の鳥には巣がある」という事実と対照的に、「だが、人の子には枕する所もない」と言われているのは、狐や鳥には眠る場所があるのに人間には安心して眠る所もないと、人の世の生き辛さを嘆いているのではなく、イエスご自身の苦難の道を指しています。イエスはすでにご自分の受難を「人の子」を主語にして語っておられます(九・二二)。イエスがご自分の受難を「人の子」という称号を用いて語られたとされる経緯は、その箇所で述べた通りです。ここでも、その称号を用いて、イエスがこのユダヤ教社会では排斥されて「枕する所もない」道を歩まなければならないことを語り、自分に従おうとする者も、同じように扱われることを覚悟する必要があるとされます。

 このイエスの言葉を聞いた人がどのような態度をとったかは触れられていません。福音書はイエスの言葉を伝えるだけで、その言葉への対応は今この言葉を聴く読者一人ひとりに委ねています。その人がどうしたかではなく、今わたしがこの御言葉により、世から排斥される生涯を覚悟してイエスに従うかどうかが問われています。これは後に続く二つの語録も同じです。

死んだ者に死んだ者を葬らせよ

 そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい」。(九・五九〜六〇)

 ペトロたち弟子の場合もそうでしたが、イエスはお選びになった人に「わたしに従いなさい」と言って、ご自分についてくるように召されました。ペトロとヤコブとヨハネは「舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った」のでした(五・一一)。マルコ(一・二〇)では、ヤコブとヨハネについて「父ゼベダイを舟に残して」イエスに従ったとされています。このように召された人たちの中で、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った人の場合がここに伝えられています。

 当時のユダヤ教においては、亡くなった父親を葬って葬儀をすることは、息子の大切な宗教上の義務でした。それを果たすためには、「トーラー」に規定されている他のあらゆる宗教的義務が免除される重要な義務でした。この人が「まず父を葬りに行かせてください」と言ったのは、当時のユダヤ教徒としては当然の願いでした。この人はイエスに従うことを拒んだのではなく、宗教的義務を果たすことを第一とし、イエスに従うことを第二としたのです。

 この順序づけに対してイエスは、何よりもイエスに従うことを第一にするように求められます。死者を葬ることは「死んでいる者たち」に委せて、召されたあなたは行って、神の国を言い広めるように求められます。ここで「あなた」が強調されています。イエスの言葉は、わたしに召された弟子であるあなたがまず第一になすべきことは、わたしに従い、わたしと共に神の国を言い広めることである、死者を葬ることは「死んでいる者たち」に委せておけばよい、という意味になります。

 では、「死んでいる者たち」とは誰を指しているのでしょうか。文字通りの意味で身体的に死んだ者は葬儀を行うことはできないのですから、そういう意味ではありえません。では、霊的に死んでいる者たちを指しているのでしょうか。死者を葬ることは霊的に死んでいる者たちがすることであって、霊的な意味で生きている者は、実際の死者の埋葬とか葬儀を行わなくてもよい、あるいは行うべきではないのでしょうか。そうであれば、キリスト者の共同体では原則として埋葬とか葬儀はありえないことになり、奇妙な解釈になります。

 解釈が行き詰まるのは、ここの「死者を葬る」を実際の葬儀とすることから来ています。たしかにイエスは、実際に葬儀を出さなければならない人の願いをきっかけにして語っておられます。しかし、父親の葬儀をするという世間で最重要視されている営みを取り上げて、それよりもさらに重要で緊迫した義務があることを指し示しておられるのです。それは、イエスに従い、イエスと共に神の支配の到来を世界に告知する使命です。イエスに召された者には、これはあらゆる世間的な義務に優先します。

 わたしたちはこの世で生きている上で、なすべき仕事や果たさなければならない義務が多くあります。医師は病人を治療し、法律家は正義の実現のために法律の実務に携わります。事業家は生活に必要な物資の生産や流通を担当します。娯楽のために働く人々も必要です。このような仕事や義務は、それぞれの分野に秀でた人たちに委せておけばよいのです。そのような仕事や義務は、それぞれの分野の専門家に委せておけばよい、世間のことは世間の人に委せておけばよいということを、イエスはイエス独特の激しい表現ないし比喩、たとえば「らくだが針の穴を通る」とか「ぶよを漉してらくだを飲み込む」というのと同じく、実際にはありえない「死んでいる者たちに死者を葬らせる」という逆説的な表現で語られるのです。

 世間のことは世間の人たちに委せ、わたしに召されたあなたはもはや世間のことに煩わされることなく、出て行って専心に神の国を告げ知らせ、神の命を与える使命を果たすように求められます。しかし、イエスの言葉はみなそうですが、この言葉も誰がそうすべきであるのか、と第三者の立場で問うことは無意味です。あくまでわたしの問題です。イエスが「あなたは行って」と言っておられるように、イエスとわたしの関わりとして受け取らなければなりません。先にも述べましたが、ここに集められたイエスに従う覚悟を促す三つの語録に対して、それを聞いた人の対応は語られていません。イエスの言葉は、今この言葉を聴く一人ひとりに決断を迫っています。

 

鋤に手をかけてから後ろを顧みる者

 また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください」。イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。(九・六一〜六二)

 この段落に集められた三つの語録のうち、初めの二つはマタイにもあり、「語録資料Q」から取られたと考えられますが、三つ目のこの語録はルカだけにあるものです。これは先の死者を葬ることについての語録と同じく、「神の国」告知の緊急性を語っています。

 イエスに従う決意をして「神の国」を告知する働きに乗り出した者で、「しかしまず」と言って、家族の絆や世間の義理などを先にし、「神の国」告知の働きを後回しにする者は、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者」として、神の国の働き人としてふさわしくない、とイエスは言われます。

 この段落も聖書に親しんでいる者にはエリヤのことを思い起こさせます。エリヤが畑を耕しているエリシャに外套を投げかけて従うように召したとき、エリシャは父と母に別れを告げに行く許しを求めました。エリヤはそれを許しています(列王記上一九・一九〜二一)。それに対してイエスは、召された者が神の国を言い広めることを、家族にいとまごいをすることよりも、また父親の葬儀を出すよりも緊急のこととしておられます。イエスの「神の国」告知には、その到来が差し迫っているという終末的切迫の面があったことを忘れてはなりません。

 

 61 七十二人を派遣する(一〇・一〜一二)

「七十二人の派遣」記事の性格

 この「七十二人の派遣」はルカだけにある記事で、その歴史性と意義が論争されています。ルカはすでにイエスのガリラヤでの活動期間の最後に「十二人」派遣の記事を置いて、ガリラヤでの活動時期を締めくくっています(九・一〜六)。そして、イエスがエルサレムに顔を向けて旅を始められたことを明記した後に(九・五一)、この「七十二人の派遣」の記事を置いています。では、「御自分が行くつもりのすべての町や村」とはどこを指すのでしょうか。このルカだけにある「七十二人の派遣」の記事は、その位置からだけでも、解釈者にこの記事の性格について考えさせます。

 「七十二人の派遣」は、この「七十二人を派遣する」の段落だけでなく、これに続く「悔い改めない町を叱る」、「七十二人、帰って来る」、「喜びにあふれる」の段落を含め、一〇章一節から二四節に至る一つの区分(セクション)を用いて描かれています。それでまず、「七十二人の派遣」を主題とする一〇章一〜二四節の区分の性格を全体として考察してみましょう。

 この「七十二人の派遣」のセクション(一〇・一〜二四)は、それがエルサレムへの旅が始まった後に置かれているという事実からも、ガリラヤ時代の最後に置かれている「十二人の派遣」の記事(九・一〜六)とは性格が違うことを示唆しています。「十二人の派遣」の記事はマルコにあり、マタイとルカはほぼマルコの記事をそのまま引き継いで語っています。それに対して「七十二人の派遣」の記事には、マルコにはなくマタイと共通している資料、すなわち「語録資料Q」からのものと考えられる記事が圧倒的に多く、「語録資料Q」を生み出したパレスチナのユダヤ人の信仰運動の状況を反映していることがうかがわれます。

 「十二人の派遣」の記事は、十二人の名前をあげて、イエスの地上の働きの時期のものであることが具体的に示されていますが、それに対して「七十二人の派遣」の記事は具体的な名はなく、「七十二」という象徴的な数(後述)だけで語られ、派遣先もガリラヤなど具体的な地名を特定することはできず、また(多くの研究者が認めているように)派遣の言葉も様々な機会に語られた言葉が収集され編集されたものであることなど、これがイエス復活後に「語録資料Q」を生み出したパレスチナのユダヤ人の信仰運動の状況を反映していることを指し示す指標が多くあります。

