ルカ福音書講解 21 

      第二一章 逮 捕 と 裁 判

                       ― ルカ福音書 二二章(三九節)〜二三章(二五節) ―


はじめに

 三部で構成されているルカ福音書の第三部「エルサレムでの受難と復活」は、これまでに見てきたように、次の三つの区分に分けることができます。

1 神殿での活動と論争(一九・二八〜二一・三八)
2 受難物語(二二・一〜二三・四九)
3 復活告知(二三・五〇〜二四・五三)

 第二区分の「受難物語」は、最後の晩餐、逮捕と裁判、十字架上の死という三つの山場に分けて講解を進めています。前回は最後の晩餐を扱いましたので、今回は「逮捕と裁判」を取り上げます。そのさい、ピラトの裁判は段落139の「死刑の判決を受ける」(二三・一三〜二五)まで続いていますが、章のバランス上、今回の講解はその前で切り、その段落は続く十字架刑の執行と合わせて、「十字架刑の判決と執行」という見出しでまとめることにします。



132 オリーブ山で祈る(22章39〜46節)

オリーブ山でのイエスの祈り

 イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。(二二・三九)

 夜も更けたころ、イエスは最後の食事を弟子たちとされた部屋を出て、エルサレム市街の東、キドロンの谷を隔てた向こう側にあるオリーブ山に行かれます。弟子たちもイエスに従って一緒に行きます。ユダは先に出て行っていないのですから、十一人の弟子たちが従ったことになります。

 イエスと弟子たちの一行が夜にオリーブ山に行ったことについて、ルカは「いつものように」という説明をつけています。ルカは先にエルサレムに入られてからのイエスの行動を、「それからイエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って『オリーブ畑』と呼ばれる山で過ごされた」(二一・三七)と伝えていました。その「いつもの習慣のように」この最後の夜も、オリーブ山の「いつもの場所」で過ごそうとされます。オリーブ山の山腹に、イエスと弟子たちが夜を過ごすのに使える自然の洞窟があったと伝えられています。

 この「いつものように」という説明には、モーセ律法を守られるイエスの姿が見られます。律法は過越祭に来る巡礼者たちに、祭りの間はエルサレムにとどまるように求めています。巡礼者の数が増えて全員がエルサレム市街に泊まることができなくなったとき、「エルサレム」の範囲は拡大解釈されて、近郊の地域も含まれるようになり、イエスの時代ではオリーブ山も「エルサレム」と見なされていました。イエスはこの規定を守られます。

 イエスと弟子たちの一行がオリーブ山に向かう途上での対話をマルコ(一四・二六〜三一)は伝えていますが、ルカはそれを何も伝えていません。マルコではイエスはゼカリアの預言を引いて、イエスの受難に弟子たちがつまずいて散らされることを予告し、「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」と言われたことを伝えていますが、ルカはその予告を全面的に削除しています。これは、空の墓における「あなたがたより先にガリラヤへ行く」という告知が「まだガリラヤにおられたころ、お話になったこと」に変えられていること(二四・六)と合わせて、イエスが復活後弟子たちをガリラヤに導かれるというマルコの構想を否定し、弟子たちが復活後もエルサレムにとどまり、そこから福音の告知が始まったとするルカの構想に合わせるためです。なお、この弟子のつまずきの予告に含まれるペトロのイエス否認の予告も、ルカではガリラヤ行きの予告と切り離されて、途上の対話ではなく、最後の晩餐の席の対話とされています(二二・三一〜三四)。

 いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。(二二・四〇)

 マルコ(一四・三二)では「一同がゲツセマネという所に来ると」とあり、場所の呼び名があげられていますが(マタイ二六・三六も)、ルカは「いつもの場所に来ると」(原文では「その場所に来ると」)と言うだけです。出来事から遠く離れた異邦人の読者には細かい地名は必要ないとしたのでしょうか、「ゲツセマネ」という名をあげていません。ヨハネ(一八・一)も地名をあげていません。

 イエスは「いつもの場所」で最後の祈りを父に捧げようとされます。その前に弟子たちにも祈るように求められます。イエスの前には厳しい試練が待ち構えています。イエスはいよいよ定められた自分の役割を果たすべき時が来たことを覚り、それがいかに苦しいことか、その重圧の前にもだえ苦しまれます。マルコ(一四・三二〜三四)は、「イエスはひどく恐れてもだえ始め」、弟子たちに「わたしは死ぬばかりに悲しい」と洩らされたと伝えています。このイエスの恐れと悲しみが何であるのかという重大な問題には後で触れることにして、ここではルカがこのマルコの伝えるイエスの苦しみに触れていないという事実に注目するだけにします。

 イエスは弟子たちに「誘惑《ペイラスモス》に陥らないために」祈っているように求められます。ここの現在形の命令文は「祈っていなさい」と訳す方が適切でしょう(二二・四六と同形)。今サタンは弟子たちを「小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられ」ているのです(二二・三一)。これから起ころうとしている出来事を用いて、サタンは弟子たちを不信と絶望という地獄に引きずり込もうとしています。霊が祈りにおいて神との交わりに目覚めていなければ、サタンの誘惑に負けて不信と絶望に引きずり込まれてしまいます。

 この《ペイラスモス》(誘惑・試練)は今イエスが直面しておられる生涯最後の、そして最大の試練です。イエスはその生涯において様々な《ペイラスモス》(試練)に遭遇し、それと戦い打ち勝ってこられました。そのような体験が「荒野の誘惑」の記事を生み出したと見られます。弟子たちも絶えずイエスと一緒にいて踏みとどまってきました(二二・二八)。今最後の《ペイラスモス》に直面して、弟子たちにも一緒に目を覚まして祈っているように求められます。

 そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」。(二二・四一〜四二)
 弟子たちに祈っているように求められましたが、それは弟子たちが誘惑に陥らないためでした。イエスご自身は、この試練に一人で立ち向かうために弟子たちから少し離れて祈られます。その距離は、投げた石が届くほどの距離で、イエが切々と祈られる声も届き、イエスの祈りが伝えられることになります。

 ルカはイエスは「ひざまずいて」祈られたとしていますが、マルコ(一四・三五)は「地面にひれ伏し」て祈られたとしています。ユダヤ教徒は普通立って祈りますから、両方ともこの時のイエスの祈りがいかに自分を投げ出した切実なものであったかを示しています。しかし、マルコの方がこの場面にいっそうふさわしいと感じられます。イエスの受難を描いたデューラーの版画も、この場面を地にひれ伏して祈られる姿で描いています。ルカの「ひざまずいて」は、後に殉教者が死に直面して祈る時の姿勢として用いられていますが(使徒七・六〇のステファノ、使徒二〇・三六のパウロ)、それをイエスの場合にも用いていることになります。

 この時のイエスの祈りはマルコ(一四・三六)もルカもほぼ同じ言葉で伝えていますが、違いも見受けられます。マルコがイエスが神に「アッバ、父よ」と呼びかけられたと伝えていますが、ルカは「アッバ」というアラム語の呼びかけを伝えず、「父よ」というギリシア語だけにしています。イエスはアラム語を用いる普段の祈りで「アッバ」と呼びかけて祈っておられたと考えられますが、イエスの言葉を伝えるイエス伝承を用いて書かれた福音書に、この「アッバ」というイエスの祈りの呼びかけが伝えられているのはこのマルコの一節だけです。パウロ書簡には二箇所(ガラテヤ四・六、ローマ八・一五)に出てきており、使徒時代の共同体では祈りに「アッバ」という呼びかけが用いられていたことを垣間見させますが、福音書がすべてギリシア語で書かれる時代には、このアラム語は用いられなくなります。しかし、ゲツセマネでの切々たるイエスの祈りの声を聞いたペトロは、そのときのイエスの「アッバ!」を語り伝えないではおれなかったのでしょう、アラム語のままで語り伝え、それがマルコに保存されたと見られます。この「アッバ」は、もっとも確かな「イエス自身の声」です。しかし、さらに時代が降ったマタイやルカにはこのアラム語の呼びかけはありません。その声を直接聞いたペトロの切実さは消えていきます。

 ルカは「御心なら」と書いていますが、マルコでは「あなたは何でもおできになります」と呼びかけて、「(何でもできるあなたが)この杯をわたしから取りのけてください」と願っておられます。この方が願いの切実さが強いと感じさせます。ルカの「御心なら」は、どうしても取りのけてくださいという切実さが弱く、やや冷静な客観的記述の印象があります。

 しかし、マルコとの最大の違いは、マルコはイエスがこの祈りを三回繰り返されたと伝えていますが、ルカはこれを一回にしている点です。イエスがこの祈りを三回も繰り返されたのは、今イエスに突きつけられている「杯」を飲み干すことがイエスにとっていかに苦しいことであったか、その「杯」を取りのけていただくことがいかに切実な願いであったかを強調しています。ところが、それを一回にまとめるルカの記述は、その切実さが弱まり、イエスの祈りの内容を伝えることにとどまるという印象を与えます。総じてマルコの書き方には現場に居合わせた者の証言という臨場感が残っていますが、ルカになると、出来事を客観的に報告する歴史家の筆致を感じさせるようになります。

 この時のイエスの祈りを解釈するさいの最大の課題は、イエスがこれほど切実に取りのけられることを願われた「杯」とは何か、その「杯」の意味内容の問題です。実はマルコ福音書には、イエスがエルサレムにお入りになる直前に、エルサレムで受けようとされている苦しみについて「杯」という象徴を用いて語られた記事(マルコ一〇・三五〜四五)があります。イエスがゲツセマネで取りのけることを父に願われた「杯」が何であるかは、そこの講解で説明されていますので、ゲツセマネの祈りではそれを前提にして扱うことができました。ところがルカは、その記事を省略していますので、ここで始めて「杯」という象徴表現が出てくることになります。

 旧約聖書では、杯は神からの救いや祝福の象徴として用いられています(詩編二三・五、一六・五、一一六・一三など)。しかし同時に、神の審判の象徴としても用いられています(イザヤ五一・一七〜二三、エレミヤ二五・一五〜二九、詩編七五・九など ―― 審判の象徴としての杯は神明裁判で被告が苦い水を飲まされた杯に起源があるのかもしれません)。イエスはそこでご自分が受けなければならない苦難を「わたしが飲む杯」と表現しておられます(マルコ一〇・三八)。ヨハネもイエスがこのような意味での「杯」について語られたことを知っています(ヨハネ一八・一一)。

