マタイによる福音書 10

しかしわたしは言う

 ― 御国の福音(9) ―





 対立命題


モーセ律法を超えて

 前置きに当たる箇所(五章一七〜二〇節)で、イエスの弟子に「ファリサイ派の人々にまさる義」を求めたマタイは、その義がどのようなものであるかを、以下の「山上の説教」全体で示そうとします。そして、まず中核部とも言うべき箇所(五章二一〜四八節)で、六つの「対立命題」という形で「ファリサイ派にまさる義」を提示します。
 「対立命題」(アンティテーゼ)というのは、まず(言葉遣いは六つの場合少しずつ違っていますが)「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は……と命じられている」という形で、ファリサイ派が代表するユダヤ教の旧い義の規準が提示され、それと対立する形で「しかし、わたしはあなたがたに言う」という言葉で導入される命題によって、イエスの弟子に求められる新しい義の規準が提示される形式のことです。「対置命題」と呼んだ方が分かりやすいかもしれません。

 「(昔の人は)……と命じられている」という受動態を能動態で表現すると、「神が(昔の人にモーセを通して)……と命じておられる」となります。それと対置してイエスは「しかし、わたしはあなたがたに言う」と言われるのです。これは自分の発言を、神がモーセによって語られた(とされる)戒律命令と同列に置くか、それ以上のものとすることで、ユダヤ教では前代未聞のことです。

 しかもその内容を見ますと、「対立命題」の第一と第二はモーセ律法の戒めを深化または尖鋭化していると理解できますが、第三以下のものはモーセ律法とは別の生き方を命じている、すなわちモーセ律法を無効にして別の戒めを与えているとも理解できます。このような発言をする方はいったい誰かという問いが真剣な問題になります。

 「対立命題」という形式に構成したのはマタイであると考えられますが、その背後にはイエスご自身の言葉があります。イエスは重要な発言をされるときに繰り返しこう言っておられます。

「アーメン、わたしはあなたがたに言う」。

 この発言では「わたし」が強調されています。イエスが活動されたユダヤ教世界を背景としてこの言葉を聴くとき、直接言及されてはいませんが、この発言はモーセの律法に対置して、新しい別の啓示の言葉を導入していることになります。イエスのこの発言は、モーセ律法が支配する時代に代わる新しい時代の始まりを宣言しているのです。マタイが「アーメン」を「しかし」に変えて「対立命題」という形に構成するとき、イエスの発言のこの隠された意味を明らかにしているのだとも言えます。

 では、一見モーセ律法を(少なくとも一部は)廃していると見えるイエスの教えを、なお「律法を廃するのではなく完成する」ものとするマタイの宣言はどう理解すべきか、これが「対立命題」理解の課題となります。

対立命題理解の視点

 さて、ここに挙げられている六つの「対立命題」の主題は次の通りです。

 一 殺人(二一〜二六節)
 二 姦淫(二七〜三〇節)
 三 離婚(三一〜三二節)
 四 誓い(三三〜三七節)
 五 復讐(三八〜四二節)
 六 愛敵(四三〜四八節)


 こうして並べて見るとすぐ分かるように、この六つの主題は人生の代表的な重要問題ですが、すべてを尽くしているのではありません。マタイはここで、人生のすべての局面にわたって適用される行動規準として、旧い律法に代わって新しい律法を公布しようとしているのではありません。マタイはここで、旧い義に対して新しい義の性質がどのようなものであるかを示そうとしているのです。それを六つの代表的な事例で示そうとするのです。その中でもとくに最後の「敵を愛しなさい」という教えは、新しい義の内容を最も直接的に示す典型的な場合であると思います。そして、敵を愛する根拠としてその段落の最後にあげられている次のイエスの言葉は、六つの「対立命題」の段落の頂点をなすとともに、それによってマタイが示そうとしている新しい義の内容そのものであり、その義が成立する根拠をも指し示しています。

「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」。

(五・四八)