 「七十二人の派遣」の記事は、イエスの時代の出来事ではなく、イエス復活以後のパレスチナにおける状況を反映した記事であることは、マタイとの比較からも示唆されます。マタイ福音書では弟子の派遣は一〇章にまとめられていますが、その中で前半の五〜一五節はイエスの時期の「十二人の派遣」のときのイエスの言葉ですが、後半の一六〜二五節はマタイの時の状況を反映しています。その違いは、「十二人の派遣」のときは「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」と言われているのに対して、一六節以下では「わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる」(一八節)と異邦人世界での伝道活動が語られており、さらに終末時の苦難を預言する「マルコの小黙示録」(マルコ一三章)を引用して弟子たちが受ける迫害を予告していることからも、十分明らかです。

 マタイはこの二つの状況(イエスの時の状況とマタイの時の状況)を重ねて、一つの「十二人の派遣」の記事に構成しましたが、ルカはその二つの状況を別々の派遣記事に構成したのではないかと推察されます。すなわち、イエスの時の弟子の派遣は「十二人の派遣」の記事(九・一〜六)にして、イエス復活後の弟子たちの状況は「七十二人の派遣」の記事(一〇・一〜二四)に構成したのではないかと考えられます。この推察が正当で根拠があるかどうかは、このセクションのテキストを検討した後で判断されることですから、この視点からこのセクションを検討してみたいと思います。

 

収穫を前にして

 その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた(一〇・一)。
 

 「十二人の派遣」の場合には「イエスは・・・された」でしたが、「七十二人の派遣」の場合は「主は・・・・遣わされた」となっています。ルカは「主」《ホ・キュリオス》をごく日常的な場面でも用いていますから、この称号が使われているからといって直ちにここが復活されたイエスの働きを描いているとは言えませんが、ナインの寡婦の息子を生き返らされときにもこの称号が使われていたように、ここでもこの派遣が復活されたイエスによる派遣であることを語る伝承が自然に、この記事の主語をイエスではなく、復活者イエスを指す「主」《ホ・キュリオス》という称号を選ばせたと見ることもできます。従ってここでの「主」称号の使用は、「七十二人の派遣」記事が復活者イエスによる派遣の記事であると見る論拠の一つになります。

 派遣される弟子の数が七十二人(あるいは七十人)という象徴的な数で語られているのは、この記事が具体的な出来事の記録ではなく、イエス復活後の広範な福音告知の活動を描いていることを示唆しています。記事のこのような性格から、派遣される地域も特定されず、「御自分が行くつもりのすべての町や村」という一般的な表現になっています。

 そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」。(一〇・二)

 このイエスのお言葉はマタイにもあり、「語録資料Q」から取られていると見られます。ただこのお言葉は、マタイでは弟子の派遣の前に置かれていますが(マタイ九・三七)、ルカでは派遣説教の中に置かれています。どちらにしても、イエスが「収穫」という比喩を用いて、神の支配到来の切迫と、その時に備えるための福音告知の働きの緊急性を語り出し、神の支配到来のために準備をする働き手がさらに多く送り出されるように祈るように求めておられる点は同じです。

 地上のイエスと少数の弟子は、ごく限られた地域にしかその声を聞かせることができませんでした。しかし、復活されたイエスはより多くの弟子を派遣して世界の隅々にまで福音を告知して、「収穫」に備えようと願われます。そして、そのイエスの願いに弟子たちが身を投じるように求められます。この復活者イエスの意志に応えることが、すべての福音告知活動(ミッション)の原点です。

 「収穫」は世の終わりです。収穫の時は迫っています。「収穫の主」である神は、世界の隅々から御自身の民を集めようとされますが、呼び集める働きをする働き手が少ないのを嘆かれます。そして、弟子たちにこの働きに参加するように求められます。

 「行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ」。(一〇・三)

 このお言葉もマタイにあり、「語録資料Q」からのものと見られます。マタイでは、派遣説教の後半部(復活後の状況)を始める位置に置かれています(マタイ一〇・一六)。ご自身で激しい批判と迫害を体験されたイエスは、弟子たちが遭遇する迫害を見通して、このような狼と子羊の比喩で、弟子たちに覚悟を促されます。復活されたイエスにより派遣されてパレスチナ・シリアの地域でイエス・キリストを告知した最初期の巡回伝道者が、周囲から激しい反対と迫害を受ける状況で、このお言葉を伝承したのでしょう。

 

派遣された者の働き

 イエスは派遣される働き手に、その働き方について具体的な指示をお与えになります。

 「財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな。どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな」。(一〇・四〜八)

 この指示を「十二人の派遣」の場合(九・三〜五)と較べますと、旅には何も待たず、ただ神が備えてくださるものだけに頼って進めという指示は同じですが、「十二人の派遣」の時の「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない」という具体的な指示に較べると、ここでは「財布も袋も履物も持って行くな」と、やや簡略にまとめられています。しかし、「途中でだれにも挨拶をするな」という指示が加えられています。これは、当時のベドウィン的な環境での挨拶の慣行で、身の安全と便宜のためにキャラバンに挨拶して一行に加えてもらうようなことをして、旅程を遅らせてはならないという意味とも考えられますが、それに限らず一般的に知人の家を訪問して安逸に時を過ごすなという意味も考えられます。いずれにせよ、使者の働きが急を要するものであることが強調されています。

 この最初の旅の緊急性を語る箇所(四節)と、最後の使者の働きの二つの内容(九節)、すなわち病人をいやすことと神の支配の切迫を告知することは「十二人の派遣」の場合と同じです。ところが、中間部の迎えられた家での振る舞いを指示する所(五〜七節)は、「十二人の派遣」の場合の「どこかの家に入ったら、そこにとどまって、その家から旅立ちなさい」(九・四)と較べると、ずっと詳しくなっています。

 イエスの使者として、「この家に平和があるように」というメシア的な平和《シャローム》の使信を携えて入ってきた弟子を迎え入れる家の主(あるじ)は、「平和の子」であり、使者がもたらしたメシアの平和はその人にとどまります。使者を受け入れる者は、その使者を遣わした方を受け入れているのですから。その家がイエスの使者を拒むならば、使者がもたらした平和は、その家に入らず、使者に戻ってくるだけです。「平和の子」がいて家に迎え入れられるならば、その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲み、その家を拠点として使者としての働きを進めなさい、と指示されます。働く者が報酬を受けるのは当然だからと言われていますが、その報酬は神からの報酬であり、神が使者の働きをさせるために与えてくださっているものです。さらによい待遇を求めて、家から家へと渡り歩くようなことをしてはならないとも念を押されます。神が備えててくださった拠点に腰を据えて、その町で働きを進めるように促されます。

 このような具体的な指示は、イエス復活後の時期に町から町へと巡回してイエスの教えを広めた巡回預言者(伝道者)と、彼らに拠点を提供した定住の信者の家の関係を反映しているものと見られます。このような巡回預言者(伝道者)がパレスチナやシリアで活躍したことは、マタイ福音書(七・二一〜二三)や使徒時代直後に成立した「ディダケー」などからも知られています。このような巡回伝道者に関する具体的な指示の記事も、この「七十二人の派遣」記事がイエス復活後のものであることを示唆する材料の一つとなります。

 

使者を迎え入れる町と拒む町

 「どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。しかし、町に入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』と。言っておくが、かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む」。(一〇・八〜一一)

 続いて、このような「神の支配が近づいた」というイエスの使者の終末使信を受け入れる町と拒む町の対比が取り上げられます。ここで、イエスを受け入れるとか拒むという行動の単位が、個人ではなく町であることが注目されます。イエスがガリラヤで神の国を宣べ伝えられたときには、個人がイエスを信じていやされたり罪の赦しを受けたりして救いを体験していました。町単位で信じたり拒否したりして、救いと祝福を受けたり断罪されることはありませんでした。ところがここでは、町が祝福されたり断罪されています(このことの意味は後述)。とくに断罪の言葉が詳しくて印象的です。この事実も、イエスの状況と「七十二人の派遣」の記事の状況が違うことを示唆しています。

 イエスからの使者を受け入れる町については、その町の病人をいやし、神の栄光と祝福に満ちた支配があなたがたに近づいている、すなわちあなたがたがその栄光と祝福にあずかる日が近いと宣言されます。それに対して、使者を拒む町については、去るときに広場に出て、「足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す」と言って、以後この町とはいっさい関わりがないことを宣言し、その上で「しかし、神の国が近づいたことを知れ」と宣言されます(この場合には「あなたがたに」はありません)。ここでは迫っている「神の支配」は全世界に対する神の審判を指し、使者を拒んだ町がその責任、メシアであるイエスを拒んだ責任を問われることが宣言されています。しかもその責任に対する処罰はソドムよりも重いものになるとされます。その理由は次の段落で語られることになります。


