ルカ福音書講解 10

 

    第一〇章 終わりの日の裁きを前にして 

                          ― ルカ福音書 一二章〜一三章(九節)  ―



はじめに

  ルカ福音書の中央部、すなわち三部で構成されている福音書の第二部は、「ルカの旅行記」と呼ばれ、ガリラヤからエルサレムに向かわれるイエスと弟子の旅の期間という建前をとっていますが、実際には旅程やその期間の出来事を語るところはごく少なくて、ほとんどが「語録資料Q」やルカの特殊資料(L)を用いて構成された、ルカ独自の記事です。

 ガリラヤでの活動を描く第一部と、エルサレムでの受難と復活を語る第三部では、ルカはほぼマルコに従って書いていますが、この第二部ではマルコの物語の枠から離れて、手元にある資料を活用し、ルカ自身の構想によって物語を進めていきます。

 この「ルカの旅行記」がどのような原理で構成されているのか、その構想を正確に理解することは困難で、様々な学説があります。しかし、一見ばらばらに見える段落配置にも一定のまとまりがあることが見られます。今回扱う部分(一二・一〜一三・九)も、終わりの日の裁きを前にした歩みと心構えを説くという主題が一貫していて、一つの区分(セクション)を構成していると見られます。このような切迫した終末を語る語録とルカ自身の終末観の関係という問題は、後の適当な場所で扱うことにして、ここでは語録群を講解することに専念します。


    恐れずにイエスを言い表す

 新共同訳では三つの段落に細分されていますが、一二章の一〜一二節は一つの主題に貫かれた小区分を形成していると見られます。その主題は、終わりの日の裁きを前にして、この地上でイエスを言い表すことの必要性と重要性です。


74 偽善に気をつけさせる(一二・一〜三)

 とかくするうちに、数えきれないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった。イエスは、まず弟子たちに話し始められた。(一二・一 前半)
 イエスの病人をいやし悪霊を追い出す働きを見て、多くの群衆がイエスの教えを聴こうとして集まってきます。そのような群衆がいるところでも、イエスはまず弟子たちに語りかけ、イエスに従う者としての心構えを教えられます。群衆もそれを聴いていて、途中で問いかけイエスが答えられたりしますが(一三節)、その問答を機縁にしてまた弟子に教えられます(二二節)。それで、イエスの言葉が弟子に向けられたものか皆に向けられたものかが問題にされたりします(四一節)。弟子に語られた言葉が続いた後、「イエスはまた群衆にも言われた」と対象が再び変わります(五四節)。このような状況は、一三章一〇節で「安息日にイエスはある会堂で教えておられた」とされる箇所まで続きます。このような状況の継続が、終わりの日の裁きを前にした歩みと心構えという主題が一貫している事実と共に、一二章一節〜一三章九節をひとまとまりの区分と見ることを促します。

 「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である」。(一二・一 後半)
 「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい」というお言葉は、マルコにもマタイにもあります。ただその語録が用いられている状況がルカと違います。マルコ(八・一四〜一五)では、ガリラヤ湖を渡る船の中で、パンを十分に持っていなかったことについてイエスが語られた言葉として用いられています。マルコでは「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種に気をつけなさい」となっています。マタイ(一六・五〜六)でも状況はほぼ同じで、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」となっています。もはやユダヤ教の中の区別に関心のない異邦人に向かって著作しているルカは、「ヘロデのパン種」とか「サドカイ派の人々のパン種」は略して、ファリサイ派をユダヤ教の代表として扱っています(ルカの時代のユダヤ教はファリサイ派だけでした)。

 イエスがこのお言葉を弟子たちに語られたことの意義は、様々な解釈があり議論が残りますが、ルカは明確に一つの解釈を与えています。すなわち、マルコにもマタイにもない「それは偽善である」という句を加えて、イエスが注意された「ファリサイ派人々のパン種」とは偽善であると明言しています。当時のキリスト者共同体はユダヤ教を偽善の体系と見ていたことが、他の文献からもうかがえます(たとえば『ディダケー』八・一)。

 「偽善」というのは、もともと役者がつける仮面から来た語で、外から見えるところが中身と違うことを指します。ユダヤ教が人間の内面的な悪をそのままにしながら外に見える行為が律法に適う者を義人としていたことを、キリスト者共同体は「偽善」として激しく攻撃しました(マタイ二三章)。ルカはこの「ファリサイ派のパン種」の語録を、ユダヤ教の偽善との対比で、イエスの弟子は人間の内面の奥底まですべてを見通される神の前に真剣に生きることを求める文脈に置きます。

 「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる」。(一二・二〜三)
 この「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」という二節の言葉は、当時のユダヤ人の間で諺とか格言のように使われていたと見られます。イエスはこの格言をご自身の中に到来している「神の国」の性質を指す言葉として、「ともし火」のたとえの中で用いられました(マルコ四・二一〜二二の講解を参照)。同じ言葉を、ルカはマルコと違う文脈で用いています。ルカの文脈では、この格言的な言葉は、いくら覆い隠しても終わりの日に神が裁かれるときにはすべてが明らかになるのだから、自分の本当の姿を外面的な行為で飾って隠そうとすること(偽善)は通らないし、無意味であると言っていることになります。

 ルカは、次ぎの三節の語録も「だから」という語で続けて、同じ意味で用いています。「暗闇で言ったこと」や「奥の間で耳にささやいたこと」というのは、人が隠れてしたことを指しています。どのように覆い隠しても、神の前にはすべてが明らかになることが、「明るみで聞かれ」とか「屋根の上で言い広められる」という表現で語られています。

 ところが、同じ語録がマタイでは違った文脈に置かれ、違った意味で用いられています。マタイではここの二節と三節の言葉は、イエスが弟子たちを「神の国」を告げ知らせるために送り出されるとき、「人々を恐れるな」と前置きして語られた言葉になっています(マタイ一〇・二六以下)。ここの三節の言葉もマタイでは、「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい」と、秘やかにイエスから教えられた「神の国」の奥義を広く大胆に告知するように励ます言葉になっています。ルカでは「〜されるであろう」と未来形の事実ですが、マタイでは「〜しなさい」と命令形です。

 このように、同じイエスの語録が各福音書記者によって違った文脈に置かれることで、違った意味合いを帯びることが分かります。他の福音書における意味は、その福音書の講解に委ね、ここではルカの言おうとするところに耳を傾けていきましょう。


75 恐るべき者(一二・四〜七)

 「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない」。(一二・四)
 イエスは親しみをこめて、弟子たちに友人として、また仲間として語りかけられます。イエスが弟子を自分の仲間とされていることは、後に出てくる「自分をわたしの仲間と言い表す者」という表現(八節)の伏線になっています。

 「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者ども」は、人間、とくに権力をもつ人間を指しています。周囲の人間、とくに権力者は、イエスの弟子を憎んで、裁判にかけ、殺すこともできます。しかし、体を殺すこと以上のことは何もできません。そのような者どもを恐れるなというのは、イエスの弟子としてこの世で迫害されるとき、迫害を恐れるなということです。マタイでは「神の国」を宣べ伝える弟子に対する迫害ですが、ルカではイエスの仲間であると言い表す者に対する迫害です。イエスを憎んで殺した「世」は、イエスの弟子をも憎み、裁判にかけ、殺すこともあるかもしれない。しかし、恐れることはない。彼らは体を殺す以上のことは何もできないのだから、とイエスは言っておられるのです。

 「だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい」。(一二・五)
 では、誰をも恐れることはないのか。そうではない。恐れるべき者がある。「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者ども」を恐れることはないが、「殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方」をこそ恐れるべきである、とイエスは言われます。この言葉は、体の生死の問題以上に重大な問題があることを指し示しています。それは、死んだ後に神の栄光にあずかるようになるのか、神から永遠に切り離された絶望と暗闇の世界、すなわち「地獄」に墜ちるのかの問題です。それを決める権威のある方をこそ恐れ、その方の意に反して地獄に墜ちることなく、その方の意に従って栄光に入るために、「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者ども」を恐れてはならないのです。ここでも、神が裁かれる終わりの日の視点から、現在の迫害が見られています。

 新共同訳は「地獄に投げ込む権威を持っている者」を神と解釈して訳していますが(それは正当な解釈です)、それでは神が殺す者となり、受け容れがたいとして、サタンとか別の解釈も出てきます。しかし、旧約聖書では、神は「殺し、また生かす」神です(申命記三二・三九、サムエル上二・六など)。イエスは、「地獄」とか「殺し生かす神」という当時のユダヤ人の宗教用語を用いて、迫害を乗りこえる原理を語っておられるわけです。真に恐れるべき方を恐れることによって、恐れる必要のない者を恐れる恐れから解放して、神に従う勇気を持ちうるための原理です。

