ルカ福音書講解 17 

    第一七章  エルサレムに入るイエス   

                                   ― ルカ福音書 一九章(二八節)〜二〇章(一九節) ――


はじめに

 イエスはついにエルサレムにお入りになります。ルカの物語は、ここからエルサレムでの受難と復活を物語る第三部に入ります。エルサレムへの旅を語る第二部では、ルカはマルコの枠から離れて、独自の材料と配列で物語を進めてきましたが、第三部では(第一部でそうであったように)再びマルコの内容と順序に従って物語を進めます。しかし、マルコの物語を引き写すでのはなく、ルカ自身の視点から変更したり省略したりして、イエスの最後の働きを語り伝えます。当然ここにもルカの福音告知の特質が出てきます。

 エルサレムに入るということは神殿に入るということです。エルサレムでのイエスの活動は神殿を舞台とし、神殿との関連で行われます。エルサレムでの受難と復活を語る第三部は、大きく次の三区分で構成されていると見られます。

1 神殿での活動と論争(一九・二八〜二一・三八)
2 受難物語(二二・一〜二三・四九)
3 復活告知(二三・五〇〜二四・五三)

     埋葬の記事(二三・五〇〜五六)を「復活告知」の区分に入れる理由は、その箇所の講解で触れます。

 


  神殿での活動と論争 ― その1 ―  (一九・二八〜二〇・一九)

 

111 エルサレムに迎えられる(一九・二八〜四四)

子ろばに乗るイエス

 イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。(一九・二八)
 「このように話してから」というのは直前の「ムナのたとえ」を指しています。そのたとえは、「人々は(イエスがエルサレムに入られると)神の国(神の支配)はすぐにも現れるものと思っていたからである」(一九・一一)という文で、たとえが語られた意図が指し示されています。弟子たちがそう思っていたことは「旅行記」の中で示唆されていましたが、イエスの一行は過越祭に上るガリラヤからの巡礼者たちを含んで膨れあがり、ガリラヤでイエスが大いなる力を現しておられたことを知っているガリラヤの巡礼者たちはこのような期待に熱く燃えてイエスを取り囲んでいたのではないかと推察されます。

 そのような状況は、「イエスは先に立って進み、エルサレムに上って行かれた」という文(原文)の勢いにも感じられます。イエスは、そのような神の支配の出現を熱く期待して従う一群のガリラヤ人の先頭に立って、エルサレムに向かって進んで行かれるのです。このような状況が、イエスのエルサレム入りの光景(後述)の前提になると考えられます。

 そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさいもし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい」。(一九・二九〜三一)
 エリコからエルサレムに至る道は六時間ほどの山道になります。東からエルサレムに入るには、エルサレムの東にあるオリーブ山を越えることになります。この山をルカは「『オリーブ畑』と呼ばれる山」と説明的に記述しています。この山は普通は「オリーブ樹(複数形)の山」と呼ばれており、邦訳では「オリーブ山」と訳されています(三七節参照)。自然の森ではなく、エルサレムの重要な経済資源として栽培されていたオリーブ樹林なので、新共同訳は「オリーブ畑」と訳したのでしょう。

 イエスの一行はオリーブ山の麓にある「ベトファゲとベタニアに」近づきます。この書き方はマルコ(一一・一)をそのまま踏襲していますが、これはイエス一行が近づいた村「ベトファゲ」が、パレスチナの住民以外には知られていない地名であるので、近くに位置する村で受難物語でよく知られているベタニアと組み合わせて用いられたものと考えられます。マタイ(二一・一)はただ「ベトファゲ」の地名だけをあげています。
 ベタニアはオリーブ山の東斜面にあり、エルサレムから三キロほとのところにあります。その近くのベトファゲはベタニアの西、オリーブ山の山頂から東一キロほどのところにある村だとされています。ベトファゲは城壁の外にある村ですが、エルサレム市域に属すものと見なされ、(ラビ文献によると)過越の小羊を食べることが許される地域とされていました。イエスの一行はいよいよエルサレム市域に入ることになります。

 ここでイエスは二人の弟子を使いに出して、その村の子ろばを連れてくるようにお命じになります。イエスが子ろばを連れてくるように命じられたのは、それに乗ってエルサレムに入るためですが、イエスがそうしようとされたのは、マタイ(二一・四〜五)がいうとおりゼカリヤの預言を実現するためであったはずです。ゼカリヤは次のように預言しています。

 「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る、雌ろばの子であるろばに乗って」。(ゼカリヤ九・九)

 イエスはエルサレムで起こることを知っておられます。しかし、イエスを取り囲む弟子とガリラヤの人々は、イエスがエルサレムに入られると直ちに神の支配が実現するとの期待に燃えています。イエスはすでにエリコで「ムナのたとえ」を語って、そのような期待をたしなめておられましたが、ここで自分が預言を成就する者であることを示すと同時に、その預言の成就者であるメシアが、他の預言ではなくこの「ろばの子に乗って来る」王を預言するゼカリヤ預言を実現することで、軍馬に乗る王ではなく、すなわち力をもって敵を殲滅する王ではなく、ただ重荷を背負って運ぶだけのろば、しかもろばの中でも小さい子ろばに乗って来る柔和な、己を低くする王であることを指し示そうとされます。

 ヨハネ福音書(一二・一四)では、ただ「イエスは子ろばを見つけて、お乗りになった」とされていますが、マルコ(とマルコに従う共観福音書)ではそれが主の定めに従って起こったことであり、イエスがそれを見通しておられたことを指し示す形で物語られています。イエスは、使いに出された二人の弟子は、村に入ると子ろばがつながれているを見ると予告されます。その子ろばが「まだだれも乗ったことのない子ろば」であるかどうかは外からは分かりません。人を乗せるまでに成長していない子ろばという意味であるのか、初めて乗るイエスこそ柔和な王であるという象徴的意味を確かにするためであるのか、よく分かりません。マタイはこの記述を省略しています。