 62 悔い改めない町を叱る(一〇・一三〜一六)

イエスを拒むガリラヤの町

 「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところでなされた奇跡がティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰の中に座って悔い改めたにちがいない。しかし、裁きの時には、お前たちよりまだティルスやシドンの方が軽い罰で済む」。(一〇・一三〜一四)
 
 コラジンは新約聖書ではここにだけに名を上げられている町で、その場所はどこにも記述されていませんが、すでにエウセビオスやヒエロニムスはカファルナウムから北へ二マイルほどのところだとしています。現在ではカファルナウムから北三キロのケラーゼという村であろうとされています。また、カファルナウムからガリラヤ湖北岸を東に五キロほど行ったところにベトサイダがあります。ベトサイダはガリラヤ湖東北岸の漁業の町であり、親ローマの領主フィリポスによってギリシア風の町として整えられていました。ベトサイダはペトロとアンデレとフィリポの出身地です。

 このガリラヤの町を断罪する段落(一〇・一三〜一六)は、マルコにはなく、マタイとルカがほとんど字句通りに同じ文を用いて伝えています。ということは、この段落は「語録資料Q」から出ていることを示しています。

 ところで、福音書には(もちろん「語録資料Q」にも)イエスがコラジンへ行かれたとか、コラジンで奇跡を行われたという記事はありません。イエスがベトサイダで行われた奇跡については、目の不自由な人をいやされた一例だけがマルコ(八・二二〜三六)にありますが、マタイとルカはこの記事を欠いています。マタイとルカが依拠した「語録資料Q」にこの記事はなかったのでしょう。そうすると「語録資料Q」は、イエスが奇跡を行われたことを知らないコラジンとベトサイダについて、奇跡を見たのに悔い改めない町として激しい断罪の言葉を投げつけていることになります。

 この事実は、「語録資料Q」を生み出したパレスチナとシリアのユダヤ人の福音活動が、これらの町でイエスの名によってめざましい奇跡を行ったのに、イエスをメシアとして受け入れず、かえって彼らを迫害したことに対する、彼らの激しい断罪の言葉ではないかと推察させます。この推察は、次のカファルナウムについての言葉でいっそう強められます。

 「また、カファルナウム、お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ」。(一〇・一五)

 ガリラヤ湖西北岸のカファルナウムは、これまでに見てきたように、イエスのガリラヤでの福音活動の拠点です。イエスはここに住まいを定め、そこからガリラヤの各地に出向いて「神の国」の福音を告げ知らせる活動を進められました。カファルナウムでも行き先の各地でも多くの病人をいやされたので、その評判は高く、イエスが在宅されることが分かったときには、カファルナウムの人々が病人を連れてイエスのところに押し寄せてきていました。そのようなカファルナウムの民に向かって、イエスがこのような終末的な断罪の言葉を投げつけられたというのは理解困難です。

 カファルナウムを断罪するために引用されている「お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ」という言葉は、バビロンの滅亡を預言するイザヤの預言(イザヤ一四・一三〜一五)から取られています。マタイはこの引用の後に、「お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである」という言葉を続けています。ルカはこの「かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む」という文を、イエスから遣わされた使者を拒む町への裁きを宣言するところで用いているので(一〇・一一)、ここでは用いていません。とにかく、このような断罪の宣言はイエスの活動時期ではなく、復活されたイエスによって派遣された弟子たちを拒むようになったカファルナウムに対する言葉として理解可能になります。

 

使者を拒む町への断罪

 コラジン、ベトサイダ、カファルナウムなどに対する断罪の言葉について、マタイ(一一・二〇)は、「イエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた」と書いて、イエスの言葉として伝えています。それに対してルカは、イエスから遣わされた使者を拒む町に対する「かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む」という断罪の言葉(一〇・一一)の具体例として、コラジン、ベトサイダ、カファルナウムへの断罪を続けていることになります。「お前は禍だ」で始まるルカのテキスト(一三節以下)は、必ずしもイエスの言葉としてではなく、拒絶に出会った使者たちの嘆きの言葉として読むことも可能です。ルカの構成の方が、もとの「語録資料Q」の構成に忠実ではないかと推察されます。

 マタイは「イエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた」と書いていますが、コラジン、ベトサイダ、カファルナウムに向かって語られている言葉は、「叱る」とか、悔い改めを促すような勧告程度の言葉ではなく、「かの日」、「裁きに日」における断罪の言葉です。イエスがガリラヤで「神の国」の福音を告知されたとき、熱狂的にイエスを迎える民衆に(とくにカファルナウムの人々に)、イエスがこのような町全体を断罪するような言葉を投げつけられたとは想像できません。その点、ルカの構成が示しているように、復活されたイエスが遣わされる使者を拒む町に対する終末的な断罪を宣言する言葉として理解する方が適切です。

 イエスの復活後、パレスチナ・シリアの地でユダヤ人に復活者イエスをメシアとして宣べ伝えたユダヤ人の福音活動はきわめて強い黙示思想的な傾向を示しています。それで、その告知が拒絶されたとき、その町に突きつける断罪の宣言がきわめて強い黙示思想的終末審判の色彩を帯びることになります。

 ガリラヤの町に対する断罪の言葉が、イエスが行われた奇跡を見ながらイエスを信じなかった者たちへの断罪ではなく、イエスが派遣された使者の使信を信じなかった町への断罪であることは、これが使者を拒む町への対応の仕方を指示した言葉(一〇・一〇〜一二)と、使者の権威を語る次の一六節の言葉に囲まれて置かれている事実からも確認できます。

 「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである」。(一〇・一六)

 この言葉は、七十二人の使者を派遣するさいに語られた、使者を受け入れる町と拒む町への対応の仕方(一〇・一〇〜一二)の根拠を語っています。とくに、使者を拒んだ町に対する断罪(一〇・一三〜一五)の根拠を語っています。使者を受け入れる者は、使者を遣わした方(復活者イエス)を受け入れるのであり、使者を拒む者は、使者を遣わした方(復活者イエス)を拒んでいるのです。この原理が、使者を遣わされたイエスの言葉として語り出されています。そして、使者を拒むことによって、彼らを遣わされたイエスを拒むことは、イエスを世に遣わされた方、すなわち神を拒むことだとされます。このイエスこそ神から世に遣わされた方であるという宣言は、福音のもっとも基本的な告知です。ヨハネ福音書はこのことを繰り返し力をこめて語っていますが、これはヨハネ福音書を待つまでもなく、福音のもっとも基本的な告知の内容です。このことを告知する運動は、復活者イエスによって世界に派遣される使者によって行われますが、その使者に対する態度が復活者イエスに対する態度となり、ひいては神に対する態度となるという原理が掲げられ、派遣説教(一〇・二〜一二)の結びとなり、拒否する町への断罪(一〇・一三〜一五)の根拠とされます。

 

町単位の断罪

 ところで、このガリラヤの町々に対する断罪の宣言は、イエスのガリラヤ伝道のときの民衆の熱狂的歓迎からすると、そのあまりの落差の大きさに戸惑います。これをイエス復活後の弟子たちの福音告知の活動に対する拒否だとしても、わずか数ヶ月後の、あるいは一年か二年後のこの民衆の態度の豹変には驚きます。どうしてこのようなことが起こったのでしょうか。この疑問に答えるには、イエスの活動と復活後の弟子たちの福音告知の活動の間には、最高法院のイエスに対する異端判決があることに注目する必要があります。

 イエスのガリラヤにおける「神の国」告知活動は初めから厳しい監視の下に置かれていました。モーセ律法、とくに安息日律法に関するイエスの言動に不審の念をもった律法学者たちが、会堂だけでなくイエスの行き先々に現れ、イエスの言動を監視していたことが福音書に報告されています。その中にはガリラヤ在住の律法学者もいたでしょうが、福音書はとくにエルサレムから来た律法学者たちがイエスを監視したことを特記しています(五・一七、マルコ三・二二、七・一、マタイ一五・一)。

 この事実は、ヨハネ福音書(二・一三〜二二)が伝えるように、イエスがガリラヤで活動される前、まだ洗礼者ヨハネと共に活動しておられた時に、エルサレム神殿で神殿体制を批判する過激な象徴行為をされたので、最高法院はイエスを異端の疑いで見るようになり、ガリラヤに監視団を送ったと見ると理解しやすくなります。しかし、共観福音書が伝えるように、エルサレム神殿の象徴行為が最後の過越祭のときのことであったとすると、ガリラヤでのイエスの律法に関する言動がエルサレムに報告され、最高法院が監視団を送ったことになります。