 「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」。(一二・六〜七)
 アサリオン(銅貨)はローマの通貨で、一デナリオン(ほぼ労働者一日の賃金)の一六分の一に相当します。五羽で二アサリオン(マタイでは二羽で一アサリオン)で売られている雀は、貧しい者たちにとって手軽に買えるご馳走の代表格でした。そのように安い雀さえも、神の配慮から漏れることはない、とイエスは言われます。マタイは「その一羽さえ、父の許しがなければ地に落ちることはない」と表現しています。

 どのように小さいことも神の配慮の中にあることを、イエスはさらに「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」という表現で語られます。これは、神は人間のどのような小さな行動も見逃すことなく厳格に裁かれると言っているのではなく、神はどのように多くの群衆の中の小さい一人をも見落とすことなく見ておられて、すべての状況を知っておられることを保証する言葉です。そのことをルカは他のところ(二一・一八)で、「あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない」と表現しています(使徒二七・三四でも)。

 この雀と髪の毛の語録は、イエスを言い表す者が迫害に直面するときに勇気を出すための言葉であることは、最後に「恐れるな」という言葉で締めくくられていることからも明らかです。一羽の雀をも配慮したもう神が、たくさんの雀よりもはるかにまさっているあなたがたを見過ごされることがあろうか、と神の顧みを保証します。


76 イエスの仲間であると言い表す (一二・八〜一二)

 「言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる」。(一二・八〜九)
 ここでこの小区分(一〜一二節)の本題が出てきます。すなわち、人々の前でイエスを言い表すことの必要性と重要性です。
 ここで「イエスを言い表す」と「イエスを知らないと言う」が対照されています。「イエスを言い表す」とは、自分がイエスと関わりのある者であることを認めることであり、新共同訳はそれを「イエスの仲間であると言い表す」と説明的に訳しています。それに対して「イエスを知らないと言う」は、イエスのことについて無知であるという意味ではなく、自分がイエスと何の関わりもないと、イエスと自分の関わりを否認することです。イエスの裁判のとき、大祭司の館で「お前も彼の仲間ではないか」と問い詰められて、三度まで「わたしはあの人を知らない」と言ったときのペトロがその典型です(二二・五四〜六二)。

  イエスはご自分に対するユダヤ教社会の敵意を十分知っておられます。イエスを神から遣わされた方と信じてイエスに従う者は、周囲の人々からの敵意に囲まれることになることを見通しておられます。「人々の前で」は、迫害する人々の前で、とくに法廷で、という意味です。その敵意の中で自分がイエスの仲間であると認めることは、自分も社会の敵意にさらすことになります。しかし、イエスを信じるとかイエスに従うとは、心の中だけの問題ではなく、社会に生きる全人の在り方ですから、周囲の人々の前で自分がイエスに従う者であるという立場を明らかにしなければなりません。それが敵意に囲まれる結果になっても、それを恐れて自分とイエスの関わりを否定するのでは、イエスを信じて従う弟子としての実際の歩みは成り立ちません。

 では、なぜそのように苦難を覚悟してもイエスとの関わりを人々の前に言い表さなければならないのでしょうか。それはイエスが「人の子」であるからです。この地上でイエスとの関わりを認める者だけを、「人の子」が天使たちと共に現れて世界を裁くときに、ご自分の仲間と認めてくださるからです。地上でイエスとの関わりを否認する者は、そのとき天使たちの前で否認されることになるからです。地上でイエスとの関わりを認めるか否認するかが、「人の子」が現れる終わりの日に、「人の子」の栄光にあずかるか拒否されるかの分かれ目になるからです。

 これはユダヤ教黙示思想の世界です。たしかにこの語録では、イエスはご自身を終わりの日に天から現れて世界を裁く、あの黙示思想の「人の子」としておられます。ところが、イエスが「人の子」について語られるとき、いつも三人称で指しておられることから、イエスは自分とは別の「人の子」の到来を待ち望んでいたのだと見る説があります(ヴェルハウゼン、ブルトマン)。その説はとくにルカのこの箇所を根拠にして主張されています。しかし、この説はイエスを終末的救済者ではなく、その先駆者に過ぎないとするものであり、マタイ一一・五をはじめとするイエスの多くの言葉と矛盾します。むしろこの箇所は、イエスが自分を「人の子」であるとされていたことを指し示す語録です。
 ところで、共通の「語録資料Q」から取られたと見られるマタイの並行箇所では、「人の子」ではなく「わたし」が用いられています。

 「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う」。(マタイ一〇・三二〜三三)
 「人の子」と「わたし」が競合する場合、素朴な「わたし」の方がより原初的な形であると見なければなりません(エレミアス)。以前に「人の子」の用例について見たように、アラム語では「人の子」という句は「ある人」とか「わたし」という意味でも用いられる表現です。イエスが「わたし」という意味で用いられたアラム語のこの句が、黙示思想的傾向が強いパレスチナ・ユダヤ人の中で伝承される過程で、黙示思想の「人の子」と解釈され、黙示思想の「人の子」の表象にいつも伴う「天使たちと共に」が加えられて、(マルコ八・三八の影響もあって?)ルカの形になった可能性も考えられます。

 マタイの形には黙示思想の視点は必要ではありません。この語録は、イエスだけが父に至る道であることを語っています。イエスを拒むならば人は父なる神に至ることはできず、イエスと結びつくときはじめて父との関わりをもつことができると主張しています。それは、イエスこそ父から来られた方、復活して父の御前に出ておられる方だからです。このイエスの仲間になってはじめて人は父の御前で、イエスと共に生きることができるのです。この語録は、人を父と結びつける仲保者はイエスだけであると宣言しています。

 「人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は赦されない」。(一二・一〇)
 イエスが「人の子」であることを語ったルカは、「人の子」に関するもう一つの語録を続けます(マタイはこの語録を別の文脈に置いています)。「人の子の悪口を言う者」は、人々の前でイエスを拒む者です。イエスを「詐欺師」だとか「異端者」などと言って非難し、自分は彼の仲間などではないと言う人たちです。そのような者たちが赦されるというのは、当然彼らが悔い改めてイエスを受け入れたとき、彼らが発したイエスに対する悪口や非難は赦されるということです。福音は、「人の子」であるイエスに対して行った罪は、イエスを十字架につけたことも含めて赦されると宣言します。

 それに対して、「聖霊を冒?する者」は赦されることがないと宣言されます。「冒?する」は「悪口を言う」と同じで、言い逆らうことです。この言葉は、マルコ(三・二八〜三〇)ではベルゼブル論争の場に置かれ、イエスが聖霊によって行っておられる悪霊の追放を、「あれは悪霊の頭によって追い出しているのだ」とした律法学者たちに向けられていました。しかし、ここではそのような文脈はありません。ルカでは、イエスを言い表す者に対する迫害の文脈に置かれています。イエスと「人の子」を結びつけて語った直前の語録を受けて、ここで地上のイエスに対して悪口を言って逆らった者と、聖霊によって告知されている復活者イエスに逆らう者が対比されていると見られます。この理解は、次ぎに置かれている語録(一一〜一二節)が復活後の状況を示唆していることからも補強されます。地上のイエスに逆らうことは赦されても、聖霊として働かれる復活者イエスに逆らい続けるときには、もはや悔い改めて命を受ける可能性はありません。

 「会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる」。(一二・一一〜一二)
 「会堂」はユダヤ教の会堂であり、イエスを信じて言い表す者が律法違反を咎められて会堂での審問にかけられることを指しています。「役人・権力者」はローマの官憲を意味し、異邦人世界での信仰告白がローマ帝国の法廷で追及される事態を指しています。このことをマタイの並行箇所(一〇・一七〜二〇)は「総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる」と明言しています。

 この状況はイエスの復活後、聖霊によって復活者イエスがユダヤ人と異邦人の両方に告知されている状況を指しています。イエスを言い表すことは、ユダヤ教の中でも外の異邦人世界でも法廷で追及される(ギリシア語では「迫害される」と同語)ことになりますが、そのとき何を言おうかと心配することはないのです。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださるからです。信じる者の中にいます父の霊(聖霊)が、信じる者の中で語ってくださるのです(マタイ一〇・二〇)。その聖霊によって語る者は、いくら強制されても「イエスは呪われよ」と、イエスを否定することはできません。「イエスは《キュリオス》である」と言い表します(コリントT一二・三)。聖霊は、法廷に立たされている信者に語るべき言葉を与え、大胆に語る力を与えて下さいます。初期の迫害時代に、キリストの民は小さい庶民にいたるまで法廷で大胆にイエス・キリストの証しを立てましたが、それは聖霊の働きによる出来事でした。

