ルカ福音書講解 9

 

    第九章 主の祈り 

                           ―  ルカ福音書 一一章   ―



はじめに

 前章から、ルカ福音書の主要三区分の第二部になる「ルカの旅行記」に入っています。この第二部では、どういう原理で段落が配列されているのかを理解することが困難です。旅行記といっても旅行の行程が区分を決めているわけではなく、おもに「語録資料Q」やルカの特殊資料の素材が、ルカの構想によって並べられています。この旅行記は、ガリラヤとかエルサレムという枠にとらわれないで、イエスの福音活動を描こうとしたルカの構想によるものと考えられます。本稿では便宜上、現行の福音書の章区分にしたがって講解を進めています。旅行記の構成については、第二部の講解を終えた後で、ふりかって検討する予定です。

 今回扱うルカ福音書一一章は、強いて分けると、前半(一〜一三節)は祈りについてのイエスの教えをまとめ、後半(一四〜五四節)はイエスと周囲のファリサイ派や律法学者たちとの対立を扱っていると見ることができます。前半の祈りについてのイエスの教えの部分の中心は「主の祈り」ですから、一一章を扱う本章の標題を「主の祈り」とします。この標題は一一章全体の内容を指すものではありませんが、その重要性から今回の標題として掲げておきます。


    祈りについて

 

67 祈るときには(一一・一〜一三)

 

祈りを教えてください

 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。(一一・一)

  ルカは、イエスが祈りの人であったことを強調し、繰り返しイエスが一人退いて祈られたことを描いています(五・一六、六・一二、九・一八、九・二九)。ここでもイエスは寂しいところで一人祈っておられたのでしょう。ルカがこのようにイエスの祈りの姿を強調するのは、ルカの時代の共同体において、祈りが信仰者の重要な資質であるとして強調されていたからであると考えられます。

  弟子たちも、イエスの知恵と力の源泉が祈りにあることを感じていたのでしょう、イエスが祈りを終えられたとき、イエスに祈りを教えてくださるように願います。弟子たちは普段から祈りの秘訣というようなものを教えていただきたかったのかもしれません。しかしここでは、ルカは「ヨハネが弟子たちに教えたように」という句を加えて、この願いを共同体が祈るべき祈りを与えてくださるようにという願いにし、「主の祈り」への導入としています。

 洗礼者ヨハネの周囲に集まった弟子たちは、師のヨハネから教えられた祈りを共に祈ることで共同体を形成していたと見られます。それをモデルにして、イエスの弟子たちも師イエスから弟子が祈るべき祈りを教えてくださるように願います。同じ祈りを祈ることは、宗教共同体を形成するために重要な要因です。ここで教えられた祈りは、後にルカの時代でもキリスト信仰共同体で集会ごとに祈られていた共同の祈りであると見られます。ルカは、その祈りの起源をイエスご自身が弟子たちに直接教えられた祈りとしてここに置きます。

 

「主の祈り」のテキスト

 そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。
 『父よ、
 御名が崇められますように。
 御国が来ますように。
 わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。
 わたしたちの罪を赦してください、
  わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。
 わたしたちを誘惑に遭わせないでください』」。 (一一・二〜四)

 この祈りはイエスご自身の祈りです。イエスはご自分が祈っておられない祈りを弟子たちに祈るように求める方ではありません。わたしたちはイエスが祈っておられた祈りを、イエスと共に祈ることによって、イエスと共に神の前に生きる民となるのです。したがって、この祈りはわたしたちキリストの民にとって最も基本的な重要な祈りとなります。

 この祈りは福音書において二つの形で伝えられています。一つはマタイ福音書(六・九〜一三)に伝えられている形であり、もう一つがこのルカ福音書の形です。比較のためにマタイ福音書の本文を掲げておきます。

 天におられるわたしたちの父よ、
  御名が崇められますように。
  御国が来ますように。
  御心が行われますように、
    天におけるように地の上にも。
  わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
  わたしたちの負い目を赦してください、
    わたしたちも自分に負い目のある人を
    赦しましたように。
  わたしたちを誘惑に遭わせず、
    悪い者から救ってください。 (マタイ六・九〜一三)

 マタイもルカも共に「語録資料Q」を用いていると考えられます。一見して明らかなように、マタイの方がルカよりも長くなっています。ルカにない部分はマタイが付け加えたと推定されます。ただ、付加部分がマタイの筆によるものか、それともマタイ以前にすでに共同体で用いられていたのかは争われています(EKK注解のルツは後者の蓋然性が高いとしています)。おそらく、マタイのテキストもルカのテキストも著者の個人的な編集の結果ではなく、マタイの方はユダヤ人の集会で、ルカの方は異邦人の集会で実際に祈られていた形に由来するのでしょう(エレミアス)。

  二つのテキストを比較して、構成はルカの方が「語録資料Q」の形に忠実であるが、用語はマタイの方が「語録資料Q」の表現に忠実であるとする見方が、現在研究者の間で一般的です。その代表例としてクロッペンボルグの「Q資料」の復元を引用しておきます(引用はクロッペンボルグ他著・新免貢訳『Q資料・トマス福音書』日本基督教団出版局より)。
 
  父よ、
  御名が崇められますように。
  御国が来ますように。
  わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
  わたしたちの負い目を赦してください、
    わたしたちも自分に負い目のある
    人を赦しましたように。
  わたしたちを試みにあわせないでください。

 構成は短いルカの形が用いられています。しかし、用語では傍線の部分にマタイの形が用いられています。マタイとルカで用語や動詞の時制が異なる場合、著者はマタイの方を「語録資料Q」に忠実として採用しているわけです。その根拠は、それぞれの項目を扱うときに触れることになります。

 

「主の祈り」の構成

 「主の祈り」は、最初の「父よ」という呼びかけを別にすると、二つの部分で構成されています。前半の二つの祈りは、「あなたの名が聖とされますように」と「あなたの支配が到来しますように」という、「あなた」のことを祈り求める祈りです。そして、後半の三つの祈りは「わたしたち」のことを祈り求める祈りです。

 前半の二つの祈りは、当時のユダヤ教徒が日常シナゴーグで祈っていた「カデシュ」の祈りを圧縮した形になっています。当時のシナゴーグではアラム語の説教の後に、「カデシュ」と呼ばれる次のような祈りが祈られていました(エレミアスによる)。

「彼(神)の大いなる名が称えられ、聖とされんことを、
   彼がその意志によって創った世界において。
 彼の王国が支配するように、
   汝らの生涯、汝らの日々、
   イスラエルのすべての家の生涯の間、
   速やかに来たって。
 彼の大いなる名が永遠から永遠に称えられんことを。
   そして、汝らはアーメンと言え」。

 「主の祈り」の前半は、これと形は同じですが、祈りの内容と根拠はユダヤ教徒の「カデシュ」とは違ってきています。そのことはそれぞれの祈りの講解で明らかにします。

 後半の三つの祈りは「わたしたち」についての祈りです。普通祈りは自分の必要の充足とか安全とか繁栄とか栄光、総じて自分のことをを願い求めるものですが、イエスが教えられる祈りは、まず神のことを祈り求め、次ぎに自分のことを祈り求めるという構成になっています。しかも、自分のことを祈り求める祈りの内容は、それぞれの祈りの講解で明らかにしますが、自分の栄光を求めるものではなく、自分を無にして、信頼をもって自分を神に委ねる姿を言い表すものです。この点で「主の祈り」は、わたしたちの祈りの方向を自分から神へ転換させ、自分という存在の在り方を方向転換させる祈りです。

 なお、「主の祈り」はその簡潔さが印象的です。これだけの簡潔な祈りは、だれでも覚えることができ、唱えることができます。多くの宗教がそうであるように、祈りは祭司(司祭とか僧侶とか神官)のような専門の聖職者だけが唱えることができるものではなく、信者がだれでも唱えて、直接神との関わりをもつことができるものになったのです。キリストの民は、一人ひとりがこの祈りを日々全身をもって祈ることにより、イエスのように父との親しい交わりの中に生きていくことができるのです。

 

「父よ」

 イエスは祈るときはいつも「アッバ!」と呼びかけておられました。イエスが祈られた《アッバ》というアラム語を直接伝えているのは、マルコ福音書一四章三六節のゲッセマネの祈りの一箇所だけです。そこでは「アッバ、父よ」と、《アッバ》というアラム語と《ホ・パテール》(父)というギリシア語が並んで出てきます。ところで、この「アッバ、父よ」という表現はパウロ書簡(ガラテヤ書四章六節とローマ書八章一五節)にも用いられていて、ギリシア語を話す最初期の共同体の祈りで《アッバ》というアラム語の呼びかけが用いられていたことを示しています。弟子たちはイエスの「アッバ!」という祈りをいつも耳にし、そう祈るように教えられていたので、ギリシア語世界に福音を宣べ伝えたときも、自分たちの祈りに刻印された《アッバ》というアラム語の祈りを、主イエスの祈りとしてそのまま伝えたのでしょう。この事実は、間接的にイエスが《アッバ》という呼びかけで祈られたことを証言しています。

 《アッバ》というアラム語はもともと幼児語でしたが、イエスの時代までに成人した子が父親を呼ぶ言葉にもなっていました。これはおもに親しい家族の間で用いられる呼びかけの言葉ですから、イエスがこの言葉で祈られたことは、当時のユダヤ教の祈りと比べると、イエスの祈りがきわめてユニークなものであったことを示しています。当時のユダヤ教では、神の名を多く並べる祈りが行われていました。たとえば会堂で祈られる「シェモネ・エスレ」(十八祈願)は次のように始まります。

 「主よ、あなたは讃むべきかな。われらの神、われらの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、偉大にして力強く、また恐るべき神、いと高き神、・・・助け主、救い主、そして楯なる王よ。・・・アブラハムの楯よ」(山本書店『原典新約時代史』より)。

 このように、イエスが神を「アッバ!」と呼び、子としての親しい交わりに生きられたのは、イエスが神の御霊に満たされておられたからです。イエスの聖霊体験は、共観福音書が描くところによりますと、イエスがヨルダン川でヨハネからバプテスマをお受けになったとき、聖霊が鳩のようにイエスの上に降り、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声を聞かれたという形で伝えられています(マルコ一・九〜一一とその並行箇所)。この体験から、イエスの子としての自覚と、父の啓示や「神の国」告知などすべての働きが出ているのです。

 わたしたちは、イエスから「父よ、と言え」と教えられて、口先ではその言葉を発音しても、イエスのように存在のすべてを父としての神に委ねる生き方の表現としての祈りにはなりません。しかし、わたしたちも十字架の場で聖霊を受けるとき、聖霊は子としての身分を授ける霊ですから、聖霊によって「アッバ、父よ」と呼んで(ローマ八・一四〜一六)、イエスのように父への無条件の信頼に生きることができるようになります(マタイ六・二五〜三四)。イエスは、言葉で「アッバ」と言えと教えられるだけでなく、復活者キリストとして聖霊を与えることによって、「アッバ」と呼ぶ祈り、イエスと同じ祈りの現実に導き入れてくださるのです。