 つながれている子ろばの引き綱をほどく弟子たちに、当然子ろばの所有者は「なぜほどくのか」と不審の思いをもって尋ねます。それに対して「主がお入り用なのです」と答えなさいと、イエスは指示されます。ここの「主」《ホ・キュリオス》は、原語で「その(=その子ろばの)《キュリオス》」とあるので、《キュリオス》の本来の意味である「主人、所有者」の意味で、「その子ろばの所有者」を指しているとしなければなりません。マタイ(二一・二)は「雌ろばと子ろば」と二頭にしているので「それらの《キュリオス》」としています。その子ろばの本来の所有者である神が、いま預言を成就する器として必要としておられるという意味を、敬虔なユダヤ教徒である村人は理解します。

 なお、マルコでは「主がお入り用なのです」の後、「すぐにお返しになります」と言うように指示されていますが、この部分は必要なしとしたのか、ルカは省略しています。

 使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。二人は、「主がお入り用なのです」と言った。(一九・三二〜三四)
 事態はイエスが言われたとおりに進行します。ここで子ろばの「持ち主たち」と訳されている原語は《ホ・キュリオス》の複数形で、「主がお入り用なのです」の「主」《ホ・キュリオス》と同じ語です。この用例からも、ここの「主」はそのろばの真の所有者という意味で用いられていることが分かります。

 そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。(一九・三五)
 子ろばを引いて来た二人の弟子は、事がイエスの言われたとおりに進んだので、ますますイエスの能力に驚き、メシアとしてのイエスに対する期待を強くしたことでしょう。裸の子ろばに自分たちの上着を掛けて、王としての威厳を示すために精一杯のことをします。王は華やかに装われた馬に乗る者だからです。

 

王なるメシアへの歓呼

 イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。(一九・三六)
 「自分の服を道に敷く」という行為も、王を歓呼して迎える人々の行動です。弟子だけでなく、イエスを取り囲む群衆が自分の服を道に敷いて、王としてのイエスに対する敬意を表します。マルコ(およびマタイ)は、「ほかの人々は野から切って来た枝葉を敷いた」としていますが、ルカはこれも省略して記述を簡略にしています。

 イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。(一九・三七)
 こうしてイエスの一行がオリーブ山の峠を越え、山の西側に出て道が下り坂になると、ケデロンの谷を隔ててエルサレムの都が見えてきます。ガリラヤでイエスがなされた多くの奇跡を見てきた弟子たちと巡礼者の群れは、いよいよ神の支配が実現する時が来たのだと、一段と声を張り上げて、神を賛美する歓呼の声を上げます。その歓呼の声は次のように伝えられています。

 「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光」。(一九・三八)
 イエスに対する歓呼の言葉は、四福音書のすべてに少しずつ違った形で伝えられています。共通するのは「主の名によって来られる方」に対する歓呼であることと、その方に「王」という称号が用いられていることです。ここで四福音書の異同を見ることで、ルカの特色を探りましょう。

 ルカ以外の三福音書ではみな「ホサナ!」という歓呼で始まっています。「ホサナ」というのは、イスラエルの民がエルサレムへ巡礼するときに用いたハレル歌集(詩編一一三〜一一八編)の最後の詩編一一八編の二五節に出てくる《ホーシーアンナー》(主よ、わたしたちをお救いください)が転化して、「ホーサンナ」、「ホサナ」になったもので、もともと神の最終的な救いの業を求める終末的な響きのある叫びでした。しかし、イエスの時代では、日本語の「ばんざい!」のように、神の前で喜びを表す、ほとんど意味のない喚声になっていたようです。人々は「ばんざい!」を叫び続けたのです。しかしルカは、異邦人には馴染みのないこの喚声を省略しています。

 「主の御名によって来られる方に祝福あれ」という歓呼は四福音書すべてにあります。これは先の《ホーシーアンナ》の次の節(詩編一一八・二六)の言葉です。「主の御名によって来られる方」という表現が、そのままの形で来るべきメシアを指す句として用いられている例は預言書の中にはありません。しかし、イスラエルでは約束されたメシアを《ホ・エルコメノス》(来るべき方)という名で指していたことを背景として考慮すると(マタイ一一・三参照)、詩編一一八・二六(七十人訳)の《ホ・エルコメノス》(来るべき方)を用いて叫んでいる民衆は、ここでイエスをイスラエルに約束されていたメシアの到来として歓呼して迎えていると言えます。

 マルコ(一一・一〇)では「今きたる、われらの父ダビデの国に祝福あれ」という言葉が続いています。「ダビデの国」の復興はイスラエルの長年の悲願でした(ソロモンの詩編一七〜一八編、とくに一七・二一、使徒行伝一・六参照)。神の民イスラエルは、ダビデに約束されていたように、彼の子孫(ダビデの子)によって異教徒の支配から解放され、その本来の栄光に達する時を待ち望んでいました。今その時が来たとして歓呼しているのです。

 マルコでは到来するダビデの王国が歓呼されましたが、マタイ(二一・九)ではその王国をもたらす「ダビデの子」に歓呼が向けられています。ヨハネ(一二・三)でははっきりと「イスラエルの王」に歓呼が向けられています。ルカは「来られる方」の直後に「王」を入れて「来られる王」とし、その後に「主の名によって」という修飾句を置いています。

 このように四福音書を併置すると、このときの群衆の歓呼が王としてのメシアを迎える歓呼であることがはっきりします。しかしルカは、この王としての歓呼から「イスラエルの王」とか「ダビデの王国」とか「ダビデの子」というようなユダヤ教的な色彩をすべて削除して、「天には平和、いと高きところには栄光」という普遍的な賛歌にしています。この賛歌は有名な誕生物語の天使の賛歌(二・一四)を思い起こさせますが、おそらくルカの特殊資料にあった賛歌を、誕生物語ではイエスの誕生によって地にもたらされる平和を、そしてここではイエスがエルサレムでの受難を通って天に昇られ、天に平和と栄光がもたらされることを賛美する賛歌として用いたのでしょう(コロサイ一・二〇参照)。

 すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす」。(一九・三九〜四〇)
 イエスと一緒にエルサレムに入ろうとする群衆の中にファリサイ派の人たちがいて、イエスを信奉する弟子たちの歓呼を制止するように求めます。この人たちは、誰かを王であるメシアとして歓呼することがいかに危険であるかを知っていた人たちでしょう。イエスの時代の前後には、多くのメシア運動が発生し、ローマの厳しい弾圧によって悲惨な結果を招いていました。もしこの歓呼がさらに大きなうねりとなって民衆を巻き込み、ローマの介入を招くことになれば大変な事態になります。事実イエスは後に「ユダヤ人の王」という罪状、すなわちメシア僭称者としてローマに反逆した叛徒として処刑されることになります。この時のファリサイ派の人たちが(一三・三一のように)イエスの安全のためにそう忠告したのか、あるいはエルサレムの平穏のためにそう要求したのかは決められませんが、時代の状況はこのような歓呼をきわめて危険な行動としたことは事実です。

 この制止の要求に対してイエスは、「もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす」と言って、制止することを拒否し、群衆が叫ぶにまかせられます。これまでイエスは、弟子にご自身の身分を明かされるときは、それを誰にも言わないように厳しく命じておおられました。ご自身の最後の時を前にして、イエスはイスラエルの民の歓呼の中で聖なる都に入られます。

 この時にイエスが言われた「もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす」という言葉は、解釈が分かれます。一つは、「この人たちの歓呼を制止して黙らせたら、石がわたしを王なるメシアとして叫び出すであろう」、すなわちわたしがそれであることを誰も押さえつけることはできないとする解釈と、もう一つは、「もしわたしがそのような者であることを力ずくで否定して彼らを黙らせるならば、わたしを拒むことへの裁きとしてエルサレムと神殿は崩壊して、その廃墟の石がわたしがそれであることを証言するであろう」という解釈です。NTDのレングストルフのように後者の解釈を採る見方も有力ですが、やはり一般に理解されている前者の解釈が適切ではないかと考えられます。「石が叫びだす」という表現は、洗礼者ヨハネにも「神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」という言葉があり(三・八)、人の意表をつく表現を用いられるイエスにふさわしい表現であり、この言葉が発せられた文脈(状況)からしても、この解釈が順当だと考えられます。

 

エルサレムのために泣くイエス

 エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。」。(一九・四一〜四二)
 イエスが泣かれたことを伝える福音書の記事はここだけです。オリーブ山の西側の斜面を下ってくると、ケデロンの谷を隔ててすぐ向こう側にエルサレムの都が見えてきます。都が見えたとき、イエスはその都の滅びの姿を見て泣かれます。現在、その場所を記念する「主泣きたもう」という名の教会堂が建てられ、その窓から現代のエルサレムの象徴となっている黄金のドームが見えます。

 イエスは泣いて言われます、「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……」。イエスが事実に反することを願われる詠嘆の言葉はきわめて稀です。ここ以外で思い起こすことができる言葉は、「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」(一二・四九)という言葉ぐらいです。イエスは聖霊の火を地に投ずるために来られました。しかし、その火はイエスが十字架の上に贖罪の業を成し遂げるまでは降ることはできませんでした。すぐに「しかし、わたしには受けねばならないバプテスマがある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう」と続けて、その火が降るようになるために受難の道を歩まれました。

 イエスが来て「平和の道」を説かれたのに、イスラエルはそれを悟ることができませんでした。四二節のイエスの言葉は直訳すると、「もしこの日に、お前(エルサレムを指す単数形)が平和に向かう(または、平和に関わる)事どもを悟ってさえいたなら・・・・。しかし今は、それはお前の目から隠されている」となります。「この日に」、すなわち神が終わりに臨んで、最後の預言者としてイエスをイスラエルに遣わされたこの時に、律法の義の牙城であるエルサレムのユダヤ教指導者がイエスの恩恵の支配の告知を受け入れ、神との平和を達成するすべを悟っていたならば、事態は違ったものになったであろうに、という嘆きです。しかし事実は逆の方に進むことをイエスは見通しておられます。彼らはイエスを拒否して殺し、その結果エルサレムは神に見捨てられ滅びることになることを見ておられます。その滅びを、次のようにリアルに語りだされます。

 「やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである」。(一九・四三〜四四)
 この預言は、七〇年にティトスの率いるローマの軍勢がエルサレムを包囲して攻撃したときの状況をあまりにも正確に記述しているので、この出来事をよく知っている世代の者が加えた事後預言であるという見方がなされます。たしかに、この記述はそのような理解を可能にします。しかし、イエスがエルサレムの滅びを前もって語られたことは事実であって、それはすでにエルサレムに向かう旅の途上でなされていました。イエスは、最後にエルサレムに上られるとき、ヨルダン川東岸のペレアを通られますが、その時ガリラヤとペレアの領主のヘロデ・アンティパスが、洗礼者ヨハネにしたように、イエスを逮捕して殺そうとします。その危険を知らせたファリサイ派の人にイエスはこう答えておられます。

 「だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない」。(一三・三三〜三五)

 この箇所はすでに詳しく講解していますので繰り返しません。イエスが旅の途上ですでにエルサレムの滅亡を「見よ、お前たちの家は見捨てられる」という言葉で預言されていることを確認するに止めます。おそらくこのような言葉が、イエスが実際にエルサレムの滅亡を語られたときの言葉でしょう。ローマ軍の攻城の詳細を描く一九章の預言は、その歴史的事実を知っている世代による編集であるとしても、イエスが預言者としてその時代のイスラエルに語りかけたエルサレム滅亡の預言の言葉は重いものです。

 そして、一三章の旅の途上での預言は、ご自身がエルサレムで殺されることの必然を語る言葉と一体であることに改めて注目しましょう。イエスは「主の僕」として召された使命に忠実に、今日も明日も、その次の日も「自分の道」、受難の道を進まれます。しかし、イエスの力ある働きを見た周囲の人たちはイエスを異教徒からの解放者メシアとし、王としていただいてイスラエルの栄光を求めます。イエスが弟子たちには秘かに「苦しみを受ける人の子」の秘義を語りだされた後も、弟子たちや周囲のユダヤ人巡礼者たちは王としてのメシア待望でイエスを歓呼します。その二つの道の裂け目が、最後にエルサレムに入るときに劇的な姿で露呈します。