    地上の富

 ここまでイエスはおもに弟子たちに向かって、終わりの日の裁きを前にして、迫害する人々の前に恐れずイエスを言い表すことの重要性を語られましたが、群衆の中の一人が遺産相続の問題でイエスに助力を求めたことがきっかけとなって(一三〜一四節)、この終わりの日が迫っている時に地上の富をどのように扱うべきかを、集まっている群衆一同に向かって説かれます(一五〜二一節)。そして再び弟子たちに向かい、富に頼らず父にだけに頼って「神の国」を追い求めるように説かれます(二二〜三四節)。この小区分の中でも、イエスが語りかける対象が「(群衆)一同に」と「弟子たちに」と変わっています(一五節、二二節)。


77 「愚かな金持ち」のたとえ(一二・一三〜二一)

 群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」。(一二・一三)
 当時のユダヤ教のラビは、律法の専門家としてユダヤ教社会での法律家(弁護士)でもありますから、遺産相続の紛争などでラビに相談することは普通でした。モーセ律法には遺産相続に関して規定があります(民数記一一・八〜一一、三六・七〜九、申命記二一・一五〜一七)。この発言者は、イエスを権威のある立派なラビと見て、兄弟の間で起こった遺産相続のもめごとをイエスに相談し、その裁定によって遺産を得ようとします

 イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」。(一二・一四)
 この訴えに対して、イエスは自分の使命は、法律によって人々の間の紛争を裁いたり調停したりする法律家のそれではないと言って、その求めがお門違いであると諭されます。イエスはご自身を「神の支配」を告知するため、終わりの日の恩恵の支配を告知するため、命の道を指し示すために、神から遣わされた者であるとされます。誰かが「永遠の命を受け継ぐためには何をすればよいのでしょうか」と訊ねるならば、イエスは真剣に答えてくださいます。しかし、地上の富の問題は世の法律家に委ねられます。

 自己主張がぶっつかりあうこの世では、正義や公正が貫かれるために「裁判官や調停人」など法律家が必要です。イエスに従い、父の慈愛に生きる弟子の間では、「裁判官や調停人」など法律家の出番はないはずですが、御霊に従いきれない肉(生まれながらの人間本性)から生じる紛争のために、法律家の世話になるような場合が出てきます。しかし、それはイエスの弟子としては未熟の証しです(コリントT六・六〜七)。イエスはわたしたちの「裁判官や調停人」ではありません。

 そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」。(一二・一五)
 人間には生得的な欲求があります。食欲や性欲は生存を維持するために生まれながらに身についている欲求です。そして、自分が欲求する物を自分の支配下に置いておきたいという所有欲があります。これも自然の欲求でしょう。しかし、その所有欲が自分の生存に必要なものという限度を超えて、自分の快楽や満足や誇りのために、少しでも多くと際限なく膨れあがるとき、それは「貪欲」となります。

 貪欲にも、その対象や状況の違いによって、いろいろな種類、様々な形があります。しかし、この貪欲こそ、あらゆる不義や暴虐の根です。イエスは「どんな貪欲」も、命の道を歩む者には危険であるから、注意を払い、用心して遠ざかるように警告されます。そして、その理由を「たといたくさんの物を持っていても、人の命は持ち物にはよらないのである」(協会訳)と語り出されます。

 新共同訳は「財産」と訳していますが、ここの「持ち物」は「財産」よりも広い意味で、人が自分のものとして所有しているすべてのものを指しています。それが何であれ、人はいくら貪欲に多くの物を手に入れて自分の支配下に置いても、人の命は自分が持っている物によって豊かにされるものではなく、保証されるものでもありません。人間は自分の命を、自分の所有物として、自分の支配下に置くことことはできないのです。命は全然別のところから来ます。そのことをイエスはたとえで教えられます。

 それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と』。しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた」。(一二・一六〜二〇)

 たとえ話の意味は明白で、とくに解説の必要はないでしょう。この金持ちは自分が所有する多くの財産で、これからの自分の命が保証されたと安心しています。しかし、人の命を決めるのは彼自身ではありません。人間は自分の生まれる時と死ぬ時を決めることはできません。それを決めるのは、彼に命を与えた方、創造者なる神だけです。そのことがこのたとえで印象深く語られています。

 このことはすでにユダヤ教の知恵文学も自覚していました。たとえばシラ書(一一・一八〜二九)にこれとよく似たたとえがあります。イエスはそれをさらに聴衆に身近な農業のたとえを用いて語られます。自分が死ぬ時を決めることができない人間が、自分の持ち物で「これから先何年も生きて行く」ことが保証されたと考える愚かさを、「愚かな者よ」という神の呼びかけで指し示しています。神がこの男に「今夜、お前の命《プシューケー》はお前から取り去られる」と言われたというのは、この男が「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ」と言った日の夜に死んだことを、神がなされた出来事とするためです。

 このたとえは他の福音書にはなく、ルカの特殊資料から取られています。ルカはこのたとえ話をここに用いて、終わりの日の裁きを前にして、地上の富に寄り頼むことの愚かさを語る印象深い段落を構成しています。そして、この段落の結びとして、この段落の意義を要約する言葉を置きます。

 「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」。(一二・二一)
 「このとおりだ」というのは、この金持ちの男のように愚かな生き方をしているのだ、という意味です。「神の前に豊かになる」ことは、すぐ後で「尽きることのない富を天に積む」という表現で語られています(一二・三三)。この金持ちの男のように、地上で自分のために大きな富を蓄えても、神が喜ばれる形でその富を用いないならば、命が取り去られて神の前に出るとき、何も持たない者として退けられるだけです。その人の地上の生涯は無意味なものとなり、その人の生き方は愚かなものであったことになります。

 では、どうすれば神の前に豊かになることができるのか、地上の富はどのように用いるべきなのかという問題について、ルカは他の箇所で繰り返し取り上げて語っています。すぐ後の三三〜三四節のお言葉はマタイにも並行箇所がありますが、ルカの特色も出ています。また、「不正な管理人のたとえ」(一六・一〜一三)や「金持ちとラザロ」の物語(一六・一九〜三一)など、富に関するイエスの発言を伝えるルカだけの記事に、地上の富に関するルカの見方がよく出ています。

 総じてルカは地上の富について厳しい見方をしています。そのことはすでに「平地の説教」冒頭の「幸いの言葉」にも見られました(六・二〇〜二六)。ルカは「幸いの言葉」の中に、マタイにはない「富める者の不幸」の言葉を入れて、富める者を断罪しています(六・二四〜二五)。「来るべき世」が到来して神の支配が実現するとき、地上で(今のこの世で)富める者は不幸になるという終末的逆転の思想が、ルカには見られます。富に関するルカの見方については、適切な箇所でまとめて扱うことにします。


78 思い悩むな(一二・二二〜三四)

 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ」。(一二・二二〜二三)
 このように、群衆一同に向かって地上の富に対する貪欲を戒められたイエスは、弟子たちに向かっては、地上の富に頼ることなく、ただ父の配慮に委ねて、思い悩むことなく生きるように励まされます。

 「だから、言っておく」の「だから」は、先の段落で人の命は神が決められるものだと述べたことを指しています。そこでは神が命を取り上げられる時のことが語られていましたが、ここでは神が命を支えてくださる方であることが語り出されます。命を与えた神がその命を支えてくださるのだから、あなたたちは命のことで「思い悩むな」と、イエスは諭されます。

 普通、人生の最大の関心事は「どうして生活していこうか」という問題です。イエスはそれを「何を食べようか、何を着ようか」という具体的な問いの形で語られました。現代では、お金を出せば食べるもの着るものは何でも手に入りますから、この問いは「どうしてお金を得ようか」という問題に帰着します。できるだけ楽に、生涯安定して、できるだけ高額の収入を得るためにはどうすればよいか。これが現代人の最大関心事です。現代生活はそのために「思い悩む」ことが満ちています。

 「何を食べようか、何を着ようかと(生活のことで)思い悩むな」という勧告(二二節)の根拠として、「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切であるからだ」という(《ガル》で始まる)理由を示す文(二三節)が来ます。この二三節の解釈は争われています。食べるのは命を維持するためであり、着るのは体を保護するためです。食べることと着ることの目的物(より大切なもの)である命と体は、神が与え取り去ることを決められるのであるから、それを決めることができない人間が、それを維持し保護するための手段である食べることと着ることについて思い悩むのは愚かである、ということでしょうか。

