パウロ以後のキリストの福音


 第二章 キリストの充満としてのエクレシア                    

             ―― エフェソ書におけるキリスト ――

(本章で書名のない引用箇所はすべてエフェソ書の章節をさします。)


 第一節  エフェソ書の成立と構成

 

著者問題

 本書簡はパウロの名によって書かれていますが、用語と文体、および思想内容からして、パウロ自身の手になるものと受け取ることが困難です。この点はコロサイ書と同じですが、本書がコロサイ書と用語や思想内容の点で多くの共通点を持っていることから、コロサイ書との関係が問題になってきます。

1 用語と文体
 エフェソ書には、新約聖書中一度だけしか出てこない語が49、真正性が問題とされないパウロ七書簡に出てこない一度限りの語が51ありますが、これは(コロサイ書の場合と同様)真正性を疑う決定的な理由になりません。全体の語数に対する同じような割合が、他の文書(たとえばフィリピ書)にも見られるからです。むしろ、エフェソ特有の用語が次の時期の初期キリスト教文学に多く見出される事実が、パウロ以後の文書であることを示唆しています。さらに、《エクレーシア》とか《ミュステーリオン》など重要な用語が、パウロとは違う意味で用いられています。
 文体については、コロサイ書の場合と同じく、パウロ書簡と同一の人物の手になる文章とは考えられません。パウロはきわめて単純で直截な文体で口述していますが、本書の文体は同じ意味の語を重ねて用いるとか、関係代名詞や分詞構文を多用して、(コロサイ書以上に)異常に長くて複雑な構文の文章を連ねています。原文で読むと、パウロ書簡とは別の世界に入っているという印象を強く受けます。この違いは、執筆状況の違いによって説明することはできません。

2 思想内容
 パウロの福音提示の心臓部をなす「信仰による義」が、二章八節でごく簡単に要約されている以外は、本書ではほとんど扱われていません。パウロがあれほど問題にした「律法」は一度だけ、しかもすでに克服されたものとして現れるだけです(二・一五)。パウロが生涯苦労した律法によるユダヤ人と異邦人の対立は、すでに克服されたものとして扱われています。
 先に「コロサイ書の要約」で見ましたように、パウロはなおキリストを救済史的な枠組みで語っており、キリストの支配の完成は将来に待ち望まれていましたが、コロサイ書になるとキリストはすでに宇宙的支配を実現しておられる方として、神性の充満として語られ、しかもまだパウロにはなかった《エクレーシア》の頭として語られるようになっています。エフェソ書は、その方向を一段と推し進め、宇宙的なキリストが《エクレーシア》の頭であり、《エクレーシア》はそのキリストの充満体として神の奥義を体現するものとなっています。本書の《エクレーシア》理解は後でまとめることになりますが、ここではそれがパウロのものではなく、パウロよりもかなり後のものと見なければならないことを指摘しておきます。

3 コロサイ書との関係
 コロサイ書とエフェソ書との間にある類似性は顕著です。全体の構成と内容が似ているだけでなく、使用している用語まで似ています。エフェソ書に用いられている用語の四分の一がコロサイ書にあり、コロサイ書の用語の三分の一がエフェソ書に見出されます。文章や表現がほとんど並行している例がかなりあります。さらに、重要な概念や術語が両方で共通しています。たとえば、キリストの体、体の頭としてのキリスト、充満《プレローマ》、奥義《ミュステーリオン》、和解などが、両方で鍵をなす用語となっています。原文を読んでいますと、これほど同じ用語を用い、同じような文体で、基本的には同じ福音理解をもって書いているのは同一人ではないかと感じさせます。同一人説を否定する決定的な根拠はないようにも思われます。同一人の可能性も捨てきれません。
 しかし、両者には時期とか宛先など執筆事情の違いでは説明しきれない相違もあり、同じ著者によるものと見るのは困難だとするのが普通です。その場合、別の著者のどちらか一方が他方に依拠して書いたことになりますが、両書の文章の綿密な比較から、エフェソ書の著者がコロサイ書を用いてエフェソ書を書いたと見る研究者が多いようです。内容的にエフェソ書がコロサイ書の思想傾向をいっそう押し進めている点があることからも、そう見るのが順当だと考えられます。
 その場合、エフェソ書の著者はコロサイ書をパウロの手紙として依拠したのか、パウロのものではないことを知りながら自分が尊敬する先輩の書として依拠したのか分かりませんが、両者ともパウロを(回顧的に)唯一の権威としており、エフェソを中心とするアジア州のパウロの活動圏で成立した文書であることは確かです。
 以上を総合すると、エフェソ書の著者はパウロの忠実な弟子で、エフェソを中心とするパウロ系の諸集会において指導的な立場で活動をしていた人物であると言えますが、詳しいことは分かりません。コロサイ書がほとんど聖書を参照しないのと対照的に、エフェソ書はかなり聖書(旧約聖書)を参照していること、またクムラン文書の思想との近さを見せていることなどから、ギリシア思想に通暁したユダヤ人キリスト者を推定する説(EKK)もありますが、決定的ではありません。この時期には異邦人信徒も十分聖書に親しんでいたことが推察されるからです。著者が誰であるか、個人を特定することはできません。推測することも、コロサイ書の場合以上に困難です。様々な名前があげられますが、コンセンサスはありません。

    興味深い推定の一つとしてオネシモの可能性があることについては、『天旅』二〇〇一年5号、フィレモン書講解の「パウロ書簡集とオネシモ」の項をみてください。


 
成立事情

 本書は手紙の形式で書かれていますが、個人に対する挨拶もなく、特定の集会の具体的な問題に触れることもなく、議論の内容もきわめて一般的な神学論になっています。一章一節の「エフェソにいる」という宛先の地域名も、最古の有力な写本にはありません。それで、本書は特定の集会に宛てられた書簡ではなく、キリスト信仰についての一般的な論説、あるいは広い地域の諸集会に回される勧告の回状であったと見られます。
 コロサイ書は、コロサイの集会に入ってきた「人間の言い伝えに基づく哲学、すなわち空しい欺瞞」の教えに対抗するために書かれたという具体的な目的がありますが、エフェソ書にはそうした特定の集会の具体的な状況はありません。信徒が「キリストの奥義」にさらに深く導き入れられて、教えられた信仰に堅く立つように励まし、かつ、周囲の異教的悪徳から遠ざかって、キリストの民としての歩み方に徹するように勧告するために書かれています。周囲の異教的悪徳から離れるようにという勧告が中心を占めていることから見て、おもに異邦人信徒を対象にしていると考えられます。
 成立の時期は、パウロ(六十年代に殉教)の没後ある程度の期間が経っていると見られるコロサイ書よりも後で、本書を知っていると見られるイグナティオスよりも前になります。そうすると、七十年代とか八十年代が考えられます。この時期のアジア州の諸集会の状況は正確には分かりませんが、(成立が九十年代と考えられる)ヨハネ黙示録の二〜三章に見られる「アジア州の七つの集会」の描写が参考になります。まだ皇帝礼拝を拒否することから起こった迫害は始まっていませんが(始まっておればエフェソ書の書き方は全然違ったものになったでしょう)、そこに描かれているような状況に至る傾向は始まっており、周囲の異教世界からの圧迫と誘惑は強くなり、集会内にもキリストの福音から逸脱する異なった教えが入り込み、集会生活への熱意が減退し、異教的環境に呑み込まれてしまう危険が感じられるようになっていたことと推察されます。
 それで、パウロの働きの後を受け継ぐ一人として、この地域のキリストの民の確立に責任を感じている著者が、キリストの民《エクレーシア》の奥義を徹底させ、実際上も《エクレーシア》内の一致を実現するように強調し、異教社会とは異なる歩み方を励まし、このような危機を克服しようとして筆をとったものと考えられます。

 

宇宙論的キリスト理解

 先にコロサイ書の要約として「ヘレニズム世界における福音」を書きましたが、その中の「コロサイ書におけるキリスト」で、「パウロのキリストが旧約聖書の救済史的なキリストであるのに対して、コロサイ書のキリストは宇宙論的なキリストになっている」ことを見ました。すなわち、(そこで書いたことをそのまま引用しますが)パウロにおいてはキリストはなお、聖書(ユダヤ教の律法と預言書)を成就するために終わりの時に現れた救済者であり、キリストの十字架と復活の出来事は救済史の上での出来事でした。それに対して、コロサイ書になるとキリストはもはや救済史上の出来事であるよりは、宇宙《コスモス》存立の根源であり、天と地を仲介して宇宙《コスモス》の完成をもたらす救済者と見られるようになっています。コロサイ書一章一五〜二〇節の「キリスト賛歌」はこのような宇宙論的キリストをよく表現しています。言葉を換えて言えば、パウロにおいてキリストは終末を目指す時間軸上での救済の出来事ですが、コロサイ書においては天と地という上下の空間的な場での存在の根源であり、救済と完成をもたらす救済者となっています。
 このことはそのままエフェソ書についても言えます。エフェソ書のキリスト理解と救済理解は、コロサイ書と同じく、救済史的な枠組みから離れ、宇宙論的な枠組みで語られています。先に「コロサイ書の位置」で、「パウロの福音にはユダヤ教の救済史的枠組みがしっかりとあり、パウロはその枠組みの中でキリストを語っていました。ところが、パウロの弟子であるコロサイ書の著者は、異邦人として律法とか救済史というようなユダヤ教の枠組みはなく、むしろ自分が生まれ育ったヘレニズム世界の宇宙観の枠組みの中でキリストを語るようになっています。パウロはキリストの福音を、ユダヤ教の堅い壁を打ち破って異邦人にもたらした最大の貢献者ですが、パウロの弟子の著者の代になって、キリストの福音はさらに一歩ユダヤ教から離れ、ヘレニズム世界の宗教へと転進していったと言えるでしょう」と書きました。エフェソ書は、コロサイ書が踏み出したその一歩をさらに押し進めていると言えます。
 そのさい、「その一歩をさらに押し進めている」ことは、エフェソ書のエクレシア理解にもっともよく表れていますので、ここではエフェソ書の《エクレーシア》に関わる言説を取り上げて、エフェソ書の特質をまとめることにします。


 
エフェソ書における《エクレーシア》

 まず《エクレーシア》という用語の使い方にエフェソ書の特色が出ています。パウロはこの語をほとんどの場合で地域の信徒たちの集まりを指すのに用いています。どこそこ(都市名とか地域名)にある《エクレーシア》とか、誰それの家に集まる《エクレーシア》という使い方をしています。それに対してエフェソ書ではそのような使い方はなく、この語はいつも単数形で現れ、キリストの民全体を指しています(一・二二、三・一〇、二一、五・二三〜三二)。コロサイ書も《エクレーシア》をこのようなキリストの民全体を指す意味で用いていますが、それでもなお二箇所で信徒の集まりとしての「集会」という意味で用いています(結びの挨拶の中でコロサイ四・一五と一六)。わたしの翻訳では、《エクレーシア》が個々の信徒の集まりを指すときは「集会」と訳し、キリストの民全体を指すときは「御民」と訳し分けました。コロサイ書(本体部分)とエフェソ書ではみな「御民」ということになります。エフェソ書の著者は、いつもキリストの民の総体を視野に置いて、その民の本質について深い霊的考察を行い、その民について御霊によって与えられた「奥義」を語るのです。
 エフェソ書は「御民」の本質を様々な比喩を用いて語っています。ここはエフェソ書の《エクレーシア》理解を詳しく検討する場所ではなく、それを要約するところですから、それぞれの比喩についてはごく簡単にまとめて、最後にそれらの比喩をもってエフェソ書が示そうとする「奥義」の中身についてまとめておきたいと思います。
 まず、エフェソ書は《エクレーシア》を建物にたとえています(二・二〇〜二二)。建物の比喩はすでにパウロが用いていますが(コリントT三・一〇〜一七)、パウロにおいてはイエス・キリストだけが建物の土台です。それに対して、エフェソ書では「使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられた」とされた上で、「土台の隅石はキリスト・イエスです」という構造になっています。この違いは、エフェソ書が使徒たちの働きをすでに過去のことと見る立場にあることを示しています(この点も、エフェソ書が使徒自身の著作でないことを示唆しています)。とにかくこの比喩においては、キリストと《エクレーシア》の関係は土台とその上に建つ建物との関係です。
 次に、《エクレーシア》はキリストの花嫁にたとえられています(五・二一〜三三)。家庭訓の中で妻が夫に服従し、夫が妻を自分の体のように愛することを求める根拠として、キリストと《エクレーシア》の関係が花婿と花嫁の比喩で取り上げられています。そして、創世記(二・二四)にある「夫と妻は一つの体になる」という宣言は、キリストと《エクレーシア》が一つに合わせられること指しているとされ、それが「奥義」とされています(五・三一〜三二)。キリストと《エクレーシア》の一体関係は、エフェソ書においては「奥義」として、救済理解の中心的位置を占めています。
 さらに、《エクレーシア》は「人」《アントローポス》であるとされています。《エクレーシア》は、神がキリストにおいて新しく創造された「一人の新しい人」なのです(二・一四〜一六)。長らくユダヤ人と異邦人という二つの区画に分かたれていた人間の共同体を、神はキリストによって律法という仕切の中壁を打ち壊し、一人の新しい人へと創造されたのです。ここでは、《エクレーシア》という共同体が「一人の人」という比喩ないしは象徴で語られています。そして、この「一人の新しい人」は、「円熟した大人」になるまで成長するように定められており(四・一三)、その成長は「からだ全体は備えられたすべての関節によって組み合わせられ、かつ結合されて、それぞれの部分の分に応じた働きにしたがってからだの成長を遂げ」(四・一六)、頭なるキリストへと成長するとされています。
 しかし、キリストと《エクレーシア》の関係を語る比喩の中で、エフェソ書においてもっとも基本的な比喩は、頭と体の比喩です。この比喩は、花嫁の比喩の中でも、「キリストもまた御民の頭であり、御自身その体の救い主であるように、夫は妻の頭であるからです」(五・二三)という形で前提され、「人」の比喩においても、体の成長は「頭なるキリストへと成長してゆく」と表現されています(四・一五)。
 パウロにおいても、《エクレーシア》をキリストの体であるとする語り方はありました(コリントT一二・一二〜二七)。しかし、その《エクレーシア》はなお具体的な個々の地域の「集会」を念頭において語っています。そして、パウロの比喩においては体全体がキリストであり、頭も足と対等の体の一部として扱われています。体を支配する頭という見方はありません。それに対してコロサイ書になると、《エクレーシア》はキリストの民の総体として見られ、キリストは体である民をコントロールする頭であるという見方が出てきます(コロサイ一・一八、二・一〇、一九)。これはパウロにはない新しい見方です。
 エフェソ書は、この頭と体の関係をコロサイ書以上に明確な言葉で表現しています。「神はまた、すべてのものをキリストの足の下に服させ、キリストをすべてのものの上にある頭として御民にお与えになりました。御民はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしておられる方の充満です」(一・二二〜二三)。
 神はキリストを復活させて世界《コスモス》の支配者とし(一・二〇〜二一)、そのキリストを《エクレーシア》に頭としてお与えになったのです(一・二二)。したがって、同じキリストが、異なった仕方においてですが、《コスモス》と《エクレーシア》の両方の頭となっておられる事実が、《エクレーシア》と《コスモス》の関係を基礎づけます。そして、《コスモス》における《エクレーシア》の存在の意義が、「御民はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしておられる方の充満です」という言葉で宣言されます(一・二三)。この言葉こそ、エフェソ書の核心です。以下、この言葉の展開として、エフェソ書の内容を見ていくことになります。

 

エフェソ書の構成

 エフェソ書は書簡の形式で書かれています。それで、最初に差出人と宛先を含む挨拶の部分(一・一〜二)があり、最後に結びの挨拶(六・二一〜二四)があります。この挨拶に囲まれた本体部分は、大きく二つの部分に分かれます。
 前半の第一部(一〜三章)は、福音の提示部ともいうべき部分で、神がキリストにおいて成し遂げてくださった恵みの御業が、キリストの民《エクレーシア》の現実を中心に述べられます。
 後半の第二部(四〜六章)は、キリストに属する者がこの《エクレーシア》において、また異教的環境のこの世においてどのように歩むべきか、実践的な勧告が述べられます。
 このような構成は、コロサイ書にも見られました。すなわち、コロサイ書もその前半(一〜二章)で、誤った教えとの対比をしながら、キリストにおける神の恵みの事態を述べ、続いて後半(三〜四章)でキリストにある者の歩みについての実践的な勧告を置いていました。コロサイ書もエフェソ書も、パウロがその書簡の前半でキリストの福音を提示し、後半で実践的な勧告をするという、ローマ書に典型的に見られるパウロ書簡の構成を踏襲しています。


第二節 エフェソ書本文の翻訳と略解

 エフェソ書はコロサイ書と並んで「パウロ以後のキリストの福音」の展開をたどる上で重要な文書です。本文を正確に理解するために、長々と続く複雑で分かり難い原文を短く分けるなどして、できるだけ分かりやすい日本語に翻訳し、エフェソ書の特色に重点を置いた解説をつけておきます。まず本文を通読した上で、パウロ以後の福音の展開史におけるエフェソ書の意義と位置を考察します。


  1 挨拶(1・1〜2)

  1 神の御心によってキリスト・イエスの使徒であるパウロから、[エフェソにいる]キリスト・イエスにあって聖なる者であり、かつ忠実な者である方々へ。 2 わたしたちの父である神と、主イエス・キリストから恵みと平安があなたたちにあるように。

 著者はパウロを「神の御心によってキリスト・イエスの使徒」とされた者とし、その使徒の背後に自分を隠して、使徒パウロに啓示された「奥義」を(その継承者として)忠実に伝え、キリストにあって召された聖徒たちを励まそうとします。
 「成立事情」の項で述べたように、「エフェソにいる」という句は最古の有力な写本にはなく、本書は特定の集会にあてられた書簡ではなく、広く「キリスト・イエスにあって聖なる者であり、かつ忠実な者たち」に向かって語られた書簡体の説教、あるいは地域の諸集会に回される回状であったと考えられます。しかし、もともとあったこの句が後の写本の段階で削られたとする見方(コンツェルマン)もあります。
 一節では「キリスト・イエス」が二回用いられています。この呼び方は、「キリストであるイエス」という意味で、この場合の「キリスト」は終末的救済者の称号として用いられています。この句に《キュリオス》という称号をつけて用いるときは、「主イエス・キリスト」という順序になるのが普通です(二節や三節)。これは、「主イエス」という信仰告白定式が定着し馴染まれていたからであると考えられます。

 


  第一部 キリストの充満体としてのエクレシア(一〜三章)

 

  2  キリストにおける神の恵み  (1・3〜14)