 このルカが伝える端的な「父よ」の呼びかけが、本来のイエスの祈りの形を伝えていると考えられます。マタイは「天にいますわたしたちの父よ」としていますが、「わたしたちの父よ」は集会で祈られる共同の祈りの形であり、「天にいます」は当時のユダヤ教会堂で重要になりつつあった用語法を手本にしているとされています(EKKのルツによるマタイ福音書注解)。おもにユダヤ人で構成されるマタイ共同体の集会では、日頃このような形で祈られていたと見られます。

 

「御名が崇められますように」

 この祈りの原文は直訳すると、「あなたの名が聖とされますように」となります。「聖とされる」という受動態の隠された行為者は神とも祈り手の人間であるとも解釈されます。神の場合は、神御自身が汚された御自身の名を最終的な審判と救済の行為で聖とされることを祈り求める祈りとなります。それはエゼキエル(三六・二三)が預言した、「わたしは、お前たちが国々で汚したため、彼らの間で汚されたわが大いなる名を聖なるものとする」という神の言葉の実現を祈り求める祈りになり、終末的待望の祈りとして、次の「あなたの支配が到来しますように」という祈りとよく響き合います。

 しかし、それが究極的には神の終末的行為であるとしても、祈る人間が座して、どこか自分と関係のないところで実現されるのを待っているというのは祈りの本質に適いません。祈りは、祈る者が自分を神に委ね、神の前に自分を投げ出して、祈りの内容の実現を神に願う行為です。したがってここでも、祈る者が「わたしの行為を通して、いや、わたしの存在自体を通して、あなたの名が聖とされますように」と、自分を神に投げ出して、自分を通してなされる神の行為を願い求めていると理解しなければなりません。

 では、「神の名が聖とされる」というのは、どういうことでしょうか。そもそも名とは事柄の本質を現す言葉です。神の名とは、神がどのような方であるかを示す言葉の総体です。人間は神の本質を知ることはできませんから、神が御自身を顕わしてくださる範囲内で、わたしたちは神の名を知ることができるのです。「啓示」とは、神が御自身の名を人間に現される出来事であると言えます。

 神はイスラエルの歴史の中で御自身の名を啓示してこられました。すべての存在・出来事の根源として「ヤハウェ」という名をモーセを通して啓示し、イスラエルの歴史の中で唯一の神であり、慈愛、信実、義の神であることを啓示してこられました。イスラエルの民はその苦難の歴史の中で、神の名だけに依り頼み、御名を賛美してきました。詩編は御名への賛美と、御名に寄り縋る信頼の表現です。この第一の祈りは詩編の祈りの集約です。わたしが神の慈愛だけに、また信実だけに身を委ねて生きることによって神の慈愛とか信実が現れて、神が慈愛と信実の神であるという神の名があがめられるようになることを、身を投じて願っているのです。

 イエスの第一の祈りは、「父よ、あなたの名が聖とされますように」という祈りでした。この祈りによって、イエスは神の名が聖とされる終末の時を待望されるだけでなく、御自分の存在を父の名が聖とされるために捧げられるのです。父の慈愛と信実と力が顕わされ伝えられるために、生涯を捧げられるのです。そして、最後に十字架の死に御自身を引き渡されるのも、「父よ、御名があがめられますように」という祈りの貫徹なのです(ヨハネ一二・二七〜二八)。

 

「御国が来ますように」

 この祈りの原文は直訳すると、「あなたの支配(統治)が到来しますように」となります。「支配」と訳した原語は《バシレイア》です。このギリシア語は《バシレウス》(王)の支配を意味する語です。「神の《バシレイア》」は、日本語訳では「神の国」と訳される場合が多いのですが、本来は神が支配される領域ではなく、神が王権をもって支配される支配関係、王の統治、王権支配を意味する語です。

 現実の世界では神の支配が行われていません。神以外の様々な力が現実の世界を支配しています。むしろ神に敵対する力が優勢に支配しています。その中で最たるものは罪の力です。人間は罪の力に支配されて、神に背を向け、神が望まれることと反対のことをしています。謙虚に人に仕えるのではなく、高ぶって人を支配しようとし、誠実に言葉を用いず、偽りに溢れ、人を生かし助けることに遅く、人を傷つけ殺すのに速いのが現実です。神の民はそのような世界で、罪の支配が打ち破られ、慈愛と信実の神が支配される時が到来するように祈らないではおれません。そのような神の支配が到来する時は、神の創造の目的が達せられるとき、終末の時です。この祈りは終末的な神の栄光の実現を祈り求める祈りです。

 先に「カデシュ」の祈りのところで見たように、イスラエルの民は日々この祈りを捧げていました。イエスもこの祈りをもって、神の支配の到来を祈り求め、そのために身を献げて働かれました。イエスは「神の支配」を告知することをご自分の使命とし(四・四三)、権威ある言葉でそれを告知し、多くのたとえを用いて「神の支配」の姿を解き明かし、人々を「神の支配」に入るように招かれました。たしかにイエスの「神の国」告知には、洗礼者ヨハネと同じように、その時代に向かって神の裁きが近いことを宣言する預言者的な一面があります。

 しかし、同時にイエスは「神の支配」がすでに到来していることを告げ知らされました。イエスの「神の国」告知には、当時の終末待望と決定的に違う面があります。イエスは預言者の語った終わりの日の「神の恵みの年」が到来していると告知されことを、ルカは最初に明白にしています(四・一七〜二一)。イエスご自身も、悪霊を追い出す働きを指して、「わたしが神の指で追い出しているのであれば、神の支配はあなたたちのところに来ているのだ」と言っておられます(一一・二〇)。イエスのたとえは神の支配が到来していることを指し示しています。時は満ち、花婿はすでに来ています。畑は色づき、収穫の時が来ています。新しいぶどう酒を新しい革袋に入れる時が来ています。

 イエスの中に到来している神の支配は「恩恵の支配」です。イエスは、律法の規準では罪人として排除される者も、神は父の慈愛をもって無条件に受け入れてくださっているという「恩恵」を告知し、徴税人や遊女も仲間とするという行動で示されました。律法順守を神の民の規準として固執する当時のユダヤ教指導層は、このような恩恵の支配を告知するイエスを憎み、ついにはローマの支配者に引き渡して処刑します。イエスの十字架の死は、イエスが「恩恵の支配」の告知を貫かれた結果です。イエスは命をかけて、「父よ、あなたの支配が到来しますように」という祈りを貫かれたのです。

 イエスはご自分の中に「神の支配」が到来していることを知っておられるゆえに、その現実を体現しておられるゆえに、終末の完成を現実的なものとして待ち望み、その将来の到来を告知されました。今聖霊によって復活者キリストを内に宿すキリストの民は、聖霊によってキリストの現実を味わい知っているゆえに、ますます強くそのキリストの終末的顕現を待ち望まざるをえません。現在のわたしたちにとって、「あなたの支配が来ますように」という祈りは、「主イエスよ、来たりたまえ」という祈りになります(黙示録二二・一七)。

 

「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」

 この祈りは「糧」に付けられている形容詞《エピウーシオス》の解釈をめぐって意見が分かれています。この形容詞の元になる動詞として、意味の異なる二つの動詞が考えられ、語学上はどちらとも決められません。その一つは「存在するのに必要な」という意味を示唆し、もう一つの動詞からの派生とすれば、「明日の」とか「将来の」という意味になります。「日ごとの食物」という伝統的な理解は第一の意味を取っているわけです。

 ところが、この形容詞は「明日の」という意味に理解すべき強い根拠があります。当時の諸言語に精通していることでは古代教会の第一人者であり、アラム語圏のシリア・パレスチナでも活躍したヒエロニムスが、「ナザレ人福音書」の中では《エピウーシオス》にアラム語の《マハル》が当てられていると述べています。「ナザレ人福音書」というのは、ギリシア語のマタイ福音書をアラム語で解説的に翻訳したもので、アラム語を用いるシリアのユダヤ人キリスト教徒の間で用いられていた福音書です。ギリシア語の「主の祈り」をアラム語に翻訳するにさいして、翻訳者は当然自分が日頃唱えている祈りの言葉を用いたはずです。この事実から、イエスや弟子たちが語ったアラム語の伝承においては、この箇所は《マハル》(明日)という語が用いられていたと、十分推察できます。

 さらに、ヒエロニムスは「明日のパン」という表現の意味について次のように書いています。「明日という意味の《マハル》によって、ここの意味は、われわれの明日、つまり未来のパンを今日われわれにお与えくださいということになる」。《マハル》は字義の上では「明日」ですが、広く「未来・将来」を指す語であり、信仰の世界では「神の明日」として終末を意味する語です。彼は「主の祈り」のパンを、生活に必要な食物としてのパンではなく、終末時のパン、すなわち終末的な生命に必要なパンと理解していたのでした。パンをこのように終末論的に理解することは、初めの数世紀の間、東方教会でも西方教会でも支配的であったようです。なお、ヒエロニムスのラテン語訳聖書(ローマカトリック教会公認のウルガータ)では、ここは panem supersubstantialem(超実体的なパン)となっています。

 カトリック教会の霊的・比喩的解釈に対抗して、宗教改革は聖書の文字通りの解釈を主張したので、このパンの祈りも宗教改革以来文字通りに物質的なパンを指すと解釈されるようになりました(ツウィングリは霊的解釈に留まりました)。しかし、次の祈りの「負債・借金」は明らかに罪の象徴的表現ですから、パンを文字通りの解釈に限定することはできないはずです。

 次にこの祈りが置かれている文脈を検討します。マタイも「主の祈り」を「あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。だから、あなたがたはこう祈りなさい」という前置きで導入し、「主の祈り」のすぐ後に感動的な「空の鳥、野の花」の説話(六・二五〜三四)を置いています。この文脈は「主の祈り」を、生活上の必要に思い煩うことなく、ひたすら霊的・終末的現実である神の国を祈り求めて生きる者の祈りとしています。この文脈は「パン」を、生活に必要なパンとしてではなく、「明日のパン」、すなわち来るべき神の国における命のための糧と理解するように求めています。

 ルカの文脈では、(すぐ後で詳しく扱うことになりますが)これが聖霊を祈り求める祈りであることがさらに明らかになります。イエスは「主の祈り」(一一章一〜四節)を教えられた後、「夜中の来訪者のたとえ」を語り(五〜八節)、そのたとえの結論として「求めよ、そうすれば与えられる」というお言葉を与えておられます(九〜一三節)。ルカは五〜一三節を直後に置くことで、「主の祈り」を解説しているわけです。その解説は、「絶えず祈れ」という一般的な祈りの勧めと理解するよりは、「夜中の来訪者」がパンを求めていることから、とくに「主の祈り」の中のパンの祈りに関する解説と理解すべきであると考えられます。するとこの解説は、友人の求めであっても起きて与えるのを断る無精な主人でも、しきりに願うので起き上がって友人が必要とするパンを与えるとすれば、まして天の父は求めて止まない者に聖霊をくださらないことがあろうか、という意味になります。ルカは「主の祈り」の中のパンを聖霊を指すものと理解しているわけです。