 この杯には神の怒りと裁きという苦い水が満たされて、イエスに突きつけられているのです。イエスにとってこの杯を飲むことがいかにつらいことであったかは、ゲッセマネで三度まで「この杯をわたしから取り除けてください」と祈られたことからもうかがえます。それは単なる肉体の苦しみではなく、神の裁きに身を委ねる魂の苦しみ、永遠の死の苦悩です。子として父との絶えざる交わりの中に生きてこられたイエスにとって、これだけはどうしても取り去っていただきたい「杯」です。

 この「杯」という象徴が指し示している霊的現実、すなわちイエスがここで味わっておられる苦悩の中身はあまりにも深くて、いかなる注解や講解の筆もその前で立ちすくむだけです。「キリストの十字架」の出来事は、すでにここで始まっています。イエスはその「杯」を十字架の上で飲み干されることになります。この時のイエスの苦しみの霊的内容を記述することは、「キリストの十字架」の出来事、神の子キリストによる贖罪の出来事の全体を記述することになります。それは全新約聖書神学の課題であり、この箇所の講解がなしうることではありません。それでもなお、口ごもりながらでも「杯」が指し示している内容を語るとすれば、それは神への背きという人間の罪に対する聖なる神の怒り(審判)の杯であり、父との親しい交わりの中で神の命に生きてこられたイエスにとって、それを受けて永遠の死に直面することほど恐ろしいことはありません。罪を知らない神の子が罪とされて、神の怒りに直面しているのです。イエスは何でもできる父に、もし自分がこの杯を飲み干す以外に人を救う方法があれば、この杯だけは飲まないですむようにしていただきたいと迫られます。しかし、この杯は取りのけられることなく、突きつけられたままです。子の切なる願いを聞き入れることができず、父も子の苦しみを共にしておられます。苦闘の祈りの末、イエスは「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と、父の御心を受け入れ、この杯を飲み干す覚悟を決められます。イエスは「父よ、あなたの意志が行われますように」という祈りをもって生涯を貫かれた方です。その祈りがこの最後で最大の試練において貫かれます。

 このような「神の子キリストの十字架」による贖罪の深みは別の場で扱わざるをえませんが、ここでは、イエスご自身がこの「杯」を前にして、「ひどく恐れてもだえ始め」、「わたしは死ぬばかりに悲しい」と言われた事実は、この時のイエスの祈りには人知が到達できない深い《ミュステーリオン》(奥義、神秘)があることを指し示していることに触れるにとどめます。ただルカは、マルコと違って、イエスが祈りを前にして「ひどく恐れてもだえ始め」られたことを伝えず、すぐにイエスの祈りの内容に入りました。そのことを不十分と感じたのか、その後に次のようなイエスの苦しみを記述する節が来ます。

 〔すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。〕(二二・四三〜四四)

 この二節が(底本で)[ ]に入れられているのは、この二節を欠く古代の有力な写本があり、元のルカ福音書にはなかった文章が後で挿入された可能性があることを示しています。十字架の出来事を描くルカの記述の特徴(「エロイ、エロイ・・・・」の叫びが削除されているなど ― 後述)からすると、元のルカ福音書にはこのような記述はなかったと見てよいでしょう。しかし、後にマルコ福音書が普及し、ゲツセマネの祈りにおけるイエスの苦悶の意義が重要視されるようになった時に、それを欠くルカの記事を補うために、このようなイエスの苦悶を強調する文が挿入されたのではないかと推察せざるをえません。この二節の挿入により、ルカ福音書もマルコ福音書と同じく、イエスの十字架の秘義を指し示す拠点をもつことになります。

 この祈りにおけるイエスの苦悶を表現するのに、マルコ(一四・三三)は「ひどく恐れてもだえ始め」と動詞を用いていましたが、ここでは《アゴニア》(苦悩、苦悶)という名詞を用いて表現されています(この名詞は新約聖書ではここだけです)。天使の出現はルカ的表現(一・一一)で書かれています。「汗が血の滴るように地面に落ちた」という表現は、祈りの切実さを表現しようとしたのでしょうが、このような誇張された表現はルカのペンから出たものではないと判断する注解者が多いようです。

 この箇所の本文批評的な見解がどうであれ、わたしたちはマルコ福音書の証言により最後の夜の祈りにおけるイエスの苦悶を知っているのですから、ルカの歴史的事実の冷静な報告の背後に、この二節を挿入した人たちと同じく、この祈りにおける主の苦悩を瞑想し、そこに十字架の秘義を読み取るべきでしょう。

 イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。イエスは言われた。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」。(二二・四五〜四六)

 イエスは自分に差し出されている「杯」を前にして、三度までそれを取りのけてくださることを父に祈られます。しかし、「杯」は突きつけられたままで取りのけられません。イエスは自分がその「杯」を飲み干す以外には父の御心が行われる道はないのだと悟り、「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」との祈りで祈りを終えられます。

 祈り終えて、(ルカでは跪いている姿勢から、マルコでは地面にひれ伏している姿から)立ち上がって弟子たちのところに戻って来てご覧になると、弟子たちは眠っています。イエスは弟子たちに「なぜ眠っているのか」と声をおかけになります。イエスは祈りに入る前に、「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と弟子たちに求められました。しかし、弟子たちはイエスの求めに応えることができず、眠り込んでしまっています。

 この弟子たちの眠りについて、ルカは「悲しみの果てに」という説明をつけています。ここに用いられている《リュペー》という名詞は、悲しみとか苦悩を意味する語です。この説明は、その後の出来事の進展を知っている立場から、この時の弟子たちの心情を説明したものです。すぐ後にイエスは逮捕され、裁判にかけられ、十字架刑によって処刑されます。このような成り行きは弟子たちが予想しなかったことであり、この出来事に直面して弟子たちは落胆し、悲しみの中で「散らされて」ガリラヤに戻ります。しかし、そのことが実際に起こるまでは、弟子たちはメシアと信じているイエスがエルサレムではその力を発揮して大いなることを行われ、神の支配が実現すると信じ期待していたのです(一九・一一、マルコ一〇・三七)。その期待はここでもまだ続いていた可能性があります。弟子たちが「悲しみの果てに」眠り込んでいたとするのは、十字架以後の弟子たちの悲しみを知っているルカの説明であって、必ずしも事実であるとは限りません。

 弟子たちの眠りについては、もう一つ重要な箇所があります。それは「山上の変容」の時の弟子たちの眠りです(九・三二〜三三)。その時は、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子がイエスの側にいました。このゲツセマネでも、ルカは伝えていませんがマルコ(一四・三三)によれば、この三人がイエスの側にいます。イエスは十二人の弟子に「苦しみを受ける人の子」の奥義を語り出された後、エルサレムへの最後の旅程の一歩を踏み出すにあたって、一人父との交わりに没入しようとされます。このときイエスはペトロ、ヨハネ、およびヤコブの三人を連れて山に登られます。この三人はゲツセマネの祈りのときと同じです。ここの山での祈りとゲツセマネの祈りは、受難の旅の始めと終わりに位置して、対応しています。おそらくイエスは、この祈りの場で与えられる秘義の啓示について、この三人を証人として側におらせようとされたのでしょう。

 この二つの重要な場面で、同行した三人の弟子が眠気に襲われたことも同じです。ルカのこの箇所(九・三二)の表現では、「眠りに押さえつけられていた」というような動詞が用いられています。マタイ(二六・四三)は同じ動詞、マルコ(一四・四〇)は同系の動詞をゲツセマネの祈りの場面で用いています。「ペトロは自分で何を言っているのか、わからなかった」(ルカ九・三三)と、「(弟子たちは)何と答えたらよいのか、わからなかった」(マルコ一四・四〇)と、両方の場合で弟子たちの心理状態も同じです。山上でもゲツセマネでも同じですが、そのような緊迫した状況で弟子たちが自然に眠くなることは考えられません。弟子たちは何か霊的な力を受けて、通常の状態を超えた意識状態(一種のエクスタシーの状態)に陥っていたと考えられます。

 そのような特殊な意識状態で、ペトロたちは御霊による幻(ビジョン)を体験します。変容の山上ではイエスの隠されていた栄光を啓示され、ゲツセマネではイエスの苦悩の祈りの中身を聴き取ることになります。イエスの変容があった山とオリーブ山での三人の弟子の眠りは、このような一種のエクスタシーの状態で受けた啓示の体験ではなかったか、とわたしは推察しています。


133 裏切られる(22章47〜53節)

 イエスがまだ話しておられると、群衆が現れ、十二人の一人でユダという者が先頭に立って、イエスに接吻をしようと近づいた。(二二・四七)

 イエスがゲツセマネの園で逮捕された状況についての福音書の報告は様々ですが、逮捕に来た者たちがユダに先導されてきたことは一致しています。共観福音書はみなユダが「十二人の一人」であることを附言して強調しています。「十二人の一人」であるユダは、イエスがユダ自身を含む十二人の弟子たちと夜を過ごす隠れた場所を知っており、その所在を、「秘かに(=民衆のいないところで)」イエスを逮捕しようとしていた祭司長たちに通報します。ユダが祭司長たちに通報した内容は他にもあったかもしれませんが(たとえばイエスの教えの内容)、確実なことはイエスを「秘かに」逮捕することができる場所を通報したことが、彼の「裏切り」のもっとも確かで具体的な中身です。

 ユダに先導されてイエス逮捕に向かってきた者たちのことを、ルカはただ「群衆」が現れたと報告するだけです。後(五二節)でそれが「祭司長、神殿守衛長、長老たち」であることが明言されますが、マルコやマタイに較べると、その簡略さが目立ちます。しかし、ルカを含む共観福音書とヨハネ福音書との間には、このイエス逮捕の状況についても大きな違いがあります。それは、ヨハネ福音書では千人隊長に率いられるローマの正規軍が祭司長たちユダヤ教側の勢力と一緒に来ていることです(ヨハネ一八・三、一二)。

 ローマの正規軍がイエス逮捕に出動していることを伝えているのはヨハネ福音書だけですが、反乱の疑いがある場合として、祭司長たちがピラトに出動を要請した可能性は十分にあります。この場合も目撃証言として、ヨハネの報告が事実ではないかと考えられます。共観福音書では、逮捕の場面にはローマ軍は登場せず、武器をもった「群衆」が祭司長たちから遣わされて園にやって来ますが、これはローマ側の責任を軽くしようとする護教的動機からではないかとも推察させます。あるいは、ただ報告が大雑把であるだけかもしれません。