 3 わたしたちの主イエス・キリストの父なる神、キリストにあって天上のあらゆる霊的祝福をもってわたしたちを祝福してくださった神、この神こそがほめたたえられるように。 4 神はわたしたちが御前において聖なる者、咎なき者となるために、天地の基礎が置かれる前に、キリストにあってわたしたちを選ばれたからです。愛によって 5 神はイエス・キリストによって、その御旨のよしとしたまうところに従い、わたしたちをご自身の子として受け入れるように前もって定めてくださいました。6 それは、神がその愛する方においてわたしたちに注がれた栄光ある恩恵の賛美となるためです。
 7 この方にあって、わたしたちはその方の血による贖い、すなわち罪過の赦しを受けています。それは、神の豊かな恩恵によるものです。 8 神はその恩恵を溢れるようにわたしたちに注いでくださったのです。神は、あらゆる知恵と判断力をもって 9 わたしたちが御旨の奥義を知るようにしてくださいました。これは、キリストにあって前もって定められた神の承認によるもので、10 諸々の時の充満へと運用されて、天にあるものも地にあるものも、すべてがキリストを頭として統合されるに到るのです。
 11 この方にあってわたしたちはまた、御自身の意志の企てによって万事を働かれる方の前もっての定めにしたがってあらかじめ立てられて、相続分を与えられました。12 それは、キリストにあって前もって希望をもったわたしたちが、神の栄光の賛美となるためです。
 13 この方にあって、あなたたちもまた真理の言葉、すなわち救いの福音を聞き、その方を信じた結果、聖なる約束の御霊によって証印されました。14 御霊はわたしたちが御国を相続することの保証であり、完全な所有への解放に到り、神の栄光の賛美となるのです。

 当時の手紙では普通、「挨拶」の後に相手の好意に対する感謝と相手のための祈願が来ますが、本書ではその前に「わたしたち」キリストの民に与えられた「主イエス・キリストの父なる神」への感謝と賛美が置かれます。その部分(三〜一四節)は、関係詞で延々と鎖のように結ばれれる異常に長い一つの文で述べられています。本書では初めから著者の文体の特色が典型的に出ています。
 神への賛美は、「主イエス・キリストにおいて」与えられた祝福と恵みの御業に対する賛美となっています。「わたしたちの主イエス・キリストの父なる神こそがほめたたえられるように」という標題的な文の後に、神が「キリストにあって」与えた下さった祝福と恵みが賛美されますが、その長い賛美は内容から見て次の三つにまとめることができるでしょう。
 第一は、「天地の基礎が置かれる前に」、キリストにあってわたしたちを選び、キリストにあって天上のあらゆる霊的祝福をもってわたしたちを祝福してくださった神に対する賛美です(三〜六節)。
 第二は、復活者キリストの十字架の死において成し遂げられた「贖い」に基づき、最後にキリストにおける万物の統合に至らせる神の救済史への賛美です(七〜一〇節)。
 第三は、最後に完成する栄光の御国にあずかるという相続分をキリストにあって与えてくださった神への賛美です(一一〜一四節)。この部分は、文の構造からは二回現れる「この方にあって」によって二つの部分に分かれますが、内容は終末的な栄光の「相続」という希望で一貫しています。
 この賛美は、著者がパウロから継承したキリスト信仰の内容が凝縮された形で表現されており、著者の福音理解(神学)の要約になっています。ここでは、その一つ一つを詳しく取り扱うことはできませんので、その大要だけをまとめておきます。

神の選びと恩恵
 第一の部分(三〜六節)で、まず「わたしたちの主イエス・キリストの父なる神」は「キリストにあって天上のあらゆる霊的祝福をもってわたしたちを祝福してくださった神」であることが賛美されます(三節)。「天上のあらゆる霊的祝福」は本書独特の表現です。「霊的祝福」は聖霊によってわたしたちに与えられる霊的次元のよいもの一般(その内容はこの長い賛美の中で展開されることになります)を指しますが、それが「諸々の天において」あるいは「諸々の天的な場所において」(本訳では「天上の」)与えられているとされることは、本書独自の思想です。この表現はエフェソ書だけにしかなく、しかも五回も繰り返して出てきます。この「諸々の天」は、神またはキリストの領域を指す場合(一・三、一・二〇、二・六)もあれば、神に反する霊的勢力の領域を指す場合(三・一〇、六・一二)もあります。これは当時の宇宙観から出た表現です。すなわち、ヘレニズム世界の人々は宇宙《コスモス》を、人間の住む地の上に多層の霊的領域からなる天界がかぶさっているとイメージしていました。その上層は神的な領域ですが、下層は反神的諸霊が暗躍する領域です。そのすべての霊的領域において、神は「わたしたち」《エクレーシア》に祝福を与えてくださったのです。
 このように神が「わたしたち」を祝福してくださったのは、「天地の基礎が置かれる前に」神がキリストにあって「わたしたち」を選ばれたからです(四節)。この選びは、「愛によって、神はイエス・キリストによって、その御旨のよしとしたまうところに従い、わたしたちをご自身の子として受け入れるように前もって定めてくださいました」(五節)と、「前もって定める」という語を用いて、表現を変えて展開されます。すなわち、《エクレーシア》の存在と祝福の根拠が、キリストにおける神の永遠の選びと予定にあることが言い表されています。
 神の選びと予定は、パウロもしばしば救済の根拠として問題にしています。しかし、パウロにおいて選びの問題は、ローマ書九〜一一章の議論に典型的に見られるように、アブラハムとその子孫であるイスラエルが神の民として選ばれた事実が中心になっていました。それに対して著者においては、「わたしたち」すなわちユダヤ人と異邦人の両者からなる《エクレーシア》が神の救済の働きの目標であり、その神の民としての《エクレーシア》の存在は、アブラハムよりも先に「天地の基礎が置かれる前に」なされた神の選びと予定に根拠があることを語るようになります。《エクレーシア》の選びはイスラエルの選びよりも先であり、より根源的なものになります。
 すでにコロサイ書(一・一七)は、御子キリストを「万物に先だっています」方として賛美しています。コロサイ書ではキリストの先在が第一の関心事でしたが、エフェソ書ではそのキリストにあって《エクレーシア》が万物に先立って選ばれていることが関心の中心になります。
 この部分の結びに、このように《エクレーシア》が「天地の基礎が置かれる前に」選ばれたのは、「神の栄光ある恩恵の賛美となるため」であることが強調されています(六節)。この選びと恩恵の結びつきは、すでにパウロに繰り返して現れる重要な結びつきです。もともと「選び」とは、自分が神の子であるとか神の民であるのは、自分に何の根拠もないのに神が自分を選んでそうしてくださったとしか言えないという、恩恵の場で自分を無とする者の告白の一形式です。パウロは自分が使徒であることを語るときは、いつもそれを神の選びと恩恵として語っています(ガラテヤ一・一五など)。そして、救済史において、イスラエルが選ばれたり、イスラエルの中で残りの者が選ばれることを「恩恵の選びにより」と語り(ローマ一一・五〜六など)、選ばれたイスラエルと選ばれなかった異邦人の従順と不従順も、神がその救済史を恩恵の原理で貫かれるためであることを明らかにしています(ローマ一一・二八〜三二)。著者は、パウロが選びと恩恵を一つのことであるとしている思想を受け継いでいます。

キリストにおける万物の統合
 第二の部分(七〜一〇節)ではまず、「わたしたちはその方の血による贖い、すなわち罪過の赦しを受けています」と、キリストの十字架による「贖い」が賛美されています(七節前半)。「血」は十字架上の死を指しています。イエスを復活者キリストと宣べ伝えた最初期の教団は、イエスの十字架上の死を神が成し遂げたくださった「贖い」として宣べ伝え、パウロもその宣教を継承しています(ローマ三・二三〜二五)。
 旧約聖書で「贖い」と訳されている語には、「買い戻し」(解放)という意味と、罪とか汚れの「ぬぐい去り」という意味を持つ二つの別の用語がありますが、新約聖書ではこの二つの意味がこの一語に含まれるようになり、パウロはこの語を二つの意味で用いています。しかし、パウロ以後の文書(コロサイ書や本書)では後者の意味が強くなり、それが「罪過の赦し」と等置されるようになっています(コロサイ一・一四)。この傾向はルカ文書でさらに明確になります。パウロは「赦し」という語を一度も用いていません。
 「罪過の赦し」の「罪過」は複数形で、神の律法に違反する諸々の行為を指しています。パウロが「贖い」というときには、支配力としての「罪」(単数形)からの解放に重点が置かれていたのに比べると、コロサイ書や本書の「罪過の赦し」としての「贖い」の理解は、分かりやすくなっていますが、道徳主義的な方向に向かっていることは否めません。ルカの福音では、この「罪の赦し」が前面に出てくるようになります。
 このキリストの十字架上の死による「贖い」も、「神の豊かな恩恵による」出来事であることが強調されています(七節後半)。パウロも、初期教団が宣べ伝えたキリストの死による贖いの出来事を受け継いで語るとき、それが「神の恵みにより、無代価で」与えられていることを強調しています(ローマ三・二四)。この点で著者はパウロをそのまま継承していますが、著者においては神の恩恵はさらに「あらゆる知恵と判断力をもって、わたしたちが御旨の奥義を知るようにしてくださった」ことに重点が移って行きます(八節〜九節前半)。
 この「御旨の奥義」に説明がつきますが、この説明の部分(九節後半〜一〇節)は文章が難解で、様々な解釈が提案されています。細かい点では異論も残るでしょうが、大意はこの訳でほぼ理解できると思います。
 ここでの主題は「奥義」《ミュステーリオン》です。この《ミュステーリオン》、すなわち神の御旨の中に秘められた救済の計画は、「キリストにあって前もって定められ」、神がよしとされたものです(九節後半)。「前もって」には、天地が造られる前に、永遠なる御子キリストを原型として立てられ定められた計画であることが含意されています。それは、人には世々隠されていた計画ですが、今や使徒パウロに啓示され、御霊によって「あらゆる知恵と判断力」を与えられたキリストの民が理解するに至った《ミュステーリオン》です。
 この《ミュステーリオン》は、「時の充満の運用に至り」ます(一〇節前半直訳)。この簡潔な表現は、「時」《カイロス》、「充満」《プレーローマ》、「運用、経綸」《オイコノミア》という特別な意味合いの専門用語の羅列で、救済史の進行を表現しています。
 「時」《カイロス》は、たんなる時間の流れではなく、意味のある出来事が起こる時点を指しています。ここでは複数形で、救済のための神の諸々の働きがなされる時のことです。「時の充満」とは、時機が熟して計画された出来事が起こることを指しています。その典型的な例は、イエス・キリストの出現とその十字架・復活の出来事が「時は満ちた」という宣言をもって宣べ伝えられていることです。この決定的な「時」以外にも、多くの出来事が神の定められた時の充満として起こっています。聖書はこのような「時」の記録です。すなわち、定められた時に起こった救済のための諸々の出来事の記録です。
 このように、神が「時の充満」という形でその救済の計画を運用されることを、ここでは《オイコノミア》という語で表現しています。この《オイコノミア》という語は、もともと家を管理・運営するという意味の語で、現在の「経済」の語源となった語です。ここでは分かりやすくするため「運用」と訳していますが、神学用語では「経綸」と訳すことが多いようです。この「時の充満の運用」は、現在わたしたちが「救済史」と呼んでいる内容に相当します。著者は、聖書の救済史的理解を「時の充満の運用」という表現で指していることになります。
 そして、最後にこの「時の充満の運用」が行き着くべき目標、すなわち救済史の目標が語られます。それが、「天にあるものも地にあるものも、すべてがキリストを頭として統合されるに到る」と表現されます(一〇節後半)。直訳すると、「天にあるものも地にあるものも、すべてをキリストにあって統合するため」となります。この「統合する」《アナケファライオー》という特殊な動詞が鍵となります。《アナケファライオー》は、《ケファレー》(頭)を語幹とする動詞で、本来は「頭の下に統合する」という意味です。そこから「一つにまとめる、帰せしめる、に集める、要約する」という意味で用いられるようになります。新約聖書での用例は、こことローマ一三・九の「要約する」という意味の用例の二例だけです。ここでは、「キリストにあって《アナケファライオー》する」を「キリストを頭として統合する」と訳しています。
 「キリストを頭として統合する」とは、歴史のすべての事象と宇宙の存在すべてが、キリストとの関わりにおいて意義を持ち、キリストを原理として統合・完成されることです。これが救済史の目標だと著者は要約します。この独自な要約の仕方は印象深いもので、以後の時代の聖書理解に大きな影響を及ぼしています。

御霊の保証
 最後の第三の部分(一一〜一四節)で、「この方にあって」、すなわちキリストにあって、わたしたちはまた「相続分を与えられた」ことが賛美されます。そして、この相続分はわたしたちが「御自身の意志の企てによって万事を働かれる方の前もっての定めにしたがってあらかじめ立てられて」いる事実によって根拠づけられます(一一節)。この「前もっての定め」(予定)とは、先に見たように、「天地の基礎が置かれる前に、神はキリストにあってわたしたちを選ばれた」ことを指しています
 続いてわたしたちに相続分が与えられたのは何のためか、その目的が述べられます。それは、「キリストにあって前もって希望をもったわたしたちが神の栄光の賛美となるため」です(一二節)。

     ここで「キリストにあって前もって希望をもったわたしたち」とは誰を指しているのかが問題となります。「前もって希望をもった」という動詞は新約聖書ではここだけで、(他の者に)先立って希望をもったという意味か、将来の完成をあらかじめ希望の中に先取りして生きていることを指すのか、両方の解釈が可能です。また、続く句も「キリストを」希望の対象としたのか、「キリストにあって」終末的希望に生きるようになったことを指すのか、両方の理解が可能ですが、前者は語法的にかなり無理です。ここの「わたしたち」を、(一三節の「あなたたち」を異邦人として)異邦人よりも先にメシア・キリストへの希望をもったユダヤ人を指すとする解釈も(古代教会以来)ありますが、キリストの民一般を指すとし、一三節の「あなたたち」をこの書簡の読者に限定する理解も可能です。たしかに著者はユダヤ人と異邦人の対立を念頭に置いて書簡を書いています(二・一一〜二二)が、語法と文脈から見て、一二節の「わたしたち」はここまでの「わたしたち」、すなわちキリストにある民《エクレーシア》一般を指し、一三節の「あなたたち」は、その中で今この手紙を読んでいるあなたたちもまた、という意味に理解するのが適切と考えます。

 キリストに属する民《エクレーシア》は何のために地上に存在しているのかというと、それは《エクレーシア》が御霊によって終末的な栄光を地上の生において先取りして生きること(それが希望です)により神の栄光を表し、世界がそのような《エクレーシア》の在り方を見て神を賛美するようになるためです。
 このように神の栄光の相続者としての《エクレーシア》の存在の根拠と目的を明示した後、著者は「あなたたち」、すなわちこの書簡の読者もまたこの相続分を受けている者であるという現実にしっかりと立つように励まします。「この方にあって」、すなわちキリストに属する者として、「あなたたちもまた真理の言葉、すなわち救いの福音を聞き、その方を信じた結果、聖なる約束の御霊によって証印されました」と、著者は読者にキリストにある者としての聖霊体験を思い起こさせます(一三節)。
 「わたしたち」がこのように救済史の奥義に参与し、神の栄光を受け継ぐ相続人となったという事態は、すべてわたしたちが福音を聞いて、福音が告知する方、すなわち主イエス・キリストを信じたことから始まりました。この主イエス・キリストを宣べ伝える告知は、それを信じる者に救いを与える神の力であるという意味で「救いの福音」です。これはパウロの福音理解を継承しています(ローマ一・一六)。それに加えて著者は、この福音を「真理の言葉」と呼んでいます。福音を「真理の言葉」と呼ぶことはすでにコロサイ書(一・五)に見られ、著者はそれを継承しています。「真理」《アレーセイア》という語は、霊的リアリティーを指す用語としてヘレニズム世界の人々には親しみやすい用語であったのでしょう。ヨハネ福音書になるとこの「真理」《アレーセイア》が、霊的リアリティーを知り、それに生きることを指す用語として、「救い」に代わって福音提示の中心に位置するようになります(ヨハネ福音書には「救い」という語は、四・二二以外には出てきません)。「救い」と「真理」を同格で並べるコロサイ書やフェソ書は、パウロとヨハネの中間に立っていると言えるでしょう。

 福音を聞いて主イエス・キリストを信じる者は「約束の聖霊」を受けます(ガラテヤ三・二)。聖霊は、福音宣教の当初から、信じる者に終末時に与えられると約束されていた神の賜物として宣べ伝えられていました(使徒二・三八〜三九、ガラテヤ三・一四)。信じる者が受けた神の御霊の働きが、初期の福音の爆発的な展開をもたらしました。著者は、キリストの民は「信仰に入ったときに聖霊を受けた」ことを前提にして(ローマ八・九)、その聖霊を受けたことは「証印された」ことだと、その体験の意義を語ります。
 すでにパウロがこの「証印を押す」という動詞を用いてこう言っています、「神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に御霊を与えてくださいました」(コリントU一・二二)。同じことを著者は、「御霊によって証印された」と言います。すなわち、御霊が与えられることによって、わたしたちが神に所属する者であるという証印が押されたというのです(この動詞はヨハネ黙示録七章一〜八節に「刻印を押された」という形で五回も用いられています)。後の時代のキリスト教会では洗礼がキリストに属する者の証印であるように扱われますが、パウロやエフェソ書では、洗礼という儀礼ではなく、御霊を受けることが「証印される」こととして扱われています。
 著者はさらに、パウロと同じ「保証」という語を用いて、「御霊はわたしたちが御国を相続することの保証である」と言います(一四節前半)。「保証」はもともと商業用語で、将来の全額支払いを保証するために前もって支払われる手付金を指します。御霊は、手付金のように、将来終わりの日に現れることになる栄光ある神の国の質を宿してわたしたちの中に働いてくださることによって、将来の栄光の全額を保証してくださるのです。それはわたしたちの古い性質の中に宿ることで、今は不完全な形でしか現れていませんが、やがて神が定められた時が来ると、「完全な所有への解放に到り、神の栄光の賛美となるのです」(一四節後半)。すなわち、現在の古い人間性の弱さや拘束から解放されて、わたしたちは御国の栄光を十全に現すようになり、神の栄光を完全に表す栄光の賛美体となるのです。この希望は、パウロがローマ書八章(一八〜二五節)で「うめきながら待ち望んでいる」ことと同じです。



  3 使徒パウロの祈り  (1・15〜23)

 15 それゆえ、わたしもまた、あなたたちの間での主イエスにある信仰と、すべての聖徒たちへの愛を聞いているので、16 祈るときにはあなたたちのことを思い起こして絶えず感謝しています。17 わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神の全き認識に必要な知恵と啓示の霊をあなたたちに与えて、18 あなたたちの心の眼が光を与えられ、神の招きの希望がどのようなものであるか、聖徒たちの相続分の栄光がどれほど豊かなものであるか、 19 また、その強大な能力の働きに従い、わたしたち信じる者たちに対して働く神の力の絶大さがどれほどのものであるかを、あなたたちが悟るようにしてくださるように。
 20 その力を神はキリストの中に働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天上において御自身の右の座に着かせ、21 すべての支配、権勢、勢力、主権、さらに今の世だけでなく来るべき世において唱えられるすべての名の上に置かれたのです。22 神はまた、すべてのものをキリストの足の下に服させ、キリストをすべてのものの上にある頭として御民にお与えになりました。 23 御民はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしておられる方の充満です。