 この御言葉については先に「幸いの言葉」の講解で触れましたが、「対立命題」の理解のために重要ですので、繰り返しになりますがここでもう一度取り上げます。

 マタイの「山上の説教」に相当するルカ福音書の「平地の説教」では、「幸いの言葉」のすぐ後に、複数の「対立命題」ではなく、「敵を愛しなさい」という一つの段落だけが来ます(ルカ六・二七〜三六)。その段落は「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」という主題提示で始まり、奪う者から取り返すなとか、返してもらうことを当てにしないで貸しなさいという具体的な教えが続き、「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」という結びの言葉で終わります。

 マタイと比べて、「幸いの言葉」のすぐ後に「敵を愛しなさい」という御言葉だけを置くルカの構成の方が、元の「語録資料Q」の形に近いと考えられます。この段落の御言葉は、その内容も表現もイエスの宣教の独自性をもっとも強く示しており、聴く者に圧倒的な印象を刻み込む性質のものです。それで、イエスの御言葉が語り伝えられ「語録資料」としてまとめられるとき、イエスの強烈な福音宣言である「幸いの言葉」の直後に、これがイエスの教えだとして、まず最初に置かれたと推定されます。ルカは比較的忠実にこの「語録資料」の構成に従って自分の福音書を書いたと考えられます。

 それに対してマタイは、この愛敵の御言葉に圧倒されながらも、それによってイエスが示される新しい義を六つの「対立命題」という形に再構成して提示します。マタイがこのように新しい義をユダヤ教の旧い義と対比する形で示さなければならなかったのは、自らファリサイ派的な背景をもつ律法学者として、敵対するユダヤ教陣営と戦い、同時にイエスの宣教を律法の完成として身内のユダヤ人信徒に示そうとするマタイの執筆事情からして十分理解できます。「対立命題」という形がマタイから出たものでるという理解は、個々の「対立命題」の解釈は、あくまで「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」というイエスの根本精神によってなされなければならないこと、すなわち後に詳しく見るように「恩恵の支配」の場で解釈されなければならないことをわたしたちに指し示しています。

 さて、問題の「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」というマタイの言葉を、同じ文脈に置かれているルカの言葉、「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」と比べますと、文章の形は同じですが、ルカの「憐れみ深い」という形容詞がマタイでは「完全な」になっていることが目立ちます。この言葉に先行する部分の結びの言葉として読むとき、「憐れみ深い者であれ」というルカの表現の方が自然に続きます。それに、マタイが「完全な者になれ」と言い換えたことは、以下に述べるようにマタイが「対立命題」という形でイエスの教えを再構成したことの結果として十分説明ができますので、ルカの形が元の「語録資料Q」の用語に忠実であり、イエスの本来の言葉に近いと判断できます。

 マタイはイエスの愛敵の精神を六つの「対立命題」に敷延展開しました。その結果、その頂点として最後に置いた愛敵の教えのまとめの言葉が、同時に六つの「対立命題」全体の結論となります。それで、「憐れみ深い」という人間の心の一面だけを指すと理解される可能性のある表現よりも、律法の完成を表現する言葉として、またファリサイ派にまさる義を指し示す言葉として、「完全な」という言葉を選んだと考えれます。しかし、「憐れみ深い者であれ」というきわめて特色のあるイエスの言葉を放棄することはできません。それで、マタイはそれを「幸いの言葉」の一つとして取り入れ、「憐れみ深い者は幸いである」という形で、憐れみ深くあることを説き勧めるイエスの言葉を保存するのです。

完全な者

 さて、イエスがわたしたちに「憐れみ深い者であれ」と求められるとき、「あなたがたの父が憐れみ深いように」という事実が先行します。そして、父が憐れみ深い方であることは、先行するきわめて印象深い言葉で語られています。

「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」。

(五・四五)

