パウロ以後のキリストの福音


第一章 ヘレニズム世界における福音

                    ―― コロサイ書におけるキリスト ――

(本章で書名のない引用箇所はすべてコロサイ書の章節をさします。)



        第一節 コロサイ書の成立

著者問題

  パウロ系集会の中心地となったアジア州で生み出された「パウロの名による書簡」に、コロサイ書とエフェソ書があります。この両書には共通点が多く、強い依存関係が推定されます。おそらくエフェソ書がコロサイ書を拠り所にして書かれていると見られますので(その理由はエフェソ書を扱う時に触れます)、まずコロサイ書を取り上げます。
 コロサイ書はパウロの名によって書かれていますが、用語と文体、および思想内容からして、パウロ自身の手になるものと受け取ることが困難です。その理由は次の三つにまとめられます。

1 用語と文体
 用語については、他のパウロ書簡に用いられていない用語が87語に達しますが、これは決定的な理由になりません。ほぼ同じ長さのフィリピ書にもこのような他のパウロ書簡に出てこない用語が76語あるからです。しかし、文体を見ますと、パウロ書簡と同一の人物の手になる文章とは考えられません。パウロはきわめて単純で直截な文体で口述していますが、本書の文体は同じ意味の語を重ねて用いるとか、関係代名詞や分詞構文を多用して、長くて複雑な構文の文章を連ねています。訳文は短い文に区切って訳していますから、パウロの真筆の書簡との文体の違いがよく分かりませんが、原文で読むとパウロ書簡とは別の世界に入っているという印象をぬぐい去ることはできません。この違いは、獄中とかの事情の相違によって説明することはできません。

2 思想内容
 本書は、基本的にはパウロの福音理解を忠実に継承していますが、子細に見ると、パウロであればそのようには語らないであろうと考えられる仕方で福音を語っています。その違いはコロサイ書の内容そのものをまとめることになりますから、訳文につけた略解と、後述の「コロサイ書におけるキリスト」の項で詳しく取り扱うことになりますが、ここでは本書の福音理解がパウロ自身のものとは微妙な点で違っており、それは状況の違いから説明できる限度を超えているので、思想内容からも本書をパウロ自身の著作ではないと判断せざるをえないことを指摘しておきます。

3 パウロの使徒性についての理解
 本書はパウロをほとんど唯一の使徒として扱っており、パウロ自身はその書簡で自分を多くの使徒の中の一人としているのと違っています。また、使徒としてのパウロが受ける苦難を、「キリストのからだである御民のために、キリストの苦しみの不足分をわたしの肉体において満たしている」(一・二四)と身代わり的に意義づけるのは、パウロ自身が苦難について語るところ(たとえばコリントU四・八〜一三)と違います。 本書のパウロについての記述は、パウロの没後、パウロの忠実な後継者が師パウロの使徒としての意義を語っていることを示唆しています。

 以上の三点を総合すると、本書はパウロの後継者が、自分たちの状況(後述)に迫られて、パウロから受け継いだ信仰を確立するために、パウロの名によって(パウロの権威を後ろ盾にして)書いた文書であると判断せざるをえません。
 そうすると、本書に出てくる人名(その多くはフィレモン書の人名と重なっています)は、著者が自分の著述に使徒パウロの権威を持たせるために、手元に持っている資料を用いたと見ることになります。このような立場で本書を書くことができる人物として、テモテ(EKK)やエパフラスなどが想定されていますが、確定することはできません。

成立事情

 では、このコロサイ書はどのような状況の中で書かれたのでしょうか。
 本書の内容からすると、コロサイの集会に著者が言う「人間の言い伝えに基づく哲学、すなわち空しい欺瞞」の教えが出てきたために、その誤りを示して、信徒たちがその誤りの「哲学」に捕らわれることなく、「キリストにあって根を下ろして築き上げられ、教えられた通りに信仰によって堅くされ、溢れるばかりに感謝して、キリストにあって歩む」ようになるために書かれました(二・六〜七)。このような誤った教えが現れるのは、パウロの存命中であることも不可能ではありませんが、やはりある程度の期間が経ってからと見るのが自然で、80年代と見る研究者が多いようです。
 本書がコロサイとその近隣の都市ラオディキアとヒエラポリスの名をあげているところから、エフェソを中心とするパウロの活動圏で成立したことはほぼ確実と見られます。パウロはアジア州の州都エフェソに二年余り滞在して福音を宣べ伝えましたが、その周辺都市には協力者たちを派遣して福音を伝えました。ここに名をあげられている都市はエパフラスの活躍によってキリストの民の集会が形成されました。本書が、このようにして成立したパウロ系の共同体の中で成立したことは、本書に出てくる地名からだけではなく、人名からも確認できます。
 この事実は逆に、コロサイ書がパウロ亡き後の(エフェソを中心とする)パウロ系共同体の様子を垣間見させてくれることを意味しています。以下、コロサイ書の翻訳を掲げる前に、コロサイ書によって、パウロ以後のパウロ共同体がどのような問題に直面し、そこでパウロの福音がどのように展開したかを、ごく簡単にまとめておきましょう。


コロサイの「哲学」

 著者が「人間の言い伝えに基づく哲学、すなわち空しい欺瞞」と呼ぶ教えとはどのような教えであったのか、正確に知ることはできませんが、本書に語られている警告からある程度推察することができます。その特色を上げると ――

1 特別な形の祭儀への参加を要求する
 偽りの教えの教師たちは、特別な暦による「祭りや新月や安息日への参加」を要求し、「自己卑下と天使礼拝を好む者たち」とされています(二・一六〜一八)。ここの「天使の礼拝」が何を意味しいるのか、「天使を礼拝すること」なのか、「天使がしている礼拝」のことなのか、解釈が争われています。また、「参入して見たもの」という句も、密儀宗教の用語であるのか黙示思想の用語であるのかが争われています。しかし、特殊な祭儀とか儀礼への参加が魂の救済に必要であるとされていたことがうかがわれます。
 
2 禁欲的な戒律の順守を要求する
 「近づくな。味わうな。触れるな」などという戒律で、性的な分野と食事のことで禁欲的な戒律を順守することを要求し、「独り善がりの礼拝、自己卑下、体の苦行」を伴っている教えです(二・二〇〜二三)。

3 「世の諸々の霊」に従っている
 上記二つの特色(特別な祭儀と禁欲的な戒律)は、「宇宙《コスモス》の諸霊」についての彼らの教義から出ています(二・八、二〇)。「宇宙《コスモス》の諸霊」とは「諸々の支配と権勢」(二・一〇、一五)のことであり、当時のヘレニズム世界の宇宙観から出た用語です。当時の人々は、宇宙《コスモス》は大地の上にかぶさる数層の霊界から成り立ち、それぞれの層にその層を支配する霊である《アルコーン》(支配者)とか《エクスーシア》(権勢)がいると考えていました。魂がそれらの諸霊の支配を免れて救われるためには、諸霊を祭る上記のような祭儀とか地上の身体的禁欲が必要だと教えたと見られます。

4 神の十全な知識を目標としている
 彼らが教えた特殊な祭儀への参加と禁欲的な戒律の順守は、完全な神の知識に達することを目標としていたと推察されます。それは、本書が彼らに対抗して、そのような祭儀とか戒律は必要ではなく、キリストにこそ神の完全な知識が宿っており、キリストを知ることが神を知ることだと強調している(一・二六〜二八、二・三)ことから推察することができます。著者がよく用いる「奥義《ミュステーリオン》」とか「充満《プレーローマ》」というような用語は、彼らが掲げるこのような標語に対抗して、著者がキリストにこそ《ミュステーリオン》も《プレーローマ》もあるのだと主張するためであると見られます。

 このような特色をもつ「哲学」はどのような起源をもつのであるのか、研究者の間では様々な見方が提案されていますが、確実な結論は出ていません。しかし、これらの特色を総合すると、ユダヤ教と何らかのつながりがあるグノーシス主義的な宗教(あるいはある程度グノーシス主義化したユダヤ教)とヘレニズム世界の宗教(密儀宗教を含む)との混淆形態が背後にあると考えられます。

       これらの特色とクムランとの関連が注目されます。安息日と特定の暦に基づく祭りの厳格な実行、清い食べ物と汚れた食べ物の厳密な区別、「肉の体」という用語の使用、特別の宗教的知識へのこだわりなどが、コロサイの「哲学」とクムランの両方に見られます。クムランのユダヤ教(エッセネ派ユダヤ教)が何らかの経路を経て、コロサイの「哲学」の形成に影響を及ぼしたことが推察されます。

 