 マタイでは「今日」とあるところが、ルカでは「毎日」となっています。それに応じて動詞形も、マタイでは一回的な行動を示すアオリスト形ですが、ルカでは現在形が用いられていて、動作の繰り返しが含意されています。おそらく、マタイが「語録資料Q」の緊迫した終末待望の語法をそのまま伝えているのに対して、ルカは主の「パルーシア」(来臨)が遠い未来に感じられるようになった時代に、歴史の中を歩む「教会の時(日々)」を前提にして書いているので、「今日」を「毎日」に変えたのだと考えられます。わたしたちは、マタイの「明日のパンを今日お与えください」という祈りを、歴史の中で日々祈るという形で、ルカの表現をも生かす結果になると思います。 

 

「わたしたちの罪を赦してください」

 先にマタイのテキストとの比較で、マタイでは「わたしたちの負債を赦してください」となっているところが、ルカでは「わたしたちの罪を赦してください」となっていることを指摘しました。おそらく「語録資料Q」では「負債」とあるのを、マタイはそのまま用い、ルカは「罪」と言い換えたのだと考えられます。マタイが用いているギリシア語は「負債、借金」という意味だけの語です。イエスが用いられたアラム語では、「負債」を意味する語は「罪」という意味もあるので、アラム語を理解するユダヤ人信者向けに書かれたマタイ福音書では、「語録資料Q」の「負債」をそのまま用いても「罪」を指していることが十分理解されたのに対し、異邦人向けに書いているルカは、「負債」が罪の象徴であることを示すために一度は「罪」というギリシア語を用い、「わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」という付加の文で「負い目、借金」という語を残しています。

 罪は神に対するわたしたちの負債です。負債は決算の時に清算されなければならないように、罪は神の裁きの時に清算されなければなりません。そして、その清算の時が迫っているのです。イエスはしばしば神の裁きの日が迫っていることを、決算のたとえを用いて語られました(一六・二、マタイ一八・二三、二五・一九)。イエスの「神の支配」告知には、終わりの日の裁きが迫っているという終末的な一面があります。その日に備えてわたしたちができることは、「わたしたちの負債(罪)を赦してください」と祈ることだけです。だれが人間存在の根源的な背きを自分の行為で清算することができるでしょうか。

 裁きの日に罪が赦されることを祈るように教えるのはユダヤ教も同じです。イエスの場合、「わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」という言葉が加えられている点が違います。これは、わたしたちの罪が赦されるための条件ではなく、わたしたちが終わりの日に罪の赦しを願うことができる場が与えられていることを指し示しています。

 イエスは無条件絶対の恩恵を告知されました。そして、それを信じる者に無条件に罪の赦しを宣言されました(五・二〇、七・四八など)。自分が神の無条件の恩恵の場にいるのであれば、自分に負い目のある隣人を赦さないではおれません。もし赦さないならば、それは無条件の恩恵の場にふさわしくなく、自分をその場から追い出すことになります。この消息をイエスは「仲間を赦さない家来」のたとえ(マタイ一八・二一〜三五)で語られました。「わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」というのは、祈る者がそのような無条件の恩恵の場で隣人の負い目を赦していることを言い表しています。すでに無条件の赦しを受けているのですから、自分に負い目のある者を赦すことができるのです。そしてそのような恩恵の場にいるから、終わりの日に神が最終的な審判を行われるときに、自分の罪を赦していただくことを願うことができるのです。

 そして、いまキリストにある者は、十字架の場でこの祈りを祈ります。キリストの十字架によって無条件に赦されているという恩恵の場に生きる者として、人を赦すことによって恩恵の場にとどまり、来るべき決算の時にも恩恵によって(すなわち、赦されることによって)栄光に与ることができるように待ち望んでいます。この祈りにも、終末が現在に突入してきているというイエスの「神の支配」告知独自の終末論、そして「キリストにある」という場の独特の終末論の姿がよく現されています。


「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」

 新共同訳が「誘惑」と訳している語《ペイラスモス》は、もともと「(人を)テストする」という意味の語で、肯定的な意味ではその人の信仰が本物であるかどうかを試して鍛えるという「試練」の意味と、否定的な意味では信仰を捨てて誤った道に引き込もうとする「誘惑」という意味の両面があります。

 イエスの生涯は始めから終わりまで《ペイラスモス》にさらされていました。イエスが直面された誘惑は荒野の四十日だけではありません。王としようとする民衆の声、しるしを求めるファリサイ派の人たち、受難の道を諫める弟子の忠告など、イエスは使命からそらせようとする誘惑にたえずさらされておられました。その最後の、おそらく最大のものはゲッセマネでしょう。そこでイエスは父の御心に委ねきる祈りによって、誘惑に打ち勝ち、試練を乗り切られます。そして、眠り込んでしまっている弟子たちに、「誘惑《ペイラスモス》に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」(マルコ一四・三八)と励まされます。

 わたしたちの人生も《ペイラスモス》の連続です。人生に苦難は避けられません。人生の苦難はわたしたちには信仰を貫くための苦しい試練となり、人生の幸運や快楽も信仰を捨てさせる誘惑ともなります。この祈りは、そのような試練や誘惑が来ないように祈っているのではありません。信仰の生涯に《ペイラスモス》が来ることは避けられません。この祈りは《ペイラスモス》に「引き込まれないように」(直訳)祈っているのです。誘惑に負けて信仰を失うことがないように、父の助けを祈り求めているのです。「誘惑に陥らないように」祈っているのです。新共同訳の「誘惑に遭わせないでください」は、「誘惑に陥らないようにしてください」と変えなければなりません(マルコ一四・三八と同じく)。

 マタイが伝える「主の祈り」では、この祈りと一組になって、「悪い者から救ってください」という祈りが加えられていますが、ルカにはこの祈りはありません。おそらく「語録資料Q」にはなく、マタイが付け加えたものと考えられます。終わりの日が近づくと、神に敵対する勢力(悪しき者、サタン)がますます激しく神の民を試み誘惑するという、当時のユダヤ教黙示思想の中で、マタイはこの祈りを「誘惑に陥らないようにしてください」を補完する祈りとして加えたのでしょう。この祈りがなくても、「誘惑に陥らないようにしてください」が終末的な祈りであることには変わりはありません。ただ、ルカの形は信仰生活一般の場面での祈りとして祈るようになる門戸を開いたとは言えるでしょう。

 

終末の場での祈り

 総じて「主の祈り」は終末的な祈り、すなわち終末の場に生きる者の祈りです。前半の二つの祈りは、終わりの日における父の栄光の顕現と支配の到来を祈り求め、その祈りに身を投げ出しています。後半の三つの祈りは、その日を前にして、終末的現実の中身である聖霊を祈り求め、恩恵の場にとどまって、すべての試練・誘惑を乗り切って、終わりの日の栄光にあずかることを祈り求めています。

 「主の祈り」は世に向かって、人間の魂の方向が根本的に間違っていることを示しています。人間は自分の手の業の栄光、自分の力の支配、自分の意志と願望の実現ばかりを求めていますが、それが根本的に逆転して、自分ではなく、自分を存在させている方の栄光と支配と意志の実現を求めなければならないのです。そのとき人間は人間として本来あるべき方向に向かっているのです。

 さらに、この「主の祈り」は人間がいる場所が根本的に間違っていることを示しています。世界は創造者の裁きという終末に直面しているのに、時《カイロス》を見分けることができず、自分たちの時がいつまでも続くかのように錯覚し、恩恵の場に来ようとしていません。人間は自分の知恵と力で自分の問題を解決することはできず、恩恵の場で賜る神の霊の知恵と力で、お互いに愛し合うことによってのみ将来を持ちうるのです。
 世界の危機的な状況において、イエスが教えられ、キリストにある小さい群が祈るこの祈りが、暗夜の燈火のように、人間の根本的な問題がどこにあるのかを示し、どの方向に解決があるのか、進むべき方向を照らし出しています。

 

「真夜中の友人」のたとえ

 また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです』。すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません』。しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう」。(一一・五〜八)

 「主よ、わたしたちにも祈りを教えてください」と願った弟子の求めに応じて、イエスはまず祈るべき内容を教えられました。それが「主の祈り」です。イエスは続いていかに祈るべきかを教えられます。その教えが五〜一三節にまとめて置かれています。祈りは神に願い求めることですが、その「求める」姿勢とそれに対する父の対応が、三つの語録群(五〜八、九〜一〇、一一〜一三)で語られます。この区分を貫く主題は「求める」です。

 その第一(五〜八節)はたとえの形で語られています。たとえそのものは日常的な体験でとくに説明の必要はないでしょう。そのたとえが言おうとしていることが、最後に明白な言葉で語られます。すなわち、「その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう」ということです。

 ここで「しつように頼めば」と訳されている部分は、直訳すると「彼の無理強いのゆえに」とか「彼の執拗さのゆえに」となります。ここに用いられている「無理強い、厚かましさ、執拗さ」という名詞は、ここだけで他には出てきません。しかし、イエスはほぼ同じことを「やもめと裁判官」のたとえ(一八・一〜八)で語っておられます。そこでは執拗に裁判を求めるやもめに裁判官は根負けして、裁判をしてやろうとします。この裁判官を引き合いに出して、イエスは神が求め続ける民のために裁きを行われると保証されます。

 この「夜中の友人」のたとえでも「やもめと裁判官」のたとえでも、イエスは弟子たちに、どのように状況は苦しくても、祈り求めることを止めないように諭しておられると見られます。先に見たように、「主の祈り」が終末に直面して生きる場での祈りであるとすれば、このたとえは現実が約束された栄光にはほど遠いような苦しい厳しい状況であっても、祈り求め続けるならば、神は必ず正しい裁きを行い、民に栄光を与えてくださると保証しておられると理解できます。事実、「やもめと裁判官」のたとえでは、やもめの願いに根負けした裁判官のことを語った後、「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる」という言葉が続いています。

 しかし、同じようなことを言っている「夜中の友人」のたとえを、ルカは「主の祈り」の直後に置いています。これは、「主の祈り」にあるパン《アルトス》を求める祈りを、同じく《アルトス》を夜中に求める友人のたとえで説明し、それを祈り求めることを止めないように励ますためであると考えられます。そして、そのパンが聖霊を意味することが、この祈りを止めないように励ます区分(五〜一三節)の最後の「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」という言葉で明示されます。

 

だれでも求める者は受ける

 「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」。(一一・九〜一〇)

 この有名なイエスの言葉を、マタイは違う文脈に置いています。おそらく独立に伝えられていたイエスの語録を、ルカは「主の祈り」のパンを求める祈りの解説と励ましの文脈に置いて、求める者が聖霊を受けることの確実性を保証しています。