神の全き認識に必要な知恵と啓示の霊
 当時の手紙では挨拶の後に、聞き及んでいる相手のよいことについて喜んだり感謝する文面と、相手によいことがあるようにという祈願が来ますが、この書簡では神への長い賛美の後にこの部分が来ます。まず著者が聞き及んでいる宛先のキリスト者たちの「主イエスにある信仰と、すべての聖徒たちへの愛」を喜び、それを与えてくださった神への感謝が述べられます(一五〜一六節、コロサイ一・四参照)。その上で「わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、あなたたちに与えてくださるように」という祈願が述べられます(一七〜一九節)。
 著者は、現在のキリスト者の共同体にもっとも必要だと強く感じている事柄を、パウロの祈りとして書き記します。その祈願は、「神の全き認識に必要な知恵と啓示の霊」が与えられて、「心の眼が光を与えられ、あなたたちが(次の二つのことを)悟るように」という祈りです(原文で一七節〜一八節前半)。
 その二つのことの一つは、「神の招きの希望がどのようなものであるか、聖徒たちの相続分の栄光がどれほど豊かなものであるかを悟る」ことです(一八節後半)。もう一つは、「その強大な能力の働きに従い、わたしたち信じる者たちに対して働く神の力の絶大さがどれほどのものであるかを悟る」ことです(一九節)。
 著者にとって神の霊は何よりも「神の全き認識に必要な知恵と啓示の霊」です(コロサイ一・九〜一〇参照)。この「神の全き認識」とは、神を完全に認識すること(それは不可能です)ではなく、神との関わりにおける事柄(世界や人間の現実など)を徹底的に認識することと理解してよいでしょう。それを与えるのは神の御霊だけです(コリントT二・六〜一六)。著者は何よりもキリストの民にこのような認識をもたらす「知恵と啓示の霊」が豊かに与えられて「心の眼が光を与えられ」ることを祈り求めます。神からの御霊によらなければ、人間の理性の目は神の事柄を認識することはできないからです。
 キリスト者が悟るように求められているものの第一は、「神の招きの希望がどのようなものであるか」ですが、それはすぐに「聖徒たちの相続分の栄光がどれほど豊かなものであるか」と言い直されています。「神の招きの希望」とは、神がキリストによってわたしたちを招き入れてくださった「希望」の世界のことですが、コロサイ・エフェソ書での「希望」は、将来に対する姿勢(パウロにおいてはそうでした)というより、現に天に蓄えられている霊的資産を指す意味合いが強くなっています(コロサイ一・五参照)。それはすぐ後で「聖徒たちの間における神の資産の栄光の豊かさ」(直訳)と説明されています。「神の資産」とは、神が聖徒たち(キリストの民)に割り当てられた相続財産のことですが、それはこの世の富とか栄光ではなく、時にはキリストのための苦難も含みつつ、キリストに現された神の栄光にあずかることから来る霊的な富を指しています。その富の豊かさを認識すれば、わたしたちは喜びに溢れて神を賛美し、地上の生涯を力強く生きていくことができます。
 キリスト者が悟るように求められているものの第二は、「その強大な能力の働きに従い、わたしたち信じる者たちに対して働く神の力の絶大さがどれほどのものであるかを悟る」ことです。著者独特の同意語を繰り返して用いる文体が目立ちますが、要するに信じる者たちに対して(に向かって、の中へと)働く神の力の強さを悟るようにということです。そして、この「わたしたち信じる者たちに対して働く神の力の絶大さ」が、続く一段(二〇〜二三節)で詳しく説明されます。

キリストの充満としての《エクレーシア》
 その力とは、キリストを復活させた力、死者を生かす復活の命を質とする力です(二〇節)。それだけでなく、神はその力を働かせてキリストを「天上において御自身の右の座に着かせ、すべての支配、権勢、勢力、主権、さらに今の世だけでなく来るべき世において唱えられるすべての名の上に置かれた」のです(二一節)。神はイエスを死者の中から復活させて高く上げ、「神の右に座す」者とされたという宣言は、詩篇一一〇編に基づいて、すでに初期の福音宣教の定式になっていましたが、このユダヤ教的定式に、著者は「神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになった」(フィリピ二・九)という異邦人集会ですでに形成されていたキリスト賛歌を融合させます。
 著者は、その「あらゆる名」を詳しく「天の諸々の場所において、すべての支配、権勢、勢力、主権の上に(置かれた)」と、具体的に名をあげます。ここにあげられている「支配《アルケー》、権勢《エクスーシア》、勢力《デュナミス》、主権《キュリオテース》」という名は、地を覆う諸天(階層をなす霊界)の各層を支配する霊的存在を指す名で、当時のヘレニズム世界の人たちの神話的宇宙観(コスモロジー)の用語でした。すでにパウロもこのような名を上げていました(コリントT一五・二四)。著者はそのような名を総動員した上で、さらに漏れる名がないように、「今の世だけでなく来るべき世において唱えられるすべての名の上に置かれたのです」と、天上におけるキリストの主権を描きます(二一節)。この「今の世《アイオーン》だけでなく来るべき世《アイオーン》においても」という表現には、著者のユダヤ教黙示思想との親近性が感じられますが(この点については後で触れることになります)、著者の思想は全体として黙示思想の枠組みの中では動いておらず、ただ「すべての名」を強調するために用いられているようです。
 神はキリストを「すべての名の上に置かれた」ということは、「すべてのものをキリストの足の下に服させた」ことを意味します。この言葉は詩篇八章七節の引用ですが、パウロはこれを未来の出来事としています(コリントT一五・二七)。本書では「服させた」と過去形で語られています。万物をキリストの足の下に服させた上で、そのキリストを「すべてのものの上にある頭として御民にお与えになった」と語られます(二二節)。すなわち、宇宙万物《コスモス》の頭であり支配者であるキリストが、頭としてその体である御民に与えられたのです。このことによって、キリストが《エクレーシア》の頭であるという関係は、宇宙論的な意味を持つことになります。御民は、《コスモス》の支配者であるキリストを頭としていただくことにより、《コスモス》の真義(《コスモス》の存在意義)を体現する中核体となるのです。
 このことを著者は、「 御民はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしておられる方の充満です」と表現します(二三節)。この言葉は、著者の思想の特色をもっともよく示しています。コロサイ書も「充満」《プレーローマ》という思想が中心にありました。しかし、コロサイ書においては、「充満」はおもにキリストについて語られていました。すなわち、「すべての充満がこの方(キリスト)の中に宿り」(一・一九)とか、「キリストの中にこそ神性の全き充満が体をとって宿っており」(二・一〇)と言われています。それに対してエフェソ書では、キリストの体である《エクレーシア》が「すべてにおいてすべてを満たしておられる方の充満」であるとされます。「充満」の担い手がキリストから《エクレーシア》に重心を移しています。もっとも、キリストが万物の存在意義を満たすという意味で「すべてにおいてすべてを満たしておられる方」であることは変わりませんが、その《コスモス》の充満体であるキリストが、頭として《エクレーシア》を統御しておられ、《エクレーシア》はこのキリストの充満体となっているという事実が、著者が見ている「真理」であり「奥義」であるのです。エフェソ書の全体は、この奥義の展開であると見てよいでしょう。

 


  4  死から命へ(2・1〜10)

 1 さて、あなたたちはもろもろの違反と罪過により死んでいました。 2 あなたたちはその違反と罪過の中で、以前はこの世のアイオーンに従い、すなわち空中の権をもつ支配者、不従順の子らに今も働いている霊に従って歩んでいました。 3 わたしたちもまた、以前はみなこのような者たちの中にあって、肉のもろもろの欲望の中にさまよい、肉や思いの欲するままを行い、他の人たちと同様、生まれながら怒りの子でした。 4 ところが、神は憐れみに富んでおられ、わたしたちを愛してくださったその絶大な愛によって、 5 もろもろの違反によって死んでいるわたしたちさえもキリストと共に生かし、―― 恩恵によってあなたたちは救われているのです ―― 6 キリスト・イエスにあって共に復活させ、共に天上の座に着かせてくださったのです。 7 こうして神は、キリスト・イエスにあってわたしたちに注がれた慈しみによって、御自身の恩恵のすべてを超える豊かさを、来るべき代々に示そうとされたのです。
 8 事実、あなたたちは信仰を通し恩恵によって救われているのです。このことはあなたたちから出ることではなく、神の賜物です。 9 行いからではありません。それは誰も誇ることがないためです。 10 事実、わたしたちは神の作品です。わたしたちは善い働きのためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、わたしたちが善い働きをして歩むようになるために、それらを前もって備えられました。

生まれながら怒りの子
 宛先人に対する感謝と祈願を述べた後、著者は読者に「さて、あなたたち」と呼びかけて、改めて「真理の言葉、すなわち救いの福音を聞き、その方を信じた結果」(一・一三)自分たちがどうなったのか、どのような恩恵を受けたのかを思い起こさせます(一〜一〇節)。
 著者は「さて、あなたたちをもまた」(一節原文)と書き出しますが、その「あなたたちを」誰がどうしたかは、四〜五節になってやっと取り上げられ、「神は・・・・もろもろの違反によって死んでいるわたしたちさえもキリストと共に生かしてくださった」と述べられます。この構文のつながりを示すために、一節を「あなたたちがもろもろの違反と罪過により死んでいた時に、神はそのようなあなたたちをも生かしてくださったのです」と訳す翻訳もあります(RSV)。五節の主文を述べる前に、著者は「あなたたち」読者の「もろもろの違反と罪過により死んでいた」状態を詳しく描きます(一〜三節)。
 「もろもろの違反と罪過」という複数形は、ここでは(律法の諸規定に対する違反行為ではなく)神に背く生き方の多様性を指していると考えられます。そのような生き方は、「この世のアイオーンに従って」歩んでいた結果です(二節)。「アイオーン」はもともと「時代」を意味する黙示思想の用語ですが、ここでは実体化されて、この《コスモス》(この場合は地上の世界)を支配領域とする霊という意味になっています(特異な内容をもつ語であるので翻訳しないで原語のまま表記しています)。その意味内容は後続する並行句、「すなわち空中の権をもつ支配者、不従順の子らに今も働いている霊」という句で説明されています。
 このような霊的存在として実体化された「アイオーン」の用例は、後のグノーシス主義文書において顕著になります。パウロは、このような支配力をいつも単数形の「罪」という用語で指していました。それに較べると、エフェソ書の著者はグノーシス主義者ではありませんが、時代のグノーシス主義的な思想環境の中で議論していることがうかがえます。
 著者は、「あなたたちはその違反と罪過の中で、以前はこの世のアイオーンに従って歩んでいました」と読者に語りかけましたが(一〜二節)、ここでその神に背いている人間の状況が一般化されて、「わたしたちもまた」そうであったとキリスト者一般の事柄に引き戻されます。キリストに属する「わたしたち」も、今でこそ違った者になっていますが、「以前はみなこのような者たち(不従順の子ら)の中にあって、肉のもろもろの欲望の中にさまよい、肉や思いの欲するままを行い、他の人たちと同様、生まれながら怒りの子であった」のです(三節)。
 ここで著者が「肉」という語を用いるとき、生まれながらの人間本性の全体を指すパウロの用例を継承しています。著者が異教世界の悪を語るところからすると、ここではとくに抑制のない性的な欲望のことを念頭に置いているとも考えられますが(五・三〜五参照)、それに限らず人間の本性的自我心から出るもろもろの悪(パウロがガラテヤ書五・一九〜二一で「肉の働き」として列挙しているような悪)を指していると見てよいでしょう。
 そのような肉の欲望の中に生きていたわたしたちは「生まれながら」神の怒りを受けるように定められた人間でした。ここの「生まれながら」(直訳は「自然に、自然に従って」)という語はパウロも用いていますが、パウロにおいては律法を持たない異邦人が「自然に」律法の命じるところを行う場合という文脈で用いられていました(ローマ二・一四)。それに対してエフェソ書では、この語によって人間は本性的に神の裁きに定められた存在とされます。この文は後の時代の原罪論の一つの論拠となります。

キリストと共に生かし
 このように「他の人たちと同様、生まれながら怒りの子であった」わたしたちをも、神はキリストと共に生かしてくださったのです。この五節の「共に生かしてくださった」という動詞が、一節から七節まで続く長い一つの文の述語動詞です。主語は四節にある「神」で、目的語は「もろもろの違反によって死んでいるわたしたち」です。この「わたしたち」は一節で呼びかけられていた「あなたたち」を含む、今はキリストに属する者になっている「わたしたち」です。
 この「神はわたしたちをキリストと共に生かしてくださった」という箇所が、この長い一文(一〜七節)の基本構造ですが、その「わたしたち」がどのような状況であったかがまず一〜三節で描かれ、次に四節でわたしたちを生かしてくださる神がどのような方であるのかが語られ、その後に五節前半の主文が来ます。五節後半は挿入文で、六節で他の二つの動詞を用いて「キリストと共に生かす」ということが具体的に説明され、最後に七節で、神がそうされた目的が語られます。
 「もろもろの違反によって死んでいるわたしたちさえもキリストと共に生かし」てくださったのは、「神は憐れみに富んでおられる」からであり、「わたしたちを愛してくださったその絶大な愛によって」、そのような人の思いを超える業を成し遂げてくださったのです(四節)。わたしたちが救われて現在神の民として生きているのは、わたしたちの側には何の根拠、資格、功績もなく、ただ神の憐れみ、また絶大な愛から出る出来事です。このことを著者は師パウロが繰り返し口にしていた「恩恵」《カリス》をいう語を用いて言い直し、「恩恵によってあなたたちは救われているのです」という一文を挿入します(五節後半)。
 五節の主文にある「わたしたちさえも」の「さえも」は、一つには「もろもろの違反によって死んでいる」ので、そのような神のよき働きを受ける資格のないわたしたちさえも、という意味ですが、さらにキリストを復活させるだけでなく、このようなわたしたちさえもキリストと一緒に復活させてくださったというという、二つの強調が含まれています。
 五節前半の主文には「共に生かす」という動詞が用いられています。この動詞の語幹をなす「生かす、命を与える」《ゾーオポイエオー》は、パウロも「起こす、復活させる」《エゲイロー》と同じ意味で用いていますが(ローマ八・一一など)、それよりは意味が広いので、まずキリストにあって起こった変化がこの語で表現されます。その後で、「キリスト・イエスにあって共に復活させ、共に天上の座に着かせてくださった」と、「復活させる」や「座に着かせる」という初期の教団に伝統的な用語を用いて言い直されます(六節)。その時、この二つの動詞にも「共に」という接頭辞が加えられています。このような「共に生かす、共に復活させる」という用語はコロサイ書(二・一二〜一三、三・一)にも見られますが、この二つや「共に座に着かせる」は、(パウロ書簡を含め)新約聖書の他のどこにもない、コロサイ・エフェソ両書独自の用語です。
 パウロは、キリスト者はキリストの死に合わせられることによって復活者キリストと合わせられ、キリストを死から復活させた命に生きるようになることを救済の出来事として強調していました(ローマ六・三〜五)。そして、そのことを繰り返し「キリストにあって」という句で指し示していました。このキリストと合わせられることによって生かされている現実を、著者は「(キリストと)共に生かす」という動詞を用いて、一語で表現します。わたしたちはキリストと合わせられ、「キリストと共に生かされている」のです。

復活信仰の現在化
 ここで注目されるのは、この箇所(五〜六節)の三つの動詞がみな過去形で語られていることです。パウロは、神がわたしたちを「復活させる」というときは、いつも未来形で語っていました。パウロにおいては、「復活」はキリストの来臨の時に起こる終末的な完成を指す用語でした。それに対して、著者は「生かす」、「復活させる」、「座に着かせる」の三つの動詞を過去形で用い、その出来事がすでに起こったことだとします。この違いは、著者がパウロと違った現実に生きていることを示しているのではなく、同じ現実を指すのに用いる用語が違ってきていると理解しなければなりません。
 パウロは、わたしたちがキリストにあって(キリストに合わせられて)復活の質をもつ新しい命に生きることを現在の事実として強調していますが、それを「復活した」という語で語ることはありません。「復活」はいつも将来の終末的な出来事として待ち望まれています。ところが、著者は現在わたしたちが復活の質の新しい命を生きていることを「(キリストと)一緒に復活した」と表現するのです。ここに、明らかにパウロと著者との間に用語の違いが出てきています。
 「復活させる」を過去形で用いる以上、将来の復活を語ることはできません。事実、エフェソ書には将来の復活(死者の復活)を語る箇所はありません。終末時の死者の復活を指す術語となっていた「復活」《アナスタシス》という名詞(パウロはそれを用いて死者の復活を強調していました)は、コロサイ・エフェソ書には出てきません。著者の目は現在に集中し、「復活」はこの世(地上)で死んでいたわたしたちがキリストの命に生かされ、キリストと一緒に天上の座に着くこととされます。すなわち、復活が時間的な軸ではなく空間的な枠組みの中で表象されることになります。
 この「復活信仰の現在化」とも呼ぶべき変化は、ヨハネ福音書においてもっとも明確な表現に達しています。ヨハネは、「信じる者は永遠の命を持っており、裁かれることなく、死から命に移っている」と語り(五・二四)、「(現に)わたしが復活《アナスタシス》であり、命である」(一一・二五)と宣言します。しかし、そのヨハネ福音書が同時に、「わたしの父の意志は、子を見て信じる者が皆、永遠の命を持ち、わたしがその人を終わりの日に復活させることである」と、「終わりの日の復活」を加えている(六章に四回)ことは、復活信仰を現在の体験だけに限定することはできないし、またしてはならないことを示唆しています。

 