 「烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか」。(一二・二四)
 マタイには「空の鳥(とり)」とありますが、ルカでは「烏(からす)」となっています。イスラエルでは烏(からす)は汚れた鳥です(レビ一一・一五)。ルカはヨブ三八・四一や詩編一四七・九の影響で烏(からす)としたのでしょうか。鳥(とり)でも烏(からす)でもここの文意の理解には影響はありません。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない空の鳥を、汚れた鳥とされる烏(からす)も含めて、神は養っておられるのです。烏(からす)よりもはるかに価値があるあなたがたを、神が養ってくださらないことがあろうか、とイエスは言われます。

 このお言葉には、今夜命が取り去られることも知らないで、大きな倉を建ててこれからの命を保証しようとしたあの愚かな人間との対比が響いています。イエスの弟子は、自分の手の業に頼るのではなく、必要を知り給う神の配慮に委ねて、ひたすら神の国を追い求めるべきことが説かれます。
 もちろんこのお言葉は、わたしたちに働くことを禁じたり、必要なしとするものではありません。現実の社会に生きるためには、誰でも何らかの形で働くことが求められます。そして社会で働く以上は、計画や配慮や注意などが必要です。そのような心配りが必要でないと言っているのではありません。ただ、そのような心配りをして働くさいに、将来を心配して「思い悩むな」と言っているのです。イエスは、烏を養われる神を指して、わたしたちにその神を信じて、その神の配慮に委ねて、将来を心配したり思い煩ったりすることがないように励まされるのです。イエスの言葉は、働く必要がないと言っているのではなく、思い悩む必要がないことを教えています。思い悩むことは、何もよい結果を生みません。それは百害あって一利なしです。

 マタイでは、ここは「あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる」となっています。この表現は、イエスが神を父として親しい交わりの中におられることを示しています。そこからイエスはわたしたちにも、その方を「あなたがたの天の父」として示し、子が親を信頼して生きるように、創造者なる神を自分の父として信頼して生きるように招かれます。

 「あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか」。(一二・二五〜二六)
 ここで、思い悩むことの愚かさを示すために、本筋から離れた議論が加えられます。わたしたちはいくら思い悩んでも、寿命をわずかでも延ばすことはできません。この誰もが認めざるをえない事実を突きつけて、思い悩むことの愚かさと無益さを、イエスは聴く者に納得させられます(二五節)。

 ここで思い悩んだからといってできないことの典型とされていること(寿命あるいは身長に僅かを加えること)が、「こんなごく小さな事さえできないのに」とされて、「なぜ、ほかの事まで思い悩むのか」と、思い悩むことの愚かさが人生のすべての範囲に広げられます(二六節)。この節はマタイにはなく、「語録資料Q」にはなかったと推察され、ルカが加えたものと考えられます。

 ところで、「寿命をわずかでも延ばすこと」、あるいは「背丈を一ペキュスほどでも伸ばす」ことは、どちらもできないのが当然で、それを「こんなごく小さな事さえできない」として、「まして他のことまで」と他の人生経験すべてについて思い悩むことの愚かさの根拠づけにする論理には、現代のわたしたちは抵抗を感じます。しかし、この「小さいこと」を、簡単なことという意味ではなく、人生のもっとも基本的なことを意味すると理解すれば、生まれる時と死ぬ時という存在のもっとも基本的なことを自分で決めることができない者が、人生の中の他のことを自分で決めることができるかのように考えて思い悩むことは、被造物の僭越であることを教えていると理解することができます。

 「野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ」。(一二・二七〜二八)
 次に「何を着ようか」という思い煩いについて、野原の花を指して、その愚かさが語られます。野に咲く花は、働きもせず紡ぎもしないけれども、あのように美しく装って咲いているではないか。その装いを、イエスは栄華を極めたソロモンに優るものとして指し示されます。旧約聖書にはソロモンの衣装の華麗さを記述する箇所はありませんが、イスラエル史上もっとも繁栄したソロモンの宮廷の華麗さは、後々の世の語りぐさになっていました。イエスは、野に咲く花の美しさを、その時のソロモンの衣装に優るものと見ておられます。

 その上で「今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださっているのだ」と言われます。ここでは「花」ではなく「草、乾し草」です。パレスチナの農民は乾し草や野の枯れ草を集めて燃料として炉に投げ込みました。そのような草に混じって一緒に炉に投げ込まれるような野の花も、「神はこのように装ってくださっている」と、イエスは言われます。わたしたちがただ「ああ、きれいだなあ」と見ている、野の草の中に花が咲いているという平凡な事実に、イエスは神の配慮と働きを見ておられます。これは、雨が降り太陽が照らすというごく日常的な事実の中に、父の絶対無条件の慈愛を見ておられた(マタイ五・四五)のと共通するイエスの霊眼です。

 神がこのように小さいものを配慮してくだっているのであれば、「まして、あなたがたにはなおさらのことである」と続きます。このように野の花でさえその配慮を及ぼして美しく装ってくださっている神が、あなたたちのことを配慮して必要な着るものを与えてくださらないことがあろうか、とイエスは言われます。それだのに、「何を食べようか、何を着ようか」と思い悩んでいるのは、父への信頼がないからだとして、そのように思い悩む弟子たちに、「信仰の薄い者たちよ」と言われます。これは叱責とか非難というより、父の配慮に全面的に委ねて、思い悩みを捨てるようにという呼びかけです。

 「あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである」。(一二・二九〜三〇)
 この節では文頭に置かれた「あなたがた」が強調されています。他の者はともかく、弟子としてイエスに従おうとするあなたたちは、何を食べようか、何を飲もうかと考えたり思い悩むようなことはあってはならない、とされます。この強調は三一節の「ただ神の国を求めなさい」まで続いており、「あなたたち」はそのようなことに思い悩むことなく、ひたすら「神の国」を求めることに集中すべきだと続きます。

 その「あなたがた」との対比で、「あなたがた」以外の人たちが「世の異邦人」と呼ばれます。彼らが求めるところは「神の国」ではなく、「何を食べようか、何を飲もうか」の思いに代表される地上の生活のことだけです。「あなたがた」は「世の異邦人」のようであってはならない、そのようなものは、その必要を知っておられる父の配慮に委ねて、ただ神の国を追い求めなさい、と続きます。

 「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる」。(一二・三一)
 では、イエスの弟子がそれだけを目標にしなければならない「神の国」とは何か。また、「神の国を求める」というのはどういう生き方を指すのかが問題になります。この問いは、福音書全体、いや新約聖書全体の探求の結果として答えることができる問いであって、ここはその答えを出す場所ではありません。ここでは、弟子としてイエスに従う者は、「何を食べようか、何を着ようか」と地上の生活のことで思い悩むことなく、イエスがそれに生涯を捧げておられる「神の国」の告知の働きに、自分の生涯を捧げて専心すべきことが求められています。そうすれば、生活に必要なものは、その必要を知っておられる父から、「神の国」のための働き対する霊的報酬に「加えて」与えられるのだ、とイエスは約束されます。これはイエスご自身の生き方から出る約束です。そして多くの弟子が、その約束が信実でることを実際に体験してきました。

 「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」。(一二・三二)
 イエスと共に「神の国」を専心追い求める弟子は、この世ではいつも少数派です。イエスの時も、福音書が書かれた時期においても、そしていつの時代でも少数派です。違う生き方をする少数派は、周囲の多数派から非難され、迫害されるのが常です。少数派として迫害される弟子たちの群れに向かって、イエスは「小さな群れよ、恐れるな」と励まされます。「恐れるな」と言われる根拠は、「神の国を与えることは、あなたたちの父の意志である」からです。この文ははっきりと理由を示す接続詞で、先の「恐れるな」に続いています。

 少数派であるイエスの弟子の群れは、今の時代、この世では苦難の道を歩まなければなりません。しかし、やがてすぐに現れようとしている「来るべき時代、来るべき世」においては、神の支配に参与し、神の栄光を与えられます。それは神の定めです。ここのイエスの言葉には、救済史の計画が必ず実現することを指し示す《デイ》(そうならなければならない)― 受難の予告(九・二二)にも用いられたあの《デイ》― が響いています。

 そう定められた神が「あなたがたの父」であるのだから、あなたたちは地上の生活に必要なものについては思い悩むことなく、子としての信頼をもって父の配慮に委ね、また迫害を恐れることなく、父の定めである「神の国」に向かってひたすら歩むように、イエスは小さい群れの弟子たちを励まされます。

 「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ」。(一二・三三〜三四)
 この語録はマタイ(六・一九〜二一)にもあり、「語録資料Q」から来ています。マタイは別の文脈に置いていますが、ルカは、「この世」と「来るべき世」の対比の中でこの世の富について語られたこの小区分(一二・一三〜三四)の締めくくりとして、この位置に置きます。新共同訳ではこの語録は弟子たちに語られた「思い悩むな」の段落に入っていますが、群衆に語られた先の「愚かな金持ちのたとえ」の段落も含めて、地上の富に関わる小区分全体の締めくくりとして置かれていると考えられます。

