ルカ福音書講解 22 

     

   第二二章 十字架刑の判決と執行

                       ― ルカ福音書 二三章(一三〜四九節) ―


はじめに

 三部で構成されているルカ福音書の第三部「エルサレムでの受難と復活」は、これまでに見てきたように、次の三つの区分に分けることができます。

1 神殿での活動と論争(一九・二八〜二一・三八)
2 受難物語(二二・一〜二三・四九)
3 復活告知(二三・五〇〜二四・五三)

 第二区分の「受難物語」は、最後の晩餐、逮捕と裁判、十字架上の死という三つの山場に分けて講解を進めています。前章で「逮捕と裁判」を扱いました。そのさい、ピラトの裁判は段落139の「死刑の判決を受ける」(二三・一三〜二五)まで続いていますが、章のバランス上、その前で切りましたので、本章ではその後を承けて、その段落から始め、ピラトの判決とそれに続く十字架刑の執行と合わせて、「十字架刑の判決と執行」という見出しでまとめることにします。

 


139 死刑の判決を受ける(23章13〜25節) 

ピラトの無罪宣言

 ピラトは、祭司長たちと議員たちと民衆とを呼び集めて、言った。「あなたたちは、この男を民衆を惑わす者としてわたしのところに連れて来た。わたしはあなたたちの前で取り調べたが、訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった」。(二三・一三〜一四)

 祭司長たちユダヤ教指導部は、自分を神とする瀆神罪で死刑の判決を下し、自分たちには死刑執行権がないので(この点については後述)、その死刑を執行してもらうためにイエスをピラトのところに連れてきたのですが、そのような宗教的理由ではローマの官憲は門前払いをすることをよく知っているので、ピラトにはイエスをローマに対する反乱を扇動する者として訴えます。彼らは「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました」と訴えています(二三・二)。彼らは最高法院での宗教裁判では、「民を惑わす者」として、すなわちイスラエルの民に律法に背くように教える異端の教師、また自分を神とする瀆神罪で死刑判決を下しておきながら、ローマ総督に訴えるときは、「民を惑わす者」という訴因の内容をすり替えて、ローマ帝国に対する反乱扇動で訴えています。

 ピラトはその訴えを取り上げ、「あなたたちは、この男を民衆を惑わす者としてわたしのところに連れて来た」と言っています。そして、取り調べた結果、「あなたたちが訴えているような犯罪」は何も見つからなかったと明言しています。「あなたたちが訴えているような犯罪」というのはローマ帝国支配に対する反乱扇動の行為ですから、ピラトの法廷では「あなたが言う」の一言しか発せられなかったイエスにそのような「犯罪行為」が見つかるはずはありません。ピラトがこの訴え以前にイエスの行動を調べていたという痕跡はありません。ピラト自身が「わたしはあなたたちの前で取り調べたが」と言っています。民衆も押し寄せている公開の裁判の場で、ピラトが尋問しイエスが答えるという形の裁判では、沈黙を通されるイエスに何の犯罪も見つけることはできないのは当然です。この裁判の進行を記述するだけのピラトの言葉を、ルカはピラトの第一回目の無罪宣言としています。

 「ヘロデとても同じであった。それで、我々のもとに送り返してきたのだが、この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう」。(二三・一五〜一六)

 ここでルカは、ピラトの裁判の途中でイエスがいったんヘロデのもとに送られ、ヘロデの裁判を受けた後で送り返されてきたという(ルカだけが伝えている)エピソードを、ピラトの無罪宣言を補強する出来事として引用します。先に洗礼者ヨハネを処刑したヘロデがイエスを処刑することなく送り返してきた事実は、ヘロデもイエスを有罪とすることはできなかったことを示しているとして、ピラトは「ヘロデとても同じであった」と言います。すなわち、ここでわたしがイエスを無罪としているように、ヘロデもイエスにそのような死刑に相当する反乱扇動の行為を認めることはできなかった、とピラトは言っているのです。このヘロデがイエスを送り返してきた事実を援用して自分の無罪宣言を補強しているピラトの言葉を、ルカは二回目のピラトの無罪宣言としています。

 ここでピラトはイエスの無罪を宣言した後、「だから、鞭で懲らしめて釈放しよう」と言っています。無罪を宣言しておきながら、釈放する前に「鞭で懲らしめる」というのは現在の刑事訴訟法の常識からは考えられませんが、当時のローマの刑事事件での訴訟手続き(または慣習)がどうであったのか、よく分かりません。ローマの鞭打ちは過酷な体刑であって、死に至ることもあります。ピラトはこの言葉を、バラバの釈放かイエスの釈放かを選ばせる時にも繰り返していますので(二三・二二)、その意義はそこで扱うことにします。

 

イエスとバラバ

 [ 祭りの度ごとに、ピラトは、囚人を一人彼らに釈放してやらなければならなかった。]  (異本 二三・一七)

 この一文は有力な写本には欠けているので、底本は[ ]に入れています。おそらく、元のルカ福音書にはなかったのでしょうが、バラバ釈放の事情を説明するために、マルコ(一五・六)にある「祭りの度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していた」という当時の習慣を説明する文が、写本の段階で挿入されたと見られます。このような習慣が実際にあったのかどうかには議論がありますが、ローマが支配する民族の民族感情を懐柔するために行っていたことは十分ありえます。

 しかし、人々は一斉に、「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と叫んだ。このバラバは、都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていたのである。(二三・一八〜一九)

 ピラトが二回までイエスの無罪を宣言して釈放しようとするのに対して、裁判の席に押し寄せてきていたユダヤ人たちは、おそらく祭司長たちや律法学者たちが叫ぶ声に民衆も声を合わせて、「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と叫びます。ルカはこのバラバについて「このバラバは、都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていたのである」という説明をつけています。

 「バラバ」という名は、アラム語で「アッバの子」という意味です。「アッバ」というのは「父」という語ですから、当時のユダヤ人に「アッバ」という個人名があったのかどうかが争われています。一世紀後半には実例が報告されているので、イエスの時代にもあったと見てよいでしょう。しかし、さらに蓋然性が高いのは、「アッバ」は優れたラビに対する尊称として用いられていたので、「バラバ」は「バル・アッバ」、すなわち著名なラビの息子であったという推察です。一世紀初頭のガリラヤのユダから始まる「熱心党」の運動は、ファリサイ派の中の過激な運動として、一部の律法学者(ラビ)によって指導されていました。ある高名なラビの息子である青年が過激な反ローマの武装闘争に立ち上がり、活動の途中でローマ軍に逮捕されて投獄されたということは十分にありうることです。「都に起こった暴動と殺人」のかどで投獄されていたという記述も、この推察を補強します。バラバはたんなる山賊とか盗賊ではなく(当時そのような盗賊団も活動していました)、血気盛んな熱心党の活動家であったと推察されます。彼らの中には「シカ」(ラテン語で短刀)を懐に隠していて、ローマに協力するユダヤ人有力者を暗殺する「シカリ派」と呼ばれる過激派もいました。バラバは反ローマ闘争の中で殺人もして逮捕されたのでしょう。バラバが高名なラビの息子であれば、ピラトの法廷に押し寄せた律法学者たちが、律法違反を教唆する異端の教師イエスを殺し、仲間の英雄バラバを釈放せよと叫ぶのは当然です。イエスの弟子たちは逃げ去って誰もいません。

 ピラトはイエスを釈放しようと思って、改めて呼びかけた。しかし人々は、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けた。(二三・二〇〜二一)

 ピラトが本当に「イエスを釈放しようと思った」のかどうかは確認しようがありません。ヨセフスが描く行政官としてのピラトの冷酷な性格と行動から、このイエスの問題も単純にローマ帝国支配に対する叛逆として処理しようとしたことも十分考えられます。ルカのこの一文は、ローマ政府はイエスの無罪を認めていたことを強調したいルカの護教的動機から出てこざるをえない一文です。

 ピラトはイエスの釈放を改めてユダヤ人たちに呼びかけます。しかし、ユダヤ人の「十字架につけろ、十字架につけろ」という叫びは、ますます大きくなり、引き下がる気配はありません。

 ピラトは三度目に言った。「いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう」。(二三・二二)

 ピラトはイエスの無罪宣言を繰り返します。ルカはこれを「三度目」としています。一度目はユダヤ人がイエスをピラトのところに連れてきて訴えたとき(一四節)、二度目はヘロデがイエスを送り返してきたとき(一五〜一六節)です。「三度目」というのは、ペトロの三度のイエス否認にも見られるように、行動の徹底性を示しています。ピラトは徹底的にイエスの無罪を確信して宣言していることを強調します。

 ところが、その無罪宣言に続けて、「だから、鞭で懲らしめて釈放しよう」と言っています。無罪だから鞭打ちをするというのはどういうことでしょうか。たしかにユダヤ教会堂には、重大な律法違反を犯した者に対する「四十に一つ足りない鞭」という懲罰(懲らしめるための処罰)があります。しかし、ローマの鞭打ちは過酷な刑罰で、ローマ市民権を持つ者には行われません(使徒一六・三七、二二・二五)。奴隷とか属州民に対する刑罰です。「無罪だから鞭打ちする」とはどういう意味でしょうか。

 イエスの鞭打ちについてはどの福音書も言及していますが、それぞれその位置と意義が違っています。マルコ福音書(一五・一五)では、ユダヤ人たちの強要に屈してバラバを釈放し、イエスを「鞭打ってから十字架につけるために引き渡した」とされています。鞭打ちは十字架刑の一部として扱われています。その後にローマ兵士による侮辱行為が報告されていますが(マルコ一五・一六〜二〇)、鞭打ちはその中で、またはその後で刑の一部として行われたと見られます。マタイ福音書(二七・二六)も同じです。ルカでは、先に見たように、ヘロデの裁判のときに侮辱されていますが、鞭で打たれたという記事はありません。ルカではピラトは「鞭で懲らしめて釈放しよう」と言ったと、釈放の条件か十字架刑の代替のように意義づけられています。しかし、その後に実際に鞭打たれた事実を報告する記事はありません。ローマでは死刑囚は死刑執行前に鞭打ちを受けましたから、マルコとマタイは(それがあったことは当然のこととして)実際の鞭打ちの情景は伝えなかったと見られます。鞭打ちはピラトによって言及されていますが、マルコとマタイでは十字架刑の一部として、ルカでは釈放の条件か刑の代替のように位置づけられています。

 ところがヨハネ福音書(一九・一〜七)は鞭打ちの事実を報告するだけでなく(それがあるのはヨハネだけです)、その意義を違った内容で報告しています。すなわち、ピラトはイエスを鞭打たせた後、茨の冠と紫の服を着せられたイエスをユダヤ人の前に引き出し、「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう」と言っています。ピラトはイエスが無罪であることをユダヤ人に説得するために、鞭打たれた後の惨めな姿のイエスを見せつけた、とピラトの動機とか意図が語られています。ヨハネはバラバを釈放してイエスを十字架につけよと叫んだユダヤ人にイエスの無罪を説得しようとしたピラトの意図を描いていますが、ルカはこの意図までは立ち入らず、バラバの釈放が要求されたときに、ピラトはイエスを鞭打ちの後に釈放しようとしたという事実だけを報告したのかもしれません。一六節の同じ言葉は、ルカがそれをヘロデがイエスを送り返してきたことを援用して無罪を宣言したときにも流用したと考えられます。

 

ピラトの決定

 ところが人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。その声はますます強くなった。そこで、ピラトは彼らの要求をいれる決定を下した。(二三・二三〜二四)

 三度におよぶピラトの無罪宣言と説得にもかかわらず、イエスを訴えたユダヤ教指導部と群衆は、イエスを十字架につけるように、あくまでも大声で要求し続けます。しかも、「その声はますます強く」なっていきます。ピラトは遂にその声に屈し、彼らの要求をいれる決定を下します。ヨセフスが描くピラトは、ローマ帝国支配に反抗する革命家を強権的に、また冷酷に弾圧する権力者です。ピラトは民衆の圧力に屈したのではなく、王と自称するこの男を釈放するなら、「あなたは皇帝の友ではない」と通報するぞと脅した「ユダヤ人」(ユダヤ教指導部)に屈したのです(ヨハネ一九・一二)。護教的動機からピラトにイエスの無罪を宣言させてきたルカは、ピラトによるイエスの処刑はこのような形で、すなわちピラトがユダヤ教側の不法な圧力に屈したという形で描かざるをえません。「そこで」、すなわち、ユダヤ人たちの要求の声がますます強くなるので、ピラトはついにその圧力に屈し、ユダヤ人たちの要求を入れる決定を下します。「ピラトの裁判」と言われますが、ここにはピラトの「判決」はありません。「彼らの要求をいれる決定」があるだけです。その「決定」の内容が次節です。

 そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた。(二三・二五)

 ピラトはユダヤ人たちの要求通りバラバを釈放し、イエスを処刑する決定を下します。ところが、イエスの処刑について、マルコ(一五・一五)のように「ピラトはイエスを十字架につけるために鞭打ちに引き渡した」(直訳)ではなく、「イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた」となっています。ここの文脈では、「彼ら」はユダヤ人たちを指します。「ユダヤ人たちに引き渡して、彼らの好きなようにさせた」とはどういうことでしょうか。ユダヤ人の最高法院に、この場合に限って死刑の執行を認めた、ということでしょうか。しかし、ユダヤ教では十字架刑はなく、イエスはローマ式の十字架刑で処刑されたのですから、この意味ではありえません。この意味不明の一文は、イエスの処刑についてはユダヤ人に責任を負わせ、その分ローマ人の責任を軽くしようとするルカの強い護教的動機の無理が露呈していると言わざるをえません。

 


      補論 イエスの血の責任は誰にあるのか

 

問題点

 ここまででイエスの逮捕と裁判の過程についての四福音書の記事をすべて見たことになります。この機会に、四福音書におけるイエスの逮捕と裁判の記事について提起されている問題点についてまとめておきたいと思います。

 イエスの逮捕と裁判についての四福音書の記事は一様でなく、かなり違いがあり、矛盾しているように見える箇所もあって、研究者の間で議論が絶えません。四福音書間の異同については、イエスの逮捕と裁判を扱う最後の機会となったこの「ルカ福音書講解」で一応扱いましたので、改めて取り上げることはせず、イエスの裁判が提起するもっとも重要な問題を一つだけ取り上げておきます。それは、結局イエスの処刑に責任があるのは誰か、という問題です。さらに具体的に言えば、イエスの処刑に関わったのはユダヤ人とローマ人ですから、そのどちらに最終責任があるのか、という問題です。

 イエスの処刑について最も確かな事実は、イエスは十字架刑で処刑されたということです。十字架刑はローマ帝国が属州民とか奴隷階級の反逆罪に科した刑罰であって、ローマ市民権を有する者には行われませんでした。また、当時のユダヤ教においては死刑は石打とか斬首刑で行われ(ミシュナには絞首刑と火刑も言及されています)、十字架刑はありませんでした。従って、イエスはローマの権力によって処刑されたことは明らかで、これについては異論はありません。さらに、十字架につけられた罪状札には「ユダヤ人の王」とあったことについても決定的な異論はなく、事実であったと見てよいと考えられます。このような諸事実から、イエスはローマ帝国支配に対する反逆者として属州民に科せられる十字架刑によって処刑されたことは動かせず、ローマに責任があることは確かです。

 しかし一方、イエスが逮捕されてまず連行されたのは総督官邸ではなく、ユダヤ教権力者の屋敷であったことも確かです。そこで何らかの審問が行われ、最後にはユダヤ人がイエスを総督官邸に連れて行きピラトの法廷に訴えたというのも事実です。福音書の逮捕と裁判の記事を全面的に否定するのでない限り、この事実も動かせません。それで、イエスの処刑についてユダヤ人側がどのような形で、またどのような程度とか意味で関わったのかが問題になります。この点については、以前から問題になっていましたが、近年とくにそれがホットな問題となって議論されています。

 近年それがホットな問題となったのは、「アウシュビッツ以後」、イスラエル国家の建設という歴史の大きなうねりの中で、それまでのキリスト教世界におけるユダヤ人迫害の大きな理由となっていた「キリスト殺しの民」というレッテルに対する反省と反動から、イエスの処刑についてはユダヤ人には責任がないとする議論が高まったからです。当然のことながらユダヤ教側から、「イエス処刑の責任はユダヤ人にある、というキリスト教徒のテーゼがアウシュビッツのガス室に一直線に通じる」という議論が出てくるのは理解できます。

 しかし、キリスト教成立以来、とくに中世や近代のヨーロッパキリスト教世界で行われてきたユダヤ人迫害への反省と反対から、キリスト教側にもユダヤ人無罪論がずっとありました。すでに一九三一年(ヒットラー台頭以前)H・リーツマンは『イエスの裁判』で「ローマ責任論」を唱え、それ以後も指導的な神学者が様々な歴史的また神学的根拠から「ローマ責任論」を唱えています。その中にはボルンカムやクルマンのようなわれわれにも親しい神学者の名が見えます。そして、ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世(在位一九七八〜二〇〇五年)は、キリスト教会がユダヤ人をこのような口実で迫害したことを謝罪するに至ります。

 この問題についての議論の詳細をたどることはできませんが、ここでまず個々の問題点の要点を整理して、この問題に対する視点を定める助けとしたいと思います。

 
イエスは誰に、何のために逮捕されたか

 イエス逮捕の状況については共観福音書とヨハネ福音書は違っています。共観福音書ではイエスを逮捕するために来たのは「祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群衆」(ルカだけが神殿守衛長を入れています)、すなわちユダヤ教勢力だけですが、ヨハネ福音書(一八・一二)では「千人隊長に率いられた一隊の兵士(ローマ軍)」と「(神殿警備の)下役たち」です。ローマ責任論では、ローマ側はユダヤ教側のイエス逮捕に協力したとか介入したという程度ではなく、はじめからイエスを反乱活動の首領として危険視し、その逮捕に主体的に行動し、ピラトが正規軍を派遣したということになります。ピラトの迅速な対応もこの見方の根拠とされます。しかし、この見方は無理です。ユダがイエスを密かに逮捕できる場所を通報したのはローマ総督ではなくユダヤ教の祭司長たちであったという事実と、逮捕されたイエスが連れて行かれたのは総督官邸ではなくユダヤ教の大祭司の屋敷であったという事実からすれば、どうしてもイエス逮捕の主導勢力はユダヤ教権力者にあったとしなければなりません。ローマ軍の関与があったとすれば、それはユダヤ教側からの要請を受けて行われた補助的な行動であったとしなければなりません。

 もしヨハネ福音書(一八・一二)が実際にローマ正規軍がイエス逮捕に出動したことの目撃証言であるならば、共観福音書は護教的動機(ローマ社会でのキリスト信仰の正統性を擁護するためにローマの関与と責任をできるだけ小さくしようとする動機)から伝承に含まれるその事実を伝えず、ユダヤ教側の勢力に限ったというということが考えられます。ローマ正規軍が出動したことが事実であるとしても、ユダの密告先と逮捕後の連行先を考慮すると、イエスを逮捕した主導勢力はユダヤ教権力者たちであったという事実は残ります。

 では、ユダヤ教上層部の権力者たちがなぜイエスを逮捕し、ローマ総督に処刑を求めて訴えたのか、その理由についても議論がありますが、それについてはヨハネ福音書(一一・四五〜五三、とくに四七〜五〇)がユダヤ教指導部の危機意識とイエス逮捕の動機をよく描いています。それによると大祭司カイアファが、イエスの活動がローマの支配からの独立を求めるメシア運動となってローマ側からの武力行使を招き、自分たちが維持する神殿中心のユダヤ教団国家体制の崩壊に至ることを懸念し、イエス一人を反逆者としてローマ総督に突き出してローマへの忠誠心を示し、自分たちの支配体制の温存を図ろうとしたということになります。当時の歴史的状況からすると、大祭司がこのような政治判断からイエスの逮捕を決意したことは疑う理由はありません。ヨハネ福音書は七〇年以後に書かれています。すなわち、ヨハネ共同体と福音書の著者は、熱心党の運動がローマへの武力闘争となり、それがローマ軍の弾圧を招き、神殿とユダヤ教国家の崩壊に至った事実を知っています。そのような事態になることを、イエスの時代の大祭司が懸念したとすることは当然です。このような理解は、大祭司に近い家柄の出身で上層部の内情に通じているヨハネの証言として信頼できます。

 このような政治的判断からユダヤ教指導部はイエス逮捕に踏み切りますが、そうであればユダヤ教指導部がローマ総督に計画を通報して、ローマ軍の出動を要請したことも考えられます。彼らは民衆の騒乱を恐れて秘かに逮捕する機会をうかがい、ユダの裏切りにより成功します。しかし、律法によって支配する教団国家としては、イエスに死刑を判決するには宗教的理由が要ります。それでイエスをユダヤ教最高法院で裁判して死刑判決を得ようとします。そのために逮捕されたイエスをまず大祭司の屋敷に連行し、裁判の手続きに入ります。


ユダヤ教最高法院は死刑判決を下したか

 ユダヤ教側のイエスに対する審問と裁判がどのように行われたのか、四福音書の記事は大きく食い違っていて、その解釈からユダヤ教最高法院は正式の死刑判決をしたという説から、そのような判決はなかったとする説まで、様々な学説が入り乱れています。ここでもう一度ユダヤ教側での裁判の過程を整理しておきましょう。

 ユダヤ教側の裁判は二段階に分かれています。第一は、夜中に行われた大祭司の屋敷での審問です。第二は、夜が明けてから行われた最高法院での裁判です。記述の仕方には違いが見られますが、四福音書はすべてこの二段階を知っているようです(マルコ一五・一、マタイ二七・一、ルカ二二・六六、ヨハネ一八・二四)。ヨハネでは曖昧ですが、共観福音書は「夜が明けるとすぐ」という句で夜中の審問と朝になってからの審問の二段階を区切っています。ミシュナ(律法学者によるユダヤ教律法実施細則の集成)によると、最高法院の正式の法廷は夜間には開けないので、この「夜が明けるとすぐ、祭司長たちは長老や律法学者たちと共に、すなわち最高法院全体で決議をした」第二段階の法廷が正式の裁判となります。夜中の大祭司邸での審問は、まだ正式の最高法院法廷ではなく、正式裁判を開くための証拠調べなどの予審ということになります。これも、死刑が問題になる重要案件では予審を行うことを定めたミシュナの規定に一致します。

 ところがマルコ(一四・五三〜六五)はこの夜中の予審の過程を証拠調べから詳しく記述し、最後に大祭司自らの尋問に対してイエスがお答えになった言葉を聞いて、一同はそれを神を汚す冒瀆の言葉として「死刑にすべきだと決議した」と伝えています(六四節)。マルコの記述は、この夜中の審問が最高法院の裁判とそこでの死刑判決であるかのように聞こえます。事実、新共同訳はこの段落に「最高法院で裁判を受ける」という標題をつけています。しかし、これは不正確な標題ということになります。この段落はあくまで予審であり、正式の最高法院の裁判は「夜が明けるとすぐ」に行われたのであり、そこでの議決が判決となります。その点ではルカの方が正確ということになります。すなわち、ルカは大祭司の屋敷での夜中の審問の事実(そこにペトロの否認とイエスへの暴行が含まれる)を伝えていますが(ルカ二二・五四〜六五)、審問の内容には触れず、「夜が明けてから」の最高法院の招集とそこでの審問の内容および判決が簡潔にまとめられています(ルカ二二・六六〜七一)。その上でこの段落に「最高法院で裁判を受ける」という(適切な)標題がつけられています。

 それで、このマルコの記事の不正確さが「ローマ責任論」(すなわちユダヤ人無罪論)の格好の材料にされます。イエスの処刑に関しては、ユダヤ教側は裁判で死刑の判決を下していないことの論拠として、マルコの記事はユダヤ教裁判規定に反しており、そのような裁判が行われたはずはない(従って死刑判決もない)と主張されます。マルコの夜の法廷の記事は、ユダヤ人に責任を負わせローマ側の責任を軽くしようとする福音書記者の護教的動機からの付加的挿入として切り捨てられます。そして、マルコ一五・一の「最高法院全員」の裁判に相当するルカの記事(ルカ二二・五四〜六五)には明確に判決が下されたという表現がないので、夜が明けてからの最高法院の裁判もピラトに訴えるための準備に過ぎないとされます。