恩恵の体現者としての《エクレーシア》

 この長い文の最後に、「神はわたしたちをキリストと共に生かしてくださった」という出来事の目的、あるいはそうされた神の意図が語られます。「こうして神は、キリスト・イエスにあってわたしたちに注がれた慈しみによって、御自身の恩恵のすべてを超える豊かさを、来るべき代々に示そうとされたのです」(七節)。わたしたちキリストの民が、キリスト・イエスにあって注がれた神の慈しみによって、このように復活者キリストと一緒に復活の命に生きるようにされたのは、それが恩恵の出来事であることを神が「来るべき代々に示そうとされた」からに他なりません。
 「来るべき代々」というのは、地上の人間の歴史においてこれから継起する諸々の時代を指しています。黙示思想には「来るべき代《アイオーン》」という表現があり、これは現在悪が支配する「この代《アイオーン》」と厳しく対立する終末的な時代を指しますが、ここの「来るべき代々」は《アイオーン》の複数形が用いられており、黙示思想の「来るべき世」(単数形の《アイオーン》)とは違います。著者には黙示思想の枠組みはありません。
 キリストの民が歴史の中に歩むのは何のためか、歴史におけるキリストの民の存在理由は、神の恩恵の体現者であることです。恩恵の体現者として、神の恩恵の「すべてを超える豊かさ」を、人間の歴史の諸々の時代に証言することです。キリストにおける救いの出来事全体を神の「恩恵」の出来事とすることは、著者が「恩恵の支配」を福音の根幹としたパウロを継承していることを示しています。著者は、パウロの「恩恵の支配」を、自分の主要関心事である《エクレーシア》の存在理由にまで貫いて、このように語ります。
 ところが、その後のキリストの民の歩みを見ますと、神の恩恵の証示という使命を果たしてきたかどうか、真剣に反省しなければならないようです。キリストの民は初期の激しい迫害に耐えて信仰を貫き、ついにローマ帝国の国教となって、強大な「キリスト教会」を形成しました。キリスト教会はその二千年にわたる歩みの中で、世界史の諸々の時代に「キリストにおける神の恩恵」を証言し、無条件の恩恵に生きる多くの有名無名の聖徒たちの献身的な働きによって神の恩恵の「すべてを超える豊かさ」を示してきました。しかし一方では、受けている恩恵にもかかわらず、人間本性の弱さに引きずられて、自分と異なる者を力で抑圧するという多くの過ちをも犯してきました。昔イスラエルの預言者が、「わたしの名はあなたたちのために汚されている」と語ったようなことが、キリストの民の歴史にもあったことは事実です。キリストの民はつねに恩恵の原理に立ち帰ることによって、人間本性の悪を克服する神の恩恵の豊かさを、自分の存在を通して自分の時代に証言しなければなりません。それが歴史におけるわたしたちの存在理由なのです。エフェソ書のこの一節は、改めて歴史の中でのわたしたちの使命を思い起こさせます。

神の作品
 このように、長い一つの文(一〜七節)でキリストにおける神の救いの働きを語った著者は、それがまったく神の恩恵から出るものであることに圧倒されて、途中で「恩恵によってあなたたちは救われているのです」(五節後半)という一文を挿入しないではおれませんでした。ようやくその長い一つの文を書き終えて、改めてわたしたちの救いの出来事の全体が恩恵によるものであることを結論として掲げます。そのさい、神が無条件で与えてくださっている救い(それが恩恵です)を、ひれ伏して無条件で受け取るわたしたちの側の姿(それが信仰です)をも加えないではおれませんでした。
 こうして著者が結論として掲げる「事実、あなたたちは信仰を通し恩恵によって救われているのです」(八節前半)という一文は、「恩恵の使徒」パウロの福音の根幹を実に見事に要約しています。パウロの福音は、「キリストにあって」という場においては神の無条件絶対の恩恵が支配しているという告知であり、人は主イエス・キリストを信じてその恩恵を無条件に受け入れるときに、キリストにおいて成し遂げられている神の側の働きによって救われることを明らかにしました。パウロの「人は信仰によって義とされる」という主張も、その「恩恵の支配」の一つの局面に他なりません。
 そのことがさらに別の表現で繰り返されます。著者は同じことを、「このこと(救われていること)はあなたたちから出ることではなく、神の賜物です」(八節後半)と繰り返します。救いは人間の働きの報酬として与えられるのではなく、働きとか資格のない者に与えられる神の賜物です。パウロも「恵みによる」ということを「賜物として、無代価で」という句で言い換えていました(たとえばローマ三・二四)。さらに念を押すように、「行いからではありません。それは誰も誇ることがないためです」(九節)と、パウロの言葉をほとんど鸚鵡返しのように繰り返します(ローマ三・二七参照)。この箇所(八〜九節)は、著者がパウロの継承者であることを実によく示しています。
 ただ、著者はここで「行いからではありません」と言っています。パウロが行いを問題にするときは、いつも「律法の行い」でした(ローマ三・二八参照)。すなわち、ユダヤ教律法が要求する様々な行い、たとえば割礼を受けて安息日の規定や食物規制を順守するというような行為を指していました。しかし、著者の時代には、すでにユダヤ教律法の問題は解決しています。割礼を受けないままで、すなわち異邦人のままで神の民として受け入れられるという原理は確立していました。そのような状況で「行い」というときは、行い一般、日常の生活の中での振る舞い一般を指すことになります。著者はそのような行いを念頭に置いて、それがどのように立派なものであっても、その行いによって救われるのではない、と恩恵の支配の原理を(パウロに倣って)繰り返します。
 そうすると、キリストにあって恩恵によって救われている者はよい行いをしなくてもよいのだという誤解をする者が出てくるおそれがあります。パウロの場合も、そのような誤解による非難が絶えませんでした。その危険を予防して、著者は恩恵と善い働きとの関係を明確にします。「事実、わたしたちは神の作品です。わたしたちは善い働きのためにキリスト・イエスにあって造られたのです」(一〇節前半)。
 著者はそれを、作品と作者の意図の関係を比喩として語ります。陶器師が花を挿すために作った陶器は花瓶としてしか使えません。わたしたちキリスト者は神が制作された作品であり、制作者である神がキリストにあってわたしたちを新しく造られた目的は、善い働きをさせるためであり、それにふさわしい形に造られたのです。しかも、その善い働きは「神が前もって備えられた」ものです(一〇節後半)。神の民としてのわたしたちの存在が予め定められていたように、わたしたちのなすべき善い働きも、制作者である神が前もって備えられました。わたしたちがする善い働きは、わたしたちから出るのではなく、神が用意してくださったものです。その善い働きをするためにこそ、わたしたちは造られているのです。どうしてこのキリスト者としての存在をそれ以外の仕方で用いることができるでしょうか。このように著者は、恩恵と善い働きの関係を「神の作品」という比喩で明らかにします。


  5 キリストにあって一つ (2・11〜22)

  11 それ故に、思い起こしなさい。あなたたちは以前は肉においては異邦人であり、手によって肉になされた割礼と呼ばれるものを受けている人たちからは、無割礼の者たちと呼ばれていました。 12 その時には、あなたたちはキリストと関わりがなく、イスラエルの国籍と無縁であり、約束の契約からは疎外され、この世において希望を持たず、神なき者でした。13 しかし今やキリスト・イエスにあって、以前は遠かったあなたたちがキリストの血によって近い者となったのです。
 14 実に、キリストはわたしたちの和です。キリストは二つのものを一つにし、仕切の中壁、すなわち敵意を打ち壊されました。キリストは御自身の肉において 15 様々な規定から成る戒めの律法を無効にされたのでした。それは、二人の人を御自身において一人の新しい人へと創造して和をもたらし、16 また、御自身において敵意を抹殺して、両方の者を一つの体にして十字架により神と和解させるためでした。 17 それから来て、あなたたち遠い者たちにも和を、そして近くの者たちにも和を宣べ伝えられました。 18 それで、わたしたち両方の者が一つの御霊によって父に近づくことができるのです。
 19 それで、あなたたちはもはや外国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと国籍を共にする者、神の家に住む者であり、20 使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたのです。そして、土台の隅石はキリスト・イエスです。 21 このキリストにあって、建物全体が組み合わされて、主にある聖なる宮へと成長します。 22 キリストにあって、あなたたちもまた共に建てられて、御霊によって神の住まいになるのです。

遠い者が近い者に
 著者はこれまでに書いてきたこと、とくに直前の段落(二・一〜一〇)で書いたことを受けて、「それ故に」思い起こしなさい、と手紙の読者に呼びかけます。著者は、キリストが成し遂げてくださった御業の意義を際だたせるために、まず読者の「以前」の姿、すなわちキリストに来るまでの時期の姿を思い起こさせます(一一〜一二節)。
 この手紙の読者のほとんどは異邦人です。エフェソを中心とするアジア州でのパウロの宣教活動は豊かな実を結び、パウロが去ってから後も弟子たちの働きにより福音は進展し、エフェソと周辺各都市にキリストの民が形成されますが、この手紙が書かれる頃(おそらく80年代以降)ではそのほとんどが異邦人であったと見られます。そのことを著者は、「あなたたちは以前は肉においては異邦人であった」と語ります(一一節前半)。「肉においては」という表現は、ここでは民族の区分としてはユダヤ人ではなく異邦人であったというだけの意味で、パウロが用いたような生まれながらの人間本性を問題にしているものではありません。
 その「異邦人である」ことが、「手によって肉になされた割礼と呼ばれるものを受けている人たちからは、無割礼の者たちと呼ばれていました」と説明されます(一一節後半)。ユダヤ人と異邦人の区別が割礼の有無で表現されています。

 ここで著者が割礼を「手によって肉(身体)になされた割礼と呼ばれるもの」と語っていることが注目されます。芯からのユダヤ教徒であれば、割礼をこのように語ることはできないと考えられます。割礼を軽蔑していた異邦人(異教徒)か、ユダヤ教徒の中でもパウロのように割礼を相対化して、もはや神の民のしるしではないとした者だけが用いることができる表現です。「手によって肉になされた」という表現には、所詮それは神との関わりという霊的次元には無意味なものに過ぎないという気持ちが込められています。さらに、「割礼と呼ばれるもの」という表現には、人間が勝手に割礼を神の民の印だとか様々な意義をつけて呼んでいるだけで、神はそういう人間の呼び方に拘束されてはいない、という批判的な気持ちがこめられています。著者は、パウロの「無割礼の福音」の立場から、割礼をこのように扱っています。
 そのようなものに過ぎない割礼の観点から無割礼の者と「呼ばれて」も、その呼び方は神の前に何の意味もないのですが、それでも無割礼の異教徒として、イスラエルの民に与えられていた特権が無かった事実が列挙されます(一二節)。これは、パウロが上げていたイスラエルの特権(ローマ九・四〜五)の裏返しです。
 「その時」、すなわちあなたたちがキリストに来るまでの時期においては、あなたたちは異邦人として「キリストと関わりがなく」《コーリス・クリストゥ》生きていました。これは「キリストの外で」とか「キリストと無関係に」という表現です(パウロの「律法とは別に」も《コーリス・ノムゥ》です)。この場合の「キリスト」は、歴史の中に現れた特定の人物ではなく、神からの「救済者」という広い意味に理解すべきでしょう。神から遣わされる「救済者」とその働きには関わりなく、異邦人が自分自身のなすがままの状態に放置されていたことを指しています(ローマ一・一八〜三二参照)。
 神の救済の働きはイスラエルの中に進められていましたから、このように異邦人が神とキリストの救済の働きと無関係に放置されていた状態は、「イスラエルの国籍と無縁であった」と表現されます。「国籍」と訳した語《ポリテイア》は(フィリピ三・二〇の《ポリテウマ》とほぼ同じで)市民共同体をも意味しますが、その共同体の一員である資格を意味する「国籍」とか「市民権」という意味もあり、ここではその意味に理解してよいでしょう。
 イスラエルの歴史の中に進められた救済のための神の働きと無縁であったことは、その中でイスラエルに与えられた「約束の契約」の当事者にはされず、よそ者《クセノス》であったことを含みます。「約束の契約」とは、神から民に与えられた約束(単数形)を内容とする諸々の契約(複数形、それらがイスラエルの歴史を形成します)を指しています。その「約束」とは、結局神の最終的な救済にあずかるという約束です。
 こうして以前の「あなたたち」は、神の救済の働きとは無縁な異邦人として、この世《コスモス》の悲惨な現実に放置され、「希望なく、神なき者」であった、と要約されます。ここの「希望」は、すでにコロサイ書の場合もそうでしたが、将来の終末的栄光を待望するという意味の希望よりは、むしろ神との関わりにおいて現在与えられている霊的資産を指す傾向があります。そのような意味の語として、「希望なき者」が、神の命から遠く離れている者(四・一八)として「神なき者」と同格で並びます。
 このような「あなたたち」の以前の状態を、著者は「以前は遠かったあなたたち」とまとめ、その「遠かった」あなたたちが、「しかし今やキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となった」と、キリストにおいて起こった出来事を語ります(一三節)。そして、「近い者となった」ことの中身を、続く一段(一四〜一八節)で詳しく描くことになります。一三節は、以前の状態を描く一一〜一二節と、キリストにある今の現実を描く一四〜一八節を結ぶ位置にあります。その転換を「遠い」と「近い」という語で語るさい、著者は預言者イザヤの「平和、平和、遠くにいる者にも近くにいる者にも」(新共同訳イザヤ書五七・一九)という言葉を念頭に置いていたのでしょう。

二つのものを一つに
 以前は神の命から遠かった者が今は近い者になっているのは、キリストの血、すなわちキリストの十字架上の死によって成し遂げられた贖いの御業によるのですが、それはパウロが信仰によって義とされた結果として、「わたしたちは神との和を得ています」(ローマ五・一)と語ったことに他なりません。イザヤの言葉にも触発されたのでしょうが、著者はパウロと同じく、ここで「和」という言葉を標題として用いて、キリストにおいて成し遂げられた神の救済の御業を描きます。この箇所(二・一四〜一八)は「和」(三回)と「和解」を主題としており、「和」で始まり「和解」で終わるパウロのローマ書五章一〜一一節をさらに濃縮したものになっています。

 著者はまず「キリストはわたしたちの和である」とテーゼ(主題)を掲げます(一四節前半)。そして、キリストがどのような意味で「わたしたちの和」であるのか、和をもたらされるキリストの働きを叙述します。その叙述の仕方は、基本的にはパウロを継承していますが、著者の視点はかなりパウロの視点とは違ってきています。
 パウロにおいては、「和」は何よりも神とわたしたち一人ひとりとの間の問題でした。著者においてもそれが基本にあるのは違いないのですが、著者の場合はその神と人との和がエクレシアの和の土台になっている事実に関心が集中しています。エクレシアこそ著者の主要関心事です。著者は、エクレシアを構成する二つの対立的なグループが、キリストの働きによって一つにされたことを「和」という語で言い表すのです。
 著者が「キリストは二つのものを一つにし、仕切の中壁、すなわち敵意を打ち壊されました」(一四節後半)と言うとき、それはユダヤ人と異邦人という二つの民を、キリストの民という一つの民にされたことを指しています。これまではユダヤ人を異邦人から仕切るモーセ律法が「仕切の中壁」となって、ユダヤ人と異邦人を対立する別の民としていました。著者はその対立関係を「敵意」と呼んでいます。「敵意」とは心理的なものではなく、融和できない対立関係を指しています。
 ところが、「キリストは御自身の肉において様々な規定から成る戒めの律法を無効にされた」のです(一四節末尾と一五節前半)。これは、キリストの十字架上の死が神の贖いの業ととして実現したため、キリストに所属することが神の民の唯一の要件となり、モーセ律法の諸々の規定の順守は神の民の要件ではなくなったことを指しています(コロサイ二・一四参照)。これは、パウロの「無割礼の福音」をいっそう直接的に表現したものに他なりません。

 続いて、キリストがご自身の死によって成し遂げられた贖いの業の目的が語られます。「それは、二人の人を御自身において一人の新しい人へと創造して和をもたらし、また、御自身において敵意を抹殺して、両方の者を一つの体にして十字架により神と和解させるためでした」(一五節後半〜一六節)。
 キリストにおける「新しい人」の創造は、パウロも語っていました(コリントU五・一七)。しかし、パウロにおいて「新しい人」はあくまでキリスト者一人ひとりの問題でした。それに対してエフェソ書ではエクレシアの形成が「新しい人」の創造とされます。これまでは別々の二人の人を、キリストはご自身の中で一人の人に造りかえられたのです。それは、キリストが仕切の中壁であるモーセ律法を無効とされた結果です。歴史の中でのエクレシアの形成こそ、エフェソ書の著者にとって終末時の神の新創造の働きなのです。
 この箇所とほぼ同じことがコロサイ書にも出てきますが、コロサイ書において十字架の血による「和」は、地の上にあるもの天にあるもの万物がキリストと、ひいていはキリストにあって神と和解することでした(コロサイ一・二〇)。また、「和解」は、パウロの場合と同じく、神に敵対する人間が神と和解することでした(コロサイ一・二一〜二二)。ところが、エフェソ書の著者にとって「和」とは、二人の人がキリストにあって一人の新しい人へと創造されること、すなわちユダヤ人と異邦人という隔てられていた二つの民がキリストの民という一つの民にされたことです。そして、「和解」とはこの二つの民が対立関係を解消されて一体となり、その一体化された姿で神に近づくことです。コロサイ書と比べると、エフェソ書の著者の関心がエクレシアに集中していることがよく分かります。
 続く(一七節の)「それから来て」という句は、使徒たちの福音宣教において、キリストが世に来て働いておられるという理解が表明されていると考えられます(一四〜一八節の長い一文の主語はキリストです)。キリストは今や使徒たちを通して「和」を「福音して」おられるのです(コリントU五・一八〜二〇参照)。この「福音する」あるいは「福音として宣べ伝える」という動詞や、「和」とか「遠い者と近い者」という語の使用は、著者がイザヤの預言に精通していて、その預言(イザヤ五二・七、五七・一九など)をキリストにおいて成就されと解釈して用いていることをうかがわせます。
 この和解の福音は「あなたたち遠い者たち」、すなわち神から遠く離れていた異邦人たちに宣べ伝えられ、また「近くの者たちにも」、すなわちイスラエルの民にも宣べ伝えられました。この順序はパウロの場合とは逆転しています。パウロは「まずユダヤ人に、そしてまたギリシア人にも」と語っていますが、すでに異邦人がエクレシアの主流となっている時期に書いているエフェソの著者の書き方は、(イザヤ書の語順に従って自然に)逆の順序になっています(一七節)。
 以前にあった「遠い者と近い者」の区別は、今は無意味になっています。今は「わたしたち両方の者」、すなわち遠い者であった異邦人と近い者であったユダヤ人の両方が一つの「わたしたち」キリストの民となって、「一つの御霊によって父に近づくことができるのです」(一八節)。キリストはその十字架の血によってわたしたちを神と和解させてくださっただけでなく、ご自身に属する民に聖霊を送って、わたしたちが神の御霊によって「父よ!」と祈り、神の子として父に近づき、父と親しい交わりを持つことができるようにしてくださったのです(ローマ八・一五)。

神の家
 このようにあなたたちはキリストによって近い者とされたのだから、以前は「イスラエルの国籍《ポリテイア》と無縁であり、約束の契約からは疎外されたよそ者《クセノス》」(一二節)であったとしても、今はもはやそのような「外国人」《クセノス》ではなく、市民権《ポリテイア》のない「寄留者」でもない。今は「聖徒たちと国籍を共にする者」、すなわち本来神に所属する民と「同国人」(《ポリテイア》を共にする者)です。そのような者として、あなたたちは今や「神の家に住む者」です。これは、直訳すると「神の家の中の者たち」すなわち「神の家族」という語です(一九節)。