 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(九節)というイエスの言葉は有名で、キリスト教の外の世界でもよく引用されます。その時この聖書の言葉は、どのような困難に直面しても、状況がどのように難しくても、断念することなく熱心に追求するならば、必ず目標に達することができるという激励の意味で用いられています。しかし、そのような意味であれば、イエスでなくても誰でも言えることであって、これが「福音」であるとは言えません。イエスの言葉の凄いところは、「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」という一〇節にあります。一〇節は《ガル》という理由とか根拠を示す小辞で九節に続いています。この結びつきは重要ですので、一〇節には「からである」という理由を示す語をつけて訳すべきです。

 イエスが「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」と断言されるのは、イエスが「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」という世界に生きておられるからです。この「だれでも」求める者は受け、捜す者は見つけ、門をたたく者には開かれるというのは凄い宣言です。いったいどうして、このようなことが断言できるのでしょうか。
 わたしたちの体験はこれと反対です。この世では何を求めても、それを受けるには資格とか条件が厳しく要求されます。この世で地位を求めても資格や学歴が求められ、よい大学の門に入るためには厳しい入学試験に合格しなければなりません。ある分野で成功を求めても、生まれつきの才能とか健康が条件となります。努力したからといって、「だれでも」求めるものを得るというわけにはいきません。

 ところが、イエスは「だれでも」、すなわち、何の資格や能力がない者でも、求める者は受けるという世界に生き、そのような世界を告知されるのです。それは神の恩恵の世界です。恩恵が支配する場では、人は神から、何の資格がなくても、無条件に受けることができるのです。神が人間に与えてくださるものは、資格を問うことなく、求める者には誰でも無条件で与えられるのです。神と人とは本来そのような無条件・絶対(相手の価値に絶した関係という意味)の関係でつながっているのだというのが、イエスの告知です。イエスは人とこのような関わりにある神を「父」と呼ばれるのです。父は子を無条件に愛して、良いものを与えるからです。

 この「だれでも」については、ルカでは、割礼を受けているユダヤ教徒でも、割礼を受けていない異邦人であっても関係なく「だれでも」という意味が重要であったと考えられます。ルカは、異邦人も割礼のないままでキリスト信仰によって義とされ神の民となりうるという「無割礼の福音」を確立することを生涯の課題としたパウロを継承しています。ルカは、パウロの「無割礼の福音」によってイエスのこの言葉が実現し、律法による資格とは関係なく、「だれでも」キリスト信仰によって神の民となり、神から「良いもの」を受けることができることを、このイエスの言葉で宣言しています。
 そしてルカでは、父が恩恵により無条件で与えてくださるその「良いもの」とは聖霊であることが、次の語録で明確にされます。

 

聖霊を与えてくださる父

 「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」。(一一・一一〜一三)

 マタイではこの語録の最後の言葉は、「まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」となっています。この語録は、どんなに悪い人間でも、自分の子供には良いものを与えるという父親としての姿を比喩として、良いと悪いの対照で語られていますので、まして完全に善そのものでおられる天の父が、子として求める者に良いものをくださらないことがあろうか、というマタイの形が原型であろうと考えられます。

 しかし、ルカはすでに最初期の共同体において、ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、キリストの民が聖霊を受け、聖霊によって熱く燃えて神の民として歩んでいる歴史を十分見ています。ルカは、聖霊こそキリストの民の命の源泉であることをよく知っています。その事実が、地上のイエスの働きを語る福音書においては、父は求める者に聖霊を与えてくださるという父の約束の言葉となります。ルカは、キリストを信じて求める者には無条件に聖霊が与えられるという約束を、「父の約束」と呼んでいます(使徒一・四)。

 子供にとって真に良いものとは何であるかを知っているのは、子供ではなく父親です。わたしたちは自分が祈り求めているものが与えられないことをしばしば体験します。しかし、その場合でも天の父はわたしたちに聖霊をという真に良いものを与えて、いかなる状況にも耐えて、命に歩むことができるようにしてくださっているのです。

 


    対立と対決

 ここから一一章の終わりまで、すなわち一一章の後半は、イエスと批判勢力の対立と対決が基調になっています。しかし、その基調からすると、なぜここに置かれているのかを理解するのが難しい語録も含まれています。ルカがなぜこのような配置にしたのか、ルカの構成への問いも意味がありますが、それ以上に個々の段落がわたしたちに語りかける福音の使信が重要です。それをルカの配列に従って見ていくことにします。


68 ベルゼブル論争(一一・一四〜二三)

ベルゼブルとの結託

 イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した。しかし、中には、「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言う者や、イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた。(一一・一四〜一六)

 この段落は、マルコ(三・二〇〜二七)にもマタイ(一二・二二〜三〇)にも並行記事があります。マルコにはありませんが、ルカは(そしてマタイも)この論争のきっかけとなったイエスの悪霊追放の奇跡を最初に置いています。当時は、病気や身体障害は悪霊の仕業だと考えられていましたから、イエスが悪霊を追い出されたことに対する批判は、イエスのいやしの奇跡全体に対する批判でもあります。

 イエスがなされた力ある業(奇跡)に、一般の民衆は素直に神の働きとして驚嘆しますが、その中に批判的な目で見る人々がいます。マルコでは、「エルサレム下って来た律法学者」が「あの男はベルゼブルに取りつかれ、悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と判定したとなっています。これはイエスの行動を監視するために派遣された監察団の判定です。これは群衆の中の批判的なつぶやきとは違い、将来最高法院に律法違反を告発するときの材料になる重要な判定です。しかし、ルカはこのようなユダヤ教内の意義は伝える必要がないと判断したのか、群衆の中の批判的なつぶやきとして伝えています。また、異邦人読者には耳慣れない「ベルゼブル」という名前に「悪霊の頭」という説明を加えています。

 イエスに対する批判は二つの形で行われています。一つは、イエスが行われる奇跡の事実そのものは否定できませんから、その奇跡を悪霊どもの頭による働きであると説明することです。もう一つは、悪霊の追放は他の霊能者もしていることで、イエスが神から遣わされメシアであることを証明するには、「天からのしるし」が必要であるという批判です。この批判に対しては、後(二九〜三二節)で取り上げられます。ここではまず第一のベルゼブルの力で悪霊を追い出しているという批判に答えます。

 「ベルゼブル」は本来古いシリヤの神の名であり、「ベエル・ゼブール」、すなわち「家(神殿)の主人」の意味でしたが、イスラエル人はこれを嘲って「バール・ゼブーブ」(蝿の神)と呼び、次第に悪魔を指す名として用いられるようになったものです。宗教当局者はイエスをこの「ベルゼブル」、すなわち悪魔に取りつかれていると判定しました。神の律法を汚す者がどうして神の霊を持つ者であろうか、彼が奇跡を行うとしても、それは悪霊どもの頭が行う奇跡にすぎない、という判定です。ところがイエスは、彼らが「ベルゼブル」という悪魔の名を用いたのを逆手にとって、これをアラム語の「ベエル」(主)とヘブライ語の「ゼブール」(住居)とに分解し、内輪で争う家や国の譬を用いられます。

 

内輪で争う国や家のたとえ

 しかし、イエスは彼らの心を見抜いて言われた。「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう。あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか」。(一一・一七〜一八)
 たとえの意味は明白で、説明の必要はないでしょう。内部抗争に明け暮れる国や家が荒廃し、倒れていったことは、歴史や世間の事実が示しています。ここでイエスは、神に敵対する勢力の総体を「サタン」という名で指し、頭が手下を追い出すというような内輪争いをすれば、サタンの支配は崩壊するではないかと反論されます。そしてさらに、批判者の仲間、すなわちユダヤ教団内部で行われている悪霊追い出しの事実を取り上げて、こう言われます。

 「わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる」(一一・一九)。

 当時のユダヤ教では、祈祷師とか霊能者が悪霊を追い出すということをしばしば行っていました。その実例は、使徒言行録一九章一三〜一六節に具体的に紹介されています。イエスはこの事実を取り上げて、彼らの悪霊追放を認めて、イエスがなされる悪霊追放をベルゼブルの力に帰すことの矛盾を突かれます。

 この反論は、群衆の中の批判的なつぶやきに対するものというよりは、やはり律法学者が代表するユダヤ教団への反論と理解するする方が自然です。イエスがこのような反論を律法学者になされたことは十分ありえますが、この反論には、復活後のキリスト信仰共同体がユダヤ教会堂勢力からの批判に対してしている反論が重なっています。奇跡を行われたイエスに対して、ユダヤ教側はイエスを「魔術師」とか「詐欺師」と呼んで排斥しました。これはかなり後の時代のラビたちにも続いています。最初期の共同体がイエスの名によって悪霊を追い出す奇跡を行ったとき、ユダヤ教側からそれをベルゼブルの力によるものとする批判があり、それに対してキリスト信仰共同体が、ユダヤ教内の悪霊追放の儀式などの事実を取り上げてしている反論が重なっていると見られます。

 

神の支配は到来している!

 「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。(一一・二〇)

 イエスは批判者の矛盾を突いて反論されるだけでなく、今現に起こっている事実に基づいて、重大な宣言をされます。イエスは、ご自身が悪霊を「神の指で追い出している」以上、「神の支配はあなたたちのところに来ているのだ」と宣言されます。ここの《バシレイア》は、領域を示唆する「神の国」よりも、サタンの支配を打ち破った結果として「神の支配」の方が適切だと考えられます。

 マタイ(一二・二八)の並行箇所では、「神の霊で」となっています。ルカの「神の指で」とどちらが原形であるのか議論がありますが、おそらく聖書の擬人的な表現(出エジプト記八・一五)をそのまま用いているルカが原形ではないかと見られます。出エジプトの時に神がイスラエルのためになされた大いなる働きが、今イエスの手によって成し遂げられ、出エジプトを終末的に成就する出来事が目の前で起こっている、とイエスは言っておられるのです。マタイは、イエスがなされた奇跡の業は聖霊の働きによるのだという最初期共同体の理解を表現していると考えられます。

 イエスは弟子たちを派遣するとき、「神の支配はあなたがたに近づいた」と告知せよ、とお命じになりました(一〇・九)。ところがここでは、「神の支配はあなたたちのところに来たのだ」と宣言されます(動詞は過去の出来事を指すアオリスト形)。弟子たちが告知した「神の支配」は、やがて来る終末的な審判と栄光の顕現ですが、ここでの「神の支配」は聖霊の働きによる終末の現臨です。イエスの「神の支配」告知にはこの両面がありました。そして、イエスの「神の支配」告知を継承した最初期共同体のキリスト告知にもこの両面があり、弟子たちは今現に自分たちの内にあって聖霊として働かれるキリストと、そのキリストがやがて栄光の中に世界に顕現される終末的完成を告知したのでした。

 「強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する」。(一一・二一〜二二)

