ルカ福音書講解 13

 

    第一三章 神の国と地上の富

                          ― ルカ福音書 一六章 ―   



はじめに

 ルカは、ガリラヤでの福音活動を描く第一部と、エルサレムでの受難を語る第三部ではほぼマルコに従っていますが、その間に第二部として長い旅行記を置いて、そこをマルコにはない「語録資料Q」の素材や自分だけが持っている独自資料を自由に用いる物語空間としています。その中でも一五章から一六章に至る大きな区分(セクション)は、「放蕩息子」、「不正な管理人」、「金持ちとラザロ」など、ルカだけにある重要なたとえ話が集められていて、ルカ福音書の独自性を強く示しています。

 この区分にあるたとえ話は、この区分の最初に置かれている導入部(一五・一〜三)で「そこでイエスは次のたとえを話された」と明言されているように、イエスを批判するファリサイ派の人々に対する反論として語られたものです。その前半の一五章は、失われたものが見出される喜びを主題としていましたが、後半の一六章では、地上の人間の最大の関心事である富が「神の支配」とどのような関係に立つのかが主題となっています。一六章は、この問題を扱う「不正な管理人」(一〜九節)と「金持ちとラザロ」(一九〜三一節)という二つの大きなたとえ話の間に、この主題に関するイエスの語録集(一〇〜一八節)を置いているという構成になっています。


97 「不正な管理人」のたとえ(一六・一〜一三)

 新共同訳は一三節までをこの標題の下に置いて一つの段落としていますが、「不正な管理人」のたとえは八節までとして、九〜一三節を別の段落として扱うこともできます(岩波版佐藤訳参照)。たしかにたとえそのものは八節で終わっており、九節以下は、このたとえと同じく、富の扱い方を主題とする語録集となっています。おそらくルカは、手許にもっている富に関するイエスの語録群を、富の利用の仕方でほめられた管理人のたとえをモデルケースとして、その後にまとめて置いたものと見られます。

 この「不正な管理人」のたとえは、イエスのたとえの中で解釈が難しく、最も議論の多いたとえの一つですが、世の富について語っている一六章全体の文脈の中で理解するように努めたいと思います。もちろん、イエスの「神の国」告知の枠組みの中で理解されなければならないのは言うまでもありません。


弟子たちへのたとえ話

 イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった」。(一六・一)
 一六章は、一五章から続いていて、イエスが罪人たちと交わり、食事まで一緒にされることに対してなされたファリサイ派の人たちや律法学者たち批判に答えるという状況(一五・一〜三)で語られた言葉です。そのことは、一四節に「この一部始終を聞いていたファリサイ派の人々がイエスをあざ笑った」とあることからも分かります。ファリサイ派の人々も、一五章に続いて以下のイエスの言葉を聞いています。しかし、ルカはここで「弟子たちに言われた」という句を入れて、以下の言葉(一〜一三節)がとくに弟子たちに向かって言われた言葉であることを明らかにしています。

 当時の資産家は、自分の資産を運用して収益をあげる事業を、一人の有能な管理人に任せる場合が多くありました。ここでは、そのような場合がたとえとして用いられています。ある資産家の資産運用を任された管理人が、主人の資産を「散らしている」と訴えられます。おそらく自分の私腹を肥やすために主人の資産の一部を着服したり、ずさんな運用で損失を出したりしたのでしょう。その事実を誰かが主人に告げ口をします。

 「そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない』」。(一六・二)
 ここで主人は「管理の報告」を提出するように管理人に求めます。管理人の職をやめさせることは決めていますが、管理の実態を知り、やめさせる理由をはっきりさせなければなりません。ここで「報告」と訳されている原語は《ホ・ロゴス》です。《ロゴス》はもともと「言葉」という意味の語で、定冠詞付きの《ホ・ロゴス》は、新約聖書では「御言葉、福音の使信」という意味で用いられる重要な語です。しかし、《ロゴス》には「計算、勘定、会計報告、申し開き」という意味もあり、ここで主人は管理人に「申し開き」として「管理の会計報告」を出すように求めています。

 「管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ』」。(一六・三〜四)
 会計報告の提出を求められた管理人は、不正は隠しようがなく、解任を覚悟します。ただ解任された後、どうして暮らしていけばよいのか、その目途が立たず途方に暮れます。対応策を思いめぐらしているうちに、一つ方策を思いつきます。まだ管理人の権限がある間に、その権限を用いて、管理者の職を止めさせられたとき自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ、と思いつきます。

 「そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい』。また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい』」。(一六・五〜七)
 彼はすばやく行動します。管理人を解任されるまでの僅かの期間に、管理人の権限を用いて、自分を受け入れてくれる仲間を作るための行動を起こします。権限を利用して相手に利益を与え、恩を売っておけば、職を失ったとき、相手は何らかの形で返礼をしてくれると期待できます。管理人は小作契約や商取引の証書を管理しています。主人の名で取引を行い、証書を作る権限をもっています。彼は主人に借りのある者を一人一人呼んで、証書にある負債額を少なく書き直させます。

 「バトス」は液体の容量を量る単位で、約二三リットルに相当します。「コロス」は固体の容量を量る単位で、約二三〇リットルに相当します。従来はよく「石」と訳されていました。油(普通はオリーブ油を指す)と小麦は、商取引での負債かもしれませんし、小作契約での負債かもしれません。もし小作契約での小作料とすれば、油一〇〇バトスとか小麦一〇〇コロスは、かなり大きな耕作地の小作料となります。古代の小作料の料率は高く、収穫の半分というケースもありました。その毎年の小作料が、油は五〇%、小麦は二〇%少なくてすむのであれば、小作農家はずいぶん大きな利益を得ることになり、この管理人に大きな恩義を感じることになります。

 この管理人のやり方は、国の資産管理の権限をもつ官僚や、会社の運営を任されている役員が、定年退職でその権限をなくしたときに自分を迎え入れてくれる就職先を確保するために、権限があるうちにそれを利用して、取引先に恩を売っておく姿を思い起こさせます。昔の管理人も現代の官僚や役員も、道義よりも自分の保身を優先する発想は同じです。

 「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている」。(一六・八)
 この管理人のやり方は不正です。それは道義的に許されることではありません。ところが、「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」というのです。この主人は管理人の不正によって大きな損害を受けているのですから、自分に損害を与えた管理人の「抜け目のないやり方」を知ったうえで、それをほめるという態度は理解しがたいものです。この理解しがたい主人の態度がどうして弟子たちに何かを教えるたとえとなるのか、それがこのたとえの解釈を困難にしています。

 ところで、ここで「主人」と訳されている原語は《ホ・キュリオス》です。この語は、ルカ福音書ではしばしばイエスを指すのに用いられています(七・一三、一〇・一、三九、四一、一二・四二、一八・六など)。それで、ここの「《ホ・キュリオス》はほめた」を「主はほめた」と訳し、この「主」はイエスを指すと理解する解釈が出てきます。一八章六節で、「不正な裁判官」のたとえを語られた後、「それから主は言われた」と続いて、イエスご自身がそのたとえの結論を語っておられる例がありますから、ここでも同じように、イエスがこの「不正な管理人」の賢い行動をほめられたと読む理解の仕方も十分成り立ちます。

 それで、この《ホ・キュリオス》がたとえの中の資産家の「主人」を指すのか、またはこのたとえを語られたイエスを指すのかが、このたとえの解釈の最大の争点となります。たとえの中の「主人」でも「主」(イエス)でも、管理人の不正をほめたのではなく、自分の身を守るためにした「賢い」行動をほめたことに変わりはないので、この節の前半の文言からは、どちらであるかを決めることはできません。むしろ、後半の「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている」という言葉との関連が手がかりになります。この言葉はたとえの中の「主人」の言葉ではありえません。弟子たちに対するイエスの言葉としなければなりません。そして、この後半の言葉は前半の管理人の賢い行動をほめた理由ないし目的を示していますので、一体として理解するのが自然です。そうすると、前半の言葉もイエスの言葉だとしなければなりません。

 イエスはなぜ、あるいは何のためにこのようなたとえを語られたのでしょうか。その目的が後半の文で示されています。イエスは弟子たちに、この管理人よりも賢く行動するように求めておられるのです。この管理人が主人の信頼を裏切り、与えられた権限を利用して自分の保身を図った「不正、不義」がほめられているのではありません。彼の本性的な不義にもかかわらず、残された僅かの時を有効に用いて、解雇される危機に備えた「賢い」行動がほめられ、「この世の子ら」が自分の仲間に対して行っているそのような賢い行動以上に、「光の子ら」であるあなたたちは「いっそう賢く」行動するように、と求められているのです。