 ユダヤ人群衆はイエスを王として歓呼しています。ヨハネ福音書(一二・一二〜 一三)によると、過越祭のためにエルサレムに来ていた多くのユダヤ人がイエスを迎えに出てきています。ユダヤ人の民族的な祝祭であるこの祭りの時期に、メシア待望の熱気が高揚します。その中でただ一人イエスは、ご自分の死を見つめ、その結果起こるエルサレムの滅びを悲しみ、涙を流されます。その涙はご自分の死に対するものではなく、「地にたたきつけられる」エルサレムの子らのためにながされる涙です(二三・二八参照)。その熱気を恐れたユダヤ教指導層は、領主ヘロデはイエスを殺そうとし、大祭司もイエスに対する殺意を固めます(ヨハネ一一・四七〜五三)。

 イエスは、エルサレムの滅びの原因を「それは、お前への訪れの時をわきまえなかったからである」(直訳)と語っておられます。先の旅の途上での言葉では、「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか」という比喩で、神はイスラエルの歴史において繰り返しその民をご自身のもとに引き戻すために預言者を遣わされたことが語られています。しかし、イスラエルはその呼びかけを拒否し、遣わされた預言者を石打にして殺すことを繰り返しています。今イエスが最後に遣わされますが、エルサレムのユダヤ教指導者たちはイエスを殺そうとしています。彼らはイエスにおいて神が訪れておられるという時《カイロス》を悟らず、そのために神の裁きにより滅びを招きます。そのことはすぐ後で、「ぶどう園と農夫」のたとえで明確に語りだされることになります(二〇・九〜一九)。


112 神殿から商人を追い出す(一九・四五〜四八)

神殿での抗議行動

 それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始めて、彼らに言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない』。ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした」。(一九・四五〜四六)
 イエスがエルサレムの神殿で商人を追い出すなどの過激な行動をされたことは四福音書のすべてに伝えられています。ルカが依存しいると考えられるマルコに較べると、ルカはその行動の記述を簡略にしています。マルコ(一一・一五〜一六)はイエスの行動を、「イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった」と具体的に記述しています。ヨハネ(二・一四〜一六)はさらに詳しく伝え、その激しさを「イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し・・・・」と描いています。それに較べると、(マタイもやや簡略にする傾向がありますが)ルカは極めて簡潔に「そこで商売をしていた人々を追い出し」という短い一文で済ませています。すでに神殿がなくなってかなりの年月が経ち、ユダヤ教との問題は解決済みの時代に書いているルカは、このようなイエスとユダヤ教神殿との対決にはそれほど興味がなかったのでしょうか、あるいはその意義を重要視することがなかったのでしょうか。

 その時にイエスが言われた言葉は、(用語や動詞の時制などに僅かの違いがありますが)三つの共観福音書では同じように伝えられています。「こう書いてある」として引用されている文は、イザヤ書五六章七節の「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」という一文です。マルコはそのまま引用していますが、ルカは「すべての民の」という句を略しています(マタイも)。諸国民に福音を伝えようとするルカの姿勢からすると、「すべての民の」という句は省略するより残した方がよいように考えられますが、ルカの簡略化の流れの中でこれも省略されたのでしょうか、あるいはエルサレム神殿はすでになくなっているが、もともとそれを「すべての民の」祈りの家とすることは神の意図ではなかったからだ、という理解からでしょうか。

 イエスは「そこで商売をしていた人々」に対して、「あなたたちはそれを強盗の巣にした」と激しい言葉で弾劾されています。ヨハネ(二・一六)では「商売の家」という表現が用いられていますが、マルコをはじめ共観福音書では、エレミヤ(七・一一)の神殿批判の言葉の影響からか、「強盗の巣」という激しい言葉になっています。神殿で商売をしている人たちは普通の商業行為をしているのでしょうが、イエスが「お前たちは祈りの家を強盗の巣にした」と激しく弾劾されるのは、彼らの利益を吸い上げて神殿体制を維持している背後の大祭司を頂点とするユダヤ教の神殿宗教指導層に向けられています。強盗というのは人を脅して金品を強奪する者です。普通の強盗は刃物や銃器など用い、暴力で人を脅します。「宗教」は、これだけの祭儀(神への奉仕)をしないと神の民と認められないとか地獄に堕ちるなどと脅して、民衆の献身を要求し、その献身の一環として金品を納めさせます。そのような祭儀システムを維持するための装置が神殿です。イエスは当時のユダヤ教の神殿宗教をこのように見ておられ、そこからこのような激しい弾劾の言葉が発せられたと考えられます。現代の「宗教」や「教団」にも、このような「強盗の巣」となったものがしばしば見受けられます。

 ところで、神殿でイエスが商人を追い出された行為はよく「宮清め」と呼ばれます。これはイエスの行為を、堕落した神殿礼拝を改革し、本来の姿に戻すための行為であるという理解から出た呼び方です。しかし、これまでに見てきたように、イエスはすでにエルサレムの都とその神殿の崩壊を預言しておられます。すぐ後では弟子たちに神殿の崩壊を明確な言葉で語り出しておられます(二一・五〜六)。そのようなイエスが、ここで神殿の腐敗を粛正して健全なものにしようとされたと理解するは不適切です。むしろこのイエスの行動は、昔イザヤやエレミヤなどの預言者が行った象徴行為、たとえばエレミヤが自分の首に軛をかけたとか、壺を砕いたとかというような、将来神が為される出来事を象徴する行為であったと理解すべきです。イエスが商人を追い出されたように、神は神殿に依拠するユダヤ教体制を御自身との関わりから放逐されようとしておられることの象徴です。

 マルコに依拠して書いていると見られるルカが、この神殿ので象徴行為についてマルコと大きく違っている点があります。マルコではイエスが実のないいちじくの木を一言葉で枯らされた出来事が、神殿での出来事の直前と直後に置かれていて、神殿の記事の枠を形成しています。いちじくの木の出来事も、神の求める実をつけなかったイスラエルが枯れることを象徴する出来事であり、神殿での象徴行為と一体となってエルサレムの崩壊を象徴しています。ルカはそのいちじくの木に関する出来事に触れていません。ルカがマルコの記事を削除したのか、そうだとすればどのような意図からか、あるいは他の理由によるのかは議論がありえますが、これもエルサレム陥落を遠い過去に見る時代の異邦人共同体が、ユダヤ教団の運命に重大な関心をもたなくなったことの表れでしょうか、正確なことは分かりません。