 イエスは、ご自身の中に「神の支配」が到来していることを、さらに一つのたとえを用いて語られます。今イエスが神の指で悪霊を追い出しておられる事実は、強い人(サタン)が武装して自分の屋敷(世界)を守っていたが、「もっと強い者」であるイエスが世に来て、サタンの武装を解除し、捕らわれていた人々を解放しておられることを意味する、とこのたとえは語っています。

 「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている」。(一一・二三)

 マルコはこのベルゼブル論争の最後に「聖霊を冒?する罪」の段落(マルコ三・二八〜三〇)を置いています。マタイはそれに従っています(マタイ一二・三一〜三二)。マルコははっきりと、イエスが「聖霊を冒?する者は永遠に赦されない」と言われた理由を、人々が「彼は汚れた霊に取りつかれている」と言ったからであるとして、そのつながりを明示しています。ところが、ルカは聖霊を冒?する罪を別の文脈に置き(一二・一〇)、別の語録でベルゼブル論争を締めくくります。

 この語録は二つのイメージを用いています。一つは、敵と味方に分かれて戦う戦争のイメージであり、もう一つは神の民の招集と離散です。「神の支配」の進展はサタンの支配との戦いです。この戦いにおいてどちらつかずはありえません。今神の指で悪霊を追い出しておられるイエスの側につくか、その働きを悪霊の頭によるものとして敵対するか、どちらかです。この語録でイエスは、そして最初期共同体は、ユダヤ人たちにイエスの側につくように呼びかけています。

 そして同時に、今神から遣わされて世に来られたイエスの呼びかけに呼応してイエスの陣営に集合しない者は、神が最終的に御自身の民を集めようとされている働きを妨げ、民を散らしていることになると警告します。


69 汚れた霊が戻ってくる(一一・二四〜二六)

 「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる」。(一一・二四〜二六)

 新約聖書時代のユダヤ人社会では、悪霊祓いはよく行われていました。だいたい病気は悪霊の仕業だと考えられていたので、祈祷(や呪文)による治癒は悪霊祓いの結果であると見られていました。そのさい、治癒は一時的で、再び以前よりも悪い状態に陥るケースもしばしばありました。そのようなケースは、追い出された悪霊が仲間の悪霊を引き連れて戻ってきたのだと説明されました。

 これと同じ文章がマタイ(一二・四三〜四五)にもあり、マタイとルカは「語録資料Q」の一段を用いていると見られます。ただ、マタイはこの後に「この悪い時代の者たちもそのようになろう」という一文を加えています。この文を加えることによってマタイは、この悪霊の出戻りを語る一段をマタイの時代に至るユダヤ教団(この悪い時代の者たち)の退廃の進行を語る預言としています。ユダヤ教団は洗礼者ヨハネとイエスの使信を受け入れず、家を空き家のままにしていたので、熱心党の狂気に取りつかれ、ついに破滅に至ります。その狂気はユダヤ戦争の敗北で取り除かれましたが、その後に成立したファリサイ派主導のヤムニヤ体制はさらに悪くなり、厳格な律法主義体制の中でイエスの民を異端としてユダヤ人社会から追放するに至ります。その結果、ユダヤ人は第二次ユダヤ戦争の敗北と徹底的な離散を招くことになります。マタイはこの段落をベルゼブル論争とは別の文脈、すなわち「拒否されるメシア」を語る第二ブロックに置いています。

 ルカはパレスチナから遠く離れて著述しています。ルカはこのようなユダヤ教団の歴史との関連を加える必要はありません。この語録をあくまで霊の事態を語るものとして、同じ霊の出来事を扱っている「ベルゼブル論争」の段落の後に置きます。そうすることで、イエスによって悪霊を追い出してもらった者は、しっかりと新しい主人であるイエスの霊を宿して生活し、自分を空き家にしないように警告しています。


70 真の幸い(一一・二七〜二八)

 イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は」。しかし、イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」。(一一・二七〜二八)

 イエスが神の力で病人をいやされるのを見たり、神の知恵で「神の国」の奥義を語られるのを聞いたりしたガリラヤの民衆は、イエスの存在に圧倒されて賞賛を惜しまなかったことでしょう。その中から一人の女性がこのような叫び声をあげた情景は、十分想像することができます。胎と乳房は女性を女性とする器官です。それは子を宿し、産み、育てる女性だけの器官です。偉大な人物を産み、育て、世に送り出すことは、女性の誇りです。それは神からの祝福です。イエスのような人物を産み、育て、世に送り出した母親に対して、女性としての幸せを賛嘆する声が、女性の中から湧き上がります。

 そのような女性の幸いに対する賛嘆の叫びに対して、イエスは別の幸いを指し示されます。すべての女性に胎と乳房はあります。しかし、それがあるからといって、すべての女性が幸いであるとは限りません。イエスはどの女性でも幸いであるうる道を指し示されます。それは「神の言葉を聞き、それを守る人」です。「神の言葉を聞き、それを守る」ことは、どのような境遇の女性にもできます。子がない女性、できの悪い子の反抗に苦しむ母親、不幸な結婚に苦しむ女性、結婚していない女性など、女性の境遇も様々です。その境遇や状況にかかわらず、「神の言葉を聞き、それを守る」ことはだれにでもできます。

 「守る」という動詞は、周囲のユダヤ教世界では律法を守ることを意味していました。しかし、イエスが「神の言葉を聞いて守る」と言われるとき、その「守る」は律法の規定を順守することとは違います。イエスが語られる神の言葉、わたしたちがイエスを通して聴く神の言葉は、わたしたちの行動を外から規制する律法の言葉ではなく、「恩恵の言葉」です。神が無条件にわたしたちを受け入れてくださっているという恩恵の語りかけです。その恩恵に身を委ねて、恩恵の場に生きることが「神の言葉を聞いて、それを守る」ということです。それが「神の支配」の場にいることです。その恩恵の場に生きることが、いかなる境遇にいる女性をも幸いな者にするのです。イエスは先に、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」(八・二一)と言っておられますが、これも同じ消息です。

 この語録は、他の福音書にはなく、ルカだけにある語録です。おそらくルカはこれをエルサレム共同体の伝承から受け取ったと考えられますが、この語録を語り伝えたエルサレム共同体の状況にこの語録を置いてみますと、最初期エルサレム共同体の一面をうかがい知ることになります。というのは、母マリアをはじめヤコブら兄弟たちも、イエスの復活後エルサレムに移住して、発足したばかりのエルサレム共同体に加わっており(使徒一・一四)、共同体の中で重要な位置を占めるようになっていたからです。

 イエスを復活したメシアと信じるユダヤ人たちの共同体で、イエスを産んだ母マリアに対する賛美が湧き上がり、マリアを特別な目で見るようになるのは自然の勢いです。それに対して、共同体はこのイエスの言葉を(八・二一と共に)語り伝えることで、肉親のつながりが霊の共同体を支配することを抑えようとしたのではないかと推察されます。「肉は何の役にも立たない」というヨハネ福音書(六・六三)の言葉も、これと同じ流れにあると思われます。もっとも、「主の兄弟ヤコブ」が後にエルサレム共同体を代表するようになり、指導的な立場に立つようになります。それはイエスとの肉親関係が信仰共同体の中でも重視されていた結果とも見られますが、ユダヤ教共同体における長老会議の制度とヤコブの義人としての評価の結果でもあり、肉親関係だけではありません。エルサレム共同体での使徒たちとイエスの家族との関係は、複雑な様相を見せています。

 このように、イエスを産んだ肉親の母親を賛美することを戒めるイエスの言葉があるにもかかわらず、後世のキリスト教会はイエスの母マリアを崇拝するようになり、マリアに向かって祈り、マリアの像を祭壇に置くに至ります。ついには、神の子であるキリストを産んだのですから、マリアを「神の母」と呼ぶようになり、そう呼ぶことを拒否した司教を異端とするまでになります。マリア崇拝の起源は複雑ですが、後世のキリスト教会のマリア崇拝は、どう見ても福音にふさわしいものとは言えません。


71 人々はしるしを欲しがる(一一・二九〜三二)

 群衆の数がますます増えてきたので、イエスは話し始められた。「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代の者たちに対してしるしとなる」。(一一・二九〜三〇)

 先にイエスがなさっている悪霊を追い出す働きを批判した者たちが、「イエスを試そうとして天からのしるしを求めた」(一一・一六)ことに対して、ここでイエスの答えが与えられます。悪霊を追い出し病気をいやすことは、他のユダヤ教の霊能者も行っている。イエスがたんなる霊能者ではなく、今の時代に神から遣わされた預言者であるというのであれば、それを証明する「天からのしるし」を見せよ、という要求です。モーセは紅海の水を分けたり、天からマナを降らせて、神から遣わされた者であることを示した。神から遣わされた者として、神の力で奇跡を行っていると主張するのであれば、悪霊を追い出すというような地上の「しるし」ではなく、「天からのしるし」を見せよ、と要求したのです。ましてモーセ律法を超える者であるような主張をするからには、モーセを超える「しるし」を見せよ。「モーセは荒野で天からマナを降らせてイスラエルの民に食べさせたが、あなたはそれに勝るどんなしるしを行なうのか」と迫っているのです(ヨハネ六・三〇〜三一)。

 イエスは、そのようにしるしを欲しがる「今の時代の者たち」を「よこしまだ」として、そのよこしまな今の時代の者たちには「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と答えられます。「しるし」を求めることは不信の現れです。人を信じていれば、その人が言っている言葉だけで、それをそのまま事実であると受け取ることができます。人が言っている言葉がそれだけでは信じられない時は、その言葉が事実であることを証明する言葉以外の何かを要求することになります。その要求はその人の信実を試すことです。昔イスラエルの民は荒野でモーセを試して、モーセが本当に神から遣わされた者であり、モーセが語る言葉が神からの言葉であることを示す「しるし」を求めました(出エジプト記一七・一〜七)。ヘブライ書(三・九〜一一)は、イスラエルの四十年の荒野の旅の期間を、イスラエルが主を試みた時としています。

 イエスを信じないで、「イエスを試そうとして天からのしるしを求めた」ユダヤ人たちに対して、イエスはその不信を嘆き、「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」とお答えになります。この言葉は、イエスが語られたときには、謎の言葉《マーシャール》です。なぜ預言者ヨナの物語がイエスの信実を示す「しるし」になるのか、その時のユダヤ人には理解できない《マーシャール》(比喩、謎、諺)だったはずです。ヨナが三日三晩大魚の腹の中にいた後、吐き出されてニネベに行き、神の裁きを宣べ伝え、ニネベの人たちが悔い改めたという、童話のようなヨナの物語が、なぜイエスの信実を示す「しるし」になるのか、理解できなかったと見られます。

 「ヨナのしるしのほかには」という句が理解できないのであれば、イエスの答えは「しるしは与えられない」というのと同じです。並行しているマルコ(八・一二)では、「しるしは与えられない」だけで、「ヨナのしるしのほかには」という句はありません。あってもなくても、イエスの言葉を聴いたユダヤ人には同じであったと思われます。「天からのしるし」を求めるユダヤ人たちに、イエスはしるしを見せることを拒否されます。