 マタイの並行箇所と較べると、宝は地上に積まず、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない天に積むようにという主旨は同じですが、ルカはマタイにはない「自分の持ち物を売り払って施しなさい」という言葉を加えて、天に宝を積むにはどうすればよいかを具体的に指し示しています。ここにも地上の富に対するルカの厳しい姿勢が見られます。

 たしかに地上に蓄えた宝は、「虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したり」します(マタイ六・一九)。天に積まれた宝にはそのような心配はありません。天に宝を蓄えるとは、地上で神に喜ばれる歩みと働きをして、天において、すなわち神との霊的な関わりにおいて、自分が豊かになること、信仰や愛や希望というような霊性における持ち物が豊かになることです。

 このような宝は、地上の境遇がどのようになっても奪われることはありません。それは「盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない」宝です。それは内に与えられた御霊の泉から溢れ出る「尽きることのない富」です。それは周囲の状況によって絶え果てることのない富です。死でさえ奪うことのできない宝です。自分のためだけに地上に富を蓄え、神との関わりで豊かでない者の愚かさは、先の「愚かな金持ち」のたとえで語られていました。ここではその反対に、真に賢くあって、神の前に豊かになるように説かれます。

 「あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるのだ」という結びの言葉は、人生の主要関心事をどこに向けるか、その選択を迫ります。地上に宝を積むことを目的として生きるか、天に宝を積むことを人生の大事として生きるか、選択を迫ります。もちろんイエスの言葉は、天に宝を積むことこそ真の知恵であるとして、神の前に豊かになるように説き勧めています。
 宝は地上ではなく天に積むようにというところは、マタイとルカは共通しています。おそらくこれが「語録資料Q」の内容であったと考えられます。ところが、ルカはこの語録の前に「自分の持ち物を売り払って施しなさい」という言葉を置いて、「語録資料Q」の内容をこの「施しなさい」という勧告の目的あるいは結果として関連づけています。自分の持ち物を売り払って施すことによって、尽きることのない富を天に積むことになるとしています(一八・二二参照)。

 キリスト教の歴史の中では、この言葉に文字通りに従って、自分の資産全部を売り払って貧しい人々に施し、自分は無一物になって修道僧の生活に入った人たちがいました。そこまで行かなくても、この言葉に励まされて、自分の大きな資産を慈善事業に寄付する人がキリスト教社会にはよくあります。そのような人たちは、たしかに天に宝を積んだ人たちです。しかし、すべての人がそれができるわけではありません。できないことを悲しんでイエスのもとから立ち去ってはなりません(一八・二三)。「人間にはできないことも、神にはできる」と言って、イエスはそのような人をも受け入れてくださっています。人には様々に異なった召しがあります。召されたところに従って、イエスに従えばよいのです。時に応じて、わたしたちにできないことを神ができるようにしてくださいます。
 この三三〜三四節の言葉で、地上の富に関する小区分(一二・一三〜三四)が締めくくられます。

 

   時は迫っている

 ルカ福音書一二章(正確には一三章九節までを含む)は、迫っている終わりの日を前にしてどのように生きるか、どう備えるかを主題にした段落を集めています。その中で、その日を前にしてイエスを主と言い表すことの決定的な重要性を語る小区分(一二・一〜一二)と、地上の富に対する姿勢を語る小区分(一二・一三〜三四)が認められました。残りの一二章三五節から一三章九節までは、迫っている終わりの時に備えるためになすべき事に関して語られたイエスの様々な言葉が集められています。


 

79 目を覚ましている僕(一二・三五〜四八)

 

「婚宴から夜中に帰宅する主人」のたとえ

 「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」。(一二・三五)
 まず、迫っている終わりの時に備えることの必要性が、「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」という具体的な姿で表現されます。「腰に帯を締め」というのは、急な出来事に対処できるように帯を締めたきちんとした服装をしていることです。帯を締めていない寝間着のような服装では、客の急な到来や思いがけない事件にすぐに対応できません。「ともし火をともしている」というのは、その急な出来事がいつ起こっても、たとえ夜の暗闇で起こっても対処できるように準備していることです。昔イスラエルがエジプトを出るとき、過越の羊を食べるとき、「腰帯を締め、靴を履き、杖を手にして」食べるように命じられました(出エジプト記一二・一一)。そのような心構えが必要なことが、たとえを用いて語り出されます。

 「主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」。(一二・三六〜三七)
 最初に「婚宴から夜中に帰宅する主人」のたとえが来ます。当時の婚礼の宴は夜中まで続き、帰宅は夜になるのが普通でした。しかも、宴がいつ終わるかは予測できず、婚礼に出席した主人の帰りの時刻は分かりません。留守をあずかった僕が眠りこんでいると、帰宅した主人が戸をたたいてもすぐに戸を開けることはできません。その時目を覚ましている僕は、すぐに戸を開けて主人を迎えることができます。そのように、終わりの時が近いことを自覚して、その到来がいつあるかわからないのであるから、いつもそれに備えて歩むように、イエスは「目を覚ましていなさい」という言葉で呼びかけられます。
 イエスご自身は、神の最終的な裁きの時が迫っているのだから、それに備えて目覚めているようにと呼びかけられたと考えられますが、イエスがその終わりの日の出来事として「人の子の顕現」を語られたのを聞いていた最初期共同体は、この「目覚めていなさい」という呼びかけを、キリストの来臨《パルーシア》に備えているようにという呼びかけと理解して、それを「人の子の顕現」預言の直後に置きました(マルコ一三・二四〜三七)。

 ルカも「目覚めていなさい」との呼びかけを「人の子の顕現」預言の後に置いていますが、それは別の形(二四・三四〜三六)のもので、「婚宴から夜中に帰宅する主人」のたとえは、ここに見るように別の文脈においています。しかし、別の文脈に置かれていても、ルカの時代には「目覚めていなさい」はキリストの来臨に備えていること以外の意味にはなりえませんから、ルカは目覚めていてキリストの来臨を迎える者の幸いを、婚宴の比喩の続きとして、「主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」という比喩で語ります。この比喩は、目覚めていて来臨されるキリストを迎える者たちに、キリストがご自分の栄光を分かち与えてくださることを指しています。これは、パウロが「将来わたしたちに現される栄光」として語っていること(ローマ八・一八〜二五)の比喩的表現です。この比喩は他の福音書にはなく、ルカだけにあります。

 「主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」。(一二.三八)
 三五節からこの三八節までが「婚宴から夜中に帰宅する主人」のたとえを構成しています。この節の「幸い」の内容は、すでに三七節後半の比喩が説明していました。三八節では、主人が帰ってくる夜の時間帯がわからないことが強調されて、三七節の「幸い」が繰り返されます。

 「このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう」。(一二・三九)
 終わりの時は迫っているが、それがいつ来るのかは分からないことを語るもう一つの比喩が、この「泥棒のたとえ」です。泥棒がいつやって来るかは分からないのだから、家の主人はいつも用心していなければならないことを比喩として、イエスは弟子たちに常に終わりの日に備えて生きるように求められます。この泥棒の比喩は、最初期共同体において、キリストの来臨を指す「主の日」がいつ来るのかは分からないことをことを語るときに引き継がれています(テサロニケT五・二〜四、黙示録三・三、一六・一五)。

 「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」。(一二・四〇)
 「婚宴のたとえ」と「泥棒のたとえ」の二つのたとえで、常に目覚めて用意しているように語られた後に、どういう出来事のために備えるのかが語られます。それは突然世界に現れる「人の子」を迎えるためです。イエスは終わりの日の到来を「人の子の顕現」という形で語られました。その預言を語り伝えた最初期の共同体は、イエスの「目覚めていなさい」という言葉を、「人の子」の到来が迫っていることを語る場面で繰り返し用いました。ここもその中の一つです。

 

「忠実な僕と悪い僕」のたとえ

 そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと、主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人はいったいだれだろうか」。(一二・四一〜四二)
 このペトロの質問は、この場面(一二・一〜一三・九)ではイエスが弟子たちに語りかけたり、取り巻く群衆に語りかけたりしておられる状況で、このたとえがどちらのグループに語りかけられているのかを訊ねています。「このたとえ」は単数形です。これは「婚宴から夜中に帰宅する主人のたとえ」を指していて、「泥棒のたとえ」はこの婚宴のたとえの結論として語られた四〇節に入る前に、主旨を強調するために同じ主旨のたとえが添えて挿入されたものとされたものと見られます。