 ユダが「イエスに接吻をしようと近づいた」のは、そこにいる十二人(イエスと十一人の弟子)の中で、どれがイエスであるかを特定するためです。ローマ軍はイエスの顔を知りません。ユダヤ教側の神殿警備の下役もイエスを知らない者もいたでしょう。どの人物が逮捕すべきイエスであるかを特定する必要がありました。ユダは接吻をもってイエスを指し示そうとします。この意図はマルコでは、はっきりとこう書かれています。
 
     イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。捕まえて、逃がさないように連れて行け」と、前もって合図を決めていた。(マルコ一四・四四)

 ユダはやって来るとすぐに、イエスに近寄り、「ラビ(先生)」と言って接吻します(マルコ一四・四五)。「接吻」はラビに対して弟子が敬意を示すためにする挨拶の形です。

 イエスは、「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」と言われた。(二二・四八)

 イエスの言葉は直訳すると、「ユダよ、あなたは接吻で人の子を引き渡すのか」となります。イエスは祈り終えたとき、弟子たちが眠っているのをご覧になり、こう言っておられます。

    「もう決着したのだ。時が来た。見よ、人の子は罪びとらの手に引き渡されるのだ。さあ、立て。行こう。見よ、わたしを引き渡す者が近づいてきた」。(マルコ一四・四二私訳)

 ルカはこの箇所で、マルコと同じ《パラディドーミ》(引き渡す)という動詞を用いています。「人の子は引き渡される」という表現は、イエスがご自身の受難を予告されたとき用いられた表現であり(マルコ九・三一)、その伝承は繰り返し引用されています。ルカもこの表現を知っています(九・四四)。ユダがイエスに接吻したとき、イエスがこのように言われたとするのはルカだけですが、ルカはこの表現を用いて、イエスが予告された言葉が実現する物語を構成したと見られます。

 イエスの周りにいた人々は事の成り行きを見て取り、「主よ、剣で切りつけましょうか」と言った。(二二・四九)

 状況からして、「イエスの周りにいた人々」というのは十一人の弟子のことになります。イエスが逮捕されるという思いもしなかった「事の成り行きを見て」、弟子たちは抵抗しようといきり立ちます。最後の食事の席で、ご自身が取り去られた後の厳しい状況に対処する覚悟を促すために語られた「剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい」という言葉が誤解されて、剣をもって(=武力を用いて)「事の成り行き」に抵抗しようとします。ユダヤ人男性は護身用に短剣を身につけている者もいたので、このような叫びが出てくることになります。受難を父の御旨として受け入れておられるイエスと、メシア・イエスによる栄光の支配の実現を期待する弟子たちの間の深い溝は、最後の最後まで続きます。

 そのうちのある者が大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落とした。(二二・五〇)

 ルカでは「そのうちの一人」が「大祭司の手下」(単数形)に打ちかかって右の耳を切り落としたとあるだけで、誰が誰の耳を切り落としたのかは語られていません。マルコもマタイも同じです。ところがヨハネ福音書(一八・一〇)は、「シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコスであった」と、誰が誰の耳を切り落としたのかを詳しく伝えています。

 そこでイエスは、「やめなさい。もうそれでよい」と言い、その耳に触れていやされた。(二二・五一)

 弟子たちは、自分の敵に対しては暴力を用いて対抗するのは当然としています。それは人間の本性です。しかし、イエスはそれを止めます。イエスは、自分に殺意をもって迫ってくる敵に対しても、傷をいやすという善をもって報いられます。イエスは最後の最後まで善だけをなされます。

 イエスが切り落とされた耳の傷をいやされたことを語るのはルカだけです。他の福音書はイエスがいやされたことには触れず、剣を鞘に収めるように命じられたことを伝え(マタイとヨハネ)、さらに「剣を取る者は皆、剣で滅びる」という有名な言葉を伝えています(マタイ二六・五二)。ルカは「止めなさい」の一句にすべてを含めます。

 それからイエスは、押し寄せて来た祭司長、神殿守衛長、長老たちに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのか。わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あなたたちはわたしに手を下さなかった。だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている」。(二二・五二〜五三)

 ここで、イエスを逮捕するために押し寄せてきた者たちが誰であるかが明言されます。それは「祭司長、神殿守衛長、長老たち」でした。すなわち、当時のユダヤ教教団国家を統治する支配階級の人たちです。彼らはイエスを彼らの統治に反逆する者として抹殺しようとします。

 彼らは「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って」イエスに押し迫ってきます。ここで用いられている《レーステース》(強盗)という語は、当時ローマの支配に反逆して武装蜂起を試みる革命家を指す用語でもありました。先に見たように、ユダヤ教指導層はイエスを取り除くために、イエスをこのような《レーステース》として総督ピラトに訴え、ローマ正規軍の出動を要請したので、イエスがこのように言われる事態になったと見てよいでしょう。

 イエスはエルサレムに入ってからは毎日神殿の境内で教えておられました。神殿は彼らの支配圏内です。しかし、イエスに熱心に耳を傾けている民衆のため、彼らはイエスに手を下すことができませんでした。民衆のいるところでイエスを逮捕すれば、彼らがもっとも恐れている騒乱が避けられません。騒乱が起こればローマの権力の介入を招き、自分たちの支配権が揺らぎかねません。それで、イエスを「秘かに」捕らえるために策略を巡らしたのでした。とうとうその時が来ました。それはまさに彼らの時、イエスが言われる「あなたたちの時」です。このことは夜の深い暗闇の中で行われました。その夜の暗闇が象徴するように、神に敵対する「闇」が力を振るう時です。

 その闇の中で、「あなたの意志が行われますように」という祈りで心を決められたイエスは、静かに「わたしの時」を迎えられます。イエスが父の意志に従われてこの事態を受け入れられたことを、マタイ(二六・五三〜五六)は「聖書が満たされるために」というイエスの言葉で描き、ヨハネ(一八・一一)は「父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」という言葉で説明します。この箇所は、ヨハネが「杯」の言葉の伝承を知っていることを示しています。

 なお、新共同訳はここ(五三節)で段落を区切っていますが、次節(五四節)の「人々はイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペトロは遠く離れて従った」までをこの段落に含ませて「イエスの逮捕」という標題をつけ、五五節から六二節までに「ペトロの否認」という標題をつける方が適切ではないか、とわたしは思います。

 


134 イエス逮捕される・ペトロ、イエスを知らないと言う(22章54〜62節)

ペトロの否認の出来事

 人々はイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペトロは遠く離れて従った。(二二・五四)

 捕縛されたイエスは大祭司の屋敷に連れて行かれます。ここから「イエスの裁判」のプロセスが始まるのですが、四福音書はすべてその中にペトロがイエスを知らないと言って否認する記事を置いています。その位置については後で触れることにして、ルカはイエス逮捕の直後に大祭司の屋敷で起こった出来事として伝えています。

 逮捕されたイエスが連れて行かれた先について、ルカはただ「大祭司の家」とだけ書いています(マルコも)。ところが、マタイ(二六・五七)は「大祭司カイアファのところ」に連れて行ったとし、ヨハネ(一八・一三)は「アンナスのところ」としています。その年の大祭司はカイアファでしたが(ヨハネ一一・四九)、先の大祭司であり彼の舅のアンナスが実権を握っていました。おそらく「大祭司の知り合いであるもう一人の弟子」ヨハネ(後述)が目撃証人として伝えるように、アンナスの屋敷に連れて行かれたのが事実でしょうが、当時のユダヤ教の歴史を知るマタイが正式の大祭司の名を用いたという可能性が考えられます。あるいは、二人は同じ屋敷(あるいは同じ敷地)に住んでいたのかもしれません。ヨハネ(一八・二四)の記述は、両者の住まいについて確かな情報を伝えていません。

 イエスが逮捕されたときに弟子たちが一味の者たちとして逮捕されなかった事情については、ヨハネ(一八・八)だけが、イエスが「わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい」と言われたからという理由を伝えています。しかし実際は、マルコ(一四・五〇)が伝えているように、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」のです。逮捕を免れたペトロは、事の成り行きを見届けようとして、「遠く離れて」恐る恐るついて行きます。

 人々が屋敷の中庭の中央に火をたいて、一緒に座っていたので、ペトロも中に混じって腰を下ろした。(二二・五五)

 異端の疑いと騒乱の危険の元凶として逮捕されたイエスの仲間であるペトロが、大祭司の屋敷の中庭まで入れた事情については、ヨハネが次のように伝えています。

     シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。(ヨハネ一八・一五〜一六)

 過越祭は春分の頃にある祭りです。まだ寒さが残る季節であり、その年の過越祭は寒かったのでしょう、人々は中庭で焚き火を焚いて暖を取っていました。ペトロもその人たちの「中に混じって腰を下ろし」暖を取ります。そのとき事件が起こります。

 するとある女中が、ペトロがたき火に照らされて座っているのを目にして、じっと見つめ、「この人も一緒にいました」と言った。(二二・五六)

 大祭司の屋敷の女中が、焚き火の火で照らし出されたペトロの顔を見ます。彼女は以前、イエスがエルサレムで活動しておられたとき、ペトロが一緒にいたのを目撃していました。ペトロの顔をじっと見つめ思い出し、「この人もあの人(イエス)と一緒にいました」と言い出します。「この人もあのイエスの仲間だ」ということです。

 しかし、ペトロはそれを打ち消して、「わたしはあの人を知らない」と言った。(二二・五七)

 ペトロは事の成り行きが心配でここまでついてきましたが、内心は恐怖で満たされていたのでしょう。物々しい軍勢に師のイエスは捕縛され、弟子たちはその一味として、逮捕を免れたものの厳しい詮索の対照とされているという状況は変わりません。ペトロは思わず、女中の言葉を打ち消して、「わたしはあの人を知らない」と言ってしまいます。

 少したってから、ほかの人がペトロを見て、「お前もあの連中の仲間だ」と言うと、ペトロは、「いや、そうではない」と言った。(二二・五八)