コロサイ書におけるキリスト

 このような偽りの教えの危険に対抗して、著者はコロサイの信徒たちに、「(使徒パウロによって)教えられた通りの信仰によって堅くされ」、ただキリストに結ばれて歩むように説き勧めます(二・六〜七)。キリストこそ「奥義《ミュステーリオン》」そのものであり(一・二七、二・三)、キリストの中にこそ「神性の全き充満が体をとって宿って」いるのですから(二・九)。
 ところで、著者が語るキリストは、基本的にはパウロが宣べ伝えたキリストを継承しています。当然ながら、キリストは神の力によって死者の中から復活されたキリストであり(二・一二)、その十字架上の死によって世に和解をもたらされた方であり(一・二〇、二二、二・一四)、今は高く上げられて神の右の座に着いておられる方(三・一)であると共に、霊なるキリストとして、その体である民(一・一八)の内におられる方です(一・二七)。
 ところが、著者がこの書簡で語るキリストは、パウロがパウロ書簡で語っているキリストと微妙な点で違ってきています。その違いの中で著しい点は、パウロのキリストが旧約聖書の救済史的なキリストであるのに対して、コロサイ書のキリストは宇宙論的なキリストになってきている点です。
 すでにパウロにおいてキリストは、イスラエルの民を異教徒の支配から解放するダビデの子としてのメシア・キリストから遠く離れたところまで来ていました。しかし、パウロにおいてはキリストはなお、聖書(ユダヤ教の律法と預言書)を成就するために終わりの時に現れた救済者であり、キリストの十字架と復活の出来事は救済史の上での出来事でした。それに対して、コロサイ書になるとキリストはもはや救済史上の出来事であるよりは、宇宙《コスモス》存立の根源であり、天と地を仲介して宇宙《コスモス》の完成をもたらす救済者と見られるようになっています。一章一五〜二〇節の「キリスト賛歌」はこのような宇宙論的キリストをよく表現しています。言葉を換えて言えば、パウロにおいてキリストは終末を目指す時間軸上での救済の出来事ですが、コロサイ書においては天と地という上下の空間的な場での存在の根源であり、救済と完成をもたらす救済者となっています。
 この違いは、キリストにおける救済の出来事を語る語り方の違いとして出てきています。伝統的な終末待望の言葉が完全になくなっているわけではありませんが(三・四、六、二四〜二五)、救済は圧倒的に現在の体験として語られています。キリストに属する者は、キリストと共に十字架につけられて死んだだけではなく(この点はパウロと同じです)、コロサイ書においてはすでにキリストと共に復活した者とされています(二・一二〜一三)。この点は、キリストと共に復活することを将来の希望として語るパウロ(ローマ六・五〜八、フィリピ三・一一〜一二)と違ってきています。「希望」という用語も、パウロの場合のように将来の出来事を待望することではなく、すでにキリストにおいて実現した福音の使信の内容を指しています(一・五、二三、二七)。パウロにしばしば見られた聖霊を将来の相続の保証とする見方はコロサイ書にはありません。パウロに見られる、「すでにある」救済と、その完成が「まだない」という緊張は、コロサイ書には見当たりません。
 十字架の出来事の意義を語る言葉も、「和解」という表現はパウロとコロサイ書の両方に共通ですが、パウロにおいてよく用いられ中心的な位置を占める「義とする」とか「義」という表現はコロサイ書にはなく、パウロにはなかった「罪の赦し」という表現がよく用いられるようになります(一・一三〜一四、二・一三、三・一三)。そして、パウロがあれほど苦闘したキリストと律法の関係についてコロサイ書は関心がなく、「律法」という用語さえ全然出てきません。義とか律法に関心がなく、その用語すら出てこないということは、著者がユダヤ人ではなく異邦人であることを示唆しています。
 パウロはガラテヤ書(四・八〜一一)で、コロサイ書二章と同じような問題、すなわち「《コスモス》の諸霊」に拘束されて「いろいろな日、月、時節、年などを守る」ことを取扱っていますが、ガラテヤ書(四・三)ではそれを「奴隷として仕える」こととして、キリストにおける自由の喪失と見ています。ところが、同じ問題を扱うコロサイ書では、そのような視点はなく、まったく別の視点から見ています。この事実も、コロサイ書をパウロの書簡と見ることを困難にします。
 その他パウロに特有の用語でコロサイ書には出てこない用語もかなりあります。自由、救済、契約、約束、(神の)恩恵などはパウロ特愛の用語ですが、コロサイ書には出てきません。このようなキリストの語り方と、キリストにおける救済の出来事を語る語り方を見ますと、コロサイ書をパウロの手になる文書であると受け取ることは困難になります。この違いは、執筆時の状況の違いとか、パウロの思想の変化という説明の限度を超えていると考えざるをえません。

 


        第二節 コロサイ書本文の翻訳と略解

 コロサイ書は「パウロ以後のキリストの福音」の展開をたどる上で重要な文書ですので、まず本文をしっかりと読んでおく必要があります。そのために、長々と続く複雑で分かり難い原文を短く分けるなどして、できるだけ分かりやすい日本語に翻訳し、コロサイ書の特色に重点を置いた必要最小限の解説をつけておきます。このような形で本文を通読した上で、パウロ以後の福音の展開史におけるコロサイ書の意義と位置を考察したいと思います。

 

    1 挨拶(1章1〜2節)

 1 神の御心によってキリスト・イエスの使徒であるパウロと兄弟テモテから、 2 コロサイにいる、キリストにあって聖別された忠実な兄弟たちへ。わたしたちの父である神から、恵みと平安があなたたちにあるように。

 先に述べたように、著者はパウロと一体の働き人として、コロサイの兄弟たちに説き勧めたい内容を、パウロの名によって書き送ります。内容は説教とか論説のようなものですが、著者はパウロに倣いあくまで手紙の形式で書き送ります。


    2 感謝(1章3〜8節)

 3 わたしたちは、あなたたちのために祈る時はいつも、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神に感謝を捧げています。 4 それは、キリスト・イエスにあって持っているあなたたちの信仰と、すべての聖徒たちに対してあなたたちが抱いている愛について聞いているからです。 5 その信仰と愛は、あなたたちのために天に蓄えられている希望によるのであって、あなたたちはこの希望を、あなたたちのところにまで来た福音という真理の言葉によってすでに聞いたのです。 6 この福音は、世界中いたるところでそうであるように、あなたたちのところでも、あなたたちが神の恩恵を聞いて真に悟ったその日から、実を結んで、成長しています。 7 それは、わたしたちと共に仕える仲間、愛するエパフラスからあなたたちが学んだ通りです。彼は、あなたたちのためのキリストの忠実な奉仕者です。 8 彼はまた、御霊によるあなたたちの愛をわたしたちに知らせてくれた人です。

 当時の手紙の通例に従い、挨拶の後に相手に関する感謝とか祝福の祈りが来ます。この感謝は相手の好意に対する感謝ではなく、宛先のコロサイの兄弟たちに信仰と愛が豊かに与えられていることに対する神への感謝です。
 この感謝で注目されるのは、キリストにあって兄弟たちに与えられている信仰と愛が「天に蓄えられている希望による」ものとされていることです。パウロにおいては希望は信仰と愛と並ぶ御霊の表れの一つの相でしたが、コロサイ書では信仰と愛の源泉とされています。コロサイ書の「希望」はたんに将来に関する待望ではなく、現に「天に蓄えられている」霊的資産となっています。
 そして、この天に蓄えられている霊的資産は、「福音という真理の言葉」によってもたらされたものです。「福音」が(同格の表現を用いて)「真理の言葉」と説明されています。イエス・キリストの出来事を告知する福音の言葉が、「真理の言葉」となって、ヘレニズム世界の宗教心に訴えています。このような用語は、同じくエフェソで福音を語ったと見られるヨハネ福音書の「言葉」とか「真理」というような言葉使いを思い起こさせます。
 七節から、コロサイの集会がエパフラスの働きによって形成された集会であることが分かります


    3 祈り(1章9〜12節)

 9 それゆえにわたしたちもまた、そのことを聞いた日からずっと、あなたたちのために祈り求めることを止めることはありません。どうかあなたたちが、あらゆる御霊の知恵と理解力によって、神の御旨の全き認識に満たされ、 10 主に喜ばれるように主にふさわしく歩み、すべての善い業において実を結び、神の全き認識が増し加わるように。 11 神の栄光の力に従い、あらゆる力によって力づけられ、喜びをもってすべてを担い、すべてを耐えるように。 12 そして、あなたたちを光の中にある聖徒たちの相続分にあずかるにふさわしい者にしてくださった御父に感謝するように。

