ルカ福音書講解 23 

     

   第二三章 イ エ ス の 復 活 

                    ― ルカ福音書 二三章(五〇節)〜二四章 ―

 


はじめに

 三部で構成されているルカ福音書の第三部「エルサレムでの受難と復活」は、これまでに見てきたように、次の三つの区分に分けることができます。

1 神殿での活動と論争(一九・二八〜二一・三八)
2 受難物語(二二・一〜二三・四九)
3 復活告知(二三・五〇〜二四・五三)

 福音告知の活動は、弟子たちが復活されたイエスの顕現を体験したところから始まります。それで各福音書は、復活されたイエスが弟子たちに現れた出来事を語り伝える伝承を用いて、十字架上の死に続いて、復活されたイエスが弟子たちに現れた「顕現物語」を書いていますが、その内容は福音書によってかなり違っています。イエスの遺体を葬った墓が空になっていたという「空の墓」の記事はどの福音書にもあり、その内容は基本的には同じですが、それに続く復活されたイエスの顕現については、福音書によって大きく違います。大別すると二つのグループがあります。

 一つは、顕現の場所としてガリラヤを指し示すグループで、マルコとマタイがこのグループに属します。マルコ福音書(一六・八以下の付加部分を除く本体)では空の墓の後に顕現記事はありませんが、イエスご自身や墓での天使の「イエスは先だってガリラヤに行かれる。そこでお会いできる」という予告が示すように、マルコはガリラヤを顕現の場所として指し示しています。そして、イエスのガリラヤでの活動の時期に、湖畔での召命や湖上の顕現という形で復活されたイエスの顕現を組み込んでいます。

 もう一つは、エルサレムとその近郊を顕現の場所とするグループで、ヨハネとルカがこれに属します。もっともヨハネ福音書は二一章の補遺でガリラヤでの顕現を伝えていますが、本体部分では顕現はエルサレムに限られています。

 この二つのグループの違いをどう理解するかの問題は別のところで扱いましたので、ここではルカ福音書の復活告知の特色に限定して見ていくことにします。

 福音書がイエスの復活を告知するさい、それは二種類の証言に基づいて行われています。一つは、イエスを葬った墓が空になっていたという事実の証言で、もう一つは、弟子たちが復活されたイエスを「見た」という体験の証言です。ルカ福音書もこの二種類の証言を並べて、イエスの復活を告知していますが、それぞれをルカ独自の仕方でしています。その特色を以下の講解で見ていくことになります。

 第一の「空の墓」については、ルカはほぼマルコに従っていますが、その中にもガリラヤへ行くようにという指示を欠くという重要な違いを見せています。第二の復活されたイエスを「見た」という証言(二四章一三節以下)は、他の福音書にはないルカ独自の記事で報告しています。これは、先に見たように、「空の墓」で終わる初版のルカ福音書に、マルキオンに対抗するために使徒言行録を書いたときに付加した部分だと考えられます。

 

   空 の 墓

「空の墓」の記事の構成

 多くの注解や講解で、二三章五〇〜五六節の埋葬の記事は「受難物語」の最後の位置を占めています。そして、二四章一節から別の「復活物語」が始まります。墓への埋葬が人の生涯の終わりとなるのですから、埋葬の記事で区切るのは自然なことです。しかし福音書の場合は事情が違います。福音書はイエスが復活されたことを証言しようとして書かれた文書です。その証言において、葬られた墓が空になっていたという事実は、復活証言の重要な一角を占めています。墓での出来事は全体として一つの物語を構成しているのであって、「受難物語」と「復活物語」というように別々の二つの物語に分けることはできません。物語の内容からしても、二三章五五節から二四章一節までは、婦人たちがイエスの遺体に香料と香油を添えるために行動したことを報告するひとまとまりの記事であって、途中で切って別の段落に入れることは不自然です。とくに新共同訳が五六節の最後の「婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ」という文を章をまたいで別の段落に入れていることは、そうする理由がなく理解に苦しみます。

 本講解は新共同訳の段落区分に従って講解していますので、一応段落区分はそのまま掲げておきますが、二三章五〇節から二四章一二節までを一つのまとまりとして、「空の墓」の標題で「復活物語」の中で扱います。

 

142 墓に葬られる(23章50〜56節a)

 さて、ヨセフという議員がいたが、善良な正しい人で、同僚の決議や行動には同意しなかった。ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいたのである。(二三・五〇〜五一)

 ここで突然ヨセフという人物が登場します。「突然」というのは、この人物はこれまでどの福音書にも言及されていなかった人物であり、この埋葬の場面で突然舞台に出てくることになるからです。このヨセフという人物については、四福音書がすべて名前をあげて紹介していますが、その紹介の仕方には微妙な差異があります。ヨセフがアリマタヤという町の出身であることは四福音書共通です。しかし、その身分については、マルコが「身分の高い議員」としているのに対して、ヨハネは出身地をあげるだけで身分については何も言っていません。マタイは「金持ち」というだけで議員であることには触れていません。ルカは「議員」であることを明言するだけでなく、議員として最高法院での行動まで、「同僚の決議や行動には同意しなかった」と描いています。ルカはそのような行動の理由を、ヨセフが「善良な正しい人」であったからだとしています。というのは、ルカは神から遣わされた聖にして善い方であるイエスを、自分たちの権力の維持のために死刑の判決を下した多数派の議員たちは邪悪で不義であったとして(これはルカだけでなく共同体の当然の見方です)、その対比でヨセフを「善良で義なる人」だとしているからです。

 アリマタヤはエルサレムから北西へ四〇キロ、地中海沿いの町ヨッパのすこし東にあります。ヨセフは「アリマタヤ出身の名望ある議員」(マルコ一五・四三私訳)であったとされていますが、この表現はヨセフが最高法院を構成する三つの出身階層(祭司長、長老、律法学者)の中の長老階層に属する者であることを示唆しています。「長老」というのは、各地方の「名望ある」貴族階級の家柄の出身者で、地域代表というような資格の議員でした。祭司長や律法学者たちは神学上の理由からイエスに反対しましたが、神学議論から自由な長老たちの中には、イエスの人格に感動して、ひそかにイエスに同調する者もいたようです。

 ルカはヨセフを、議員でありながら「神の国を待ち望む者」でもあったとしています。この表現は敬虔なユダヤ教徒を広く指すこともありますが、ここではイエスが告知された「神の国」を待望する者、すなわちイエスを信じる者という意味だと考えられます。マタイ(二七・五七)とヨハネ(一九・三八)ははっきりと「イエスの弟子であった」と言っています。イエスを背教者としている最高法院の議員であるという立場上、公に言い表すことはできないが、ひそかにイエスを信じていたのです。ヨハネ(一九・三八)はヨセフを、「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たち(ユダヤ教指導層)を恐れて、そのことを隠していた」と描いています。

 この人がピラトのところに行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出て、遺体を十字架から降ろして亜麻布で包み、まだだれも葬られたことのない、岩に掘った墓の中に納めた。(二三・五二〜五三)

 そのヨセフがピラトのところに行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出ます。この行動は、マルコ(一五・四三)が描いているように、「勇気を出して」決行しなければならない行動です。イエスはユダヤ教の最高法院からは神を汚す背教の教師として死刑判決を受け、ローマ総督からは反逆者として処刑された人物です。そのような人物の埋葬を引き受けることは、自分もその仲間として扱われる覚悟を必要としました。それまでユダヤ人たちを恐れて、イエスの弟子であることを隠していたヨセフは、最後の場面で「勇気を出して」、大胆にもそのような行動に出たのです。

 ヨセフのこの行動は、福音の告知において重大な意義を持つことになります。当時のユダヤ教の定めでは、処刑された者は通常の埋葬は許されず、犯罪者墓地において行われなければなりませんでした。もしヨセフがイエスの遺体を墓に埋葬しなければ、当時の律法規定からすると、イエスの遺体は犯罪者墓地(墓地というより捨て場)に放棄されたかもしれず、「空の墓」という復活証言はありえなかったことになるからです。イエスの場合、異例の埋葬ができたのは、ヨセフという有力者が引き取ったからです。このヨセフの勇気ある行動のおかげで、イエスの埋葬は「ユダヤ人の埋葬の習慣に従って」(ヨハネ一九・四〇)行われた通例の埋葬となり、「空の墓」の証言が成立したのです。このような出来事のすべては、神の御計画によって起こっていることを感じます。

 「イエスのからだを渡してくれるように」というヨセフの願い出に対してピラトがとった態度は、マルコ(一五・四五)が報告しています。それによると、ピラトはイエスがもう死んでしまったのかと不審に思い、(十字架刑執行の責任者である)百人隊長を呼んで、死んでかなりたつのかと尋ね、百人隊長から報告を受けてから、ヨセフに遺体を下げ渡した、となっています。ヨセフは安息日が始まる日没前に葬りを済ませたいので、ピラトに遺体の引き渡しを願い出たのは三時とか四時というような時刻であったと推察されます(イエスが絶命されたのは午後三時過ぎと報告されています)。マルコによると、イエスは朝の九時に十字架につけられたのですから、比較的短時間で息を引きとられたことになり、ピラトは不審に思い、百人隊長に確認します。もしヨハネ(一九・一四)が伝えるように、イエスが十字架につけられたのが正午ごろであれば、ピラトの不審はますます当然のこととなります。ピラトは百人隊長の報告を受けて、イエスの死を確認して遺体をヨセフに下げ渡します。この記事は、イエスの死が仮死ではなく、ローマ側も公式に認めた完全な死であることを強調するためにマルコが入れた記事だと推察されますが、ルカはもうこのような確認は必要がないとしたのか、この間の経緯をいっさい省略して、直ちにイエスの「からだ」を十字架から降ろすところに続けます。マタイ(二七・五八)もほぼ同じです。ヨハネ(一九・三八)も同じです。

 イエスの「からだ」を十字架から降ろすときにヨセフ以外の人たちがいたかどうかは、福音書の記事からは確認できません。ヨハネ(一九・二五〜二七)は母マリアを含む四人の女性と愛弟子が十字架のそばに立っていたことを報告しています。また、ヨハネ(一九・三九)はニコデモが来たことを伝えています。多くの宗教画では、十字架から取り降ろされたイエスの前で泣く女性たちが描かれていますが、共観福音書はみな女性たちはイエスの十字架刑を「遠くから見ていた」としています。しかし、すぐ後の五五節の「イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届けた」の中に、イエスを十字架から降ろすところも含まれると解釈して、十字架から降ろすときには女性たちもいたとすることは可能です。

 ヨセフは、「ユダヤ人の埋葬の習慣に従って」、イエスのからだを亜麻布で丁寧に包み、「岩に掘った墓」の中に納めます。「岩に掘った墓」というのは、当時(前一世紀の半ば頃から七〇年のエルサレム陥落までの百年あまりの期間)エルサレムとその近郊だけで行われた特別な形式の墓で、山腹に洞窟を掘り、人が立てる高さの天井のある小部屋を作り、そこに遺体を安置し、香料や香油を添えて、近親の者が数日の間は追悼のために集まることができるようにした墓です。墓がこのような形式の墓であったために、「空の墓」という復活証言が可能になったわけです。ここにもイエスがキリストとして世に現れる時について、神の配剤がうかがわれます。

 この墓については、「まだだれも葬られたことのない」という説明がついています。この説明はマルコにはありませんが、ルカをはじめマタイやヨハネなど、後に成立した福音書にはみなこの説明がついています。これは、もし誰かが先に葬られていたのであれば、その墓にある骨がイエスのものでないことを証明しなければ、復活証言にならないからです。マルコ以後にこのような説明がつくようになった事実は、マルコ以後には共同体が告知する復活証言としての「空の墓」が、反対者から問題視されるようになっていたことをうかがわせます。