 イエスはすでにご自身の受難を見ておられます。そして、復活の約束に身を委ねておられます。弟子たちにはひそかにその秘密を語られましたが、外の者には漏らさないように厳しく命じておられます(九・二一〜二二)。したがって、ご自身の復活が最終的な「しるし」となることを明言はされませんが、それを《マーシャール》(謎)の形で暗示されます。しかし、少数の弟子の他にはその《マーシャール》を悟る者はいません。

 復活者イエスの顕現を体験した共同体は、神はイエスを死者の中から復活させてメシア・キリストとされた、と明白な言葉で告知するようになります。もはや《マーシャール》は必要ではありません。しかし、地上のイエスが《マーシャール》で暗示された「ヨナのしるし」の語録を伝承して、ヨナの物語はイエス復活の予表であることをユダヤ人に語り続けます。あるいは、イエスご自身はマルコが伝えるように、しるしの要求をきっぱりと拒否されたのですが、イエスの復活を告知したパレスチナ・ユダヤ人の活動の中で「ヨナのしるしのほかは」が加えられて「語録資料Q」に記録され、それがマタイとルカに用いられた可能性も考えられます。

 イエスの復活を告知する場では、三日三晩大魚の腹の中にいて陸地に吐き出され、ニネベに行って悔い改め改めを宣べ伝えたヨナの物語は、三日目に死者の中から復活されたイエスの出来事の予表となります。イエスはご自身を「人の子」として、ご自分の身に起こる「人の子」の受難と復活という奥義を弟子たちには語り出しておられます(九・二二)。その出来事は「今の時代の者たちに対してしるしとなる」のですが、イエスが語られた時には、それは《マーシャール》のままです。しかし、イエスの復活を告知する福音活動においては、明白にイエスの復活こそイエスがメシア・キリストであることを今の時代に指し示す「しるし」となります。

 「南の国の女王は、裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある」。(一一・三一)

 イエスは、「ソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来た」南の国の女王(列王記上一〇・一〜一三)を引き合いに出して、神の言葉を語るイエスを身近に見ながら信じようとしない「今の時代の者たち」の不信の責任を問われます。その不信は終わりの日の裁きの時に問われることになると警告されます。最後の「見よ、ここにソロモン以上のものを」(直訳)という句は、復活者イエスを告知するパレスチナ・ユダヤ人共同体が、「見よ、ここにソロモン以上のものが来ておられるのだ」と宣言して、イエスの言葉に耳を傾けようとしないユダヤ教会堂に向かって警告していると読めば、迫力が倍加します。

 「また、ニネベの人々は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある」。(一一・三二)

 先に取り上げられたヨナが、ここで終わりの裁きの日に「今の時代の者たち」の不信を告発する証人として登場します。 ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたのに、今の時代のユダヤ人たちは復活されたイエスの告知を聴いても悔い改めないからです。ヨナは象徴的な物語に過ぎませんが、イエスは実際に死の暗闇の中から復活されたのです。その復活されたイエスの告知を聴いても悔い改めてイエスを信じようとしない今の時代のユダヤ人に警告します。


72 体のともし火は目(一一・三三〜三六)

 「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く」。(一一・三三)

 この語録は、マルコでは「あかりが来るとき、枡の下や寝台の下におかれることがあろうか。燭台の上に置かれるではないか」となっています(マルコ四・二一私訳)。同じことを言っているように見えますが、よく見ると違いがあります。マルコでは、人があかりをともしたり持ってくるのではなく、「あかりが来る」というやや不自然な表現が用いられています。これは、「わたしが来たのは」とか「人の子が来たのは」と言われていたイエスが、ご自身が光として世に来たことを指しておられると考えられ、危険を指して身を隠すように忠告した周囲の人たちに、イエスは内に到来している光を消したり隠したりすることなく、身を挺してその光を世に輝かせようとされる覚悟を語られたものではないかと考えられます。

 それに対してルカとマタイは、このたとえをともし火をともす人間(弟子)に対する勧告としています。マタイはこのたとえを「山上の説教」の導入部で用い、「あなたがたは世の光である」と言った後にこのたとえを置き、「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」と説いています(マタイ五。一四〜一六)。ルカも、マタイほど明確ではありませんが、同じようにこの「ともし火」のたとえを弟子たちの使命を説く勧告の言葉としています。

 マタイとルカがマルコから表現が変わってきている事実は、イエスご自身の告白の言葉が弟子たちの福音告知の活動の中で伝承される過程で、その意味合いが微妙に変わっていったことを示唆しています。しかしその変化は、弟子たちがイエスと同じように、自分たちに与えられた光を世に輝かすことを使命として受け取った結果であり、意義深い変化だと言えます。

 「あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い」。(一一・三四)

 この語録はマタイ(六・二二〜二三)にもあり、「語録資料Q」から取られたものと考えられます。ただ、マタイでは「だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう」という言葉が続いています。この部分はマタイが加えたものでしょう。ルカにはこの部分はありませんが、その代わりに次の三五〜三六節の言葉を加えています。

 三三節の語録とこの三四節の語録は、もともと別の文脈で伝えられていたのでしょうが(マタイではこの二つは続いていません)、ルカは次の三五〜三六節を含め、この三つの語録を「ともし火」を連結語として結びつけ、一連の語録群として段落を形成します。

 三三節の語録とこの三四節の語録は、共に「ともし火」を比喩として用いたものですが、その意味内容は違います。三三節の方は、キリストにあって与えられた命の光の扱い方についての勧告ですが、この三四節は、身体における目の役割を比喩として、この命の光がわたしたち人間の全存在、全生涯に占める決定的な位置を語っています。

 目が健康で、視力が十分にあるときは、周囲がよく見えて、自分がどこにいて、どのような状況にいるのかが見えます。自分の全存在の場所や状況が理解できます。ところが、目が病んでいて、視力が衰えたりなくなったりしますと、周囲が見えなくなり、自分がどこにいるのか、また自分がどのような状況にいるのかが見えなくなり、自分の全存在が暗闇になります。

 そのように、今キリストにあって賜っている命の光は、わたしたちの全人生、全存在の意味を照らしだす「ともし火」なのです。それが内にあって輝いているときは、自分の存在の位置や姿がよく見えてきます。神とのかかわり、隣人とのつながり、時の流れの中での位置などが見えてきて、自分の存在が明るく照らし出されるようになります。

 それに対して、その内なる光がなくなれば、「ともし火」を持たないで暗闇の中を行くように、自分の位置も状況も見えず、自分の存在の全体が暗闇の中に沈んでしまいます。この状態をマタイは「だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう」という言葉で表現しました。

 「だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている」。(一一・三五〜三六)

 最初の文は、「だから、あなたの中にある光が闇にならないように気をつけなさい」と訳すべきです(新約聖書釈義辞典)。マタイの「あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう」という事実を描く文の代わりに、ルカはそうならないように気をつけよという警告の言葉にしています。全身のともし火である目が健康であるときには全身が明るいように、内なる命の光が力強く輝いていれば、「ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように」わたしたちの人生の全体が照らし出されて、明るい光の中を歩むようになります。

 この「ともし火」の段落(一一・三三〜三六)が批判者たちとの対立と対決を主題とする区分に置かれているのは、批判者たちに取り囲まれて歩む弟子たちに、イエスの弟子としての在り方を説くためと考えられます。それは、キリストにあって賜っている命の光こそ批判者に対抗して生きる力の源泉であり、その内なる命の光を消すことなく、人々の前に輝かすように説き勧めています。これは結局マタイ五・一四〜一六と同じ主旨の勧告です。

 


73 ファリサイ派の人々と律法の専門家を非難する(一一・三七〜五四)

内側と外側

 イエスはこのように話しておられたとき、ファリサイ派の人から食事の招待を受けたので、その家に入って食事の席に着かれた。ところがその人は、イエスが食事の前にまず身を清められなかったのを見て、不審に思った。(一一・三七〜三八)

 安息日の礼拝は午前に行われます。会堂での礼拝が終わると、親戚や知人を家に招いて、食事をしたり懇談するのがユダヤ教社会の普通の習慣でした。とくに、礼拝で感銘深い説教や勧めをした教師を食事に招くことは、賞賛される行為とされていました。イエスの鋭い聖書解釈に感銘を受けたファリサイ派の一人が、イエスを礼拝後の食事に招きます。律法(聖書)についてさらに議論をするためでしょう。このようなことは時々あったようです(七・三六、一四・一を参照)。

 このような出来事は、エルサレムに向かう旅の途上の出来事ではなく、ガリラヤで活動されていた時のものでしょうが、ルカはイエスの立場からするファリサイ派や律法学者たちに対する批判と非難をまとめて編集し、ここに置きます。「旅行記」は、ルカが彼の特殊資料や独自の編集成果を自由に置く物語空間だからです。この段落にまとめられているファリサイ派と律法学者批判は、イエスご自身が語れたものと、復活後の共同体が対立するファリサイ派主導のユダヤ教会堂に向かってなした批判が重なっています。

 この段落のファリサイ派・律法学者批判は、マタイが彼の共同体に対立するユダヤ教会堂への批判と非難を二三章にまとめたのと対応しています。ルカの記事はマタイほど激烈ではありませんが、それは、マタイの場合はユダヤ教側からの現実の迫害の中で行われたので激烈にならざるをえませんが、ルカの場合はユダヤ教との対決は過去のものであり、ルカの時代の異邦人共同体にとって差し迫った現実ではないからです。

 その批判の集成は、イエスが食事の前にまず身を清められなかったのを見て不審に思った家の主人に対するイエスの答えから始まります。ユダヤ教は聖なる神の前に清い民であろうとする努力のシステムであるという一面があります。とくにファリサイ派は、神殿における宗教儀式においてではなく、日常生活の中で清さを実現しようとした運動ですから、日常生活の隅々まで、神の前に清くあるための規定を細かく定めました。ところがイエスは、その規定どおりに食事の前にまず手を洗うなどの身を清めることをされなかったので、イエスを招いたファリサイ派の人はイエスの律法に対する態度に不審の思いを抱きます。

 手を洗うとか身を清めるなどの規定は、実は代々の律法学者たちが実際の生活の中で清くあるためにどうすればよいかを議論して決めてきたことが伝承され、それが集積されて「口伝律法」(ハラカ)となり、成文のモーセ律法と同じ権威のある律法とされたものです。イエスの弟子たちがその規定に従わなかったことが問題にされて、イエスと律法学者たちの間で問題となったことがマルコ福音書(七・一〜二三)に詳しく取り上げられています。ユダヤ人向けに福音書を書いているマタイには重要な問題ですから、マタイはその記事を(マタイの立場に適うように修正して)用いていますが(マタイ一五・一〜二〇)、ルカはその必要がなく、マルコの記事は採用せず、ファリサイ派の人の不審をファリサイ派批判の語録集のきっかけにするだけです。