 「神の家に住む者」という表現から、著者の筆は自然に建物の比喩に移っていきます。わたしたちが神と共に住む家は「使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられた」家です(二〇節前半)。著者にとって「使徒」とは誰よりもまずパウロを指しますが、ここでは著者は視野を広くして、彼の時代のキリストの民全体を見ています。その民の存立の土台になっているのは、復活者キリストの証人として福音を告知した「使徒たち」(複数形)であり、また神からの霊を受けてキリストの奥義を伝えた「預言者たち」です。ここの「預言者たち」は旧約のイスラエルの預言者たちではなく、キリストの民の中で御霊のカリスマによって「預言者」とされた人たちを指すと見られます。そのような人たちの証言を文書にしたものが新約聖書ですから、新約聖書こそがわたしたちキリストの民の「土台」となります。
 この「土台」に、「その隅石はキリスト・イエスです」という文が加えられます(二〇節後半)。エクレシアという建物全体を支える土台は「使徒たちや預言者たち」ですが、その土台そのものの最も重要な位置(普通は角)にしっかりと組み込まれて土台の石を結びつける「隅石」はキリストであるイエスご自身に他なりません。主・イエス・キリストこそエクレシア全体の基礎の基礎です。

 パウロはイエス・キリストだけをエクレシアの土台としています(コリントI三・一〇〜一一)。それに対してエフェソ書になると、イエス・キリストとエクレシアの間に「使徒たちや預言者たち」が入ってきて、キリストと「使徒たちや預言者たち」が組み合わされてエクレシアの土台を形成しています。ここにも、パウロと著者の距離が見られます。
 キリストは土台の隅石であるだけでなく、建物全体を組み合わせる原理でもあります。エクレシアはキリストという原理(設計図)によってその全体が組み合わされ、次々と新しい部分が加えられて拡大成長し、その中に神が住まわれる聖なる宮(神殿)となります(二一節)。
 成長する建物という比喩は特異ですが、著者はエクレシアを建物の比喩で語るときにも、「一人の新しい人」(二・一五)とか「(人の)身体」(四・一六)という有機体のイメージを重ねないではおれないのでしょう。エクレシアを成長する建物の比喩で語ることはこの後も進展し、ペトロ第一書簡(二・五)にも用いられ、二世紀前半の使徒教父文書である「ヘルマスの牧者」では主要部分を形成するようになります。このイメージはヨーロッパの聖堂が何百年もかけて石を積み上げて完成する姿と重なります。エフェソ書の著者は霊感を受けて、(建物ではなく)キリストの民エクレシアが成長して、世界を覆い尽くす神の住まいとなることを見ています。
 このようにエクレシアを神が住まわれる建物として描いた上で、著者は読者に向かって「キリストにあって、あなたたちもまた共に建てられて、御霊によって神の住まいになるのです」と呼びかけます(二二節)。あなたたちはこの建物を外から眺めている者ではなく、「共に建てられ」、この建物に組み込まれて、「御霊によって神の住まいになる」者であることを自覚するようにと呼びかけます。
 コロサイ書の著者も「建てる」という動詞を用いて勧告をしていましたが(コロサイ二・七)、それはあくまでキリスト者個人の信仰の問題でした。それに対してエフェソ書の著者は「共に建てる」という形で、エクレシアの形成を問題にしています。
 エクレシアの形成という出来事が、繰り返し「キリストにあって」という句と「御霊によって」という句を用いて語られていることに留意しなければなりません。地上での神の住まいであるエクレシアは、キリストを土台とし、また構成原理として、御霊の現実の働きによって形成されるキリスト者の共同体です。御霊の働きなしには、いかに壮大な聖堂も、いかに巨大な教団も、神が住まわれる場所ではありえません。

 


  6 パウロに啓示されたキリストの奥義   (3・1〜13)

 1 このような理由で、あなたたち異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっているわたしパウロは ―― 2 あなたたちは、あなたたちのためにわたしに賜った神の恩恵の務めを聞いているはずです。3 先に手短に書いたように、啓示によって奥義がわたしに知らされました。4 あなたたちはそれを読めば、キリストの奥義におけるわたしの洞察を悟ることができるはずです。 5 この奥義は、今キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに御霊によって啓示されているようには、他の時代の人の子らには知らされていませんでした。6 すなわち、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人が共同の相続人となり、同じ体に属する者、共に約束にあずかる者となるのです。7 わたしがこの福音に仕える者になったのは、神の力の働きに従ってわたしに与えられた神の恩恵の賜物によるのです。
 8 このような恩恵が聖徒たちの中でもっとも小さいわたしに与えられました。それは、わたしが異邦人たちにキリストの計り知れない富を宣べ伝えるためであり、9 また、万物を創造された神の内に永遠の昔から隠されていた奥義の御計画がどのようなものであるかを明るみに出すためでした。10 こうして今や、多様多彩な神の知恵が御民を通して天上にある支配や権勢に知らされることになったのです。11 これは、神がわたしたちの主イエス・キリストにあってお立てになった永遠の御計画に従うものです。12 この方にあって、この方への信仰による確信をもって、わたしたちは大胆さと接近を得ているのです。13 それゆえに、あなたたちのために受けているわたしの苦難によって、あなたたちが落胆することのないように願います。この苦難はあなたたちの栄光なのです。


神の恩恵に仕える務め
 著者は師パウロのエフェソでの入獄を知っており、その獄中からの書簡の形で本書を書いています(フィレモン一、九参照)。「キリスト・イエスの囚人」は、パウロの用法では、キリストの宣教ゆえに獄に入れられている者という意味と、キリストに捕らえられている者という意味という二つの意味が重なっています。パウロが使徒であることはその苦難の中に現れるので(コリントT四・九、コリントU一一・二三)、著者は使徒としてのパウロの立場を印象づけるために苦難の場からの手紙として本書を書きます(一節)。これはコロサイ書も同じで、「使徒名書簡」の多くが獄中書簡という形をとることになります。
 これまでに述べたこと、とくに直前の二・一一〜二二の段落で述べたことを受けて、「このような理由で」と言って新しいことを語り出そうとしますが、「わたしパウロは」とまで書いて、そのパウロがどうするのかは語られず、パウロがどのような立場の者であるかが延々と述べられ(二〜一三節)、一四節になってやっと「このような理由で、わたしは父の御前に両膝をかがめて祈ります」と本筋に帰ります。したがって、この段落は挿入的にパウロについての著者の理解を語る部分となっています。
 著者はこの手紙の受取人たちが、パウロに与えられた「神の恩恵の務め」を聞いているはずだとします(二節、この書き方は著者が受取人たちと直接の面識がないことを示唆しています)。その上で、以下にその内容が展開されますが、この段落はコロサイ書一章二三〜二八節と並行しています。しかし、微妙な違いも見られます。

 「神の恩恵の務め」とは、神の御霊によって啓示として与えられた「恩恵の事態」(コリントT二・一二)を、忠実に保持して伝えることです、(コリントT四・一〜二)。パウロは恩恵によって使徒とされ(コリントT一五・九〜一〇)、キリストにおける「恩恵の支配」を異邦諸国民に伝えてきました。パウロはまさしく「恩恵の使徒」、自らが体験した神の恩恵を世界に告知する使徒とされたのです。この手紙の受取人たちは、パウロが形成した集会の一員として、パウロがこのような使徒であることは十分聞いているはずだ、と著者は言います。このような書き方は、直接パウロの伝道に接していない世代の人たちに語っていることを示唆しています。
 三節の「先に書いたように」というのは、「手短に」という説明がついていることから、パウロ書簡を指すのではなく、「(この手紙の中で)前述したように」という意味で、具体的には先行する段落(二・一一〜二二)を指しているか、あるいはコロサイ書のような先行する短い書簡を指していると考えられます。そこに書いたように、パウロに与えられた「奥義」《ミュステーリオン》は啓示によって知らされたものでした。
 著者は、先に書いたその書簡(あるいは部分)を読めば、パウロが「キリストの奥義」をどのように理解しているかが分かるはずだとします(四節)。そして、その「奥義」を改めて説明します(五〜六節)。まず、「この奥義は、今キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに御霊によって啓示された」ものであって、以前の時代の人々には知られていなかったことが述べられます(五節)。キリストが出現された終末の時になってはじめて開き示された奥義であって、それ以前の時代の「人の子ら」(ここでは広く人類を指す)には知られていなかった奥義です(コロサイ一・二六と並行)。同じことがイエスの言葉として伝えられ、福音書に保存されています(ルカ一〇・二三〜二四)。

 その奥義の内容は、「福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人が共同の相続人となり、同じ体に属する者、共に約束にあずかる者となる」ことです(六節)。コロサイ書(一・二七)では「この奥義とはあなたたちの中にいますキリスト、栄光の希望です」と語られていました。それに較べると、エフェソ書の著者の関心がエクレシアの問題に集中していることが、ここにも見られます。キリストの到来によって啓示された奥義とは、これまでに著者が繰り返して述べてきたように、キリストに属する者となることによって、異邦人が本来の神の民であるイスラエルと共同の相続人となり、ユダヤ人と異邦人が一つの民となり、同じ体に属する者、共に栄光の約束にあずかる者となることに他なりません。
 著者はここで、パウロこそがこの奥義を告知する福音の使徒であることを改めて強調します。神がパウロをそのような使徒としてお立てになったのですが、著者はその事実を、パウロ自身が繰り返し告白していたように、神の恩恵によることとします(七節)。

神の永遠の御計画としての奥義
 著者はパウロ自身の告白(コリントT一五・九)を受け継いで、パウロを世界の諸民族への使徒としたのは、「聖徒たちの中でもっとも小さい」者に与えられた大きな恩恵であるとします(八節前半)。「もっとも小さい」という表現は、パウロ自身が言っているように、神のエクレシアを迫害した者として、そのような使徒とされる資格が「もっとも小さい者」(セム語的表現法では、その資格がない者を意味します)であるという自覚を指しています。

 その上で、パウロに与えられた使徒としての使命が語られます。「それは、わたし(パウロ)が異邦人たちにキリストの計り知れない富を宣べ伝えるためであり、また、万物を創造された神の内に永遠の昔から隠されていた奥義の運用がどのようなものであるかを明るみに出すためでした」(八節後半〜九節)。
 ここに用いられている「奥義の《オイコノミア》」は、一章一〇節の「諸々の時の充満の《オイコノミア》」と同じく、神がその御計画を成し遂げられること、すなわち神がなされる「管理・運用」を指しています。「遂行」と訳してもよいかもしれません。この「万物を創造された神の内に永遠の昔から隠されていた奥義」は、すぐ後で「永遠の御計画」と言い直されています(一一節)。《プロセシス》とは(一・一一にも用いられていましたが)、予め立てた計画、予定ということで、この語はローマ八・二八、九・一一で、パウロが用いています。その御計画を(隠すことも含めて)管理し、運用し、遂行する神の働きが《オイコノミア》と呼ばれます。

 そのような永遠の昔から「隠されていた」神の奥義の《オイコノミア》を「明るみに出す」ことが、使徒パウロに与えられた使命です。この「隠されていたものを明るみに出す」ということが、まさに「黙示」ということであり、「奥義」という黙示思想的中心概念と共に、著者はパウロの黙示思想的枠組みを継承して、パウロを理解していることを示しています。
 この「万物を創造された神の内に永遠の昔から隠されていた奥義、永遠の御計画」は、キリストにあって万物が統合されることを目的として(一・一〇)、キリストを原理として運用・遂行されるのですから、キリストの中にこそ神の「計り知れない富」が所蔵されていることになります(コロサイ二・三)。それは「キリストの計り知れない富」と呼ばれ、その富を世界の諸国民に告げ知らせることが、使徒パウロの使命です。

奥義の担い手としてのエクレシア
 ここでさらに著者独特の「奥義」理解が現れます。著者はすでに、主イエス・キリストにあってユダヤ人と異邦人が一つにされてキリストの民(エクレシア)を形成することが「奥義」であるとしていました(六節)。代々に隠されていたその「奥義」が、今や使徒パウロによって顕わにされて実現しました。「こうして今や」、すなわちエクレシアにキリストの奥義が実現した結果、「多様多彩な神の知恵が御民を通して天上にある支配や権勢に知らされることになった」(一〇節)と著者は言います。
 キリストの民エクレシアは、もはや「天上にある支配や権勢」と呼ばれる霊的諸存在に教えられたり、管理されたり、支配される存在ではなく、逆にそのような宇宙的諸存在に「多様多彩な神の知恵」を教えるものとなったのです。エクレシアこそ、神の奥義を体現し、理解し、地上の諸民族だけではなく、天上にある霊的諸存在に、「万物を創造された神の内に永遠の昔から隠されていた奥義」の内容と、その奥義が複雑な現実の中に貫かれるさいの「多様多彩な神の知恵」を明らかにして告げ知らせるのです。

 このようにキリストの民エクレシアが終わりの時に神の救済史の担い手にされたことは、「神がわたしたちの主イエス・キリストにあってお立てになった永遠の御計画に従うものです」(一一節)。神は天地の万物が創造される前から、このように予め定められました(一・五〜六)。今や、主イエス・キリストが現れて、その業を完成され、キリストに属する民がその御計画の担い手として立ち現れました。
 この奥義の担い手であるキリストの民は、「この方にあって、この方への信仰による確信をもって」、大胆に、自由に父なる神に近づくことができるのです(一二節)。「この方にあって」とは、ここでは「主イエス・キリストによって成し遂げられた贖いの業のおかげで」という意味でしょう。そして「この方への信仰」(直訳は「この方の信仰」、すなわちキリスト信仰)によりキリストに結ばれている者として、内から発する御霊の叫びにより「父よ」と祈り、子として自由に父に近づくのです(ローマ八・一五)。この「大胆さと接近」が、奥義の担い手の特権です。
 使徒パウロはこのような奥義の受領者であり、その告知者なのですから、そのパウロが受けた投獄などの苦難を、何か恥ずべきもののように感じて落胆することがないように、著者は読者を励まします。「それゆえに、あなたたちのために受けているわたしの苦難によって、あなたたちが落胆することのないように願います。この苦難はあなたたちの栄光なのです」(一三節)。
 パウロは「あなたたちのために」この苦難を受けているのです。すなわち、パウロはあなたたちにこの奥義を伝えるために労し、そのために投獄されています。それは、あなたたちがこの奥義の受領者として、神に選ばれた民であることの結果です。したがって、パウロがあなたたちのために受けている苦難は、あなたたちが神から奥義の担い手として選ばれているという「あなたたちの栄光」を指し示していることになります。


  7 奥義と愛を悟るように(3・14〜21)

 14  このような理由で、わたしは父の御前に両膝をかがめて祈ります。15 ―― この方からこそ、天にあっても地にあっても、すべての氏族はその名を受けているのです。―― 16 どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊によって内なる人を力で強めて、17 信仰によりあなたたちの心の中にキリストを住まわせ、あなたたちを愛に根ざし、愛に基礎を置く者としてくださるように。18 また、あなたたちがすべての聖徒たちと共に、その広さ、長さ、高さ、深さがどのようなものであるかを把握することができるように、19 そしてまた、知識を超えるキリストの愛を知り、あなたたちが神の全き充満へと満たされるように。
 20 わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが願ったり思ったりすることすべてをはるかに超えて、為し遂げることができる方に、21 この方に栄光が、御民において、また、キリスト・イエスにあって、限りなく代々の世代にわたってありますように。

エクレシアのための使徒パウロの祈り
 三章一節で「このような理由で、あなたたち異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっているわたしパウロは」とまで言って、そのパウロがどうするのかが述べられないままで、文が中断していましたが、ここでようやくその文が完結します。著者は自分がキリストの民に願っていることを、「このような理由で、わたしは父の御前に両膝をかがめて祈ります」(一四節)と、使徒パウロの祈りとして伝えます。
 その祈りの内容に入る前に、祈りを捧げる「父」がどのような方であるのかを思い起こさせる文が挿入されます。「この方、すなわち父《パーテール》からこそ、天にあっても地にあっても、すべての氏族《パトリア》はその名を受けているのです」(一五節)。今わたしたちが祈りを捧げる「父」は、天にあっても地にあっても、すべての共同体を成立させる根源である方だということです。
 《パトリア》とは、共通の父または先祖によって血縁的につながる人々の共同体です(普通家族よりは広い繋がりを指します)。一応「氏族」と訳しておきますが、ここでは共同体を広く指す語として用いられています。その《パトリア》は《パーテール》から出た語ですが、その名が示すように、あらゆる種類の人間共同体(と天上の天使たちの共同体)は、父《パーテール》からその存在を与えられているのです。その父から、キリストの民としてのあなたたちに、共同体存立に不可欠で、もっとも重要なものが豊かに与えられるようにと祈られます。
 使徒パウロの祈りは、「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊によって内なる人を力で強めて、信仰によりあなたたちの心の中にキリストを住まわせ、あなたたちを愛に根ざし、愛に基礎を置く者としてくださるように」という内容です(一六〜一七節)。
 著者はここで「内なる人」という語を用いています。これはパウロが用いた用語で、人間の外的・身体的な側面と対比しての内的・精神的側面を指す用語ではなく、生まれながらの自然の人間全体(これが「外なる人」と呼ばれる)に対して、その中に御霊によって生まれて生き始めている新しい人間存在を指しています。「外なる人」は年月や人生の苦労と共に衰えていきますが、「内なる人」は恵みの御霊により日々新しくされていきます(コリントU四・一六)。またこの「内なる人」が神の律法を喜ぶ主体とされます(ローマ七・二二)。このような「内なる人」の見方がパウロ系の共同体に継承されているので、著者はこの表現を用いて自然に語ることができたのだと考えられます。
 「内なる人」は御霊によって生まれ、御霊の働きによって成り立っている「わたし」ですから、その「内なる人」が強められるのは、「御霊によって・・・・力で強め」となります。修行や知識によるのではありません。祈りも、それによって御霊の場に身を置き御霊の働きを受けるためのものである限り、「内なる人」を強くする営みとなります。
 御霊の働きによって「内なる人」が強められるのは、「心の中にキリストが住む」ようになってくださることと一つです。わたしたちの内に住みたもうキリストこそ、わたしたちの力です。このキリストは、もちろん「霊なるキリスト」です(コリントU三・一八)。しかし、キリストが内に住んでくださることは自動的に起こることではありません。それは「信仰により」ます。この場合の「信仰」は、イエスを主と言い表す信仰、福音を受け入れるという意味の信仰ではなく(当然それを含みますが)、主イエス・キリストに自分の全存在を投げ入れる姿勢を指しています。その姿勢に応えて、キリストが「心の中に住む」、すなわち「キリストわが内に」という現実が深められるのです。
 著者はさらに、キリストがわが内に住んでくださることは愛に生きることに他ならないと、御霊によって生きる命の質を指し示します。そのことを植物の比喩を用いて「愛に根ざし」と言い、建物を比喩として「愛を基礎として」と言います。パウロが御霊の賜物、御霊の働きのことを語るときに、愛《アガペー》を最高の道とした(コリントT一三章)を受けて、著者もキリストを内に宿して生きるキリスト者の在り方を、愛《アガペー》に基づき、愛《アガペー》を実現するためのものと見て、その実現を祈ります。
 「あなたたち」のための使徒パウロの祈りは続きます。「また、あなたたちがすべての聖徒たちと共に、その広さ、長さ、高さ、深さがどのようなものであるかを把握することができるように、そしてまた、知識を超えるキリストの愛を知り、あなたたちが神の全き充満へと満たされるように」(一八〜一九節)。