 

神殿での教え

 毎日、イエスは境内で教えておられた。祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが、どうすることもできなかった。民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである。(一九・四七〜四八)
 新共同訳では、この二節は先行する二節(四五節と四六節)と一体として扱われ、「神殿から商人を追い出す」という標題でまとめられていますが、これは不適切で、この二節(四七節と四八節)は神殿での象徴行為に属していません。それは、ここではイエスの「毎日」の行動が取り上げられており、エルサレムに入られた日の神殿での行動とは別の内容になるからです。イエスはエルサレムに入られてからは、「毎日、境内で教える」という活動をされます。過越祭のために神殿に集まるユダヤ教徒に、イエスは境内で毎日「神の国」について教えを説かれます。この神殿での「神の国」告知の働きに関わる記事は、二一章の終わりまで続きます。その活動の終わりは次のように描かれて、この区分が締めくくられています。

 「それからイエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行ってオリーブ畑と呼ばれる山で過ごされた。民衆は皆、話を聞こうとして、神殿の境内にいるイエスのもとに朝早くから集まって来た」。(二一・三七〜三八)

 そうすると、三部構成のルカ福音書の第三部「エルサレムでの働きと出来事」の第一区分「神殿での活動と論争」(一九・二八〜二一・三八)は、次の三つの小区分に区切るのが適切と考えられます。

 1 エルサレム入り(一九・二八〜四六)
 2 神殿境内での教え(一九・四七〜二一・四)
 3 終末についての説教(二一・五〜三八)

 毎日神殿の境内で教えを説かれるイエスの話を聞こうとして大勢の民衆が集まります。過越祭で巡礼者も大勢エルサレムに来ています。ただでさえローマへの不満が鬱積して不穏な時代に、祭りで民族意識が高揚している場で、もしイエスが蜂起の号令をかけたらどのような騒乱が起こるか分かりません。すでにガリラヤでの活動の時期からイエスに対する異端の疑いを強め、またメシア運動の危険も予見してか、何とかしてイエスを除こうとしていた(六・一一)「祭司長、律法学者、民の指導者たち」は、イエスがエルサレムにいる間にイエスを殺すことを計画します。しかし、「夢中になってイエスの話に聞き入っていた」民衆の支持が強く、下手に手を出すと騒乱が起こることは避けられず、どうすることもできずに、イエスの活動を監視するほかありませんでした。


113  権威についての問答(二〇・一〜八)  

 ある日、イエスが神殿の境内で民衆に教え、福音を告げ知らせておられると、祭司長や律法学者たちが、長老たちと一緒に近づいて来て、言った。「我々に言いなさい。何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか」。(二〇・一〜二)
 一節前半の原文は直訳すると、「それらの日々の中のある一日、イエスが神殿の境内で御言葉を教え、かつ福音を告げ知らせておられると」となります。イエスが神殿の境内で毎日しておられた活動が、ここでは「御言葉を教え、かつ福音を告げ知らせる」という表現で語られています。イエスの活動においては、神がこう語っておられると御言葉を教えること(それは預言者の働きです)は、その内容において「福音を告げ知らせる」ことと等置されています。たしかにイエスは預言者としてエルサレムの滅亡を予告して警告されるという面もありますが、イエスが「御言葉」《ホ・ロゴス》を教えるとされるのは何よりも「福音」を告知することなのです。最初期共同体の用語では、《ホ・ロゴス》は福音の言葉を指す術語(専門用語)になっていました。イエスはエルサレムの神殿においても、ガリラヤでしておられた福音告知の活動を毎日続けられたことを、この一文は伝えています。エルサレム神殿での活動は、批判と応酬の激しい論戦の面が前面に出て来ていますが、基本的にはユダヤ教徒に「福音を告げ知らせる」活動であったことを見落としてはなりません。

 イエスはエルサレムに入ってからは「毎日神殿の境内で教え、福音を告げ知らせておられた」のですが、そのような活動をしておられるある日、神殿を支配している勢力がイエスの活動を咎めて、そのようなことをする資格を民衆の前で問い糾します。ここで「祭司長たちや律法学者たちが、長老たちと一緒に」としてあげられている三つのグループは、大祭司の下で最高法院を構成するユダヤ教指導層の三つのグループの名称です。この三つのグループがすべてあげられているのは、最高法院全体が、すなわちユダヤ教指導層の全体がイエスを糾弾しようとして迫っていることを語っています。

 彼らはイエスに対して、「何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか」と問い糾します。「このようなこと」は複数形であり、直前の神殿での象徴行為だけでなく、毎日神殿で民衆に教えるという行為、さらにガリラヤも含めてイエスがこれまでしてこられた公の活動すべてを指しています。現在形の動詞も「するのか」ではなく、「しているのか」と継続的に訳すのが適切です。

 彼らは、イエスがこのような「御言葉を教え、かつ福音を告げ知らせる」活動をする根拠、権威を問い糾します。ユダヤ教ではラビとして弟子に律法を教えるには、ラビとしての允許(いんきよ)が必要でした。彼らは、誰がイエスにその允許を与えたのかを問い糾します。もしその権威が天からのもの、すなわち神から直接与えられられたものであるならば、それを証明するしるしが必要だとして、彼らは以前から執拗に「天からのしるし」を求めました(一一・一六)。イエスはそのようなしるしをあたえることを拒否しておられます(一一・二九)。イエスの権威は「天からもの」であったのですが、彼らはそれを悟らず、自分たちの権威に敵対するものとして拒否します。御言葉(福音)を告知する権威を誰が与えたのかは、パウロの場合も問題にされましたが、パウロは福音を告知する使徒としての権威が「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって」与えられたものであることを宣言しています(ガラテヤ一・一)。同じ問題がイエスの場合は、このような形で神殿に集う民衆の面前で持ち出されています。

 イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねるから、それに答えなさい。ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか」。(二〇・三〜四)
 彼らのこの詰問に、イエスは同じ性質の問いを突きつけて答えられます。ヨハネがバプテスマを施すことによって神の言葉をイスラエルに伝える働きをしたのは、「天からのも」であったのか、すなわち神から遣わされてそのような活動をしたのか、それともヨハネ自身を含め誰か地上の人間の思いつきでしたこととか、誰かから委託されたしたことかと、彼らを問い詰められます。