 主は言われた。「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている」。(一一・三九)

 ここで「言われた」の主語がイエスではなく「主(キユリオス)」となっています(新共同訳の四六節では「イエスは言われた」となっていますが、原文は「彼は言われた」で、「《キュリオス》は言われた」が続いています)。これは、以下のファリサイ派や律法学者批判が、復活者イエスを《キュリオス》と仰ぐ共同体が対立するファリサイ派主導のユダヤ教会堂に投げつけた批判であることを示唆しています。

 実際の食事の席でイエスがどのような語り方をされたのかは確認できませんが、イエスが普段から語っておられたファリサイ派の律法主義に対する批判が、復活後の共同体で伝承されていく過程で、それがユダヤ教会堂に対する批判として用いられ、「《キュリオス》は言われる」と言う形で書きとどめられたと推察されます。

 イエスから見て、そして復活後の共同体から見て、ファリサイ派が細かな清浄規定をたくさん作って、それを神経質に守ろうとしている姿は、「杯や皿の外側はきれいにするが、内側は汚れたままにしている」愚かな人のように見えます。外側の行為をいくら厳密に清浄規定に合致したものにしても、それで人間の内側、知性や感情や意思を神の清さに適う清いものにすることはできません。それを清めるのは、人間の行為ではなく、神の霊の働きにまたなければなりません。それがないところで、いくら祭儀や倫理での行為を積み重ねても、人間の内なる姿は変わらないのです。生まれながらの自己本位の性向は変わりません。

 そのことをこの語録は、「自分の内側は強欲と悪意に満ちている」と表現しています。したがって、この節の語録は、本来「杯や皿の外側はきれいにするが、内側は汚れたままにしている」というたとえの前半と、「外側の行為をきれいにしても、自分の内側は強欲と悪意に満ちたままである」という事実を述べる文の後半を結びつけた表現になっています。それが言おうとするところはここに述べた通りです。

 「愚かな者たち、外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか」。(一一・四〇)

 外側を造られた神は、内側もお造りになったのだから、造られたわたしたちが神に喜ばれるためには、外側だけでなく内側も、いや内側こそ神に喜ばれる在り方をしなければならない。それだのに、外側だけを清めて内側は汚れたままでいるのは愚かなことであると、前節の語録を理由づけています。

 「ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる」。(一一・四一)

 「あなたたちファリサイ派は、杯や皿の外側はきれいにする」というたとえのイメージが続いています。杯や皿などの器の外側をきれいにするだけでは、内側はきれいになりません。定められた犠牲を捧げ、慈善の業を行っても、内側はきれいになりません。むしろ器の内にあるものをまず捨て去る必要があります。「人に施せ」というのは、執着しないで与える、捨てることを指しています。仏教では「喜捨」と言います。汚れたものが内側に詰まっている状態では、外側をいく磨いても器全体はきれいになりません。人間の内側には貪欲や高慢や嫉妬など、神の目には汚いものが詰まっています。神の前に清くあるためには、まずそれを捨てることが必要です。

 自分を空(から)にすれば、上から神の清いものが入ってきます。その時はじめて人間の内側が清くなります。そして、内側が清い者にとっては、すべての外にある存在が神に祝福された清いものになります。イエスはそのような境地に生きておられました。イエスは自分を無とすることで、父の清い命に満たされておられました。

 問題は、人間は自分で自分を空にできるかということです。自分を空にする、無とするために、多くの修行がなされました(たとえば禅の修行のように)。しかし、そのような修行ができるのは、ごく限られた人たちだけですし、修行が無の境地に達することを保証するものではありません。そのような人間に、キリストの十字架・復活の福音が告知され、キリストの十字架に合わせられることによって自分が死に、自分が空になる道が開かれました。誰にでも、すべて信じる者に、そのように自分を空にして、上からの神の霊を受けて、神の聖なる霊によって内側が清められる道が開かれたのです。

 このように自分の内側は「貪欲と悪意」という汚れたものに満ちているのに、人の目に見える外側を律法に適った行動をしている清い者であるように見せている人たちを、イエスは「偽善者」と呼ばれました。復活後の共同体も、対立するファリサイ派や律法学者たちをそのような「偽善者」と呼んで激しく批判しました。マタイ福音書二三章はそのような「偽善者」に対する批判の集大成です。ルカはこの段落では「偽善者」という語は用いていませんが、多くの批判がマタイと重なっています。ルカは、「偽善者」という呼び方はしないで、マタイと同じ批判を以下に続けます。

 

ファリサイ派の偽善

 「それにしても、あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。薄荷(はつか)や芸香(うんこう)やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もおろそかにしてはならないが」。(一一・四二)

 モーセ律法では収穫の十分の一を主に献げるべきことが定められています(レビ記二七・三〇〜三三、申命記一四・二二〜二九など)。ファリサイ派の律法学者たちはその「十分の一税」の品目について議論を重ね、詳細な規定(ハラカ)を作り上げ、それを几帳面に実行することを誇りとしてきました。ところが、「神の義と愛」(直訳)はおろそかにしている、とイエスは批判されます。献げ物についての規定は守り、外側はきれいにしているが、その内側、心意は「貪欲と悪意」に満ちたままで、神が内側に求められる「神の義と愛」を実現していないからです。

 「神の義と愛」と訳した句は、原文では「神の《クリシス》と《アガペー》」です。《クリシス》は「裁き、判定、公正・正義」という意味の語で、ここでは神の本性としての公正とか正義を指していると考えられます。《アガペー》は慈愛です。神の本性としての慈愛です。イスラエルの民は「神の正義と慈愛」を賛美してきました(詩編一一六・五など)。神は御自身の正義と慈愛が人間の内側に宿ることを求めておられるのに、ファリサイ派はその実現をおろそかにして、外側の献げ物の規定を守ることだけを熱心にしている、という批判です。

 これはイエスの、そして共同体のユダヤ教批判です。福音は聖霊の実としての正義と慈愛の実現を提示します。それに対してユダヤ教は外側の些細な行為を問題にして、人間の根本問題を見過ごしにしているという批判です。このことをイエスは、「ぶよ一匹でさえ漉して除くが、らくだは飲み込んでいる」という、イエス独特の極端な比喩表現で語っておられます(マタイ二三・二四)。

 ところが、この激しい批判の後に、「これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もおろそかにしてはならないが」という、ファリサイ派ユダヤ教の在り方をも認めるような文が続き、この文について議論が残ります。翻訳も様々であり、この文を欠く写本もあります(マルキオンはこの文を削除しました)。

 この一文は、共同体内のユダヤ人信者に対する配慮から付け加えられたとする見方もあります。彼らはキリストを信じてキリスト信仰共同体に所属していますが、なおユダヤ教徒としてユダヤ教の諸規定を守らなくてはならないと考えている人たちです。彼らの立場を擁護するために加えられたとする見方です。そうだとすると、この文は異邦人信者には無関係ということになります。事実、後世の異邦人諸教会はこの一文を無視するか、教会規定の順守を求めるものと転釈してきました。

 では、現代のわれわれはこの文をどのように理解すればよいのでしょうか。無視するだけでよいのでしょうか。この一文は福音とユダヤ教との関係について、わたしたちに何も語るところはないのでしょうか。そうではないと思います。この一文は、福音と宗教の関係について、重要なことを語っている、とわたしは考えます。この一文は、福音の立場から「宗教の相対性」を語る有力なテキストです。

 ここで見たように、イエスは当時のユダヤ教の在り方を厳しく批判されました。しかしイエスは、ユダヤ教そのものを否定されたのではありません。イエスは生涯、一人のユダヤ教徒として生きられました。ユダヤ教の存在そのものを否定されたことはありません。イエスは巡礼祭にはエルサレムに上り、神殿祭儀に参加されました。いやした病人にもユダヤ教の規定に従って祭司に見せ、献げ物をするように求められました。イエスは、ユダヤ教が神の啓示として信じている聖書を論拠として議論されました。イエスはあくまでユダヤ教の世界の中で活動しておられます。では、あの激しいユダヤ教批判は何なのでしょうか。それはどこから来るのでしょうか。

 イエスはユダヤ教そのものを否定されたのではなく、「ユダヤ教の絶対化」を否定されたのです。イエスの時代のユダヤ教は、モーセを初めとする偉大な預言者たちによって形成されたヤハウェとイスラエルの関わり(契約関係)が厳密な祭儀システムとなったものでした。すなわち、本来ヤハウェとイスラエルの人格的・霊的関わりが、詳細な祭儀規定の体系となったものが「ユダヤ教」という宗教でした。

 人間は宗教なしには生きてこれませんでした。人間の社会は必ず何らかの宗教を形成し、人はその宗教の中に生まれおちてきます。ところが、その宗教は自己を絶対化する傾向、あるいは本性があります。宗教は、この祭儀規定を守っても守らなくてもよいとは言いません。必ず守らなければならないと要求し、それを守ることが救いあるいは共同体の成員であるための条件であるとし、守らない者を排除しようとします。典型的な宗教としての「ユダヤ教」は、その成員(イスラエルの民)にユダヤ教の諸規定を厳格に守ることを要求し、その順守を神の民イスラエルの一員であることの条件とします。それが「ユダヤ教の絶対化」です。

 イエスは、律法(ユダヤ教の諸規定)を守ることのできない者たち、ユダヤ教において「罪人」とされていた人たちを無条件に受け入れ、神の民の一員として扱われました。それは、人を神の子とするのは、ユダヤ教という宗教規定の順守ではなく、父としての神の無条件絶対の恩恵によるものだからです。イエスはこの父の恩恵の絶対性のゆえに、ユダヤ教諸規定の順守を救いの条件とされなかったのです。すなわち、ユダヤ教の絶対性を否定されたのです。

 しかし、ユダヤ教そのものを否定されたのではありません。ユダヤ教はイスラエルにおける神の啓示から出たものであり、人間が神を求める営みにおいて高い価値があります。祭儀体系としての宗教は、霊的事態である神と人間の関わりの本体を指し示す影であり、象徴です。そのように位置づけて用いるとき、宗教は有用です。イエスは父の恩恵の絶対性の場から、ユダヤ教という宗教の相対的価値を認めて、ユダヤ教徒にはその規定の順守を勧められます。それが、「もとより十分の一の献げ物もおろそかにしてはならないが」という一文で表現されています。

 「あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。会堂では上席に着くこと、広場では挨拶されることを好むからだ」。(一一・四三)

 この語録はほぼ同じ形でマタイ(二三・六〜七)にもあり、「語録資料Q」から取られていると見られます。ファリサイ派の人々が内側の貪欲や悪意をそのままにして、人の目に見える外側をきれいにして、社会の尊敬を得ようとしていることの偽善を批判しています。