 使徒はキリストの民すべてが、これまで繰り返し述べてきた奥義の「広さ、長さ、高さ、深さ」がどのようなものであるかを把握し、さらに人の知識《グノーシス》を超えるキリストの愛を知るように祈ります。これは著者が、御霊により「奥義としての神の知恵」を悟ることを追い求めつつも、知識《グノーシス》よりも愛《アガペー》を重視するパウロの姿勢(コリントT八・一)を継承していることを示してます。「キリストの愛」は、キリストがその命を捧げてわたしたちを愛してくださった愛(ガラテヤ二・二〇)であり、キリストにおいて示された神の愛(ローマ五・八、八・三八)です。この「愛を知る」とは、この愛を受け、この愛に生きることで、この愛を身をもって体験することです。
 神の救済の奥義を悟ることと、キリストの愛を生きることの両方によって、「神の全き充満へと満たされる」という目標に向かって進むことこそ、著者にとってキリスト者の目標です。パウロにおいては、終わりの日に栄光を受けることが最終目標として追い求められていましたが、エフェソ書になりますと、終わりの日のことはほとんど語られることなく、パウロが現在すでに始まっているとする栄光への変容の過程(コリントU三・一八)そのものが目標となり、その最終到達点として「神の全き充満へと満たされる」ことが掲げられます。何という高い目標がわたしたちの前に置かれたことでしょうか。その実現が、ここに使徒の祈りとして置かれます。
 そして最後に、その祈りを実現してくださる方への賛美と頌栄(二〇〜二一節)をもって、この使徒パウロの執り成しの祈りの段落が閉じられ、同時にこの書簡の前半部(一〜三章)が締め括られます。
 祈りに応えてくださる方への賛美にも、著者の信仰理解が滲み出ています。神はわたしたちの願いに応えて、上から、あるいは外から賜物を下されるというよりは、「わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが願ったり思ったりすることすべてをはるかに超えて、為し遂げることができる方」として賛美されます(二〇節)。パウロも「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」と言っていました(フィリピ二・一三)。神は、わたしたちの外で働いて願いに応えてくださる方でなく、わたしたちの内に働いて、わたしたちがキリストにあって祈り求めるところを、わたしたちの思いを超えて成し遂げてくださる方です(ローマ八・二六〜二七)。
 その神に対する頌栄にも、著者の関心の中心にあるエクレシアが入ってきます。「この方に栄光が、御民において、また、キリスト・イエスにあって、限りなく代々の世代にわたってありますように」(二一節)。神の奥義の体現者である御民において、また、すべての働きがなされる場であるキリスト・イエスにおいて、神の栄光が代々の世代にあがめられるように、という頌栄で神の救済の奥義を述べた前半部が締め括られます。

 


  第二部 キリストの民の歩み(四〜六章)

  8 キリストの体は一つ (4・1〜16)

 1 そこで、主にあって囚人となっているわたしは、あなたたちに勧めます。あなたたちが招かれた召しにふさわしく歩み、 2 まったき謙遜と柔和さをもって、また寛容をもって、愛において互いに耐え忍び、 3 和のきずなで結ばれ、御霊の一致を保つように努めなさい。 4 からだは一つ、御霊は一つ。それは、あなたたちもまた、あなたたちの召しによる一つの希望に招かれたのと同じです。5 主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ、6 すべてのものの父である神は一つ。この神こそ、すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの中におられる方。
 7 ところで、わたしたち一人ひとりに、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。8 それでこう言っています。
 「彼は高みに昇り、捕虜たちを捕らえ、
  人々に賜物を分け与えた」。
9 さて、「彼は昇った」ということは、彼が地の低いところに降りてこられた方であるということではないでしょうか。10 降りてこられた方ご自身はまた、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く昇られたのです。11 こうして、彼は使徒たちを、そしてまた預言者たち、宣教者たち、牧者たち、教師たちをお与えになったのです。12 それは、聖徒たちを奉仕のために整え、キリストの体を建てさせ、 13 わたしたちすべての者が神の子の信仰と認識の一致に至り、円熟した大人に、すなわちキリストの充満において成熟の限度にまで到達するためです。14 こうして、わたしたちはもはや、人間の欺きによる教えの風に翻弄されたり、引き回される幼児ではなくなり、 15 愛において真理を証し、すべてにおいて頭なるキリストへと成長してゆくのです。16 このキリストから出て、からだ全体は備えられたすべての関節によって組み合わせられ、かつ結合されて、それぞれの部分の分に応じた働きにしたがってからだの成長を遂げ、愛におけるからだの確立に至るのです。


御霊の一致
 書簡の前半部(一〜三章)でキリストの充満体としてのエクレシアという奥義を語り終えて、著者はそのようなエクレシアに属する一員としての歩み方を勧告する後半部(四〜六章)に入ります。この構成は、パウロがローマ書でキリストの福音を提示した後に、一二章以下で実践的な勧告を始めているのと同じです。それを始める言葉遣いも、「そこで、わたしはあなたたちに勧めます」と同じです。ただエフェソ書では、三章一節と同じく、「主の囚人であるこのわたしが」(直訳)という、勧告する者の立場を強調する表現が加えられています(三・一の講解を参照)。
 この勧告部分は、最初に集会の一致を説き、それから個々人の生き方に説き及ぶ形も、ローマ書一二章以下の勧告と同じですが、説き方には違いも見られ、内容的にも権力にたいする姿勢についての勧告(ローマ書一三章)がなく、代わりに夫婦、親子、奴隷のことを扱う家庭訓的な形を取るなど、違いも出てきています。
 著者はまず、「あなたたちが招かれた召しにふさわしく歩みなさい」と、キリストの民の歩み方についての基本原則を述べ(一節後半)、すぐ最大の関心事であるエクレシアの一致を保つように、「まったき謙遜と柔和さをもって、また寛容をもって、愛において互いに耐え忍び、和のきずなで結ばれ、御霊の一致を保つように努めなさい」と説き勧めます(二〜三節)。この勧告は、コロサイ書三・一二〜一四と並行しています。一致のために何よりも大切なことは、「まったき謙遜と柔和さをもって、また寛容をもって」、自分の思いを相手に押しつける自己主張を克服し、愛の忍耐をもって自分と異なる者を無条件で受け入れることです。著者はそれを「和のきずな」と呼び、それを「御霊の一致」(御霊による一致)とします。
 ここにあげられている「愛、謙遜、柔和、寛容、忍耐」はみな、「御霊の実」です(ガラテヤ五・二二〜二三)。このような御霊が与えてくださる在り方によって、「争い、そねみ、利己心、不和、仲間争い、ねたみ」というような肉(生まれながらの人間本性)の働き(ガラテヤ五・二〇)を克服することが、「御霊の一致」です。
 「御霊の一致」とは、人間の思想や制度による一致ではなく、そのような人間的な面では様々に違った者たちの間に、御霊が与えてくださる交わりです。この視点は、多くの教派・教団に分かれている現代のキリスト教世界が一致を追い求めるさいの視点として重要です。
 著者は、キリストの民が一致すべきことを強調するために、その存立の土台になるものの唯一性を列挙して根拠づけます。
 「からだは一つ、御霊は一つ。それは、あなたたちもまた、あなたたちの召しによる一つの希望に招かれたのと同じです」(四節)。一人の人にからだは一つしかないように、キリストの体である御民エクレシアも一体でなければなりません。一つの体が二つ三つと切り分けられてはなりません。パウロもコリントの人たちに「キリストは幾つにも分けられてしまったのか」と分派を戒めています(コリントT一・一三前半)。また、エクレシアの内に働く御霊も同じ御霊です。その働きや現れは様々な形を取っていますが、同じ御霊が働いておられることを忘れてはなりません(コリントT一二・四〜一一)。
 さらに、キリストの福音によって召されて与っている「希望」は同じ内容です。この「希望」は、これまでも見てきたようにコロサイ書やエフェソ書では、現在キリストにあって受けている霊的資産を指しています。同じ「相続財産」を受けている者たちとして、当然一つの共同体を形成します。
 著者はさらに、一致の根拠として、エクレシアの土台になるものの唯一性を数え上げます。「主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ、すべてのものの父である神は一つ」(五〜六節前半)。

 世界には多くの「主」が支配を競っていますが、わたしたちにはただ一人の主イエス・キリストがいますだけです(コリントT八・五〜六)。わたしたちは一人の同じ主に仕える民、分かたれることはありえません。
 さらに、信仰もただ一つで同じです。ここの「信仰」は、コリントI一五・三〜五やローマ一・二〜四のような、伝承されたキリスト告白の定式を指していると考えられます。わたしたちは同じ信仰を言い表している民として一体です。この「信仰」は、後には使徒信条やその他の多くの信条を生み出すことになります。しかし、民を一つに結ぶはずの信条が後にはその僅かの違いが一つのグループを他のグループから分ける壁となる皮肉な結果になり、「御霊の一致」の妨げになったことは悲しいことです。
 さらにバプテスマも、それが誰によって行われたものであれ、また、どのような形で行われたものであれ、同じ主イエス・キリストに所属する者となる告白行為として、すべてのバプテスマは同じです(コリントI一・一三後半)。もしバプテスマを主イエス・キリストを言い表す行為と広く理解するならば、水による洗礼儀礼を受けているかどうかも含めて、それ(告白行為)がどのような形でなされても、同じであると言えます。
 著者は最後に、「すべてのものの父である神は一つ」と究極の根拠をあげます。わたしたちすべての者は、唯一の同じ父なる神を礼拝しているのですから、一つの民であり、互いに争い憎み合う分裂はありえません。
 この父なる神は、わたしたちキリストの民すべての父であるだけでなく、宇宙万物の創造者であり、「この神こそ、すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの中におられる方」です(六節後半)。この最後の文の「すべて」は、宇宙論的な万物を指しています。キリストの民の一致を根拠づける神の唯一性は、宇宙万物の統合の根拠でもあります。こうして、著者の視野はエクレシアの一体性から宇宙存在の統合まで広がっていきます。

キリストの賜物の多様性
 エクレシアの一体性を強調した後、著者は「しかし他方では」という気持ちをこめた接続詞「ところで」を用いて、エクレシアの中の多様性を語ります。
 「ところで、わたしたち一人ひとりに、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています」(七節)。パウロが「御霊の賜物《カリスマ》」と言うところを、著者は「キリストの賜物《ドーレア》」と言います。パウロは様々な賜物の働きの源泉の視点から「御霊の(働きによって現れる)賜物」と言いますが、著者はそれを与える方に注目して「キリストの(与える)賜物」と言います。
 それがキリストの与える賜物であることを根拠づけるために、著者は聖書を引用し、それを解釈するという形を取ります。
 「それでこう言っています。
 『彼は高みに昇り、捕虜たちを捕らえ、
  人々に賜物を分け与えた』」。(八節)

     引用は詩編六八・一九からですが、ヘブル語本文とも七十人訳ギリシャ語聖書とも違う形になっています。この変更した形での聖書引用は、著者によるものか、初期の教団ですでに行われていたものかは議論がありますが、おそらく後者であると考えられます。もともと二人称で神に向けられていた賛美が、天に昇ったキリストを三人称で賛美する賛歌として用いられていたと見られます。元の詩篇の「貢ぎ物を取った」は「賜物を与えた」と変えられています。

 まず著者は、「彼は昇った」ということは「彼が地の低いところに降りてこられた方であるということ」を前提していると「解釈」します(九節)。その上で、そうすると「彼は昇った」というのは、地の低いところで苦しみを受け復活して天に上げられたキリストが、「もろもろの天よりも高く昇られた」ことを意味することになるとします(一〇節)。キリストの勝利は「捕虜たちを捕らえ」と表現され、勝利したキリストは戦利品を部下に賜物として分け与えたと解釈されます。初期の教団がキリストの復活・昇天を凱旋行進の比喩で語るようになっていたことは、コロサイ二・一五にも見られますが、それはこの詩篇のイメージに基づくものと考えられます。ただ、そのキリストの上昇が「すべてのものを満たすため」とされているのは、著者独自の視点を加えたものと見られます。
 このように詩篇の前半を解釈した上で、後半の「彼は人々に賜物を分け与えた」を、エクレシアに与えられた様々な賜物を指すと解釈して、「こうして、彼は使徒たちを、そしてまた預言者たち、宣教者たち、牧者たち、教師たちをお与えになったのです」とします(一一節)。この賜物の列挙の仕方を、パウロが列挙している「御霊の《カリスマ》」(コリントT一二・二八)と較べると、「奇跡を行う者、病気を癒す者、異言を語る者」というような、いわゆる「カリスマ的」な霊能者が欠けており、「使徒、預言者、宣教者、牧者、教師」というような役職的な働きだけになっているのが目立ちます。パウロにおいてもローマ書(一二・四〜八)では《カリスマ》は集会の運営にかかわる働きに集中する傾向が見られましたが、エフェソ書ではその傾向はさらに進み、エクレシア全体の指導体制として使徒以下の役職だけが列挙されるようになっています。
 パウロにおいては、異なった《カリスマ》が集会の一人ひとりに与えられていることが強調されていましたが、エフェソ書では、ここにあげた役職的な働きをする人たちが「キリストの賜物」としてエクレシアに与えられていることが強調されています。その中で、「使徒と預言者」は霊的指導者としてパウロ書簡においても確立された指導層を形成していましたが、第三に上げられていた「教師」が「牧者と教師」という組み合わせになり、中間に「宣教者」が入ってきます。「宣教者(あるいは福音使、福音伝道者)」《エウアンゲリステース》は福音を外の人たちに宣べ伝える働き人、「牧者と教師」は集会内で信徒を指導する人たちを指すと考えられます。おそらく牧者は(羊飼いのイメージで)先頭に立って集会を指導する者(長老)、教師は聖書解釈や教理問答的な指導をする人たちでしょう(両者が同じであるか別であるかは議論があります)。このような列挙の仕方は、「使徒と預言者」の働きはすでに過去のこととしてエクレシアの土台となっており(二・二〇)、現実には「宣教者と牧者・教師」が内外の活動を担う時代に入っていることを示唆しているのではないかと考えられます。

信仰と認識の一致を目指して
 このように使徒、預言者、宣教者、牧者、教師たちがキリストの賜物としてエクレシアに与えられている目的が、続く節で明示されます。
 「それは、聖徒たちを奉仕のために整え、キリストの体を建てさせ、わたしたちすべての者が神の子の信仰と認識の一致に至り、円熟した大人に、すなわちキリストの充満において成熟の限度にまで到達するためです」。(一二〜一三節)
 聖霊の賜物を与えられてこのような役職を担う人たちは、「聖徒たち」すなわちキリストの民を統制し支配するためではなく、「聖徒たちを相応しい者として整えるために」、聖徒たちを助けるためにその役に任じられているのです。そして、何に整えるのかが、「奉仕の業のため」と「キリストの体の建設のため」と二つあげられます。これは並列ではなく、「キリストの体の建設のための奉仕の業に(整える)」と理解すべきでしょう。この「奉仕」《ディアコニア》が、御言に仕えることであれ、集会の運営に働くことであれ、また貧しい者への援助であれ、それらの奉仕の働きは特定の役職に任じられた者だけがすることではなく、「聖徒たち」すなわちキリストの民すべての者の任務です。その奉仕の働きはすべてキリストの体であるエクレシアの形成のために他なりません(一二節)。
 パウロにおいては、キリスト者一人ひとりに聖霊によって「務め」《ディアコニア》が与えられ(コリントT一二・五)、エクレシアの形成(建設)に役立つように求められていました(コリントT一四・一二)。それに較べると、エフェソ書では牧者や教師たちが聖徒たちをその働きのために整える(指導し訓練する)という構造になってきていることが注目されます。この構造は少し後の時代の牧会書簡になると、さらに制度化されるようになります。
 このような形でのエクレシア形成の過程が到達すべき地点が、「わたしたちすべての者が神の子の信仰と認識の一致に至り、円熟した大人に、すなわちキリストの充満において成熟の限度にまで到達するため」と明示されます(一三節)。「わたしたち」すなわちエクレシアを構成する成員のすべての者が、「神の子の信仰と認識の一致」に至ることが目標です(一三節前半)。イエスが神の子キリストであるという信仰だけでなく、そのイエス・キリストがどのような意味で神の子であるのかという理解と認識《エピグノーシス》においても一致することが求められます。ところが、その理解と認識を言い表す段階で(それが信条です)、様々な傾向のグループの言い表し方が微妙に違うことが原因となって、限りない論争が行われることとなり、それが教会内の勢力争いとからまって対立するグループを抑圧し、権力を利用して迫害するなど、キリスト教会は不幸な歴史を歩んできました。
 この「信仰と認識の一致」を、それを表現する字句の一致と受け取る限り、その追求は果てしない論争と分裂を招くだけです。著者が求めているのは、そのような字句の一致ではなく、霊なるキリストを体験的に認識する霊的認識の深いところでの同質性であるはずです。その同質性があれば、それを表現する言葉が多少違っても、それはキリストの多様な豊かさを示す相違として受け入れ合い、共にキリストを賛美できるはずです。ここでも、先に出てきた「御霊の一致」、すなわち御霊の体験の次元における一致を追求すべきです。表現の違いは、互いに排除する理由ではなく、互いに補い合ってキリストへの賛美を多彩にする機縁とすべきです。ここでも「文字は殺し、御霊は生かす」のです。
 エクレシア形成の過程が到達すべき目標を示す一三節は、わたしたちすべての者が「神の子の信仰と認識の一致に至る」ことと並べて、「円熟した大人に成熟すること、すなわちキリストの充満において成熟の限度にまで到達する」ことだと続きます(一三節後半)。ここでエクレシアの形成が人体の成長を比喩として語られています。わたしたちはいつまでも子供でいてはなりません。「円熟した大人に成熟する」必要があります。人間は時と共に、知識や判断能力や身体の能力が未熟な子供の段階から、それらの能力が「完全な」(直訳)大人に成熟します。そのようにわたしたちキリストの民も大人になって「キリストの充満において成熟の限度にまで到達する」必要があります。
 これは何という高い目標でしょうか。キリストの一人ひとりにとっても、またエクレシアという共同体にとっても、「キリストの充満の成熟の限度」(直訳、このような表現の仕方は著者の文体の特色です)にまで至ることが求められます。容器に水とかぶどう酒がこれ以上入らない目盛り一杯まで満ちている状態のイメージで、わたしたちの中にキリストが充満してくださる現実が「成熟の限度」に至るように求められます。このような高い目標は、人間の能力や働きで達成できるものではありません。あくまで恩恵の場での御霊の働きによります。パウロは「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」と言いましたが(コリントU三・一八)、その栄光を目標とする変容の過程が、エフェソ書では「キリストの充満」を目標として語られることになります。
 ところで、「充満」《プレーローマ》は、コロサイ書とエフェソ書を貫くキーワードの一つです。これは、当時ヘレニズム世界に広がりつつあったグノーシス主義的な宗教が好んで使用した重要な用語でした。グノーシス主義文書では、《プレーローマ》は「至高神以下の神的存在によって満たされた超越的な光の世界」を意味します。グノーシス主義では、この至高の光の世界には様々な名をもつ多くの神的存在がいるわけですが、コロサイ書ではキリストだけが「神性の全き充満」であるとされます(コロサイ一・一九、二・九)。エフェソ書になると、エクレシアが「神性の全き充満」であるキリストの充満体とされます(一・二三)。コロサイ・エフェソの両書は、《プレーローマ》という当時の宗教的用語を利用してグノーシス主義に対抗し、キリストだけにしっかりと固着し、そのキリストをエクレシアの現実の中に満たすように訴えます。