 しかし、この議論の論拠は弱く、ユダヤ教指導層がイエスに死刑判決を下したことはないとする説は、裁判に関する記事からだけでなく、イエスの活動全体に対するユダヤ教指導層の批判と危惧を考慮に入れるとき、とうてい受け入れることはできません。最高法院を構成していた当時のユダヤ教指導層は、イエスがガリラヤで活動されていたときから、イエスの言動に律法違反の疑いをもち、イエスを訴えるための口実を捜していました。福音書には「エルサレムから来た律法学者たち」がイエスの言動に目を光らせて批判していたことが伝えられています。とくに安息日律法に違反するイエスの言動を厳しく批判していました。おそらくこれは、(ヨハネ福音書が伝えるように)イエスがその活動のごく初期にエルサレム神殿で商人を追い出すなどの激しい象徴行為をされていたので、自分たちの支配に対するイエスの預言者的批判を危険視したのと、多くの奇蹟などにより民衆の間にメシア的期待が高まり、イエスの運動が反ローマのメシア運動になることを恐れたことから、イエスを律法違反を教唆する「異端教師」とか「脱落説教者」として訴えて取り除こうとしていたことは、その後の経緯からも十分確認できます。福音書の記事を全面的に疑うのでない限り、ユダヤ教指導層がイエスを逮捕して裁判にかけたことを否定し、ただローマ側だけがイエスの運動を危険視し、革命弾圧政策として逮捕処刑したとする全面的な「ローマ責任論」は成り立ちません。

 

ユダヤ人に死刑執行権は無かったのか

 ユダヤ人がイエスを逮捕して裁判にかけたという事実と、イエスが十字架刑というローマ人の刑で処刑されたという事実が確実である以上、どこかでユダヤ人がイエスをローマ人に引き渡したという事実がなければなりません。事実四福音書はすべて、「夜が明けるとすぐ」行われた最高法院の裁判の後ただちに、ユダヤ人たちはイエスをローマ総督ピラトのもとに引いて行ったことを報告しています(マルコ一五・一、マタイ二七・二、ルカ二三・一、ヨハネ一八・二八)。

 では、最高法院で死刑の判決を下しておきながら、なぜユダヤ人がユダヤ教の死刑(石打)で処刑せず、イエスをローマ総督に引き渡したのかが問題になります。福音書はそれを当時のユダヤ人には死刑執行権がなかったからだとしています。ユダヤ人たちがイエスをピラトのもとに連れてきて訴えたとき、ピラトは、「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と言っています。するとユダヤ人たちは、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と言った、とされています(ヨハネ一八・三一)。

 ローマは征服した民族を支配するとき、その民族の宗教や風習を尊重することを原則としていました。ユダヤ人の統治にあたっては、ユダヤ教律法による裁判を認めていました。それが「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」というピラトの言葉で表現されています。とくにそれが宗教問題であるときは、ローマの官憲は立ち入ろうとはせず、訴えを門前払いにしてユダヤ教側に委ねるのが通例でした(使徒一八・一四〜一五参照)。ピラトもユダヤ人たちの訴えを面倒な宗教紛争のケースとして門前払いにしようとしたのでしょう。しかし、宗教裁判でイエスを神を汚す罪で死に値すると判決したユダヤ教指導部は、自分たちには死刑の執行権がないので、その権限をもつピラトに死刑の執行を迫った、というのがヨハネ福音書の論理です。

 それで、当時ユダヤ教最高法院に死刑執行権がなかったというのは歴史的事実であるかどうかが問題にされます。ローマ帝国の支配と属州の法制度との関わり方は政治情勢によって変動し、常に変転して定まらないので、これを確認することは難しい問題です。帝国の属州には二種類あり、比較的安定した情勢の属州は「元老院属州」として、比較的大きな自治を許されていました。そのような地域では現地の有力者が相当の権力を与えられて「領主」として統治しました。パレスチナではヘロデ大王や彼の後継者が領主として各地を統治しました。それに対して不安定な属州は「皇帝属州」とされ、皇帝が派遣する総督によって直接統治されました。そこでは自治の範囲は限られます。エルサレムを含むユダヤ・サマリア・イドメアはヘロデ大王の死後その子のアルケラオスが領主として統治しますが、失政によって追放され、六年に「皇帝属州」とされ、皇帝が派遣する総督によって統治されるようになります。従って、ガリラヤとペレアの領主ヘロデ・アンティパスが洗礼者ヨハネを処刑した事実は、イエスの時代のエルサレムの大祭司が死刑執行権を持っていたことの論拠にはなりません。また、後にヘロデ大王と同じようにパレスチナの全土を支配する王として権力を委ねられたヘロデ・アグリッパ一世が、四三年に使徒ヤコブを斬首で処刑した事実(使徒一二・一〜二)も論拠になりません。四四年の彼の死によって、パレスチナは再び総督が直接支配する皇帝属州となります。

 よくステファノの殉教のさいの石打(使徒七章)とヨセフスが伝えている六二年の「主の兄弟ヤコブ」の石打が、最高法院が死刑執行権をもっていたことの論拠とされますが、これも問題です。ステファノの場合は、民衆の騒乱の中での処刑であり、それを議決して実行したのを最高法院とするには無理があります(拙著『福音の史的展開T』181頁「ステファノに対する石打」の項を参照)。「主の兄弟ヤコブ」の石打による処刑も、まさにそれが総督着任までの空位の時期を狙って行われた事実が、かえって死刑執行権が総督だけにあったことを裏書きしています(『福音の史的展開U』17頁「主の兄弟ヤコブの殉教」の項を参照)。

 「ローマ政府がもつ権能のすべての中で、最も嫉妬深く守られたもの」と言われる死刑執行権について、強硬な反ユダヤ主義者のセヤーヌスの権勢を後ろ盾として出世し、ユダヤの総督として派遣されたピラトの時代にユダヤ人に認められていたとは考えられません。先に見たように、ユダヤ教指導部がイエスを逮捕して裁判にかけたという事実と、イエスはローマの処刑法である十字架刑で処刑されたという事実の両方が成り立つためには、当時の最高法院には死刑執行権がなかったことを歴史的事実として認めざるをえません。

 ところが、「ローマ責任論」を主張するために、この「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」というヨハネ福音書(一八・三一)の証言が無視されることがあります。最高法院に死刑執行権があるのであれば、死刑判決を下した最高法院は直ちにイエスを石打で処刑すればよいわけです。それがなく、ピラトによってローマ式の十字架刑で処刑されたという事実は、マルコが伝える最高法院による(ミシュナ違反の)夜中の法廷と死刑判決などはなかったのであり、イエスの処刑は騒乱扇動者に対するローマ総督の主導による出来事であることを示している、という議論です。ユダヤ教側の関与はせいぜい朝の審問(ルカ二二・六六〜七一)において、ピラトに訴えるための予審調書を作成したことにとどまることになります。しかしこの議論は、先に見たように、福音書の報告の歴史的価値を全面的に疑うのでなければ成り立ちません。

 ルカは、ユダヤ人たちはイエスを宗教問題ではなく、ローマの支配に対する叛逆の扇動者として訴えたとしています(ルカ二三・二)。出来事から時間的にも地理的にも遠く離れたところで異邦人のために書いているルカにとって、当時のユダヤ教最高法院の死刑執行権の有無は問題ではなく、イエスがユダヤ教側からは瀆神罪で有罪とされたことと、ローマ総督からは反逆罪で処刑された事実を伝えればよいわけです。ルカは時代の法制史的細部にこだわらず、十字架刑の実質的意義だけを伝えていると言えるでしょう。

 

福音書成立時の状況と護教的動機

 以上に見たように、イエスの十字架刑による処刑はローマ総督ピラトによるものですが、その処刑に至らせた経緯からすると、ユダヤ教指導部がイエスを逮捕して最高法院が死刑判決を下し、死刑執行権のない最高法院がイエスをピラトに引き渡して死刑を執行させたという福音書の記述は事実であると判断せざるをえません。このような事実からすると、十字架刑というローマ式の処刑をしたローマ人に最終責任があることは否定できませんが、そのような結果に至らせたユダヤ教最高法院の死刑判決にも重大な責任があることは明白です。

  ローマ総督ピラトによるイエスの十字架刑は、ローマ側から見れば当時数知れず行われた属州民叛徒に対する処刑の一つとして、ごくありふれた、ほとんど日常的な出来事であり、ローマの歴史記録や裁判の公式文書に痕跡も見当たらないのは当然です。それに対して、大祭司が主宰するユダヤ教最高法院がイエスに死刑判決を下したことは、「宗教」と信仰の関係において決定的に重要な意義をもつ出来事です。パウロの表現では「律法と福音」の関係に決定的な転換をもたらす出来事であったのです。イエスはユダヤ教という「宗教」の判決によって殺されたのです。すなわち、イエスは「律法によって殺された」のです。もし「ローマ責任論」がイエスの処刑を単に政治的出来事として、その宗教的意義を覆い隠すのであれば、それは重大な誤りです。しかし、ユダヤ教がイエスを殺したという出来事を、だからユダヤ人(ユダヤ民族)が神の子キリストであるイエスの処刑に責任がある民であるとして、キリスト教会がユダヤ人を迫害するならば、それは悲劇的な過ちであり、神の前に弁明できない大罪です。

 イエス処刑の責任はユダヤ人(ユダヤ民族)にあるのではなく、ユダヤ教という「宗教」にあるのです。ユダヤ人民衆は、病人をいやし、煩瑣な律法順守の重荷から解放してくれるイエスを歓迎していました。しかし、イエスの「恩恵の支配」の福音に自分たちの宗教的権威への脅威を感じた祭司長らユダヤ教指導層が、イエスを取り除くことを決意するに至ります。先に見たように、ローマ支配に対する自分たちの権力の維持という政治的動機もありますが、根底はユダヤ教律法を絶対とする自分たちの宗教基盤を否定する脅威として、イエスを取り除こうとし、それを実行したと言えます。

 ところが、福音書にはこの出来事を「ユダヤ人」が引き起こした出来事と誤解させるような書き方をしている部分があります。たとえば、ヨハネ福音書はイエスを殺そうとしているユダヤ教指導層を繰り返し「ユダヤ人」と呼んでいます(ヨハネ五・一〇〜一六、五・一八、七・一、七・一三、九・一八〜二四、一〇・二四、一〇・三一〜三三、一〇・三九、一八・一四、一八・三六、一九・七、一九・一二、一九・二一、一九・三八)。このような記述を、出来事から遠く離れた時期に、当時の状況を知らない異邦人が読むと、イエスを殺したのは自分たち異邦人ではなく「ユダヤ人」、それもユダヤ教指導部という特定の者たちではなく「ユダヤ人」一般であるという印象を受けてしまいます。

 どうしてこのような書き方になったのでしょうか。それはヨハネ福音書が、イエスを信じるヨハネ共同体とその共同体を迫害するユダヤ教会堂との厳しい対立の時代に書かれたからです。ヨハネ福音書は一世紀末、おそらく九〇年代に成立したとみられますが、それより少し前にユダヤ教法院(最高法院の継承者)はイエスをメシアと告白するユダヤ教徒を会堂から追放するという決議をしており、イエスを信じるユダヤ人はもはやユダヤ教徒ではありえず、イエスを信じるヨハネ共同体は、ユダヤ教会堂とは別の信仰共同体としてユダヤ教会堂と決定的に対立するようになっていました。そしてユダヤ教会堂勢力からの迫害に対して、その勢力を「ユダヤ人」と呼んで、復活されたイエスに対する不信仰を厳しく糾弾するようになっていました。その対立が、イエスを拒否して殺すに至った不信仰の勢力を「ユダヤ人」と呼んでイエスの受難を語ることになったと考えられます。

 マタイ福音書も同じような時期に書かれました。ただマタイ共同体はユダヤ人信者の共同体であり、マタイ福音書はおもにユダヤ人信者を対象に書かれていますので、信者を迫害する勢力を「ユダヤ人」と呼ぶことはなく、ユダヤ人の中で自分たちに対立する勢力を「律法学者たちとファリサイ派の人たち」と呼んでいます。これは、七〇年のエルサレム神殿の崩壊以後、ユダヤ教を指導する勢力はファリサイ派律法学者だけになっていたからです。マタイ福音書(二三章)は彼らを「偽善者、地獄の子、預言者たちを殺した者たちの子孫」と呼び、神が遣わした者たちを殺す者と決めつけ、今イエスを殺すに至ったことを含め、「これらのことの結果はすべて、今の時代の者たちにふりかかる」としています。