 ルカはこれに相当する箇所で、「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである」(ルカ六・三五)と書いていますが、これは意味内容は同じですが、表現がやや一般化されており、抽象的になっています。この語録に関しては、ルカよりマタイの方がイエスの具体的な語り口をよく伝えていると考えられます。

 太陽が昇り雨が降るという自然現象は誰もが日常見ています。ところが、イエスはそれを父の完全さを指し示すしるしとされるのです。同じ現象を見ていながら、わたしたちはそれを単なる自然現象として見ていますが、イエスはそれを霊の次元の現実を指し示すしるしとされるのです。それは、イエスがその現象が指し示す霊の現実、すなわち父の絶対無条件の恩恵の中に生きておられるからです。

 このようなつながりからして、マタイが用いている「完全」という用語の意味は、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」というイエスの言葉がし示している内容、すなわち「絶対」の意味に理解しなければならないことが分かります。ここで「絶対」というのは「相手に絶する」という意味です。相手が自分に対して善人であるか悪人であるか、自分の仲間であるかないか、正しい者か正しくない者か、恩を知る者か知らない者か、好意を持つ者か悪意を持つ者か、そのような相手の在り方とか出方に絶して(無関係に)、こちらからは善だけをもって対することです。「絶対の善」という意味で「完善」と言った方が分かりやすいかもしれません。

 「絶対」は「相対」の反対です。ふつうわたしたちは相手の在り方とか出方に相応した態度で、相手に対します。善いことをしてくれる相手には善いことをし、悪いことをする相手には悪を報いるという「相対」の原理で対しています(五・四六〜四七)。そのようなわたしたちに、イエスは父が「絶対」であるように、「絶対」の善ないし愛を求められるのです。その絶対の善とか愛の究極の形、もっとも具体的な形が「敵を愛する」ことです。敵とは明白な悪意をもって対してくる相手です。その敵を愛し善をもって対するのです。

 敵を愛するというようなことは、人間にできることでしょうか。そうです。それは人間にはできないことです。人間にできないことを、イエスは父の絶対性の中に、すなわち絶対無条件の恩恵の支配の中に包み込んでしまわれるのです。父は敵対するわたしたちを愛し、いかなる資格もないわたしたちを無条件に受け入れ、子としてくださっているのです。この父の愛から出る無条件絶対の恩恵によってわたしたちは生きているのです。そのような恩恵が支配する場では、そこに生きる者、いやそこにしか生きられない者は、同じ無条件絶対の愛に生きるほかはないのです。絶対の恩恵が圧倒している場では、敵を愛することはできるかできないかという問題は吹き飛んでしまっています。

 イエスがそこに生き宣べ伝えられるのは、このような恩恵の支配です。敵を愛しなさいという言葉は、その恩恵の支配の一つの表現に他なりません。他の「対立命題」も同じように、イエスが宣べ伝えられる恩恵の支配の表現として理解しなければならないのです。

和解の場

「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない」。

(五章 二一〜二六節)

 この段落には三つの主題が集められています。

 一 怒り・罵りへの裁き 二一〜二二節
 二 供え物の前の和解  二三〜二四節
 三 裁判の前の和解   二五〜二六節


 ここでは個々の主題を正確に理解すると共に、全体の内的関連と統一を理解するようにしなければなりません。

怒り・罵りへの裁き

「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている」。

(二一節)

 「殺すな」という命令はモーセの「十戒」の中の一つで、もっとも基本的な神の戒めです。これは人間にとって根本律であって、どの民族の宗教でも、どの国の法律でも、この戒めを根本に据えないものはありません。この根本律を犯す者は、「裁きを受けて」その民から排除されるのです。そのことはイスラエルの律法ではこう規定されていました。

「人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられる」。

(出エジプト記二一・一二)

 過失によって人を殺した者については、被害者の近親者による「血の復讐」から守るために、「逃れの町」の制度が定められていました(民数記三五・九〜二九)。しかし、故意の殺人者は「殺害者」として必ず処刑されなければなりませんでした(民数記三五・一六〜一九)。これがモーセ律法の定めです。