決算と責任

 この「不正な管理人」のたとえは、わたしたちも決算の日に《ホ・ロゴス》(会計報告、決算書、申し開き書)を提出しなければならない立場であることを思い起こさせます。人間は神に対して責任を負う存在であることを、イエスは「決算」のたとえで語っておられます。「神の支配」は王がその家臣と決算をするようなものです(マタイ・一八・二三)。資産を僕たちに委ねて旅に出た主人は、帰ってきたとき僕たちと「決算」をします(マタイ二五・一九)。管理人は主人に「決算書」を提出しなければなりません。このような「決算」のたとえは、わたしたちが神に対して、すなわち、わたしたちを存在させている方に対して、自分の生き方、在り方に責任を負っている者であることを思い起こさせます。

 人間は自分で存在しているのではなく、わたしを存在させている方によって存在しているのです。その方から「お前はどのように生きたか」、すなわち「わたしが委ねた命や能力をどのように用いたか」と問われるならば、それに答えなければならな立場にあるのです。この「答えなければならない立場」、決算書を提出しなければならない立場のことを「責任」と言います。英語でもドイツ語でも「責任」という語は、「答えなければならない立場」という意味の語です。

 わたしたちの「決算書」は膨大な赤字です。それは、不正な悪しき行為が正しい善い行為よりも多いという意味の赤字ではなく、わたしたちの本性がわたしたちを存在させている方に背いているという根源的な赤字(負債)です。それで、イエスはわたしたちに「わたしたちの負債を赦してください」と祈るように教えられましたが(マタイ六・一二)、同時にこの「不正な管理人」のたとえで、決算の時が迫っている今この時に「賢く」行動するように教えておられるのです。その決算を前にした賢い行動が次節で語られます。

不義の富を用いて友を作れ

 「そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」。(一六・九)
 「不正にまみれた富」と訳されている句は、直訳すると「不義の富」となります。この表現は、先のたとえの「不義の管理人」と同じ表現です。あの管理人は、自分に委ねられた権限を悪用して、主人の債務者に恩を売り、自分に味方していくれる友を作ることで、自分の身の安全を図りました。彼は「不義の富」を用いて、自分を助けてくれる友を作ったのです。イエスは「そこで」と言って、この「不義の管理人」がしたように、あなたたちも「不義の富」を用いて友を作れ、と勧告されます。「わたしは言っておく」の「わたし」は強調されています。「そこで、このわたしもまた(=さらに)言っておく」という感じです。

 「不義の富」というのは、富を得る手段が正しいか不正であるかという問題ではありません。不正な手段で獲得した富はもちろん、どのように正しい手段で得た富であっても、人間がそれを自分が自由にできる自分の所有物だとするとき、それは「不義の富」となります。さらに、「富」というのは財産とか所有物だけでなく、才能や知識、またそれで得た地位や名誉など、地上で人間が価値あるものとしているものすべてを指しています。それらは本来神のものであって、人間はそれを神の栄光のために、具体的には隣人に仕えるために用いるように、神から委ねられているのです。だから、わたしたちがそれを自分が獲得したものだから自分のために用いるのは当然だとするとき、それらの価値あるものはすべて「不義の富」となります。

 先のたとえでは、解雇されて収入がなくなった管理人を自分の家に迎え入れてくれるのは、管理人に助けてもらった負債者です。それをたとえとして、イエスは「永遠の住まい」に迎え入れてくれる友を作れ、と勧告しておられます。「永遠の住まい」に迎え入れてくれるのは、人間ではなく神です。したがってイエスは、不義の富を用いて神を友とするように生きよ、と勧告しておられることになります。自分に賜っている(委ねられている)一切のよきものを、自分のために用いるのではなく、神のために用いて、神に喜ばれる友として生きよ、と言っておられるのです。世の人たちが自分の危機に対処する機敏なやり方を見て学べ。あなたたちは彼ら以上に真剣にかつ敏速に決算の日に備えよ、と言っておられるのです。わたしたちが世を去るとき、または終わりの日が突如臨むとき、一切の富は無くなります。そのことが「金がなくなったとき」という句で指し示されています。自分が持っているものは何もないのです。あるのは自分だけ、自分と神との関係だけです。その時、神を友としうるように、現在の富を用いることが人生緊急の課題です。
 このことが、さらに続けて一〇節から一三節にかけて言葉を尽くして(=伝承された語録を集めて)説かれます。

神と富に兼ね仕えることはできない

 「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である」。(一六・一〇)
 これは当時のことわざ、あるいは格言が引用されているものと考えられます。それは、次節の内容を言うための準備です。次節は、この格言の適用として、「だから」という語で始まります。

 「だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか」。(一六・一一)
 前節に引用された格言が言っているとおり、「ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実でる」のだから、「不義の富の使い方で不忠実な者」は、大きな事、すなわち「本当に価値あるもの」に不忠実な者として、「本当に価値ある」霊的事態を神から委ねられることもない、ということになります。この節は直訳すると、「だから、あなたたちが不義の富に忠実にならなければ、誰があなたたちに《ト・アレーシノン》(真なるもの)を《ピステウオー》する(任せる、委ねる)だろうか」となります。

 《ト・アレーシノン》(真なるもの)は、ヨハネ福音書がよく用いる名詞の《アレーセイア》とほぼ同じで、新約聖書では空しいもの、象徴にすぎないものに対して、霊的なリアリティーを指します。たとえば「まことのパン」(ヨハネ六・三二)とか「まことのぶどうの木」(ヨハネ一五・一)、また「真の幕屋」(ヘブライ八・二)というときの「真の」という形容詞を用いた表現です。このような霊的現実を与えられて、福音がもたらす霊的・終末的現実に生きる者は、地上の富の使い方についても、神の御心に忠実でなければならない、とこの語録は説いています。

 「また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか」。(一六・一二)
 この節は、一〇節に引用された格言の「小事に忠実でない者は、大事にも忠実でない」を、「他人のもの」と「自分のもの」とに適用しています。他人のものに忠実でない者は、自分のものにも忠実でないのだから、誰が(他人のものに忠実でないような者に)自分のものを与えてくれるであろうか、という意味になります。他人のものに忠実でない者は、性格が真実でないことを示しており、そのような者は自分のことも含め万事に忠実でない、という論理が前提されているようです。

 一一節との並行関係からすると、ここの「他人のもの」は、神から与えられた本来神のものである富を指しており、「あなたのもの」は本来自分に属するべき永遠の命とか自分が生きる《ト・アレーシノン》(真なるもの)を指している、と理解すべきでしょう。本来自分のものではない富の使い方について忠実でない者には、永遠の命のように自分に固有であるべきものについても忠実ではないので、《ト・アレーシノン》(真なるもの)は与えられない、と言っていることになります。

 「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」。(一六・一三)
 ここまでルカは自分だけが持っている特殊資料を用いてきましたが、この段落の結論には「語録資料Q」の語録を用いています。並行するマタイ六・二四の文と較べると、マタイが冒頭の言葉を「だれも」としているところを、ルカは「召使い」を入れて、「どんな召使いも」としているところが違うだけで、他はすべて(原文で)字句通りに一致しています。マタイとルカが共通のギリシア語の文書資料を用いていることは明らかです。ルカが「召使い」を入れたのは、この節を「不正な管理人《オイコノモス》」で始まる段落の結論として用いるために同系の《オイケテース》(召使い、家内奴隷)という語を用いたからだと考えられます。

 この段落(一六・一〜一三)で、「富」と訳されているギリシア語原語はすべて《マモーナス》です。これは、アラム語の《マーモーン(またはマーモーナ)》を音写したギリシア語です。アラム語の《マーモーン》の由来はよく分かりませんが、ヘブライ語の《アーメーン》(確かな)と関連があるのではないかと見られています。アラム語では(「頼れるもの」という意味からでしょうか)「富」を指す語として用いられていました。ユダヤ教文献では、「不義のマーモーン」という用例が多く、不正な手段で得られた富が断罪されています。

 この結論をなす節では、「富」を意味する「マモン」は擬人化されて用いられ、人に仕えられることを要求する主人として、神と対抗しています。イエスは「富」を絶対的な価値として追求する生き方を、「マモンという偽りの神に仕える」こと、まことの神に仕えることと両立しないこととして、断固退けられるのです。

 このことが、当時の奴隷制社会において、奴隷が主人に仕える生活をたとえとして語られます。奴隷は一人の主人に仕えて、全面的にその主人の命令に従わなければなりません。ある面では(または、ある時は)主人に従い、他の面では(または、他の時には)他の主人の命令に従うというような、「二人の主人に仕える」ことは奴隷には許されません。ここで、「愛する」とか「憎む」、また「親しむ」とか「軽んじる」というような感情を示す語が用いられています。本来、主人と奴隷の間に感情が入ることは許されません(憎んでいても従わなければならないのです)が、よい主人に恵まれれば、奴隷が心から主人を愛し親しみ、主人と対立する他の奴隷所有者を憎み軽んじることもありえます。その時、「主人に仕える」ことは完全になります。