 この墓については、マタイ(二七・六〇)だけがそれがヨセフの墓であったことを明言しています。しかし、ルカを含め他の福音書は誰の墓であったのかは触れていません。ヨハネ(一九・四一〜四二)は、安息日が始まろうとしていたので、たまたま近くにあった新しい墓に急いで葬ったというような説明をしています。エルサレムから四〇キロも離れたアリマタヤの住人であるヨセフがエルサレムに墓を持つことは不自然であるとして、マタイの記事を否定する見方も多いのですが、当時の敬虔なユダヤ教徒には、晩年にはエルサレムに住んで、終わりの日を待望する律法生活(=宗教生活)に入り、エルサレムに葬られることを理想とする者が多かったようです。アリマタヤのヨセフもそのような一人として、エルサレム近郊に自分の一族の墓を用意していたとしても不思議ではありません。

 その日は準備の日であり、安息日が始まろうとしていた。(二三・五四)

 「準備の日」というのは安息日の前日のことで(マルコ一五・四二)、安息日を律法の規定に従って生活することができるように、たとえば食品を予め調理しておくなど、諸々の準備をする日です。「準備の日」は安息日の前日ですから金曜日になります。イエスの十字架の死が「準備の日」すなわち金曜日であったことは、マルコもルカも明言し、とくにヨハネ(一九・一四、三一、四二)が繰り返し強調しています。日没が迫り、「安息日が始まろうとしていた」ので、ヨセフは埋葬を急ぎます。安息日には埋葬などの行動ができませんでした。

 イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け、家に帰って、香料と香油を準備した。(二三・五五〜五六a)

 復活証言では「イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たち」が重要な役割を果たしています。とくにマグダラのマリアが重要です。彼女らはイエスが十字架上で苦しまれて息絶えられた事実を「遠くに立って見ていた」のですが(二三・四九)、おそらくヨセフがピラトのところに行ってイエスの遺体を渡してくれるようにと願い出たときから、「ヨセフの後について行き」、ヨセフと一緒にイエスを十字架から降ろし、イエスのからだを亜麻布で包み、ヨセフがイエスを墓に納める有様を見届けたものと考えられます。

 墓にイエスの遺体が安置されるのを見届けた上で、女性たちは「家に帰って、香料と香油を準備」します。日没になって安息日が始まると、店は閉まり買い物はできなくなるので、彼女らは急いで買いに走ったことでしょう。マルコ(一六・一)は日曜日の早朝に買ったとしていますが、日の出前後の早朝に買ったとするより、ルカのように安息日が始まる前に急いで買ったとする方が自然です。

 墓に葬られた遺体に香料や香油を添えることは、当時の埋葬の儀礼において重視されていました。「イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たち」は、慕ってやまない師が悲惨な死を遂げたことに多くの涙を注いだことでしょう。せめて今自分たちにできることを精一杯しようとして、墓に納められたイエスの遺体に香料や香油を添えようとします。彼女らは持てるものを捧げて高価な香料や香油を買い求めたのでしょう。ヨハネ(一九・三九)によると、イエスのからだを十字架から降ろすときに、秘かにイエスを信じていた議員のニコデモが「没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり」を持って駆けつけています。イエスの墓にはすでに香料が置かれていたことになりますが、女性たちは自分たちのイエスに対する思いから、そうしないではおれない心情で香油を用意します。この女性たちの思いが、日曜日早朝の空の墓の発見につながります。


143 復活する(23章56節b 〜24章12節)

 婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ。(二三・五六b)

 女性たちは一刻も早く墓に駆けつけてイエスの遺体に香料を添え、取りすがって嘆きたかったでしょう。しかし、すでに日は落ちて安息日が始まっています。長距離を歩くことや荷物を運ぶことなど、安息日にしてはならない行動が厳密に規定されています。女性たちはその安息日律法の規定に従って、一切の行動を慎み、家に閉じこもって「休み」ます。

 この日、男性の弟子たちは、これもヨハネ福音書(二〇・一九)によると、「ユダヤ人を恐れて、自分たちの家の戸に鍵をかけて」、ひっそりと息を潜めていたとされています。おそらく女性たちも一緒にその家にいたのでしょう。イエスの弟子たちは、イエスが逮捕されたとき、すぐにエルサレムから逃げ出したのではありません。ユダヤ教徒は、祭りの間はエルサレムに留まらなければなりません。この安息日の一日は彼らにとって、どれほど辛くて長い一日となったことでしょう。

 そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。(二四・一)

 土曜日の日没で安息日は終わり、「週の初めの日」は始まっています。しかし、女性たちは真っ暗な夜に墓に行くことは避け、夜が明けるのを待ちます。そして、週の初めの日、すなわち日曜日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行きます。

 ルカはここでは日曜日の早朝に墓に行った女性の名をあげていません。マルコ(一六・一)はマグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメの三人としています。マタイ(二八・一)はマグダラのマリアともう一人のマリアの二人とし、ヨハネ(二〇・一)はマグダラのマリア一人としています。ルカは物語の最後で「マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア」の三人の名をあげ、「そして一緒にいた他の婦人たちであった」と付け加えています(二四・一〇)。マグダラのマリアの名がいつも最初に置かれています。最初期の共同体には、復活されたイエスは最初にマグダラのマリアに現れたという伝承があり(マルコ一六・九)、マグダラのマリアが墓に行って復活されたイエスを見たことは確実ですが、他の女性については確認できません。様々な伝承があったのでしょう。

 女性たちは、週の初めの日、すなわち日曜日の「明け方早く」墓に行きます。この「明け方早く」は、直訳すると「深い夜明けに」という表現が用いられており、明け方非常に早い、まだあたりが暗い時刻を指します。マルコ(一六・四)は、「ところが、あたりが見えるようになると、(墓を塞いでいた)石がすでに転がし除けてあるのが見えた」(私訳)としています。このマルコの記述から、女性たちは早朝、まだ暗いうちに出発して、ちょうど夜が明けてあたりが少し明るくなったころに墓に着いたことになります。

 週の初めの日の早朝に女性たちが墓に行ったのは、イエスの遺体に香料を添えるためであったことを、二三・五五から二四・一までの一連の文章が物語っています。この部分は、前半の埋葬物語と後半の復活物語を一つに結びつける連結器の役割を果たしています。この香料という一つの主題で緊密にまとめられている箇所を途中で分断して、段落を分けたり、別の章に分けることは避けるべきでしょう。イエスの埋葬とイエスの遺体がなくなっていたことは、墓を舞台とする一体の物語であって、二つの別の物語ではありません。

 見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。(二四・二〜三)

 女性たちが墓に到着してみると、すでに「石が墓のわきに転がしてあり」、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」(マルコ一六・三)という途中の心配が解消します。「岩に掘った墓」は、その入口を大きな円形の石の板で塞ぎ、その石を転がして出入りする形が多く用いられていました。女性たちは、その大きな石を動かすことができるかを心配しながら墓に来たのですが、その石はすでに転がしてあり、入口が開いていました。驚いて女性たちが墓の中に入ると、「主イエスの遺体」が見当たりません。女性たちは途方に暮れます。


  そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。(二四・四)

 女性たちが途方に暮れるのも当然です。彼女たちは人類がいまだかって経験したことがない出来事に遭遇しているのですから。この出来事が人類にとっていかに重要な意義を持つ出来事であるかは、最初期の共同体が聖霊に導かれて何年もの後に悟るようになる性質のものであって、その最初の場面に遭遇した女性たちは、ただ途方に暮れるばかりでした。

 途方に暮れている女性たちに「輝く衣を着た二人の人」が現れて語りかけます。女性たちに現れて語りかけた者を、ルカは「二人の(男の)人」としていますが、マルコ(一六・五)は「白い長い衣を着た若者(単数形)」としています。マタイ(二八・五)は「天使(単数形)」としています。ヨハネ(二〇・一二)では「白い衣を着た二人の天使」がマグダラのマリアに現れています。このように「空の墓」の伝承が様々な違った形に分岐して語り伝えられた事実が何を意味するかは後で触れることにして、ここではルカは《アネール》(男の人)という語を用いていることに注意を促すにとどめます。「輝く衣」とか「白い衣」は、それをまとう人格が別世界からの到来者とか超自然的人格であることを指し示しています。

 婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」。(二四・五〜六a)

 地上の人間が別世界から来た超自然的な人格に遭遇するとき、本能的に恐れを感じます。それは聖書の多くの事例が証言しています。この時の女性たちも恐れて地に顔を伏せます。このような時、現れた人格は「恐れるな」とか「驚くな」と語りかけるのが普通です。マルコ(一六・六)とマタイ(二八・五)にはこの語りかけがありますが、ルカにはありません。それでルカの記事は、マルコやマタイに較べるとやや臨場感が薄く、客観的な報告とか説教的な調子が出てくるようです。

 女性たちに語りかけられた言葉は、マルコ(一六・六)では「あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない」となっています。マタイ(二八・五〜六)もほぼ同じです。マルコとマタイでは、女性たちの行動が描写されているだけですが、ルカでは「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」という問いかけになっていて、女性たちの行動が、起こった出来事の前で見当違いであることが指摘されています。もはや、イエスの遺体を探し出して、その前に香油や香料を捧げるとか、その遺体の前で涙を流し、その方を偲ぶという行為は意味が無くなったことを、この語りかけが指し示しています。

 なぜそうなのか。それは「あの方はここにはおられない。復活なさった」からです。復活して生きておられるからです。生きておられる方を、死者の居場所である墓の中に捜すことは無意味です。この「あの方は復活なさった」という告知が、この空の墓の物語の核心です。それが、「空の墓」が世界に向かって語る言葉です。葬った遺体が無くなって空になった墓は、事実としてそこにあるだけで、何も語りません。その事実が、イエスを慕う者たちに語りかける言葉を、そこに現れた超自然的な人格が代弁して語りかけます。それが、「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」という言葉です。イエスは墓の中にはおられないのです。人々は偉人たちのために立派な墓を建てて、そこに詣でることでその偉人を思い起こしています。イエスの場合、そのような墓はありません。もしあるとしても、そこに刻まれている墓碑銘は「その方はここにはいない」です。イエスは復活して生きておられるのです。

 イエス復活の事実は、「彼は起こされた」という一語の動詞で告げられています。ここに用いられている動詞は《エゲイロー》で、これは「起こす、目覚めさせる」という意味の動詞ですが、それが過去の出来事を指す時制の受動態で用いられています。この動詞は使徒たちが「あなたたちが十字架につけて殺したイエスを、神は死人の中から起こした」と告知したときに用いた動詞です(使徒三・一五、四・一〇)。もっとも使徒たちのイエス復活の告知は《アニステーミ》(復活させる)という別の動詞を用いて行われる場合もありますが(使徒二・二四、二・三二)、この《エゲイロー》という(眠っている者を)目覚めさせるとか(横たわっている者を)起き上がらせるという日常的な動詞がよく用いられました。死んだイエスを「起き上がらせる」のは神です。この動詞の主語は神です。しかし、ここでは動作の主体は当然として隠され、結果として起こった出来事だけが「彼は起こされた」という受動態で指し示されています。

 「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」。(二四・六b〜七)

 ここはルカの特色がよく出ている典型的な箇所です。マルコ(一六・七)では、「あの方は復活された。ここにはおられない」と告げた白い衣の若者は、続けて「あの方はあなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」と弟子たちに告げるように女性たちに語りかけています。マタイ(二八・七)も同じです。ところがルカは、ガリラヤへ行くようにという指示を、「かねて言われたとおり」と重ねて、「まだガリラヤにおられたころお話になったことを思い出す」ようにという指示に変えてしまっています。マルコは、弟子たちがイエスの十字架上の刑死の後ガリラヤに帰ったことを、イエスご自身の指示や墓での告知に従った行動として描いていますが、ルカは弟子たちがイエスの十字架死の後ガリラヤには戻らず、エルサレムに留まって、そこから復活者イエスの告知を開始したという構想で二部作を書いていますから、マルコのガリラヤで復活されたイエスにお会いすることになるという告知をそのまま継承するわけにはいきません。ルカは、その告知を「まだガリラヤにおられたころお話になったことを思い出す」ようにという指示に変えて、ルカ独自の聖書預言成就の図式を導入します。

