マタイによる福音書 7

恩恵の逆説

 ― 御国の福音(6) ―





 義のために迫害される者

 義のために迫害される人々は、幸いである、
  天の国はその人たちのものである。

(五章一〇節)

迫害についてのイエスの語録

 この「幸いの言葉」は、内容から見ると、すぐ後に続く一一節から一二節の「イエスの語録」と同じです。迫害についてのイエスの語録を、マタイが「幸いの言葉」の形式にして、一連の「幸いの言葉」の結びにしたと見られます。それで、ここではまず迫害についてのイエスの語録を見ることにします。

 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。

(五章一一〜一二節)

 最初の「マタイ福音書の成立」のところで見ましたように、この福音書を生みだした教会(便宜上「マタイの教会」と呼びます)は、もともと「イエスの語録集Q」を自分たちの信仰の拠り所として奉じるユダヤ人信徒の群れでした。イエスの弟子であることを言い表し、イエスの教えに従って新しい生き方を目指したこのユダヤ人の宗団(Q宗団)は、周囲の正統派(おもにファリサイ派)ユダヤ教徒から白眼視され、迫害されてきました。この迫害という状況の中で、彼らの福音書である「イエスの語録集Q」も、時と共に(この語録集は数段階の編集過程を経て七〇年前後に成立したと見られます)、正統派ユダヤ教(事実上はファリサイ派ユダヤ教)に対する批判と対決姿勢を強めていきます。

 迫害される弟子たちに語られたイエスの言葉が、「イエスの語録集Q」に伝えられており、それをルカも使用していますので、ルカのテキストと比べることで、マタイの特徴を見ることにしましょう。ルカ福音書六章二二〜二三節に、この語録はこのように引用されています。

 人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。

 「人々に憎まれる」というのは一般的な表現ですが、「人の子のために」に受けるとされている「追い出され、ののしられ、汚名を着せられる」という三つの動詞は、ユダヤ教会堂で用いられた特殊な表現です。その三つは、イエスを「人の子」と告白する者に対するユダヤ人会堂の厳しい態度を示しています。「追い出される」は会堂からの追放処分(破門)を受けることです。「ののしられる」は、預言者の受ける定めとして旧約に定着した表現で、社会全体から悪罵を浴びせられることです(戦争中の日本での「国賊」呼ばわりを想像すれば理解しやすいでしょう)。さらに、「汚名を着せられる」は、直訳すると「あなたがたの名が汚れたものとして(会堂とかユダヤ人社会から)投げ出される」こと、すなわちこれも会堂からの追放処分を指す表現です。イエスを終末的救済者「人の子」と言い表す者は、所属するユダヤ人会堂から追放されたのです。これはユダヤ人にとって社会から抹殺されることを意味し、殺されるのと同じくらいの激しい迫害であったのです。ルカのテキストは、Q宗団の人々が周囲の正統派ユダヤ人たちから受けた迫害の状況の中で成立した「イエスの語録集」の用語を、かなり正確に伝えていると見られます。

 それに対して、マタイは表現を一般化しています。比較的一般的な意味で使える「ののしられる」は保存されていますが、「追い出される」とか「名が汚れたものとして投げ出される」というユダヤ教会堂の専門用語は、「迫害される」とか「偽ってさまざまな悪口を言われる」というような一般的な表現に変えられています。さらに、「人の子のために」という句が「わたしのために」になっています。これも、ユダヤ教内部での論争点を、どこででもイエスを信じることによって生じる一般的な問題にしています。

 このようにマタイが、資料として用いた「イエスの語録集Q」のユダヤ教的表現を一般化したのは、マタイが福音書を書いた時の状況に促された結果であると見られます。マタイがこの福音書を書いた時(おそらく八〇年代)には、すでにエルサレム神殿は破壊され(七〇年)、多くのユダヤ人がユダヤ戦争の戦火を逃れてパレスチナの外に移住していきました。マタイの教会も、このようなユダヤ人を多く含む、シリアのどこかの異邦都市(おそらくアンティオキア)に成立したユダヤ人教会だったと考えられます。彼らが受けた迫害はもはやユダヤ教会堂からのものではなく、周囲の異邦人社会からの無理解や嘲笑になっていたのでしょう。それに、「マタイ福音書の成立」のところで見ましたように、マタイは異邦人伝道に乗り出す決意でこの福音書を書いています。マタイは迫害の問題を異邦人社会での一般的な問題として取り上げなければならなかったのです。