 パウロの手紙、たとえばフィリピ書(一・三〜一一)でも理解力が祈り求められていますが、それはキリストの日に備えて愛と清さを増し加えるためという終末待望の視点が前面に出ていました。コロサイ書では何よりも《エピグノーシス》に満たされることが祈り求められています。この語は、《グノーシス》(知識、認識)に意味を強める《エピ》という接頭辞がついた形ですので、「全き認識」と訳しました。「御霊の知恵と理解力」も、「すべての善い業」も、「神の《エピグノーシス》」または「神の御旨の《エピグノーシス》」が増し加わるためです。終末的視点は背後に退き、「神の全き認識」を追究することが信仰生活の主要目標になっています。この変化にも、パウロの救済史的な視点から霊的現実の認識を重視するヘレニズム的宗教性への移行が感じられます。

 「すべてを担い、すべてを耐えるように」(一一節)という表現には、パウロの愛の賛歌の一節(コリントT一五・七)の反響が感じられます。


    4 御子による創造と和解(1章13〜23節)

 13 御父はわたしたちを闇の権勢から救い出して、その愛の御子の支配下に移し入れてくださいました。 14 この御子にあってわたしたちは贖い、すなわち罪過の赦しを得ているのです。
 15  この方は見えない神の像、
  すべての造られたものに先だって生まれた方。
 16  万物はこの方において造られた、
  天にあるものも地にあるものも、
  見えるものも見えないものも、
  王座も主権も、
  支配も権勢も。
  万物はこの方により、この方へと造られた。
 17  そして、この方は万物に先だっていまし、
  万物はこの方の中で存立している。
 18 この方はその体、すなわち御民の頭。
  この方ははじめであり、
  死者の中から最初に生まれた方、
  すべてのことにおいて最初の者となるために。
 19  神はよしとされた、
  すべての充満がこの方の中に宿り、
 20  万物をこの方により、
    この方へと和解させることを。
  地の上にあるものも天にあるものも、
  この方の十字架の血によって和に至らせて。
 21 あなたたちはかって思いにおいて神に疎遠であって敵対し、諸々の悪しき行いに陥っていましたが、 22 しかし今は、そのあなたたちを、神はこの方の肉の体においてその死を通して和解させ、そのみ前にあなたたちを聖なる者、傷なき者、咎なき者として立たせてくださいました。 23 ただそれは、あなたたちが信仰に堅く基礎づけられ、あなたたちが聞いた福音の希望から離れることがなければです。 この福音は天の下のあらゆる被造物に宣べ伝えられており、わたしパウロはそれに仕える者とされたのです。

 前段の最後(一二節)で、「光の中にある聖徒たちの相続分にあずかるにふさわしい者にしてくださった御父」に感謝するように求められていましたが、その「御父」がどのような救いを与えてくださっているのかが、一三〜一四節で語られます。ここはコロサイ書の救済論の要約です。著者にとって、救済とは「闇の権勢から救い出して、その愛の御子の支配下に移し入れてくださった」ことです。
 当時の人々にとって、この世界(コスモス)は「権勢」とか「支配」などと呼ばれる諸々の霊に支配されている世界でした。地上を支配している諸霊は人間を暗闇(不幸や悲惨や絶望)に閉じこめる霊的な支配力です。父は、福音によって信じる者をこの「闇の権勢」の支配から救い出して(解放して)、父の愛の体現者である御子キリストの支配下に移し入れ、「光の中にある聖徒たちの相続分にあずかるにふさわしい者にしてくださった」のです。その内容はパウロの救済理解(ローマ八・二)と同じですが、表現はすっかりヘレニズム風になっています。グノーシス主義者も、彼らの救済を(内容は違いますが)このような表現で語りました。
 その支配の移行はすでに起こったことです。それは、この御子キリストにおいて「贖い、すなわち罪過の赦しを得ている」からです。パウロにおいてあれほど深刻な問題であった罪が問題にされているのは、本書ではここだけです。しかも、パウロはいつも罪を根源的な支配力として単数形で扱っていましたが、ここで罪が複数形で用いられています(それで「罪過」と訳しています)。「罪過の赦し」という句はパウロ七書簡には出てきません。パウロにおいては「解放」という側面が強かった「贖い」が、本書では「諸々の罪過の赦し」という面に限定されるようになっています。救済を「罪の赦し」とする理解は、ルカ福音書にも見られます。
 なお、著者はキリストを「御子」という称号で指す傾向が強く、パウロにおいてあれほど頻繁に用いられた「キリストにあって」という句は、本書においては(挨拶部を除くと)わずか一回だけになります。以下に引用するキリスト賛歌も御子への賛歌となっています。

 

キリスト賛歌

 一五節〜二〇節は、共同体で用いられていたキリスト賛歌を著者が引用していると見られます。底本に従い、詩文として行を分け、原文の行分けの通りに翻訳しておきます。
 パウロもフィリピ書で当時の共同体で用いられていたキリスト賛歌を引用しています。そのキリスト賛歌(フィリピ二・六〜一一)と比べますと、本書の賛歌は長くて詳しくなっています。フィリピ書の賛歌はキリストの受難と復活という救済史的出来事に集中していますが、本書の賛歌はそれだけでなく、創造とか存在の根源というような宇宙論的なキリストの姿を語っています。
 賛歌はその前半(一五〜一七節)で、創造における御子の位置、あるいは存在の根源としての御子の意義を語っています。最初に、御子キリストは「見えない神の像、すべての造られたものに先だって生まれた方」とされます。「先だって生まれた方」は一八節でも用いられ、著者のキリスト論の鍵語になっています(一五節)。
 すべての造られたものに先だって生まれた方ですから、この方は被造物ではなく、万物よりも先に存在し、万物はその方の中で、その方により、その方に向かって(を目標として)創造されたことになります(一六節)。その万物が「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも」というだけでなく、「王座も主権も、支配も権勢も」と、当時《コスモス》を構成すると考えられていた支配的諸霊が加えられていることが注目されます。そして、このような創造における位置から、御子キリストは「万物に先だっていまし、万物はこの方の中で存立している」と、存在の根源であることが歌われます(一七節)。
 賛歌の後半(一八〜二〇節)では、この方(御子キリスト)は「死者の中から最初に生まれた方」として、「その体の頭」であるとうたわれます。そして、「その体」に「すなわち《エクレーシア》」という説明が加えられて、創造の秩序においてだけでなく、《エクレーシア》を担い手とする救済の秩序でも「最初の者」であることがうたわれます。

 パウロにおいては「《エクレーシア》はキリストの体である」という思想はありますが、キリストがその体である《エクレーシア》の頭であるという思想はありません。キリストに属する者たちの共同体を「体」という有機体とする表象はパウロから始まっていますが、キリストがその体の頭であるという理解はコロサイ書から始まり、エフェソ書では救済論の中心的な位置を占めるに至っています。
 ここではキリストの復活は「死者の中から最初に生まれた方」という形で語られ、先の「すべての造られたものに先だって生まれた方」と対応して、御子キリストが「すべてのことにおいて最初の者」であること、すなわち神の創造の働きにおいても救済の働きにおいても、キリストが「はじめ」(根源)であることがうたわれます(一八節)。
 そして、神の救済の働きは、「すべての充満」が宿る御子キリスト(一九節)の十字架の死によって成し遂げられた「万物の和解」に基づくものであることが、最後に賛美されます(二〇節)。ヘレニズム世界で福音を語る本書は、もはやユダヤ教の「義とする」という表現を用いることなく、もっぱら「和解」という用語で救済を語ります。また、「充満」という用語も、コロサイ書とエフェソ書の両方で、キリストを語るさいの中心的な考え方になっています(後述)。
 キリスト賛歌は二〇節までですが、そこでうたわれた神の和解によって与えられた救いの事実が、「かって」の状態と、「しかし今は」変えられた状態の対比として語られます。「かって」は「神に疎遠であって敵対し、諸々の悪しき行いに陥っていました」(二一節)。「しかし今は」、神が御子キリストにおいて成し遂げてくださった和解により、神に近づけられ、神の民とされて、「み前に聖なる者、傷なき者、咎なき者」として立つようになっていると、神の救いの働きが読者の実際の体験として語られます(二二節)。この「しかし今は」という句は、パウロの用例(ローマ三・二一など)を思い起こさせます。パウロにおいては救済史における新しい《アイオーン》の到来を告げる呼び声でしたが、コロサイ書では異教にいたときからキリストを信じるようになった回心後の時期を指す句になっており、《アイオーン》の転換という思想はありません。
 最後に、神の民としての今の恵まれた状態も、福音の信仰に堅くとどまる限りであると、条件づけられます(二三節前半)。そこでもキリスト信仰にとどまることが、「福音の希望にとどまる」という表現で語られていることが注目されます。
 さらに、福音が天の下のあらゆる被造物に宣べ伝えられているものであること、すなわち福音の普遍性が強調された上で、パウロがその普遍的な福音に仕える者、その福音の使徒であることが、改めて強調されます(二三節後半)。コロサイ書では、パウロは唯一の使徒として扱われています。