 ここでルカが女性たちに現れた二人が語った言葉としている部分は、以下の復活物語で復活されたイエスが弟子たちに語られた言葉(二四・二五〜二七、二四・四四〜四六)と同じ内容です。すなわち、イエスが「罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活する」とご自身の受難と復活を予告されたのは、聖書が来たるべきメシアについて預言したことであって、イエスの受難と復活こそが聖書を成就する出来事であり、イエスがメシア・キリストであることを証明する、という主張です。これは先に「ルカ二部作成立の状況と経緯」で述べたように、イエスの福音告知をユダヤ人の聖書から切り離そうとするマルキオンに対抗するためにルカが特に強調した主張であり、ルカが使徒言行録執筆時に元のルカ福音書に付加したと見られる復活物語の後半(二四・一三以下)の顕現物語で明確に出ています。その主張が、古い伝承を伝える前半の「空の墓」の物語にも入り込んできていると見られます。

 そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。(二四・八〜九)

 ここでもルカはマルコから離れています。マルコ(一六・八)では、白い衣を着た若者の言葉を聞いた女性たちは「墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」となっています。それに対してルカは、「婦人たちはイエスの言葉を思い出し、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた」としています。マルコは「だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」という文で終わっており、福音書の終わり方としてはあまりにも唐突で不自然であるとして、後に復活されたイエスの顕現を伝える物語が付け加えられることになります(マルコ一六・九以下)。ルカはマルコの最後の節をこのように変えることで、マルコの不自然さを解消し、後の物語に続くようにしています。マタイ(二八・八)もマタイ独自の仕方でこの不自然さを解消する形にしています。

 ここに用いられている「思い出す」という動詞は、新約聖書ではたんにイエスが以前話された言葉を覚えていたというのではなく、イエスが言われた言葉とか聖書の言葉は今自分が体験しているこういうことだったのだ、こういう意味だったのだと気づくこと、ほとんど理解するとか悟るという意味で用いられています(マタイ二六・七五、ヨハネ二・一七、二二)。ここで女性たちは、以前イエスが言っておられたのは、今自分たちが体験していることを言っておられたのだと覚り、この出来事を仲間に報告するために、急いで前夜皆と一緒にいた家に戻り、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせます。こうして、マルコではまだ実際の出来事に遭遇した人たちの驚きや狼狽が率直に伝えられていますが、ルカでは著者の主張に沿った物語の展開にふさわしく整えられている様子がうかがわれます。

 それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。(二四・一〇〜一一)

 週の初めの日の早朝に墓に行った女性たちの名はここまであげられていませんでしたが、その証言の確かさを保証するためか、彼女らがその役割を果たす時になって名があげられています。それは八章一〜三節の場合と同じです。マルコ(一六・一)はマグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメの三人としています。マグダラのマリアを最初にあげる点では、ルカはマルコと一致していますが、次にヨハナをあげることでマルコから離れています。ヨハナという女性は、ガリラヤでイエスに仕えた女性たちの中に「ヘロデの家令クザの妻ヨハナ」(八・三)がいますので、この女性が「ガリラヤから従ってきた婦人たち」(二三・四九)の一人として墓に行った可能性があります。「ヤコブの母マリア」をあげることではマルコと一致していますが、ルカはマルコにあるサロメを省略して、「そして一緒にいた他の婦人たち」と一括しています(サロメが言及されているのはマルコ一五・四〇と一六・一だけです)。

 女性たちは弟子たちが身を潜めている家に戻って、見たことを報告します。しかし弟子たちは、墓に納めた遺体が無くなっているというような、そしてイエスが復活されたという告知を聞いたというような、あまりにも常識を超えた報告が「たわ言のように思われた」ので、その報告を信じなかったとされています。この事実は顕現体験と復活証言の関係について重要な意味をもっていますが、その点については後で触れることにして、ここでは物語の進展を追うことにします。なお、弟子たちをルカだけが福音書で「使徒」という称号を用いて描いていますが、これはイエス復活の証人として共同体の土台とされる「使徒たち」にとっても、実際に復活されたイエスに出会うまでは、女性たちの報告を「たわ言」と思うほどに、イエス復活の報告は人の思いを超えるものであることを物語っています。

 しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。(二四・一二)

 女性たちの報告を聞いた弟子たちは、それを「たわ言」と思って無視しますが、ペトロだけが「立ち上がって墓へ走り」ます。ペトロがどういう思いで「立ち上がって走った」のかは語られていませんが、とにかく墓の様子を確認するために走ったのでしょう。マルコ(とマタイ)には、ペトロが墓へ走ったという記事はありません。ところがヨハネ福音書(二〇・一〜一〇)によると、マグダラのマリアの報告を聞いたとき、ペトロと「イエスが愛しておられたもう一人の弟子」の二人が墓に走って行き、亜麻布しかなかったことを確認しています。ルカとヨハネは共通の伝承を持っていたことを示唆する似た記事があることは他の箇所にもしばしば出てきますが、ここもその重要な一例となります。ヨハネ福音書はその成立の事情から当然「もう一人の弟子」の役割を重視して書いていますが、それを除くとペトロに関する伝承はルカとヨハネとは共通しています。

 ペトロは、墓には亜麻布しか残っていなかった事実を確認しますが、それが何を意味するのか理解できず、ただ驚き、おそらく混乱したまま家に帰ってきます。この段階ではまだペトロも他の弟子たちも落胆し狼狽したまま、「ユダヤ人を恐れて」家に閉じこもっています。墓が空であったという事実は、弟子たちを大胆なイエス復活の証人とするものではありません。弟子たちが「使徒」としてイエスの復活を世界に告知するようになるためには、復活されたイエスが直接弟子たちにその姿を現し、ご自分が生きておられることを彼らにお示しになる出来事、弟子たちの側から言えば復活されたイエスにお会いする圧倒的な体験、すなわち「顕現体験」が必要です。そのことが起こり、弟子たちがイエスの復活を告知するようになったとき、この「空の墓」の事実は、イエス・キリストの復活証言において重要な意義をもつことになります。

 

復活証言としての「空の墓」

 墓が空であることを確認したペトロの姿が示しているように、空の墓はイエスが復活されたことの根拠として、弟子たちにイエス復活の確信を与えるものではありません。しかし、弟子たちが復活されたイエスの顕現を体験して、確信をもってイエスの復活を告知するようになったとき、この空の墓の事実はその証言の一部として重要な位置を占めるようになります。そして、その証言を報告する福音書の復活物語では、出来事の順序として最初に置かれることになります。空の墓の物語は、四福音書のすべてにおいて、復活物語の前半を占めることになります。
 復活されたイエスの顕現を体験した弟子たちは、その復活者イエスから遣わされた「使徒」として、復活者イエスを「主《ホ・キュリオス》またキリスト」として世界に告知します。その告知において空の墓の告知が占める位置とその意義を、話は先走りますが、空の墓の記事の講解を終えたこの時点でまとめておきたいと思います。

 第一に、イエスを葬った墓が空でなかったならば、すなわちイエスの遺体が墓に残っていたのであれば、使徒たちのイエス復活の証言はありえなかったという点で、空の墓は使徒たちのイエス復活証言が成立するための必要条件です。使徒たちのイエス復活の証言は、遅くとも十字架の死が起こった過越祭の七週後のペンテコステの祭りには始まっています。使徒たちはイエスが復活されたことを告知して、だからイスラエルの民はこの方こそ神がイスラエルに遣わされたメシアであることを信じなければならないと説きます。使徒たちに反対した勢力(イエスを十字架につけて殺した当時のユダヤ教指導層)は、墓に残されていたイエスの遺体を指し示して、使徒たちの告知を木っ端微塵に粉砕することができたはずです。それができなかったからこそ、使徒たちを捕らえ、イエスのことは民衆に語るなと脅迫します(使徒四・一〜二二)。彼ら敵対者の行動も墓が空であったことを裏書きしています。

 ペトロはペンテコステの日の告知において、聴衆の身近にあるダビデの墓を引き合いに出して、イエスの復活が聖書預言の成就であることを論証しています(使徒二・二九〜三二)。これも使徒たちは近くにあるイエスの墓が空である事実を知っていて、エルサレムの住人は誰も反論することができないことを知っているからこそできた引照です。

 使徒たちのイエス復活の証言がエルサレムのユダヤ教徒たちに衝撃を与え、その波紋が拡がっていったとき、ユダヤ教指導層に好意的な権力者(ヘロデ)は使徒たちを殺そうとします(使徒一二・一〜五)。さらに、彼らは墓に残されたイエスの遺体を示して使徒たちの告知を粉砕できないので、弟子たちがイエスの遺体を盗んだという噂を流して対抗しようとします。マタイ(二七・六二〜六六、二八・一一〜一五)は、この噂はイエスが葬られた時に祭司長たちが流したとしていますが、その記事はその時の出来事の記述としては齟齬が多く、むしろかなり日時が経ってから、使徒たちの活動の拡がりに手を焼いたユダヤ教当局が流したものではないかと推察されます。マタイ(二八・一五)も「この話は今日に至るまで(すなわちマタイの時代まで)ユダヤ人の間に広まっている」と書いており、その噂がかなり後期のものであることを示唆しています。このような噂の存在も、イエスの墓が空であったという事実は敵対者も否定することができなかったことを裏書きしています。

 このように、歴史的経過が墓が空であったという事実を指し示しており、また空の墓の事実が歴史を決定しているという意味で、第一に歴史的意義がありますが、さらに重要な第二の意義は、復活信仰の内容にかかわる意義です。すなわち、復活の神学的理解の上で決定的な意義を有していることです。

 近代精神は人間中心であり、人間が体験し理解する限界内で万事を取り扱います。その近代精神の枠の中で行われる神学も、聖書が告知する出来事を人間の理性が納得できる形で解釈して受け取ろうとします。福音の最も基本的な告知であるイエスの復活も、そのような近代主義神学では合理的解釈を受けることになります。人類のあらゆる体験を超え、人間の理解の限界を超える神の終末的な働きの出来事であるイエスの復活も、弟子たちの内面に起こった実存的な変化として理解され説明されます。弟子たちはイエスの死後、師であるイエスの生と死の意義を悟り、それによって自分たちの内面に起こった劇的な変化を、死んだイエスが復活して自分たちの内に生きておられることとして「イエスは復活した」と告知した、というのです。このような理解においては、墓がどうであったかとか、イエスの遺体がどうなったかは無関係なこととして無視され、問題とならなくなります。

 このように復活を内面的・霊的に解釈する傾向は、福音活動のごく初期からありました。二世紀になって盛んになるグノーシス主義においては、使徒たちが伝えたイエス復活の告知は外面的な出来事を伝えているだけで、その出来事が霊的世界にもたらした内容を知る知識ないし覚り(彼らはそれを《グノーシス》と呼びました)が救いとか真実の命であると唱えました。すでにパウロの時代に、「復活はすでに起こった」として、信仰によって自分たちの内面に起こった変化を復活と解釈し、将来の「死者の復活」を否定する者たちが出たことに対して、パウロはコリント第一書簡の十五章で、それはキリストの復活を否定することだと激しく反論しています。

 このように復活を内面的・霊的に限定して理解する傾向に対して、空の墓の告知がノーを突きつけて立ちはだかります。もし新約聖書に空の墓の証言がなく、あるいは現代のわれわれの復活信仰に無関係なものとして無視されるのであれば、新約聖書の復活告知は使徒たちの内面的・霊的体験の告知だけとなり、「イエスの身に起こった死者の中からの復活」(使徒四・二)を証言したことになりません。神は終わりの日に成し遂げると約束されていた「死者の中からの復活」の働きをイエスの身において成し遂げられたのです。ナザレのイエスという身体を具(そな)えた歴史的人物の身に成し遂げられたのです。人類の歴史のただ中で行われたのです。福音はその神の働きの告知です。特定の人たちの内面的体験の証言ではありません。イエスは体を具(そな)えた方として復活し、そのような方として弟子たちにご自身をお示しになりました。これはすぐ後で見ることになりますが、ルカがとくに強調する点です。神の働きは「具体的」です。すなわち「体を具(そな)えた」形で行われます。それが墓が空であったという告知の使信です。空の墓は、神の終末的な働きと人間の歴史の接点を証言しています。