 監視団はすでにガリラヤにおいてイエスに対する殺意を固めていましたが(マルコ三・六)、ヘロデの統治下のガリラヤで、しかも民衆が歓呼してイエスを取り囲んでいる状況では、イエスを逮捕することはできず、イエスが過越祭でエルサレムに来られたとき策略をもって逮捕し、異端の廉で最高法院の裁判にかけたのでした。

 最高法院はイエスを律法に対する重大な違反者として、またイスラエルの民に背教を唆す教師として死刑の判決を下します。しかし、当時ユダヤ教当局は死刑執行権を持っていなかったので、ローマ総督に引き渡し、属州民に対するローマの処刑法である十字架刑によって処刑します。処刑方法はともかく、ここでイエスがユダヤ教の最高法院によって死刑に値する律法違反者と判決されたことが重要です。
 イエスは最高法院によって、神を冒?する者、律法を汚す異端者、律法に背くようにユダヤ教徒を唆す異端の教師、民を背教に導く「脱落説教者」と判決されたのです。その結果、イエスをメシアとしたり、イエスを信じることを言い表すことは、イエスの異端に荷担することであり、異端容疑の対象となります。一つの町がイエスの教えを受け入れた場合、その町は「誘惑された町」として、最高法院の厳しい調査の対象となります。脱落運動が町の半数以下の場合は警告を受け、半数以上に達していれば即決の特別処置が始まります。その特別処置の規定は、住民は剣によってよって絶滅され、町そのものは住民の全財産とも焼却されるという激しいものです。

 安息日律法違反に対する死刑の規定のように、このような町全体に対する絶滅規定が文字通りに実行された例があるのかどうか知りませんが、少なくともこのような規定があるということは、当時のユダヤ教徒がどれだけ律法順守を真剣に考えていたかを物語っています。ここに名をあげられているガリラヤの町々、ベトサイダ、コラジン、カファルナウムなどは、最高法院から「誘惑された町」と判定されることを恐れて、イエスの異端判決以後では、たとえイエスが復活してメシアとして立てられたという告知を聞いても、もはやその使者と告知(福音)を受け入れることはできなかったと考えられます。それで、福音の使者たちから厳しい断罪の言葉を受けることになり、それがイエスの言葉として福音書に書きとどめられるようになったと考えられます。

 

イエス以後のガリラヤ

 イエスはガリラヤで育ち、ガリラヤで生活し、ガリラヤ人の弟子と共にガリラヤで「神の国」を告知する働きをされました。ガリラヤはイエスの恵みの言葉を聞き、その奇跡の働きを数多く見ました。イエスがその働きを進められた時期には、ガリラヤはイエスに対する賞賛に満ちていました。ガリラヤにはイエスを信じる多くの人がいたはずです。

 ところが、イエス以後の時代には、ガリラヤにおけるイエスを信じる運動については何も聞くことができなくなります。使徒たちはみなガリラヤ人ですから、イエスの復活後ガリラヤに行って復活されたイエスのことを告げ知らせたはずですが、ガリラヤにおける福音運動の存在については、ほとんど何も伝えられていません。イエスの故郷であり、イエスの働きの舞台であったガリラヤは、イエス以後の時代には、イエス運動の揺籃の地ではなく、ラビ・ユダヤ教の牙城として重要な意義をもつことになります。ガリラヤではイエス運動ではなく、ラビ・ユダヤ教が勝利を収めます。

 ユダヤ戦争のときには、ガリラヤはローマ軍とユダヤ人たちの激しい戦争の舞台となり、信者は各地に逃れたことでしょう。70年のエルサレム陥落後は、再建ユダヤ教の指導部となる学院(最高法院の後身)は沿岸地方のヤムニヤに移り、その後ガリラヤのティベリアスに移って、ミシュナの編纂などの事業を成し遂げ、ラビ・ユダヤ教の形成に重要な貢献をします。

 イエス以後の時代におけるガリラヤの状況について詳しく述べることは、福音書講解の枠を超えますので瞥見するにとどめますが、ここで見たように「ガリラヤの町々に対する断罪」の言葉が、イエス復活後のガリラヤの町の福音拒否を伝えているとすれば、これはイエス以後のガリラヤの状況を物語る有力な資料となることを指摘しておきます。


 63 七十二人、帰って来る(一〇・一七〜二〇)

イエスの名の権威

 七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」。(一〇・一七)
 
 「七十二人の派遣」の記事がイエス復活後の弟子たちによる福音告知の活動を反映するものであるならば、これは彼らの伝道活動において多くの奇跡が伴ったことを報告していることになります。彼らはイエスの名によって病人に手を置いていやし、悪霊を追い出しました。イエスは十二人を派遣するときに「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった」とされています(九・一)。復活後の伝道活動においても、この「十二人」を中核とする弟子たちは当然このような悪霊に打ち勝つ権能が与えられていることを確信し、「イエスの名によって」、すなわちイエスから派遣された使者として「神の国」の福音を告知し、病人をいやし悪霊を追い出すなどの働きをしたはずです。パレスチナやシリアの巡回預言者(巡回伝道者)が、イエスの名によって奇跡を行ったことは、マタイ福音書(七・二二)の記事にもその痕跡を留めています。

 イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない」。(一〇・一八〜一九)

 悪霊までがイエスの名による命令に従う事実に驚く弟子たちに、イエスはその根拠を明らかにされます。イエスは悪霊の頭であるサタンがすでに天から落ちて支配権を失っていることを知っておられます。イエスはすでにサタンとの終末的な決戦に勝利しておられます。復活されたイエスは、御自身が「天と地の一切の権能を授かっている」者であることを宣言されます(マタイ二八・一八)。そして、御自身がサタンに打ち勝って得られたその権威と権能を弟子たちにお授けになっているのです。だから弟子たちは、敵からの危害を受けることなく、敵対する霊力を踏みつけることができるのです。「蛇やさそり」は、敵対する霊的な諸力を象徴しています。

   ここでイエスが「サタンが稲妻のように天から落ちるのを見た」ことに言及されるとき、それは「見た」という一回的な出来事ではなく、「見ていた」と継続的な出来事を指す時制(文法的にはアオリストではなくインパーフェクト)が用いられています。しかし、この「見ていた」はイエス復活後の弟子たちの働きの期間に限定する必要はありません。イエスはすでに「荒野の試み」でサタンに勝利し、地上での働きのときに、悪霊を追い出す力ある働きでその勝利を証しされ、その勝利を比喩で語っておられます(マルコ三・二七)。その勝利は復活によって世界に公示され、復活されたイエスは弟子たちの働きの中にサタンの支配の崩壊を見続けておられるのです。

 ここのイエスの言葉は、マルコ福音書の付加部分(一六・九以下)にある次の一段を思い起こさせます。これは復活されたイエスが弟子たちを福音告知の働きに送り出されるときに語られた言葉として伝承されていたものです。

   それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る」。(マルコ一六・一六〜一八)

 この文章は、ルカ福音書の「七十二人の派遣」記事を要約するような内容になっています。信じない者に対する滅びの宣告や、イエスの名による病人のいやしや悪霊の追放など、信じる者に伴う「しるし」、蛇や毒からも害を受けない神の守りの約束など、ここまでに見てきた「七十二人の派遣」記事の内容を網羅しています。マルコ福音書の記事は明らかに復活後のイエスの派遣命令ですから、この二つの記事の相似は、ルカの「七十二人の派遣」記事がイエス復活後の弟子たちの福音告知活動を描いているという推察をますます確かなものにします。

 

天に名が書き記される者

 「しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」。(一〇・二〇)

 これは、派遣された七十二人が帰って来て、「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」と言って、悪霊を服従させた体験を「喜びをもって」報告した(一七節)ことに対するイエスのお答えです。このようなイエスの語録は、十二人が福音告知の活動から帰ってきて活動の結果を報告したときに(九・一〇)イエスが実際に語られたお言葉が伝承されていて、ルカがそれをこの「七十二人の派遣」記事の構成に用いたと考えられます。その構成に際して、ルカは一八〜一九節の黙示思想的表現を挿入して、その事実(悪霊がイエスの名に服従する事実)を根拠づけます。この表現は、先にマルコ福音書の付加部分との比較で見たように、パレスチナやシリアにおける最初期の福音活動が強い黙示思想的色彩を帯びていたことを垣間見させます。