 

    5 神の奥義としてのキリスト(1章24〜29節)

 24 今わたしは、あなたたちのために受ける患難を喜び、キリストのからだである御民のために、キリストの苦しみの不足分をわたしの肉体において満たしているのです。 25 わたしは、神の言葉を満たすようにと、あなたたちのためにわたしに与えられた神の委託によって、御民に仕える者とされました。 26 それは、諸々の時代から、また諸々の世代から隠されていたが、今や神の聖徒たちに明らかにされた奥義です。 27 神は御自分の聖徒たちに、異邦人の中にあるこの奥義の栄光の豊かさがどれほどのものであるかを知らせようとされたのです。この奥義とはあなたたちの中にいますキリスト、栄光の希望です。28 このキリストをわたしたちは宣べ伝え、わたしたちがすべての人をキリストにあって完全な者として差し出すことになるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、すべての人を教えています。 29 このために、わたしは苦労し、わたしの内に力をもって働くキリストの働きに従って苦闘しているのです。

 パウロは書簡の中でしばしば自分の苦難について語っていますが、それを「《エクレーシア》ために受ける苦難」とか「キリストの苦しみの不足分を自分の肉体において満たしている」というようには言っていません。これは、パウロの苦難を身近に見てきた人物が、パウロの苦難を意義づけて語っている表現です。キリストの受難は人間の贖いのためには十分であるが、その救済を人々にもたらすため、《エクレーシア》形成のための苦しみは使徒パウロが引き受けて「キリストの苦しみの不足分を満たしている」、と著者は見ています(二四節)。
 「満たす」とか「充満」はこの書簡の鍵語です。同じ「満たす」を用いて、著者は使徒パウロの使命を、「《エクレーシア》に神の言葉を満たす」ことだとします(二五節)。そして、その「神の言葉」とは「諸々の時代から、また諸々の世代から隠されていたが、今や神の聖徒たちに明らかにされた奥義」であると説明されます(二六節)。使徒パウロは神から遣わされて《エクレーシア》に《ミュステーリオン》を伝える者です。使徒パウロに神の《ミュステーリオン》が委託されているのです。
 この「奥義」も、コロサイ書とエフェソ書の中心概念です。《ミュステーリオン》はもともとユダヤ教黙示思想の用語で、人間には隠されている神の秘密の御計画とか天界の実相を指します。ヘレニズム世界の人たちには「密儀」(それにあずかることによって救済を受けるとされる秘密の儀式)という意味も連想されたことでしょう。
 この《ミュステーリオン》の中身はキリストである、と著者は宣言します(二七節)。この「キリスト」は「あなたがたの中にいますキリスト」、すなわち異邦人であるあなたがたの中にいまし、今あなたがたが体験し、その中で生きているキリストに他ならないとします。そして、このキリストこそ「栄光の希望」であるとされます。コロサイ書では、「希望」は将来のことではなく、現にあずかっている救済の現実全体を指しています。キリスト御自身こそ、今信じる者があずかっている救済の栄光(神的な素晴らしさ)そのものであるというのです。この点は、パウロが語る「栄光の希望」(ローマ八・一八〜二五)と違ってきています。
 このキリストを世界に宣べ伝えすべての人をキリストにあって完成することこそ、使徒パウロの使命であることが改めて確認されます(二八〜二九節)。

 

    6 使徒パウロの苦闘(2章1〜5節)

 1 わたしがあなたたちとラオディキアにいる人たちのために、またわたしと直接顔を合わせていないすべての人たちのために、どれほどの苦闘をしているか、あなたたちに分かってほしい。 2 それは、すべての人たちの心が励まされ、愛において一つに結び合わされ、満ち溢れる洞察の全き豊かさに至るため、すなわち神の奥義の全き認識に至るためです。神の奥義とはキリストに他なりません。 3 このキリストの中に、すべての知恵と知識の宝が隠されているのです。 4 わたしがこう言うのは、誰もあなたたちを巧妙な議論でだますことがないようにするためです。5 わたしは肉では離れていても、霊ではあなたたちと一緒にいて、あなたたちの秩序と、あなたたちのキリストへの信仰の堅固さを見て喜んでいます。

 ここで再び、パウロの苦闘の目的が「すべての人たちが・・・・満ち溢れる洞察の全き豊かさに至るため、すなわち神の奥義の全き認識に至るため」と言われ、「神の奥義とはキリストに他なりません」と再確認されます(二節)。まとめると、「キリストの認識」こそ、パウロの教えの目的であるということになります。「キリストの中にすべての知恵と知識の宝が隠されている」のですから、キリストを認識することは、「すべての知恵と知識」を得ることになります(三節)。人間として完成するのに必要な「すべての知恵と知識」は、「キリストの認識」の中にあります。
 このことを強調するのは、誰も「巧妙な議論」で惑わされて、このキリストへの固着から引き離されることのないようにするためだとされ(四〜五節)、その「巧妙な議論」が次の段落で詳しく取り上げられます。

 

    7 キリストにあって歩め(2章6〜15節)

  6 あなたたちはキリスト・イエスを主として受け入れたのですから、キリストにあって歩みなさい。 7 キリストにあって根を下ろして築き上げられ、教えられた通りに信仰によって堅くされ、溢れるばかりに感謝して歩みなさい。
 8 誰もあなたたちを、人間の言い伝えに基づく哲学、すなわち空しい欺瞞によってとりこにすることのないように気をつけなさい。それは世の諸々の霊に基づくものであって、キリストに基づくものではありません。 9 キリストの中にこそ神性の全き充満が体をとって宿っており、 10 あなたたちはこの方にあって満たされているのです。この方こそ、すべての支配と権勢の頭です。
 11 あなたたちはまたこのキリストにあって、手によらない割礼によって、すなわち肉の体を脱ぎ捨てることによって割礼されました。これがキリストの割礼です。12 あなたたちはバプテスマにおいてキリストと共に埋葬され、そのバプテスマにおいてまた、キリストを死者の中から復活させた神の力の信仰によって、共に復活させられたのです。 13 あなたたちは諸々の過ちと肉の無割礼のために死んでいましたが、神はあなたたちの諸々の過ちを赦し、あなたたちをキリストと共に生かしてくださいました。 14 神は、諸々の定めによってわたしたちを訴える敵対的な証書を抹消し、それを十字架に釘付けすることによって取り除かれました。 15 そして、諸々の支配と権勢の権威を剥ぎ取り、キリストにあって彼らを凱旋行進に従わせて、公然とさらしものにされたのです。

 「キリストの認識」は、頭の中の知識の問題ではなく、全存在をもって体験的に認識することです。そのことが、「キリストにあって歩みなさい」という言葉で表現されています(六〜七節)。