  復活されたイエスの顕現

ルカ福音書の顕現物語

 先に(拙著『福音の史的展開U』402頁の第八章第一節「ルカ二部作成立の状況と経緯」で)見たように、ルカはすでに流布していたマルコ福音書を基本的な資料と枠組みとして用いて、「初版ルカ福音書」を書き上げていましたが、マルキオンの挑戦に遭遇して「使徒言行録」を著述し、同時に福音書も増補改訂して現在のルカ福音書の形にし、福音書と使徒言行録を合わせて二部作としてテオフィロに献呈する運びとなりました。そのさい、福音書を増補するためには元の福音書の前と後ろに書き加えるのがもっとも自然な方法です。ルカは三章一節から始まっていた「初版ルカ福音書」の前に「誕生物語」を加え、空の墓の報告で終わっていた本体の後ろに「顕現物語」を加えることになります。本体部分にも多くの改訂がなされますが、このようにして増補された部分にマルキオンに対抗するルカの意図がもっとも明白に出てきます。「誕生物語」の方は次章で扱うことになりますが、ここでは「顕現物語」に現れているルカの意図に注目しながら、ルカが伝える復活されたイエスの顕現の物語を見ていくことになります。

 ルカの顕現物語がマルコの枠組みからもっとも大きく離れている点は、マルコが復活されたイエスの顕現の場所をガリラヤとしているのに対して、ルカはエルサレムとその近郊に限っていることです。先に見たように、元のマルコ福音書は空の墓の記事で唐突に終わっていて、顕現物語は続いていません。しかし、ゲツセマネへ向かう途上でのイエスの予告(マルコ一四・二八)と空の墓での天使の告知(マルコ一六・七)で、ガリラヤで生きておられるイエスに会うことになるとしており、復活されたイエスの顕現の場所としてガリラヤを指し示しています。ところがルカは、イエスの予告を削除し、墓での告知も「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい」という内容に変えています。そして、復活されたイエスは弟子たちに最後に「高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」と指示され(二四・四九)、弟子たちはその指示に従い、彼らは昇天されるイエスを伏し拝んだ後、「大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」としています(二四・五三)。

 実際に起こった歴史的事実としては、弟子たちは過越祭と除酵祭の期間中は律法の規定に従いエルサレムに留まっていたのでしょうが、その後はガリラヤに戻っています。これは巡礼者として当然です。エルサレムには住居とか職業という生活の基盤がありません。また、逮捕を恐れての逃亡という面もあったことでしょう。ヨハネ福音書も二〇章までの本体部分では復活されたイエスの顕現をエルサレムに限っていますが、二一章の補遺では、弟子たちがガリラヤに戻っていたことを知っていることを示しています。マタイはマルコに従い、弟子たちはガリラヤに行くようにと言う指示に従い、ガリラヤの山で復活されたイエスにお会いしたとしています。

 ルカも弟子たちがガリラヤで復活されたイエスの顕現を体験したという伝承を知っていたと見られます。それは五章(一〜一一節)の奇跡的大漁の記事が示唆しています。ほぼ同じような大漁の出来事がヨハネ福音書の補遺(二一章)に復活されたイエスの弟子たちへの三度目の顕現として伝えられています。これは、ルカとヨハネは同じ復活者イエス顕現の伝承を知っていて、ヨハネはそれを補遺で用い、ルカはそれをペトロたちの召命の出来事としてイエスのガリラヤでの活動の時期に置いたと考えられます。顕現伝承をイエスのガリラヤでの働きの時期の出来事として用いることは、すでに先輩のマルコがしています。マルコは、復活されたイエスがガリラヤ湖畔や湖上でペトロたちに現れた出来事を、ガリラヤでのイエスの働きを伝える物語に組み込んでいます(拙著『マルコ福音書講解U』の「終章」を参照)。ルカもそれに倣って、ヨハネと共通の顕現伝承をペトロの召命物語として用いていると考えられます。

 このように、ルカはガリラヤでの顕現を伝える伝承を知っているにもかかわらず、弟子たちはイエスの復活後ガリラヤに戻ることなくエルサレムに留まり、そこで復活者イエスの顕現を体験したとしているのは、ルカ二部作全体の構想によるものと考えられます。すなわち、ルカはイエスから始まり、パウロによって地中海世界の諸国民に及んでいく福音の進展を、エルサレムを中心に構成しています。「神の国」の福音はイエスのガリラヤ伝道から始まり、ユダヤ教の聖地エルサレムに至ります。そこで(=エルサレムで)人類救済のための神の終末的な働きである御子の贖罪の死と復活が起こります。そして、この出来事を「キリストの福音」として告知する福音活動がエルサレムから始まり、ユダヤ教の枠を超えて世界の諸民族に及び、ついに世界の中心である帝都ローマに達します。この福音の進展を、ルカは第一部の福音書でガリラヤからエルサレムへの進展として描き、第二部の使徒言行録でエルサレムからローマへの進展として描きます。この「ガリラヤ → エルサレム → ローマ」という一直線の構想において、弟子たちがイエスの復活後にガリラヤに戻ったという歴史的事実は意味がなく、伝える必要のないことになります。ルカは復活者イエスの顕現をエルサレムに限り、イエスと共にガリラヤからエルサレムに上った弟子たちは、そこで復活されたイエスの顕現を体験し、そこから十字架・復活のキリストによる「罪の赦し」の福音を世界に告知する活動を始めた、という構成で二部作を著述します。ルカは自分の構想に合わないとか必要のない(=意味のない)事実は大胆に無視する著作家です。

 弟子たちは過越祭と除酵祭の期間中は律法の規定に従いエルサレムに留まっていたのですから、イエスの十字架から数日はエルサレムにいたことになります。このエルサレム滞在中に復活されたイエスが弟子たちに現れるという出来事が起こります。最初は週の最初の日である日曜日の早朝、墓の前でマグダラのマリアに現れます(ヨハネ二〇・一一〜一八)。ルカはそれを伝えていませんが、その日に起こった顕現の出来事を二つ伝えています。一つは、その日に起こったエマオに向かう二人の弟子への顕現で(二四・一三〜三五)、もう一つは同じ日(おそらく夜)に起こった「十一人」の弟子たちへの顕現です(二四・三六〜四九)。ヨハネ(二〇・一九)では復活されたイエスは週の初めの日に弟子たちに現れ、それから八日目にもう一度弟子たちに現れておられます(ヨハネ二〇・二六)。それに対してルカは、週の初めの日に起こった二つの出来事を伝えた後は、すぐに昇天の記事になります(二四・五〇〜五一)。

 イエスが十字架につけられた金曜日から安息日の土曜日を挟んで足かけ三日目の日曜日に、弟子たちが復活されたイエスの顕現を体験したことを伝えたルカも、その後ただちにイエスの復活を告知する活動が始まったのではないことは十分承知しています。それが始まったのは次の巡礼祭であるペンテコステの祭りからであることをルカ自身が伝えています。それまでの五十日の間に何があったのか、ルカは沈黙しています。実際は、弟子たちはガリラヤに帰り漁師などの生業に戻っていました。そして、ガリラヤで復活されたイエスの顕現を体験し、そのさい決定的な召命を体験し、船や網など家業を捨ててエルサレムに移住し、過越祭から五十日後の五旬節(ペンテコステ)の祭りの時からイエスの復活を告知する活動を始めたのでした。

 エルサレムを中心として福音の進展を描こうとするルカは、弟子たちのガリラヤ帰郷を省略し、弟子たちは週の初めの日の顕現体験の後ずっとエルサレムに留まっていて、祈りつつ時を待ったとします。そのことをルカは、「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」(二四・四九)という復活者イエスの指示によるものとしています。すなわちエルサレム中心主義のルカは、この「・・・・までは」という句で、弟子たちのエルサレム滞留を神の御計画によるものとして、弟子たちのガリラヤ帰郷を覆い隠していると言えます。

 このように弟子たちの顕現体験をエルサレムに限ることがルカの顕現物語の特色ですが、そのルカが伝えるエルサレムでの二つの顕現物語に共通する顕著な特色が見られます。一つは、復活されたイエスには身体があるという事実の強調と、もう一つは、イエス復活の出来事は聖書の成就であるという点の強調です。この二点の強調は、先に「ルカ二部作成立の状況と経緯」で見たように、マルキオンの挑戦に遭遇したルカが、彼に見られるグノーシス主義的傾向の胎動に対抗するために、とくに強調するようになった二点であると考えられます。以下の講解で、その二つの強調点について注目して、ルカが伝える顕現物語を見ていくことになります。

144 エマオで現れる(24章13〜35節)

 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。(二四・一三〜一四)

 「ちょうどこの日」、すなわち週の初めの日(日曜日)で、女性たちが墓が空になっているのを見つけた日、「二人の弟子」がエルサレムの近くにあるエマオという村に向かっていました。この「二人の弟子」は、イエスが選ばれた「十二人」の弟子団には含まれていません。そのことは、この二人が「エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まっていた」(二四・三三)とあり、この「二人」は「十一人」(十二人からユダを除く十一人の使徒団)の中の二人でないことが確認できます。

 エマオは「エルサレムから六十スタディオン離れた」ところにある村と、そのエルサレムからの距離が記述されています。一スタディオンは約一八五メートルですから、六十スタディオンは約十一キロになります。歩いて二時間半ほどで行ける村です。

 この「二人の弟子」が何のためにエマオに向かっていたのかは明らかではありませんが、エマオに着いてからイエスを夕食に招き、、さらに泊まるように勧めていることから、この二人はエマオの住人で、イエスを自宅に招いたのではないかと考えられます。二人は過越祭のためにエルサレムに来ていましたが、(ある程度以上の距離の旅ができない)安息日が明けた翌日の日曜日に、自宅に戻る途中であったと見てよいでしょう。

 イエスはガリラヤだけでなく、南部のユダヤでも活動しておられます。マタイ(一九・一〜二)は「イエスはこれらの言葉を語り終えると、ガリラヤを去り、ヨルダン川の向こう側のユダヤ地方に行かれた。大勢の群衆が従った。イエスはそこで人々の病気をいやされた」と伝えています。ヨハネ福音書によると、イエスは最後の過越祭の前年の秋の仮庵祭からずっとエルサレムとその付近のユダヤ地方で活動しておられます。したがってユダヤ地方に多くの「弟子たち」がいるのは当然で、彼らの存在が最初期のエルサレム共同体の成立に不可欠の前提となります。エマオの住人にイエスの弟子がいることは不思議ではありません。彼らはイエスがガリラヤで選ばれた「十二人」とは別のグループになります。

 すぐ後(一八節)に「その一人のクレオパという人」という名が出てきますが、この「クレオパ」はヨハネ福音書一九章二五節に出てくる「クロパ」と同一人物ではないかという推定が、古代教会のごく初期から行われてきました。そうすると、この「二人の弟子」はクレオパとその妻と推測することも可能です(この場合女性だから名があげられなかったと考えられます)。一方、古代教会の伝承によると、クロパの息子のシモンという人物が「主の兄弟ヤコブ」の後を継いで二代目のエルサレム教会の司教に選ばれたとされています(エウセビオス『教会史』三・一一)。血統を重視する古代の継承思想からすると、シモンはイエスの血縁につながる者であるので選ばれたということが強く推測され、クロパはイエスの血縁者であったとされます。さらに、この「二人の弟子」のもう一人は彼の息子のシモンではないかという推測もなされています。もしそうであれば、この「二人の弟子」は後のエルサレム共同体で重要な地位を占める二人であり、彼らの顕現体験が重要な伝承として語り伝えられた事情もよく理解できます。

 この二人は「弟子」ですから、過越祭のエルサレムで起こったイエスにかかわる出来事は身近に見ていたはずです。この二人がガリラヤからイエスに従ってきた「使徒たち」とどれほど身近であったかは確認できませんが、もしこの「クレオパ」がヨハネ福音書一九章二五節に出てくる「クロパ」と同一人物であるならば、彼の妻がイエスの母と一緒にイエスの十字架の前にいたことになり、「使徒たち」とかなり近い親密な交わりにあったことが推測されます。そうすると、日曜日の早朝に墓が空であることを見つけた女性たちが報告したとき、それを聞いた「使徒たち」と一緒にいた可能性もあります。こうして、信じていたイエスが十字架上で刑死し、その遺体までがなくなっていたという出来事に失望落胆して、「この一切の出来事について」どう考えてよいのか分からず途方に暮れ、(一七節にあるように)「暗い顔をして」互いに語り合っていたのでしょう。