 彼らは相談した。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。『人からのものだ』と言えば、民衆はこぞって我々を石で殺すだろう。ヨハネを預言者だと信じ込んでいるのだから」。そこで彼らは「どこからか、分からない」と答えた。(二〇・五〜七)
 彼らは即答することができず、お互いの間でひそひそと相談します。マルコ(およびマタイ)では「論じ合った」となっています。その相談の内容は、外に聞こえるものではないので、彼らの立場の矛盾をつく福音の立場からの推察を伝承がこのような形でまとめたものであると考えられます。彼らはヨハネのバプテスマを「天からのもの」とせず、彼の使信を無視しました。さらに、彼らはヨハネが神から遣わされたことを信じないで、彼を危険なメシア運動の主導者として危険視し、監視したり糾弾したりしました(ヨハネ一・一九〜二五)。しかし、彼らは民衆の前でそれを公言することはできません。それを公言すれば、ヨハネからバプテスマを受けて、彼を預言者として熱狂的に迎えた民衆の反感を招き、自分たちの権威が地に落ちることを恐れなければなりません。「民衆はこぞって我々を石で殺すだろう」というのは極端な表現ですが、彼らは自分たちに敵対する者を「石打」の刑で殺してきたので、民衆の敵意が自分たちに向けられる恐れをそのように表現したのでしょう。彼らはイエスの問いに、「どこからか、分からない」と答えざるをえません。

 すると、イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい」。(二〇・八)
 ヨハネの権威を神からのものと認めることができず、ただ民衆の反発を恐れてそれを公言できないような偽善者に、ご自分の権威が神からのものであることを宣言しても意味がないとして、イエスは彼らの質問に答えることを拒否されます。イエスを問い詰めようとした者たちは、民衆の面前でヨハネの権威の源を「分からない」と答えざるをえない状況に追い込まれ、イエスを問い糾す資格のない者であることを暴露され、面目を失って引き下がります。
 イスラエルの民衆は、ヨハネの告知が天からのものであることを認めてバプテスマを受けました。その民衆は今、イエスが語られる福音、すなわち恩恵の言葉が天からのものであることを直感して、喜んで耳を傾けています。その民衆が、すぐ後では祭司長たちに扇動されて、「この男を十字架につけよ」と叫ぶようになるのですから、群衆の動きに引きずられることは危険です。イエスにたいしては、一人ひとりの人生をかけた態度決定が求められます。


114 「ぶどう園と農夫」のたとえ(二〇・九〜一九)

たとえが置かれている位置

 このたとえは共観福音書すべてにあり、その比較は様々な問題を提起しています。さらに同じ内容のたとえがトマス福音書にも伝えられており、正典の共観福音書との比較はこのたとえの解釈に対して一つの資料を提供しています。

 すでにマルコ福音書の講解でこのたとえの基本的な意味は解説しており、マタイ福音書の講解ではマタイの特色を説明しました。今回のルカ福音書講解で取り上げるのがこのたとえを扱う最後となりますので、この機会にトマス福音書も含めて、このたとえの伝承を比較し、このたとえの真意と意義を探りたいと思います。比較の対象として、トマス福音書に伝えられているたとえをあげておきます。

トマス福音書 語録六五
 彼が言った、「ある良い人がぶどう園を持っていた。彼はそれを農夫たちに与えた。彼らがそれを耕して、それから収穫を得るためである。彼は僕を送った。ぶどう園の収穫を出させるためである。彼らは僕をつかまえて、袋だたきにし、ほとんど殺すばかりにした。僕は帰って、それを主人に言った。主人は言った、『たぶん[彼ら]は[彼]を知らなかったのだ』。主人は他の僕を送った。農夫たちは彼をも袋だたきにした。そこで自分の子を送った。彼は言った、『たぶん彼らは私の子を敬ってくれるであろう』。ところが農夫たちは、彼がぶどう園の相続人であることを知っていたので、彼をつかまえて、殺した。耳のある者は聞くがよい」。
    ―荒井献『トマスによる福音書』(講談社学術文庫)より引用―

 トマス福音書はイエスの語録を集めただけの文書ですから、このたとえがいつ誰に向かって語られたのか、その状況を説明する文言はありません。このたとえをこの位置においたのはマルコです。すなわちマルコは、イエスが最後にエルサレムにお入りになり、神殿で商人を追い出し、毎日民衆に福音を語っておられたとき、祭司長たちがそのようなことをするイエスの権威を問い糾し、イエスの鋭い反問にあって退散させられ、イエスに対する殺意を固めたときに、イエスがこのたとえを語られたとします。この状況に置くことについては、マタイもルカもマルコに従っています。この位置に置かれることで、このたとえは祭司長たちのイエスに対する不当な殺意を暴露するたとえになることは明白であり、共観福音書はどれもみな最後のところで、そのような意味のたとえであることを明言しています(マルコ一二・一二、マタイ二一・四五、ルカ二〇・一九)。

 しかし、たとえの形は三つの共観福音書で違ってきています。トマス福音書の形がもっとも素朴で、おそらくこの形がイエスの元の言葉に一番近いのではないかと推察されます。共観福音書の中ではルカの形が素朴な形をとどめており、マルコはたとえをかなり寓喩化しており、マタイはさらに寓喩を拡大していることがうかがわれます。以下、マルコとマタイの両福音書と比較しながら、ルカが伝えるこのたとえを見ていきましょう。

たとえの本体

 イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た」。(二〇・九)
 マルコ(一二・一)とマタイ(二一・三三)は、イザヤ書五章(一〜七節)の「ぶどう畑の歌」に基づいて「垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て」と、ぶどう園の様子を詳しく記述しています。そうすることで、このたとえがイザヤが語ったように、神とイスラエルの関係を指し示すたとえであることがすぐに分かるようにしています。マルコとマタイはこの関連を指し示すことで、イエスのたとえをイスラエルの歴史における救済史を物語る寓喩として理解する道を開いています。そのようなイザヤ預言を示唆する記述はトマス福音書にはありませんし、ルカもにトマスと同じようにイザヤ書の関連を示唆する記述はありません。これはルカがマルコを簡略にしたというより、マルコとは別の系統の伝承を採用したからではないかと推察されます。マルコまたはマルコ以前の伝承が、トマスやルカに見られる単純な元の伝承に、イザヤ書からの描写を加えて、イスラエルの歴史に関連づけています。