 それから「少したって」、「ほかの人」(男性単数形)がペトロを見て、「お前もあの連中の仲間だ」と言います。今回もペトロはそれを打ち消して、「人よ、わたしは違う」(直訳)と叫びます。先の女中に対する打ち消しは思わず出たのかもしれませんが、今回は「少したってから」ですから、自分が置かれている状況を十分自覚して言った言葉です。ペトロは恐怖の中で保身の思いから、自分の判断でイエスを否認します。

 一時間ほどたつと、また別の人が、「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」と言い張った。(二二・五九)

 さらに「一時間ほど経って」、また「別の人」(ここも男性単数形)が「確かにこの人も一緒だった」と「言い張ります」(この動詞はここと使徒一二・一五だけに出てくる、ルカだけの用例)。彼が言い張るのは、「ガリラヤの者だから」という根拠からです。ペトロが「ガリラヤの者、ガリラヤ人」であるのが分かるのは、マタイ(二六・七三)が「言葉遣いでそれが分かる」と書いているように、ペトロの言葉遣いに見られるガリラヤ方言(訛り)からです。当時のエルサレムの住民は、ガリラヤのユダヤ人を(ユダヤ教の本流から離れた)田舎者として軽蔑し差別していたようです(ヨハネ七・四一、五二参照)。エルサレムの住民はその訛りによってガリラヤ人を見分けて差別していました。エルサレムの住民から見れば、ガリラヤは過激な抵抗運動の巣窟であり、ガリラヤ人であるというだけで、そのような運動の連中だとする偏見もありました。この男は、ペトロがガリラヤ人であるという理由で、ガリラヤ人であるイエスの過激な運動の一味であるとしたようです。

 だが、ペトロは、「あなたの言うことは分からない」と言った。まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。(二二・六〇)

 この時もペトロは「あなたの言うことは分からない」という表現で、自分がイエスの仲間であることを否定します。この表現は、マルコ(一四・七一)では「あなたが言っているそんな人は知らない」となっています。しかも「呪いの言葉さえ口にしながら」という説明が添えられています。「呪いの言葉」というのは、自分が言っていることが偽りであれば、自分は呪われよと、自分で自分を呪う言葉で自分の言っていることを保証する誓いの形式です。ペトロはそのような誓いをもってイエスを知らないと断言します。マタイはマルコに従っていますが、ルカには呪いの言葉はなく、ペトロの否認の表現も違います。これは、ルカがマルコの記事の一部を削除したというより、別系統の伝承を用いた可能性を示唆します。

 ペトロは三回続けて、イエスを知らないと言って、イエスの仲間であることを否認したことになります。三回繰り返すことは、徹底的に行動したことを象徴します。丁度そのときに鶏が鳴くのが聞こえます。深夜に逮捕されて大祭司の屋敷に連れてこられてから数時間が経ち、夜明けが近づいていました。ペトロが三回目にイエスを否認したとき、夜明けを告げる鶏が鳴きます。

 主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。(二二・六一〜六二)

 丁度そのとき、大祭司の屋敷の中で行われていたイエスに対する尋問が終わり、イエスは警護の兵士に囲まれて中庭を通られます。そのときイエスは振り向いてペトロを見つめられます。この文章で主語が「イエス」ではなく「主《ホ・キュリオス》」となっているのは、後で(=イエスの復活後に)この出来事を涙ながらに語ったペトロが、このときのイエスのことを語るのに今自分が仕えている復活者イエスを《ホ・キュリオス》と呼んで語ったからだと推察されます。それを、ペトロが語る告白を伝えた伝承がそのまま伝え、ルカがそれをそのまま用いた結果であると考えられます。マルコ(とマタイ)には「主は振り向いてペトロを見つめられた」の記述はなく、ペトロがイエスの言葉を思い出して泣いたという記事だけです(これもルカがマルコとは別系統の伝承を用いていることをうかがわせます)。そのペトロがイエスの言葉を思い出したという記事でも、マルコ(一四・七二)とマタイ(二六・七五)は「イエスの言葉」としていますが、ルカは「主《ホ・キュリオス》の言葉」と書いています。

 主の眼差し(この眼差しについては後述)を受けたペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた言葉を思い出します。これは、直前の食事の席でイエスがご自身の受難を予告されたとき、ペトロが「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言ったのに対して、イエスがペトロに言われた言葉です(二二・三三〜三四)。その「主の言葉」を思い出し、自分の不甲斐なさと背信の思いに迫られ、「外に出て」、すなわち自分をイエスの仲間として指さす人々から逃れ、屋敷の外に出て、一人だけになって激しく泣きます。このペトロの姿に、信仰の消息が深く描き出されます(後述の「ペトロの否認記事の意義」参照)。

 


    補説 ペトロの否認記事の位置と意義

 

裁判の過程における「ペトロの否認」の位置

 ペトロの否認の出来事が、イエスの裁判の過程のどの段階で起こったのかを確認するために、ここでイエスの裁判の過程について整理しておきましょう。四福音書の記事を総合しますと、イエスは次の三段階の裁判を受けられたと見られます。
 
1 アンナスの屋敷での予審尋問
2 最高法院での裁判
3 ピラトの法廷での裁判

 1のアンナスの屋敷での予審尋問は、正式の裁判ではなく、裁判に提出するための証拠などを確認するための予審です。死刑が予想される重大事件には予審が行われました。また、最高法院での正式の裁判は夜に開くことはできない規定がありました。逮捕されたイエスが最初に連れて行かれたのはどこかについて、マルコ(一四・五三)は「人々はイエスを大祭司のところに連れて行った」と書いています。ルカも同じく「大祭司の家に連れて行った」としています。マタイ(二六・五七)は「人々はイエスを捕らえると、大祭司カイアファのところへ連れて行った」としています。イエスの時代の大祭司がカイアファであることをよく知っているマタイが、マルコの「大祭司」を説明するために付け加えたものと見られます。しかし実際は、目撃証人でありエルサレムの祭司たちの実情に詳しいヨハネが伝えているように、逮捕されたイエスはまずアンナスのところに連れて行かれと見られます。ヨハネ(一八・一三)は、アンナスのところに連れて行かれた理由を、「彼がその年の大祭司カイアファのしゅうとだったからである」と、具体的に説明しています。

 アンナスは六年から一五年まで大祭司職にありましたが、退いてからも絶大な権勢をふるい、五人の息子と孫までも大祭司の地位につけて背後から権力をふるいました。このようにアンナスによって操られる大祭司の一人で、洗礼者ヨハネとイエスの時代に大祭司職にあったのがカイアファ(アンナスの女婿、在位一八〜三六年)です。このような実情をルカ(三・二)は「アンナスとカイアファとが大祭司であったとき」と伝えています。公式の大祭司はカイアファですが、彼のしゅうと(妻の父)であるアンナスが大祭司一族の長として絶大な権力を振るい、事態を主導していました。

 アンナスは過越祭当日の裁判や処刑を避けるために、迅速に事を運ぼうとして、イエスの逮捕が予想される夜に(それはユダの通報により十分予想することができました)、最高法院を構成する「祭司長、長老、律法学者たちを皆」招集して屋敷に来させていました(マルコ一四・五三)。それで、これはまだ予審でありながら、正式の最高法院の裁判であるかのような様相を見せることになります。この時の尋問を描くマルコ(一四・五三〜六五)の記事は、証人調べだけでなく大祭司と議員一同による死刑決議(一四・六四)を含み、正式裁判の過程として記述されています。マタイ(二六・五七〜六八)はマルコに従っています。

 それで新共同訳はこの段落に「最高法院で裁判を受ける」という標題をつけていますが、これは不正確な標題であり、イエスの裁判の過程について誤解を与えています。これは予審であり、正式裁判ではありません。最高法院の裁判は夜間には開けません。夜が明るとすぐに、大祭司カイアファを議長とする正式法廷が開かれ、死刑の判決を下し、ただちに死刑を執行してもらうために、イエスを総督ピラトのところに引いていきます。すでにアンナスのもとで全員が死刑の決議をしているのですから、夜が明けてからの正式の裁判は形式的で、短時間で終わり、イエスはピラトのところに引いて行かれます。この状況を、マルコはごく簡潔に次のように伝えています(マタイ二七・一も同じ)。

     夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した。(マルコ一五・一)

 このユダヤ教側の裁判は、訴訟法的にはアンナスのもとでの予審尋問と大祭司カイアファのもとでの正式の最高法院法廷に分かれますが、実質的にはアンナスの屋敷での尋問で死刑が決定しており、マルコは(マタイも)ユダヤ教側の裁判の内容をすべてここで記述することになります。それで、新共同訳がこれに「最高法院で裁判を受ける」という標題をつけるのも一理あることになります。

 ヨハネはユダヤ教側の裁判についてはさらに簡略にしています。アンナスの尋問とイエスの応答についてごく簡単に触れた後、「アンナスは、イエスを縛ったまま、大祭司カイアファのもとに送った」(ヨハネ一八・二四)と書いて、カイアファのもとで正式の裁判が行われたことを示唆し、ペトロの否認の記事を入れた後すぐ「人々はイエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった」(ヨハネ一八・二八)と続けています。ピラトのところに連れてこられたのが「明け方」であるというのですから、「夜が明けるとすぐ」開かれた最高法院の裁判がいかに迅速であったかがうかがわれます。

 ルカはこのユダヤ教側の裁判過程を簡略に整理して記述しています。夜中に逮捕されたイエスは最初「大祭司の家」に連れてこられます。ルカは(マルコと同様)アンナスという名は出していません。またそこでの尋問の内容についてもいっさい触れず、ペトロの否認がこのときに起こったことだけを伝えています(二二・五四〜六二)。そこでイエスが警護の兵士から暴行を受けた記事(二二・六三〜六五)を置き、その後すぐに「夜が明けると、民の長老会、祭司長たちや律法学者たちが集まった。そして、イエスを最高法院に連れ出した」(二二・六六)という正式裁判の記事に移ります。そして、その最高法院の法廷で、マルコが伝えているような証人調べやイエスの教えについての尋問はいっさいなく、ただ「お前はメシアか」という問いと、それに対するイエスの答えだけが伝えられ、イエスがご自分を「神の子」と言い表されたことで、神を冒瀆する罪で死刑の判決が出たことだけを簡潔に伝えています(二二・六〜七一)。このルカの段落には「最高法院で裁判を受ける」という標題は正確な標題となります。