 このように、奴隷が「主人に仕える」ことをたとえとして、人が「神とマモンに兼ね仕えることはできない」という命題が提示されます。これは「兼ね仕えるべきでない」という命令とか勧告ではなく、「それはできないことだ」という事実の提示です。それは、神とマモンは完全に対立し、相容れない原理だからです。

 では、「マモンに仕える」ことと対立する「神に仕える」とはどういう生き方でしょうか。経済活動を軽視したり放棄して、宗教活動に熱心に励むことでしょうか。そうではないと思います。「神に仕える」とは、具体的には、神が求めておられることを追求すること、すなわち隣人を愛すること、隣人に仕えることであると考えます。人間を人間として尊び、人間の尊厳に仕えることであると思います。「マモンに仕える」ことと「神に仕える」ことの対立は、具体的には、経済的価値を絶対的なものとして追求する生き方と、隣人を愛することによって人間の尊厳に仕える生き方の対立です。

 現代文明は経済的価値を神として拝み、その神マモンを拝むために人間の尊厳を犠牲として捧げてきました。イエスの言葉は、このような現代文明に対する痛烈な批判であり、これからの進路を指し示す指針です。経済的価値にかぎらず、人間の尊厳以外のものを絶対化し、究極の価値として追求する社会は厳しい審判を招くでしょう。政治も経済も、人間の尊厳、人格と人権の尊重に仕えることが、神の祝福を受ける道です。


 

98 律法と神の国 (一六・一四〜一八)

人に尊ばれるもの

 金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。(一六・一四)
 この段落の困難な問題点は、全体としてはこの世の富に対する姿勢とか心構えを説く一六章の真ん中に、このような律法に関する語録が置かれているのはなぜか、という問題です。この問いに対する答えは、この段落の終わりに改めて取り上げますが、ここでは差し当たって、「金に執着するファリサイ派の人々」という表現が、この段落を富に関する一六章の中に組み入れていることを見ておきます。

 弟子たちに世の富に対する心構えを説かれたイエスの言葉(一〜一三節)を傍で聴いていたファリサイ派の人々が、イエスを「あざ笑い」ます。この動詞は、ここと議員たちが十字架につけられたイエスをあざ笑ったところ(二三・三五)の二カ所だけに用いられています。彼らは「金に執着する」者たちであったので、イエスが弟子たちに説かれた、富にではなく神に仕える生き方を嘲笑します。現在でも、イエスに従おうとする弟子の生き方を、世の人たちは非現実的だとか、世間知らずと嘲笑します。

 ファリサイ派の人々がイエスをあざ笑ったのは、彼らが「金に執着する」者であったからだと、その理由が示されています。当時のユダヤ教諸派の中でファリサイ派がとくに金銭欲が強かったことを示す資料はありません。ここではそういう意味ではなく、表面は宗教熱心(律法熱心)を看板にしているファリサイ派の人々が、人間としての本性的な自己愛からくる金銭への執着を免れてはいず、イエスの言葉に反発したことを指していると考えられます。

 そこで、イエスは言われた。「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ」。(一六・一五)
 イエスは嘲笑するファリサイ派の人々の実態を見抜いておられます。彼らの律法熱心は周囲の人々に自分の義を見せびらかすためのもので、その内面において、すなわちその「心」において、自己愛からくる金への執着を断ち切ってはいないことを、イエスは見抜いておられます。それを「神はあなたたちの心をご存じである」と表現されます。

 「神は(外面ではなく)心を見る」というのは、旧約聖書の基本的な神理解の一つです(サムエル記上一六・七、列王記上八・三九、詩編七・一〇、箴言二一・二など)。イエスは、このイスラエル本来の神理解から、当時のファリサイ派の人々を人間の前で自分を義とする者だと、彼らの在り方を痛烈に批判されます。このイエスのファリサイ派批判は弟子たちに引き継がれ、後に(とくに七〇年以後に)ファリサイ派がユダヤ教を代表するようになったとき、キリスト信仰共同体がユダヤ教会堂を「偽善者」と決めつけて激しく批判するようになります(たとえばマタイ二三章)。

 最後の文で、「人に尊ばれるもの」は、この文脈では富を指しているようにも見えますが、「神は心を見られる」という原則からすると、神が忌み嫌われるものは富そのものではなく、富によって人から尊ばれることを求める人間の心(虚栄)であり、人から尊ばれることで自分が価値ある者だとする傲慢、あるいは人に尊ばれるために「人に自分の正しさを見せびらかす」偽善であると言えます。


「神の国」が告知される時代

 「律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている」。(一六・一六)
 一四〜一五節はルカだけにあるファリサイ派の人々との対話ですが、この一六節はマタイ(一一・一二〜一三)に並行記事があり、「語録資料Q」から採られたものと見られます。しかし、ルカの文はマタイの文とかなり違っており、ルカの文だけで聴くと比較的理解しやすいのですが、マタイと較べると困難な問題が生じます。ルカの文の意味を理解するために、はじめにマタイの文と比較して見ます。マタイではこうなっています。

 「 12 彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。13 すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである」。(マタイ一一・一二〜一三)

 マタイの文は、「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった」と言って、イエスが群衆に洗礼者ヨハネについて語られた言葉の中に置かれています。この文で「力ずくで襲われている」と訳されている《ビアゾマイ》という動詞の意味が問題です。《ビアゾマイ》は《ビアゾー》(暴力をふるう)という動詞の受動態で「暴力を受ける」という意味です。ところがこの動詞の主語が「天の国」(=「神の国」)ですから、天の国が暴力を受けるという意味は理解しがたいとして、この動詞形を自動詞的な意味で用いられる中動相として、「力をふるっている」とか「力をもって突入している」と理解する解釈があります。

 しかし、この解釈は、続く文の「暴力をふるう者《ビアステース》がそれ(天の国)奪い取っている」という文と整合しません。暴力的に突入してきている「神の国」を暴力的に奪うということは整合しません。第一の文と第二の文の「暴力をふるう」者は同じとするのが自然です。それに、《ビアゾー》(暴力をふるう)という動詞は、つねに敵対的な暴力とか攻撃・非難を意味していますから、「神の国」が暴力をふるうというのも、暴力をふるう者が「神の国」に入るというのも不自然です。

 ここはやはり理解困難な訳ですが、「暴力をふるう」という敵対的な暴力を指す語をそのまま訳し、「天の国は暴力をふるわれている。そして、暴力をふるう者がそれを奪っている」と直訳するのが適切でしょう(岩波版佐藤訳を参照)。するとこの文は、「彼(洗礼者ヨハネ)が活動し始めたときから今に至るまで」、すなわちイエスの時に至るまで、「神の国」を告知する活動は激しく暴力的に攻撃されており、暴力的に攻撃する者が、(ヨハネやイエスが告知する)神の国を民から奪い取っている、という意味になります(動詞は現在形)。

 このイエスの言葉を伝承したQ共同体も、周囲のユダヤ教社会から激しい反対を受けていました。彼らにとって「今に至るまで」は、自分たちの時代までを意味したことでしょう。「語録資料Q」は洗礼者ヨハネとイエスを共同の戦線に立つ同志として描く傾向があります。洗礼者ヨハネの告知とイエスの「神の国」告知は、同じ終末的成就の時期における出来事とされます(もちろん、その中でヨハネは先駆者であり、イエスこそ成就者であるという面も強調されています)。Q共同体にとっては、洗礼者ヨハネが活動し始めた時から自分たちの今に至るまでは同質の時、終末的成就の時であり、その時期には「神の国」告知の活動は激しい攻撃にさらされており、「神の国」告知は暴力的に奪取されています。マタイはこの語録をそのように理解して、イエスが(権力者の暴力を受けて投獄されている)洗礼者ヨハネについて語られた講話(マタイ一一・七〜一九)の中に組み入れて伝えています。

 一方ルカは、「語録資料Q」にあるこの語録をかなり書き換えて理解しやすいようし、別の文脈に置いています。マタイではなくルカが書き換えたことは、第一の「神の国」を主語とする文で、マタイの「暴力をふるわれている」という動詞とルカの「福音されている」という動詞を較べれば明らかです。「福音する」という動詞はパウロ系の福音活動において用いられる動詞であって、Q共同体では用いられていません。終末的な救済を告げ知らせる活動を、「福音」とか「福音する」という用語を中心に据えて語ったのはパウロであり、パウロなき後エーゲ海地域でパウロの働きを継承したパウロ系の共同体です。パレスチナ・シリアの地で活動したQ共同体には疎遠な用語です。「語録資料Q」には用いられていません。パレスチナから遠く離れ、もはやQ共同体の状況と関わりのない状況で異邦人に向かって著作しているルカは、この理解しがたくなっている語録を、読者に理解しやすい表現に書き換えます。「神の国」は「暴力を振るわれる」のではなく、「(力をもって)福音される」のです。「神の国」はイエスによって力ある業をともなって福音されているのです(四。四三)。