 「収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した」。(二〇・一〇〜一二)
 トマスでは、ぶどう園の収穫を納めさせるために最初に送られた僕(単数形)が、「袋だたきにして、ほとんど殺すばかりに」されて追い返されます。そして二人目が送られますが、この僕も同じように「袋だたきに」されます。トマスでは二人ですが、ルカは三人の僕が送られています。ルカでは三人とも「袋だたきに」にされるとか「傷を負わせ」られるとか、ほぼ同じような扱いで空手で追い返されています。誰も殺されてはいません。ルカには多少の拡大が見られますが、内容はほぼトマスと同じです。

 それに対してマルコ(一二・二〜五)では、最初の僕は袋だたきにされ、何も持たせないで追い返されます。二人目の僕は頭を殴られ、侮辱されます。そして三人目の僕は殺されます。マルコは最初にイザヤ書との関連を指し示してこのたとえをイスラエルの歴史を語る寓喩にしていますから、この三人の僕をイスラエルの民にその実を求めて派遣された預言者たちに対するイスラエルの拒否と迫害を語るたとえにしており、最後に「そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された」と、預言者の歴史を総括するような文を加えています。

 マタイ(二一・三四〜三五)は、さらに寓喩を拡大しています。マルコに見られた三人の僕がだんだんとひどい扱いを受け、最後には殺されるという漸増法はなく、始めから僕たちが送られ、その僕たちが一人は袋だたきにされ、一人は殺され、一人は石で打ち殺されます。とくに石打が指し示しているように、これはイスラエルの預言者たちの受けた迫害の歴史を語るたとえになっています。そして、「また他の僕たちを前よりも多く送ったが」、彼らも同じ目に遭わされます。この二群の預言者たちは、あきらかに旧約聖書で「前の預言者」と「後の預言者」とされている預言者群を指していると考えられます。

 「そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう』。農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる』。そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった」。(二〇・一三〜一五前半)
 ぶどう園の主人は最後に自分の息子を送ります。息子であれば、農夫たちも敬ってくれるであろうと期待して息子をぶどう園に送ります。マルコ(一二・六)は「まだ一人、愛する息子がいた」と書いて、その息子が一人息子であることを示唆しています。マタイとルカにはそのような示唆はありませんが、「愛する息子」という表現に、それが一人息子であることが含意されています。この「愛する息子《ヒュイオス》」とか「ひとり子」という表現は、最初期の共同体がイエスを語るときに繰り返して用いた称号であり、イエスがこのたとえを語られたときの用語がどうであれ、伝承の過程でイエスを指す称号が用いられるようになったという推察も行われています。このたとえを、ユダヤ教の指導者たちによってイエスが殺されたことを語るたとえにするために、「愛する息子」という表現を用いたのであるとされます。実際にオーナーの跡取り息子を殺しても、法的にぶどう園の所有権を得ることはできないのだから、これはユダヤ教指導層がイエスを殺したことを指し示すために無理に作為されたたとえであるとされる場合があります。

 しかし、この時代のガリラヤやユダヤでは土地の所有者とかその唯一の相続人を殺して、その土地を奪取することは、ありえないことではありませんでした。当時のパレスチナでは不在地主、とくに外国在住者や外国人の不在地主に対して、民族主義的な情熱から小作料不払いという形で反抗運動が頻発し、小作料を徴収しに来た者に暴行を加えるという事件も起こっていました。また、当時の法律制度では所有者のない土地は最初に占有した者の財産になったので、農夫たちが(父親が亡くなったので息子が相続するために来たと思って)跡取りの独り息子を殺せば、そのぶどう園は所有者のない土地になってしまうから自分たちのものになると考えることも十分あり得たこと、すなわちこのたとえの基本的な内容は十分歴史的な背景を持っていることが証明されています(C・H・ドッド、J・エレミアス)。

 おそらく、このような出来事を背景として、イエスが御自身の立場をトマス福音書のような形で語られたのが伝承されて、それをマルコがこの位置に置いて、イエスと神殿当局者との対決の場面として用いたことが考えられます。もちろん、イエス御自身がこのたとえを最後の神殿での活動のときに語られた可能性も否定できません。いずれにせよ、このたとえはイエスに対するユダヤ教指導層の殺意が、イスラエルの歴史に特有の預言者に対する拒否と迫害の歴史の最終局面をなすものであることを語り、イエスに対する殺意が神の子に対する殺意であると告発しています。

 なお、このたとえの最後のところはマルコ(一二・八)では「息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった」となっていますが、ルカ(及びマタイ)では「息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった」となっています。マルコの形は事件の自然な経過を描いている形ですが、ルカやマタイの形は、イエスがエルサレムの城外で処刑されたことを語り伝える受難伝承の影響を受けたものかもしれません(ヘブライ一三・一二参照)。

 ここまでがたとえの本体であると考えられます。トマス福音書に伝えられているたとえは息子の殺害で終わり、「耳のある者は聞くがよい」という句で結ばれています。このたとえをこの位置に用いたマルコは、息子の殺害の結果として起こることを物語の続きとして加えています。ルカもその部分をほとんど字句通りに受け継いで用いています。ただ、トマス福音書もこのたとえの直後に、「イエスが言った、『家造りらの捨てた石を私に示しなさい。それは隅の頭石である』」(荒井訳)という語録六六を続けており、最初期の伝承がこのたとえと「隅の頭石」の語録を一組にして語り伝えていたことは推察され、マルコ(またはマルコ以前の伝承)がその語録を息子の殺害の結果起こることの聖書的根拠として用いたことが考えられます。

たとえの応用

 「さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない」。彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。(二〇・一五後半〜一六)
 自分の息子を殺した小作の農夫たちを殺すことができるのは、王のように軍隊を使うことができるような立場の権力者であることになります。先のたとえの本体部分の内容からすると飛躍がありますが、語り手はそのようなことにこだわらることなく、このたとえをイエスを殺したユダヤ教団に対する神の扱いに適用します。このたとえで「ぶどう園の主人」は神を指し、「農夫たち」はユダヤ教指導者たちを指しますから、神がすべてを御旨のままになし得る主権者として振る舞われることを、「この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与える」という表現で語っています。