 イエスは弟子たちに、諸霊を服従させる霊力を授かっていることを喜ぶのではなく、自分の名が「天に書き記されている」ことを喜ぶように諭されます。「名が天に書き記されている」という表現は、旧約聖書において「(命の)書に書き記される」という形で出てきていますが(出エジプト記三二・三二、詩編六九・二八、イザヤ四・三、ダニエル一二・一など)、神の民の名簿に登録されていることを意味するその表現がここで継承されています(新約聖書では他にフィリピ四・三、黙示録三・五、一三・八に見られます)。

 わたしたちは信仰生活において、ともすると霊的な成果や現れ(様々のカリスマなど)、また実際生活に現れた祝福などを喜び誇りますが、わたしたちが喜ぶべきことは、そのような結果ではなく、そのような結果を生み出す源泉、すなわち主イエス・キリストにあって神の子とされている事実、神の恩恵の場に置かれている事実にこそ目をとめて、それを喜び感謝すべきであることがここで諭されています。


 64 喜びにあふれる(一〇・二一〜二四)

聖霊による喜び

 そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした」。(一〇・二一)

 弟子たちに何を喜ぶべきかを諭されたイエスは、続いて御自身の喜びを語り出されます。この文脈で「そのとき」というのは、福音告知の活動から帰ってきた弟子たちからイエスがその成果の報告をお受けになった時を指すことになります。「そのとき」、イエスはその成果はサタンの支配が打ち砕かれたことのしるし、すなわち神の支配到来のしるしであるとして、その現実を見る(体験する)喜びに溢れて語り出されます。

 その喜びは「聖霊による喜び」です。喜びにも様々な種類があります。大抵は外から来る喜びです。欲しいものが手に入ったとか、自分の願望を満たすものが与えられたとか、外の状況に依存した喜びです。しかし、喜びには別の種類の喜びもあります。すなわち外の状況に依存しない喜びがあります。何を取り去られても、何も与えられなくても、自分を取り巻く状況がどうであろうと関係なく、内から溢れてくる喜びがあります。信仰の喜びはそのような種類の喜びです。それは内にいます聖霊から来る喜びです。

 福音書でイエスが喜ばれたことを語る箇所はここだけです。喜びとか悲しみ、怒りとか失望など、人間の内なる感情は、直接のぞき見ることはできませんが、その人の表情とか仕草である程度は見ることができます。弟子たちは報告したときに示されたイエスの表情からイエスの喜びを感じて、このように伝えたのでしょう。このことを伝える弟子たちは、イエスの復活後聖霊を受けて、聖霊による喜びを体験していますから、イエスの喜びも聖霊による喜びとして語ることができました。聖霊は喜びの霊です(ガラテヤ五・二二)。弟子たちは、今自分たちが味わっている聖霊による喜びは、実はイエス御自身がもっておられた喜びに他ならないとして語ることができました。そのことをヨハネ福音書は、イエスが最後の夜に「わたしの喜びをあなたたちに与える」と言われた約束の成就であるとしています(ヨハネ一五・一一、一七・一三)。イエスが喜びの人であったことを見逃してはなりません。


 
啓示の出来事

 イエスの喜びは、天地の主である父が、「これらのこと」、すなわち知恵ある者や賢い者に隠されていた救いの奥義を、幼子のような者であるイエスの弟子たちに啓示された(啓(ひら)き示された)ことに対する賛美から来ています。ここで「隠す」《アポクリュプトー》と「示す(啓示する)」《アポカリュプトー》という(発音は似ていますが意味が)正反対の動詞が用いられています。前者は、覆いを掛けて隠すことであり、後者は覆いを取り除いて隠されていたものを顕わにすることです。神が隠し、かつ顕わにされるのです。ここにはその用語は出て来ませんが、神が隠しておられる秘密が「奥義」《ミュステーリオン》です。人間の救済に関わる神の御旨とか御計画は、賢者といわれる人たちが懸命に探求しても、神が隠しておられるのですから、知ることができない「秘密、奥義」でした。その奥義が今イエスの名によって福音を告げ知らせている弟子たちに、すなわちガリラヤの漁師など市井の民に、その福音の言葉によって神が働かれる出来事の中で「啓き示されている」のです。

 これは「御心に適うこと」でした。パウロも同じことを言っています。パウロは、「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする」という預言者の言葉(イザヤ二九・一四)を論拠として引用した上で、「知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる」と挑戦し、「神は世の知恵を愚かなものにされたではないか」と宣言します。世の知者・賢者が神の奥義を知り得ないのは、神が隠されたからだということになります。それで、「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教(福音の告知)という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです」と続きます(コリントT一・一九〜二一)。福音を告知して、それを幼子のように信じる者を救うことが、神がよしとされる方法(=御心にかなうこと)なのです。それで、この神の救いの奥義を示されるのは、人間的に知恵や能力の高い者ではなく、無学な者、無力な者が多くなるのです(コリントT一・二〇〜三一)。

 このような福音活動の流れの中にいるルカは、パウロが語っていることは実はイエスから始まっているのだとして、このイエスの語録を伝えます。このイエスの喜びの声に、啓示という出来事の深い意味が響いています。啓示は知識の伝達ではありません。啓示は、それを受ける者の人間存在を根底から揺さぶるような出来事であり、神からの働きかけの出来事、存在の震撼を伴う体験です。使徒たちが証言する福音を幼子のように信じるとき、聖霊によって復活者キリストの栄光と、キリストにおける父の無条件絶対の恩恵が啓示され、わたしたちは喜びに溢れ、もはや以前の自分ではあり得なくなります。

父を知る者

 「すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません」。(一〇・二二)

 イエスは続いて、この啓示の出来事において御自身がどのような位置を占めるのかを語り出されます。イエスは、「すべてのことは、父からわたしに任せられている」と宣言されます。この宣言は、復活者イエスにふさわしい宣言です。復活されたイエスは、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」と宣言しておられます(マタイ二八・一八)。これまでに見てきたように、この「七十二人の派遣」の記事が復活後の弟子たちの体験から出ているのであれば、このイエスの宣言はマタイの宣言のルカ版ということになります。ルカ版では続いて、「すべてのことを父から任せられている」復活者イエスが、子として父を知り、父を啓示する唯一の者であることが語り出されます。

 この啓示の伝達を語るのに、ここでは世間での父親と息子の関係が比喩として用いられています。世間では父親は息子に家業とか技術のすべてを伝えて家業を継がせます。息子の能力とか人間を知り尽くしているのは、生涯をかけて息子を教えてきた父親だけであり、父親の実像とその価値を知る者はそのように父親の一切を継承した息子だけであり、またその息子が自分の父親を知らせようとして選んだ友人だけです。このような世間の父親と息子の関係を比喩として用いて、神が御自身を啓示しようとされるとき、イエスはご自分がこの息子の立場、すなわちただ一人神に知られ、かつ神を知る者として、世に神を啓示する者であると宣言しておられるのです。

 

終末到来を見る者の幸い

 それから、イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである」。(一〇・二三〜二四)

 「七十二人の派遣」に関わる区分の最後に、弟子たちだけに語られたイエスの語録が置かれて、この区分が締めくくられます。これまでに見てきたように、この「七十二人の派遣」記事が、復活されたイエスを見て、そのイエスによって派遣された弟子たちの体験を反映しているものであれば、ここで「あなたがたの見ているもの」とはイエスが復活されたことによって成就した終末の現実であり、「あなたがたが聞いているもの」とはそれを告知する声です。

 ここの「多くの預言者や王たち」は旧約の預言者たちやイスラエルの王たちを指しています。預言者たちは時代に向かって神の言葉を語りましたが、同時に終わりの時に実現する神の支配の栄光をはるかに望み見て、その到来を語りました。イスラエルの王たちは、部分的に、また一時的に神の支配を地上に打ち立てましたが、それも過ぎ去り、それが来るべき神の支配の予表に過ぎないことを、諸王の歴史が指し示しました。イスラエルの預言者や王たちは、神御自身が支配される「来るべき時代」の到来を味わうことは許されず、それを待ち望まざるをえませんでした。そのように、預言者たちや王たちがその到来を見たいと切望し、到来を告げる喜ばしい声を聞きたいと切に願っていたものがついに到来したのです。

 今、復活されたイエスに出会い、その栄光を拝し、そのイエスから遣わされて、復活者イエスがなされる力ある業を体験している弟子たちは、預言者たちによって約束され、王たちによって予表されていた終末の時代を体験しているのです。その現実を見ているのであり、その到来を告げる喜ばしい声を聞いているのです。それはなんと幸いなことか、とイエスは言われます。