 それに伴って第二の文も書き換えられます。「暴力をふるう者」という主語は「すべての者」となり、「奪い取っている」という動詞はなくなり、代わりに「暴力をふるう者」という名詞が「暴力をふるう」という動詞形で用いられ、しかも「それ(神の国)の中へ」という方向を示す句を添えて用いられて、「(力ずくで)神の国に突入している」という意味になっています。

 こうしてルカの文は、「神の国」の福音が力強く告知され、すべての者、すなわちすべての民族の異邦人たちが、困難な状況にもかかわらず熱烈な信仰をもって「神の国」に入ってきているルカの時代の状況を描く文になります。そして、このルカの理解がその後のキリスト教会の理解に決定的な影響を及ぼします。マタイの方も、このルカの理解の線上で解釈され、(先に見たように)「神の国は暴力をふるわれている」は「神の国は力をふるっている」とか「神の国は力をもって突入している」と解釈され、後半の「激しく襲う者がそれを奪い取っている」は、「激しく(=熱心に)追求する者が神の国に入っている」と解釈されます。

 この理解の仕方の違いと関連して、洗礼者ヨハネの救済史上の位置についても、マタイとルカでは違いが見られます。ルカは「律法と預言者は、ヨハネの時までである」とし、「その時から(イエスによって)神の国の福音が告げ知らされ」、新しい時代が始まったとしています。すなわち、ヨハネまでの律法と預言者の時代と、イエスから始まる終末的成就の時代を区別しています。それに対して、マタイは「彼(ヨハネ)が活動し始めたときから今に至るまで」、すなわち洗礼者ヨハネの活動の時期からイエスの時代、またマタイの時代までを、同じ終末的成就の時代に含ませています。その上で、「すべての律法と預言者が預言したのは、ヨハネの時までである」として、ヨハネまでの時代をイエス到来の預言とし、ヨハネを最後の預言者エリヤであると意義づけています(マタイ一一・一二〜一四)。

 「神の国は力をもって突入している」という理解は、われわれのイエスの「神の国」告知の質の理解と合致し、「激しく(=熱心に)追求する者が神の国に入っている」という宣言は説教の主題として魅力的です。しかし、福音書のテキストの理解は、ここで不十分ながら試みたように、マタイとルカのテキストを厳密に比較検討してなされなければなりません。その上で、このイエスの語録が現代に語りかける内容を議論することが可能になります。

 ところで、伝承された語録をルカのように書き直して理解しやすいようにした場合、イエスの「神の国」告知の基本的な内容との整合性が問題になってきます。イエスは「神の国」を終末的な恩恵の支配の到来として告知されました。イエスの「神の支配」の告知では、圧倒的な恩恵の支配が人間の側の状況や条件を吹き飛ばして、イエスを信じ、ひれ伏して恩恵を受ける者を無条件に受け入れ、「貧しい者は幸いだ。神の国はあなたたちのものだ」と宣言されます。このようなイエスの「神の国」告知に対して、この語録のルカの理解はどのような関係になるのでしょうか。ルカによるとこの語録は、力を尽くして(原文では「暴力をふるって」)神の国に入るように促しています。これは、イエスの恩恵の支配の告知と方向が逆のように感じられます。

 しかし、イエスの「神の国」告知には、力のない者(無能力の者)を無条件で受け入れる恩恵の面とと共に、「神の国」の現実に入ることの難しさを語る言葉もあります。イエスは、「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」と言っておられます(一三・二四)。ここに用いられている「努める」という動詞《アゴーニゾマイ》は、競技のとき力を尽くして奮闘することを指す動詞で、パウロはよく用いていますが(コリントT九・二四〜二七など)、福音書ではここだけです。また、イエスは「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか」と言われたとも伝えられています(マルコ一〇・二四)。

 この両面、すなわち「神の国」は無条件の恩恵の支配であるから誰でも入ることができるという面と、「神の国」に入ることの難しさの両面は矛盾しません。「神の国」は誰でも入れるのですが、この地上で「神の国」の現実を歩み抜いて、それを全うして終末的な「神の国」の栄光に到達することは困難な課題であり、それに達するためには、競技選手が力を尽くして奮闘するように、身を挺して努めなければならないのです。このことをパウロはこの《アゴーニゾマイ》という動詞を用いて繰り返し語っています。「狭い門、細い道」(マタイ七・一三〜一四)の語録も、この難しい面を語っています。
 ただ、ルカ一六章一六節の場合、《アゴーニゾマイ》ではなく「暴力をふるう」という動詞が用いられているので、ここはやや不自然な表現になっていることは否定できません。直訳すると、「すべての者が神の国の中へと(神の国の方へと)力をふるっている」となります。「暴力をふるう」という動詞を使ったのは、依拠した元の語録の動詞を生かすためであったと考えられますが、そのために不自然な表現になっています。このことを理解した上であれば、ルカの書き換えも受け入れることができます。

律法の位置

 「しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい」。(一六・一七)
 前節(一六節)で、律法はヨハネの時までであり、その後では(イエスによって)神の国が福音されていると宣言した後を承けて、本節で、それでは律法は(「神の国」の福音が告知されているところでは)もう意味が無くなったのかという問題、福音と律法の関係の問題が取り上げられます。
 ルカは「しかし」という小辞で、前節の誤解を防ぐ文を導入します。前節は、ヨハネの時までは律法は有効であったが、イエスによって「神の国」の福音が告知されている今は、もはや律法は必要がないと理解される可能性があります。それに対して、ルカは「語録資料Q」の語録を用いて、律法が永遠に有効であることを宣言します。

 この言葉はマタイ(五・一八)に少し違った形ですが並行記事があり、「語録資料Q」から採られています。Q共同体が伝承したこの語録は、ユダヤ教内キリスト信仰のユダヤ人共同体がユダヤ教律法に対して抱いている確信としては当然であり、その流れを汲むマタイがそれを基本的な立場として宣言するのも自然ですが、ルカの場合はどういう意味を持つのでしょうか。ルカは、律法の外での救済を唱えて異邦人の間に福音を告げ知らせたパウロの流れに属する者であり、ユダヤ教の枠の外でキリストを信じて生きている異邦人のためにこの福音書を書いています。そのルカがマタイと同じように、律法の永遠性を宣言する語録を採り入れていることは、どう理解すればよいのでしょうか。

 第一に考えられることは、ルカの歴史家としての誠実さです。ルカは各地を巡り歩いてイエスに関わる伝承を集め、それを資料としてできる限りイエスの出来事に忠実な物語を書こうとしました。その中に「語録資料Q」があり、その中に伝えられているイエスの語録は残らず伝えようとします。前節の書き換えに見られるように、ルカは読者である異邦人信者に、あるいは周囲のヘレニズム世界の知識人に理解されやすいように変更を加える場合もありますが、「語録資料Q」を資料として用いる限り、律法に関わるユダヤ人の確信や、「人の子」に関する黙示思想的な語録など、異邦人には縁遠い語録や思想も忠実に採り入れることになります。

 第二に、パウロの時代と状況が大きく変わっているという事実があります。パウロは、異邦人信者に割礼を求めるユダヤ主義者と生涯戦わなければなりませんでした。そのためパウロは、ユダヤ教律法が相対的なものである(救いのために絶対的に必要なものではない)ことを激しく主張しなければなりませんでした。しかし、七〇年以後は状況が変わります。ユダヤ教内キリスト信仰の牙城であるエルサレム共同体は舞台から退場し、異邦人信者に割礼とかユダヤ教律法の順守を要求する勢力はなくなります。ユダヤ教律法との葛藤は消滅します。異邦人が救済史の担い手となる「異邦人時代」が始まっています。この時期に成立したコロサイ書やエフェソ書には、律法という用語さえ出てきません。
 ルカはこの時期の最後の頃に著作しています。もはや異邦人共同体にユダヤ教化を求める勢力はなく、むしろ異邦人信者が周囲の異教社会の悪習に逆戻りしたり埋没しないように、ユダヤ教の高い倫理性を受け継ぐことが目指されるようになります。そのことは、この時期のキリスト信仰を証言するコロサイ書やエフェソ書がよく示しています。

 こうして、パウロの時代にはパウロを批判する勢力のスローガンであった律法の永遠性を宣言する語録も、今や異邦人共同体にユダヤ教の高い宗教倫理を要求する根拠として用いることができるようになっています。ユダヤ教律法は、聖書の神が人間に求めておられる在り方を啓示するものとして尊重されます。その中でとくに強調されたユダヤ教宗教倫理は、偶像礼拝を避けることと性関係における秩序です。そのような文脈で見ると、次節の離縁に関する語録が唐突にここに置かれている理由も理解できます。それは、ユダヤ教律法が求めている異教世界とは異なる高い倫理の一つの実例なのです。