 ここの「農夫たち」は、神の民イスラエルを導き世話をして神に喜ばれる実を献げる役目を与えられた指導者たちを指します。彼らこそ、息子を殺せばぶどう園は自分たちのものになると考えて、主人の息子を殺した人たちです。イエスが告知された恩恵の福音は自分たちの律法の支配を覆すものとし、イエスを抹殺すれば律法による自分たちの支配は維持できると考えた人たちです。民衆の間に交じって聴いていた律法学者たちや祭司長たちは、このたとえの「農夫たち」が自分たちを指していることを理解します(一九節)。

 イエスは聴衆に「さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか」と問いかけられます。そして、主人の当然の行動として「戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるであろう」と自ら答えを与えられます。マタイ(二一・四一)はこの問いに聴衆が「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない」と答えたとしています。ルカの原文では、主人の行動は当然のこととして単純な未来形で述べられており、「違いない」という語はありません。神に背く彼らの罪が、神が遣わされた神の子を殺すという極限にまで達したとき、彼らの滅びは必然であるという審判の預言です。

 「ぶどう園をほかの人たちに与えるであろう」という言葉で、「ほかの人たち」は誰を指すのかが問題になります。これは、神の民の指導者としての地位が現在神殿を支配している祭司長たちや律法学者たちから取り上げられて、その地位が別のユダヤ人(たとえば「貧しい人たち」)に与えられるであろうという意味ではなく、神の民としてのイスラエルの資格がユダヤ人から取り上げられて、「ほかの人々」すなわちユダヤ人以外の異邦人に与えられるであろうと理解すべきです。マタイ(二一・四三)は明確にそう理解してます。すでに異邦人が共同体の主流をなしている時期に書いているルカも、そのような意味で「ほかの人たち」を用いているはずです。息子の殺害の結果として起こる出来事を語る部分(一五後半〜一八節)は、このたとえの「ぶどう園」をイザヤ預言と結びつけて、たとえをイスラエルの命運を物語る寓喩としたマルコの扱いの延長上にあります。たとえの本体は寓喩としないで素朴な形で伝えたルカも、この部分ではマルコを継承し、同じように神の民の資格がユダヤ人から取り上げられ異邦人に与えられることを語る物語にしています。

 このたとえを伝承したマルコ以前の共同体は、イエスを殺したユダヤ教団がその後もイエスをキリストと告知する福音に敵対してきたことを体験しています。パウロやペトロと共に福音告知の働きをしたマルコの個人的体験が示しているように、この時期の共同体は異邦人世界に福音を告げ知らせる活動を進め、それが成果を収めていることも知っています。また、イエスがエルサレムと神殿の崩壊を預言された言葉も伝承しています。そのような共同体は、ユダヤ教側がイエスを殺したことを指し示すこのたとえを、それに対する神の裁きとしてユダヤ教団の壊滅と神の国への異邦人の参入を語るとたえとしないではおれなかったと考えられます。ましてルカは、その事が起こってから数十年後に福音書を書いています。しかも異邦人に福音を告げ知らせるためにこの福音書を書いています。マルコの物語をこのような意味で理解してこの物語を伝えているとするのは当然です。

 イエスの言葉を聴いた聴衆は、「そんなことがあってはなりません」と言います。聴衆のユダヤ人たちには、ユダヤ人が追い出されて異邦人が神の民として迎え入れられるというようなことは考えられないことです。彼らはイエスが語られた「ほかの人々」が異邦人を指すと理解して、「けっしてそんなことは起こらない」と抗議します。

 イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった』。その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう」。(二〇・一七〜一八)
 彼らの抗議に対して、イエスは聖書の言葉を引いてそう語る根拠を示されます。ここで引用されている聖書は、詩編一一八編二二〜二三節ですが、これはイザヤ書八・一四、二八・一六と共に、イスラエルがつまずき、殺し、投げ捨てたイエスが、復活によって新しい神の民の土台とされるということを証明する聖句として、最初期の共同体が好んで引用した聖句です(使徒四・一一、ロマ九・三三、エペソ二・二〇、ペテロ一二・六〜八)。ここでは、農夫たちが「ぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった」息子(イエス)を、神が人間の思いを超える不思議な力をもって復活させて、新しい民の土台の石とされることを予言する聖句として引用されています。この引用は、このたとえの内容とは正確には対応していません。「戻って来る」のは、殺された息子ではなくぶどう園の持ち主である父親であるし、神の国が異邦人に与えられることも詩編は何ら言及していません。しかし、イスラエルが殺したイエスを神が復活させて栄光の座につけられるという福音の根本真理にまで来なければ、息子が殺されるというたとえは福音の真理の宣明にはなりません。共観福音書はこの引用を最後に置くことで、このたとえを復活の光で照らし出します。

 その後に、ルカは(マタイも)マルコにはないイエスの言葉を付け加えます。「その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれる」というのは、その石はイスラエルが捨てたのを神が堅く据えられた土台石ですから、その石に向かって敵対し襲いかかる者はだれでも自分の方が打ち砕かれるという意味であり、「その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう」というのは、その石が行動するとき、だれも抵抗することはできず押し潰されることを語っています。これは、ダニエル書(二・三四、四四〜四五)の象徴のイメージで語られたものと考えられます。この石の神の力による盤石の強さに較べると、すべての人間の営みは壊れやすい陶器の壺のようで、壺がその石の上に落ちるならば、石は傷つかず壺が砕けるだけです。石が壺の上に落ちるならば、壺は打ち砕かれます。

 そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。(二〇・一九)
 イエスがこのたとえで律法学者たちや祭司長たちの殺意を暴露されたので、対立は決定的となり、彼らはもはやイエスを殺す他はないとして、すぐにも逮捕して実行しようとしますが、イエスを支持する民衆のいるところでは騒乱になるので、それもできません。民衆のいないときに「秘かに」イエスを捕らえて処刑する策略をめぐらし、実行にとりかかります(二二・一〜二)。


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