 このように基本的な勧告をした後、著者は最近集会の中に見られるようになった誤った教えを警戒するように、というこの手紙の本題に入ります(八節以下)。著者がここで「人間の言い伝えに基づく哲学、すなわち空しい欺瞞」と呼んでいる新奇な教え(パウロによって教えられた信仰とは異なる教え)がどのようなものであるかは、序説の「コロサイの『哲学』」の項で述べましたが、ここでそれが「世の諸々の霊に基づくもの」であるとされて、キリストと対比されます。
 「世の諸々の霊」の原文は「《コスモス》の《ストイケイア》(複数形)」です。宇宙を構成する各層の霊的存在を指します。その諸霊を礼拝することが異教の各宗教であり、それは人をキリストに導くための後見人に過ぎないという見方は、パウロ書簡にも見られました(ガラテヤ四・三)。コロサイ書では、「キリストの中にこそ神性の全き充満が体をとって宿っている」のであるから、そのキリストにしっかりと結びついて生きる限り、このキリストに満たされているので、もはやそのような「世の諸々の霊」から出る教えは必要ではなく、それに囚われることはないとされます(八〜一〇節)。
 ここでキリストが「神性の全き充満」が宿る方と言い表されていることが、この書簡の重要な特色です。「充満」《プレーローマ》は、後にグノーシス主義の重要な用語になります。グノーシス主義文書では、《プレーローマ》は「至高神以下の神的存在によって満たされた超越的な光の世界」を意味します。グノーシス主義では、この至高の光の世界には様々な名をもつ多くの神的存在がいるわけですが、コロサイ書ではキリストだけが「神性の全き充満」であるとされます。このことが強調されるのは、「世の諸々の霊」から出る間違った教えに惑わされることなく、しっかりとキリストだけに固着するように求めるためです。
 キリストは「神性の全き充満」が宿る方として、「すべての支配と権勢の頭」であるとされます。当時のヘレニズム世界の宇宙観では、宇宙《コスモス》は地を底辺とする多層の霊界から成り、その各層を支配する霊的存在を「支配」《アルケー》とか「権勢」《エクスーシア》と呼んでいました。キリストを「すべての支配と権勢の頭」とすることは、宇宙を人体にたとえて、キリストが《コスモス》全体の統合者であることを指しています。このように本書においては、ヘレニズム世界で福音を語るにふさわしく、キリストは宇宙論的な視点で理解されています。
 キリストがどのような方であるかを述べた著者は、続いてこの「キリストにある」者一人ひとりがどのような者にされているのかを語ります(一一〜一五節)。ここでキリスト者(キリストにある者、キリストに属する者)が「割礼された」者と表現されていることが注目されます。キリスト者は、キリストに結びつくことによって、「キリストの割礼」を受けた者とされます。「キリストの割礼」とは、「手によらない割礼」であって、キリストが与えてくださる御霊によって「肉の体を脱ぎ捨てること」です。
 ユダヤ教の割礼は「手による割礼」であり、体の一部を切り開くだけですが、「キリストの割礼」は人の手によらず神の霊によって、神に背く本性をもった古い存在全体を脱ぎ捨てることです(ローマ二・二九)。このような割礼を受けている以上、もう「手による割礼」は問題でなくなります。パウロが命がけで戦った「無割礼の福音」は、本書ではこのような形で決着しています。
 さらに、キリスト者はバプテスマを受けたときに、キリストと一緒に死んで埋葬され(水の中に浸されるバプテスマは埋葬を象徴します)、同時にそのバプテスマにおいて「キリストを死者の中から復活させた神の力の信仰によって」キリストと共に復活させられたのです。水に浸され、水の中から起こされるバプテスマは、キリストに属する者がキリストと共に葬られ、キリストと共に復活する霊的現実を象徴する儀礼です。
 ここでユダヤ教の割礼とキリスト教のバプテスマが共に同列にメタファー(比喩・象徴)として用いられていることが注目されます。コロサイの異邦人キリスト者は、バプテスマを受けていたでしょうが割礼は受けていなかったでしょう。受けている儀礼も受けていない儀礼も等しく、御霊による霊的次元での出来事を指し示すメタファーとして扱われています。著者は、パウロと同じくこのような儀礼を相対化していると言えます。
 ここでもう一つ注目されることは、ここでは「キリストと共に復活させられた」と過去形が用いられていることです。これはパウロ書簡にはないことです。パウロは、キリストと共に死んだことについては過去形を用いますが、キリストと共に復活することはいつも未来形で語ります(ローマ六・三〜五)。それに対して本書では、キリストにある者はすでにキリストと一緒に復活している者とされます(三・一参照)。パウロにおいては「復活」は終末時の死者の復活を指す用語でしたが、本書ではキリストにあって歩むようになった「命の新しい次元」(ローマ六・四)を指す用語になっています。終末時の死者の復活は否定されていませんが、パウロにおけるような福音の重要な項目ではなくなっています。
 最後にもう一度、キリストにおける救済が著者独自の表現で語られます(一三〜一五節)。かって「諸々の過ちと肉の無割礼(生まれながらの本性のままに生きていたこと)のために」神から遠く離れていた状態が「死んでいた」と表現され、キリストに属する者となることによって「生かされた」事実が確認され(一三節)、それがキリストの十字架と復活という出来事の中に成し遂げられた神の働きとして語られます。
 キリストの十字架は、法廷の比喩を用いて、神が「諸々の定めによってわたしたちを訴える敵対的な証書を抹消し、取り除かれた」出来事であるとされます(一四節)。先に「この御子にあってわたしたちは贖い、すなわち罪過の赦しを得ているのです」(一・一四)と語られていましたが、その「赦し」が、ここでは訴える証書そのものを抹消する神の行為と表現されます。
 そして復活は、凱旋行進のイメージを用いて、諸々の支配と権勢に対するキリストの勝利として描かれます(一五節)。ローマの将軍は異民族との戦争に勝利して帰国したとき凱旋行進を行いました。その行進では、敵将を裸にして鎖につなぎ引き回しました。そのように、キリストは復活して神の右に上げられ、あらゆるものに勝る主《キュリオス》の名をお受けになったとき、世界《コスモス》の権をとる諸々の支配と権勢を裸にしてさらしものにされた、すなわち彼らの「権威を剥ぎ取られた」のです。そうである以上、キリストから離れてそのような「支配と権勢」に従うことは愚かなことです。
 このような語り方に、パウロの十字架と復活の福音が、ヘレニズム世界の人々に親しまれたイメージを用いて語られていることが見えてきます。

 

    8 禁欲的戒律への警戒(2章16〜23節)

 16 それで、食べ物のことと飲物のことで、または祭りや新月や安息日の参加のことで、誰にもあなたたちを批判させないようにしなさい。 17 これらのものは来るべきものの影に過ぎず、実体はキリストのものです。 18 自己卑下と天使礼拝を好む者たちの誰にも、あなたたちの賞を奪わせてはなりません。そのような者は、参入して見たものを誇り、自分の肉の思いによって根拠もなくふくれあがり、19 しっかりと頭につくことをしません。この頭から、からだ全体は関節と靱帯によって支えられ結び合わされて、神の成長を達成するのです。
 20 あなたたちはキリストと共に死んで、世の諸々の霊から別れたのであれば、どうしてなお世に生きているかのように、戒律に縛られているのですか。 21 「近づくな。味わうな。触れるな」などという戒律は、22 どれもみな極端に用いると滅びに至るものであり、人間の規定や教えに従っているものです。 23 それらはたしかに独り善がりの礼拝、自己卑下、体の苦行によって、知恵のあることとして評判を得ていますが、実は何の価値もなく、肉を満足させるためのものに過ぎません。

 ここで先に「人間の言い伝えに基づく哲学、すなわち空しい欺瞞」と呼ばれていた新奇な教えが具体的に取り上げられて、そのような欺瞞に惑わされないように警告されます。それがどのようなものかは、先に序説の「コロサイの『哲学』」の項でまとめておきましたが、ここでその偽りの教えに対する著者の批判を見ておきましょう。
 偽りの教えを説く教師たちが求める「食べ物のことと飲物のこと、または祭りや新月や安息日の参加のこと」は「来るべきもの(やがて人間が体得することになる霊的現実)の影に過ぎない」とされます。そのような食物規定や祭儀が要求することは、その影が指し示していた実体(霊的現実)であるキリストにおいてすべて成就・実現しているのだから、キリストに属する者はそのような要求に拘束されることはないのです。本体が来た以上、影は意味を失っています(一六〜一七節)。
 偽りの教えを奉じる者たちは「自己卑下と天使礼拝を好む者たち」と呼ばれています。ここでの「自己卑下」とは、断食や苦行による宗教的自己卑下の行を指していると見られます。「天使たちの礼拝」とは天使を礼拝することか、天使たちがする礼拝に参加することか、正確な意味は不明ですが、おそらく前者であると考えられます。そのような特殊な宗教的行に没入して、そこでの自己の体験を絶対化して誇る者は、キリスト者にとって本来の頭であるキリスト御自身にしっかりと結びついていないと批判されます。この頭であるキリストに固着することによって、キリストから来る愛とか知恵でキリストの民は成長するのです。この成長が人体の比喩で語られ、それが「神の成長」、すなわち神御自身が与えてくださる成長と呼ばれます(一八〜一九節)。
 さらに、キリストに属する者はキリストと共に死んで「世の諸々の霊」(前述)の支配から離脱しているのであるから、その「世の諸々の霊」から出る様々な宗教的戒律には縛られていないことが強調されます。パウロにおいては、キリストと共に死ぬことは罪に対して死ぬことでした(ローマ六・一〜一一)。コロサイ書では、キリストと共に死ぬことは諸霊が支配する世《コスモス》に対して死ぬことです(二〇節)。
 その上で、「近づくな。味わうな。触れるな」などという戒律と、戒律が例示されます(二一節)。その内容は詳しくは分かりませんが、おそらく「近づくな」は性交の禁止、「味わうな」は断食とか特定の食物の禁止、「触れるな」は何か特定の事物への接触の禁止を指していると考えられます。このような禁欲的な戒律は、後の時代のグノーシス主義によく見られるようになります。
 このような戒律はみな、神から出たものではなく(神はすべてをよしとされました)、人間の浅はかな知恵から出たものであり、ある特定の状況では有益であるとしても、人生全般に極限まで適用すると魂の滅びを招くことになりかねません(二二節)。
 そのような禁欲的戒律を守って宗教的行に励む者は、敬虔な人、信心深い人、知恵ある人という評判を得ていますが、それは人間の宗教性を満足させるだけで、キリストに充満している神の知恵から見れば何の価値もないものだと批判されます(二三節)。