 ところで、この語録が復活後の弟子たちの福音告知活動に関わるものであるならば、このような言葉を地上のイエスが語られたことはありうるのかという問題が生じます。それは、福音の使者を受け入れなかったガリラヤの町に対する断罪の言葉も同じです。イエス復活後の福音告知活動において、霊感を受けた預言者が、「アーメン、わたしはあなたたちに言う」という定式で、主イエスの言葉を語り、それが主イエスの言葉として共同体に伝承されたことは十分ありうることです(並行箇所のマタイ一一・一七にはこの定式が使われています)。では、どれが記憶によって伝えられた地上のイエスの言葉であり、どれが復活後の預言者による宣言であるのかは、正確に区別することは困難です。ヨハネ福音書において地上のイエスの言葉とヨハネ共同体の証言が「継ぎ目なく」重なっているように、共観福音書においても、地上のイエスの語録と、霊感を受けた預言者たちによって告知されたイエスの言葉は、「継ぎ目なく」重なっており、厳密に区別することは困難な場合があります。また、わたしたちの信仰にとっては区別する必要はないと思います。復活後の状況にいるわたしたちには、両方とも現在わたしたち語りかけるイエスの言葉として受け取ることができるからです。ここの「見る目は幸い」は、ガリラヤの町への断罪の言葉と並んで、内容からして復活後の共同体が受けた啓示の言葉であると理解せざるをえませんが、わたしたちは福音書でそれを主イエスの言葉として読むことをためらいません。それは復活者イエスからの言葉ですから、イエスの言葉には違いありません。ルカもそのような意味で、これらの最初期共同体の伝承をイエスの言葉としてその福音書に書き留めたと考えられます。


 65 善いサマリア人(一〇・二五〜三七)

「旅行記」とルカの特殊資料

 「七十二人の派遣」記事に続いて、ルカは「善いサマリア人」のたとえを置いています。ルカがどのような意図とか目的でこのような配置にしたのかを推察することは困難ですが、ルカは彼だけが持っている特殊資料(L)のたとえ話をすべて「旅行記」に配置しています。この「善いサマリア人」のたとえをはじめ、有名な「放蕩息子」、その他「愚かな金持ち」、「失った銀貨」、「不正な管理人」、「金持ちとラザロ」などの印象深いたとえ話はみなこの「旅行記」の中に置かれています。

 この「旅行記」には、ルカの特殊資料Lからだけでなく、マタイと共通の「語録資料Q」からのたとえや記事も多く収録されています。ルカは基本的にマルコの構成を受け入れながらも、マルコにはない「語録資料Q」と自分の特殊資料(L)からの素材を置く場所として、マルコのガリラヤとエルサレムという二極構造の中にサマリアとユダヤという地理的な場を舞台とする「旅行記」を割り込ませたのではないかと推察されます。そうすると、「旅行記」と呼ばれながら実際の行程の記事がほとんどないという現象もうなずけます。

 先に「序論・ルカ二部作の成立」の「第四節・ルカの資料と叙述」で見たように、ルカはエルサレム、アンティオキア、カイサリア、エフェソ、ローマ、その他の地中海地域を広く旅行したり滞在して、各地に伝えられているイエス関連の伝承と福音活動の資料を集めていました。その中のルカだけが持っている特殊資料の素材をここに集中して配置しています。その結果、この「旅行記」は、ルカだけが伝えている貴重な伝承の宝庫となり、ルカの特色を色濃く出している魅力ある部分となっています。その価値は、「善いサマリア人」や「放蕩息子」のたとえのない福音書を想像してみると分かります。

 

永遠の命への問い

 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」。(一〇・二五)

 「何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるか」という問いは、当時のユダヤ教徒の最大関心事でした。ここでの「永遠の命」は、来るべき世での命を指しています。旧約聖書ではダニエル書(一二・二)に最初に現れ、その後ユダヤ教世界が黙示思想的傾向を強めて「来るべき世」の待望に生きるようになるのに伴い、その世において神の祝福を受け、神の栄光にあずかるようになることが「永遠の命」として、ユダヤ教徒の宗教生活の目標となります。
 その命は、この世において獲得するものではなく、神が終わりの日にもたらされる「来るべき世」のものであることは、「受け継ぐ」という表現にも表れています。その日に神から資格のある者と認められて、相続分として受け継ぐ命です。昔イスラエルの諸部族が約束のカナンの地を受け継いだように、終わりの日に神の民は、来るべき世に約束された朽ちることのない永遠の祝福と栄光を受け継ぐとされ、その命を受け継ぐ資格があると認められるにはこの世で何をするか、どのように生きるかが最大の問題となっていました。

 同じ問いをある資産家がイエスにしたことが、マルコ福音書(一〇・一七以下)に伝えられています。この物語は三つの共観福音書すべてにあり、マタイ(一九・二〇)では「青年」とあって若い資産家であり、ルカ(一八・一八)では「議員」となっています。その人に対するイエスの対応についてはそれぞれの箇所で扱っていますが、ここではルカの特殊資料に伝えられたこの場合について見ていきます。

 質問をしたのは「律法の専門家」《ノミコス》です。この用語はルカだけに出てきます。ユダヤ教徒向けに書いているマタイでは「律法学者」《グラマテュース》だけですが、異邦人の間で書いているルカは、資料にある「律法学者」も使っていますが、一般のローマ社会で「法律家」を指す用語《ノミコス》も使ってユダヤ教の律法学者を指しています(七・三〇、一一・四五、一四・三など)。

 彼は「イエスを試そうとして」この質問をします。金持ちの青年は同じ質問を、自分の永遠の命運に関わる問題として真剣に問いかけています。それに対して律法学者は、自分たちの立場に真正面から挑戦するようなイエスの教えの矛盾と誤りを暴き、イエスを陥れるために質問します。イエスの対応もおのずから違ってきます。


 
「何をすべきか」の立場

 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります」。(一〇・二六〜二七)

 律法学者のこの質問に対してイエスは、「律法には何と書いてあるか」と逆に問われます。この問いは、「もしあなたが何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるかと問うのであれば、その回答は律法に書いてあるではないか。律法は何をすれば神に喜ばれるかを指し示しているではないか」と指摘しておられるのです。その上で「あなたはそれをどう読んでいるか」と、その人の受け取り方を問われます。

 この律法学者の答えは、当時のユダヤ教の律法理解を要約しています。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」は、ユダヤ教徒が日々唱える「シェマー」(申命記六・四〜五)の言葉で、「聞け、イスラエルよ。我らの神、主《ヤハウェ》は唯一の主である」という根本信条に続く、最も重要な戒めです。

 律法学者は、この戒めに「隣人を自分のように愛しなさい」というレビ記(一九・一八)の戒めを加えて、この二つが律法全体を要約していると、自分の律法理解を申し述べます。これは当時のユダヤ教の標準的な律法の要約であり、イエスも律法全体がこの二つの律法にまとめられることを認めておられます(マルコ一二・二九〜三一)。イエスはその答えに対して、「正しい答えだ」と言っておられます。しかし、正しい答えをすれば永遠の命が得られわけではありません。正しい答えをしたその律法学者にイエスは次のように言われます。

 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」。(一〇・二八)

 同じ質問をした若い資産家(議員?)にもイエスは同じように、何をしたらよいかは律法に書いてあるではないかと指摘し、基本的な律法を引用しておられます(一八・二〇)。それはすべて守ってきましたという青年に、イエスは「あなたには一つ足りないものがある」と言って、永遠の命は律法を行うことによって得られるものではないことを指し示し、すべてを捨てて(=自分の価値を捨てて)イエスと一緒に命の道に従うように招いておられます。

 それに対して、イエスを試みるためにこの質問をした律法学者には、「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」と突き放して、律法を実行すれば命が得られるという彼の立場に放置しておられます。永遠の命は律法を実行して得られるものではなく、神の恩恵の賜物です。「何をしたらよいか」という問いの立場そのものの誤りに気づかなければならないですが、彼はあくまで律法を実行すれば命が得られるという立場に固執して、その立場で次の質問をします。

 

隣人とは誰か

 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。(一〇・二九)

 この律法学者は、昼も夜も律法を研究し、その律法に従って神の御心を行うように毎日熱心に努力していたので、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」という戒めは十分に守っていると考えていたのでしょう。それで、「隣人を自分のように愛しなさい」という戒めを守っていると認められるならば、それで律法を実行していることになり、永遠の命を得ることができることになる、と考えたのでしょう。自分は日頃接する人たち、家族や仲間、同じ契約の属する同胞ユダヤ人に善くしているのだから、もしこの戒めの「隣人」がこの範囲の人を指すのであれば、自分は十分律法を実行していることになり、「義人」として命を得ることになるのではないか、そういう結論を期待して「わたしの隣人とはだれか」という質問をイエスにします。「自分を正当化しようとして」と訳されている句は、原文では「自分を義としようとして」という表現です。