 Q宗団のユダヤ人信徒は会堂から追放されるというような激しい迫害に直面したわけですが、Q資料のイエスはそのような弟子たちに言われるのです。「あなたがたが人の子を言い表すことによって会堂から追い出されるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天における報いは大きい」。会堂から追い出される日は、天(御国)に迎えられる日であり、天での大きな報いが確かになるのです。こんな幸いなことがあろうか。この日には、喜び踊らないではおれないではないか、と言うのです。マタイはこのイエスの言葉を一般化して、どのような形の迫害であれ、イエスのために苦しみを受けるときには大いに喜びなさいと勧めるのです。

 「迫害される者は幸いだ!」。これは逆説です。それは天(御国)の現実に生きる者だけが体験できる逆説です。マタイは「幸いの言葉」を知恵の訓戒とすることによって、本来のイエスの言葉の逆説の鋭さを鈍くする傾向がありましたが、最後にイエスの言葉の逆説を回復する形で、一連の「幸いの言葉」を締めくくります。

 なお、この逆説の範例として「預言者」のことが付け加えられていますが、ここでもマタイはルカと微妙に違っています。ルカは「この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである」と書いています。「この人々の先祖」というのは、イエスを信じる者を会堂から追い出しているユダヤ人たちの先祖、すなわち旧約聖書の時代のイスラエルの民であり、「預言者」というのは民から苦しめられた旧約聖書の預言者たちを指しています。ここでもルカは、ユダヤ教内の論争を伝えるQ資料を忠実に引用していると考えられます。ところが、マタイは「彼らはあなたがたの前の預言者たちを迫害したのである」と書いています。預言者を迫害しているのは「先祖」ではなく「彼ら」、すなわち今「あなたがたを迫害している」人たちです。それに、「預言者」も「あなたがたの前の預言者たち」です。この表現は昔の預言者を指す可能性もありますが、むしろ「あなたがたの直前の(または面前の)預言者」と理解する方が自然です。Q宗団では巡回預言者がイエスの言葉を教え、信徒の指導に当たっていました。このような指導者がまず最初に迫害の目標にされるのはよくあることです。マタイはQ宗団の苦難の歴史を回顧して、指導者である「預言者たち」(その先頭にイエスがおられます)を、受ける迫害を喜びとする範例としてあげたと見ることができます。

義のために迫害される者

 このように語録集に伝えられている迫害についてのイエスの言葉を、マタイは「幸いの言葉」の形式にして、一連の「幸いの言葉」の締めくくりとして最期に置きます。そのさい、イエスが弟子たちに「あなたがたは幸いである」と二人称で語られた言葉は、「その人たちは幸いである」と三人称に変えられます。これは「幸いの言葉」の形に合わせるための形式上の変更です。また、「天における報いは大きい」という句は、「天の国はその人たちのものである」という第一の「幸いの言葉」と同じ表現に変えられて、一連の「幸いの言葉」の枠を形成するようにされています。このように形式や表現は変わっても内容は同じですが、内容の上で重要な変更が加えられている点が一つあります。それは、「人の子のために」(Q資料およびルカ)とか「わたしのために」(マタイ)という句が、「義のために」という表現に変えられている点です。
 マタイがいかに「義」《ディカイオシュネー》を重視したか、また、マタイにとって「義」《ディカイオシュネー》とは何かについては、「義に飢え渇く者」の幸いを語る第四の「幸いの言葉」の講解のところでやや詳しく説明しました。そこでも、「飢えている者は幸いである」という語録資料の言葉に「義」を加えて、「義に飢え渇く者」としたのはマタイでした。こうして、前半部の最後(第四の言葉)と後半部の最後(第八の言葉)に「義」を置くことによって、マタイは前半と後半の二つの部分を「義」という観念で結びつけるのです。マタイはこの一連の「幸いの言葉」を「義」という観念で貫くのです。

 先に見ましたように、マタイにとって「義」《ディカイオシュネー》とは基本的には人間の行為とか在り方に関わるものです。神の定めにかなう行為や生き方を指す語です。第四の「幸いの言葉」では、そのような「義」《ディカイオシュネー》を実現することを熱心に追求する人たちへの約束と幸いが語られていましたが、この第八の「幸いの言葉」では、人間社会の中でこの「義」《ディカイオシュネー》を行う者の苦難と祝福が語られます。ここでは、《ディカイオシュネー》が人間の行為とか生き方を指していることが、とくに明かです。人は内面だけのことで迫害されることはないのですから、「義のために迫害される」という時の「義」は、社会の中での具体的な行為とか生き方を指していることになります。