 ルカは、異邦人読者にはユダヤ教の訴訟手続きの正確さは問題ではないとしたのでしょう。そのような問題はいっさい触れず、ただイエスがなぜユダヤ教支配層から死刑を言い渡されたか、その主要点だけを伝えます。その後すぐに、ピラトのもとに連れて行って、イエスをローマに対する反逆という政治的理由で訴えた記事を続けます(二三・一〜五)。

 ピラトのもとでの裁判の経過については、後で扱うことにして、ここではペトロの否認が起こったユダヤ教側の裁判の経過を整理しました。このユダヤ教側の裁判の過程で、ペトロのイエス否認は最初のアンナスの屋敷での予審のときに起こった出来事であることは、ヨハネ(一八・一二〜二七)が正確に伝えています。ヨハネは、ペトロが「もう一人の弟子」の手引きでアンナスの屋敷の中庭に入ったときに、女中の詰問に対してイエスを知らないと否認し、イエスに対するアンナスの尋問の記事の後に、ペトロの二度目と三度目の否認を伝えています。

 ルカ(二二・五四〜六一)も同様に、ペトロの否認がアンナスの予審のときに起こったことを伝えています。ルカは屋敷の中でのイエスに対するアンナスの尋問のことはいっさい触れず、ただ中庭で起こったペトロの否認を、「少したってから」とか「一時間ほどたつと」と、時間の経過を入れながら物語っています。

 ところが、先に見たように、マルコはアンナスの屋敷での予審を最高法院の裁判のように記述しているので、その記事の後にくるペトロの否認の出来事は最高法院の裁判の後に起こったような印象を受けます。しかも、新共同訳がしているように、この予審の記事に「最高法院で裁判を受ける」という標題がつくと、この印象は強められます。しかし、最高法院の法廷は夜間には開けないのですから、ペトロが三度イエスを否認したとき、夜明けを告げる鶏が鳴いたという記事と矛盾します。この矛盾を乗り越えるためには、マルコ(およびマタイ)が予審の記述を(事実上)最高法院の法廷のように扱って、イエスに対するユダヤ教側の追究を描いているという記述方法をよく理解しておく必要があります。この矛盾は、マルコ一五・一の「夜が明けると、祭司長たちは長老や律法学者と共に、つまり最高法院全体で議決した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに引き渡した」(私訳)という記事を正確に理解することで解消します。ペトロの否認の出来事は、このことの前になります。

「ペトロの否認」記事の意義

 「ペトロの否認」の記事は四福音書のすべてにあり、それもかなり詳しく伝えられています。イエスの十字架と復活を伝える「受難物語」は、福音書のもっとも重要な部分ですが、その中で「ペトロの否認」の出来事は、かなり重要な部分を占めているという印象があります。なぜこの物語がこれほど重視されるのでしょうか。

 最初期共同体がこのような物語を創作したというようなことはありえません。自分たちの共同体を代表する人物の弱さや師への背信は、もしあれば隠したいものであり、それをわざわざ創作して聖なる物語に入れることはありえません。これは、イエス復活後に、主イエス・キリストの受難と復活を語り伝えるペトロが、その受難物語の中でいつも、涙ながらに自分の弱さから師を裏切り、イエスを見捨てて逃げた事実を語ったので、受難物語の伝承の中にこの「ペトロの否認」が組み込まれ、それが福音書の記述に含まれるという結果になったと見られます。受難の日の直前にイエスの頭に香油を注いで「葬りの備え」をした女性のことについて、イエスは「世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」(マルコ一四・九)と言っておられますが、「ペトロの否認」の出来事も、「世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では」、受難物語に含まれて語り伝えられることになります。

 イエス復活の証人として、イエスの十字架上の死と復活者イエスとの出会いを語るペトロが、その中で十字架の出来事を前にして自分がイエスを裏切った事実を涙ながらに語る姿の中に、主イエス・キリストを信じる信仰の消息、すなわち福音の消息が語られています。その事実(復活の証人ペトロが自分の裏切りを語ること)が、この「ペトロの否認」の出来事が受難物語に組み込まれて、「福音が宣べ伝えられる所では世界中どこでも」語られる理由となります。では、このペトロの姿が指し示す信仰の消息とはどのような内容でしょうか。

 ペトロは、イエスがガリラヤで「神の国」を宣べ伝える活動をされていたとき、初めから弟子として従い、傍にいてイエスがなされる力ある業(奇蹟)を目撃し、イエスが語られる言葉を聞いてきました。それだけでなく、イエスから派遣されて、イエスと同じく病気をいやし悪霊を追い出す働きをなし、神の支配の到来が近いことを告知する働きをしてきました。そのような弟子であるペトロでさえ、イエスが歩まれる「主の僕」の道は理解することができず、イエスがメシアであると信じていても、そのメシア期待が「サタンよ、引き下がれ」と叱責されるような始末でした。そして、時が来て、イエスが父の御旨に従ってご自身の命を献げようとされたとき、「ご一緒なら死んでもよいと覚悟しております」と言っていながら、イエスの仲間であることを知られるのを恐れて、舌の根も乾かぬ数時間後に、イエスを知らないと三度まで否認するという裏切りをしてしまいます。ペトロは自分の弱さと背信の深さに、激しく泣くほかはありませんでした。

 そのペトロが今は大胆に立ち上がって、神がイエスを死者の中から復活させて、キリストまた《ホ・キュリオス》としてお立てになったと告知しています。イエスを十字架に追いやった勢力からは逮捕されたりしてもひるまず、「人に従うよりは神に従うべきだ」と言って、証言を続けています。再び逮捕され、仲間のヨハネが処刑されて自分も処刑を覚悟しなければならないような目に遭いながらも、イエスを証し続けます。このペトロは、イエスを三度まで否認したあのペトロとは別人です。どうしてこのようなことが起こったのでしょうか。

 それは復活されたイエスがなされたことです。イエスはペトロの弱さ、というより人間の弱さをよくご存知でした。ご自身が歩んでおられる道は、人の決意とか理解とか能力で歩むことはできないことをよくご存知でした。イエスに従うことができず、悲しみながら去っていった富める青年について、イエスは「人にはできないが、神にはできる」と言っておられます。ペトロがどのようにイエスを慕っているとしても、「(御霊がまだ降っていない)今はついて来ることはできない」ことをご存知であり、ペトロの否認を予告されます。

 しかし、イエスはペトロを見放しておられません。サタンはペトロを試みてふるいにかけることを許されていることを、イエスはご存知であり、ペトロのために祈っておられます(二二・三一〜三二)。ペトロがイエスを三度目に否認したとき、イエスは「振り向いてペトロを見つめ」られますが、その眼差しはペトロを責める眼差しではなく、ペトロを赦し、包み込む眼差しであったと思います(二二・六一)。ペトロは生涯その眼差しを忘れることはなかったと思います。ヨハネ(一三・三六)は、最後の食事の席でイエスがペトロに、「わたしの行く所に、あなたは今はついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」と言われたことを伝えていますが、この時の眼差しはこのような語りかけであったと推察されます。

 十字架につけられて処刑されたイエスの仲間であることを否認してガリラヤに帰ったペトロたちは、漁師の生業に戻ります。その仕事の場であるガリラヤ湖で、復活されたイエスがペトロたちに現れて、彼らを「人間をとる漁師」なるように召されます。マルコ(一・一六〜二〇)やルカ(五・一〜一一)のペトロたちの召命の記事は、ペトロたちが復活されたイエスの顕現を体験して、生業を捨てて復活されたイエスの証人として召された出来事を伝える伝承から出たものと考えられます。ルカ(五・八)では、そのときペトロがイエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言ったと伝えられていますが、これは直前に三度までイエスを否認したことを指しているとすると、この記事全体がよく筋が通ります。

 復活されたイエスの顕現を体験することは、聖霊の働きです。ペトロたちは聖霊を受けて、復活者イエスを証言する力を与えられます(使徒一・八)。人にはできないことを、神は聖霊によってなされます。ペトロは聖霊によって復活者イエスを証言する活動を続けます。その中で、イエスを三度まで否認して裏切った自分が、今こうして反対や迫害の中でイエスを証し続けることができるのは、そのような裏切り者を赦して受け入れ、ご自分の働きを委ねてくださっている主イエス・キリストの絶対無条件の恩恵によるものであることを語らないではおれないという思いから、ペトロはイエスの受難と復活の福音を告知するさい、自分のイエス否認の物語も組み入れます。この物語は、「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」(コリントT一五・一〇)というパウロの言葉のペトロによる物語版です。そして、それはペトロ個人の恩恵物語であるだけでなく、福音によって救われるすべての人間にとって主イエス・キリストにおいて示される神の恩恵の物語でもあります。


135 暴行を受ける(22章63〜65節)

 さて、見張りをしていた者たちは、イエスを侮辱したり殴ったりした。(二二・六三)

 アンナスによる予審の尋問が終わり、警備の兵士に囲まれて中庭を通って行かれるとき、イエスは「振り向いてペトロを見つめ」られます。その眼差しを受けて、三度までイエスを否認したペトロが外に出て激しく泣いているとき、イエスはアンナスの屋敷の一隅に連れて行かれ、警備の兵士から暴行を受けることなります。「見張りをしていた者たち」と訳されている語は、囚人イエスを監禁し監視する役目の神殿警護隊の兵士(警官)を指しています。

 マルコ(一四・六五)は、最高法院(実際は予審尋問)での死刑決議の後、「(議員の中の)ある者はイエスに唾を吐きかけ、目隠しをしてこぶしで殴りつけ、『言い当ててみろ』と言い始めた。また下役たちは、イエスを平手で打った」と伝えていますが、ルカはそれを警備の兵士の仕業にし、「唾を吐きかけ」を「侮辱し」というやや抽象的な表現にしています。

 そして目隠しをして、「お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と尋ねた。そのほか、さまざまなことを言ってイエスをののしった。(二二・六四〜六五)

 目隠しをして、「お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と尋ねたことを伝えるのは、共観福音書はみな共通しています。ただマタイ(二六・六八)は、「メシアよ、言い当ててみろ」として、自分をメシアとした罪で判決を受けたイエスに対する侮蔑の行為としています。

 このユダヤ教法廷での裁判の過程でイエスが暴行を受けたことを伝える点では、三共観福音書は共通していますが、ルカがヨハネを含む他の三福音書と違うのは、ピラトの裁判の後イエスがローマの兵士から侮辱と暴行を受けたこと(マルコ一五・一六〜二〇と並行箇所)を伝えず、ユダヤ教側の裁判の過程での暴行だけにしている点です。これは、イエスの受難におけるローマ側の責任を少しでも軽くしようとするルカの護教的動機からと推察されます。