離婚について

 「妻を離縁して他の女を妻にする者はだれでも、姦通の罪を犯すことになる。離縁された女を妻にする者も姦通の罪を犯すことになる」。(一六・一八)
 最初期の共同体が生活していた異教のローマ社会では、性関係は乱れ、離婚はごく日常的な出来事でした。その中でキリスト者共同体は、ユダヤ教の性倫理を継承して厳しい姿勢を維持しました(ローマ一・二四〜二八参照)。この離婚して再婚する行為を姦通の罪とする語録は、「神の国」の福音の場でもユダヤ教律法がいっそう厳格に適用されることを主張しています。それは、前節の律法の永遠性の宣言の具体例です。

 ユダヤ教律法(=モーセ律法)は、夫が妻に離縁状を渡して離縁することを認めていました(申命記二四・一〜四)。ただ離縁する理由についてラビたちの間で論争があっただけです。しかし、律法学者がこの律法規定を持ち出して離縁について質問したとき、イエスはこう答えて、離縁はあってはならないこととされました。

 「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」。(マルコ一〇・五〜九)

 この「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」というイエスの言葉によって、キリスト者共同体は離婚をあってはならないこととしてきました。それは、一定の理由で離婚を認めるモーセ律法との違いを示しています。その違いは、律法の場と恩恵の場の違いです。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ」というイエスの言葉が示しているように、離婚を認めるモーセ律法は(そしてどの国の法律も)、人間本性の「心のかたくなさに向かって」(直訳)、すなわち、人間本性の自我心から生じる悲惨な状況の中で、正義を守り、秩序を維持し、弱い女性や子供を保護するために書かれているのです。それに対してイエスは、恩恵によって人間本性の自我性を克服して生きる場で起こることを語っておられます。その場では創造者なる神が二人を結び合わせてくださっているのだから、その結びを人間が切り離すことはありえないのです。

 離婚についてのルカ福音書のこの記事(一六・一八)の最大の問題点は、(他の福音書の並行記事との用語や表現の違いではなく)離婚に関するイエスのこの原理的な言葉を含む段落(マルコ一〇・二〜九)を全部省略し、伝えていないことです。マタイ(一九・三〜一二)はマルコの記事を用いています。ルカには、マルコでは弟子たちに後で語られた言葉(マルコ一〇・一〇〜一二)だけが、少し違った形であるだけで、離婚をありえないこととして原理的に否定するイエスの言葉はありません。

 恩恵の場ではありえない離婚も、現実の人間生活では問題として起こってきます。キリスト共同体に所属する者も、様々な過去と状況を背負っています。信仰に入ったがゆえに夫婦間に決定的な亀裂が入る場合もあります。そのような現実に対して、すでにパウロは現実的な指針を与えています(コリントT七・一〇〜一六)。このような実際的な状況に対応するために、共同体は成員の結婚や離婚に関する指導を法文として整備するようになります。それが伝承されて、現在各福音書に保存されているような離婚に関する規定となって伝えられることになります。ルカのこの箇所(一六・一八)も、その一つの場合です。

 ルカはマルコを資料として用いています。そうすると、マルコ(一〇・二〜九)にある離婚に関するイエスの重要な発言をなぜ伝えなかったのかが問題になります。その理由を理解することは困難ですが、あえて推察すると、最初期共同体は恩恵の場で成り立つイエスの離婚否定の言葉の真意を理解できず、それを律法的に(共同体の法文として)理解したため、それに耐えられず、例外規定を付け足したり、特定の場面に限定したり、様々な制限をつけて福音書に保存したのではないかと考えられます。ルカの場合は、妻を離縁して他の女と再婚する男性(ギリシア教父にはここを「他の女と再婚するために妻を離縁する者」と解釈する人もいるということです)、および離縁された女性を妻とする男性というように、男性の特別の場合に限定しています。そのように限定するために、離婚を全面的に禁じたと受け取られていたイエスの言葉を省いたのではないかと推察されます。

 そうだとすると、わたしたちは恩恵の場に生きる者として、「神が合わせられたものを、人が離すことはありえない」とされたイエスの言葉の現実に生きるべきであって、その現実の場以外のところで起こる悲劇、離婚せざるをえないような人間関係の亀裂は、「人の心のかたくなさに向かって」立てられた社会の法律に委ねざるをえません。

 

99 金持ちとラザロ(一六・一九〜三一)

陰府(よみ)と地獄

 イエスが語られた言葉の中で、ここで珍しく死後の世界のことが語られています。ここでイエスが語られた言葉の意味を理解するために、当時のユダヤ教の人々が死後の世界をどのように考えていたのか、使われている用語を手がかりにして見ておきます。

 人類は太古の昔から、死者は無に帰するのではなく、この世界とは別の世界に行くのだと考えてきました。その別の世界は天空にあるとも地下にあるとも考えられていましたが、地下の場合の方が多いようです。人が死後に行く世界は、民族によりさまざまな言葉で呼ばれています。イスラエルでは「シェオール」、ギリシャでは「ハデス」、ゲルマンでは「ヘル」、そして日本では「陰府(よみ)」、「黄泉国(よみのくに)」、「根(ね)の国」などと呼ばれています。これらはみな地下の国です。もともとそこには善悪の区別はありません。そこは喜びも苦しみもない影のような世界です。善人も悪人も死ねばみなそこに行くのです。

 ところが、人間の宗教思想の進展に伴って、因果応報や審判の観念が加わり、地上で悪を行った者は死後の世界で苦しみを受けるという「地獄思想」が形成されるようになります。インドでは「ナラカ」(地下の牢獄、日本語では奈落)に八熱地獄と八寒地獄があるとされ、中国では民間信仰の死者の国である「泰山」が仏教の影響で組織化された呵責の場所としての地獄に変貌します。日本では、古来の黄泉国に仏教を通して入ってきたインドと中国の宗教思想が影響して地獄の観念が発達します。その頂点は有名な源信の「往生要集」でしょう。そこには想像しうるかぎりの責め苦が描かれています。ギリシャでも、最後の段階では「ハデス」は罪を犯した者に対して罰と浄化を課す地獄になっております。

 イエスは希望としての神の国を語られると同時に、地獄のことも真剣に語っておられます。イエスは「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」と言っておられます(マタイ一〇・二八)。その真剣さは、「もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい」とか、「もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい」というような言葉によく表れています(マルコ九・四三〜四七)。ここで、「地獄に落ちる」とか「地獄に投げ込まれる」ことが、「命にあずかる」とか「神の国に入る」ことの反対として、身体の一部を失うことよりも真剣な問題として語られています。

  旧約聖書では、死者が赴く地下の世界は「シェオール」と呼ばれています。そこは神から遠く離れた、影のような存在のための場所と考えられていました。そこには審判とか罪の罰としての責め苦というようなものはありません。ところが、新約直前の時代になると黙示録的終末信仰が盛んになり、そこでは最後の審判がゲヒンノム(ヒンノムの谷)の火で象徴されて語られるようになります。

 ヒンノムの谷というのはエルサレム西南にある谷で、昔そこでモロクの神に子供を火で焼いて供えるという祭儀が行われたので不浄の土地とされ(エレミヤ七・三一〜三二)、この時代には不浄物を焼く火が絶えることがなく悪臭のただよう谷になっていたのです。この「ゲヒンノム」がそのままギリシャ語で用いられて「ゲヘナ」となります。ですから、「ゲヘナ」とは最終的な審判によって定められる永遠の地獄を意味することになります。

 一方、すべての死者が赴く地下の世界「シェオール」には、ギリシャ語訳旧約聖書ではつねに「ハデス」という用語が用いられてきました。このように「ハデス」(陰府)と「ゲヘナ」(地獄)は基本的に違う事柄を指しているのです。「ハデス」はすべての人が死後に入って行く世界であり、それは最後の審判または復活の時まで存続する中間期的な世界です。「キリストは陰府に降り」と言われる時の「陰府」は、このような中間期の死者の世界です。それに対して「ゲヘナ」は最終的な審判によって永遠に神の呪いに定められた者が落ちる終末的な苦悩の場を指しています。

 ところが、この「ハデス」の方も二つに区分されるようになります。一つは神に祝福された義人の魂が入る所であり、イスラエルでは「アブラハムのふところ」と呼ばれ、貧しいラザロが入っていった所です。もう一つは、罪深い悪人が入る所で、そこでは火に焼かれるような苦しみがあるとされます。ラザロを憐れまなかった金持ちが落ちた所です。この苦悩を伴う死後の世界に「ハデス」(陰府)という名がそのまま用いられることになります。これが狭い意味での「ハデス」です。イエスが「カファルナウム、お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ」(ルカ一〇・一五)と言われた時の「陰府」も、この狭い意味での陰府を指しています。

パラダイスと神の国

 この狭い意味での「ハデス」、すなわち苦しみの死後世界である「陰府」に対して、祝福された死後の世界は「パラダイス」(新共同訳では「楽園」)と呼ばれます。イエスは十字架の上で、横で十字架にかけられている者に、この語を用いて、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園(パラダイス)にいる」(ルカ二三・四三)と言っておられます。