頭なるキリストへの成長
 先に(一三節で)エクレシアの形成が人体の成長を比喩として語られましたが、その比喩を引き継ぎながら、著者はさらに「成長」というイメージを詳しく展開して、エクレシアという「キリストのからだの確立」を語ります。
 「こうして、わたしたちはもはや、人間の欺きによる教えの風に翻弄されたり、引き回される幼児ではなくなり、愛において真理を証し、すべてにおいて頭なるキリストへと成長してゆくのです」(一四〜一五節)。
 コロサイ書(二・八)では、「誰もあなたたちを、人間の言い伝えに基づく哲学、すなわち空しい欺瞞によってとりこにすることのないように気をつけなさい。それは世の諸々の霊に基づくものであって、キリストに基づくものではありません」と警告されていました。当時の小アジアのパウロ系諸集会は「人間の言い伝えに基づく哲学、空しい欺瞞」の教えの危険にさらされていました。コロサイ書はそのような偽りの教えと現実に戦っていますが、エフェソ書になると、そのような偽りの教えはすでに克服されていたのか、その戦いは克服すべき段階として言及されるだけで、それが主題として展開されることはありません。
 そのような偽りの教えのとりこになるのは、判断力がなくてすぐに騙される幼児の段階だとし、「わたしたちすべての者が神の子の信仰と認識の一致に至り、円熟した大人に、すなわちキリストの充満において成熟の限度にまで到達する」(一三節)ことが、改めて「愛において真理を証し、すべてにおいて頭なるキリストへと成長してゆく」ことだと、別の視点から語られます。
 ここで「人間の欺きによる教えの風に翻弄されたり、引き回される」ことと対比される歩み方が「愛において真理を証しする」と表現されます。「真理を証しする」と訳した動詞は、「真実を語る、真実である、真実に生きる」という意味の動詞です。「空しい欺瞞」とか「人間の欺きによる教えの風」という表現が示唆しているように、偽りの教えはその中に「真理」《アレーセイア》を宿していない空虚なものだとして、それとの対比でキリストの御霊の現実を「真理」《アレーセイア》とし、その現実に生きることを「真理を証しする」と言っています。
 そのような「真理を証しする」ことは、「愛において」生きる場においてのみ成立します。偽りの教えは「欺き」によっていました。それに対して、キリストという御霊の真理(現実)を生きるのは、その御霊の命の質である「愛」《アガペー》に生きることによってのみ可能です。パウロが御霊によって霊なるキリストと合わせられて生きることを強調し、同時にその御霊の命の最高の現れが愛《アガペー》であることを明らかにしたことを、著者はこの「愛において真理を証しする(生きる)」という一句に凝縮しています。
 成長の比喩は、「幼児ではなくなり」の後、成熟した大人へと成長すると結ばれるはずですが、ここで比喩が入れ替わり、「頭なるキリストへと成長してゆく」となります。体が頭に向かって成長するというのは、人体の在り方から考えると奇妙な比喩ですが、その中身が次節(一六節)で展開されます。
 「このキリストから出て、からだ全体は備えられたすべての関節によって組み合わせられ、かつ結合されて、それぞれの部分の分に応じた働きにしたがってからだの成長を遂げ、愛におけるからだの確立に至るのです」(一六節)。
 この文章は明らかに「この頭から、からだ全体は関節と靱帯によって支えられ結び合わされて、神の成長を達成するのです」というコロサイ書(二・一九)に依存しています。「この頭であるキリストから」体の成長が出るという基本的な思考は同じです。頭こそ体全体の働きを統御する部分であると見られているからでしょう。体が頭に向かって成長するというのは、初めから頭の中に描かれている完成態に向かって成長すると理解すればよいでしょう。
 ところで、コロサイ書では「からだ全体は関節と靱帯によって支えられ結び合わされて」いるという事実だけを比喩として用いていましたが、エフェソ書では「関節」が「備えられたすべての関節」となり、「からだ全体は・・・・それぞれの部分の分に応じた働きにしたがってからだの成長を遂げ」となっています。これは、著者がエクレシアを、キリストの賜物としてエクレシアに備えられた使徒、預言者、宣教者、牧者、教師たちを関節として、それぞれの分に応じた働きをする肢体が組み合わせられている構造体と見ていることの反映でしょう。
 このような構造をもった有機体であるエクレシアは、「それぞれの部分の分に応じた働きにしたがってからだの成長を遂げ」、「愛において」すなわち愛《アガペー》を原動力として、最終目標である「からだの確立」に至る過程をたどるのです。これが神が与えてくださる成長、「神の成長」です。「からだの確立」の「確立」は、パウロがエクレシアについてよく用いる《オイコドメー》(建てるの名詞形)です。キリストの「からだ」であるエクレシアを建て上げ、形成し、確立することこそ、本書の中心主題です。


  9 古い人を脱ぎ捨てよ (4・17〜24)

 17 そこで、わたしは主にあって語り、おごそかに断言します。あなたたちはもはや、異邦人が彼らの思いの空虚さの中に歩んでいるように歩んではなりません。18 彼らは理性が暗くなり、彼らの内にある無知により、彼らの心の硬化により、神の命から隔てられています。19 彼らは無感覚になって放縦に身を委ね、貪欲にあらゆる不潔な行為を行っています。20 しかし、あなたたちはこのようにキリストを学んだのではない。21 あなたたちがキリストに聴き、キリストにあって教えられたのであるならば、そのはずです。イエスにおいて真理であるように、22 あなたたちは以前の生活に従い、快楽の欲望によって腐敗している古い人を脱ぎ捨て、23 御霊によってあなたたちの思いが新しくされ、24 神にかたどってまことの義と聖の中に創造された新しい人を身に着けなさい。


古い人の空しさ
 実際の歩みについて勧告する後半部(四〜六章)に入って、著者はまずエクレシアを構成する一員として「御霊の一致」を追求すべきことを強調しました(四・一〜一六)。その後を受けて、著者は内に向かっていた視線を外に向けます。エクレシアの交わりの外の世界は「異邦人」の世界です。著者は、キリストに属する民《エクレーシア》は異邦人とは決定的に違うことを強調して、外の異邦人との対比で御民の一員としての歩み方を説きます。
 ここで「異邦人」と訳した語は、もともと諸国民という意味の語ですが、ユダヤ人はそれをユダヤ教徒でない異教徒を指すのに用いました。この手紙の読者の大部分は、ユダヤ人ではないという意味では異邦人ですが、ここでは非ユダヤ人という意味ではなく、エクレシアの交わりの外にいる人たち、すなわちキリスト教徒ではない「異教徒」という意味で用いられています。ユダヤ人の用法がエクレシアに引き継がれたことになります(同じような用法がマタイ五・四七、六・七などにも見られます)。
 どの宗教も自分を絶対化して、その宗教の外にいる者を「異教徒」と呼んで差別・軽蔑し、場合によっては抑圧・迫害する傾向があります。「異教徒」という呼び方に含まれる宗教の自己絶対化は危険です。ここでは「異教徒」という用語は避けて、曖昧さは残りますが、他の箇所と同じ(非ユダヤ人という意味の)「異邦人」という語で訳しておきます。
 著者は、以下の勧告の言葉は使徒パウロの言葉であるとして、「正式に証言する」という法廷用語を用いることで、厳粛に説き始めます(一七節)。最初に、「異邦人が彼らの思いの空虚さの中に歩んでいる」事実が描かれます(一八〜一九節)。
 ユダヤ人は、神を知らない異邦人の思いを「空しい」と形容してきました(詩篇九四・一一、知恵一三・一など)。パウロも同じ表現を用いています。「彼らは神を知りながら、神としての栄光を帰することをせず、感謝することもなく、かえって、彼らはその思考において空しくされ、理解なき心は暗くされたのです」(ローマ一・二一)。ユダヤ人から見れば、「知恵の書」一三〜一五章に典型的に表現されているように、異邦人は神としての「実体のない偶像」を拝むことによって、空虚さの淵に陥ったのです。その見方がそのまま、神の子キリストを拒む「世」の人々に向けられ、「彼らは理性が暗くなり、彼らの内にある無知により、彼らの心の硬化により、神の命から隔てられています」(一八節)と描かれることになります。
 そして、人間は内面の無知と心の硬化によって神の命から隔てられているために、神の事柄に「無感覚」になっています。神の正義と裁きとか、神の慈愛と赦しとか、神との関わりを実感できません。その結果、世の人々は実際の生活でも「放縦に身を委ね、貪欲にあらゆる不潔な行為を行っている」とされます(一九節)。パウロは、神を認めない異邦人を神が放縦に「引き渡した」とし、それが神の裁きであるとしました(ローマ一・二四、二六、二八)。ここでは世の人々が自分を放縦に「引き渡す」とされ、人間の責任が重視されています。

新しい人を着よ
 このような「異邦人」(ここではエクレシアの外の世の人々)との対比で、しかし「あなたたち」(強調されています)は違うと、キリストにある者の姿が描かれます。それは、「あなたたちはこのようにキリストを学んだのではない」と表現されます(二〇節)。ここで「キリストを学ぶ」というやや特異な表現が用いられていますが、これは次節(二一節)の、「もしあなたたちがキリストに聴き、キリストにあって教えられたのであるならば」という条件文がその内容を説明していると見られます。すなわち、バプテスマを受けてキリストの民の交わりに入った時に教えられたことを指していると見られます。しかし、わたしたちはそのような語意を超えて、「キリストを学ぶ」という表現を、御霊によってキリストと合わせられ、キリストと共に生きることによってキリストを身につけるという意味に理解すべきであると思います。そのことは、後に著者によってキリストを「着る」という表現で語られることになります。
 その後に「イエスにおいて真理であるように」という挿入があって、キリストにあって教えられた内容が(不定詞句を並べて)「・・・・古い人を脱ぎ捨て、・・・・新しい人を着なさい」(二二〜二四節)と続きます。ここで、キリストを信じる者に求められている新しい生き方が、「イエスにおいて真理であるように」、すなわち「イエスにおいて事実そうであったように」と、イエスをモデルにして説かれていることが注目されます。
 「イエス」の名が、主とかキリストという称号なしの単独の形で用いられるのは、本書ではここだけです(パウロにおいても稀です)。十字架上に地上の体を死に引き渡すことによって復活者として生きるようになられたイエスを、以下の「古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着よ」という勧告のモデルにしています。
 パウロが書簡でキリストにある者の歩みを勧告するさい、イエスの語録などのイエス伝承を用いていないことは顕著な事実です。しかし、パウロ書簡にイエス伝承がほとんどないことは、パウロ系の共同体にイエス伝承が伝えられていなかったことを証明するものではありません。パウロ系の諸集会にも何らかの経路を経てイエス伝承は伝えられていたはずです。どのような内容のイエス伝承が、どのような形で伝えられ用いられていたかを確認することはできませんが、少なくとも十字架の死に至るイエスの生涯の大要は伝えられていたはずです。著者はそのイエスの歩みをモデルにして、キリストに属する民に、古い人を脱ぎ捨て新しい人を着るように説きます。
 このことを説く著者の筆致と文体は複雑です。まず、「以前の(キリストを信じる前の)生活に従い、快楽の欲望(または、欺きの欲望)によって腐敗している(または、滅びつつある)古い人を脱ぎ捨て」るように求めます(二二節)。そして、「御霊によってあなたたちの思いが新しくされ」(二三節)、それによって「神にかたどってまことの義と聖の中に創造された新しい人を身に着け」ることが求められます(二四節)。

 「神にかたどってまことの義と聖の中に創造された新しい人」(二四節)は、パウロの「新しい創造」(コリントU五・一七)を思い起こさせます。創造者である神は、キリストにある者の内に働いて、彼の中に「新しい人」を創造しておられます。パウロはそれを「栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえる」御霊の働きとしていました(コリントU三・一八)。著者はそれを、「神の義と聖をモデルにして創造された新しい人」と言い換えていますが、パウロと同じことを言おうとしています。
 このように、キリストに属する者は、生まれながらの古い人間性(パウロはそれを「肉」と呼んでいました)を脱ぎ捨て、御霊が内に創造してくださる主と同じ形の「新しい人」を身につけて、変容《メタモルフォー》していくことが求められます。わたしたちは自分で変容することはできません。神が創造してくださる「新しい人」を着ることができるだけです。古い人を脱ぎ捨て新しい人を着ることは、すでにバプテスマが象徴しています。「バプテスマを受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着た」のだと言われています(ガラテヤ三・二七)。そうすると、「神の義と聖をモデルにして創造された新しい人」を着ることはキリストを着ることと同じになります。キリストは終わりのアダム、終末時の新しい人間の原型です。

  10 新しい人の歩み(4・25〜32)

 25 だから、偽りを脱ぎ捨て、各人それぞれ隣人に真実を語りなさい。わたしたちはお互いに肢体なのですから。26 怒っても罪を犯してはなりません。あなたたちの怒りの上に日が沈まないようにしなさい。27 悪魔に隙を与えてはいけません。28 盗みを働いている者は、今後は盗んではなりません。むしろ、苦労して自分の手で稼ぎ、欠乏している者に分け与えるようにしなさい。29 汚れた言葉は、一切あなたたちの口から出てくることのないようにしなさい。しかし、よい言葉であれば、それを聴く人に恵みを与えるために、必要に応じて建て上げるために語りなさい。30 また、神の聖なる御霊を悲しませてはなりません。その御霊によってあなたたちは解放の日のために証印されたのです。31 あらゆる苦い言葉、憤り、怒り、わめき、そしりを、すべての悪意と一緒にあなたたちから取り除きなさい。32 互いに親切にし、憐れみ深くあり、神がキリストにあってあなたたちを赦されたように、互いに赦し合いなさい。

悪魔に隙を与えるな
 先の段落(一七〜二四節)でキリストに属する者の在り方と歩みについての原則を述べた著者は、ここからその原則を生活の中で実現するための具体的な生き方を語ります。最初に出てくる「脱ぎ捨て」という用語が示唆しているように、ここでも「古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着る」という衣服の比喩が続いています。
 まず最初に、「偽りを脱ぎ捨て、各人それぞれ隣人に真実を語る」ことが求められます。ここに用いられている「隣人」は、イエス語録の「隣人を愛しなさい」の隣人と同じ語ですが、すぐに続く「わたしたちはお互いに肢体なのですから」という理由づけから、エクレシアの交わりの中にいる兄弟を指していることが分かります(二五節)。著者の関心はここでもエクレシアの交わりの中での生き方にあります。
 次に「怒っても罪を犯してはなりません」という勧めが来ます(二六節)。外からの仕打ちに対して怒りの感情をもつことは、人間の心理としては避けられません。しかし、頭上を鳥が飛ぶことは避けられないとしても、自分の頭に巣を作ることは避けることができるように、その怒りをいつまでも心の中に抱いて、相手に対する恨みとしてはなりません。そのことが、「あなたたちの怒りの上に日が沈まないようにしなさい」という格言的な表現で語られます。その恨みから相手を傷つける罪の行為が生まれるのですから。
 恨みを抱き続けることは「悪魔に隙を与える」ことになります。悪魔は神と人との間を裂き、人と人との間を裂くことを楽しみにしています。わたしたちの中に恨みがありますと、悪魔はそれを手がかりにして人と人の間を裂き、人と人とを結びつける神の業を破壊します(二七節)。
 キリストの民に対する勧告の中に「盗みを働いている者」があることはやや意外な感じがしますが、貧しい人が多い大都市の底辺では、新しくエクレシアの交わりに入った人たちの中に盗みとすれすれの仕事をしている人たちがいたのかもしれません。しかし、窃盗や強盗だけでなく、働かないで食べている者は盗みによって生活する者であるというユダヤ教の考えが背景にあって、そこから無為徒食の徒に「むしろ、苦労して自分の手で稼ぎ、欠乏している者に分け与えるようにしなさい」という勧告が出たとも考えられます。ユダヤ教の背景では、「盗むな」は「働け」という勧告になります(二八節)。
 次に言葉に関する勧告が来ます(二九節)。人間は言葉によって人間であるのですから、言葉の使い方は大切です。人は言葉によって相手を幸せにすることもできますが、相手の心を刺し、死に至らせることもできるのです。汚れた心から人を腐敗させ傷つける汚れた言葉が出てきます。それを口に出さないことが求められますが、ただ黙っておればよいというわけではありません。相手を愛するよい心から出る心のこもった言葉で、必要としている人に慰めや平安を与えることが大切です。そうすることによって、舌をコントロールすることを学ばなければなりません。

御霊を悲しませるな
 大声で罵ったり、怒りにまかせて激しい言葉を浴びせたり、みだらな冗談を繰り返すなど、わたしたちが慎みを忘れた形で言葉を使っていますと、わたしたちの内にいてくださる神の御霊を悲しませることになります。御霊は、神の愛の質をもつ命として、それに反する行動にデリケートな感覚をもって反発し、悲しまれます。そのような御霊を悲しませる行為を改めないで繰り返すと、ついには御霊はわたしたちの内から出て、去って行かれます。この御霊こそ「解放の日のための証印」なのですから、御霊を失うことは、キリストの民としての実質を失い、将来の希望の根拠を壊すことになります。これほど重大な損失はありません(三〇節)。
 そのように大切な御霊を悲しませ、ついには失うことがないように、「あらゆる苦い言葉、憤り、怒り、わめき、そしりを、すべての悪意と一緒にあなたたちから取り除き」(三一節)、「互いに親切にし、憐れみ深くあり、神がキリストにあってあなたたちを赦されたように、互いに赦し合いなさい」(三二節)と求められます。三一節は御霊の命の質に反することであり、三二節の在り方が御霊の命の質に合った在り方だからです。
 このように、キリストに属する者としての歩みが、御霊の命の質を基準にして、それに合うか反するかという視点で見られることが、「キリストにある」という場での倫理の特色です。なお、ここで御霊が「解放《アポリュトローシス》の日のための証印」と呼ばれていることが注目されます。聖霊について著者は先に、「この方にあって、あなたたちもまた真理の言葉、すなわち救いの福音を聞き、その方を信じた結果、聖なる約束の御霊によって証印されました。御霊はわたしたちが御国を相続することの保証であり、完全な所有への解放《アポリュトローシス》に到り、神の栄光の賛美となるのです」(一・一三〜一四)と書いていました。それがここでは「解放《アポリュトローシス》の日のための証印」という簡潔な形に要約されています。
 「解放」《アポリュトローシス》とは、もともと捕虜や奴隷の状態から解放されることを指す語ですが、ここではわたしたちがこの世の制約から解放されて永遠の御国を相続することを指しています(パウロはこれをローマ書八・一八〜二一で「解放・自由」《エレウセーリア》という語で語っていました)。このような終末の出来事に与ることの保証として与えられている聖霊を悲しませないようにという視点で倫理が説かれている点に、著者がパウロの終末的待望を受け継いでいることが示されています。今回の講解で、コロサイ書やエフェソ書はパウロの救済史的な枠組みから宇宙論的な救済理解へ移っているのを見てきましたが、そのエフェソ書にもこのような形で終末待望があることを見落としてはなりません。キリストの福音は、それがどのように時代の思想によって表現が変わっても、徹頭徹尾終末的な事態なのです。