136 最高法院で裁判を受ける(22章66〜71節)

 夜が明けると、民の長老会、祭司長たちや律法学者たちが集まった。そして、イエスを最高法院に連れ出して、「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」と言った。(二二・六六〜六七a)

 先に見たように、夜中に大祭司(実際はアンナス)の屋敷で行われたのは予審であって、最高法院の正式法廷ではありません。正式の裁判は夜間には行えません。それで、「夜が明けると」民の長老会、祭司長たちや律法学者たち(この三グループは最高法院を構成するユダヤ教指導層を正確に反映しています)が集まってきて、正式の法廷が開かれます。ルカは、このようなユダヤ教の細かい訴訟手続きは異邦人読者には必要がないとしたのか、ごく簡単に「夜が明けると」という時間的な事実をあげるだけで、イエスが最高法院の正式法廷に連れ出された事実を報告します。この仕方はマルコ(一五・一)に従っています。ヨハネ(一八・二四)は「アンナスは、イエスを縛ったまま、大祭司カイアファのもとに送った」と書いています。最高法院の法廷は大祭司を議長(裁判長)として開かれますから、これも正式法廷に引き出したことを指しています。

 最高法院法廷の判決はきわめて迅速になされます。すでに予審で死刑の決議がなされているのですから、最高法院の法廷では形式的に裁決が行われ、死刑の判決が下されます。しかし、ルカはアンナスの下での予審の内容を伝えず、そのときに起こったペトロの否認の出来事だけにしていたので、夜が明けてからの最高法院の法廷で、イエスのユダヤ教側の裁判の内容を伝えることになります。そのさいルカは、マルコ(一四・五三〜六四)がしているような証人やイエスの発言などの取り調べには触れることなく(複数の証人の証言が正確に一致しなかったのでそれを正式法廷に提出することができなかったという訴訟法上の制約もあったのでしょう)、ユダヤ教側がイエスを裁こうとして、ただ一つの問題に絞って報告します。それはイエスが自分がメシアであると主張したとする告発をめぐる問題です。

 法廷はイエスに、「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」と迫ります。こう「言った」という動詞(三人称複数形の分詞)は、この文の主語である「民の長老会、祭司長たちや律法学者たち」の行動を指しています。実際には法廷を代表する大祭司がこう言ったのでしょう。マルコ(一四・六一)は、大祭司がイエスに向かって「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と言った、と明言しています。ルカは実際の発言者には触れず、ユダヤ教最高法院の行動として、イエスにこの問いが突きつけられた事実を報告します。

 では、イエスは自分をメシアとしたという告発は誰がしたのでしょうか。イエスはご自分をメシアだと主張されたことはありません。イエスの力ある業を見た民衆の中には、イエスをメシアだとして期待する人たちがいたのは事実でしょう(ヨハネ七・三一)。弟子たちもイエスをメシアだと信じるにようになっていました(マルコ八・二九)。しかし、イエスは弟子たちにそのような事柄を口にしないように厳しく命じておられます。イエスは民衆の間に自分に対するメシア期待が起こるのを極力避けようとしておられます。

 当時のユダヤ教指導層は、民衆のイエスに対するメシア期待を極端に恐れていました。それが高じてローマに対する反乱にでもなれば、自分たちが支配するユダヤ教神殿国家の存亡の危機を招きかねません。この恐れが、彼らがイエスを殺そうとした動機です(ヨハネ一一・四五〜五三)。ところが、彼らはイエスが自分をメシアであると主張したという証拠を得られなかったので、最高法院に告発することができませんでした。ところが、弟子の一人であるユダがイエスを秘かに逮捕することができる機会を提供したので、逮捕することはできました。そのさいユダは、イエスが弟子たちには自分をメシアとしていたという内輪の情報を伝えたのではないかという推察もありえます。

 策略をもってイエスを捕らえ、偽りの証人を集めて証言させようとしましたが、それも成功しませんでした。それで、彼らは最後の手段として、イエスの口から直接言わせようとして、イエス自身に「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」と迫り、自分のメシア性に対する発言を求めます。それに対してイエスはこうお答えになります。

 イエスは言われた。「わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう。わたしが尋ねても、決して答えないだろう。しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る」。(二二・六七b〜六九)

 たとえイエスがご自分の口からご自分が何者であるかを明言されても、彼らが信じてその事実を受け入れることは到底できないことをご存知です。また、イエスが彼らにご自分の発言をどう理解するかを尋ねても、彼らが答えようとはせず、ただイエスの発言の言葉じりをとらえて裁こうとするだけであることもご存知です。この言葉には、復活者イエスを告知してもそれを信じようとせず、共同体の問いかけにもまともに答えようとしないユダヤ教側の対応に対する復活後の共同体の無念の思いが重なっているように感じられます。

 しかし、相手が信じようとせず、答えようともしないことが分かっていても、イエスはご自身についての事実を言い表さないで済ますことはできません。イエスはユダヤ教最高法院の問いかけに、すなわち全イスラエルの問いかけに明確にお答えになります。イエスのお答えの言葉は、福音書によって少しずつ違った形で伝えられています。

 マルコ(一四・六一〜六二)は、大祭司の「お前はメシア、ほむべき方の子であるのか」という尋問に対して、イエスは「《エゴー・エイミ》(わたしはある)」という、あの神的自己宣言の言葉でお答えになり、その後に「あなたたちは、人の子が大能の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見るであろう」(私訳)という黙示文学的表現(ダニエル七・一三〜一四)を用いて、これから後(復活後)のご自身の身分を言い表されたと伝えています。このマルコの記事は、神を「ほむべき方」とか「大能」という表現で指しているなど、当時のユダヤ教での実際の法廷のやりとりにもっとも近いのではないかと見られています。最高法院にはニコデモなど秘かにイエスを信じている議員もいたのですから、そのやり取りは目撃証人によって伝えられたことが十分考えられます。

 マタイ(二六・六三〜六四)は、《エゴー・エイミ》の宣言は伝えないで、「それはあなたが言ったことです」(この表現については後述)とお答えになり、その後にマルコと同じく「大能の右に座る」という黙示文学的表現で、復活後の地位を言い表されたとしています。マタイはユダヤ教律法学者としての素質から、この《エゴー・エイミ》という宣言の重大性をよく知っているからでしょうか、神的自己宣言としての《エゴー・エイミ》は、湖上での顕現の場面以外では使っていません。

 ルカは、マルコにある《エゴー・エイミ》という宣言は、異邦人読者にはあまりにも理解できない表現であるとしたのか、伝えることなく、「今から後」、すなわち復活後にイエスが着かれる地位についての黙示文学的表現による宣言だけにしています。そのさい、マルコでは「大能の右」という表現で「神の右」が意味されていたのですが、ルカはユダヤ人でない読者のために、「神の」を付けて「神の大能の右」としています。復活されたイエスの地位を示すのに、「神の右に座し」とした《ケリュグマ》の表現が影響している可能性もあります。

 これまで弟子たちだけに秘かに語っておられた「人の子」の秘密を、イエスはいま大祭司の前で公然と宣言されます。この言葉でイエスは、《エゴー・エイミ》という謎めいた表現で語られた内容を明確にされています。この言葉がダニエル書七章の「人の子」の幻から取られていることは明らかです。たしかに、「天の雲に囲まれて来る」という表現は、ダニエル書のような黙示文学に親しみ、間近いパルーシアを待ち望んでいた最初期共同体が伝承の過程で付け加えた可能性があります。しかし少なくとも、ルカが伝えている、「しかし、今から後、人の子は神の大能の右に座る」という短い形は、この場でのイエスの発言と受け取ることができます(コルペ)。

 そしてこの場面で、すなわち「おまえは誰か」という全イスラエルの公式の問いかけに命がけで答える場面で、イエスは自分以外の「人の子」の到来を期待しておられたというような説は問題になりません。イエスはご自分が「今から後、全能の神の右に座る」と宣言しておられるのです。

 そこで皆の者が、「では、お前は神の子か」と言うと、イエスは言われた。「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている」。(二二・七〇)

 「神の大能の右に座る」と宣言されたイエスに向かって、法廷の議員たちは「では、お前は神の子か」と問い詰めます。ここでも、マルコは大祭司が問い詰めたとしていますが、ルカは法廷手続きの細部には触れず、審問の内容だけに絞っています。

 ユダヤ教では詩編二編と一一〇編がメシア詩編として解釈されていました。詩編二編で「お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ」と言われる方、すなわち神の子である方が王として即位されるのですが、その即位は詩編一一〇編で「わたしの右の座に就くがよい」と言われています。自分が「神の大能の右に座る」というのであれば、お前は自分を「神の子」とするのか、という問いです。

 この問いに対してイエスは、「わたしがそうだ(=神の子だ)とは、あなたたちが言っているのだ」とお答えになります。この文では「あなたたち」が強調されています。イエスの答えは、「わたしがそうだと言っているのは、(わたしではなく)あなたたちの方だ」ということになります。イエスはご自身がこれまで自分を神の子であると公に宣言されることはありませんでした。ただイエスを除きたい祭司長たちが、イエスが自分を神の子として、自分を神と等しい者とする冒瀆の罪を犯しているとしているだけだ、と返答をされたことになります。

 この文を、「わたしがそうだと、あなたたちは言うのか」という疑問文とする解釈もあります。写本には句読点はないのですから、この読み方も可能です。しかしこの解釈では、次節の「我々は本人の口から(神を汚す言葉を)聞いたのだ」ということにはなりません。やはり、「わたしがそうだと言っているのは、あなたたちの方だ」と理解して、祭司長たちがイエスを断罪するために、イエスの言葉を自分を神と等しい者とする冒瀆だと(勝手に)主張しているのだ、とするのが適切でしょう。

 人々は、「これでもまだ証言が必要だろうか。我々は本人の口から聞いたのだ」と言った。(二二・七一)