 《パラディソス》(英語ではパラダイス)というのは、「(壁で囲まれた)園」を意味するペルシャ語から借用されたギリシャ語で、七十人訳ギリシャ語聖書や初期ユダヤ教においては、まず創世記二章の「エデンの園」を指す用語でした。それはたしかに楽園でした。そして、預言者やユダヤ教黙示文学は未来の祝福を、アダムの罪によって失われた楽園が終わりの日に回復することだと表現しました(エゼキエル三六・三五、イザヤ五一・三など)。初めの時のパラダイスが終わりの時に再来するという希望です。それだけでなく、このパラダイスはすでに現在隠された形で存在しており、アブラハムをはじめとする父祖たちや、エノクやエリヤような義人たちがそこにいると、ユダヤ教では信じられていました。初期にはすべての死者は「シェオール」に行くと考えられておりましたが、後期には不信心な魂は「シェオール」へ、義人の魂は「パラダイス」へ行くと信じられるようになっていたわけです。ですから、パラダイスには初めの時のパラダイス、終わりの時のパラダイス、現在の隠されたパラダイスという三つの相があることになります。

 新約聖書でもこの三つの相でパラダイスが取り上げられています。初めの時のパラダイス、すなわちエデンの園は直接には言及されていませんが、当然のこととして前提されています。終わりの時のパラダイスについては、ヨハネ黙示録(二・七)で、「耳ある者は、御霊が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者には、神の楽園(パラダイス)にある命の木の実を食べさせよう」と言われています。この他、黙示録では新しいエルサレムは再来のパラダイスとして描かれています。現在の隠された相のパラダイスについては、パウロが触れているところがあります。パウロは「彼は楽園(パラダイス)にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです」(コリントU一二・四)と、他の人のような言い方をしていますが、これは「第三の天にまで引き上げられた」パウロ自身の体験を語っているわけです。イエスが十字架の上で「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた時も、この相のパラダイスを指しておられます。

 このように、地獄(ゲヘナ)と陰府(ハデス)が違うものであるように、「神の国」と「パラダイス」とは違うのです。「神の国」と「地獄」は終末的な現実であって、神と人間の関わりの最終的な形態です。神の国は祝福された形態であり、地獄は絶望の姿です。それに対して、「パラダイス」と「陰府」は死者の魂が赴く世界であって、最終的な決定がなされるまでの中間期の形態です。その中で祝福された場がパラダイスであり、苦悩の場が陰府となるわけです。
 このような死後の世界についての観念はファリサイ派のもので、ギリシア思想の影響を受けて形成されたヘレニズム期ユダヤ教の特色を示しています。イエスの時代のユダヤ教徒はほぼこのような死後世界をこのように考えていたのであり、イエスはその観念を前提にして、「金持ちとラザロ」のたとえ話で福音の真理を説いておられます。

 このように、聖書においては「神の国」と「パラダイス」とは違った現実を指しているのですが、この二つの概念はしばしば混同されているようです。とくに日本語では、「天国」という曖昧な用語が混乱をひどくしているようです。普通日本語で「天国」というと、すべての死者が赴く死後の世界のことが考えられているようです。この世で結ばれなかった恋人が死んで天国で結ばれるというように言われます。昔は地下にあった黄泉の国が、近代になってキリスト教の影響からか天に移ったようです。しかも、「天国」は苦しみのないよい所であるとイメージされていますから、これは聖書のいう「パラダイス」に近いわけです。ただ日本人が言う「天国」は義人も悪人もみな入る所ですから、この点で「パラダイス」とは違います。

 ところで、イエスが宣べ伝えられた「神の国」を、マタイ福音書が当時のユダヤ人の習慣から「神」という用語を避けて「天」を用いて「天の国」と表現し、それを日本語訳聖書が「天国」と訳したことから、混乱が生じたようです。この訳によって、イエスは、日本人が勝手に想像している死後の祝福された世界である「天国」を宣べ伝えた人物であるという誤解や、「神の国」と「パラダイス」の区別がつかなくなるという混乱が引き起こされたようです。新共同訳が「天国」という訳語を避けて「天の国」としたのは、この混乱を避けるためだと思われます。

生前(現世)と死後(来世)の逆転

 「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」。(一六・一九)
 このたとえ話は、誰に語られたのかを示す前置きなしで、突然始まります。おそらくルカの元の構成では、「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。そこで、イエスは言われた。『あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ』」(一六・一四〜一五)という言葉に続いていたのではないかと考えられます。ところが、イエスをあざ笑ったファリサイ派の人々に対する論争の言葉(一六・一六〜一八)が「語録資料Q」から採られて挿入されたため、このたとえ話が語られた文脈が分からなくなっています。この部分(一六〜一八節)を飛ばして一五節からここに続けると、このたとえ話が「人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ」ということを、目に見える地上の世界での姿と見えない死後の世界での姿との対照で語るたとえ話(例話)であることが見えてきます。

 ローマの貴族階級の人たちは、下着には柔らかい麻布(原語の《ビュッソス》は亜麻布を指す)を着て、上着には紫色の衣を着るのを常としていました。パレスチナの支配階級や富裕階級の人たちもそれに倣って、そのような衣装で身を飾り、富と権力を誇示していました。彼らは日々の糧を得るために働く必要はなく、「毎日ぜいたくに遊び暮す」ことができました。このような記述で「人に尊ばれるもの」の姿が描かれます。

 「この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた」。(一六・二〇〜二一)
 この金持ちと対照して、その門前に横たわっていた「貧しい人」ラザロの悲惨な姿が描かれます。「できものだらけの」病人ラザロは、動くことも働くこともできず、その金持ちの家の前を行き来する人たちから恵んでもらうために、物乞いとして門前に置かれていました。彼はその金持ちの家から出される残飯で腹を満たしたいと思う境遇でした。彼の悲惨な境遇は、病気のため働くこともできず、ぼろをまとい、食べ物にもことかくという身体的なものだけでなく、イスラエルでは汚れた動物として卑しめられている犬にそのできものを舐められられるという、イスラエルの宗教社会では最低の人間として、いや人間として扱ってもらえない状況が指し示しています。

 イエスが語られたたとえ話の中で、その登場人物の名前があげられているのはここの「ラザロ」だけです。その理由については様々な見方があります。「ラザロ」という名は、ヘブライ語の「エレアザル」、すなわち「神は助ける」という意味の名の短縮形ですから、人からは見捨てられているが神が助けてくださる人物であることを示唆するために選ばれた名であるという見方もできます。また、このたとえ話の最後に「死人の中から生き返る者」が言及されることから、ヨハネ福音書一一章のあの「ラザロ」、イエスが親しくしておられ、死人の中から生き返らされたラザロとの関連を見る説もありますが、このような関連でイエスが用いられたとするには無理があります。この問題については、この段落の講解の最後に取り上げることにします。

 「やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた」。(一六・二二〜二三)
 やがてラザロは死んで、貧しさゆえの苦労と苦悩から解放され、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれます。ここには「楽園」という語は出てきませんが、アブラハムがいるところが楽園《パラディソス》です。先に「楽園」《パラディソス》には、アダムとエヴァがいた最初の楽園と終わりの日に完成する終末的な楽園の他に、現在隠された形で存在する楽園があることを見ましたが、ラザロは、アブラハムや父祖たちやエノクやエリヤなどの義人がいるこの楽園に入ったのです。

 ラザロは天使たちに導かれて、「アブラハムの胸へと(あるいは、懐の中に)」連れて行かれます(直訳)。この表現は、ある人物ともっとも密接な関係にあることを指す表現です。ヨハネはこの表現を、「父のふところにいる独り子である神」(ヨハネ一・一八)についてと、最後の晩餐のとき「イエスの胸に向かって」着席していた「イエスが愛された弟子」について(ヨハネ一三・二三)用いています。ここの原文には「宴席」という語はありませんが、新共同訳は、この表現を宴席での位置を示すものとして、説明的に訳したのでしょう。

 金持ちも死んで葬られますが、彼は陰府(ハデス)に墜ちます。先に見たように、この時代には「陰府」《ハデース》は、ヘブライ初期の善人も悪人も行く死後の影の世界《シェオール》ではなく、悪人が責め苦を受ける場所になっています。その責め苦は、すぐ後で本人が「わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます」と言っていることから、火で焼かれるような責め苦であることが分かります。これは、終わりの日の神の裁きが火で行われるという当時の終末思想が「陰府」での責め苦にも反映しているのでしょう。「その責め苦の中で目を上げて」、はるか遠くにアブラハムと「アブラハムの懐にいるラザロ」を見ます。