 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。(二四・一五〜一六)

 ルカは二人の話し合いを「議論する」という動詞を用いて描いています。二人はイエスの身に起こった出来事、とくに刑死という事実で終わった出来事の意義が理解できず、ああではないか、いやこうであるにちがいないと、議論が続いていたのでしょう。そこに「イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められ」ます。近づいてきた人物を「イエスご自身」と指し示すのはこの物語を伝えるルカまたは伝承であって、「二人の弟子」当人にとっては一人の見知らぬ旅人にすぎません。二人がそれがイエスだと分からない理由を「二人の目は遮られていて」分からなかったのだとしています。

 復活されたイエスが弟子たちに現れた出来事を伝える顕現物語には、共通のパターンがあります。最初は、顕現を体験した弟子たちはそれが誰であるか分かりません。今自分はある人格に出会っているのだということは分かるのですが、それが誰であるかが分かりません。次に、現れた方から語りかけるなど、その方からの何らかの働きかけによって初めてそれがイエスだと分かるようになります。そして最後に、現れた方の神的な栄光にひれ伏して、その方を拝するに至ります。

 復活されたイエスに出会う人間は、最初自分に向かい合っている人格が誰であるかが分かりません。それは当然です。それは、この体験は人間が今まで経験したことのない種類の出会いだからです。人間は異次元からの顕現に遭遇すると、深い恐れを感じます。それで旧約聖書における神や天使たちの顕現においてはいつも、「恐れるな」という呼びかけで始まります。もはや地上で親しく交わりをもっていたイエスではなく、復活者として異次元から働きかけるイエスに直面して、地上の弟子たちは「亡霊ではないか」と怯えたり(二四・三七、マルコ六・四九)、パウロの場合のように倒れ伏して「あなたはどなたですか」と訊ねざるをえません(使徒九・五)。

 復活者イエスが通常の人間との出会いのような形で顕現された場合も報告されています。墓の前でマグダラのマリアは復活されたイエスに出会いますが、はじめはそれがイエスだとは分からず園丁だと思っています(ヨハネ二〇・一四〜一五)。ここのエマオに向かう二人の弟子の場合も、イエスは一見ふつうの旅人に見える姿で現れておられます。二人は見知らぬ旅人と話をしている思って対話を始めます。そのことをルカは、「二人の目は遮られていた」からだと説明しています。どういう形で現れるかは、現れる方の主権に属すことで、その働きを受ける人間が決めることではありません。この場合は、復活されたイエスが見知らぬ旅人に見える姿で現れたことを、ルカは神の側の配慮として、「(神によって)遮られていた」という受動態の動詞で描きます。

 二人とイエスの出会いは、イエスが彼らに追いつくという形で起こったと見られます。二人はその旅人も自分たちと同じようにこれまでエルサレムに滞在していて、これからエマオに向かう者として扱っています(一八節、二八節)。この出会いは、語りかけようとしてイエスの方から彼らに追いつき、一緒に歩き始められたことになります。

 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。(二四・一七)

 イエスは二人が歩きながら話している会話の内容を知っておられます。しかし、彼らにその意義を教えるために、「その話は何のことですか」と訊ねて、彼ら自身にそれを語らせようとされます。二人は「暗い顔をして」立ち止まり、話し始めます。彼らが「暗い顔をして」いたのは、「この数日そこ(エルサレム)で起こったこと」、すなわち彼らがこの過越祭のエルサレムで体験したことが、あまりにも彼らを落胆させ悲しませたからです。

 その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか」。(二四・一八)

 「二人の弟子」とクレオパという名の人物については先に述べました。イエスの問いにクレオパが答えたとされているのは、二人の中でクレオパの方が年長で、二人を代表する立場の人であったからでしょう。クレオパはイエスの質問に驚きを示しながら答えています。その驚きは「あなただけはご存じなかったのですか」という問い返しによく現れています。クレオパは、この見知らぬ旅人も自分たちと同じくエルサレムからエマオに向かう旅人として一緒に歩いているので、当然これまでエルサレムに滞在していたものと理解しています。エルサレムにいながら、「この数日そこで起こったこと」を知らないとは驚きだ、という気持ちをこめてこう問い返しています。この数日そこで、すなわち過越祭のエルサレムで起こった事件は、エルサレム中の人は皆知っており、大きな衝撃を受けたのに、そこに居合わせていながら「あなただけはご存じなかったのですか」という驚きです。

 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした」。(二四・一九)

 イエスは彼らに語らせるために、「それはどういうことか」と重ねてお訊ねになります。今度は「二人」が答えます。実際に語ったのはクレオパかもしれませんが、ルカはこれを「二人は言った」としています。原文は「彼らは言った」で、これは以下の対話をイエスと弟子たち一同の対話として読ませたいルカの意図を示唆しています。以下の対話の「わたしたち」は、この二人だけでなく弟子たち一同を指していると理解すると、この対話の意義がいっそう明らかになります。

 ユダヤ人の弟子たちは、イエスを「行いにも言葉にも力のある預言者」として従っていたのでした。「《エルガ》(働き、行い)において力がある」とは、イエスが病人をいやしたり悪霊を追い出したり、多くの力ある業(奇蹟)をされた働きを指しています。「《ロゴス》(言葉)において力がある」とは、イエスが「神の支配」を告知されたり、父の恩恵を語られたり、また律法学者たちと議論されたとき、その言葉に圧倒的な権威があったことを指しています。それは悪霊さえも従う権威でした。この「《エルガ》と《ロゴス》において力がある」という表現には、パウロが自分を通してキリストが「《ロゴス》と《エルガ》において」力強く働かれたとしたローマ書(一五・一八)のエコーが感じられます。福音書もイエスの働きを要約するときはいつも「御国の福音を告げ知らせる教えの言葉」と「民衆のあらゆる病気や患いをいやされた働き」にまとめています(マタイ四・二三など)。
 イエスの働きと言葉は、「神と民全体の前で」で力あるものでした。ここの「民」《ラオス》は神の民であるイスラエルを指しています。イエスはイスラエルの民全体の前でなされた力ある働きと言葉によって、ご自分が神からイスラエルに遣わされた預言者であることを示されました。ユダヤ人の弟子たちは、イエスをそのような預言者として信じて弟子となり、従ったのでした。

 「それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです」。(二四・二〇)

 このようにイエスは神から遣わされた預言者であったのに、こともあろうに、「わたしたちの祭司長たちや議員たち」、すなわちわたしたち神の民イスラエルの指導者たちは、イエスを裁判にかけ、死刑に相当すると判決し、異教徒の支配者であるローマ総督に(死刑を執行してもらうために)「引き渡し」、ローマ人の手によって十字架につけて殺してしまったのです、と二人は嘆き悲しんでいる訳を話します。

 「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります」。(二四・二一)

 ユダヤ人の中にはイエスを神から遣わされた預言者として認める者も多くいたのですが、「わたしたち」イエスに従った弟子たちはさらに一歩進めて、この方こそ終わりの日に現れてイスラエルを異邦人の支配から解放してくださるあの預言者、すなわち「メシア」であると信じてエルサレムまでついてきました。弟子たちがイエスをそのような当時のユダヤ教徒が期待していたメシアであると期待したことは、カイサリア・ピリポでのペトロのメシア告白とその後の福音書の記事によく示されています。「わたしたち」は、エルサレムに入られるならばイエスは大いなる神の力を現し、イスラエルの民を異教徒の支配から解放する目覚ましい働きをされるに違いないと「望みをかけていました」。ところがエルサレムで起こった事態はこの期待を裏切る悲惨な結果に終わりました。イエスは神殿当局に逮捕され、最高法院で死刑の判決を受け、異教の支配者であるローマ総督に引き渡され、十字架につけられて処刑されたのでした。

 「しかも、そのこと(イエスの刑死)があってから、もう今日で三日目になります」が、何も起こりません。「わたしたち」がイエスに置いた信頼と抱いた期待は裏切られたままです。「わたしたち」は落胆し、深い悲しみを抱いたままエルサレムを去り、故郷の村に帰るところです、と二人は「暗い顔」をしている理由を語ります。

 「ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです」。(二四・二二〜二三)

 二人は続けて、そのことがあってから三日目になる」今日の早朝に起こった出来事を語ります。仲間の婦人数人が朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来て、そこに現れた天使たちが「イエスは生きておられる」と告げたと報告します。ここの「遺体」の原語は「からだ」《ソーマ》です。

 この報告が「わたしたちを驚かせました」と言っているのは、この報告を受けた弟子たち一同が「この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」(二四・一一)という、この報告に対する弟子たちの反応を指しています。弟子たちは、死んで葬られたイエスが復活して、その「からだ」が墓を去ってどこかへ行くというようなことは理解も想像もできず、その報告を聞いて、ただ驚き、不審に思い、戸惑うだけでした。弟子たちにとって女性たちの報告は「たわ言」としか思われませんでした。

 「仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした」。(二四・二四)

 それでも事実を見届けるために「仲間の者が何人か墓へ行ってみます」。この記事は一二節の記事に対応していますが、一二節ではペトロ一人が墓に走っています。二二〜二四節の記事は、すでに初版で報告している空の墓の記事の後に顕現物語を付け加えて増補改訂するさいに、その空の墓の記事との整合性を維持するために書き入れた部分だと考えられますが、墓に行った弟子が複数形になっているのは、ルカが用いたヨハネ(二〇・一〜一〇)との共通の伝承が墓に走った弟子を二人としていることの影響である可能性が考えられます。

 ペトロと他の弟子が墓に行って確認したところ、女性たちが報告したとおり、墓にはイエスはおられませんでした。女性たちは「イエスのからだ」がないことに気づいていますが、ここではイエスがおられなかったという表現になっています。ここにも復活の「具体性」が出ています。そこにイエスの体がない事実が、そこにイエスがおられないことを指し示しています。

 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」。(二四・二五〜二六)

 十字架の死と空の墓の事実に直面して驚き途方に暮れている弟子たちに向かって、イエスはそれを彼らの不信仰であると嘆き、聖書に基づくメシアへの信仰を説かれます。弟子たちは、メシアと信じてきたイエスが十字架上に刑死された事実にすっかり落胆し嘆き悲しんでいるが、それは預言者たちが預言していた言葉を信じることができないからだとし、弟子たちの「物分かりが悪く、心が鈍い」ことを嘆かれます。この嘆きは、神の言葉を預かってイスラエルの民に語った預言者たちが、その言葉を理解せず拒否しつづけた民の心の頑なさと無理解を嘆いた歴史の延長上にあります。弟子たちの無理解を嘆いた上で、復活されたイエスご自身が預言者たちのメシアについての預言を解き明かされます。

 ここの《ホ・クリストス》は(底本では)小文字が用いられており、「油注がれた者」という普通名詞として扱われています。口語訳と新改訳は「キリスト」と訳していますが、新共同訳は(NRSVなど最近の翻訳と同じく)「メシア」と訳しています。当時のユダヤ教徒の間の対話としては、彼らの間で待望されていた「油注がれた者」(=メシア)に関する対話として「メシア」と訳すのが順当と考えられます。底本の小文字の使用も、そういう理解からでしょう。しかし、「苦しみを受けて、栄光に入るはずだ」という預言は、福音が告知する「キリスト」についても適用される重要な告知内容ですから、キリスト告知の内容として引用するときは、「キリスト」と訳すのが当然です。

 神から油を注がれて民の救済のために遣わされるメシアは、「このような苦しみを受ける」、すなわち民の指導者からは見捨てられ、弟子に裏切られ、敵対者に引き渡され、神に打ち砕かれるような死を遂げることは、預言者たちが預言したことであり、このような苦しみを受けた後に、メシアはその本来の栄光の地位に高められることになっているではないか、と復活されたイエスは弟子たちに語られます。ここの「〜することになっている」(新共同訳では「〜するはずだ」)には、あの神的な必然を指す《デイ》が用いられています。英語の"must"に相当するこのギリシア語は、神が働かれるときの必然を表現しています。とくに、神が終末的な救済の働きを成し遂げられるときの必然として、キリストの受難と復活を語る文に用いられます(マルコ八・三一など)。その聖書に預言されている必然を理解しているならば、ただ嘆き悲しんでいるのではなく、受難に続いて起こる神の栄光の働きを待つことができたであろう、と諭されます。