 前節のイエスの答えを、「わたしがそうだと言っているのは、(わたしではなく)あなたたちの方だ」と理解しても、この言葉から「我々は本人の口から(神を汚す言葉を)聞いたのだ」ということにはなりません。これはイエスの(前節の)答えに断罪の口実をつかむことができなかった祭司長たちが、先にイエスが言われた「今から後、人の子は全能の神の右に座る」という言葉を指して、「我々は(すでに)本人の口から(神を汚す言葉を)聞いたのだ」として、これ以上の証言は必要なく、法廷におけるイエスの「今から後、人の子(であるわたし)は神の右に座る」という宣言自体が死に値する冒瀆の罪だとします。マルコ(一四・六二〜六三)では、イエスが「神の右に座る」と宣言された直後に、大祭司が衣を裂いてこう叫んでいますが、ルカの「本人の口から聞いた」も、このマルコの構成で理解すべきでしょう。

 自分をメシアであると主張しただけでは罪になりません。イエスの時代の前後に多くのメシア自称者が現れましたが、皆が死刑の判決を受けたのではありません。著名な律法学者のラビ・アキバがバル・ホクバ(第二次ユダヤ戦争を指導したカリスマ的指導者)をメシアと認めて支持したような例もありました。当時の民衆はメシアの到来を待望していましたから、律法学者たちもメシアの要件を規定して、そのメシア主張が正当であるかどうかを判断するように努めていました。しかし、イエスの時代の大祭司と祭司長たち(彼らは大体サドカイ派です)は、先に見たように、強力なイエスのユダヤ教改革運動を恐れて、イエスを取り除く意図をもって、イエスを死刑に定めることを画策した裁判を進めます。

 

137 ピラトから尋問される(23章1〜5節)

 そこで、全会衆が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。(二三・一)

 ルカのこの記事に並行するマルコ(一五・一)とマタイ(二七・一)の箇所では、「最高法院全体で議決して、・・・・ピラトに引き渡した」となっています(議決と理解することについては236頁の注記を参照)。この並行関係からすると、ルカの「立ち上がり」は、法廷の採決で議員全員が起立して死刑に賛成の意思表示をしたことを指すと理解できます。その上で、イエスを縛ったままピラトの官邸に引いていって、ピラトに訴え出ます。彼らがイエスをピラトの官邸に引いて行ったのは、ヨハネ(一八・二八)によると「明け方であった」のですから、「夜が明けると」すぐに開かれた最高法院の正式判決がいかに迅速に行われたかがうかがわれます。

 最高法院が正式に死刑の判決を下しながら、なぜユダヤ教における処刑の方式である石打を行わなず、イエスをピラトのもとに連れて行ったのかが問題にされます。これは当時ユダヤ教側に死刑の執行権が認められていなかったので(ヨハネ一八・三一)、ローマ総督によって処刑してもらうためです。ルカは「連れて行った」という動詞で記述していますが、イエスの十字架と復活を告知した最初期共同体の福音告知では、このユダヤ教指導層の行動は「ローマ人の手に引き渡した」(使徒二八・一七)とか「律法を知らない者の手を借りて殺した」(使徒二・二三)という表現で糾弾されることになります。

 

 そして、イエスをこう訴え始めた。「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました」。(二三・二)

 ここから総督ピラトによるローマ側の裁判が始まります。ピラトに訴え出た祭司長たちは、自分を神と等しい者とする冒瀆の罪でイエスをローマ側に訴えて死刑の執行を求めても、総督はそのような宗教的理由で裁判は受け付けないことをよく知っています(使徒一八・一四〜一五参照)。祭司長たちはイエスをローマの支配に反逆する運動の扇動者として訴えます。

 「わが民族を惑わし」というのは、本来はヤハウェの民であるイスラエルに、律法に違反するようなことを教えて、ヤハウェに背かせるように働きかける教師を断罪する言葉です。祭司長たちは最高法院の法廷では、このような意味での「背教の教師」と断罪して死刑を宣告したのでした。ところが、ローマ総督に訴えるときは、その理由を巧みにすり替えて、ローマ皇帝に背かせるようにユダヤ人を扇動する叛徒のリーダーとして訴えます。

 「皇帝に税を納めるのを禁じる」のは、当時の「熱心党」《ゼーロータイ》の反ローマ運動のスローガンでした。紀元六年にユダヤがローマ総督の支配する直轄領になったとき行われた人口調査(課税のための資産調査)に反対して、ローマ皇帝に税を納めることはイスラエルにとって唯一の主権者である神とその律法に対する背きだとして、ガリラヤのユダが反税運動を起こしました。その運動が「熱心党」の反ローマ運動として進展し、イエスの時代にも民衆の間に拡がっていました。それで、イエスに反対するユダヤ教教師(律法学者)たちは、イエスを陥れるために、「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか」と質問したのでした(二〇・二〇〜二六)。もしイエスが、熱心党的な民衆に迎合して皇帝への納税を否定すれば、ローマ総督に叛徒として訴える口実ができます。そのときイエスは「皇帝のものは皇帝に返せ」と言って、納税を否定されませんでしたが、ピラトに訴えた祭司長たちは、民衆の熱い支持を勝手に熱心党指導者に対する支持だとして、イエスが皇帝に税を納めるのを禁じたという訴えをします。

 「自分が王たるメシアだと言っている」という訴えは、最高法院での「今から後、人の子は全能の神の右に座る」というイエスの証言を、イエスが自分をメシアであるとした発言だとし、しかもそのメシア宣言は、自分を政治的な支配者である王とする宣言であると勝手に意義づけて、イエスをローマ帝国の統治権に反逆する政治的反逆者として告訴します。

 もともとイエスの裁判は、宗教的な面と政治的な面が分かちがたく結びついています。祭司長たちがイエスを亡き者にしようとしたのは、先に見たように、イエスの運動がユダヤ教教団国家に対する自分たちの支配権にとって脅威となったからでした(ヨハネ一一・四五〜五三)。彼らはそのような政治的動機を隠して、イエスを律法違反とか神への冒瀆というような宗教的な理由で最高法院で裁き、ローマ総督に訴えるときは、自分を主権者である王として、ローマの支配に対抗している政治的叛徒と訴えます。

 そこで、ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」とお答えになった。(二三・三)

 このような告訴を受けて、ピラトはイエス本人に「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問します。おそらくピラトはイエスが逮捕されるときの状況について報告を受けていたことでしょう。ヨハネ(一八・一二)によると、ローマの正規軍もイエスの逮捕に向かったのですから、その隊長から報告を受けていたことは十分推察されます。その報告によると、イエスと一緒にいた僅かの弟子たちは逃げ去り、イエスも抵抗することなく縄をかけられたということです。いま縛られて前に立っているユダヤ人大工が、王として大規模なユダヤ人の反ローマ運動を指揮したというようなことは考えられません。おそらくピラトは侮蔑の目でイエスを見つめてこう言ったのでしょう。

 ピラトの尋問に対して、イエスは「それは、あなたが言っていることです」とだけお答えになります。イエスのお答えの文《シュ・レゲイス》は直訳すると、「あなたが言う」だけです。ただ「あなたが」という主語が、人称代名詞を用いる形で強調されています。イエスがユダヤ人の王であると言うのは、わたしが言うのではなく、他の誰でもなく、あなたが言うのである、という意味になります。

 イエスは自分をユダヤ人の王と宣言されたことはありません。むしろ、イエスを王としていただいてローマに対するユダヤ人の独立を目指すメシア運動を起こそうとする民衆から逃れて、一人山にこもり、「主の僕」としての苦難の道を歩まれたのでした(ヨハネ六・一五)。支配する王としての道を、イエスはサタンの誘惑として厳しく退けてこられました(四・五〜八)。それにもかかわらず、今イエスは自分を王とする者として訴えられ、そのような者として(=反逆者として)裁くことができる権力者の前に立っておられます。ピラトは、王と言ったとして裁くことも、それを認めないで、王とは言わなかったとして放免することもできる立場です。そのような立場のピラトに、「それを言うのはあなただ」と言って、イエスは自分をピラトの判断にお委ねになります。イエスは、ピラトも(ユダがそうであったように)神の御旨を成し遂げるための道具であることを受け入れておられます。

 ピラトの法廷は公開です。裁判は官邸の外の「敷石」と呼ばれる場所で行われます(ヨハネ一九・一三)。群衆もその場にいます(次節参照)。ピラトとイエスの問答は、取り巻いている群衆も聞いています。祭司長たちがいろいろと訴えるのに対して、ピラトが不思議に思うほどイエスは何も答えず、沈黙を貫かれます(マルコ一五・三〜五)。そのイエスがこの裁判の場でただ一言なされた発言が、この「あなたが言う」という発言です。それだけに印象が強く、それを聞いた多くの人が語り伝え、福音書に書かれるに至ります。この発言は、三つの共観福音書において正確に一致しています。ピラトの裁判におけるイエスのこの一言の印象がきわめて強いので、この言葉が伝承される過程で、最高法院の裁判におけるイエスの答え方の報告(二二・七〇)に影響を与えたとする見方も出てきます。

 ピラトは祭司長たちと群衆に、「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と言った。(二三・四)

 ピラトは訴え出た祭司長たちと取り巻いて成り行きを見守る群衆に向かって、イエスが無罪であることを宣言します。ピラトの言葉は直訳すると、「わたしはこの男の中に有罪とする何も見出さない」となります。まだ取り調べらしいことは何もしていない段階で、ピラトがこのような判断を下したのは、やや不自然な感じがします。しかし、「お前はユダヤ人の王か」という尋問に対して、イエスから「あなたが言う」という言葉を突き返され、それを発したイエスの犯すことのできない霊的権威に畏怖の念を覚え、聖なる方を殺す責任から逃れたくて、このような宣言をしたことも想像されます。

 ピラトが実際にはどのような発言をしたのか、その動機は何であったのかは、確認のしようがありませんが、ルカにとってはピラトがイエスの無罪を宣言したという事実が重要です。ルカが二部作を執筆した動機の一つに、イエス・キリストを主《ホ・キュリオス》と信じる信仰はローマ帝国の秩序に反するものではないことを明らかにしようとする護教的意図があります。使徒言行録では、この信仰のために訴えられた使徒たちに対して、ローマの官憲が無罪を認めていたことを繰り返し書き記しています。ここでルカは創始者イエスについても、ローマ帝国を代表する総督が無罪を宣言していることを書き留めて、この信仰がローマの支配と対立するものではないことを主張しています。

 しかし彼らは、「この男は、ガリラヤから始めてこの都に至るまで、ユダヤ全土で教えながら、民衆を扇動しているのです」と言い張った。(二三・五)