 「そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます』」。(一六・二四)
 死後の世界での楽園《パラディソス》と陰府《ハデース》の位置関係はどうなっているのか。間に渡ることができない大きな淵があるのに(二六節)、陰府から楽園の様子を見ることができるのか、あるいは「大声で」叫べば聞こえるのか、などと詮索することは無用、無意味です。イエスは神と人間の永遠の関係をたとえ話を用いて語っておられるのであって、それをこの世の時間と空間の枠の中の思考で詮索すべきではありません。わたしたちは、わたしたちの存在を超える神に祈り叫んでいます。この金持ちも、ユダヤ人として、すなわちアブラハムの子孫の一人として、自分たちと神との関わりの根拠となっている父祖アブラハムに憐れみを叫び求めます。

 炎の中でもだえ苦しんでいる金持ちは、その灼熱の苦しみから一時でも逃れることができるように、「ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください」と懇願します。地上に生きているときには、自分の家の門前で飢えに苦しみ、その食卓から落ちこぼれる残飯で空腹を満たしたいと願ったラザロと、立場が完全に逆転しています。今は、宴席にいるラザロの指先の一滴の水を懇願しなければならない立場です。

 「しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ』」。(一六・二五)
 彼の懇願の叫びはアブラハムに聞こえます。しかし、アブラハムはこのように言って彼の懇願を退けています。アブラハムはこの金持ちに「子よ」と呼びかけています。たしかに彼はアブラハムの子孫です。しかし、アブラハムの子孫であることが自動的にアブラハムに約束された神の祝福をもたらす根拠にはなりません。すでに洗礼者ヨハネも「『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」と言っています(三・八)。わたしたちは、先祖の宗教体験の上に築き上げられた立派な「宗教」の中にいるのだから、それで救われているのだと、既成の「宗教」に安住することはできません。今自分の魂が神とどのような関わり方をしているかが問題です。

 この地上で金持ちであった者にアブラハムが言っている言葉は注目されます。彼が今陰府でもだえ苦しみ、ラザロが楽園の祝福を受けているのは、「地上に生きていたとき、彼は良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた」ことだけが理由としてあげられています。だから(=その事実だけで)、今ここで(楽園で)ラザロは慰められ、もと金持ちは(陰府で)もだえ苦しむことになるのだ、とアブラハムは言っています。もと金持ちは生前、悲惨な境遇のラザロを憐れむことなく、自己の快楽だけを求めて贅沢な暮らしをしていました。また、ラザロはただ神の助けだけに依り頼んで祈っていたことでしょう。しかし、そのような倫理的宗教的な資質はいっさい問題にされていません。ただ、生前彼は良いものを受け、ラザロは悪いものを受けていたという事実だけが理由とされています。生前と死後は、善い境遇と悪い境遇が単純に逆転しています。

 この逆転はルカの思想の特色です。正確に言えば、ルカはこのような終末的逆転の待望に燃えていた最初期共同体の一面を忠実に伝える歴史家であった、と言うべきかもしれません。イエスはその福音告知において「貧しい者たち」への祝福を宣言されました。その告知を、マタイは「山上の説教」の冒頭で、イスラエルの知恵思想によって霊的倫理的勧告に仕上げています。それに対してルカは、「平地の説教」の冒頭で、貧しい者たちへの祝福と対比して、富める者たちへの断罪をつけ加えています(六・二四〜二六)。ルカが伝えるイエスは、来るべき時代における富裕階級と貧困階級の逆転を唱える革命家と理解されかねない面があります。事実、イエスをそのような革命家の一人と見る説も行われています。

 イエスは社会体制を変革するためとか政治権力の在り方を変えるために来られた革命家ではありません。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(二〇・二五)と言われた方です。イエスはあくまで「神の支配」を告知するために世に現れた方です。「神の支配」は権力による支配ではなく、人間の霊性における恩恵の支配です。その「神の支配」においては、目に見える人間の世界での価値評価が逆転しています。「人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるもの」なのです。これの裏側は、「人に卑しめられるものは、神に尊ばれるもの」となります。この逆転をイエスはたとえ話で語っておられるのです。

 この「人に尊ばれるもの」を経済的価値に限定すると、イエスは革命家のように見えてきますが、「人に尊ばれるもの」は財産とか富という経済価値だけではありません。人間社会で価値あるものと評価されるすべて、とくに内面的なものです。経済的に豊かな生活とか、学問・技術・芸術など文化的に豊かなことは、たしかに価値あるものであり、熱心に追求すべきものです。しかし、それをもつことを誇り、神との関わりにおいてそれらを持つ自分を価値あるものとする在り方が「神には忌み嫌われるもの」になります。イエスはここで、とくに人の前に自分の宗教的価値を誇るファリサイ派の人々を考えておられると見られます(一五節)。ここの「金持ち」はファリサイ派の人々を指す象徴です。

 それに対して、イエスは「人に卑しめられるものは、神に尊ばれるもの」の実例としてラザロの姿を語られます。卑しいラザロの姿は、ユダヤ教社会で「罪人」として卑しめられている「貧しい人たち」の象徴です。彼は自分の中に何も誇るものがなく、何ももたない者として神の前に出ています。神の前に胸を打って「罪人のわたしを憐れんでください」としか祈れない「こころ砕かれた者」が、神から義とされる(=受け入れられる)のです(一八・一三)。
 このように見ると、この「金持ちとラザロ」のたとえも、イエスの「恩恵の支配」の福音を、当時の死後の世界の観念を舞台として指し示すたとえであることが見えてきます。そうであるならば、舞台となった死後の世界の姿を、絶対化したり固定化することには注意しなければなりません。それぞれの民族、それぞれの宗教には固有の死後観があり、その内容も用語も違います。それに向かって、ここで見たユダヤ教の死後観を絶対的なものとして押しつけるのではなく、現在生きている者への「恩恵の支配」を告知するたとえとして、この「金持ちとラザロ」の例話を理解することが必要です。

 「『そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない』」。(一六・二六)
 陰府でもだえ苦しみながら、「ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください」と懇願したもと金持ちに対して、アブラハムは現在の二人の境遇が地上での生涯の必然的な結果であることを語りましたが(前節)、「そればかりか」と言って、ラザロを送ることができない理由をさらに付け加えます。それは、「わたしたち」、すなわちアブラハムを代表とする義人たちがいる楽園《パラデイソス》と、「お前たち」、すなわち地上で遊び暮らしていた金持ちがいる陰府《ハデース》との間には、越えることができない「大きな裂け目が置かれている」(直訳)からです。それを越えてラザロを陰府に遣わすことはできません。

 ここに用いられている「裂け目」《カスマ》(新共同訳では「淵」)は、死後の世界の二つの領域(楽園と陰府)が越えることができない断絶した領域であることを象徴しています。このような死後観は、地上の人間の目には隠されている霊界の奥義を語る黙示文書によって形成されたものと考えられます。黙示文書にこの語が出てくるのは稀ですが、義人と罪人が行く領域が截然と分かれていることは共通しています。旧約続編に収録されているものの中では、「エズラ記(ラテン語)」にもこの二つの領域の分断が語られています。たとえば同書の七章三六節には、「懲らしめの穴が現れ、その反対側には安息の場所がある。また、地獄のかまどが示され、その反対側には喜びの楽園が見える」とあります。

死者の中から生き返る者

 一五章の「放蕩息子のたとえ」が別の焦点(弟息子の帰郷と兄息子の抗議)をもつ二つの物語で構成されていたように、この「金持ちとラザロのたとえ」も、別の焦点をもつ前半(一九〜二六節)と後半(二七〜三一節)の二つの物語で構成されています。前半では、尊ばれるものと卑しめられるものの生前と死後の世界での逆転が焦点となっていましたが、後半では、死者の中から生き返った者の地上での告知が主題になっています。

 「金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください』」。(一六・二七〜二八)
 金持ちは、「アブラハムの懐」、すなわち楽園から自分がいる陰府にラザロを遣わすことができないと告げられて、「では、わたしの父親の家にラザロを遣わしてください」と願います。父親の家にいる五人の兄弟が「こんな苦しい場所」に来ることがないように、よく言い聞かせてほしい、というのです。死んだラザロが地上の人たちのところに行くことは、陰府から地上の世界に戻ることです。古代の人たちは、そのような陰府からの地上の世界への帰還はあり得ることとして語っていました。ギリシアの世界ではオルフェウスの神話が有名です。オルフェウスは死んだ妻を陰府から連れ戻すために、陰府の世界に降ります。結局は、連れ戻すときに後ろをふりむかないという約束に背いたために妻を地上に連れ戻すことはできませんでした。日本にも「黄泉帰り(よみがえり)」という言葉があります。死んで黄泉(陰府)に下った人が地上に帰ってくることです。この物語の金持ちは、ラザロが陰府から地上に戻って、まだ地上にいる五人の兄弟に警告するように取りはからってください、とアブラハムに懇願します。

 「しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい』」。(一六・二九)
 この懇願に対してアブラハムは、その必要はないと答えます。というのは、この金持ちと兄弟たちはユダヤ人であり、ユダヤ人には神から遣わされたモーセと預言者たちが神の戒めと神の言葉を伝えているのだから、モーセが伝えた律法と預言者が伝えた神の言葉に耳を傾けて従うならば、このような苦しい場所に来ることはないのだからです。