 七〇年以後のキリスト信仰共同体には、七〇年のエルサレム陥落と神殿の崩壊は、神が遣わされたメシアであるイエスを殺したことに対する審判だとする思想がありましたが、マタイはそれをイエスによって語られた預言として、このように書いています。しかしマタイ福音書には、イエスを殺した責任が「今の時代の者たちにふりかかる」という限界を超えて、ユダヤ人の子々孫々にまで及ぶという文言があります。イエスの裁判でピラトはイエスの無罪を主張して釈放しようとしますが、ユダヤ人群衆は「その男を十字架につけよ」と叫び続けます。

     ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ」。民はこぞって答えた。「その血の責任は我々と子孫にある」。(マタイ二七・二四〜二五)

 ここでは明確にローマ人の責任が否定され、ユダヤ人自身がイエスの血を流した責任は「我々と子孫」にあると明言した、と書かれています。この言葉が、後の時代のキリスト教会がユダヤ人を「キリスト殺し」の責任のある民として迫害する重要な根拠にされることになります。しかし、この言葉を全面的な「ユダヤ人責任論」の証拠として、キリスト教会がユダヤ人の子孫、すなわちユダヤ民族を迫害することは、きわめて重大な聖書の読み違えです。

 イエスの血についての責任問題は、ピラトが「それはお前たちの問題だ」言っているように、その時代のユダヤ人たちの間の問題です。一部のユダヤ人はイエスを神から遣わされたメシアと信じて言い表しましたが、多くのユダヤ人、とくに祭司長たち指導層のユダヤ人は信じないで、ユダヤ教に背く異端の教師として断罪し処刑しました。したがって、イエスの血に責任があるのは、祭司長たちが代表するユダヤ教にあるのであって、ユダヤ民族にあるのではありません。だいたい、ユダヤ人たちの内部での対立で、一方の側だけにある責任を、ユダヤ人以外の者が外からユダヤ人全部の責任として問うのは論理的な筋違いです。責任を問うことができるのは、ユダヤ人の間で責任のない側が、責任のある側のユダヤ人の責任を問うことができるだけです。マタイ福音書が「律法学者たちとファリサイ派の人たち」の責任を問い、ヨハネ福音書が「ユダヤ人」の責任を問うのは、このようなユダヤ人内部での責任問題の糾弾です。外のキリスト教会がこの問題に関する福音書の言辞を根拠にしてユダヤ人を迫害するのは重大で悲劇的な過ちです。

 もう一つ、イエスの血についてユダヤ人の責任を問うようにさせる重要な動機があります。それは福音書記者の護教的動機です。護教的動機というのは、これからローマ世界に福音を告知しようとする福音書記者が、告知するイエスも、イエスを信じる信仰も、ローマ世界の秩序にとって有害なものではなく、その中に場所をもつことができる信仰であると、信仰の正統性を擁護しようとする動機です。福音書の記述にこのような護教的動機が働いていることは、福音書の講解において、それが出てくる度ごとに触れておきましたが、このローマ総督によるイエスの十字架処刑というもっとも決定的な出来事におけるこの動機の表現とその意義を見ておきましょう。

 先に引用したマタイ福音書(二七・二四〜二五)の記事はその典型的な一例です。福音書はみな、ピラトはイエスの無罪を主張して釈放しようとしたことを強調しています。その中でもっとも明確に表現しているのはルカ福音書です。先の段落139「死刑の判決を受ける」の講解で見たように、ピラトは三度まではっきりとイエスの無罪を宣言しています。マタイではそれほど明確な無罪宣言はありませんが、ピラトはユダヤ人群衆の前で手を洗って、「この人の血について、わたしには責任がない」と宣言しています。両方ともイエスの血の責任はローマ側にはなくユダヤ人にあることを主張しています。そうすることでローマの責任を軽くしようとしてます。ただ、マタイは対立するユダヤ教会堂に向かってその責任を問うという傾向が強いのに対して、ルカはこれから福音を告知しようとするローマ帝国社会においてイエスを信じる信仰の正統性を弁証しようとしているので、ローマの官憲の無罪宣言を強調しています。マタイ福音書とルカ福音書の基になるマルコ福音書は、まだそれほど護教的動機は明白ではありませんが、それでもイエスの逮捕に来た者たちに関する伝承からローマ正規軍が含まれていたことを省略したり、夜中に行われたユダヤ教側の裁判を詳しく伝えて、そこで死刑の判決がなされ、ピラトの法廷ではむしろイエスを釈放しようとする努力がなされたことを描くなど、すでに十分護教的動機がうかがわれます。ヨハネ福音書になると、ピラトはほとんどイエスの神的権威を認めているかのような書き方になっています。ピラトはイエスを釈放しようとしますが、ユダヤ人の圧力に押し切られて「お前たちが彼を引き取って十字架につけるがよい」と言ってイエスの処置をユダヤ人に委ねてしまいます。そのときに「わたしは彼に何の咎も見出さないのだから」という言葉で、ローマ側はイエスの無罪を知っていたことを強調しています(ヨハネ一九・六)。

 このように福音書には護教的動機が強く働いている以上、ユダヤ人に責任を求める議論は、この事実をしっかり認識して福音書を解釈しなければなりません。しかし、現在の「ローマ責任論」がしているように、ユダヤ人に責任を負わせる記事はすべて護教的動機から付加挿入されたものだと切り捨てることはできません。イエスがユダヤ教指導層によって逮捕されて裁判にかけられたという事実と、最終的にはローマの処刑方式である十字架刑で処刑されたという事実は歴史的事実として受け入れなければなりません。その上でその出来事の意義を理解することを目指すべきです。

 

結び

 このように、「アウシュビッツ以後」イエスの血についてユダヤ人を責任なしとするために「ローマ責任論」が唱えられるようになりますが、ここで見たように、この主張は無理であることが分かりました。もともとこの議論、すなわちイエスの血について責任があるのはユダヤ人かローマ人かという問いの立て方自体が間違っているのです。正確な問いは、イエスの血に責任があるのは、ユダヤ教という宗教か、それともローマ帝国の統治原理かという問いです。たしかに、イエスが反乱属州民に対するローマ帝国の処刑方式である十字架刑によって処刑された事実は、ローマ帝国の統治原理が働いていることを示しています。しかし、イエスの処刑はローマ側がイエスを反乱の扇動者として探索し、逮捕して裁判にかけ、有罪として処刑したのではなく、ユダヤ教指導層がイエスをユダヤ教の原理に違反する者として逮捕し、裁判で死刑を判決し、その死刑を死刑執行権があるローマ総督に執行させたものである以上、イエスの血の責任はユダヤ教という宗教にあるとしなければなりません。ユダヤ人とかユダヤ民族にあるのではありません。

 このことは次のイエスとピラトとの間の対話に示されています。ピラトはイエスに向かって、「わたしにはお前を釈放する権限も、十字架につける権限もあることを知らないのか」と言います。それに対してイエスは、「上から与えられていなければ、あなたはわたしに対して何の権限もない。それゆえに、わたしをあなたに引き渡した者には、いっそう大きな罪がある」と答えておられます(ヨハネ一九・一〇〜一一)。ローマ帝国に反乱を企てる者を判定して十字架刑で処刑することは上から総督に与えられた権限です。ローマ帝国がその権限を行使することは罪ではありません。それゆえに、その権限のある者に罪のない者を引き渡して、その権限の実行を強要する者にこそ、その神から遣わされた聖なる方の血に責任があることになります。「いっそう大きな罪がある」という比較級を用いた表現は、ヘブライ語の語法からして、罪(責任)の程度の大小を言っているのではなく、責任の有無を言っていると理解しなければなりません。

 イエスをピラトに引き渡したのはユダヤ人民衆とかユダヤ民族ではなく、その時代のユダヤ教を代表する最高法院指導部です。ユダヤ教という宗教が、その律法支配の原理からそうせざるをえなかったのです。この事実は「イエスは律法によって殺された」、あるいは「イエスはユダヤ教によって殺された」ということを意味します。典型的な「宗教」であるユダヤ教によって殺されたことは、「宗教」によって殺されたことになります。イエスの十字架の出来事は、「律法と福音」あるいは「律法と信仰」、ひいては「宗教と福音」の関係について重大な問題を提起し、決定的な転換をもたらす契機となります。この「宗教と福音」の問題については、拙著『福音の史的展開U』の終章が取り扱うことになります。

 


   十字架刑の執行

        十字架刑の歴史と形式については、別の著作ですでに扱っているので繰り返しは避けます。左記の箇所を参照してください。
       『マルコ福音書講解U』 280頁   「十字架刑の歴史」

 

140 十字架につけられる(23章26〜43節)

 

ウィア・ドロロサ

 人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。(二三・二六)

 「引いて行く」という三人称複数形の動詞は、主語を指し示す特定の名詞なしで使われています。新共同訳は「人々は」という表現で訳しています。直前(二五節)では、「(ピラトは)イエスの方は彼ら(ユダヤ人たち)に引き渡して、好きなようにさせた」と言われていましたが、ここの動詞の主語は「彼ら(ユダヤ人たち)」ではありえません。処刑される死刑囚を刑場へ引いて行くのはローマ軍の兵士です。マタイ(二七・三二)は「兵士たち」と明記しています。百人隊長に率いられる一隊の兵士です。ローマへの反乱を扇動する者として処刑されるのですから、仲間たちによる奪還を警戒して、厳戒態勢で他の二人の囚人と一緒に刑場へ護送されます。

 死刑囚は処刑される前に容赦なく鞭打たれました。死刑囚に加える鞭打ちに用いられる「恐怖の鞭」(horri-bile fragellum)は、皮の鞭に無数の金属片や骨片をつけたもので、これで鞭打ちされる囚人は身体中血まみれになります。その身体を十字架上に釘付けにして街道沿いなどに曝すことで、見せしめとしての効果を上げようとしたのでしょう。イエスがこの処刑前の鞭打ちを受けたことは、ルカを含めどの福音書も報告していませんが、当然の事実として言及しなかったのでしょう(ヨハネだけが裁判の途中で鞭打ちが行われたことを報告しています)。

 イエスはこの激しい鞭打ちですっかり弱っておられたのでしょう。茨の冠で頭から血を流し、鞭打ちで身体中から血を流して十字架の横木を背負って歩かれるイエスは、途中で倒れてしまいます。丁度そのとき、「田舎から出て来た」一人のユダヤ人がそこを通りかかります。

 イエスはエルサレム市街から門の外の刑場へ引いて行かれるところです。そのユダヤ人は「田舎から」、すなわちエルサレム周辺の農村地域から出て来て、都に入るためにエルサレムに向かっていたのでしょう。そのユダヤ人は「シモンというキレネ人」と、その名と出身地が伝えられています。マルコ(一五・二一)はさらに詳しく「アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人」と報告しています。このシモンは、イエスの復活後イエスを信じる者となって、二人の息子と共に、イエス受難の証人として最初期共同体において重要な働きをしたユダヤ人なので、その名をあげたものと考えられます。マルコが書いたときには、読者の中にこの親子のユダヤ人、とくに二人の息子を知っている人がいることを予想できたのでしょう。「あのアレクサンドロとルフォスとの父だ」という気持ちで、息子の名もあげたのでしょう。ルカは彼らの活動の時期と地域から遠く離れていて、そのような情報を伝える必要を感じることなく、ただ伝承にある「キレネ人シモン」の名だけを伝えたものと見られます。