 ピラトの無罪宣言に対して、イエスを訴えた祭司長たちは引き下がらず、イエスの有罪を言いつのります。彼らは、イエスが「民衆を扇動している」と訴えます。イエスが御霊の力をもって多くの病人をいやし「神の国」を宣べ伝えられ、多くの人々がイエスの回りに集まった事実を、ローマの支配に対する反抗を扇動した行為として訴えます。

 そのさい祭司長たちは、「ガリラヤから始めてこの都に至るまで、ユダヤ全土で教えながら」その扇動活動をしたと言っています。たしかにイエスの運動はガリラヤから始まりました。しかし、この場合「ガリラヤから始めて」という言い方は、イエスの運動が熱心党の反ローマ運動であることを印象づけようとしています。ローマの支配層は、六年にガリラヤのユダがローマへの納税を拒否する運動を始め、それが反ローマの熱心党の運動として続いていることをよく知っています。それ以来、ガリラヤは反ローマ運動の巣窟となっていました。祭司長たちは、イエスの運動がガリラヤから始まったことを言って、それが反ローマの運動であることを総督に印象づけようとしています。


138 ヘロデから尋問される(23章6〜12節)

 これを聞いたピラトは、この人はガリラヤ人かと尋ね、ヘロデの支配下にあることを知ると、イエスをヘロデのもとに送った。ヘロデも当時、エルサレムに滞在していたのである。(二三・六〜七)

 イエスの活動がガリラヤから始まったことを聞いたピラトは、イエスがガリラヤ人であることを確認すると、ちょうどその時エルサレムに滞在中のヘロデ・アンティパスのもとに送ります。彼は祭りのためにエルサレムに来ていたのでしょう。おそらくピラトの官邸とヘロデの滞在している場所は近くにあったのでしょう。

 当時ガリラヤはヘロデ・アンティパスの支配下にありました。ヘロデ・アンティパスはローマからガリラヤとペレア(ヨルダン川東岸地区)の領主として認められ、この両地区を支配していました。ガリラヤ人のイエスは本来その領民としてヘロデ・アンティパスの支配下にあることになります。ピラトはローマ総督としてエルサレムで起こったこの事件を裁き、判決を下し、刑を執行する権限はあったはずです。事実、ルカ以外の福音書はすべて祭司長たちからの訴え(すなわちユダヤ教最高法院からの告訴)を受けたピラトは、ヘロデ・アンティパスと相談することなく、自分で判決を下しています。おそらく、ピラトがイエスをヘロデのもとに送ったのは、この裁判が自分にとって厄介な問題になると考えたピラトが、この裁判をヘロデに押しつけ、自分がこの裁判の責任から逃れようとしたのではないかと推察されます。ピラトがイエスをヘロデ・アンティパスのもとに送ったことと、その尋問の様子を伝えるのはルカだけです。おそらくルカは、「領主ヘロデと一緒に育ったマナエン」(使徒一三・一)がいるアンティオキア共同体で、彼からヘロデの宮廷についての情報を得ていたのでしょう。

 彼はイエスを見ると、非常に喜んだ。というのは、イエスのうわさを聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていたし、イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからである。(二三・八)

 ヘロデはイエスが自分のもとに送られてきたのを喜びます。ここでルカがヘロデがイエスを見て喜んだ理由としてあげている、「イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたから」というのは、ルカが推測したヘロデの満足の理由の一面に過ぎません。そういう面もあったかもしれませんが、実際はヘロデはイエスを殺そうとしていたのです(一三・三一)。

 ヘロデは少し前に洗礼者ヨハネを処刑しています。マルコ(六・一四〜二九)はヘロデが洗礼者ヨハネを処刑した経緯を詳しく物語っています。その物語は、ヨハネを憎んでいたヘロディアにそそのかされたサロメが、舞いの褒美としてヨハネの首を所望したという劇的な内容になっていますが、実際は(歴史家ヨセフスが「古代史」18・118で書いているように)洗礼者ヨハネの活動が、領主ヘロデにとって危険なメシア運動になることを恐れて、逮捕し処刑したというのが真実でしょう。ルカはマルコの伝承も知っていたのでしょうが、ヨハネ処刑の理由とか経緯に触れず、「自分が首をはねた」ヨハネが生き返って働いているというイエスについてのうわさを聞いたヘロデが、イエスと会ってみたいと思ったという記事(九・七〜九)だけにしています。

 こうして「イエスのうわさを聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていた」ヘロデのもとに、こともあろうに日頃は何かと対立していた総督ピラトから囚人イエスが送られてきます。

 それで、いろいろと尋問したが、イエスは何もお答えにならなかった。(二三・九)

 ヘロデはイエスと対面する機会が来たことを喜び、さっそくいろいろと尋問しますが、イエスは何もお答えになりません。先にエルサレムへ向かう旅の途上で、「ヘロデがあなたを殺そうとしています」と伝えた人たちに、イエスは「行って、あの狐に伝えなさい」と言っておられます(一三・三二)。イエスから見たヘロデは、神のことを思わず、ただ政治的な保身と権力のために卑しい策略を弄する「狐」に過ぎません。このようなヘロデの前で、ピラトのとき以上に、イエスは沈黙を通されます。

 祭司長たちと律法学者たちはそこにいて、イエスを激しく訴えた。(二三・一〇)

 イエスをピラトのもとに連れて行って訴えた祭司長たちと律法学者たちも、ヘロデのもとに送られたイエスについてきます。彼らはイエスの運動がいかに危険であるかをヘロデに説き立てたことでしょう。彼らの激しい訴えに対してもイエスは沈黙を通されます。

 ヘロデも自分の兵士たちと一緒にイエスをあざけり、侮辱したあげく、派手な衣を着せてピラトに送り返した。(二三・一一)

 もともとイエスを殺そうと考えていたヘロデにとって、これはよい機会であったはずです。ピラトがイエスを送ってきたことは、ヘロデに裁判をさせ、イエスの問題を処理させるためですから、ヘロデが判決を下し処刑することもできる立場です。領主ヘロデには領民の反逆などを処刑する権限が認められています。事実、ヘロデは少し前に洗礼者ヨハネを処刑しています。ところが、ヘロデはイエスを処刑することなく、「自分の兵士たちと一緒にイエスをあざけり、侮辱した」だけで、「派手な衣を着せてピラトに送り返し」ます。これはなぜでしょうか。

 これは推察になりますが、ヘロデは洗礼者ヨハネを処刑したことに対する民衆の不満と批判に悩んでいたのではないかと思われます。少し後のことになりますが、東の隣国ナバテア王国のアレタス四世とヘロデとの間に戦争が起こります(36年)。その戦争は、ヘロデが兄弟の妻のヘロディアと結婚するために妻であるアレタス王の娘を離縁したこと(洗礼者ヨハネが非難したあの結婚)をきっかけとする戦争でした。その戦争でヘロデの軍隊は壊滅します。ユダヤ人たちはその敗戦を、ヨハネを処刑したヘロデに対する神の罰だと語り合ったことが、ヨセフスの「古代史」(前出箇所)に出てきます。このような洗礼者ヨハネの処刑に対する批判は、処刑直後からあり、ヘロデはヨハネ以上に民衆の支持を集めていたイエスの扱いには慎重にならざるをえなかったのではないかと推察されます。

 イエスが一言も発せられないので有罪として処刑する決定的な口実が得られなかったこともあり、またおそらく処刑をためらう事情もあって、ヘロデは処刑を断念し、この厄介な問題をピラトに送り返すことにします。そのさい、自分の兵士たちと一緒にイエスをあざけり、侮辱したあげく、派手な衣を着せてピラトに送り返します。「派手な衣」を着せたのは、王と自称して訴えられたイエスに対する軽蔑の表現でしょう。王と称したとして捕らわれたイエスに、王の格好だけさせて、侮辱されても何もできない無力な王を揶揄したのでしょう。

 この「派手な衣」とはどのようなものであったのか、ルカは何も書いていません。他の福音書では、ヘロデの裁判の記事はないのですから、ピラトの裁判のときにローマの兵士たちが「イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、『ユダヤ人の王、万歳』と言って敬礼し始めた。また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした」(マルコ一五・一七〜一九)となっています。「紫の服」というのは、ローマ兵が用いる深紅のマントであると考えられます。ローマ兵による侮辱の記事のないルカ福音書においては、受難のイエスは茨の冠をかぶっておられないことになります。マルコとそれに従うマタイ(二七・二七〜三〇)では、兵士による侮辱はピラトが死刑の判決を下した後のことになっていますが、ヨハネ(一九・一〜五)では、ピラトはイエスの無罪をユダヤ人たちに説得しようとする過程で、 鞭打ちの後兵士たちによって紫の服を着せられ、茨の冠をかぶらされたイエスを民衆の前に引き出しています。

 ルカにはローマの兵士による紫の衣や侮辱の行為の記事はありません。ヘロデの兵士による侮辱だけです。二つの侮辱の記事の関係と、ヘロデが着せた「派手な衣」とローマの兵士が着せた「紫の服」が同じものであるのかどうかは確認できません。

 この日、ヘロデとピラトは仲がよくなった。それまでは互いに敵対していたのである。(二三・一二)

 支配者であるローマ総督ピラトと、ローマ帝国から統治を委任された現地の領主であるヘロデ・アンティパスとの間に、利害の衝突や統治の手法をめぐって日頃から対立があったことは容易に推察できます。しかし「この日」、すなわちイエスの裁判が行われた日には、図らずも両者の意見が一致します。ピラトはヘロデの対応(イエスを処刑せずに送り返してきたこと)を自分の判断の正当性を主張する根拠にすることができました(二三・一三〜一六)。その後のことは分かりません。しかし、少なくとも「この日」には、両者は政治家として相手に相通じるものを感じて、好意を持つことになったということでしょう。

 ヘロデによる裁判の記事については、ルカが用いた資料やマルコとの関係、ルカの意図などが議論を呼んでいます。しかしここでは、「この日、ヘロデとピラトは仲がよくなった」という最後の記事から、ルカはヘロデもピラトも同じくイエスの無罪を認めていたことを主張しようとしたことを理解することで十分でしょう。この事実によって、ルカはイエスの運動がユダヤ教国家にとっても、またローマ帝国にとっても、政治的には無害であることを主張していることになります。ここにもルカの著作の護教的動機が出ています。


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