 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。(二四・二七)

 そして、前節の「預言者たちの言ったことすべて」のことが、続けて「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていること」と具体的に説明されます。イエスの時代では、ユダヤ教の「聖書」の範囲はまだ流動的でしたが、少なくともモーセが書いたとされる《トーラー》(律法、モーセ五書)と「預言者」(ヨシュア記、士師記、サムエル書、列王記の「前の預言者」とイザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書、十二小預言者の「後の預言者」)は「聖書」《グラフェー》として権威が確立していました。詩編を代表とするその他の文書群「諸書」はほぼ形を取っていましたが、まだ確定はしていなかった(閉じられていなかった)と見られています。ルカがここで「モーセ(五書)とすべての預言者から始めて」という句に「聖書《グラフェー》全体」を加えているのは、最初期の共同体が詩編など諸書の中の文書も、メシアの受難と復活を預言する聖書預言として用いていた状況を反映しているものと見られます。ルカは、彼の時代の共同体が聖書全体をメシア・キリストとしてのイエスの受難と復活を預言するものとして解釈している状況を、復活されたイエスの働きとしてエマオ物語に取り入れます。最初期の共同体、とくにルカが活動した異邦人を主体とする共同体が、聖書(旧約聖書)をもっぱら来たるべきキリストの預言として読んでいた状況が浮かび上がります。

 イエスは聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを「説明された」と言われています。この「説明する」と訳されている動詞は《ヘルメネウオー》の複合形ですが、これは「解釈する」とか「翻訳する」という意味で用いられる動詞です。聖書の言葉は解釈されなければなりません。どう解釈するかは信仰にとって決定的に重要です。ここでは復活されたイエスご自身が聖書を解釈して、それまで弟子たちの目に隠されていた聖書の言葉の意味を解き明かされます。この復活されたイエスご自身による聖書の解釈を聞いた弟子たちの体験がどのようなものであったかは、後の三二節で語られることになるので、そこで扱うことにします。

 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。(二四・二八)

 二人の弟子とイエスの一行三人は目指す村エマオの近くまで来ますが、イエスはなおも先へ行こうとされます。この二人の弟子はエマオの住人であると考えられるので、この不思議な人物からさらに話を聞きたかったのでしょう、一緒に自分たちのところに泊まるようにイエスを引き止めます。

 二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。(二四・二九)

 時刻は夕方近くになり、日も傾いていました。二人の弟子は昼過ぎにエルサレムを出発してエマオに向かったのでしょう。なお先に行こうとされるイエスを無理に引き止めて、一軒の家に迎え入れます。当時のユダヤの寒村に旅館というような施設はないのでしょうから、この家は自分たちの家であると推察してよいでしょう。イエスは二人の懇願を聞き入れて、二人の家に入られます。

 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。(二四・三〇)

 エルサレムからエマオまでは二時間半くらいの行程ですから、日は傾いていたとしてもまだ日没ではありません。当時のユダヤ人は午前と午後遅いめの二回に食事をとったようです。二人は泊まってもらうことになった見知らぬ旅人に午後の食事、夕食を用意します。

 一緒に食事の席に着いたとき、イエスは「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」とありますが、これは食事の席で家長がする動作です。このイエスの動作を伝える部分は、最後の晩餐のときにイエスが弟子たちにパンを裂いてお与えになったときの動作を伝える文(マルコ一四・二二)と同じです。また、パウロが伝えた「主の晩餐」伝承で、主イエスが弟子たちにパンを与えられた動作を語る文(コリントT一一・二三〜二四)もほぼ同じです。違いはここやマルコでは「賛美の祈りを唱え」《エウロゲオー》が用いられていますが、コリント書簡では「感謝の祈りをささげ」《エウカリストー》が用いられているぐらいで、用語も文体も同じです。このことは、最初期の共同体が集まるとき「共にパンを裂き」食事を共にしましたが、そのときそこに復活のイエスがいてくださるのだという信仰から、最後の晩餐のときのイエスの動作がこの定型文となって語り伝えられることになったと考えられます。ルカはこの定型文をここに用いることによって、いま目の前でこの動作をしておられる方が、共同体がいつも「主の晩餐」で記念しているイエスであることを指し示していることになります。

 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。(二四・三一)

 はたして、二人の弟子はこの動作をされるイエスを見たとき、「目が開かれて」(動詞は受動態)、この方がイエスだと分かります。二人は最後の晩餐の席にいたわけではありませんから、そのイエスの動作を見たからイエスだと分かったのではありません。そのときに「目が開かれて」、今まで隠されていた秘密、すなわちその見知らぬ旅人がイエスであるという秘密が明らかになった、ということになります。彼らの「目を開いた」のは聖霊である、としか言いようがありません。顕現体験はいつも聖霊の働きの結果です。

 すると、わかった瞬間、その方の姿は見えなくなります。これも顕現体験の共通のパターンです。初めは自分の前に出現された方が誰であるかが分かりません。その方からの語りかけなどの働きかけがあって初めてイエスだと分かります。それは復活されたイエスを見るという体験、顕現体験となります。そして、分かった直後にはその方は見えなくなります。その出来事の目的は達せられたので、聖霊による異常な体験は終わり、日常の体験に戻ります。しかし、その短い異常な体験はそれを体験した者の生涯を決定的に変えてしまいます。それはその人にとって「原体験」となります。ここでも、目の前でパンを裂いているその旅人がイエスだと分かった瞬間、イエスの姿は見えなくなります。

 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。(二四・三二)

 二人は、ここまで自分たちと一緒に行動された見知らぬ旅人がイエスだと分かったとき、エマオへ向かう道の途上で体験したことを思い起こします。その方が自分たちに話しかけて、聖書を解釈し、その真意を説明してくださったとき、自分たちの「心は燃えていた」という体験を思い起こします。ここで「説明してくださった」と訳されている動詞は、二七節で用いられていた《ヘルメネオー》(解釈する)の複合形ではなく、《アノイゴー》(開く)の複合形です。それは前節で「目が開かれて」というときに受動態で用いられていたのと同じ動詞です。ここでは復活されたイエスご自身が「聖書を開いて」、隠されていた聖書の内容を明るみに出すという形で「説明された」と言われています。その隠されていた内容というのは、「御自分について書かれていること」でした。すなわち、終わりの日に出現すると約束されていたメシア・キリストとしてのイエスの出来事について聖書が予め語っている内容でした。「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入る」と預言されているのに、ユダヤ人にはその奥義が隠されていて、理解されていませんでした。イエスは「聖書全体」を神の救済の働きの預言と見る視点から、その隠された意味を「開き示された」のです。この視点からの聖書全体の理解(救済史的解釈)こそ、最初期の共同体が聖書に接した基本的な姿勢でした。

 復活のイエスからこのような聖書の解釈・開示を聞いた二人の心は燃えます。これは聖霊の働きを受けたときにわたしたちの心に起こる結果です。聖霊は火で象徴されます。聖霊が働かれるとき、そこには火が燃え上がります。この二人は道の途上ではまだその旅人が復活されたイエスであることを知りません。見知らぬ一人の旅人から聖書の解き明しを聞いています。しかし、聖書が正しく解釈されて解き明かされるとき、そこには聖霊が働き、聞く者の心を燃やします。燃える心は生きるエネルギーとなります。信仰生活のエネルギーです。二人の場合は、復活されたイエスご自身が共にいますという場でそれが起こりました、今わたしたちの時代では、復活者イエスの福音が告知され、それが信受されている場で起こります。

 この二人の弟子が語り合った「道」での体験は、現代において聖書と共に生きる生き方の原型です。ルカは使徒言行録(九・二、一八・二五、一九・九、二三、二二・四、二四・一四、二二)で主イエス・キリストを信じて生きる新しい信仰生活を「道」とか「この道」と呼んでいます。まだ「キリスト教」という名で呼ばれる宗教はありませんでした。信仰は生き方の全体ですから「道」と呼ばれるのはふさわしいことです。そのルカが、エマオに向かう「道」の途上でなされた二人の弟子の体験をこのように詳しく物語るとき、「この道」での歩み、すなわち福音による共同体の信仰の歩みが重なって見られていたのではないかと推察されます。すなわち、ルカは彼の時代の共同体に向かって、復活者イエス・キリストを信じる民の共同体は、聖書をこの方を預言する啓示の書として解釈して読むことによって、聖霊の働きを受けて心燃える歩みをする必要がある、と語っているのではないかと考えられます。これは(先にも触れたように)、イエスの父をユダヤ人の神とは別の神としてユダヤ人の聖書(旧約聖書)を拒否したマルキオンに対抗するため、ルカがとくに強調した点でした。

 余談ながら、わたしは大学院での研究生活を断念して独立伝道に乗り出した後、大学に残った兄弟と協力して出身大学に聖書研究会を始めましたが、その聖書研究会を「エマオ会」と名付けました。それは、このエマオへの道の途上で復活者イエスから聖書の解き明しを受けて心燃える体験をした弟子たちの体験を追体験することを願ったからでした。

 そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。(二四・三三〜三四)

 二人は「時を移さず出発して」エルサレムに戻ります。エマオからエルサレムまではほぼ二時間半の行程です。ユダヤ人の夕食は、午後の四時とか五時というような遅めの午後になされたので、食事が始まるときにイエスの姿が見えなくなった直後に出発し、急げば夜の闇が迫る前にエルサレムに到着できたでしょう。彼らは、イエスが生きておられ自分たちに現れてくださったこの出来事を、仲間の弟子たちに知らせるために、この道のりを息せき切って急いだことでしょう。

 エルサレムに戻った二人は、「十一人とその仲間」が集まっている家に急ぎます。この二人も昼頃まではそこにいた家です。「十一人」は、イエスが選ばれた「十二人」からイエスを引き渡したユダを除いた弟子たちです。そこにいたのは「十一人」だけでなく「その仲間たち」も一緒にいました。ガリラヤからイエスに従ってきた女性たちもいたことでしょう。また、このエマオ出身の二人のように、エルサレムとかユダヤ地方の住人でイエスを信じて弟子となっていた者たちもいたことでしょう。二人がその家に着いたとき、そこにいた弟子たちは「本当に主は復活してシモンに現れた」と言っていました。

 二人の弟子がエルサレムに戻ってきたのは週の初めの日の夜ですから、復活されたイエスがシモンに現れたのは、週の初めの日当日になるわけです。そこにいた「十一人」の中にはシモンもいるのですから、そこにいた人々がそう言い合っていたという報告の仕方はやや不自然な感じを否めません。事実、週の初めの日に復活されたイエスがシモンに現れたという報告は、この間接的な報告以外にはどこにもありません。ヨハネ福音書(二〇・一九〜二三)に週の初めの日の夕方に復活されたイエスが家に閉じこもっている弟子たちに現れたという記事がありますが、とくにシモン(=ペトロ)に現れたという記事はありません。これと同じ伝承に基づいていると考えられるルカの次の段落(二四・三六〜四九)も、とくにシモン・ペトロへの顕現を取り上げることなく、週の初めの日の夜に起こった弟子たち全員への顕現を報告しています。このような状況を考慮に入れると、「本当に主は復活してシモンに現れた」という証言は、「(キリストは)聖書に書いてあるとおり三日目に復活し、ケファ(=シモン・ペトロ)に現れ、その後十二人に現れた」(コリントT一五・四〜五)という最初期エルサレム共同体の伝承に合わせるためのルカの構成ではないかと推察させます。パウロが引用しているこの伝承は、最初期共同体におけるペトロの権威を根拠づけるために形成された伝承であって、必ずしも歴史的事実を報告するものではありません。このようにペトロの権威を根拠づけるための伝承を、ルカがエマオ物語に挿入したものと考えられます。

 二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。(二四・三五)