 「キレネ」(またはキュレネ、協会訳ではクレネ)は、地中海に面した北アフリカの重要都市です。ほぼギリシアの対岸に位置し、アレクサンドリアから西に約七五〇キロに位置しています(アレクサンドリアとカルタゴのほぼ中間)。キレネは古くからユダヤ人が住み、イエスの時代にはかなりの規模のディアスポラ・ユダヤ人の共同体が活動し、アレクサンドリアと並ぶ北アフリカのユダヤ教の拠点都市でした。パレスチナとの交流も密接で、エルサレムに住むキレネ出身のユダヤ人も多かったようです。新約聖書にも多くのキレネ出身のユダヤ人が登場します。ここのシモンもその一人ですが、他にも「ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のために散らされた人々」の中にキレネ出身のユダヤ人がいて、アンティオキアでギリシア人に福音を告げ知らせる活動をしています(使徒一一・一九〜二〇)。おそらくその中の一人でしょう、アンティオキア共同体の指導者の中に「キレネ人ルキオ」の名があげられています(使徒一三・一)。

 シモンがエルサレムに居住していたのか、過越祭のために巡礼者として滞在していたのかは分かりません。祭りのために都に入ろうとして、刑場に引かれて行くイエスの一行とすれ違ったのでしょう。刑場へ急がなければならないローマ軍は、イエスが倒れたからといって立ち止まるわけにはいきません。また、ローマ兵に死刑囚の恥辱の十字架を背負わせるわけにはいきません。たまたま通りかかったユダヤ人シモンを「捕まえて」十字架の横木を背負わせ、イエスの後からついて行かせます。このときシモンはイエスの弟子ではなかったでしょう(弟子であればイエスに近づけないはずです)。そのシモンにとって死刑囚の位置に自分を置くことはどんなに嫌なことだったでしょう。たじろぐシモンをローマ兵は「捕まえて」、無理矢理に横木を負わせて運ばせます。後にシモンはイエスを信じる者になりますが、この時の辛い体験が、イエスの受難の証人として語るときの迫力を増し加えたものと想像されます。


  民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。(二三・二七)

 イエスがローマ総督官邸から城壁の外にある刑場まで、エルサレムの狭い街路を通って、実際歩かれた道はもはや分かりません。当時の街路は現在では地下に埋もれてしまっていますし、処刑地がどこか最終的に確定されているわけではないからです。しかし十三世紀以来、ピラトによるイエスの裁判が行われたとされるアントニア要塞跡から、ゴルゴタの場所とされる聖墳墓教会までの道が「ウィア・ドロロサ」(悲しみの道)と呼ばれて、巡礼者たちがイエスの苦難の道行を偲ぶ場所になっています。その道には、ピラトの法廷とされる場所から埋葬の場所とされる所まで、その間の出来事の一つ一つを偲んで祈る十四箇所の祈祷所が設けられています。その中には、ヴェロニカがハンカチでイエスの額からの汗を拭ったところ、そのハンカチにイエスの顔が写ったというような、伝説に基づく場所も含まれています。

  このイエスの苦しみの道行きを見守った人々の中に弟子たちはいません。反乱が頻発する不穏な情勢の中で、反乱勢力のリーダーと目される者の処刑ですから、仲間による奪還を警戒して、警備は厳重をきわめています。百卒長が指揮するローマ軍団の一隊が警備と執行の任にあたっています。たとえ弟子たちが師を見送ろうとしても、とうてい近づくことはできなかったでしょう。ただ、女性は警戒されることなく、近づくことができました。「ガリラヤから従って来た婦人たち」(二三・四九)は、従っていってイエスを涙ながらに見送ったことでしょう。その中にはイエスの母マリアやマグダラのマリアもいました。また、当時の習慣に従って、死刑の執行があるときには、エルサレムのかなりの家柄の夫人たちの有志が造る団体が執行に立ち会って、受刑者を慰め、苦しみをやわらげるために麻酔性の香料を含むぶどう酒をあたえたりしました。このような夫人たちや職業的泣き女が、哀歌を歌いながら痛ましい行列の後につづいたと見られます。

 イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け」。(二三・二八)

 ルカは「民衆と婦人たち」がイエスの刑場への道行きに従ったと書いていますが(前節)、おそらく婦人ばかりで男性はほとんどいなかったのではないかと推察されます。それは、イエスが倒れたとき代わりに横木を背負わせる男性がいないので、たまたま通りかかったシモンを「捕まえて」無理矢理に横木を背負わせた事実が示唆しています。

 イエスは「振り向いて」、後ろに従ってくる婦人たちに向かって、「エルサレムの娘たちよ」と語りかけられます。イエスの悲運を嘆き悲しんで泣いている婦人たちに、イエスは「わたしのために泣くな」と言われます。イエスはさらに大きい悲しみが彼女らを襲うことを見ておられるからです。それは見知らぬ一人のガリラヤ人の悲運を嘆くよりもずっと大きい悲しみです。それは自分と自分の子供たちを襲う大きな悲運です。イエスは「むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け」と呼びかけられます。

 イエスはエルサレムの民に襲いかかる大きな患難を見ておられます。ご自身は激しい鞭打ちで歩くこもできないような痛みの中にありながら、彼らのために涙を流されます。エルサレムに入るとき、オリーブ山の坂道から都を見て、イエスは涙を流されました(一九・四一〜四四)。その時イエスはすでにローマの鷲がエルサレムに襲いかかる姿を見ておられました。また、弟子たちにはそれが神の御計画の中にあることを解き明かしておられました(二一・二〇〜二四)。そして今、ユダヤ教を代表する最高法院が神の言葉を語ったイエスに死刑を判決し、イスラエルの民がイエスを拒否してバラバを選んだことで、反ローマの暴力路線が確定し、神がローマの軍事力を用いてこの民を裁かれることが避けられなくなったことを見ておられます。そのエルサレムとイスラエルの民に臨む大きな悲運を思い、イエスは涙を流されます。わたしは、イエスはこの刑場への道行きの途上、自分の苦しみのためではなく、エルサレムとイスラエルの民に臨む大きな悲運のために涙を流しておられたと思います。そのような涙の中から婦人たちに、「わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け」と語りかけられます。

 「人々が、『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る」。(二三・二九)

 イエスは女性たちに語りかけておられます。「子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房」は、古代において、とくに子孫を得ることを神の祝福とするイスラエルにおいて、女性の不幸を象徴する表現です。このような不幸な女性を「幸いだ」と言わなければならなくような日が来る、大逆転の時が来るのだ、とイエスは言っておられます。それは、子のある女は自分の子に臨む悲運を悲しまなければならないが(女性にはそれより大きな悲しみはありません)、子のない女はその悲しみがない分だけ幸いだという意味であり、その患難の大きさを逆説的に表現しています。この表現はイザヤ書(五四・一)でも用いられていますが、そこでは暗い現在に対して明るい未来を対照するために用いられているのに対して、ここでは逆に暗い将来を象徴する逆説として用いられています。

 やがてエルサレムに臨む大きな患難を予告するとき、イエスは「それらの日には身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ」と言われた、とルカは伝えています(二一・二三)。「子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ」というここの言葉は、それを裏側から表現したものであり、共にやがてエルサレムとこの民に臨む大いなる患難を予告する言葉です。

 「そのとき、人々は山に向かっては、『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、丘に向かっては、『我々を覆ってくれ』と言い始める」。(二三・三〇)

 二八節と二九節のイエスの言葉は、婦人たちに語られた言葉としてふさわしい表現ですが、本節の言葉はとくに女性とは関係なく、終わりの日の神の審判の恐ろしさを描く預言者の表現を用いて、その患難の大きさを表現しています。ホセア(一〇・八)の預言では、「そのとき、彼らは山に向かい『我々を覆い隠せ』、丘に向かっては『我々の上に崩れ落ちよ』と叫ぶ」とありますが(七十人訳ギリシア語聖書も同じ)、ルカは山と丘に対する叫びを逆にしています。記憶から引用したのでそうなったのかどうか、理由は分かりませんが、神の審判の恐ろしさを表現するのは同じです。神の審判から身を隠すために、こう叫ばざるをえないさし迫った苦境を指し示しています。ヨハネ黙示録(六・一六)は、小羊の怒りから身を隠すために、人々が山と岩に向かって「わたしたちの上に覆いかぶさって、わたしたちをかくまってくれ」と叫ぶようになる、という形で用いています。

 最初期共同体はエルサレム神殿の崩壊を神の審判と重ねて語り伝えていました。それで、エルサレムに臨む大いなる患難を語る語彙に、神の審判を語る預言者の言葉が用いられたと考えられますが、ルカもここでそのような伝承を用いていると見られます。

 「『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか」。(二三・三一)

 この格言のような語録の意味は曖昧で、その解釈は争われています。「生木において人々はこのようにするのであれば、枯れ木においては何が起こるのであろうか」という文で、前置詞の《エン》が用いられていますが、「生木の場合では」と「枯れ木の場合では」が対照されているのか、同じ木の「生木の時に」と「枯れ木になった時に」という時期が対照されているのか、また木に働きかける主体は誰かなどが決められない曖昧さが残ります。ここに用いられている文脈から解釈する他はありません。

 「枯れ木」の比喩は旧約聖書でよく用いられています。エルサレムの娘たちに対するイエスの語りかけの中では、さし迫った神の裁きが語られていますので、来たるべき神の裁きを焼き尽くす火の比喩で語った預言者エゼキエルの次の預言が想起されます。

     「ネゲブの森に言いなさい。主の言葉を聞け。主なる神はこう言われる。わたしはお前に火をつける。火は、お前の中の青木も枯れ木も焼き尽くす。燃え盛る炎は消えず、地の面は南から北まで、ことごとく焦土と化す」。(エゼキエル二一・三)

 洗礼者ヨハネにも見られるように、当時のユダヤ教黙示思想の終末待望では、終わりの日の到来は木々を焼き尽くす審判の火のイメージで語られていました。この語録がこのイメージの中で語られたものであれば、生木でさえこのように大きな患難の火で焼かれるのであれば、枯れ木はどのように激しい患難に遭うことか、という意味になります。生木の現実の患難を根拠にして、枯れ木の将来の患難を予告する言葉になります。問題は、その生木と枯れ木が誰または何を指すかです。生木を神との命の交わりにあるイエス、枯れ木を神に背いて命の枯渇を招いているイスラエルと理解することも可能です。この理解では、イエスの受難がさし迫ったエルサレム陥落の根拠とされていることになります。また、預言書(イザヤ五六・三)に異邦人を枯れ木の比喩で指しているところから、生木をイスラエル、枯れ木を異邦人世界とする理解もありえます。この理解では、やがてイスラエルの民が受ける苦難が、将来の全世界の患難の予表となります。いずれにせよ、十字架に向かって歩まれるイエスの心中には、ご自分の苦しみよりも、神に背くイスラエルの民が、そして世界の民が受ける苦難のために泣く悲しみが満ちていたと推察されます。

 刑場への途中イエスが女性たちに語りかけられた記事は、ルカだけにある記事で他の福音書にはありません。マグダラのマリアをはじめ数人の「ガリラヤから従ってきた数人の婦人」の弟子がイエスの最後を見届けているのですから(二三・四九)、このとき後に従って行った女性たちの間に彼女らもいたはずです。この伝承は、直接イエスの言葉を聴いた女性の弟子から出た伝承として信頼できます。

 ペトロをはじめ男性の弟子たちはみな「ユダヤ人」を恐れて逃げ去っていて、刑場まで行った弟子はいません。従って、ペトロからの伝承に基づいているマルコ福音書(およびマルコに従っているマタイ福音書)にこの記事がないのは理解できます。ユダヤ人の共同体は女性の証言を軽視または無視したのでしょう。女性に優しいルカだけがこの伝承を採用したと想像することも許されるかもしれません。

 男性弟子の中でただ一人、「イエスが愛された弟子」が十字架のそばにいたことが報告されています(ヨハネ一九・二六)。おそらくこの弟子はまだ少年のような年齢であったので、女性の間に紛れてイエスの後に従って刑場まで行けたと考えられます。この道行きを目撃したはずの弟子から出たとされるヨハネ福音書に、キレネ人シモンのことや女性へのイエスの語りかけがないことについては議論があります。推察になりますが、ヨハネ福音書はシモンのことに触れたくないので、刑場への道行きをすべて削除した、あるいは報告しなかった可能性があります。というのは、ヨハネ共同体で福音書が成立するころ、神の子イエスが十字架で刑死するようなことはありえない、神の子は直前にその身体から去り、実際に十字架につけられたのはシモンであった、というような説(仮現論)を唱える者たちが出てきたので、シモンのことを含むこの道行きに触れたくなかったことが考えられます。

 ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。(二三・三二)

 ローマは奴隷や属州民の反乱者を処刑するとき、複数の死刑囚をまとめて処刑することが常でした。ここでもイエスと他の二人の死刑囚が一緒に刑場に引かれていきます。ここでルカは、イエスと同時に処刑された二人を「犯罪者」《カクールゴス》という用語で指しています。並行するマルコ(一五・二七)は「強盗」《レーステース》という用語を使っています(マタイも同じ)。《レーステース》というギリシア語は、たしかに強盗という意味の語(一〇・三〇)ですが、当時ローマ側は反乱を企てる「熱心党」の活動家をこのような呼び方をしていました。「暴徒」と呼ばれるバラバも、このような活動家の一人として逮捕され、処刑を待つ身でした。おそらくこの二人もこのような反乱分子として逮捕され処刑されたのでしょう。イエスも、「ユダヤ人の王」という罪状書きが示すように、ローマの支配に反逆する指導者(扇動者)として処刑されたのです。ルカがこのマルコの用語を用いないで「犯罪者」という一般的な刑法犯を指す用語にしたのは、イエスの処刑から政治的な意味を除去して、イエスはローマ帝国支配に反逆する方ではないことを示したい護教的動機からであると考えられます。

 

十字架の上で

 「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。(二三・三三)

 「されこうべ(頭蓋骨)と呼ばれている所」とは、現在ではエルサレムの城壁内の市街地にある聖墳墓教会のあるところとされています。当時の土地は地下に埋もれてしまっていますが、城門の外にありました。十字架刑は城壁の外で行われ、見せしめのために人通りの多い街道沿いで行われました。おそらく街道沿いにある頭蓋骨風の小高い場所が、頭蓋骨を意味するヘブライ語で呼ばれ、それがギリシア語に音訳されて「ゴルゴタ」となり、ラテン語聖書のウルガタ訳では頭蓋骨を指すラテン語「カルバリア」となります。英語の「カルバリ」はこのラテン語から来ています。

 「人々はイエスを十字架につけた」と簡潔に記述されていますが、この「人々」は当然刑執行役のローマ軍兵士です。十字架につける仕方は場合によって違いますが、ローマ支配のパレスチナで行われていた一般的な仕方では、地上に横たえた横木に裸にされた受刑者の両手を釘付けにし、予め地面に打ち込まれている立木の上に引き上げ、地上から二、三メートルのところでしばります。こうして磔刑台は通常T字型になりますが、上部の短い十字形になる場合もあります。それから足を立木に釘付けします。さらに頭の上に罪状書きの板が取り付けられます。

 受刑者はこうして磔刑の木に釘付けされたまま、兵卒の監視の中で、絶命するまで放置されます。衆人の侮蔑と猛禽の襲来に身を護るすべなく、想像を絶する体の苦痛の中に何時間も、ときには何日も放置されます。執行者が憐れみを覚える場合には、麻酔作用のある飲物を口に含ませることもあります。また何らかの事情で早く取り下ろさなければならないときは、死期を早めるために脇を槍で突くこともあり、息のある受刑者が逃亡するのを防ぐために脚の骨を叩き折る場合もあります。

 兵士たちはイエスと一緒に処刑される二人の「犯罪者」を、同じように一人はイエスの右に、一人はイエスの左に十字架につけます。こうしてゴルゴタの小高い地にイエスを真ん中に三本の十字架が立ち並ぶことになります。刑場までついてきた女性たち、とくにガリラヤからイエスと共に来た女性たちが、十字架の前で嘆きながら、十字架上のイエスの苦しみと死を見届けることになります。

 〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。〕 (二三・三四a)

 この部分が底本で[  ]に入れられているのは、有力な写本に欠けており、後からの加筆である可能性があるからです。ルカの福音提示の中心が「罪の赦し《アフェシス》」であることをよく理解している後代の人物が、二人の「犯罪者」と交わされた対話からも、イエスの最後の場面でこの《アフェシス》を宣言されるイエスの姿を挿入した可能性があります。この部分を欠く写本が存在する事実から、このような重要なイエスの言葉を削除する可能性は極めて低いので、その部分をもつ写本の方が挿入によるものと推察されることになります。

 たとえそれが後代の加筆だとしても、この言葉はルカが伝えるイエスの福音の核心として、この最後の場面にふさわしいイエスのお姿であり、代々のキリスト教徒にとってかけがえのない尊いお言葉として伝えられることになります。イエスは十字架の上で、自分を十字架につけたローマ兵にも、「十字架につけよ」と叫んだユダヤ人にも、父の赦しを乞われます。彼らは自分が神から遣わされた方を殺すという重大なことをしていることを理解していません。代々のキリスト教会は、このお言葉を「十字架上の七言」の一つとして大切に伝えてきました。そうであるならば、キリスト教会がユダヤ人をキリスト殺しの咎で迫害するのは、自分を十字架につける者たちの赦しを父に祈られたイエスのお心を真っ向から踏みにじることになります。

  人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。(二三・三四b)

 イエスを十字架につけたローマの兵士たちがイエスの衣服をくじで分け合ったという事実は、四福音書のすべてが伝えています。受刑者の衣服や持ち物を刑の執行役であり監視役(マタイ二七・三六)の兵士が取ることは認められていたようです。指揮官の百人隊長はそれを制止していません。イエスの服を「くじを引いて」分けた事情については、ヨハネ福音書が詳しく伝えています。

    兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。それは、「彼らはわたしの服を分け合い、わたしの衣服のことでくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。(ヨハネ一九・二三〜二四)

 ここに引用されている「聖書の言葉」は、詩編二二編一九節の言葉です。ルカを含め共観福音書は、兵士たちがイエスの衣服を分け合ったことをごく簡潔に伝えていますが、「くじを引いて(衣服を分けた)」という事実は、イエスに関わる出来事はすべて聖書を成就するものであることを指し示す重要な出来事として、省略することなく伝えています。

 民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」。(二三・三五)

 十字架にかけられたイエスがユダヤ人から嘲笑されたことはすべての共観福音書が伝えていますが、マルコ(一五・二九)は「そこを通りかかった人々」が頭を振りながらイエスをののしったと書いています(詩編二二・八参照)。十字架刑はもともと見せしめの刑ですから、人通りの多い街道沿いで行われました。この時は過越祭の時期で多くのユダヤ人が都に入る街道を行き来していたので、マルコの記事が正確だと考えられます。
 ルカは簡潔に「民《ホ・ラオス》は立って見つめていた」と書いています。ルカがこの《ホ・ラオス》を神の民、すなわちイスラエルを指すのによく用いていることを考慮に入れると、神によって選ばれた民であるイスラエルは、神の子の受難を目の前に見つめていながら、その出来事が自分たちに何を意味するのかを見る(悟る)ことができなかったこと、すなわち、イザヤがイスラエルについて語った「見れども見ず」の預言の成就を思って、このように書いたとも推察されます。

 「議員たち」、すなわちイスラエルの民を代表する指導層は十字架上のイエスを嘲笑します。「議員たち」の前に《カイ》(〜も)が置かれているのは、「民」もイエスを嘲笑していたことを含意することになります。「民」と同様「議員たちも」イエスを嘲笑します。マルコ(一五・三一)は「祭司長たちと律法学者たち」と、「議員たち」の身分を詳しく指し示しています。彼らこそイエスを十字架に追いやった者たちです。彼らのイエスに対する嘲笑は、マルコ(およびマタイ)では、神殿を打ち倒し三日で建てるなどと言って、メシアであるかのように言っていながら、十字架から降りることもできないではないかという嘲笑と、他人を救ったが自分を救えない無力に対する罵言です。ルカはそれを「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」と一つにまとめています。

 兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」。(二三・三六〜三七)

 ローマ兵が「海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒につけ、イエスに飲ませようとした」ことは四福音書のすべてに報告されています。しかし、マルコ(一五・三三〜三七、およびマタイの並行箇所)では、ローマ兵のこの行動は、十二時から全地が暗くなった後、三時にイエスが「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と叫んで絶命される直前になされており、ヨハネ(一九・二八〜三〇)でもイエスが息を引き取られる直前になされています。ところが、ルカはこのローマ兵の行動を、全地が暗くなる十二時(二三・四四)の前に置いています。ルカはマルコを知っているはずですが、マルコが伝える絶命直前の「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」というイエスの悲痛な叫びを伝えていません。これはルカの十字架観を考察する上で重大な事実ですが、それは後で取り上げることにして、ここではこの叫びを伝えることを避けるために、この叫びとの関連で伝えられているローマ兵の行動を、ルカが別の場面、すなわちイエスに対する嘲笑という場面に移したと考えられることを指摘しておきます。

 民と議員たちのイエスに対する嘲笑は、メシアの約束を与えられているイスラエルの「民」にふさわしく「お前がメシアであるなら、自分を救ってみよ」でしたが、ローマ兵の侮辱は「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみよ」となります。ローマ人には神から遣わされたメシアの観念はありません。あくまで政治的な意味で「ユダヤ人の王」と主張して、ローマ帝国に対する叛徒として処刑された人物です。「ユダヤ人の王」といっても、所詮このように十字架につけられて悲惨な姿をさらすだけの者だ、ユダヤ人とはなんと惨めな民であることか、というイエスとユダヤ人に対する侮辱がこめられています。

 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。(二三・三八)

 十字架で処刑される者の頭の上には、処刑の理由を公示する「罪状書き」が付けられました。十字架につけられたイエスの頭の上の位置に、「罪状書き」の木札が打ち付けられていたことは、四福音書すべてが報告しています。その「罪状書き」が決められる経緯とその書き方については、ヨハネ福音書(一九・一九〜二二)が詳しく伝えています。それによると、ピラト自身が「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書き、それに対してユダヤ人の祭司長たちが「ユダヤ人の王と自称した」と書くように抗議したのに対して、ピラトは「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と言って、抗議を退けたとなっています。しかも、ピラトが書いた罪状書きは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていたとされています。共観福音書はそのような詳細を伝えず、ただ「ユダヤ人の王」として処刑されたという事実だけを伝える内容となっています。

 この「罪状書き」とローマの死刑方法である十字架刑で処刑されたという事実が示すように、イエスがローマ帝国支配に叛逆する叛徒の一人として処刑されたことは、イエスの生涯において最も確かな事実です。福音書はその事実を伝えます。しかし、その事実が何を意味するのか、とくにその後三日目に復活された方の十字架の死は何を意味するのかを告知することが、福音書のさらに大きな課題となります。四福音書はそれぞれの形でそれを行っていますが、その内容は別の所で追究することになります。ここではルカが伝えるイエスの十字架の出来事をたどることにします。

 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」。(二三・三九)

 二人の「犯罪人」がイエスの右と左に十字架につけられていましたが、その一人が祭司長たちと同じように、「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と、イエスをののしります。先に見たように、この「犯罪人」という表現はルカの護教的動機から出たもので、実際はこの二人もローマからの独立を願って武力活動に走った「革命家」であったのでしょう。イエスが本当にメシアであるならば、こんな十字架刑の敗北を粉砕して、自分もその仲間である我々も戦いに立ち上がるようにするはずではないか。それができないで十字架の上に惨めな姿をさらすとは、お前は偽物のメシアではないか、とイエスをののしります。

 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」。(二三・四〇〜四一)

 これを聞いてもう一人の方がたしなめます。マルコ(一五・三二b)では、二人ともイエスを罵っています。実際に何らかのやり取りが十字架上のイエスと両側の受刑者の間にあったのでしょう。それを目撃して伝えた女性たちの証言を、ルカはその出来事を福音を告知する印象的な物語に仕上げます。ここに伝えられている対話は、やはりルカの護教的動機から脚色されていると見ざるをえません。ここで語っている「もう一人の方」の言葉は、異教徒ローマ人の支配を覆し、神とその律法が支配するイスラエルを回復しようとする信念に燃えている革命家の言葉ではなく、自分の犯行を認め、それを悔いている「犯罪者」の言葉です。ルカはこの場面を、死刑に相当するような重大な悪行を重ね、ついに処刑されるようになった悪人も、最後の瞬間に悔い改めてイエスを信じるならば救われるとする、ルカの「《アフェシス》の福音」の典型的な場面に仕上げています。