     9 キリストと共に生きる新しい生(3章1〜11節)

 1 さて、あなたたちはキリストと共に復活したのであるならば、上にあるものを追い求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのです。 2 あなたたちは上にあるものを志向し、地上のものを志向すべきではありません。 3 あなたたちは死んだのであり、あなたたちの命はキリストと共に神の中に隠されているのだからです。 4 あなたたちの命であるキリストが現れるとき、その時にはあなたたちもまたキリストと共に栄光の中に現れることになるのです。
 5 だから、あなたたちは地上にある肢体を死なせなさい。すなわち、みだらな行い、不潔、情欲、悪い欲望、それにどん欲を死なせなさい。どん欲は偶像礼拝です。6 これらのことのゆえに神の怒りが[不従順の者たちの上に]下るのです。7 あなたたちもまた、以前このようなことの中に生きていたときには、このようなことをして歩んでいました。 8 しかし今は、あなたたちはこのようなことすべてを、すなわち怒り、憤り、悪意、悪口、口から出る恥ずべき言葉を捨て去りなさい。 9 お互いに嘘偽りを言うことなく、古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、10 新しい人を着なさい。この新しい人は、それを創造された方の像にしたがって、全き認識に向かってつねに新しくされていくのです。 11 そこにはギリシア人もユダヤ人もなく、割礼も無割礼もなく、未開人、スキタイ人、奴隷、自由人もありません。キリストがすべてであり、すべての中におられるのです。

 書簡の前半(一〜二章)で、キリストの福音を提示し、さらにコロサイの集会に侵入してきた偽りの教えを警戒するように説いた後、ここから著者は実践的な勧告に入ります。前段でキリストと共に死んだことを根拠として、「世の諸々の霊」から出る祭儀や禁欲的戒律などから離脱するように説いた著者は、それと対照して、「キリストと共に復活した」ことを根拠にして、新しい生き方をするように説きます(一節)。
 ここに用いられている「共に復活した」という動詞は、パウロ七書簡には出てきません。「共に死ぬ」とか「共に十字架につけられる」という動詞はありますが、「共に復活する」はありません。しかもアオリスト形(過去形)が用いられています(二・一二でも)。パウロが信徒の復活を語るときはいつも未来形を用いています(コリントT一五・五二参照)。このことから、パウロと著者では「復活」という用語が違う事柄を指していることが分かります。パウロが「復活」というときは、終わりの日の死者の復活を指しています。それに対して、コロサイ書の著者が「復活」という語を用いるときは、キリストにあって賜った新しい命に生きるようになったことを指しています。これはすでに起こった現在の事実です。
 キリストと共に復活した者としての歩みの基本路線が、「上にあるものを志向し、地上のものを志向すべきではない」と述べられます(二節)。パウロの場合、追求や志向の対象は「御霊か肉か」という対比で語られていましたが(ローマ八・五)、ここでは「上にあるもの」と「地上のもの」という空間的な対比になっています。著者は、霊的なものと物質的なものというギリシア的な対比を念頭においているのでしょう。これは、イエスが「地上ではなく天に宝を積め」と言われたことと同じです。
 「上にあるものを追い求める」のは、「そこではキリストが神の右に座しておられる」からです。キリストと共に死んだ者の命は、「キリストと共に神の中に隠されている」のですから、自分の命があるところに生きる、すなわち「上にあるものを志向して」生きるのが当然の原理となります(三節)。
 キリストに属する者はすでに命を与えられていますが、その命は「キリストと共に神の中に隠されている」ので、今はその栄光を直接見ることはできません。今はまだ人間としての弱さやはかなさの中に隠されています。しかし、「あなたたちの命であるキリストが現れるとき、その時にはあなたたちもまたキリストと共に栄光の中に現れることになる」とされます(四節)。
 「現れることになる」は未来形です。キリストの将来の出来事が言及されているのは、コロサイ書ではここだけです。しかし、今は不在のキリストが到来されるという《パルーシア》(来臨)という見方ではなく、現に内に隠された形で存在する命が外に顕現するという見方で終末的将来が語られています。これはパウロが《パルーシア》を《アポカリュプシス》(顕現)という表現で語っている(コリントT一・七)のを継承していることになります。「栄光の中に現れる」という表現は、あきらかにパウロの希望(ローマ八・一八〜一九)を継承しています。
 このように、コロサイ書はパウロの終末的希望を継承していますが、ともすれば黙示思想的な方向に向かいがちな「来臨」《パルーシア》という待望ではなく、「顕現」《アポカリュプシス》という用語で語り、現在の霊的現実を軸足とする方向に向かっています。実は、この方向が将来のキリスト教の終末思想を決定づけることになります。
 このように、「キリストと共に復活した」ことを根拠にして、「以前は・・・・しかし今は」という対照で、以前とは違う新しい生き方をするように説き勧められます(五〜一一節)。
 以前は地上の肢体に潜む欲求のままに「みだらな行い、不潔、情欲、悪い欲望、それにどん欲」の中に生きていましたが、それは(知らないまま)神の怒りの下にあることを意味していました(五〜七節)。この中で「どん欲は偶像礼拝です」という解説的な文が挿入されていますが、これは性的無秩序と偶像礼拝を異教徒の罪の姿と見るユダヤ教の見方を継承して、人間性にひそむ貪欲を(性的退廃と並べて)神が憎まれる根本的な罪と位置づけているわけです。
 しかし(キリストに属する者となり、キリストと共に復活して生きる者となった)今は、「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、新しい人を着る」ように求められます(八〜一〇節)。パウロは、キリストに属するようになった者に実際の歩みを勧告するとき、「この世と同じかたちになることなく、かたちを変えられなさい」と、「変容させる」《メタモルフォー》という動詞を用いて要約しています(ローマ一二・二私訳)。同じことを、著者は衣服のメタファーを用いて(衣服のメタファーはパウロもよく用いていました)「古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着る」と表現します。その脱ぎ捨てる「古い人」という衣服に付着する汚れとして、先にあげた性的退廃と貪欲に、怒り、憤り、悪意、悪口、口から出る恥ずべき言葉、嘘偽りというような、心と言葉の悪徳を加えます。
 キリストにある者が「古い人」を脱ぎ捨てた後に着る「新しい人」は、それを創造された方、すなわち御子キリストの像にしたがってつねに新しくされていくとされます。それは、パウロがやはり「変容させる」《メタモルフォー》という動詞を用いて、キリスト者は御霊の働きによって「主と同じ姿に造りかえられていく」としている(コリントU三・一八)ことと同じです。ただ、パウロにおいてはその変容は「栄光から栄光へ」と、栄光を目標としていましたが、コロサイ書では「全き認識」が目標とされていることが特徴的です。
 そして最後に、この「新しい人」がそれを創造された方の像にしたがって、全き認識に向かってつねに新しくされていくという事実にとっては、いかなる人間的状況も妨げにならないことが強調されます(一一節)。この人間的差別はないことが、「ギリシア人もユダヤ人もなく、割礼も無割礼もなく、未開人、スキタイ人、奴隷、自由人もありません」と表現されていますが、パウロの時代のバプテスマ定式(ガラテヤ三・二八)と比べると、ギリシア人と未開人(スキタイ人はもっとも未開の民とされていました)の区別が入って来ていますが、男と女の差別がなくなっているのか目立ちます。ローマの父権的家父長制社会の影響が強くなってきていると推察されます。

 

    10 キリストにおける交わり(3章12〜17節)

 12 そこで、あなたたちは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、慈しみの心、思いやり、へりくだり、柔和さ、辛抱強さを身に着けなさい。 13 お互いに我慢し、誰かに咎めるべきことがあっても赦し合いなさい。主があなたたちを赦してくださったように、あなたたちもまた同じようにしなさい。 14 これらすべての上に加えて愛を身に着けなさい。愛こそすべてを結び合わせて完成させるものです。 15 あなたたちの心の中でキリストの平和が支配するようにしなさい。あなたたちが一つのからだとして招かれたのも、この平和に至らせるためです。そして、感謝の気持ちを持ち続けなさい。
 16 あなたたちの内にキリストの言葉を豊かに宿らせなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、霊的な詩と賛歌と歌により感謝して心から神に向かって歌いなさい。 17 そして、言葉であれ行いであれ、あなたたちがなそうとすることはすべて主イエスの名によってなし、その名によって父なる神に感謝を捧げなさい。