 律法学者の「隣人とはだれか」という質問に、イエスは客観的に隣人の範囲を限定する境界線を引くのではなく、一つのたとえを語って、律法がわたしたちに求めているところを指し示されます。

 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った」。(一〇・三〇〜三二)

 エリコはエルサレムから東へ約二七キロにあり、死海の方に下る道を五時間ないし六時間行かなければなりません。その道は荒野を通る道で、「追いはぎ」に襲われる危険の多い道でした。この「追いはぎ」《レーステース》という語は、たんなる物取りの盗賊ではなく、イエスの時代に活動していた武装革命家を指していました。彼らはイスラエルを異教の支配者から解放するために武力闘争を辞さず、必要に迫られた場合は同胞のユダヤ人からも金品を奪うことがありました。《レーステース》(強盗)というのは、このような熱心党系の者たちをローマ側から呼んだ名称です。

 イエスの時代にはこのような「追いはぎ・強盗」が横行し、エルサレムからエリコに下る寂しい道は、彼らの格好の稼ぎ場になっていました。イエスがこのたとえを語るのに、一般的に「寂しい道」とされず、具体的に「エルサレムからエリコに下る道」とされたことに、時代の状況が反映しており、イエスがこれを語られたことを印象づけています。

 追いはぎ(複数形)に襲われた人はユダヤ人であることが、当然のこととして前提されています。襲ったユダヤ人「追いはぎ」も同胞の命までは奪わなかったようです。半殺しにされて横たわっているこのユダヤ人の側を、同胞の祭司やレビ人が通り過ぎますが、彼らは見て見ぬふりをして通り過ぎて行きます。襲われた人も、見過ごした祭司やレビ人も、エリコからエルサレムの神殿に詣でたり、そこで奉仕したりしたユダヤ人であり、エリコに帰るところであったと考えられます。

 「ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います』」。(一〇・三三〜三五)

 ところが、そこに旅をしていたサマリア人が通りかかります。彼は半殺しにされて横たわっている人を見て「憐れに思い」ます。ここにも、イエスについてよく用いられている、《スプランクナ》(内蔵)を語幹とする「憐れむ」という動詞が用いられています。イエスは苦しむ者に対する御自身の深い憐れみの心をこのたとえの登場人物に投影しておられます。このサマリア人は、普段は交際のないユダヤ人を親切に介抱します。イエスはその親切ぶりをきわめて具体的に生き生きと描いておられます。しかし、このたとえの重点は彼の親切ぶりではなく、彼がサマリア人であることです。ユダヤ人はサマリア人を、異邦人の血が混じった民、モーセ律法を誤った形で継承している異端的な宗教の民、汚れた民として軽蔑し、いっさい交際をしませんでした。そのサマリア人が、自分を差別し軽蔑しているユダヤ人を憐れみ、親切に介抱したのです。

 「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」。律法の専門家は言った。「その人を助けた人です」。そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい」。(一〇・三六〜三七)

 律法学者は「わたしの隣人とはだれですか」と質問しています。それに対してイエスは、「だれが隣人になったか」と問い返しておられます。律法学者の質問は、隣人の範囲を限定する線を引いて、その範囲内の人は愛しているのだから律法を満たしている、という自己義認の願いが潜んでいます。それに対してイエスは、隣人の範囲を限定する線を引くのではなく、どのような関係の人でも、助けを必要とする人を見たら、その人を助けることで「隣人になる」ように神は求めておられるのだとされます。それが「隣人を自分のように愛しなさい」という律法が求めるところだとされます。

 「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と問われて、律法学者は「その人を助けた人です」と答えます。そう答えざるをえません。神の求められるところを、イエスは律法の細々とした解釈を重ねて示すのではなく、生き生きとしたたとえを語って、律法の根底・根幹を納得さぜるをえないようにされます。その知恵に驚きます。これは、イエスが絶対恩恵の場で敵をも愛する愛に生きおられ、苦しむ人を憐れみ、すべての人の隣人となって生きておられるところから出る知恵です。それがこのようなたとえを自然に語り出させるのです。
 ここでも、「その人を助けた人です」と正しい答えをした律法学者に、イエスは「行って、あなたも同じようにしなさい」と言っておられます。このたとえを聞いて神の求めておられるところを悟り、そこでこのイエスの呼びかけを聞いた者は、助けを必要とする人のところに行って、その人の隣人となろうとせざるをえません。この「善きサマリア人」のたとえは、その後の二千年のキリスト教の歴史において、助けを必要とする人たちに民族や国境の壁を越えて援助の手を差し伸べる運動の源泉となり、原動力となってきました。

 ここで倒れていた人を助けたのは同胞のユダヤ人ではなくサマリア人であったということをイエスが語られたのは、隣人愛の戒めは同胞の間だけでなく民族の違いを超えて行わなければならないということを求めているだけではありません。それは宗教の違いを超えて「隣人となる」ことを求めています。
 当時のユダヤ人とサマリア人の対立は宗教的な対立でした。ユダヤ人というのはユダヤ教徒のことであり、サマリア人というのはサマリア教徒のことです。同じモーセ律法を聖典としていただきながら、エルサレム神殿での祭儀で神を礼拝するユダヤ教徒とゲリジム山で礼拝するサマリア教徒は、互いに異端視し、相手を汚れた民として一切の交際を絶っていました。このたとえのサマリア人(サマリア教徒)は、この宗教上の対立という壁を越えて、人間同士としての憐れみからユダヤ教徒を助けたのです。神が求めておられる隣人愛は、宗教の枠の中に閉じこめられてはならないのです。それは民族や国家の境界を超える(international)だけでなく、宗教の違いをも超え(interreligious)、文明間の対立をも超える(intercivilizational)ものでなければなりません。

 

たとえの寓喩的解釈

 ところで、この「善いサマリア人」のたとえ話は、キリスト教の歴史においてしばしば寓喩として解釈されてきました。その代表的な例として、アウグスティヌスの解釈をあげておきます。

   「ある人がエルサレムからエリコに下っていった」というのは、アダム自身を意味している。「エルサレム」は天にある平和の都である。その都の浄福からアダムは堕落した。「エリコ」は月を意味しており、またわれわれの死ぬべき性質を意味している。なぜなら、月は生まれ、満ち、かけて、死するからである。「強盗ども」は悪魔とその使い達である。「その着物をはぎとり」とはその人の不死性をはぎとることである。「彼を打ちたたき」とは、その人を罪を犯すように説きすすめることである。「半殺しにしたまま逃げ去った」というのは、こういうことである。人間は、神を理解し知ることができる限りにおいて生命をもち、罪によって弱められ、圧倒されている限りにおいて死んでいる。ゆえに彼は「半殺し」とよばれているのである。これを見て向こう側を通っていった「祭司」と「レビ人」は、旧約聖書の祭司職と教職者を意味し、救いのためには何ら益なきものである。「サマリア人」は守護の天使を意味する。それゆえ、主ご自身がこの名で意味されているのである。その傷に「ほうたいをしてやった」とは、罪を抑制することである。「オリブ油」とは、よき望みを与えて慰めることであり、「ぶどう酒」とは、熱い霊に満たされて働くようにとの勧めである。「家畜」とは肉のことであり、その肉の姿で主はわれらのところに来られるように計画されたのである。「家畜にのせ」たとは、キリストの受肉を信じることである。「宿屋」は教会であり、天の国へ帰ってゆく旅人達が巡礼の旅を終えた後、元気を回復する所である。「翌日」とは主の復活の後のことであり、「二デナリ」とは愛の二つの訓戒か、またはこの世の生命と来るべき世の生命の約束かである。「宿屋の主人」は使徒(パウロ)である。余分の支払いは、使徒の独身の勧めであるか、または、彼が自分の手で働いたという事実である。「福音によって生活すること」は、彼にとって正当なことであったが、新しく福音に接した弱い兄弟達の誰にも重荷にならぬようにと自分で働いたのである。
    (C・H・ドッド『神の国の譬』(室野・木下訳、日本基督教団出版部)14頁以下の Quaestiones Evangeliorum 16 の抄録)