 二人は、エマオへ向かう途中「道で起こったこと」や、家に入って食事をしたとき「パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第」を報告します。この二人の「イエスは生きておられる。わたしたちはそのイエスを見た」という証言を聞いて、他の弟子たち一同がイエスの復活の事実に喜びに溢れたということにはならなかったようです。墓が空であったという女性たちの報告を聞いたときと同じように、あまりにも意外な報告や証言に戸惑うばかりで、彼らの失望や落胆、また恐れの心は変わらなかったようです(マルコ一六・一二〜一三)。そのことは次の段落が示しています。


145 弟子たちに現れる(24章36〜49節)

 こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。(二四・三六)

 復活されたイエスが週の初めの日の夕方または夜に、弟子たちが閉じこもっている部屋に現れた出来事は、ルカ福音書のこの段落とヨハネ福音書の二〇章(一九〜二三節)の段落の二箇所で伝えられています。この二つの段落は、その使信とか意義はかなり違った内容になっていますが、同じ出来事を伝える共通の伝承によるものと見られます。それは、出来事の日時が同じ週の初めの日の夜であること、現れたイエスが「シャローム」(平和があるように)というユダヤ人の挨拶をもって現れておられること、恐れる弟子たちに手や足を見せて御自分であることを示しておられることなど、出来事の基本的な内容が共通していることから分かります。他でもしばしば見られるように、ここもルカとヨハネが共通の伝承を用いている一例です。

 イエスを異邦人に引き渡して処刑したユダヤ教指導層を恐れて家の戸にかんぬきをかけて閉じこもっている弟子たちの部屋に、忽然とイエスが現れ、ユダヤ人が日常人に会ったときに使う《シャローム》という挨拶をされます。これは「あなた(がた)に平和があるように」という意味の挨拶です。ヨハネ福音書(二〇・一九、二一)ではこの挨拶が繰り返されています。

 彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。(二四・三七)

 あまりの突然の出来事に弟子たちは驚き、それがイエスであることが分かりません。むしろ、人間は超自然的な人格とか霊界からの出現に本能的におびえるものですが、この時も弟子たちは「亡霊を見ているのだ」と思って恐れおののきます。ここで弟子たちは「《プニューマ》を見ていると思って」恐れおののいた、とルカは書いています。《プニューマ》は広く「霊」を指す語ですが、ここでは死んで陰府《シェオール》に下り、霊魂だけになった者が地上に現れた姿、すなわち「亡霊」(亡くなった人の霊)を見ていると思って恐れるのです。

 このように、弟子たちが突然自分たちの前に現れたイエスを見ておびえた別の例がマルコ福音書(六・四九〜五〇)にあります。そこでは、嵐で漕ぎ悩む弟子たちの舟に湖上を歩いて近づいてこられたイエスを見て、弟子たちは《ファンタスマ》(幽霊)を見ているのだと思い、恐ろしさのあまり大声で叫んでいます(マタイも同じ)。この出来事は、マルコではイエスの地上の働きの時期に起こったこととしてガリラヤ伝道の中に置かれていますが、実際はイエスの十字架死のあとガリラヤに帰って漁師の生活に戻っていたペトロたちが体験した復活者イエスの顕現の出来事でした。この物語には、初めは誰であるか分からず、異常な出現に弟子たちはおびえたこと、出現された方からの語りかけでイエスだと分かったこと、その方を神として拝したこと(マタイ一四・三三)など、顕現物語の伝承の特色をそなえています。

 後に弟子たちが自分たちの顕現体験を証言し、それによってイエスの復活を告知したとき、「お前たちはイエスの亡霊を見ただけだ」と批判する者も多かったと思われます。その批判を知っているルカは、顕現されたイエスには身体があったことを力をこめて証言し、そのような批判に対抗します。以下(三八〜四三節)の物語は、復活されたイエスには身体があったことを強調するルカの特色がよく出ています。

 そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」。(二四・三八〜三九)

 亡霊を見ているのだと思い恐れおののいている弟子たちを、イエスは「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか」と叱責し、手や足を見せて、御自分に身体があり、亡霊などではないことを示されます。おそらくイエスは両手を差し出して、「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい」と言われたと思われます。こうして、イエスは弟子たち自らが確認するように促されます。イエスは「亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」と言って、さらに御自分が亡霊ではなく、身体を具(そな)えたイエス自身であることを強調されます。

 こう言って、イエスは手と足をお見せになった。(二四・四〇)

 この節を欠く写本があり、本文の決定については議論があるところです。たしかに前節と重複している面もあり、なくても物語の進行には差し支えがありませんが、これを写字生によるヨハネ二〇・二〇からの挿入とする必然性もないと思われます。ヨハネ二〇・二〇では「イエスは手と脇腹をお見せになった」となっています。これは後でトマスに「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」と言われるようになることを先取りしていると見られます。週の初めの日の夜に起こった復活者イエスの顕現を伝えるさいに、ルカとヨハネは共通の伝承に依拠しているようですが、ヨハネの方がむしろトマスの物語に合わせるために「手と脇腹」としているように思われ、ルカの「手と足」の方が元の伝承に近いのではないかと考えています。

 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。(二四・四一〜四三)

 死んでしまわれたと嘆き悲しんでいたイエスが生きておられることを知って、弟子たちは大いに喜びますが、今自分たちが経験していることが何を意味するか、彼らはまだ理解できないでいます。ただ驚き不思議がっている弟子たちに、イエスはさらに彼らの前で魚を食べて見せて、彼らが見ているのは幻影ではなく、身体を持った人間であることを証明されます。魚は幻影ではなく現実の物体です。それを食べて呑み込んでしまう動作をするものは、幻影ではなく現実の人間です。後にイエスの復活を証言した弟子たちは、イエスが自分たちの前で食事をされたこと、あるいは自分たちがイエスと一緒に食事をしたことを重要な体験として証言しています。とくにルカは復活されたイエスと一緒に食事をしたことを重視しています(ここや二四・三〇、使徒一〇・四一)。

 復活されたイエスが弟子たちと食事をされたという報告は、マルコとマタイの顕現記事にはなく、ルカとヨハネの顕現記事にあります。ヨハネ福音書では補遺の二一章(一〜一四節)の奇跡的大漁の時、復活されたイエスが弟子たちと朝食を共にされたことを報告しています。ルカはこの奇跡的大漁の伝承を知っていて五章でペトロの召命記事として用いていますが、そこでは食事のことには触れていません。ルカはその伝承の食事の部分をここで用いたのではないかと推察させます。そのさい、魚は隠れ家の一室という状況に合わせて「焼いた魚の一切れ(一部)」という形になっています。

 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである」。(二四・四四)

 弟子たちに現れた復活者イエスは、ご自分に身体があることをお示しになった後、この出来事が聖書の成就であることを語り出されます。この二点(復活の身体性と聖書の成就)はルカがとくに強調したい二点です。

 先には聖書を指すのに「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり」(二七節)とありましたが、ここでは「モーセの律法と預言者と詩編」となっています。これは当時のユダヤ教聖書の三部(律法、預言者、諸書)を指していますが、諸書の部はまだ完結していなかったようで「詩編」で代表させています。事実、最初期共同体がキリスト預言として引用したのは預言者の書と詩編が圧倒的に多かったようです。

 この三部のすべてにおいて「来たるべき方(救済者)」について書かれていることを、イエスは「わたしについて書いてある事柄」とされて、それが「必ずすべて実現する」、すなわちご自身の身にすべて起こることが必然であることを語り出されます。伝承とルカはそれをあの神的終末的必然(=救済史的必然)を指し示す《デイ》(ねばならぬ)を用いてギリシア語圏の読者に伝えます。しかもルカは、それを最初期共同体が発明した新しい聖書の読み方としてではなく、イエスが地上におられた時に弟子たちに説かれた聖書の読み方として伝えます。四四節の原文は「わたしがまだあなたたちと一緒にいたときに、あなたたちに言った言葉はこうであった」で始まり、その内容として「すなわち、わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する」という文が続いています。

 イエスは地上におられたとき、最後にエルサレムに向かう旅の途上で繰り返しご自分の受難と復活を予告されました(九・二一〜二二、四四、一八・三一〜三三)。とくにエルサレムに入られる直前になされた三度目の予告では、「人の子について預言者が書いたことはみな実現する」と前置きしてそれを語っておられます(一八・三一)。ところがそれを聞いた弟子たちは「これらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかった」とされています(九・四五、一八・三四)。

 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる」。(二四・四五〜四八)

 地上でイエスが聖書が預言するキリスト受難の奥義を語り出されたときには、その言葉の意味は隠されていて弟子たちは理解できませんでした。復活者イエスは「聖書を悟らせるために」今弟子たちの《ヌース》(理解力)を「開いて」、聖書の預言の内容を語り出されます。ここで、先にエマオ物語(三一節と三二節)で用いられていたあの動詞《アノイゴー》(開く)の複合形が用いられています。

 人の「心の目」《ヌース》を開いて聖書の隠された奥義を悟らせるのは聖霊の働きです。ヨハネ福音書では「訣別遺訓」において、去って行かれるイエスがすぐに戻って来ることを約束され、戻ってこられたイエスは「別の同伴者」《パラクレートス》として弟子たちを導くと約束され、その約束が聖霊の働きとして実現すると語られていました(ヨハネ一四・一〜三、一五〜一八、二五〜二六)。ルカにはこのような記事はありませんが、ここで復活されたイエスがなされる働きとして、聖霊による啓示の働き(聖書の解き明かし)が物語られています。
 復活されたイエスが弟子たちの「心の目を開いて」語られた内容の前半「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する」は、地上で弟子たちに語られた受難予告の言葉と同じです。しかし、その後半(四七〜四八節)にはルカ独自の使信が出てきます。その後半部を原文の語順で並べると次のようになります。

  「そして、宣べ伝えられる、彼の名によって、悔い改めが、罪の赦しに至らせる、すべての民に、エルサレムから始まり、あなたたちがこれらのことの証人となって」

 最初の動詞「宣べ伝えられる」は不定詞形ですが、この不定詞は四六節の「次のように書いてある」の内容を示す三つの不定詞形の動詞の三番目になります。すなわち、「苦しみを受ける」、「復活する」、「宣べ伝えられる」の三番目です。従って、この「宣べ伝えられる」は、ルカにとって「苦しみを受ける」と「復活する」と並んで、聖書に書かれていることの内容になるわけです。

 宣べ伝えられる内容は「罪の赦しに至らせる悔い改め」です。「罪の赦し《アフェシス》」はルカが世界に告知しようとする福音の中心主題です。そのことは、ルカがイエスの「神の国」告知活動の主題提示として最初に置いたナザレの会堂でのイエスの説教におけるイザヤ書の引用(四・一八〜一九)に示されていました。そこでイエスがご自分の「福音」の内容として引用しておられるイザヤの言葉で、「解放」と「自由」と訳されているギリシア語原語は《アフェシス》です。この《アフェシス》がここでは当時の共同体の通例の用例に従って、「罪過(複数形)の《アフェシス》(赦し)」という形で用いられています。こうしてルカはイエスの福音告知全体を《アフェシス》で囲い込んでいることになります。ルカの時代(七〇年以後の最初期後期)のパウロ系共同体では、パウロが用いなかった《アフェシス》が、「罪過の赦し」という形で福音の中心主題になっていました(コロサイ一・一三〜一四、エフェソ一・七)。その流れの中でルカも「罪の赦し」を構成原理として福音書を著述します。

 ルカは「罪の赦しが宣べ伝えられる」とは言わないで、「罪の赦しに至らせる悔い改めが宣べ伝えられる」と言っています。王が税金の免除を布告するように(この場合は民は何もしなくても税金は免除されます)、神が諸国民に罪の赦しを布告しておられるというのではなく、神は世界の諸国民に「悔い改め」《メタノイア》を布告しておられるのです。すなわち《メタノイア》をするように求めておられるのです(使徒一七・三〇)。《メタノイア》は方向転換です。たんなる道徳的改善ではなく人間の在り方の根本的な方向転換です。この《メタノイア》には「罪の赦しに至らせる」という説明がついています。「罪の赦し」はルカにとって福音の中心内容ですから、それに至らせる《メタノイア》は告知を聞く人間にとってもっとも重要な問題になります。では「罪の赦しに至らせる《メタノイア》」とはどのような方向転換でしょうか。