 「金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう』」。(一六・三〇)
 このアブラハムの答えに、金持ちはさらに願います。彼自身、この世にいる時にはユダヤ教徒としてモーセ律法を知り、預言者の教えも会堂で聴いていたのですが、このように陰府でもだえ苦しむ結果になったのです。兄弟たちもユダヤ教徒として安息日には会堂でモーセ律法を学び、預言者の言葉に耳を傾けていますが、同じような生活をしている彼らも同じように陰府に落ちることになります。しかし、もし死んだ者が地上に戻り、死後の世界のことを語り伝えて、楽園の喜びと陰府の苦しさを知らせてやれば、彼らも悔い改めて真剣にモーセ律法と預言者の言葉に聴き従うようになり、このような苦しい場所に来ることをから逃れることができるはずだ、と訴えます。

 この金持ちの訴えは、人間社会の宗教の姿を代弁しています。いくら正義や道徳を説いても人間は善くならないが、生き返って死後の世界から戻ってきた者が楽園の楽しさや陰府の苦しみを伝えてやれば、そのような苦しい場所に落ちることがないように、人々はこの世で善くなるように真剣に努めるであろうとして、宗教は楽園や極楽の楽しさと、陰府や地獄の恐ろしさを見てきたように説きます。しかし、死後の世界から帰ってきて、その様子を伝えた者はいません。死後の世界の様子を語る言葉はすべて、現に生きている人間の霊性の姿を語る象徴語です。霊的なリアリティーに基づかない、想像で語られる死後世界の物語は、現実の人間の霊性を善や知恵へと変えていく力はありません。そのことをアブラハムは、次のような言葉で金持ちに説きます。

 「アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう』」。(一六・三一)
 ユダヤ教徒には、神からの語りかけの言葉としてモーセ律法と預言者の書が与えられています。その言葉に聴き従うことが、神との交わりの中で霊性を高め、神の祝福の中で喜びと平安に生きる道なのです。モーセと預言者に聴き従おうとしない者には、たとえ死者の中から生き返ってこの世に戻り、死後世界の楽園や陰府の様子を語る者があっても、その言葉はモーセと預言者によって与えられた神の言葉以上のことはなしえないのです。

 このことは、ユダヤ教黙示文書の意義について考えさせます。ユダヤ教にはヘレニズム時代に黙示思想が起こり、多くの黙示文書が生み出されました。「黙示」というのは、人の目には隠されている神の秘密が特別に選ばれた人に啓示されて人に伝えられることです。その選ばれた人にはエノクとかエリヤとかダニエルなど、イスラエルの歴史に現れた義人たちがいます。彼らに啓示された神の秘密は、おもに天界の実相と将来に対する神の計画です。たとえば「エノク書」では、神や天使や諸霊がいる天界は、地上の人間は見ることができず隠されていますが、その実相が天界をめぐってきたエノクに天使によって示されます。その実相がエノクによって人々に語られたとされるものが「エノク書」という黙示文書です。「ダニエル書」は、これから神がなそうとされている救いの働きの計画(現在それは神の御旨の内に隠されています)を幻の形でダニエルに示され、異教の王の迫害下にいる神の民に伝えたものです。

 エノクは死者の中から生き返った者ではありませんが、天界の隠された実相を見て地上に帰ってきた(とされる)人物です。そのような人物から死後の魂が行く天界の実相を語り聞かされても、それで悔い改めたユダヤ人は少数で、大部分はこの金持ちのように、モーセ律法と預言者の書を聴いても行わず、天界のことを語る黙示文書などは無視して暮らしていたのです。

 ここで「死者の中から生き返る者」が言及されていることから、この言葉は、イエスの復活以後の時期に共同体が行った復活者イエスの告知を受け入れないユダヤ人たちを批判している言葉であり、たとえそのものはイエスのものであっても、三〇〜三一節は後からの付加であるとする見方があります。しかし、復活を示唆する表現があるからという理由で、これを復活を告知した最初期共同体から出たものとする必要はありません。イエスご自身、ご自分の受難の死を復活の光の中で見ておられました。そのイエスが、「死者の中から生き返る者」の告知が受ける扱いを予見されたことは十分にありうることです。このたとえ全体をイエスが語られたと理解することは十分可能です。

 イエスは「地獄」を真剣に問題にされました。しかし、イエスは地獄(陰府と厳密に区別されていません)に落ちる恐怖を説いて悔い改めを勧めた方ではありません。イエスは、あくまで「恩恵の支配」を告知して、恩恵が来ているのだから神に立ち帰りなさいと説かれたのです。このたとえにおいても、陰府での苦しみを描いて、悔い改めを迫っておられるのではなく、神の無条件絶対の恩恵の支配を描いておられるのです。先にのべたように、わたしたちは、現在生きている者への「恩恵の支配」を告知するたとえとして、この「金持ちとラザロ」の例話を理解することが必要です。

ラザロはイエス?

 先にイエスが語られたたとえの中で、登場人物の名があげられているのは、ここのラザロだけであることの意味を問題にしましたが、ここでその問題に帰りましょう。そこで見たように、「ラザロ」という名は「神は助ける」という意味の名です。イエスがこの「ラザロ=神は助ける」という名を用いられる時、誰を念頭においてこのたとえを語っておられるのでしょうか。

 このたとえが語られた理由ないし目的を理解するには、それが語られた文脈が重要です。このたとえは、イエスを批判するファリサイ派の人々や律法学者たちに反論するために(一五・一〜三)語られたたとえ集(一五〜一六章)の最後に置かれたたとえです。この「金持ちとラザロ」のたとえがファリサイ派の敬虔とか宗教に対する反論であることは、このたとえが、イエスを嘲笑したファリサイ派の人々に向かってイエスが「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ」(一六・一四〜一五)と反論され、その例話として語られたという文脈(前述)からも確認されます。

 そのような意図で語られたたとえであるならば、このたとえの「金持ち」はファリサイ派の人々を象徴し、「ラザロ」は批判嘲笑されているイエスを指しているのではないか、という示唆が浮かび上がります。たしかにこのたとえの金持ちは「人に尊ばれるもの」をすべて得ている者の姿です。そのように、ファリサイ派の人々も「人に自分の正しさを見せびらかす」ことによって、「人に尊ばれるもの」になり、この世では「義と敬虔」を独占しているように振る舞っています。それに対してイエスは、「人に尊ばれるもの」は何もなく、むしろラザロの姿が象徴していたように、「人に卑しめられるもの」だけの姿をしておられます。それは、預言者イザヤが「主の僕」について預言した通りです。

 「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた」。(イザヤ五三・二〜三)

 イエスはこのたとえで人間として扱われないラザロの悲惨な状況を描いておられますが、それはイスラエルの民から見捨てられ、十字架上の処刑という最も卑しい姿で民の外に放棄されるイエスの事実からすれば、誇張ではなくなお不十分な描きかたです。

 ところが、地上で(=この世)で義人であることを誇り、神の栄光にあずかる者であることを主張しているファリサイ派の人々は、来るべき世では「神に忌み嫌われるもの」として、神から裁きを受けることになります。それに対して、地上では「人から忌み嫌われ」、十字架の辱めを受けたイエスは、「神から尊ばれるもの」として、高く挙げられ、栄光の座に着かれます。人から見捨てられる者ですが、「神が助ける」からです。神はこの方を死人の中から復活させて高く挙げられるのです。「神は心をご存知である」から、すなわち人間の奥底の姿をご存知であるからです。神は、「人から尊ばれるもの」をもつことを誇るファリサイ派の人々の心の高ぶりと偽善を見ておられます。

 イエスは、そのことが起こる前に、死後の世界を舞台としたたとえを用いて、ご自身の来るべき十字架の死と、それに続く復活の栄光を語っておられるのではないか、と考えられます。最後の「死者の中から生き返る者」が語りかけても、モーセと預言者に耳を傾けない者(イスラエル)は悔い改めないであろうという言葉も、このような理解で読めば、イエスの言葉として自然に理解できます。

 キリスト教会はこのたとえから多くのことを読み取り、また読み込んで、このたとえを用いて説教してきました。金持ちは貧しいラザロに憐れみの心を持たなかったので陰府の苦しみに落ちたのだから、憐れみの心を持って貧しい人を助けるようにとか、ラザロは神の助けだけを祈り求めていたので楽園に入ったのだから、苦境に落胆せず祈り続けるようにとか、死後の世界に備えて教会の教えに聴き従うようにとか、様々な用い方をしました。それはそれなりに意味のあることですが、イエスが語られた時の意味は、ここで見たように、ファリサイ派に対してご自身の姿を語るたとえであると考えられ、そのように読むときに、このたとえの真義が輝いて見えてきます。


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