 このペトロの質問とイエスの答えの部分では、ペトロは「主よ」と呼びかけ、イエスの答えについてルカは「主は言われた」と書いています。この「目を覚ましている僕」の段落(一二・三五〜四八)では《ホ・キュリオス》が何回も出てきますが、みな奴隷とか僕に対する「主人」の意味です。ここだけが復活者イエスを指す称号としての《キュリオス》を用いています。この事実は、この問答がイエス復活後の状況で、「目を覚ましていなさい」という呼びかけが誰に向かって語られたものかを明確にしなければならない必要に迫られて、共同体が復活者イエスから聞いた内容としてこの記事を構成した、と推察させます。それで「イエスは言われた」ではなく、「主は言われた」となっています。この呼びかけが誰に向けられたものかを明確にする必要があったことは、マルコが弟子たちに語られた「人の子の来臨」の記事の後に、「あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい」という言葉を付け加えていることからも分かります(マルコ一三・三七)。

 この「目を覚ましていなさい」という呼びかけが誰に向けられたものかという問いに対して、ルカはマルコとは少し違う独自の回答を与えています。このペトロの質問に対する「主」のお答えは、四二節の問いかけを導入として、四二節から四八節に至る部分全体で構成されています。

 「人の子はいつ来られるのか分からないだから目を覚ましていなさい」ということを呼びかけるたとえは、ここに用いられた「婚宴から夜中に帰宅する主人のたとえ」と「泥棒のたとえ」の他にもう一つ、「商用で長旅に出る主人のたとえ」があったと考えられます。そのたとえはマルコ福音書一三章三四〜三六節にその骨格をとどめています。そのたとえでは、商用で旅に出る主人が僕たち各人に権限と仕事を与えて旅に出るのですが、その帰りがいつか分からないのだから、突然帰ってきたときに、忠実に仕事を果たしたのを見られるようにしなさい、という主旨です。ところがマルコ福音書のこの箇所では、後半が「だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるようなことにならないようにしなさい」となっていて、これは婚宴のたとえにふさわしい表現です。ここでは「商用で長旅に出る主人のたとえ」と「婚宴から夜中に帰宅する主人のたとえ」が融合しているのが見られます。

 「商用で長旅に出る主人のたとえ」は、眠らないで目を覚ましているように呼びかける面よりも、任された仕事を忠実に果たすことに重点が置かれています。キリストの来臨を間近に実感しているマルコでは、このたとえも「目を覚ましていなさい」という呼びかけのために用いられていますが、共同体は来臨《パルーシア》までのある期間地上の歴史の中を歩まなければならないと覚悟しているマタイとルカでは、このたとえは「目を覚ましていなさい」よりも、委ねられた仕事を忠実に果すことを求めるたとえになり、それがさらに詳しく語る形に拡大されて、「忠実な僕と悪い僕のたとえ」(マタイ二四・四五〜五一)、「タラントンのたとえ」(マタイ二五・一四〜三〇)、「ムナのたとえ」(ルカ一九・一一〜二七)になります。

 「忠実な僕と悪い僕のたとえ」(マタイ二四・四五〜五一)は「語録資料Q」にある語録ですが、ルカはその語録を用いて、ペトロの質問に対する「主」の答えを構成します。四二節から四六節まではマタイ(二四・四五〜五一)とほぼ同文で、「語録資料Q」からの引用であることをうかがわせます。ところが、四七〜四八節はルカだけにあり、ペトロの質問に対する回答になっています。ルカは、イエス復活後の共同体が直面する問題をペトロの質問の形で表現し、それに対して「語録資料Q」にある「忠実な僕と悪い僕のたとえ」を素材として用いて、ルカ独自の回答を提出しています。

 素材となっている語録は、「主人が召し使いたちの上に立てた管理人」についてですが、すぐ後に「主人が帰って来たとき」と言われていることから、これが「商用で長旅に出る主人のたとえ」の一形態であることが分かります。この管理人は「召し使いたちに時間どおりに食べ物を分配させる」という仕事を委ねられた僕です。この表現は、羊の群れ(信者の共同体)の管理者として立てられ、群れに時に応じた御言葉という霊的糧を与える仕事を委ねられた人たちを指しているようです。主人はこの僕を「忠実で賢い管理人」と考えてその仕事に任じたのですが、その僕が主人の期待通りによい僕であるかどうかは、主人の留守中の行動が明らかにします。

 「主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない」。(一二・四三〜四四)
 主人の留守中、主人から命じられたとおり忠実に職務を果たし、主人が帰ってきたとき、その忠実ぶりを見られる僕は、主人の信用を得て、主人の全財産の管理を任されるようになるであろうと言われます。この比喩は、主キリストが来臨されるとき、地上の歩みで主の言葉に忠実に従い、主から委ねられた使命を忠実に果たした弟子は、栄光の主と一緒に世界の支配にあずかることになることを意味しています。

 「しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる」。(一二・四五〜四六)
 その忠実な僕に対して、ここで悪い僕の姿が描かれます。その僕が悪い僕となるのは、「主人の帰りは遅れる」と思うからです。「語録資料Q」の段階ではそのような意味はなかったにしても、ルカの時代では、この句には「キリストの来臨《パルーシア》」が遅れていることを指す句として理解されたことでしょう。ルカはまさに、《パルーシア》が遅れていることで信仰の動揺が見られる時代に福音書を書いています(序論『ルカ二部作の成立』参照)。
 「主人の帰りは遅れる」と思う僕は、主人が帰るまでは自分が主人であるとして、自分の下にいる「下男や女中」を気に入らなければ殴るなどして、自分の思うままに支配しようとします。また、「食べたり飲んだり、酔うようなこと」になり、自分の欲望のままに振る舞い、主人から委ねられた仕事を果たすことを怠ります。このような僕は、主人が「予想しない日、思いがけない時に帰って来て」、厳しく処罰することになります。この比喩は、たとえイエスの弟子であっても、自分が主人であるかのように高ぶり、自分に委ねられた羊の群れを食いものにして自分の満足を追い求めるような者は、キリストが来臨されるとき、不信者と同じく栄光から放逐され、暗闇に落とされると警告しています。

 「主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される」。(一二・四七〜四八)
 ルカは、「語録資料Q」の「忠実な僕と悪い僕」の比喩を引用した上で(四二〜四六節)、その比喩が意味するところを書き加えて(四七〜四八節)、それをペトロの質問に対する主の答えとします。すなわちこの結論の部分は、一般の人もみな迫っている終わりの日に備えている必要はあるが、主の意思をより多く知らされている弟子たちは、それだけ責任が重い、ということです。

 ここで「主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕」というのは、四五〜四六節の悪い僕を指すことになりますが、そこではこの悪い僕に対する処罰は厳しい断罪であり追放でした。悪行の程度により処罰の重さが変わることはありません。ところがここでは「鞭打ち」になっています。その鞭打ちも「ひどく鞭打たれる」から「少しで済む」鞭打ちまで程度が変わります。引用されている素材の比喩と、ルカの結論には齟齬が感じられます。しかし、これは表現上の齟齬であり、ペトロの質問、すなわちルカの時代の問題に対して、ルカがイエスの語録を用いて答えようとした意図は一貫しています。

 差し迫っている終わりの日に備えなければならないのは、すべての人間に共通ですが、イエスの弟子として、また、イエス・キリストの十字架と復活という終わりの日の救いの出来事にあずかる者として、神の救済史の奥義を知ることを許された者は、他の人たちに較べて、終わりの日に備えて生きることで、その証しをしなければならない責任は格段に重いものがあります。その中でも、任された任務によって責任の重さに違いがあるでしょうが、キリストの民の責任の重さを自覚させようとして、ルカは「語録資料Q」の比喩を用います。そして、さらに「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される」という格言を引用して、その意図を明確にします。


80 分裂をもたらす(一二・四九〜五三)

 「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」。(一二・四九)
 「わたしが来たのは〜するためである」という形でイエスがご自身の使命を語られたとされる語録は各福音書にあります。その中で、「わたしが来たのは義人を招くためではなく、罪人を招くためである」というお言葉は三つの共観福音書に共通していて(マルコ二・一七、マタイ九・一三、ルカ一二・四九)、「恩恵の支配」というイエスの使信の核心を表現しています。しかし、各福音書はこの形式でそれぞれの特色を示すメッセージを表現しています。たとえば、マタイ(五・一七)は「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」という形で、律法についてのマタイの主張を掲げています。ヨハネ(一〇・一〇)は、「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」という形で、イエスが神から遣わされて世に来られたのは、彼を信じる者が永遠の命を受けるためであるというヨハネ独自の使信を宣言しています。ここの「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」というお言葉はルカだけにあり、イエスの「神の国」告知の終末性をよく示しています。