 この定めはどの国の刑法とも同じ次元のものですが、イスラエルにおいて「裁きを受ける」と言うときには、神の裁きを受けて滅びに定められるという面があります。故意に人を殺す者は、神の裁きにより神の民から断たれ、滅びに定められるのです。刑法による処刑は、神の民から断たれることの目に見える形でした。

「しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」。

(二二節a)

 それに対して、イエスは「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」と言われます。故意に人を殺す者だけでなく、兄弟に「腹を立てる」者はだれでも「裁きを受ける」のです。この場合の「裁きを受ける」は、刑法の判決処刑ではなく、神の裁きによって神の民から断たれることです。人を殺す者が神の民から断たれるのは、すでにモーセ律法も明確にしています。今イエスはモーセ律法を超える別の「神の支配」を宣言されるのです。人を殺す者だけでなく、兄弟に「腹を立てる」者も同様に、神の民から断たれると宣言されるのです。

 この箇所(二二〜二四節)には「兄弟」という用語が繰り返し使われています。この語はすでに旧約聖書とユダヤ教において、普通の肉親の兄弟より広い範囲の人間関係を指すのに用いられています。共通の先祖から出た子孫として、同じ部族の者が「兄弟」と呼ばれ、されに広くイスラエルに属する者がこの語で呼ばれています。それでこの語は、イスラエルの民の内部という限度内ではありますが、広く「隣人」の意味でも用いられるようになっていました。また、イスラエルの中に特定の信条を持つ宗団が形成されたときには、「兄弟たち」という複数形は同じ信仰の仲間を指し、「兄弟」は同じ信仰共同体の構成員を指す場合もありました。エッセネ派の死海文書も、「兄弟」という語を自分たちの共同体のメンバーを指す用語として使っています。マタイが資料として用いた「語録資料Q」も、仲間を「兄弟」と呼んでいます。

 このように旧約聖書やユダヤ教の「兄弟」という用語に親しんできたユダヤ人信徒たちは、イエスが自分の言葉を聴いて従う者を自分の「兄弟」と呼ばれた(マルコ三・三一〜三五)こともあって、イエスを信じる仲間を自然に「兄弟」と呼び合ったと考えられます。そして、多くの異邦人がイエスを信じる交わりに入ってきたとき、この語はユダヤ人という民族の枠を超えて、同じ信仰に生きる仲間、すなわちキリスト教共同体の構成員を広く指す用語になっていったのでした。パウロはその手紙の中で、信仰の仲間に呼びかける時もっぱらこの「兄弟」という語を用いています。

 マタイがこの箇所で「兄弟」という語を用いるとき、どのレベルの意味で用いているのかは議論の余地があるかもしれません。たとえば、マタイは自分の教会の中での交わりの在り方を念頭において「兄弟」という語を用いている可能性も否定できません。しかし、「対立命題」を今われわれの問題として理解しようとする視点からは、もっとも広い「隣人」という意味、すなわち今何らかの関わりにある相手という意味で理解しておけばよいのではないかと思います。

 「腹を立てる」と訳されている動詞《オルギゾマイ》は、《オルゲー》(怒り)から出た動詞です。兄弟に向かって怒りの心をもって対することです。実際に人を殺すとか傷を負わせる行為に出なくても、心の内に怒りをもつときは、イエスが宣べ伝えられる「神の支配」では「裁きを受ける」のです。この場合の「怒り」は、憎悪や嫉妬なども含め、相手に対する敵意全般を意味すると理解すべきでしょう。この「対立命題」においては、実際の行動だけでなく、その行動の源になる人間の内面の姿が問題にされていることは明かです。