 迫害についてのイエスの語録においては、迫害の理由は「人の子のために」あるいは「わたしのために」でした。すなわち、イエスを「人の子」と告白する、または自分をイエスの弟子と言い表すという信仰告白が理由になっていました。マタイはそれを「義のために」という形にすることで、信仰告白の必要を無視しているのではありません。むしろ、イエスの弟子であると告白することを、実際の生き方の中でイエスの教えに従うことによって具体的に示すように求めていると理解すべきでしょう。イエスの弟子であるマタイにとって、「義」とは具体的にはイエスの教えに従うことであるからです。

 「幸いの言葉」の後半部においては、人間の振る舞いが問題にされていました。人間社会においてどのように行為し、どのように生きる者が、終末の救済と栄光にあずかる幸いな者であるかが語られていました。そしてその最後に、祝福される生き方がもっとも激しい形で語られるのです。すなわち、イエスに敵対する社会の中で、イエスの弟子としてイエスの教えに従う生き方を貫く者の幸いです。そのような生き方をする者は、敵対的な周囲から迫害を受けることは避けられません。その迫害を天における報い(終末的な栄光)を確かなものにする保証として受け止めて、大いなる歓喜の中にイエスに従う生き方を貫く者の幸いが語られ、そのように生きるように励まされるのです。

 マタイはすでに、語録資料Qにある迫害についてのイエスの語録を一般化していました。すなわち、その言葉をユダヤ教の中での論争という枠組みから解放して、どのような状況においても適用される言葉に変えていました。これは、マタイの教会がユダヤ教会堂からではなく異邦人社会から迫害されるようになっていたこと、また福音を宣べ伝えることによってこれから異邦人社会との関わりに入ろうとしていたという現実にに対応するためでした。このように、すでにマタイにおいて、現実に対応するためにイエスの言葉の書き換えが行われているのです。わたしたちもイエスの言葉を、柔軟に現代社会の現実に対応して広い視野で受け止めていかなければならないでしょう。キリスト教化した諸国では、イエスの名を告白することで迫害されることはありません。しかし、真剣にイエスの言葉に従って行動しようとすると、社会から嘲笑されたりのけ者にされたりすることはあります。たとえば、無抵抗非暴力の生き方を貫くことは、現代社会においても実際にはきわめて難しいことです。現代ではむしろ、実際の行動と生きざまによって信仰を告白するという意味で、「義のために迫害される者」というマタイの定式が重要な意味をもつようになっています。どのような形での迫害も、内なる御霊の現実から溢れる喜びと希望によって担い抜いて、「義」すなわちイエスに従う生き方を貫くことが求められているのです。

 「幸いの言葉」への結び


イエスからマタイへ

 今回は、「幸いの言葉」の講解にあたって、「イエスの語録集Q」に加えられたマタイの編集の跡をやや詳しく見てきました。「語録集Q」というのは共観福音書(マルコとマタイとルカ)のテキストの比較から推定される仮説上の文書ですが、その存在は確実であることと、その基本的な内容について、研究者の間でほぼ意見の一致が見られます。それによりますと、序説の部分で述べましたように、「幸いの言葉」は語録集では次のような形であったと見られます。

 貧しい人々は幸いである、
  神の国はあなた方のものである。
 飢えている人々はさいわいである、
  あなたがたは満たされる。
 泣いている人々は幸いである、
  あなたがたは笑うようになる。

 この語録は、「語録集Q」の中でも最古層に属し、イエスが語られた元の言葉をかなり忠実に伝えていることが認められています。この語録と比べますと、マタイの「幸いの言葉」は拡大されており、用語が変えられたり、独自の言葉が加えられたりして、マタイの編集の手がかなり入っていることが認められます。その編集の仕方にマタイ独自の立場や視点が表れています。イエスの言葉からマタイのテキストに至る間に、どのような力が働いたのか、この変化をもたらした力の質や方向を確認することは、マタイ福音書の理解にとってだけでなく、イエスの福音の本来の姿を復元するためにも重要な作業だと思われます。この作業は、「幸いの言葉」だけでなくマタイ福音書全体の分析が必要ですが、今回は「幸いの言葉」の中でマタイの編集の手を確認することで、その作業の準備の一端を果たしたわけです。

 このような作業をすることは、こうして復元されたイエスの言葉だけが価値あるもので、マタイの手が加えられた編集部分は無価値なものとして放棄されなければならないと主張しているのではありません。マタイ福音書は、マタイの教会の状況においてイエスの福音がとらざるをえなかった必然的な形であり、固有の意義と価値があります。このような作業をすることは、イエスの福音からマタイ福音書に形成に至る過程で働いたさまざまな力の質や方向をすこしでも明らかにして、福音の進展におけるダイナミックス(力動関係、力学)を理解したいからです。そのダイナミックスを理解することによって、現在のわたしたちの福音理解と福音宣教の実践の道しるべとしたいからです。