 当時のイスラエルの民には、預言者の終末預言とユダヤ教黙示思想によって、終わりの日が火の中に現れるという思想が行き渡っていました。終わりの日には、神は火をもって世界を裁き、罪を焼き滅ぼし、それによってご自身の民を清められるという信仰です。この火による終末審判を告知した大預言者が洗礼者ヨハネです。彼の告知は、「わたしは水でバプテスマするが、わたしの後に来られる方は火によってバプテスマされる」という内容であったと考えられます。

 イエスはご自身の使命が、終わりの日をもたらす神の火を世界に投ずることであると自覚しておられて、「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」と語られます。しかし、イエスはご自身の聖霊体験から、その火が黙示思想が描く世界を焼き尽くす火ではなく、世界を変革変容させる聖霊の火であることを見ておられました。その火がご自身の中で熱く燃えて「神の支配」の現実を体験させているように、その火が世の人々の中に燃えて、神の「恩恵の支配」という終末的現実が地上に実現することを切に願われます。それが「その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」という、イエスには珍しい願望を現す形で語り出されます。

 「しかし、わたしには受けねばならない洗礼(バプテスマ)がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう」。(一二・五〇)
 その願いが実現するためには、すなわちイエスの中に燃えている終末的現実をもたらす聖霊の火が世の人々の中に燃えるようになるには、イエスにはその前に受けなければならないバプテスマがあることを自覚しておられます。それは「洗礼」という語が指し示すような儀礼ではなく、「浸されること」という原意の《バプテスマ》という語で示される事態です(協会訳参照)。ここの原文は、「わたしには浸(バプティゾー)されなければならないバプテスマがある」という形です。

 では、この表現はイエスがどのような事態に「浸される」ことを指しているのでしょうか。それはイエスご自身がすでに予告されてたご自身の受難です。それはたんにこの世で迫害され、痛い目に遭わせられ、殺されるという苦難だけではなく、イザヤの「主の僕」の預言を成就する者として、神の民を贖うために、民の罪を負い、神の裁き服する苦しみです。その苦しみはゲツセマネでの祈りにおいて姿を現し(二二・四四)、十字架の上で終わる苦しみですが(ヨハネ一九・三〇)、それが終わるまでイエスはずっとその苦しみを担い続けられます。イエスはこの苦しみを、受難の地エルサレムに入る直前に、「わたしが飲む杯、わたしが受けるバプテスマ」と語っておられます(マルコ一〇・三八)。

 「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる」。(一二・五一〜五三)
 イエスは「わたしが来たのは、地上に分裂をもたらすためである」と言われます。そして、その分裂を具体的に語り出されます。これは激しい言葉です。あの「柔和な方」と呼ばれるイエス(マタイ一一・二九、二一・五)が、このような激しい言葉を語り出されるのはどうしてでしょうか。それは、「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」と言われたことの、避けられない結果だからです。

 イエスが地上に投じる火は、終末の現実をもたらす聖霊の火です。この火を身に受けた者は、この世の原理とは違う原理で生きるようになります。イエスを言い表し、イエスに所属し、この火に燃やされて生きる者は、イエスを拒み、この火を受けることなく、この世の命に生きる者と一緒に歩むことはできないのです。聖霊は「来るべき世」の命です。その命に生きる者は「この世」の命に生きる者とは別の種類の命、別の原理で生きるようになるからです。

 イエスはすでに、神の言葉に従う者の間の絆は、親子や兄弟という血縁による絆を超えるものであることを語っておられました(八・二一)。ここではさらに強い形で、イエスに従うことが家族の血縁の絆よりも優先されなければならないことが語り出されます。この語録は、マタイ(一〇・三四〜三六)にも並行箇所があり、「語録資料Q」から取られていると見られますが、マタイの表現はルカと少し違っています。マタイでは「わたしが来たのは、剣をもたらすためである」とあり、最後に「自分の家族の者が敵となる」という言葉で結ばれています。形は少し違いますが両方とも、イエスに従って終末の現実に生きる者は、この世とは厳しい対立、敵対、迫害の中に歩むことを覚悟しなければならないことを語っています。

 聖霊の火に燃やされた者は、家族の絆を捨て、この世から隔離された別世界に閉じこめられるのではありません。聖霊の火は、家族に染みこんでいる伝統的な宗教や慣習の鎖からわたしたちを解放し、宗教とか文化の違いにとらわれない自由な交わり、開かれた世界に導き入れます。それは、「わたしのために家・・・を捨てた者は、今この世でその百倍を受け、後の世では永遠の命を受ける」(マルコ一〇・二九〜三〇)と言われているとおりです。


81 時を見分ける(一二・五四〜五六)

 「イエスはまた群衆にも言われた。「あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる。また、南風が吹いているのを見ると、『暑くなる』と言う。事実そうなる。偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか」。(一二・五四〜五六)
 この区分(一二・一〜一三・九)では、弟子たちと群衆に対する語りかけが混在し、どちらに語りかけておられるのかが問題とされる場合もありますが(一二・四一)、ここでは群衆に向かって語られたことが明示されます。

 イエスはイスラエルの民に向かって、空模様を見てどんな天気になるのかを予告することができるのに、現在の世の中に起こる事象を見て今がどのような《カイロス》(時)であるかを見分けることができないのか、と彼らの霊的鈍感さを嘆かれます。ただ、イエスが群衆に「偽善者よ」と断罪するような呼び方をされることは考えにくいことで、おそらく共同体がユダヤ教会堂勢力(=ファリサイ派)に投げつけた非難の言葉使いがここに混入したのではないかと推察されます。マタイの並行箇所にはこの用語はありません。

 この記事はマタイ(一六・二〜三)に並行記事があり、「語録資料Q」から取られていると見られますが、マタイは別の文脈で用いています。すなわち、ファリサイ派とサドカイ派の者たちがイエスに「天からのしるし」を見せるように求めたのに対して答えられた言葉として用いられています。しかし、ルカはその要求に関する記事をすでに書いたので(一一・一六、二九〜三二)、この語録は別に独立して用いられることになります。

 イエスは、神から様々な預言や啓示を与えられているイスラエルの民が、現在のイスラエルの現実を見て「今の時《カイロス》」がどのように切迫した《カイロス》であるかを見分けることができない霊的盲目を嘆かれます。この《カイロス》(時)は、時計の目盛りで示される時ではなく、神が決定的なことを行われる時を指しています。神が今イエスにおいて決定的な語りかけ、あるいは訪れを与えておられることが見えていないのです。終わりの日の決算が迫っていることを自覚せず、神の救済史において今がどのような時であるかに無感覚に、自分が体験する日常生活に埋没し、眠りこんでしまっているのです。このお言葉も、「目覚めていなさい」という呼びかけの一つの形です。


82 訴える人と仲直りをする(一二・五七〜五九)

 「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときには、途中でその人と仲直りするように努めなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官のもとに連れて行き、裁判官は看守に引き渡し、看守は牢に投げ込む。言っておくが、最後の一レプトンを返すまで、決してそこから出ることはできない」。(一二・五七〜五九)
 この区分(一二・一〜一三・九)の主題である終わりの日の裁きが迫っていることを、イエスはさらに一つの比喩を用いて群衆に語られます。すなわち、「あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くとき」のことが比喩として用いられます。「最後の一レプトンを返す」とあることから、おそらく借金などの民事訴訟で裁判所に出頭する体験が比喩として用いられているのでしょう。「あなたを訴える人」(債権者)と一緒に裁判所に向かうとき、途中でその人と和解して、裁判官に訴えられなくても済むように努めるのが最善の方法です。いったん法廷に持ち込まれると、厳密に法律が適用されて、(当時の法律では)全額負債を払いきるまで牢に入れられることになります。そのことを比喩として、イエスはイスラエルの民に、終わりの日の裁きが来るまでに、訴える者と和解するように説かれます。

 ここで、訴える者とは誰か、役人と裁判官と看守とは誰を指すのか、というような詮索は無用です。たとえ話の中の一つ一つの項目に具体的な事物を適用して物語を構成すること、すなわちたとえを寓喩的に解釈する必要ありません。イエスは、裁判が始まる前に和解する必要があることを示すためだけに、民事訴訟を比喩として用いておられのです。

 終わりの日の裁きは神の裁きです。したがって和解は神との和解です。その日が迫っている今こそ神との和解を求めるべき時です。ところが、イスラエルの民は今がどのような時であるかを悟らず、何が正しいかを自分で判断できず、神との和解を問題にもしないでいます。これは、先の雲行きを見分けることと比較して、「どうして今の時を見分けることを知らないのか」と言われたのと同じです。