 問題は「彼の名によって」という句の意味と働きです。新共同訳はこの句を直前の「宣べ伝えられる」にかけて、「その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と訳しています。しかし、イエス・キリストの名によって宣べ伝えられるというのはあまり実質的な内容がなく、この句は直後の《メタノイア》にかけて、「その名によって罪のゆるしを得させる悔い改め」と訳すのが適切であると考えられます(協会訳、岩波版佐藤訳を参照)。「彼の名による悔い改め《メタノイア》」とは、イエス・キリストに無関心とか敵対していた在り方から、全面的にこの方に向かう在り方への方向転換です。「彼の名への方向転換」です。そうすることで「彼の名による」罪の赦しを受けることができる《メタノイア》です。神はそのような《メタノイア》を求めておられ、その《メタノイア》に対して「罪の赦し」を与えられるという告知です。

 「彼の名による《メタノイア》」は「彼の名による信仰」と同じです。パウロは「信仰による義」を唱えました。その信仰とは「イエス・キリストの信仰」、すなわちイエス・キリストに自分を全面的に投げ込んで委ねる人間の在り方です。ルカはこれを「イエスの名による《メタノイア》」と呼んでいるのです。そして「義」というユダヤ教的用語を避けて、「罪過の赦し」という異邦人にも分かりやすい用語で、神に受け入れられている状態を指します。この傾向はすでにパウロ以後のパウロ名書簡(コロサイ書やエフェソ書)に現れています。こうしてルカは、「その名によって罪のゆるしを得させる悔い改め」という表現で、パウロの「信仰による義」と同じことを言っているのです(使徒一三・三八〜三九)。

 このように何が「宣べ伝えられる」のか、その内容が指し示された後、それがどのように「宣べ伝えられる」のか、その仕方が指示されます。それは「あなたたちがこれらのことの証人となって、エルサレムから始まり、すべての民に」宣べ伝えられなければなりません。
 ここで宣べ伝える働きの担い手が「あなたたち」と強調の代名詞で指示されています。今ここで復活されたイエスに出会っているあなたたちこそ、「これらのこと」、すなわち地上での働き、十字架上の死、三日目の復活など、イエスの身に起こったすべてのことの証人となって 「その名によって罪のゆるしを得させる悔い改め」を宣べ伝えるようにと、その働きが委ねられます。この働きを委ねられた人たちが「使徒」と呼ばれることになります。

 その働きは「エルサレムから始まり」ます。エルサレムはユダヤ教の聖地であり牙城です。そこに神殿があり、神が礼拝され、聖書が語るすべてのことが実現する場所です。イエスもガリラヤから出てきてエルサレムで神から与えられた使命を成し遂げられました。イエスにおいて成就した神の最終的な救済の告知も、ここから始まらなければなりません。ルカの時代は、福音活動がエルサレムから始まりローマに達したことを確かな歴史的事実として回顧することができる時代になっています。ルカはこれを神の御計画として、復活されたイエスが語られた言葉の形で記録します。

 この救済の告知は聖書が成就する場所としてエルサレムから始まりますが、エルサレムに留まっていることはできません。それはユダヤ教の枠を超えて世界の「すべての民」に宣べ伝えられなければなりません。ルカは、この救済の告知が最初期の共同体によって、とくにパウロの働きによって担われて、ユダヤ人以外の異邦諸国民に宣べ伝えられ、さらに拡大しつつある歴史的事実を見ています。ルカはそれを神の御計画として復活者イエスの言葉の形で書きとどめます。これは、広く世界の諸国民に福音を告知することを使命として二部作を書いているルカにふさわしい箇所ということになります。ルカはこのイエスの命令の実現として、福音がエルサレムから始まり、諸国民統合の中心であるローマに到達する過程を、彼の著作の後半となる使徒言行録で描くことになります。

 「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」。(二四・四九)

 復活されたイエスは使徒たちに「あなたたちがこれらのことの証人となって」この救済の出来事を世界に告知するように命じられましたが、復活されたイエスは命令だけではなく、それを成し遂げる力を与えることも約束されます。復活されたイエスが送ると約束された「父が約束されたもの」というのは、(この箇所と同じ時期に執筆されたと考えられる)使徒言行録の並行記事からすると、「聖霊のバプテスマ」を指すことになります。その記事にはこうあります。

 「イエスは苦難を受けた後、ご自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によるバプテスマを授けられるからである」。(使徒一・三〜五)

 ここでは「父の約束されたもの」に「前にわたしから聞いた」という説明がついています。イエスが地上におられたとき、弟子たちに聖霊について語られたことを伝える語録は比較的少ないのですが、ルカはそれらの語録を聖霊を与えるとの父の約束と見なして、このような説明をつけたと見られます。とくに、求める者には必ず与えられるという約束について、マタイ(七・一一)は「・・・・・父は、求める者に良いものを与えてくださる」と書いていますが、ルカ(一一・一三)はそれを「・・・・父は、求める者に聖霊を与えてくださる」と書いて、聖霊を「父の約束されたもの」としています。聖霊が終末時の神の約束であることは、ルカに限らず福音の基本的な告知です。

 聖霊を受けることは力を受けることです(使徒一・八)。この聖霊の力がここでは「高い所からの力」と表現されています。「高い所から」すなわち神から来る聖霊の力に「覆われる」ことは、聖霊によってバプテスマされることと同じです。「バプテスマされる」とは「浸される」ことですから。最初期の共同体は、聖霊の力に満たされることを、このような様々な比喩を用いて表現しました。

 「までは」という語が示しているように、ルカは復活されたイエスに会う体験(顕現体験)と聖霊を受ける体験を別の出来事としています。しかし実際には、顕現体験、聖霊体験、召命体験の三者の関係は多様であり複雑です。そのことは別のところで扱いましたので、ここではルカの伝えるところだけを検討します。

 弟子たちはすでに復活されたイエスを見ています。しかし、まだ聖霊の力を受けていません。その力を受けるまでは証人としての働きをすることができません。ルカは、その聖霊の力を受ける出来事は五十日後のペンテコステの日のエルサレムで起こったという図式で使徒たちの働きを記述していきます。それで、そのことが起こるまでは「都にとどまっていなさい」ということになります。

 このルカの図式では、弟子たちが過越祭の後ガリラヤに戻ったという行動は入ってくる余地はありません。しかし実際は、マルコ福音書が伝えているように、弟子たちは過越祭の後ガリラヤに戻り、そこで復活されたイエスに会い、決定的な召命を体験し、ペンテコステの祭りの日までに家業と家財を捨ててエルサレムに移住してきたと見られます。出来事から百年近く後の二世紀初頭に歴史を記述しているルカにとって、このような経過の細部は問題ではなく、すべてはエルサレムで起こり、エルサレムから始まったとされることになります。


146 天に上げられる(24章50〜53節)

 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。(二四・五〇〜五一)

 五〇節と五一節を続けて読むと、復活されたイエスはベタニアの辺りで天に上げられたことになります。しかも、この出来事が前段の週の初めの日の顕現にすぐに続いて起こったような印象を受けます。しかし、この段落(五〇〜五三節)は、同じ著者(ルカ)による第二部の冒頭部(使徒言行録一章)と呼応して、第一部(福音書)と第二部(使徒言行録)を結びつける連結器の役割を果たしています。そうすると、イエスは復活後四〇日の間弟子たちに現れ、その後オリーブ山から昇天されたという第二部冒頭の記事との整合性が問題になります。両者の間の矛盾を解決するために、様々な読み方と解釈が提案されています。

 すでに古代写本の一部に「そして天に上げられた」という文を欠くものがあります。この文がなければ、この箇所は「そして、祝福しながら彼らを離れた」で終わることになります。この形であれば、次の顕現までしばらくの間弟子たちから離れておられたことになり、第二巻冒頭の「四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」(使徒一・三)やオリーブ山での昇天との矛盾は解消します。

 しかし、この最後の「そして天に上げられた」という文が初めからなかったとすることは困難です。その理由の中で決定的なものは、同じ著者のルカ自身が第二巻の冒頭で、第一巻の内容として「わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました」としていることです(使徒一・一〜二)。そうすると、第一巻の終わりに昇天の記事がなければならないことになります。そうであれば、「そして天に上げられた」という文を欠く写本は、第二巻の冒頭と矛盾を感じた後代の人が削除したということになります。底本はこの文を本文に残しています。ある翻訳は本文に残し、欄外に「この文を欠く写本もある」と注記しています(NRSVなど)。

 そうすると福音書末尾の段落(二四・五〇〜五三)は復活されたイエスの昇天を語っていることになりますが、それが使徒言行録冒頭部分(一・三〜一五)と矛盾しているように感じさせるのは、福音書末尾の記事が昇天が復活後ただちに起こったという印象を与えるからです。使徒言行録は昇天が復活の四〇日後に起こったことを明確に語っています。

 新共同訳は「そこから」という語を入れていますが、そのギリシア語原語は底本では、挿入であることを示唆する[ ]に入れられています。これは挿入として除き、訳出すべきではないと考えます。これがあるために、それが「その部屋から」と理解され、この段落の出来事が前段の続きという印象を与えています。これがなければ、この段落には時を指定する表現はなにもないのですから、これを復活後四〇日目の出来事として読むことも可能になります。ルカは第一巻の結尾の記事としては、復活後の顕現の詳細を語ることなく、昇天の事実だけを伝えて、地上のイエスの働きを伝える第一部(福音書)の結尾としたと見られます。

 なお、復活されたイエスはオリーブ山から昇天されたと広く理解されていますが、ルカの著作には(そして新約聖書のどこにも)復活されたイエスがオリーブ山から昇天されたという記事はありません。ただ、使徒言行録で昇天の出来事を語った部分の直後に「使徒たちは、オリーブ畑と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た」(使徒一・一二)とあることから、そう理解されているだけです。そうすると、ベタニアはオリーブ山を越えた(エルサレムの反対側の)山麓にある村ですから、昇天が「ベタニアの辺り」であったとしても、使徒一・一二の記事と矛盾しないことになります。
 復活されたイエスは弟子たちから離れるとき、「手を上げて祝福された」とあります。「手」は複数形ですから、イエスは両手を上げて祝福されたことになります。両手を挙げて祝福するのはユダヤ教の大祭司の動作ですが(シラ書五〇・二〇〜二一)、聖書に精通していたルカには、天に取り去られたエノクやエリヤの出来事や、創世記四九章のヤコブや申命記三三章のモーセの最後の祝福が念頭にあったのでしょう。

 彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。(二四・五二〜五三)

 弟子たちは両手を挙げて祝福される復活者イエスを「伏し拝み」ます。この動詞はユダヤ教徒が神を礼拝するときに用いる動詞であり(ヨハネ四・二一〜二四)、復活されたイエスに向けられるときは、イエスを神として拝んでいることを示しています(マタイ一四・三三、二八・一七)。ルカもここで、最初期共同体が復活者イエスを神として礼拝した事実を背景として、それがイエスの昇天のときから始まっていることを語ります。

 墓が空であることが報告されたときには、弟子たちはまだ途方に暮れていて、不安と恐れに閉じこめられていました。しかし状況は変わりました。復活されたイエスご自身が繰り返し弟子たちに現れ、弟子たちに聖書の真理を解き明かされたので、弟子たちは神がイエスを復活させて義としておられることを覚り、「大きな喜びをもって」、イエスが指示された通りエルサレムに戻り、このような人の思いを超える大きな働きをされる神をほめたたえます。

 エルサレムに戻った弟子たちは「絶えず神殿の境内にいて」神をほめたたえていたとされていますが、これは最初期の福音活動がユダヤ教の中心部から始まったことを物語っています。実際は泊まっていた家は別にあったようですが(使徒一・一三)、昼間は神殿の境内でユダヤ教徒としての生活を忠実に送っていたようです。
 このようにルカは、復活されたイエスの昇天を告知することで、第一部である福音書の結びとします。

 


     前章に戻る       次章に進む  

ルカ福音書目次に戻る     総目次に戻る