 先に古い人に付着する悪徳を捨てることが衣服のメタファーで語られましたが、それとの対照で、新しい人の生き方が衣服を着るというイメージで語られます(一二節)。身に着けるものの第一は「慈しみの心」です。「心」と訳した語《スプランクナ》は本来「内臓」とか「腸」を意味する語で(パウロもよく用いました)、存在の奥底まで「慈しみ」に貫かれた在り方を求めています。「慈しみ」は、ルカ六・三六のイエスのお言葉にある「憐れみ」と同系の語で、神に愛されている者であるから、その愛をもって「慈しみの心、思いやり、へりくだり、柔和さ、辛抱強さ」を身に着けるように求められます。その上に、主が赦してくださったのだから、互いに赦し合うように説かれます(一三節)。この部分(一二〜一三節)は、イエスが「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」(ルカ六・三六)と言われたお言葉の敷衍になっています。
 ここにあげられた徳目を一つにまとめる原理として「愛」を身に着けるように求められます(一四節)。愛《アガペー》こそ「完全性の帯」(直訳)です。すなわち、重ねた衣服を帯が束ねて一つにまとめるように、愛《アガペー》はすべての徳を一つに結び合わせて完成させる生命力だからです。
 この段落は、キリストに属する者たちの交わりについての勧告ですが、その交わりの原理が「キリストの平和」と表現されています。それは、キリストにあって賜っている神との平和(ローマ五・一)が心を支配し、溢れて隣人との平和な交わりを形成している姿です。キリストに属する者たちが《エクレーシア》という「一つのからだ」を形成するように招かれたのも、人類の歴史の中にこのような平和、すなわち神との平和が隣人との平和の根底になっているような終末的な平和を実現するために他ならないとされます。そして、そのような平和を支える心の一つの面が「感謝の気持ち」ですから(感謝の気持ちは争いや憎しみを追放します)、それを持ち続けて平和を保つように求められます(一五節)。
 最後に、キリストにある者の交わりの在り方が、「キリストの言葉」を豊かに宿らせることを土台として形成されるように説かれます(一六節)。ここで著者が「キリストの言葉」というのは、イエスの一つ一つの語録ではなく(それも含むことはできますが)、キリストという言葉、すなわちキリストを告知する福音の言葉とか御霊によって体験された内なるキリストを告白する言葉など、言葉として言い表されたキリストご自身を指していると理解してよいでしょう。このような言葉を豊かに宿らせることによって、「知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、霊的な詩と賛歌と歌により感謝して心から神に向かって歌う」ことが可能になります。
 そして、「言葉であれ行いであれ、あなたたちがなそうとすることはすべて主イエスの名によってなし、その名によって父なる神に感謝を捧げなさい」という勧告で、この段落が結ばれます(一七節)。キリストに属する者は、「主・イエス」を告白する者として、語る言葉も日常の行いもこの方に属する者としての立場でなし、そうできるようにしてくださった父なる神に感謝を捧げて、神に栄光を帰する歩みをします。

 

    11 家族の間で(3章18節〜4章1節)

 18 妻たちよ、主にある者にふさわしく、夫に服従しなさい。19 夫たちよ、妻を愛しなさい。妻に対してつらく当たってはならない。
 20 子供たちよ、どんなことでも両親の言うことを聴きなさい。それは、主に喜ばれることです。 21 父親たちよ、子供をいらだたせてはならない。彼らが意欲をなくすといけないから。
 22 奴隷たちよ、どんなことでも肉による主人に聴き従いなさい。人のご機嫌を取るための目に見えるところだけの勤めではなく、主を畏れて、純真な心で従いなさい。 23 あなたたちがすることは、人にするのではなく主にするように、心から行いなさい。 24 あなたたちは主から御国を受け継ぐという報酬を受けることになると知っているのですから。あなたたちは主キリストに仕えているのです。 25 不義を行う者は、その不義の結果を負うことになります。そこには分け隔てはありません。
 4・1 主人たちよ、奴隷たちを正しく公平に扱いなさい。あなたたちにも天に主人がいますことを知っているのですから。

 「パウロの名による書簡」になると、パウロ書簡にはなかった「家庭訓」と呼ばれる家族内の倫理を説くまとまりが現れます。そこでは、家族を構成する夫と妻・親と子・主人と奴隷という三種類の人間関係について、簡潔な倫理的勧告がなされています。
 この「家庭訓」は、内容から見ると当時のローマ社会の家庭倫理をそのまま踏襲しており、とくに目新しいことはありません。ただ、それを根拠づけるのに「主にある者として」という視点からなされていることが違うだけです。
 各組において、まず下位の者に服従を求めている点が目立ちます。これは、当時のローマ社会が父権的な家父長制の家族であったことの表れです。ローマ社会の家庭は、夫であり、父親であり、主人である家父長に家族(妻、子、奴隷)が服従することを基本原理としていました。キリストに属する者も、家庭においてはこの基本原理に従うように求められます。主にある者も、社会においては普通の「健全な」(社会の基準に適合した)家庭を作るように求められていることになります。その上で上位に立つ者(夫、父親、主人)に、下位の者への配慮をするように勧告がなされます。
 著者はキリストにある者に向かって、奴隷制を含む当時の家父長制社会を否定したり変革するように求めてはいません。むしろ、その社会の枠組みの中で「健全な」歩みをするように求めています。これは、イエスが弟子たちに、家族との対立や分裂を覚悟しても従うように求められたのと比べますと、状況が随分違ってきていることが印象づけられます。また、パウロが「フィレモンへの手紙」で示したような、奴隷制を認めてその中にいながら、キリストにある愛によって主人と奴隷の関係を乗り越えている激しさはありません。しかしコロサイ書の福音も、キリストにある「新しい人」の倫理を古い社会の枠組みの中に植え込むことで、将来の変革の種子を蒔いたと言えるでしょう。
 歴史は進み社会は変わっていきます。ここで語られている家父長制社会の「家庭訓」の倫理をそのまま固定して現代に適用することはできません。現代では、現代社会の状況の中で「主にある者としてふさわしく」生きる道を模索し、主にある新しい家庭像を構築する努力をしなければなりません。著者は彼の時代と社会でパウロの福音を生きる努力をしました。わたしたちはわたしたちの時代にその努力をする課題を負っています。

 

    12 むすびの勧告と祈りの依頼(4章2〜6節)

 2 あなたたちは祈りに専念しなさい。感謝をこめた祈りの中で目覚めていなさい。 3 同時に、わたしたちのためにも祈ってください。神がわたしたちに御言葉の門を開いてくださり、キリストの奥義を語ることができるように、 ―― そのためにわたしは獄につながれているのです ――4 わたしが当然語らなければならない形で、わたしがその奥義を明らかにすることができるように祈ってください。 5 時を生かし、外の人たちに対して知恵をもってふるまいなさい。 6 あなたたちの言葉はいつも、塩で味付けされた優しいものであるように。そうすれば、一人ひとりにどう答えるべきかが分かるようになるでしょう。

 手紙の結びの勧告として、祈りに専念するように、そして感謝をこめた祈りの中で目覚めているように勧告されますが、その「目覚めている」にはキリスト来臨の時が近いから目覚めているようにという黙示思想的な視点はなく、世の思いに埋没しないで祈りの必要を自覚しているようにという意味であると見られます(二節)。
 そして、著者が「わたしたちのために」祈るように求めるのは、「キリストの奥義」を語る働きを進めていくことができるようにという祈りです。パウロであれば「キリストの福音」を語ることができるようにと言うところで、著者は「キリストの奥義」と言っています。著者にとって、福音の目標は「神の奥義の全き認識に至る」ことであり、その「神の奥義とは、その中にすべての知恵と知識の宝が隠されているキリストに他ならない」(二・二〜三)のですから、「キリストの福音」を語ることは、「キリストの奥義(キリストという神の奥義)」を伝えることに他なりません(三節前半)。
 著者は、パウロの宣教活動を担う一員としてここで「わたしたち」と言いましたが、実はわたしたちが担っているこの奥義はもともとパウロに啓示されたものですから、ここでパウロだけが語ることができる奥義として、獄中のパウロの立場(三節後半)から、「わたし」がその奥義を語ることができるように、と言い直されます(四節)。
 そして、この奥義を伝えられた「あなたたち」も、「時を買い占め」(直訳)、すなわち時をフルに生かして使い、外の人たちに「知恵をもって」(相手や状況を賢明に判断して)その奥義を伝える努力をするように求めます。それを伝える言葉は「塩で味付けされた優しいもの」であることが大切です。粗野で無味乾燥な言葉は、このキリストの奥義を語るのにふさわしくありません。人間の情にも訴える面もほしいものです。そうすれば、一人一人の状況に応じた対応ができるようになるはずです(五〜六節)。