 「あなたたちは不幸だ。人目につかない墓のようなものである。その上を歩く人は気づかない」。(一一・四四)
 これもマタイに並行箇所があり、「語録資料Q」からのものですが、マタイ(二三・二七〜二八)は「人目につかない墓」ではなく「白く塗った墓」となっており、「内側は死者の骨やあらゆる汚れに満ちている」と、外側の美麗と内側の汚れの対比を強調しています。それに対してルカは、外側の敬虔そうな振舞いに隠されて、彼らの教えを受ける者が内側の本性的な汚れに気づかないままに過ぎてしまうという、ファリサイ派の教えの欠陥が主題になっています。

 

律法学者への非難

 そこで、律法の専門家の一人が、「先生、そんなことをおっしゃれば、わたしたちをも侮辱することになります」と言った。(一一・四五)

 ファリサイ派の人たちに対する批判と非難の言葉を聞いて、「律法の専門家」の一人が抗議の声をあげます。ファリサイ派に対する非難は、そのまま自分たちに対する非難であることが分かるからです。

 ここで「律法の専門家」と訳されているギリシア語は《ノミコス》で、ギリシア・ローマ社会では弁護士など広く法律問題にたずさわる人を指す用語です(テトス三・一三)。マタイではすべて《グラマテース》(律法学者)と言っているところを、ルカは一般社会で広く用いられている《ノミコス》(法律家)を用いて、異邦人読者に分かりやすくしています。《グラマテース》(律法学者)はユダヤ教における聖書学者であり、律法解釈の学者として、ユダヤ教という宗教の指導者でした。マルコやマタイではいつも「ファリサイ派の人たちと律法学者」と一組にして批判されていますが、ルカは「ファリサイ派の人たち」と「律法の専門家」を分けています。しかし、その内容はすべてマタイが「律法学者」について書いているのと同じです。

 イエスは言われた。「あなたたち律法の専門家も不幸だ。人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしないからだ」。(一一・四六)

 先に述べたように、ここの原文は「彼は言われた」であり、三九節の「主(キユリオス)は言われた」が続いています。
 ユダヤ教の律法学者はモーセ律法を実際の生活の中で順守するためにはどうすればよいのかを議論し、その結論を伝えて蓄積し、「口伝律法」を形成してきました。たとえば、安息日には仕事をしてはならないという律法を実際生活の中で順守するためには、どれだけの距離であれば歩くことが許されるか、どのような調理法は許されるか、どれほどの重さの荷物は持ち上げてもよいか、どの程度に緊急な病気であれば治療行為は許されるかなど、実に細かく規定を定めました。その規定をすべて日常生活の中で守ることは、一般の民衆にとっては重荷でしたが、それを守らないと律法違反で咎められます。安息日律法に対する違反は、場合によっては死刑の規定もあるという厳しいものでした。

 そのような重荷を民衆に負わせて、その順守を要求するだけで、民がその重荷を負うことができるような力を与え、その律法の下での生活を助けることは何一つしていないことが、「自分では指一本もその重荷に触れようとしない」と非難されます。福音がすべて信じて受け取る者を現実に救いに至らせる神の力である(ローマ一・一六)のに対して、律法は要求し、裁き、脅し、処罰するだけのものであることが対比されます。

 「あなたたちは不幸だ。自分の先祖が殺した預言者たちの墓を建てているからだ。こうして、あなたたちは先祖の仕業の証人となり、それに賛成している。先祖は殺し、あなたたちは墓を建てているからである」。(一一・四七〜四八)

 ここの「あなたたち」は律法の専門家、すなわちユダヤ教の律法学者を指していることは、置かれている文脈から明らかです。旧約聖書には預言者が殺されたことはあまり記録されていませんが、預言者たちが殉教によって神の言葉を確証し、神の栄光を顕したことを語り伝えるのがユダヤ教の伝統となっていました。律法学者たちは預言者の殉教記を書き、墓(=記念碑)を建てて預言者を顕彰することを努めていました。イエスは彼らのその業を、預言者たちを殺した「先祖の仕業の証人となり、それに賛成している」ことだと断定されます。

 預言者の墓とか記念碑を建てることが、なぜ預言者たちを殺した先祖の仕業の証人となり、それに賛成していることになるのでしょうか。普通殺された者の祈念碑を建てるのは、その人の事蹟を顕彰するためです。しかし、イエスはそれをイスラエルが預言者を殺したという事実の確認であるとされます。そして、確認することで先祖たちが預言者を殺した行為に賛成しているのだとされます。イエスから見れば、預言者の碑は、預言者の事蹟の顕彰ではなく、預言者殺しの証拠物件となります。同じ祈念碑がこのようにまったく逆の意味を語るのは、それを見る者の視点の違いを示しています。

 律法学者たちは預言者の事蹟を顕彰するために墓を祈念碑として建てているつもりでしょうが、もし本当に預言者を尊敬しているのであれば、その使信に従って神の言葉に背くかたくなさを悔い改めなければなりません。ところが今、律法学者たちは神から遣わされた偉大な預言者である洗礼者ヨハネの悔い改めの使信を拒否し、神から遣わされて神の言葉を語るイエスを殺そうとしています。イエスは彼らの殺意を見通し、受難の地に向かって進んでおられます。そのイエスから見れば、彼らが預言者の碑を建てることは、先祖たちの預言者殺しの行為を確認する行為に他なりません。この見方が「神の知恵」に適っていることが続けて語られます。

 「だから、神の知恵もこう言っている。『わたしは預言者や使徒たちを遣わすが、人々はその中のある者を殺し、ある者を迫害する』。こうして、天地創造の時から流されたすべての預言者の血について、今の時代の者たちが責任を問われることになる。それは、アベルの血から、祭壇と聖所の間で殺されたゼカルヤの血にまで及ぶ。そうだ。言っておくが、今の時代の者たちはその責任を問われる」。(一一・四九〜五一)

 並行するマタイ(二三・三四)には「神の知恵もこう言っている」がなく、「だから、わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わす」となっています。これは、神がイスラエルに預言者、知者、学者をお与えになったことを指していると考えられますが、ルカはそれを「神の知恵」が遣わしたとしています。預言者や使徒たち(ここの「使徒」は神からの使者を広く指すのでしょう)は神から遣わされた使者であり、神の言葉を伝えます。それは「神の知恵」が使者たちを通して民に語りかけることに他なりません。ルカは、知恵思想が浸透していた当時のユダヤ教の見方を取り入れていると見られます。

 ここに引用されている「わたしは預言者や使徒たちを遣わすが、人々はその中のある者を殺し、ある者を迫害する」という文は、知恵文学の特定の文ではなく、聖書全体が「神の知恵」の啓示であるとして、その内容が要約されます。神は天地創造の時から今に至るまで、神の知恵、神の言葉を伝える預言者や使者を送られたが、民はその預言者を殺してきたと聖書は語っています。そのことが「アベルの血から、祭壇と聖所の間で殺されたゼカルヤの血にまで」と、最初と最後の事例をあげて要約されます。

 アベルは狭義の預言者ではありませんが、神に受け入れられた義人が兄弟の妬みによって殺された最初の事例となります。そして、「祭壇と聖所の間で殺されたゼカルヤ」は、ヘブライ語聖書では最後に置かれている歴代誌下(二四・二〇〜二二)に記録されている預言者で、彼の殉教は聖書の最後の事例となります。この最初のアベルの血から最後のゼカルヤの血に至るまで、その間に殺された義人と預言者の血の責任を、「今の時代」が問われることになる、とイエスは言われます。

 「この《ゲネア》」が責任を問われると言われます。《ゲネア》には「一族」という意味と「世代、時代」という意味があります。「この一族、民族」と理解すると、ユダヤ人が民族として預言者殺しの責任を永遠に問われることになります。ここは《ゲネア》の一般的な意味で、「この世代」、「今の時代」と理解すべきです。イエスを殺そうとしている「今の世代」のイスラエルが、これまでの預言者殺しの責任を問われて、神の裁きを身に招くことになるという警告です。イエスはご自身の使命が終末的な性質のものであることを自覚しておられ、このようにご自分を殺そうとする今の時代のユダヤ人が罪の升目を満たし、神の裁きを受けて破滅することを預言されます。そして事実、イエスの十字架から四〇年後にエルサレムは異教徒に滅ぼされ、神殿は崩壊します。ルカはこの出来事を知っています。エルサレムの崩壊は、預言者を殺し続けてきたイスラエルの民の体質が、イエスを殺すことで頂点に達し、神の審判を招いた出来事だとします。

 イエスで頂点に達する預言者殺しの責任を問われて、イエスの世代のユダヤ民族はすでに神の裁きを受けたのですから、この裁きの宣告を全世代のユダヤ人全体に及ぼしてはなりません。その後のキリスト教会、とくに中世のカトリック教会はユダヤ人を神の子キリストを殺した民として呪い、迫害し続けてきました。これは深刻な過ちです。キリストの民とユダヤ人との関係は、恩恵の場で再考され、共に恩恵にあずかるための神の奥義の配慮として理解されなければなりません(ローマ一一・二五〜三二)。

 「あなたたち律法の専門家は不幸だ。知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げてきたからだ」。(一一・五二)

 律法学者への非難が続きます。彼らは「知識の鍵」を人々から取り上げたと非難されます。鍵は戸を開いて建物とか部屋の中に入るために必要なものです。それを取り上げると、人は中に入れなくなります。ここの「知識の鍵」は、知識に入るための鍵であるのか、神の国とか救いに入るために必要な知識という鍵であるのか、二つの解釈が可能です。前者であるとしても、その場合の「知識」は人がそこに入る目的地ですから、後者の意味と実質的は変わらないことになります。律法学者は人が目指さないではおれない境地に入るための鍵を取り上げ、自分も入らず、人が入るのも妨げていると非難されます。

 律法学者はユダヤ教という宗教の専門家であり指導者です。ユダヤ教が目的とする神との交わり、神の栄光への参与を得るためには、換言すれば神の国に入るとか救いにあずかるためにはどうすればよいか、そのために必要な知識を聖書から教える立場の人たちです。その人たちが盲目で、そこに入るための鍵を持たず、自分たちもそこに入らず、人々がそこに入ろうと願っても鍵とならないものを与えて妨げているのです。これは、そこに入るのに必要な神の無条件絶対の恩恵とそれを受け取る空の手である信仰という鍵(それはイエスが与えようとされた鍵です)を取り上げ、、煩瑣な宗教規定の順守という重荷だけを負わせている律法学者に対する非難です。

 イエスがそこを出て行かれると、律法学者やファリサイ派の人々は激しい敵意を抱き、いろいろの問題でイエスに質問を浴びせ始め、何か言葉じりをとらえようとねらっていた。(一一・五三〜五四)

 このような非難を受けて、律法学者やファリサイ派の人々はイエスに対して激しい敵意を抱きます。そして、何とかしてイエスが律法に違反し、民に背教を唆す異端の教師であると最高法院に訴えることができるように言葉じりをとらえようとします。彼らはそのような意図で、イエスに律法解釈について様々なな質問を浴びせます。このような問答が、福音書の記事の重要な部分を占めることになります。  


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