 もう一つ、ルカはここでイエスはそれに相当する罪なくして十字架刑を受けたのだという主張を、この「犯罪者」の「この方は何も悪いことをしていない」という言葉で印象づけています。これは「神は罪のない方を罪とされた」という福音の告知(コリントU五・二一)を、実際の出来事の場面で指し示す効果をもっています。これは、イザヤ書五三章の「主の僕」が、「多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負い」、「自らをなげうち、死んで罪人の一人に数えられた」という預言(一一〜一二節)を想起させる場面になっています。

 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。(二三・四二)

 イエスをののしった受刑者をたしなめた方の受刑者は、苦しい息の中からイエスに、「わたしを思い出してください」とお願いします。この懇願には、詩編一〇六編四節の祈りが反響しています。彼は、いまイエスは「彼の御国《バシレイア》に入って行かれようとしている」ことを知っています。そのとき、すなわち、「あなたが、あなたの御国にお入りになるとき」、わたしを思い出してください、と願います。ただイエスとの関わりをもつことだけを願います。

 この受刑者はどうしてイエスが「彼の御国《バシレイア》に入って行かれようとしている」ことを知ったのでしょうか。彼は逮捕される前に、多くの奇蹟を行い、神の国《バシレイア》を告知されるイエスの活動に接していたのでしょうか。それで、この十字架につけられているという絶体絶命の場面でイエスを信じたのでしょうか。そのようなことは何も言われていません。ルカは何の説明も付けないで、ただこの受刑者がイエスを信じたことだけを描いています。この受刑者は、イエスを信じる者の極限の姿を示しています。もはや自分は何もできないという極限の状況で、ただイエスを神の支配を体現する方として信じ、言い表す者の姿を代表しています。

 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。(二三・四三)

 その信仰に応えて、イエスは彼にこう言われます。イエスは「アーメン、わたしはあなたに言う」という形で、ここで語り出される言葉が真実であることを強調した上で語り出されます。「アーメン、わたしはあなたたち(または、あなた)に言う」という語り出しは福音書に多数出てきます。ところが、ルカ福音書には比較的少なく、僅か六例しかありません。その中でイエスが個人に向かって、「アーメン、わたしはあなたに言う」と言われたのはここだけです。それだけに、ルカがいかにこの言葉を重視しているかが強く感じられます。

 イエスはこの受刑者に、「あなたは今日わたしと一緒に《パラデイソス》にいる」と言われます。「楽園」(英語では「パラダイス」)と訳されている《パラデイソス》とはどのような場所でしょうか。イエスはこの語で、イエスが今日この受刑者と一緒に入られる場所を指しておられますが、それはどのような場所でしょうか。死後の世界に関する数少ない新約聖書の発言の中の一つとして、このイエスの語録は多くの議論を呼ぶことになります。

 《パラデイソス》という語が新約聖書に出てくるのは、こことコリントU一二・四と黙示録二・七の三箇所だけです。コリント第二書簡(一二・二〜四)でパウロは「第三の天にまで引き上げられ」た霊的体験を語っていますが、それを「《パラデイソス》まで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にした」とも表現しています。パウロが言う《パラデイソス》は「第三の天」と同じ霊的な場所を指しています。当時の人々は、神がいます至高の天と人間が住む地との間に複数の層の天(霊界)があり、その「諸々の天」を通過して人の霊魂は神に達するのだと考えていました。パウロが引き上げられた「第三の天」はどれほど神に近いのかは確認するよしもありませんが、パウロはこの体験で地上の人間は知り得ない神の啓示を受けたことを語っています。ヨハネ黙示録(二・七)では、復活されたイエスがエフェソの集会に、「(信仰によって)勝利を得る者には、神の《パラデイソス》にある命の木の実を食べさせよう」と語りかけておられます。

 イエスは神の支配、すなわち恩恵の支配の到来を告知されましたが、一方地獄に落ちることの恐ろしさも真剣に問題にされています(マルコ九・四三〜四七)。「金持ちとラザロ」のたとえ(一六・一九〜三一)では、死後に陰府に落ちた金持ちの苦悩と「アブラハムのそば」に連れて行かれたラザロの幸いを語っておられます。この「アブラハムのそば」が、義人たちがいる死後の世界で、ここの《パラデイソス》に相当します。

        《パラデイソス》という用語について詳しくは、拙著『ルカ福音書講解U』285〜291頁の「陰府と地獄」および「パラダイスと神の国」の二つの項を参照してください。なお、そこでギリシア語の表記を《パラディソス》としたのは不正確で、正確には《パラデイソス》ですので、訂正します。

 イエスは、イエスを信じてイエスとのつながりだけを願ったこの受刑者に、地上の命を終える「今日」、二人はやがて一緒に《パラデイソス》にいることになる(動詞は未来形)と断言されます。何という恩恵の言葉でしょうか。これほど恩恵の絶対無条件性を強く印象づける場合はありません。いま十字架の上で息絶えようとしているこの「犯罪者」は、もはや何の行為もすることはできません。彼の生涯がどのようなものであったにせよ、今は十字架刑という恥辱の死刑で終わるだけの生涯です。その死刑囚が、ただイエスを信じたことによって《パラデイソス》に入る、すなわち代々の義人たちがいる霊的場所に入ることになるのです。死後に神の子イエスと一緒にいることができるのです。その幸いが、まったく無条件にこの死刑囚に与えられているのです。

 このような出来事は現代でも起こっています。凶悪犯罪を犯して死刑の判決を受け、ただその執行を待つだけの身の死刑囚が、伝えられたキリストの福音を聞いて、主イエス・キリストを受け入れて回心したとき、聖霊の働きを受けて生まれ変わり、死の恐れにおののいていた囚人が別人のようになり、主のもとに行けることを喜んで安らかに刑の執行を受けるに至ったという実例を聞いています。キリストにおける神の恩恵の力は、それほどに大きいのです。十字架上のイエスは、この絶大な神の恩恵を一緒に死んでいく一人の死刑囚にお与えになります。ルカは、このイエスの姿を伝えることで、神の恩恵を告知し、そのために命をお献げになったイエスの生涯のクライマックスとします。

 


141 イエスの死(23章44〜49節)

 既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。(二三・四四)

 マルコ(一五・二五)は「イエスを十字架につけたのは午前九時であった」としていますが、マタイとルカは時刻は特定せず、それが午前であったことを前提にして、昼の十二時ごろに「全地が暗くなった」ことを伝えています。これはマルコも同じです。ヨハネ福音書(一九・一四)はピラトの裁判と判決が「過越祭の準備の日の正午ごろ」としていますので、イエスが十字架につけられたのは「正午ごろ」よりも後のことになります。イエスの十字架刑に関しては、共観福音書とヨハネ福音書では日付も一日違いますが、十字架につけられた時刻にも食い違いがあります。マルコの「午前九時」とヨハネの「正午ごろよりも後」は両立できませんが、ルカのように午前であることを前提にして時刻を特定せず、十字架につけられてから全地が暗くなる「昼の十二時ごろ」までをごく短い時間とすれば、(古代人の時刻記述の大雑把さからすると)ヨハネの記述と両立させることも可能でしょう。

 ルカは、全地が暗くなった時刻である「十二時ごろ」に「既に」という語を添えています。これは、イエスが十字架につけられてから二人の受刑者との対話や周囲の者たちの嘲笑などの出来事があったが、それはごく短い時間の出来事であって、気がつけばもう十二時頃という時刻になっていた、という気持ちを表現しているのでしょうか。

 「全地が暗くなった」ことは、マルコをはじめ共観福音書はみな報告していますが、ヨハネ福音書は触れていません。それで、この暗闇は(次節の「太陽は光を失う」と共に)ユダヤ教黙示思想において終わりの日に起こるとされる暗闇の預言(ヨエル二・一〇、三・三〜四、四・一五、ゼファニヤ一・一五など)が成就したことを指し示すために構成されたものだとする見方が出てきます。しかし、「それが三時まで続いた」という具体的な叙述が示すように、そのような現象が実際に起こったとしなければなりません。実際にある地域が一定時間異常に暗くなったという現象はしばしば報告されており、この時にそのような現象が起こったとしても不思議ではありません。

 イエスは逮捕するために来た軍勢に向かって、「今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている」(二二・五三)と言っておられます。その「闇の力」がイエスの上に力を振るい、ついに神の子を十字架につけて殺すことに成功しました。このような悲劇に太陽も顔を背け、全地が暗くなったことは、この出来事にふさわしい象徴的出来事です。

 太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。(二三・四五)

 前節の暗闇の預言で引用したように、ユダヤ教黙示思想では終わりの日に太陽が光を失い闇に変わることが預言されています(ヨエル三・四)。この時全地を覆った暗闇は、その預言の成就として「太陽が光を失った」と表現されます。

 そして、この自然界に起こった「しるし」と一体に組み合わされて、宗教の世界に起こった大きな「しるし」が語られます。それは「神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた」という出来事です。「神殿の垂れ幕」は、エルサレム神殿の至聖所と聖所を隔てている垂れ幕のことで、その幕の前の聖所には黄金でできた香壇、七枝の燭台、備えのパンの机などの祭具が置かれ、そこで祭司たちが供え物を捧げて日常の礼拝を行います。しかし、その幕によって隔てられた奥の至聖所には、年に一度の「大贖罪日」に大祭司がいけにえの血を携えて入り、至聖所に置かれた「契約の箱」の上面の「贖罪所」に注ぎ(イエスの時代にはその箱はなくなっていたので敷石に注がれました)、民の罪の贖いの儀式を行います(レビ記一六章)。この垂れ幕は、神が臨在を現される至聖所と人が礼拝行為を行う聖所を隔てる幕であり、神と人との隔絶を象徴する垂れ幕でした。その垂れ幕が、イエスが十字架の上に命を注ぎ出されたときに、「真ん中から裂けた」のです。

 至聖所を隔てる幕が裂けるという、神殿の存在意義を根底から揺るがせるような事件を、ユダヤ教側が報告することはありません。しかし、この時代の歴史を記録したヨセフスはその著『ユダヤ戦記』(Y五3)で、エルサレムの都と神殿の崩壊を予兆する様々な不思議な出来事があったことを伝えています。その中で、「内庭の東側の内扉 ― それは真鍮でつくられていたためにきわめて重く、夕方ころにいったん閉じると、二〇人の力をもってしても開けることが殆どできない・・・・・・ ― が、夜の第六時ころ、ひとりでに開くのが認められた」という出来事を報告しています。ヨセフスはそこで多くの予兆をあげ、当時のユダヤ人たちがそれに気付かなかったことを嘆いています。また、ナザレ人福音書には、神殿の幕の代わりに、「驚くべき壮大な神殿の鴨居が崩壊した」と記されていると伝えられています。マタイ(二七・五一)はその時地震があったことを伝えています。イエスが絶命されるとき、太陽は光を失い、あたりは暗くなり、大地は震い動いて、神殿の扉が開き、垂れ幕が裂けるという不思議な現象が起こります。それは、イエスの十字架上の死の意義を指し示す「しるし」となります。

 最初期の共同体は、イエスが十字架上で死なれたとき起こった不思議な現象の中で、神殿の垂れ幕が裂けたことを、イエスの死の意義を指し示す「しるし」として、重要視して語り伝えました。ヨハネ福音書(おそらく一世紀末のエフェソでの成立)は地理的にも時間的にも神殿から遠く離れ、もはや神殿にはあまり関心がないのか触れていませんが、最初期のエルサレム伝承はこれを重視して伝え、すべての共観福音書に伝えられるようになります。幕が裂けたことは、ヨセフスがあげる様々な予兆と並んで、神殿崩壊の予兆の一つとしての意味も持ちえますが、共同体は別の意義をもつ出来事として語り伝えました。すなわち、その出来事は神殿祭儀によって神を礼拝する時代が終わり、キリストの民はもはや神殿祭儀とは無関係に、十字架された復活者キリストにあって神を礼拝し、神に近づくのであるという、新しい神礼拝の時代の到来を指し示す「しるし」として語り伝えられ、福音書に記録されることになります。