 

    13 結びの挨拶(4章7〜18節)

 7 わたしに関することは、テキコがすべてあなたたちに知らせます。彼は主にあって愛する兄弟、忠実な奉仕者、仲間の僕です。 8 わたしが彼をあなたたちのもとに遣わしたのは、あなたたちがわたしたちの様子を知り、あなたたちの心が励まされるためです。 9 また、あなたたちの内の一人、忠実な愛する兄弟オネシモも一緒に行かせます。彼らはこちらの様子をすべて知らせるでしょう。 
 10 わたしと一緒に囚われの身となっているアリスタルコが、そしてバルナバの従兄弟のマルコが、あなたたちに挨拶を送ります。マルコについては、あなたたちは指図を受けていますが、彼がそちらに行ったら、彼を迎え入れてください。 11 また、ユストと呼ばれているイエスもあなたたちに挨拶を送ります。この人たちだけが、割礼の者たちの中で、神の国のために共に働く者であり、わたしの励ましとなってくれました。
 12 あなたたちの中の一人エパフラスがあなたたちに挨拶を送ります。彼はキリストの僕であり、あなたたちが神の御旨において完全で確信ある者としてしっかりと立つように、絶えず祈りに励んでいます。 13 わたしは証言しますが、彼はあなたたちのために、またラオディキアとヒエラポリスの人たちのために大変な苦労をしています。 14 愛する医者ルカとデマスもあなたたちに挨拶を送ります。
 15 ラオディキアの兄弟たちと、ニンファと彼女の家にある集会に挨拶を伝えてください。 16 また、あなたたちのところで手紙が読まれた時には、それがラオディキアの集会でも読まれるように取り計らってください。また、ラオディキアからの手紙はあなたたちも読むようにしてください。 17 アルキポには、主にあって受けた務めに意を用い、それを十分に果たすように言っておいてください。
 18 わたしパウロ自身の手による挨拶です。わたしの鎖を心に留めていてください。恵みがあなたたちと共にあるように。

 手紙の結びの挨拶に出てくる人名は、パウロの真正の手紙として問題がないフィレモン書の人名と重なっていて、パウロのエフェソでの入獄の状況を具体的に伝えています。この事実がコロサイ書がパウロ自身によって書かれたとする主張の根拠になっています。しかし、この事実を根拠にしてコロサイ書をパウロの真筆とすると、手紙の本体部分の文体と思想内容がパウロの手紙と違うことを説明する課題を背負うことになります。一方、この講解がしたように、本体部分をパウロではなくパウロの協力者とか後継者が書いたものとすると、この結びの部分をどう説明するかが困難な課題となります。この講解は、前者よりも後者の課題の方が説明しやすいと見て、コロサイ書をパウロの後継者の著作であると見てなされています。
 この書簡体勧告文書の著者は、コロサイの危険な状況に対処するために、自分たち(パウロ系共同体)の間でキリストの使徒としての権威が確立しているパウロの名によって、すなわちパウロの名代としてこの文書を書きました。パウロがいつも手紙という形で勧告したように、著者もパウロの手紙の形式を踏襲しています。それで、最後にパウロの個人的挨拶を加えることになりますが、そのさい著者はパウロの身近な弟子として、手許にもっていたパウロ書簡(の写し)の一部を用いたか、または熟知していたエフェソでのパウロの入獄の状況を自分の筆で書いたかどちらかであろうと推察しなければなりません。その内容がきわめて具体的であることから、おそらく前者であろうと考えられます。すわち、著者はエフェソ近辺でパウロと宣教活動を共にした親しい協力者であり、その活動の時期に書かれたパウロの手紙の写しを所有しており、この勧告文書を書くにあたって、パウロの立場で勧告していることを印象づけるために、手許にあるパウロの手紙の一部を用いたと推察することになります。
 このことについては、そうであるとする証拠も、そうでないとする証拠もありませんから、真正のパウロ書簡と比べてコロサイ書の文体と思想内容が違うという目の前の厳然とした事実に重点をおいて判断せざるをえません。その結果は、本文の講解で見たように、コロサイ書はパウロの時代からある程度年代が下った頃に、パウロよりもヘレニズム世界に深く呼吸していた異邦人の著者による著作であると判断したわけです。
 この結びの挨拶で名をあげられている個人とその時期の集会についての記事は、(著者がどのような資料を用いたにせよ)この時期のパウロについての貴重な情報源ですが、今回はパウロ以後の時代に福音がどのように展開したのかを追求することを目的としていますので、歴史的な状況の詳細については立ち入ることを断念し、別の機会に取り上げたいと思います。ただフィレモン書の結びの挨拶に出てくる人名との比較で気づく二三の点を見ておきます。フィレモン書ではパウロと一緒に囚われているのはエパフラスだけですが、ここではアリスタルコが一緒に捕らわれています。エパフラスが囚われの身であるかどうかは分かりません。フィレモン書ではパウロがその解放を主人に懇願している奴隷オネシモが、ここではパウロの同労者として登場しています。マルコ、ルカ、デマスはフィレモン書にも出てきますが、テキコ、ユスト・イエス、ニンファ、アルキポはコロサイ書だけに出てきます。エフェソでの投獄が二回あったのか、このような違いをどう説明するかは困難な課題ですが、ここでは保留にせざるをえません。

 

        第三節 コロサイ書の位置と意義

 先に見たように、著者が律法とか義とか義認について関心がなく、聖書を引用したり参照したりすることもなく、キリストの出来事も救済史的にではなく、宇宙論的に見られているという事実は、著者がユダヤ人ではなく、異邦人であることを示唆しています。パウロはヘレニスト・ユダヤ人(ギリシア語を用いるユダヤ人)であり、ギリシア文化に深く同化していましたが、やはりユダヤ人として、それも律法(ユダヤ教)に熱心なファリサイ派ユダヤ教律法学者としての育ちから、パウロの福音にはユダヤ教の救済史的枠組みがしっかりとあり、パウロはその枠組みの中でキリストを語っていました。ところが、パウロの弟子であるコロサイ書の著者は異邦人として、その思想に律法とか救済史というようなユダヤ教の枠組みはなく、むしろ自分が生まれ育ったヘレニズム世界の宇宙観の枠組みの中でキリストを語るようになっています。パウロはキリストの福音を、ユダヤ教の堅い壁を打ち破って異邦人にもたらした最大の貢献者ですが、パウロの弟子の著者の代になって、キリストの福音はさらに一歩ユダヤ教から離れ、ヘレニズム世界の宗教へと転進していったと言えるでしょう。その方向の先にヨハネ福音書の序詩のようなロゴス・キリスト論が出現します。
 パウロと著者の間の差異は、パウロがユダヤ人であり著者が異邦人であるという理由だけでなく、年代的にパウロと著者の間にはエルサレム神殿の破壊という大事件があることを念頭に置かなければなりません。エルサレム神殿崩壊以前に活躍したパウロは、イスラエルを中心とする救済史の枠組みを前提にして語っています。それは、まずメシア・キリストによってイスラエルに対する神の約束が成就し、救われ完成されたイスラエルに異邦諸民族が参与するという形で世界に神の支配が実現するという構想です。パウロが(現実のイスラエルの不信にもかかわらず)そのような救済史を確信していたことは、ローマ書の九〜一一章に熱く語られています。
 それに対してコロサイ書の著者の時代は、すでにエルサレム神殿は破壊され、その出来事は不信のイスラエルに対する神の裁きであると受け取られていたので、救済史は「異邦人の時代」に入っていると理解されるようになっていました(ルカ二一・二四)。すなわち、神の救済の担い手は、イスラエルとは別に異邦人からなる民《エクレーシア》に移っているという理解です。その異邦人のキリスト理解がこのコロサイ書で表明されていることになります。

 このように、コロサイ書がパウロ以後の時代に属するからといって、その価値を減じるものではありません。コロサイ書は、パウロがいなくなった後も、パウロの福音がヘレニズム世界にしっかりと根付いて展開している姿を見させてくれます。そして、その後のキリスト教は、パウロよりもむしろコロサイ書のキリスト信仰の線で進むことになります。同時に、著者がパウロを神の奥義を委ねられた使徒としていることによって、パウロの救済史的なキリスト信仰は維持され、後にパウロ系共同体の地盤である小アジアに、エイレナイオスのような救済史神学が形成されることになります。


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