 まことに見事な寓喩化です。イエスが語られたたとえの語句の一つ一つの言葉に具体的な意味内容を持たせて、人間の救済についての説話を作り上げています。そのような福音書の記事を素材とする説教もそれなりの意味はありますが、それがこのたとえの真意だとすると、イエスがこのたとえで語りかけようとされた(前述の)核心が見えなくなる恐れがあります。

 イエスのたとえを寓喩として解釈することは、実は福音書の時代から始まっています。先に「種を蒔く人」のたとえのところで、イエスがそのたとえの意味を説明されたという記事がありました(八・一一〜一五)。その箇所の講解で述べたように、実はこの説明はイエスご自身のものというよりは、最初期の福音告知活動の状況において、御言葉(=福音)を聴く姿勢について勧告する寓喩になっています(『天旅』二〇〇九年2号11〜12頁参照)。聖書(旧約聖書)の記事を寓喩として解釈する聖書解釈法は、すでに一世紀のアレクサンドリアのユダヤ人哲学者フィロンにも見られましたが、その後のヘレニズム文化の中で成長し活動した教会は、そのヘレニズム哲学や宗教の得意の手法を継承し、福音書の寓喩的解釈を発展させてきました。ここにあげたアウグスティヌスの寓喩的解釈はその典型となります。

 アウグスティヌスの解釈は彼が置かれていた教会的状況における説教として有益であり、傾聴すべきものですが、わたしたちはやはり、寓喩化される前のイエスが語られたときの原意を第一に探求すべきです。その上で、そのたとえを通して示されたイエスの精神を現代の状況の中で生きていくことが求められています。


 66 マルタとマリア(一〇・三八〜四二)

ベタニアでの出来事

 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。(一〇・三八)

 マルタ・マリア姉妹はベタニア村の住人であることが福音書から知られています(ヨハネ一一・一)。その「ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオン(三キロ弱)ほどのとろこにあった」村です(ヨハネ一一・一八)。ベタニアはエルサレムの東三キロ足らずにある村ですから、歩けば半時間程度でエルサレムに着きます。マルタの家にお入りになったイエスは、目的地のエルサレムを目の前にしておられることになります。ところが、ルカの「旅行記」は始まったばかりですから、その位置にベタニア村での記事が置かれていることには奇異な感じを受けます。

 しかし、先に見たように(本号32頁)、ルカの「旅行記」は、旅行の行程や出来事を報告する本来の旅行記ではなく、ガリラヤでの「神の国」告知の活動とエルサレムでの受難を語るマルコの二極構造の間に、マルコにはない「語録資料Q」やルカの特殊資料からの素材を置くために割り込ませた物語空間ですから、地理的・時間的継起は無視されることになります。

 マルタにマリアという姉妹がいたことはすぐに次節で言及されます。マルタにはラザロという兄弟もいて、イエスはこのマルタ・マリア・ラザロのきょうだいと親しくされていたたことがヨハネ福音書一一章に語られています。また、ヨハネ福音書によればイエスは活動期間中に祭りの度ごとにエルサレムに上っておられますから、その度ごとにベタニアのマルタの家に立ち寄っておられたと推察されます。その中の一回で起こったことを、ルカはここに置いたと考えられます。この出来事は、必ずしも最後の過越祭のエルサレム入りの直前でなくともよいことになります。

 

無くてならぬものは一つ

 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。(一〇・三九)

 マリアはマルタの「姉妹」とあるだけで、姉か妹かは分かりません。しかし、ここやヨハネ福音書一一章に描かれている様子から、マルタは長女で、マリアはその妹、ラザロはその弟と推察されます。

 イエスは行き先のどこでも、相手の立場に応じた形で「神の国」のことを語られたのでしょう。宿泊先のマルタの家で、「人を見て法を説く」イエスの姿が伝わってきます。マリアはイエスの足もとに座って、諄々と語られるイエスの言葉に耳を傾けます。

 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」。(一〇・四〇)

 マルタは長女で、おそらくすでに両親がなくなっていたその家を取り仕切っていたのでしょう。イエスとその一行がベタニアに来て泊まったときには、一行をもてなすために台所で忙しく立ち働きます。そのマルタが、イエスの足もとに座ってじっとイエスの話を聴いているマリアを見て、こう言ったのも当然の感情として理解できます。当時の庶民の家の構造からすると、片隅の台所で働くマルタは部屋の他の隅で客人の足もとに座って話を聞いているマリアの姿を見ていたのでしょう。なお、ここでマルタがイエスに「主よ」と呼びかけているのは、復活されたイエスに対する称号ではなく、日常的な会話での呼びかけ、とくに目上の人や男性に対する呼びかけと見るべきでしょう。

 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」。(一〇・四一〜四二)

 イエスが「マルタ、マルタ」と名を繰り返して呼んでおられるところに、マルタに対するイエスの優しい思いやりが感じられます。イエスはマルタの求めを叱責するのではなく、マルタの奉仕を受け入れながら、この状況でマルタに重要な事柄を教えようとされます。
 イエスのお答えの中心は「多くのこと」と「ただ一つ」の対照です。この世界での生活が要求する多くの思い煩いと、神が求められる「ただ一つ」のことの対照です。わたしたちはこの世で生きていく限り、生活するために計画し、準備し、苦労し、疲労し、配慮し、後悔し、失望するなど、実に多くの思い煩いがあり、心を乱すことが山ほどあります。しかし、わたしたちが神に受け入れられ、神からの恵みと祝福を受けるために必要なことは「ただ一つ」、神の言葉を聴くことだけなのです。イエスは、この神の言葉を語る者として、生活の中での思い煩いの中にいるマルタに優しく諭されます。
 マリアも日頃はこのような多くの思い煩いの中で生きているのでしょう。しかし、今は神の言葉を語るイエスにじっと耳を傾けています。マリアはイエスに奉仕するより、イエスが与えてくださるものを受け取る方を選んだのです。今マリアが選んだ場、すなわちイエスを通して語られる神の言葉を聴き、神がイエスを通して与えてくださる恩恵を受け取る場を、彼女から取り上げてはならない、とイエスは言われます。

 

最初期共同体の状況で

 四一節の「主はお答えになった」の「主」《キュリオス》は、先の会話の中のマルタの「主よ」とは違い、ルカが用いている「主」です。ルカが「主」《キュリオス》を用いるときは、復活されたイエスを「主」と呼んでいた彼の時代の用例が重なってくることは避けられません。伝承されていたイエスの語録を用いるとき、そのイエスの言葉を復活者イエスと共に生きる共同体が自分たちへの言葉として聴くことを願って、ルカは「主《キュリオス》はお答えになった」と書きます。

 マルタは「イエスを家に迎え入れた」とあります。この「迎え入れた」は、先に「七十二人の派遣」のところで問題になっていた、使者を迎え入れる家と拒む家の対照が響いています。マルタの家はイエスを迎え入れたことによって、救いが来ているのです。それは、イエスを家に迎え入れたザアカイに救いが来たのと同じです(一九・六、九)。今このイエスの語録の言葉を聴いている人たちは、福音の使者を迎え入れることによって復活者イエスを迎え入れ、キリストの救いを体験し、「家の集会」に集まっている人たちです。この家の人たちにイエスは名を呼んで、この「マルタよ、マルタよ」の言葉を語られます。

 「家の集会」は「主の食卓」と御言葉を聴く営みから成っています。もし集う人の一部(たいていは女性)が「主の食卓」の準備に忙殺されたり、また一同が飲食だけに終始して、御言葉を聴く機会や姿勢を失うようなことがあれば、それは本末転倒です。無くてならぬものはただ一つ、神の言葉を聴くことですから、誰からもその機会を取り上げてはなりません。女性を含むすべての人が十分に御言葉を聴く機会が与えられた上で、飲食のことが準備され、交わりが楽しまれなくてはなりません。

 ここのイエスの言葉は、現代のわたしたちに語りかける「主」の言葉です。主は、多忙な現代社会の生活の中で、「多くのことに思い悩み、心を乱している」わたしたちに語りかけておられます。主は言われます、「本当に必要なことはただ一つだけである」。マリアがイエスの足もとに座って、イエスが語られる言葉にじっと耳を傾けたように、今わたしたち現代人も、すべての営みに優先してただ一つの「無くてならぬもの」、すなわち神の恩恵の言葉に耳を傾け、恩恵の場に生きることを学ばなければなりません。どのように忙しくても、複雑な現代社会に対応するため必要なことがどれほど多くても、それを理由にこの恩恵の言葉を聴く機会を取り上げてはなりません。まずすべての人が、キリストであるイエスを通して語れる父の恩恵の言葉を聴いて、その恩恵の場に生きるようになることが、この複雑で多忙な現代社会に生きる人たちに、平安の根底を与えることになります。


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