 「文字は殺し、霊は生かす」と使徒パウロは言っています。たとえ聖書に書かれている言葉であっても、その文字をただおうむ返しに唱えたり、またその文字を分析して意味を解明したり、さらにまた、その文字を戒律として実行しようとしても、その言葉を生みだした生命そのものに到達することはできません。聖書に対する「文字どおり主義」は、内なる霊の躍動に外から枠をはめることによって、生命を殺す結果になってしまいます。わたしたちは聖書の文字の背後にある、その言葉を生みだした生命の力動に参与したいのです。

 イエスご自身も使徒たちも、「文字どおり主義」のユダヤ教を超えて、それぞれが置かれている現実の中で御霊の言葉を語り出していきました。わたしたちも、使徒たちがそうであったように、「キリスト・イエスにある生命の御霊の法則」に従って生き、そこから現在の状況にふさわしい新しい言葉を語り出していきたいのです。そのさい、新約聖書を生みだした御霊の力動の現実が規準となり指針となります。今回イエスからマタイへ至る「幸いの言葉」の変遷を分析したのも、わたしたちの規準となり指針となるべき新約聖書内の御霊の力動をすこしでも正確に理解したかったからです。これからも、マタイ福音書をこの原則に従って「解釈」することを努めていくつもりです。

恩恵の逆説

 さて、もう一度、さきに掲げました語録集の元のイエスの「幸いの言葉」に戻ります。この形で「幸いの言葉」を聴きますと、まず何よりもその逆説の鋭さに圧倒されます。イエスの言葉は、まるで「不幸な者は幸福だ」と言っているようです。このような逆説はどこから出てくるのでしょうか。
 マタイは、この講解で見てきましたように、「幸いの言葉」を一連の倫理的・内面的訓戒とすることで、本来のイエスの言葉がもつ逆説の鋭さをすっかり鈍くしてしまっています。しかし、その中にも保持されている逆説の一面を聞き逃すことはできません。

 ルカはこの逆説を黙示思想的な逆転の期待で説明しています。「今」のこの《アイオーン》では「貧しい者」は飢えて泣き悲しみ迫害されているが、やがて到来する《新しいアイオーン》では、今の時代に力を持って満腹し、高笑いして驕り高ぶっている「富める者」が低くされて、「貧しい者」が神の国の祝福にあずかるようになる、という逆転の期待です。イエスの「幸いの言葉」がルカ福音書ではこのような形で伝えられたという事実は、初期のキリスト教会の一部(おそらくルカ福音書成立の基盤となった小アジア、ギリシャ地域の教会)に、このような黙示思想的期待が強くあったことを示唆しています。

 しかし、元のイエスの「幸いの言葉」には黙示思想的な響きはありません。たしかに、「神の支配」という用語や、「満たされる」とか「笑う」という動詞が未来形であることなど、祝福が将来のものであることを示唆する表現があることは事実です。しかし、イエスの言葉の核心は、逆説の鋭さにあります。この逆説の内容は、「貧しい人々」という表現の意味と、「貧しい人々」に与えられた父との交わりというイエスの宣教活動全体から理解しなければなりません。最初に第一の「幸いの言葉」の講解で述べましたように、イエスの福音の核心は「恩恵の支配」の告知なのです。

 「恩恵」とは、人間の側の資格や価値とは無関係に交わりに受け入れ、よいものを与えてくださる神の愛の姿勢や働きを指します。神の律法をどれだけ守ったかが神の救いや祝福を受ける資格とされていたユダヤ教の中で、「恩恵」だけが人を神の民とするのだという「恩恵の支配」の告知は、激しい反対を引き起こしたのも当然です。「恩恵」が支配する場では、ユダヤ教での価値の物差しが逆転します。律法を遵守することができないので「罪人」と呼ばれていた人々(イエスは彼らを「貧しい人々」と呼ばれます)こそ、恩恵に頼らざるをえない人々であって、「恩恵の支配」すなわち「神の支配」を受け入れる最初の人々であり、「神の国はあなたがたのものである」という祝福を受けるのです。それに対して、律法を守っていると自負する「義人」たちは、「罪人」たちと同列に扱われることを拒み、恩恵を拒否するので、「神の国」に入ることができないのです。親鸞が「悪人正機」を唱える千年以上も前に、その真理がイエスのこの逆説によって告知されたのです。「幸いの言葉」の逆説は、「恩恵の支配」の告知がとらざるをえない表現なのです。


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