 では、イエスのお言葉は、行動を問題にするモーセ律法に対して、心という人間の内面の在り方を問題にする倫理を対置しているのでしょうか。もしイエスの言葉が倫理の内面化の提唱というだけであれば、それは様々な国の多くの賢者も主張していることであって、とくに新しいものではありません。イスラエルにおいても、知恵文学やラビの訓戒の中に、よく似た言葉が多く伝えられています。二つだけ例をあげますと、ラビのエリエゼル・ベン・ヒュルカノスの言葉として、「自分の隣人を憎む者は、見よ、その者は血を流す者に属する」という文が伝えられており、また、スラブ語エノク書(四四・二)には、「だれにであれ、害は及ぼさないものの、怒りを加える者は、その者を主の怒りが刈り取るであろう」と書かれています。

 たしかに、この「対立命題」のお言葉を全体から切り離して観察しますと、倫理の内面化を提唱しているだけで、イスラエルの賢者や他国の知者と同じように見えます。しかし、先に見ましたように、個々の「対立命題」は愛敵の教えに具体化する「恩恵の支配」の視点から理解されなければなりません。この「兄弟に対して怒る者は裁きを受ける」というお言葉も、「恩恵の支配」の一つの具体例として見ますと、その意味を正しく位置づけることができると思います。

 自らは神の前に立つ資格も功績も何もない者として、ひたすら神の無条件絶対の恩恵に身を投げ入れて生きるしかない者が、もし同じ神の恩恵によって生きている隣人に向かって怒りの心を燃やすならば、それは自分を価値の規準にして、自分を裁く者の立場に置いていることになります。それは、仲間を赦さない家臣のたとえ(マタイ一八章)が語っているように、自分自身を神の無条件絶対の恩恵の支配から追い出すことです。そのように恩恵の支配から追い出される事態を、イエスは対立を際だたせるためにモーセ律法と同じ用語を用いて、「裁きを受ける」と表現されるのです。

「兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」。

(二二節b)

 「ばか」と「愚か者」という罵りの言葉を、原語に遡って違いを詮索し、罪深さの程度の違いを考えることは意味がないでしょう。両方とも相手に対する侮蔑の心から出る言葉であって、それを発する者の心の傲慢を暴露しています。このような罵りの言葉は、相手の価値と存在を認めない独りよがりの高慢に他なりません。このような傲慢は、事情によっては相手を抹殺する非人間的な行動にもなるのです。

 このような傲慢は恩恵の支配とは両立しません。厳しく排除されざるをえません。その排除の厳しさが「最高法院に引き渡される」とか「火の地獄に投げ込まれる」という表現になります。

 「裁きを受ける」の「裁き《クリシス》」を地方の法院(裁判所)と解釈し(これは不可能ではありませんが無理があります)、地方法院、地上の最高裁判所である最高法院、神の審判である地獄、というように裁きのレベルがだんだんと上がっていくと解釈することは、怒りと二つの罵りの言葉には罪深さの程度に質的な違いがあるとは認められませんから無理でしょう。むしろ、「最高法院」とか「火の地獄」という表現は、「裁きを受ける」ということを具体的に強烈に印象づけるために、ユダヤ人読者に馴染み深い表現を使用したものと見られます。

 怒り、憎悪、嫉妬、軽蔑、傲慢などは、人間が自己を価値の規準として相手の価値と存在を否定する在り方から出る心の姿です。このような在り方は恩恵の支配の場ではありえないものとして厳しく排除されるのです。この第一の「対立命題」は、たんなる倫理の内面化ではなく、「恩恵の支配」の告知の一つの形なのです。

恩恵の場での和解

「だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい」。

(二三〜二四節)

 この語録はマルコにも「語録資料Q」にもなく、マタイだけが持っていた特殊資料から採られたものです。神殿祭儀が前提されていることから、これは七十年より前に遡る古い伝承であることがうかがわれます。さらに、意表を突くような具体的な語り方は、イエスの口から出た言葉であることを感じさせます。

 この文は「だから」という語で先行する「対立命題」と結び付けられています。兄弟に対して怒りの心をもって対することが裁きをうけるのですから、兄弟といつもよい関係を維持していなくてなりません。関係が悪化して、兄弟に対して怒り立腹するような状況では、神に受け入れられることはできないからです。