 五八〜五九節は(多少用語は違いますが)同じ内容の並行箇所がマタイ(五・二五〜二六)にあり、「語録資料Q」から取られていると見られますが、五七節はルカ独自のものです。ルカが「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか」と呼びかける相手は、異邦の諸国民です。世界は神の審判に向かう途上にあります。この今の時に、すべての人間は神と和解する必要があります。元のたとえでは、どうすれば和解できるかは触れられていませんでした。しかし、ルカはこの福音書で「罪の赦し」の福音を告知しています。神はイエス・キリストによってわたしたちの負債を赦しておられます。ルカはこの福音を背景に、世界の人々に自分が赦しを必要とする者であることを判断するように呼びかけます。


83 悔い改めなければ滅びる(一三・一〜五)

 終わりの日の裁きが迫っていることを主題とするこの区分(一二・一〜一三・九)の最後に、その区分の締めくくりとして、悔い改めを呼びかける二つのイエスの語録が置かれます。一つは最近の歴史的・社会的な事件を引き合いに出しての語録(一三・一〜五)、もう一つはいちじくの木のたとえ(一三・六〜九)です。この二つの語録は、他の福音書にはなく、ルカの特殊資料からのものと見られます。

 ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。(一三・一)
 ローマ総督ピラトがガリラヤ人(複数)を殺戮したこのイエスの時代の流血事件については、この時代の歴史を詳しく記述したヨセフスは何も伝えていません。しかし、イエスの十字架の五年後の三五年に、ピラトは彼の部隊にゲリジム山で犠牲を捧げているサマリア教徒を襲わせ、多くのサマリア人を殺します。それでサマリア人はこの事件をローマ側に訴え、ピラトは責任を問われて召喚されることになります。この事件についてはヨセフスが『古代誌』一八巻四章で詳しく伝えています。それで、ルカはこの事件と混同しているのではないかという議論もなされてきました。しかし、総督ピラトは、被支配民のユダヤ人やサマリア人の宗教感情を逆撫でするようなことをしばしば繰り返した粗暴な支配者であったので、イエスが活動された時期にこのような事件を起こしたことは十分ありえます。

 「ガリラヤ人」という呼び方は、ガリラヤの山地がローマの支配からの解放を目指す革命運動家の巣窟であったことから、このような革命運動家を指すようになっていました。ヨセフスはそのように用いています。歴代のローマ総督は、彼らの武力を用いた反ローマ活動を鎮圧するために、繰り返し部隊を出動させなければなりませんでした。ここもそのような事件の一つであったと見られます。

 「ガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」という表現も、正確に何を指しているのか解釈が分かれます。文章の前後関係からすると「彼らの」はガリラヤ人を指すことになり、(他の)ガリラヤからの巡礼者が神殿で献げようとしていた犠牲の動物の血に混ぜたことになります。しかし、このようなことができるかどうか問題です。「彼らの」を(強引に)ピラト配下のローマ軍と理解すると、ローマ軍が行う異教の犠牲祭儀の血に、この事件の犠牲者の血を混ぜたことになり、ピラトがやりそうなユダヤ人に対する強烈な挑発になります。この文を神殿区域でのガリラヤ人の殺戮を象徴的に表現したものと理解する見方も可能です。

 ローマはその強大な軍事力で、このようなガリラヤ人から始まるユダヤ人の武装闘争を鎮圧することに成功します(ユダヤ戦争)。しかし四〇〇年後には、非暴力無抵抗の絶対愛を唱えた一人のガリラヤ人、ナザレのイエスの足もとにひれ伏すことになります。ローマ帝国は三九一年にキリスト教を国教とするに至ります。

 この事件を公衆の面前でイエスに伝えた者たちの意図が問題になります。彼らはこのようなローマ軍の残虐行為を突きつけて、イエスに反ローマ闘争に立ち上がるようにうながしたのかもしれません。しかしイエスは、この事件をまったく違う視点から見ておられます。

 イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」。(一三・二〜三)
 イエスはこの事件を、この差し迫った時に民に悔い改めをうながすきっかけにされます。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思う」のは、当時のユダヤ教の基本的な考え方です。律法を順守して罪のない生活をしておれば、神の護りと祝福にあずかり平和で栄えるが、律法に反する罪深い生活をすれば神の裁きにより不幸と災禍に陥るという考えです。ヨブ記の著者は、必ずしもそうではない現実、義人が苦しむ不条理な現実に直面して、このような宗教の応報思想と格闘しましたが、一般民衆にはこのような応報思想が広く染みこんでいました。

 イエスは「決してそうではない」と言って、この考えをきっぱりと否定されます。このような考え方の根底には、自分が罪を犯すことなく、律法にかなった正しい行為をしておれば滅びることはないという、自分の義を立てる姿勢があります。しかし、イエスがおられる絶対恩恵の場から見れば、人間の義とか罪は相対的なもので、人間はみな神の裁きの前では滅ぶべき存在であり、神の無条件絶対の赦しの恩恵によらなければ救われません。「皆同じように滅びる」は、このガリラヤ人と同じように不慮の死に遭うということではなく、人間の尺度からする義人も罪人も差別なく、終わりの日の神の裁きの前では皆同じように滅びることを指しておられます。

 では、このどうすればよいのか。自分の正しさに依り頼まないで、自分の無価値と本性的な背神を認め、その自分を神の無条件の恩恵に委ねるほかありません。これが「悔い改め」です。この悔い改めをせず、自分の価値に固執する限り、すべての人は「皆同じように滅びる」ことになるのです。

 「また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」。(一三・四〜五)
 イエスは同じことを、最近エルサレムで起こった事件を引き合いに出して語り出されます。シロアムの塔が倒れて一八人が死んだという事件は、他の資料から確認することはできませんが、当時の人々に広く知れ渡っていた有名な事件だったのでしょう。シロアムはエルサレムの南東部にある貯水池です(ヨハネ九・七)。そこにどのような塔があったのかは不明です。水道工事のための塔があったのかもしれません。現代でもよく工事中の事故で死亡者が出ることがあります。そのときに有名であった事件を用いて、イエスは差し迫った終わりの日に備え、悔い改めるように、すなわちイエスが告知される神の恩恵の場に来るように招かれます。


84 「実のならないいちじくの木」のたとえ (一三・六〜九)

 そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか』」。(一三・六〜七)
 いちじくはイスラエルの象徴です。イエスは最後にエルサレムに入られたとき、実のないいちじくの木を枯らすという象徴的な奇跡を行われました(マルコ一一・一二〜一四)。この記事は、マルコとマタイにはありますが、ルカにはありません。その代わり、ルカはマルコとマタイにはないこの語録を伝えて、イスラエルに対する警告としています。

 園丁が「ご主人様」と呼んでいるこのぶどう園の所有者は、そこに植えたいちじくの木がいくら待っても実をつけないので、そのいちじくの木を切り倒せと命じています。このたとえで「ぶどう園」は世界を指し、いちじくは世界の中で選ばれて特別の使命を与えられたイスラエルを指しています。世界の主である創造者なる神は、選ばれたイスラエルに実を求められましたが、イスラエルは神が期待される実を結びませんでした。それで、神はイスラエルを滅ぼすことに決められた、というのです。

 すでに洗礼者ヨハネはイスラエルの民に、「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」と叫んでいました(三・九)。洗礼者ヨハネと一緒に活動を始められたイエスは、かたくなに悔い改めようとはせず、イエスに対する殺意をもって臨むイスラエルに対しては、すでに「切り倒せ」という神の断罪の宣言が下されていることを見ておられました。それは神殿崩壊の預言となって現れます。もうこれ以上無駄に土地をふさがせておくことはない、と主人は判断しています。

 「園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください』」。(一三・八〜九)
 この「切り倒せ」という主人の命令に対して園丁は、手入れすれば来年は実がなるかもしれないという可能性をあげて、「今年もこのままにしておいてください」と懇願します。イエスはエルサレム神殿の崩壊を避けられないものと預言しておられますが、イスラエルが滅びることは望まれず、その滅びに対しては涙を流しておられます(一九・四一)。

 この園丁の姿からは、イスラエルのために執り成しの祈りをするパウロの姿が連想されます(ローマ九〜一一章)。パウロは、「神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束」という諸々の特権を与えられたイスラエルが、福音を拒否し、イエスをキリストと認めないかたくなな罪を糾弾しつつも、「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています」と、命がけで執り成しています。

 パウロは、今一部のユダヤ人が福音に敵対しているのは、それによって福音が異邦人に及ぶためであり、異邦人の数が満ちるとき全イスラエルが救われるという希望をもって、イスラエルのために執り成しをしています。パウロは、神の賜物と召しは変わることがないことを「接ぎ木のたとえ」で語っています。パウロの祈りは、パウロの生存中には実現しませんでしたが、わたしたちキリストの民は、全イスラエルがキリストにあって救われることを祈り続けなければなりません。


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