 この理解は(文書の上では)パウロに始まり新約聖書の各文書に見られますが、その典型的な表現はヘブライ書です(たとえば九・一一〜一二、一〇・二〇)。しかし、その意義を語ることは、それぞれの文書の講解ですることであって、ここでは幕が裂けたという出来事が、霊的に重大な意義をになう「しるし」として伝承され、福音書に記録されるに至ったという事実を指し示すにとどめます。

 イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」。こう言って息を引き取られた。(二三・四六)

 全地を覆う暗闇が続き三時に至ったとき、イエスは大声で叫び、息を引き取られます。イエスが息を引き取り絶命されたときの様子は、福音書によって違った形で伝えられています。ルカの伝え方の特色を確認するために、他の福音書と比較してみましょう。まずマルコ福音書は次のように伝えています。
 
     三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」。これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。(マルコ一五・三四〜三七)

 マタイ(二七・四六〜五〇)は、「エロイ」を「エリ」に変えている以外は、マルコをほぼそのまま引き継いでいます。ただ、マタイはイエスが最後に大声で叫ばれたことを伝える文に(マルコにはない)「再び」という語を入れて、それが「エロイ、エロイ」の叫びとは別の叫びであることを明確にしています。マルコの伝え方では、「エロイ、エロイ」の叫びが最後の叫びであったと理解することも可能です。それが別の叫びであったとしても、その内容は伝えられていないのですから、マルコ・マタイ系の伝承では、「エロイ、エロイ」の叫びがわれわれが知りうるイエスの最後の言葉となります。
 ヨハネ福音書は、「海綿に酸いぶどう酒を含ませて」イエスに与えた事実はマルコと同じですが、それは「エロイ、エロイ」の叫びとは関係なく(ヨハネにはこの叫びはありません)、イエスが「わたしは渇く」と言われたのに対してです。

     この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。(ヨハネ一九・二八〜三〇)

 ヨハネ福音書では、イエスは大声で叫ぶことなく、静かに「頭を垂れて息を引き取られた」ことになります。最後に発せられた言葉は、「成し遂げられた」という言葉であり、イエスが父から与えられた使命をこの十字架上の死で成し遂げたことを自覚しておられたことを指し示しています。

 ルカはマルコ福音書を知っていたことが十分推察されます。ルカは多くの箇所で(とくに第一部と第三部で)マルコ福音書を用いていることが見られます。一方ルカは、(直接ヨハネ福音書を知らないとしても)少なくともヨハネ福音書と共通の伝承を知っていた可能性があります。ルカの記事には、マルコよりもヨハネの伝承に近い内容がしばしば見られます。さらにルカは独自の伝承と資料をもっていたことが推察され、ルカ福音書の資料問題は複雑な様相を見せています。ここでルカの資料問題に立ち入ることはできませんが、イエスが息を引き取られる重要な場面で、ルカがどのような姿勢でそれを伝えているかを見ておきたいと思います。

 まず目立つ事実は、ルカはマルコの「エロイ、エロイ」の叫びを伝えていないということです。ローマの兵士が「海綿に酸いぶどう酒を含ませて」イエスに与えた事実は、みなが目撃している事実ですから、省略することなく伝えていますが、それを三時間の暗闇の最後にイエスが「エロイ、エロイ」と叫んで絶命されるときの出来事ではなく、(先に見たように)その暗闇が始まる前に持ってきて、それをローマ兵によるイエスへの侮辱の場面に変えています。その変更は、海綿に酸いぶどう酒を含ませてイエスに与えた事実と関連して伝えられている「エロイ、エロイ」の叫びを伝えるのを避けるためであると考えられます。

 この叫びは、イエスが最後に神に見捨てられた者として死んでいく苦悩を示すものとして、イエスを批判したり侮辱する者たちの好材料となるので、イエスを神の子として告知する側には重荷になります。そのような言葉を、それを告知する共同体が創作することはありえないので、その叫びは事実であるとしなければなりません。最初期の共同体は、イエスが最後に発せられたこの言葉を重視して、とにかく事実通り忠実に伝えました。それがマルコ福音書に書き留められることになります。

 しかし、それが重荷であるだけ、それに触れないで済まそうという動機が働くのも事実です。時が経つほど、歴史的事実の正確さよりも、状況への配慮と著者の福音理解の特質からする独自の形が出てくるようになります。ヨハネ福音書がこの「エロイ、エロイ」の叫びを伝えていないのも、著者は自分の福音告知の中でとくにその言葉を伝えることは必要ではないとしたからではないかと考えられます。

 ルカの場合は、理解するのが難しいこの言葉を外すことで、「《アフェシス》の福音」、「恩恵の福音書」を告知されるイエスの姿を最後まで一貫させようとしたのではないかと推察されます。「エロイ、エロイ」の叫びは、批判者に好材料を提供するだけでなく、罪の赦し、無条件の恩恵を与えられるイエス自身が神の裁きに苦悩する姿として、首尾一貫しないように見えます(実はそうではないのですが)。ルカはあくまで一貫してイエスを恩恵の告知者として描こうとします。「エロイ、エロイ」の叫びを伝えていない点で、ルカはマルコよりもヨハネに近い側にいます。

 ルカは、イエスが息を引き取られるとき発せられた叫びの言葉を、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と伝えています。「わたしの霊を御手にゆだねます」という祈りの言葉は詩編三一編六節にありますが、詩編では「まことの神、主よ」という呼びかけになっています。イエスは日頃神を「父」と呼んで、親しい交わりに生きておられました。最後の瞬間、イエスはこの呼びかけと、親しんでおられた詩編の祈りの言葉で父に祈られます。ルカが伝えるイエスの姿は、最後まで親しい交わりにある父に一切を委ねるイエスであり、神に見捨てられた苦悩を叫ぶマルコのイエスと対極にあります。

 なお、この最後の祈りは、殉教者ステファノの「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」(使徒七・五九)の最後の祈りと(用語は違いますが内容は)同じであることが注目されます。このことについては、後で取り上げることになります。

 百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。(二三・四七)

 処刑執行役の責任者である百人隊長は、このイエスの最後を見て感動し、「本当に、この人は正しい人だった」と言った、とルカは伝えています。「この出来事を見て」というのは、イエスが息を引き取られるときの姿だけでなく、十字架につけられてから息を引き取られるまでの出来事のすべてを見て、という意味と考えられます。その姿の中に、百人隊長はたんなる犯罪者とかローマの支配に叛逆する叛徒ではなく、神から遣わされてその使命を果たして死んでいく宗教的人格を認めたと言えます。こうして、この百人隊長はイエスの正しさを認めた最初のローマ官憲となります。

 マルコ(一五・三九)では、「本当に、この人は神の子であった」と言った、となっています。ユダヤ教の神学に無縁なローマの軍人の言葉としては、「正しい人」と「神の子」の違いを議論することは無意味でしょう。マタイ(二七・五四)は、「地震やいろいろな出来事を見て、非常に恐れ」、こう言ったと伝えています。十字架のイエスの高貴な姿に感動したからではなく、イエスが絶命されたときに起こった異常な現象に畏怖を感じたので、百人隊長がこう言ったことになります。描き方は違いますが、共観福音書はそれぞれの仕方で、十字架上のイエスの姿は異教徒も認めざるをえない高貴なものであったことを伝えています。

 見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。(二三・四八)

 ここでは、普通選ばれた神の民を指す《ホ・ラオス》ではなく、たんなる群衆を指す《オクロス》が使われています。ここでは、たまたま通りかかってこの出来事を見た群衆を指しています。彼らも十字架上のイエスの高貴な姿とその最後を見届けて、もはや嘲笑したりののしったりすることができなくなり、深刻で悲劇的なことが起こったのだと覚り、「胸を打ちながら」帰って行った、とルカは伝えています。「胸を打つ」は、イスラエルでは深い嘆きや(イザヤ三二・一二)、悔い改めの感情(一八・一三)を表すジェスチャーですが、ここでもイエスの最後を見た群衆が悲痛な感情に襲われたことを示しています。ルカはこの情景を書き加えることで、イエスの十字架上の死の高貴さをいっそう印象深くしています。

 イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。(二三・四九)

 弟子たちはここにいません。「イエスを知っていたすべての人たち」というのは、おそらくエルサレムでのイエスの活動に接して、イエスのことを知るようになった人たちでしょう。ルカは誇張して「すべての人たち」と書いていますが、実際はそれほど多くの人ではなかった考えられます。そのような人たちと一緒に「ガリラヤから従って来た婦人たち」が、遠くに立って、十字架刑によるイエスの処刑の一部始終を見届けます。この後「イエスを知っていたすべての人たち」は特別の役割を果たしてませんが、「ガリラヤから従って来た婦人たち」は、イエスが葬られた墓を見届け、その墓が空になっていたのを弟子たちに知らせるなど、復活証言において重要な役割を果たすことになります。その婦人たちとは誰であったかは、その働きが語られるところで扱うことにします。

 イエスの地上の生涯には、このあと「墓に葬られる」ことを物語る段落(二三・五〇〜五六)が続きます。たしかに、人の生涯は埋葬で終わります。しかし福音書の場合、この埋葬の記事は、イエス復活の証言としての「空の墓」の一部を構成するものであって、それだけで意義をもつものとして記録され伝えられているものではありません。本講解では、二三章五〇節から二四章一二節までの墓に関する記事を、物語の単元としては一つのものと見て、イエス復活の証言として「空の墓」の標題で扱うことにします。したがって、その段落は次章の復活物語で取り扱うことになります。

 

    結び ― ルカが伝える十字架上のイエス

 ルカ福音書第三部でイエスの受難物語を読んできましたが、今回その最後の局面である十字架上の死を伝えるところまで来ました。すでにここに至るまでの物語においてルカの特色が(とくにマルコに較べて)見られましたが、この十字架上の死を伝えるルカの記事にも、ルカが告知する福音の特質がよく表れていることが見られます。ここでは特殊な性格のヨハネ福音書との比較はお預けにして、ルカの時代の共同体に広く知られるようになっており、ルカもそれに依拠して書いたと考えられるマルコ福音書と比較して、その特質を見ておきたいと思います。

 イエスの十字架上の死を伝えるルカの記事には、二つの明確な特色があります。一つは、マルコ福音書にはない(そして他のどの福音書にもない)十字架の上でも罪の赦しを告知されるイエスを伝えているという事実です。十字架上で最初にイエスが発せられた言葉は、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」という赦しを父に求める祈りでした。そして、イエスを信じた受刑者の一人に「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言って、無条件の恩恵を告知された言葉です。これは講解で述べたように、生涯を通して「罪の赦し《アフェシス》の福音」を宣べ伝えてこられたイエスの姿を最後まで貫くルカの福音告知の特色です。

 もう一つの特色は、マルコが伝えている「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」というイエスの最後の叫びをルカが伝えていないことです。ルカがマルコを知っている以上、これはルカが意図的に削除したと見ざるをえません。ルカはこれまでにも、受難を予告されたイエスを諫めたペトロを叱責された記事(マルコ八・三一〜三三)を削除し、エルサレムにお入りになる前に語られた「杯」の言葉(マルコ一〇・三五〜四五)を伝えず、ゲツセマネの祈りも簡略にしていることなど、マルコに較べると世の罪を負って苦しむ「主の僕」の姿は希薄です。その姿勢が、神から見捨てられた苦悩を言い表しているとみられるこの叫びを削除させ、代わりに「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」という、変わらぬ信頼をもって命を父に委ねる子の祈りにしています。

 この二つの特質を合わせると、ルカが伝える十字架上のイエスの死は、自分の信仰とか使命に命を献げ、父への信頼による平安の中に死んでいく殉教者の死を思わせる面があります。もちろんルカもイエスの死が人々の罪を赦すために世の罪を背負って死なれた神の子の死であることはよく知っており、「最後の晩餐」伝承を伝えることで、その理解を示しています。しかし、ルカの時代にはすでにステファノをはじめ多くの殉教者が出ていました。ルカはその伝承を知っており、その代表としてステファノの殉教を詳しく伝えました。その殉教者たちの原型としてイエスの十字架を描いたのではないかと推察させる節があります。十字架の出来事から地理的にも時間的にも遠く離れた異邦人の世界で福音書を書いているルカにとって、十字架上の実際の出来事よりも、ルカが告知しようとする福音の理念を表現する方が優先されたのかもしれません。


     前章に戻る       次章に進む  

ルカ福音書目次に戻る     総目次に戻る