 ところで、自分が兄弟に対して怒りの心で対するだけでなく、相手が自分に「反感を持っている」場合も、よい関係を維持することはできません。その反感の原因が何であれ、兄弟との関係が敵対関係にあるままでは、祭壇に供え物を献げても神に受け入れていただくことはできない、というのです。その時には祭壇の前から立ち去って、まず敵対関係になった原因を取り除く努力をして兄弟と仲直りし、それから帰って来て供え物を献げ物をしなさい、というのです。

 このお言葉は、隣人との関わりが神との関わりと不可分の関係にあることを示しています。隣人と敵対関係にあるままでは、神への賛美とか祈りの献げ物は成り立ちません。それは、献げ物をする者、祈る者が、祈りが成り立つ場である恩恵の場にいないからです。

 そもそも祈りは人間が、これだけの献げ物をしましたとか、これだけの善行をしましたというような自分の功績とか資格をに基づいて神に要求することではありません。要求する資格は何もない者が、神の無条件の恩恵に自分を委ねる行為が祈りです。祈りは恩恵の場において初めて成り立つのです。ところが、わたしたちが隣人と敵対関係にある場合には、その原因がどちらにあるにせよ、自分の価値に基づいて相手と対立し否定しているのですから、恩恵の場とは違います。恩恵の場に生きる者は、自分をゼロとする立場で相手を無条件に受け入れるのです。それが受動的には「赦し」となり、能動的には「愛敵」となって現れるのです。ですから、イエスは祈るときに人を赦すことを求められるのです(マルコ一一・二五、マタイ六・一四〜一五)。それは恩恵の場で祈ることを教えておられるのです。

 そうすると、ここで献げ物よりも「まず」先に兄弟と仲直りをするようにと求められるのも、自分の価値や功績に立つ場ではなく、恩恵の場で祈るように教えておられるのであることが分かります。

「あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない」。

(二五〜二六節)

 兄弟と「仲直り」をするようにとのお言葉に引き寄せられて、マタイは訴える者と「和解」するようにとのお言葉を続けます。しかし、このお言葉は本来終末的な最後の審判を前にして、それまでに神との和解をするように呼びかける宣教の言葉であったと考えられます。「クァドランス」というのはローマの青銅貨で、現在の日本の通貨でいえば百円玉くらいの価値の少額硬貨です。「最後の一クァドランスを返すまで」獄から出ることができないというのは、人間が罪の責任を自分でとらなければならない時の、神の裁きの厳しさを表現しています。

 もし和解しないままで神の終末審判の場に引き出されるならば、わたしたちは誰ひとり負債をすべて払いきることができる者はいないのですから、永遠の滅びに定められてしまいます(マタイ一八・二五、三四参照)。だから「途中で」、すなわち最後の裁きの時が来るまでに、提供されている神の和解を受けるようにとの呼びかけです。それは、用語や形式は違いますが、パウロが次のように呼びかけているのと同じです。

「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧められておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい」。

(コリントII五・一八〜二〇)

 この二五〜二六節の言葉は「語録資料Q」に含まれており、ルカはそれを時代の徴を見分け、時をわきまえるようにとのお言葉の直後に置いて、明らかに終末的な審判の告知と和解の勧めの言葉としています(ルカ一二・五四〜五九)。これが「語録資料Q」での本来の文脈であったと見られます。マタイはこの和解の勧めの言葉をこの位置に置くことによって、供え物よりも先に兄弟と仲直りをする必要性を根拠づけ、さらに強調する言葉とするのです。

 こうして見てきますと、三つの主題を含むこの段落は、恩恵の場における和解によって敵意そのものを滅ぼし、そうすることで「殺すな」という律法の下に成り立つ義よりもはるかに勝る義を提示しているわけです。


前講に戻る    次講に進む

目次に戻る   総目次に戻る