 

  11  神の子、光の子にふさわしい歩み  (5・1〜20)

 1  そこで、あなたたちは神に愛されている子供として、神に倣う者になりなさい。2  そして、キリストもまたわたしたちを愛して、わたしたちのために御自身を香りのよい供え物、生け贄として神に献げてくださったように、愛によって歩みなさい。
 3 あなたたちの間では、聖徒にふさわしく、どのようなみだらなこと、不潔なことも、あるいは貪欲は、口にすらしてはいけません。4 卑猥な言葉や愚かな話、また下品な冗談などもふさわしくありません。むしろ感謝こそふさわしことです。5 みだらなことを行う者、不潔なことを行う者、また貪欲な者 ― これは偶像礼拝者です ―、このような者はすべてキリストと神の御国において相続分はありません。あなたたちはこのことを理解して、よくわきまえておきなさい。
 6 誰もあなたたちを空虚な言葉でだますことがないように。このようなことのゆえに、神の怒りが不従順の子らに来るからです。7 だから、彼らの仲間になってはなりません。8 あなたたちは以前は闇でしたが、今は主にあって光になっているのですから。あなたたちは光の子として歩みなさい。9 ―― 光はあらゆる善良さ、正義、真実に実を結ぶのです。―― 10 何が主に喜ばれることかを吟味し、11 実を結ばない闇のわざに加わることなく、むしろ明るみに出してやりなさい。12 彼らによって隠れてなされていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。13 しかし、光によって明るみに出されるものはみな、あらわになります。14 あらわにされたものはすべて、光となるからです。それゆえ、こう言っています。
 「起きよ、眠っている者よ。
   立ち上がれ、死人たちの中から。
   そうすれば、
     キリストがお前に輝き出るであろう」。
 15 そこで、あなたたちは知恵なき者としてではなく知恵ある者として歩むように、細心の配慮をしなさい。16 時を生かして用いなさい。時代は悪いからです。17 それゆえに、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを理解しなさい。18 とくに酒に酔うことがないように。酒の中に乱行があるのです。むしろ、御霊に満たされていなさい。19 詩篇、賛歌、霊の歌をもって互いに語り、主に向かって心をこめて歌い、また賛美して、20 すべてのことについていつも、わたしたちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。

神に倣う
 キリスト者の実際の歩み方を説き勧める勧告が続きますが、途中に再び著者はそのような歩みの根拠になる原理を挿入します。その原理とは、神に倣い、愛によって歩むということです(一〜二節)。
 「神に倣う者になりなさい」という表現は新約聖書ではここだけです。パウロは「わたし(たち)に倣う」(コリントT四・一六、一一・一、フィリピ三・一七)とか「キリストに倣う」(ローマ一五・五、テサロニケT一・六)という表現はよく用いていましたが、「神に倣う」という表現は用いていません。神に倣う根拠として、わたしたちが「神に愛されている子供」であることがあげられています。これは、「あなたがたの父が慈愛深いのであるから、あなたがたも慈愛深い者になりなさい」(ルカ六・三六)と言われたイエスの語録を思い起こさせます。
 「神に倣う者になりなさい」という勧告は、ただちにその具体的内容が指し示されます。わたしたちの神は、キリストにおいて御自身を現された方ですから、「神に倣う」とは「キリストもまたわたしたちを愛して、わたしたちのために御自身を香りのよい供え物、生け贄として神に献げてくださったように、(そのキリストの)愛によって歩む」ことに他なりません(二節)。
 ここで「キリストは御自身を神に献げた」と言われています。この「献げた」の原語は「引き渡した」です。この語はもともと法廷用語で「(刑に)引き渡す」という意味の語ですが、この語は共観福音書の伝承では、イエスが死に「引き渡された」と、いつも受動態で用いられています。ところが、パウロにはキリストが御自身を死に「引き渡した」と能動態で用いる見方が出てきます(ガラテヤ二・二〇)。この用例は本書に受け継がれ、ヨハネ福音書では基本的な見方になります。
 パウロにはキリストの十字架を祭儀的な「供え物、生け贄」とする表現は(伝承を引用する場合以外には)ありません。キリストの死を祭儀的な「供え物、生け贄」とする思想はヘブライ書に強く出てくるようになります。エフェソ書のこの箇所は、その方向へ向かう萌芽を示しているのかもしれません。しかし、ここでも重点はキリストの十字架の死が、わたしたちに対するキリストの愛の表現であることにあります。パウロはキリストの十字架の死を神の愛の表現とし(ローマ五・八)、自分に対する神の子キリストの愛の表現としていました(ガラテヤ二・二〇)。著者は、この十字架の愛を原型として、キリストに属する民はこのような質の愛に歩むことが「神に倣う」ことだとします。

聖徒にふさわしく
 キリストにある者の実際的な歩みについての原理を述べた後、著者は歩みについての具体的な勧告に戻ります。著者は「聖徒にふさわしく」歩むこと、すなわち神に属する民、「キリストと神の御国に相続分を持つ者」にふさわしく歩むことを求めます(三〜五節)。それにふさわしくないこととしてあげられている「みだらなこと、不潔なことを行うこと」は、異教社会に広く見られる性的退廃を指しています。それと並んであげられている「貪欲」は、際限のない物欲と欲望だけに生きる宴楽酔酒の放縦な生活を意味していると考えられます。それを偶像礼拝であると規定することによって、この箇所は、性的退廃と偶像礼拝を異教徒の二大悪徳としたユダヤ教の倫理観を継承していることを示唆しています。その二大悪徳に対する嫌悪は、「知恵の書」(とくに一三〜一五章)などのヘレニズム期のユダヤ教知恵文学において表現され、パウロもローマ書一章で見せていました。
 著者は、コロサイ書三章をモデルにしてこの勧告を書いているようですが、嫌悪すべき異教の悪徳(性的退廃と貪欲放縦)は「口にすらしてはいけません」と、言葉においても退けることを要請します。心の中にあるものが口に出ます。「口にすらしてはいけません」というのは、行為の前に心の中にそのような悪徳を抱かないようにという厳しい要請です。キリストに属する者の心にあるのは、神と救い主キリストに対する感謝の思いだけであり、口から出る言葉はいつも感謝と賛美の言葉であるのが、キリスト者にふさわしい姿です。
 この勧告を無視して、みだらなことを行う者、不潔なことを行う者、また貪欲な者はすべて、「キリストと神の御国」において相続分はないと警告されます。イエス伝承と共観福音書では、「神の国《バシレイア》」はおもに将来のこととして終末的な意味で用いられていますが、「キリストにあって」御霊により終末的現実が現に到来していることを強調するパウロは、「神の国」をあまり用いません。コロサイ書(一・一三〜一四)は「御子の《バシレイア》」と言って、その中ですでに救いを得ているとしています。エフェソ書もこの線上にあります。それで、「キリストと神の御国」において相続分はないというのは、将来の「神の国」で相続分がないだけではなく、現に御子キリストが支配される王国(キリストにおける霊的現実)に参与することがないという警告になります。

光の子としての歩み
 著者は、「誰もあなたたちを空虚な言葉でだますことがないように」と警告します(六節前半)。これは、(コロサイ書の場合のように)間違った教えで正しい信仰から引き離すことがないように気をつけなさいという意味ではなく、著者がここでしている警告を無視しても神とキリストの恵みから落ちることはないという「空虚な言葉」でだますことを指しています。そのような空虚な言葉にだまされて、みだらなことを行い、貪欲放縦に歩み続けるならば、「このようなこと(放縦な生活)のゆえに、神の怒りが不従順の子らに来る」ことになります(六節後半)。
 「だから、彼ら(エクレシアの外で放縦な生活を続けている世の人たち)の仲間になってはなりません」と、世の人々からの分離断絶が求められます(七節)。そしてこの分離の要求が、「あなたたちは以前は闇でしたが、今は主にあって光になっているのですから」と、光と闇の対立によって根拠づけられます(八節前半)。光と闇は、お互いに相容れない原理です。光のあるところには闇はなく、闇が支配するところには光はありません。キリストに来るまでは、わたしたちも闇でした。自分の中に光はなく、神の真理を何も見ることができないでいました。しかし、キリストに属する者となった今は、キリストという光を内に宿して、この世で星のように輝く者になっています(フィリピ二・一五)。これは、聖霊によって主の栄光を反映し、栄光から栄光へ変容されていく過程にある者の姿です(コリントU三・一八)。
 光と闇の対立のシンボリズムはパウロにもありましたが(たとえばローマ一三・一二)、エフェソ書ではそれが中心的な位置を占めています。パウロが御霊によって歩めと説くところを、著者は「あなたたちは光の子として歩みなさい」と説きます(八節後半)。そして、パウロが「御霊の実」(ガラテヤ五・二二)とか「義の実」(フィリピ一・一一)とするものを、著者は「光の実」として描き、「光はあらゆる善良さ、正義、真実に実を結ぶのです」と説明します(九節)。

 人の内に隠されている生命の質または原理が外の行為と生活に現れることを「実を結ぶ」という樹木の比喩で語った著者は、その比喩をさらに延長して説き勧めます。
 「何が主に喜ばれることかを吟味し、実を結ばない闇のわざに加わることなく、むしろ明るみに出してやりなさい。彼らによって隠れてなされていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです」(一〇〜一二節)。光があらゆる善き実を結ぶのに対して、闇は神に喜ばれる何の実も結びません。著者はキリストに属する民に、世から分離して光の実を結ぶことによって、世が行うわざは実を結ばない闇のわざであることを明るみに出す、すなわち暴露するように励まします。世の人たちが隠れてしていること、すなわち闇の中でしていることは、キリストの光に照らし出されると、「口にするのも恥ずかしいこと」であることが暴露されます。
 この消息は「光によって明るみに出されるものはみな、あらわになります」(一三節)とまとめられ、その結果が「あらわにされるものはすべて、光となるのです」(一四節前半)とされます。闇の真相が暴露されるところに、はじめて光が立ち上ります。そのことが、キリスト者に馴染み深い賛歌を引用して(一四節後半)、印象深く描かれます。

 「起きよ、眠っている者よ。立ち上がれ、死人たちの中から」という呼びかけは、もともとは世の人たちにキリストを信じて光に来るようにという呼びかけだったのでしょうが、それがここではキリストに属する民となりながら、ともすれば世の暗闇の中に眠りこもうとする人たちへの警告の呼びかけとして用いられています。眠りから覚めるようにという呼びかけは、パウロにおいては主の来臨が近いからという終末的な迫りの場でなされていましたが(ローマ一三・一二〜一三)、エフェソ書ではそのような来臨の切迫はなく、世の人々の歩みに埋没しないようにという呼びかけになっています。
 キリストに属する者としての自覚に目覚めて、キリストの御力によって立ち上がり歩むとき。「そうすれば、キリストがお前に輝き出るであろう」という約束が実現します。そうすれば、キリストという光がその歩みの中に輝き出て、その歩みが人からではなくキリストから出るものであることがあらわになり、栄光から栄光へと変容される過程が現実となります。

御霊に満たされて
 闇に属する世にあって光の子として歩むには知恵が必要です。自分が置かれている状況を的確に判断し、その中で「何が主に喜ばれることかを吟味し」て行動することが必要です。「そこで、あなたたちは知恵なき者としてではなく知恵ある者として歩むように、細心の配慮をしなさい」と求められます(一五節)。「何が主に喜ばれることか」は、教会とか神学者が決めて教えるのではなく、一人ひとりが自分で判断する知恵が求められます。それは、一人ひとりが置かれている状況は異なり、主の御旨を一律に決めることはできないからです。
 各人が置かれている状況の中で主に喜ばれるように歩むことが、(コロサイ書四・五と同じ)「時を生かす」という表現で語られます(一六節)。「時代は悪い」ので、時代の流れに身を任せていると、神の命から遠く離れてゆくばかりです。原文は「日々は悪い」ですが、旧約以来「日々」は時代という意味で用いられています。来るべき時代《アイオーン》に対して、現在の時代《アイオーン》は神に背く悪しき時代であるというのは、黙示思想の典型的な見方ですが、その見方は新約聖書全般に引き継がれています。ここでも著者は、自分たちがいる時代は神に背く悪しき時代であることを前提にして、その中で今の《カイロス》(時、状況)を生かし、その中で主に喜ばれること行うように励まします。それが「時を生かす」ことです。
 このように、わたしたちは悪い時代にいるのですから、「無分別な者とならず、主の御心が何であるかを理解しなさい」(一七節)と、これまでの勧告をまとめた上で、著者はとくに留意すべきこととして、「酒に酔うことがないように」という注意を付け加えます(一八節前半)。これは繰り返しとか継続の意味を含む現在形の命令法です。すなわち、個々の飲酒の行為を禁止するというよりは、酒にひたる生活をしないようにという意味です。「酒の中に乱行がある」ので、酒に酔うことは人を無分別に陥れ、主の御心が何であるかを理解することを妨げ、主に喜ばれる歩みをすることを不可能にします。
 たしかに酒は生きる喜びを高揚させ、心身の健康を増進するプラスの面もあります。しかし、そのような酒の効用に依存することは、キリストにある者にふさわしくありません。キリストに属する者は心に喜びや勇気などの力をもたらす聖霊が与えられているのですから、「むしろ、御霊に満たされていなさい」と勧められます(一八節後半)。この「満たされていなさい」も、継続的な意味をもつ現在形の命令法です。御霊に満たされた生活をしなさい、という勧告です。
 そして、その御霊に満たされた生活の仕方が、具体的に描かれます。「詩篇、賛歌、霊の歌をもって互いに語り、主に向かって心をこめて歌い、また賛美して、すべてのことについていつも、わたしたちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい」(一九〜二〇節)。

 御霊に満たされた状態は、しばしば酒に酔っている状態と間違われました(サムエル上一・一二〜一四、使徒二・一三など)。両方とも、普段の冷静な判断を超えた高揚した状態を示します。しかし、両者は根本的に違います。酒は平常の理性的なコントロールを弱くし、ついには人間本性がむき出しで現れるに至らせます。この人間本性は、パウロが「肉」と呼んでいたもので、そこから出てくるものは醜悪なものばかりです(マルコ七・二〇〜二三参照)。「酒の中に乱行がある」と言われる所以です。
 それに対して、御霊に満たされた状態は、神から来る霊の働きと現れですから、いつも主への賛美と父なる神への感謝となって溢れてきます。通常の思いでは落胆し苦悩するしかないような状況でも、理屈抜きで賛美と感謝が溢れてきます。その賛美と感謝が、時には通常の理性的なコントロールを超えた発話として「異言」となったり、歌として「霊歌」になったりします。キリストに属する民は、酒に代表されるような地上の娯楽に依存することなく、天からの御霊によって心楽しみ歩むことができます。

光と闇の二元論?
 この段落(五・一〜二〇)は、キリストに属しエクレシアを構成する民に、外の世界の人々の仲間にならないように、彼らの闇のわざに加わらないように、強く求めています。そして、キリストに属する民を「光の子」と呼び、原理的に対立する光と闇のシンボリズムを用いて、その要求を根拠づけています。このような論調は、「光の子と闇の子の戦い」を主張したクムランのエッセネ派を思い起こさせます。エフェソ書には「闇の子」という表現はありませんが、ここで語られている光と闇の対立の図式は、クムランで発見され、エッセネ派の文書とされる「死海文書」に酷似しています。それで、近年エフェソ書と死海文書の関係、あるいはエフェソ書とエッセネ派との関係が議論されるようになっています。
 そう言えば、パウロの書簡である『コリント第二書簡』にも、光と闇のシンボリズムを用いて、信仰のない外の人たちとの関わりを断つように求める段落(コリントU六・一四〜七・一)がありました。この段落は、他のところで見られるパウロの姿勢と異なり、むしろその精神と表現でクムランの死海文書に近いことから、後でコリント書簡が編集されたときに挿入された部分と見られています(拙著『パウロによるキリストの福音 V』133頁参照)。
 エフェソ書に見られる死海文書との類似は、著者が何らかの形で死海文書とかエッセネ派に接して影響を受けていることも不可能ではありませんが、著者が確定できない以上、それを検証することはできません。むしろ、コリント第二書簡への挿入部分があることからも、パウロ以後のパウロ系共同体に、外の異教世界との断絶を強調する傾向があり、著者もその傾向を重視して書いている可能性の方が高いと見られます。そのような外に対する姿勢と、それを表現する光と闇の二元論的な対立の図式は、小アジアのパウロ系の共同体にエッセネ派またはその傾向のユダヤ人が入ってきて、彼らの影響の下に形成されたものではないかと考えられます。この外の世界との厳しい対立を強調する傾向は、以後のキリスト教の体質を決定していくことになります。

 この光と闇の二元論は、ヨハネ福音書において中心的な位置を占めるようになります。エフェソ書における光と闇のシンボリズムとヨハネ福音書の光と闇の二元論的枠組みがどのような関係に立つのか、それはエッセネ派の死海文書とどうつながっているのか、またエフェソ書を生み出したパウロ系共同体とヨハネ共同体(どちらもエフェソを中心とする小アジアにあると考えられます)とはどのような関わりにあるのか、まだまだ解明されていない問題が多く残されています。ここでは、問題の解明にあたることはできませんので、そのような問題があることを示唆するに止めます。


  12 妻と夫 (5章21〜33節)      (コロサイ 3・18〜19 参照)

 21 あなたたちはキリストへの畏敬をもって互いに服従しなさい。
 22 妻は主に服従するように自分の夫に服従しなさい。23 キリストもまた御民の頭であり、御自身その体の救い主であるように、夫は妻の頭であるからです。24 御民がキリストに服従するように、妻はすべてのことにおいて夫に服従しなさい。
 25 夫よ、キリストもまた御民を愛して、御民のために御自身を献げられたように、妻を愛しなさい。26 それは、キリストが御民を言葉により水の洗いをもって清めて聖なるものとし、27 御民を栄光あるものとして、御自身の側に立たせるためでした。こうして、御民は汚れとかしわとかその類のものがない、聖なるもの、咎のないものとなるのです。28 そのように、夫は自分の妻を自分の体のように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は、自分自身を愛しているのです。
 29 自分の肉体を軽んじた者はかってなく、かえって栄養を与え大事にします。キリストもまた御民にそうされます。30 わたしたちはキリストの体の肢体だからです。31 「それゆえに、人は父と母を離れて、自分の妻と結ばれ、二人は一つの肉体となる」。32 この奥義は大きい。わたしはキリストと御民について語っているのです。33 いずれにしても、あなたたちはそれぞれ、自分の妻を自分自身のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。

家庭訓と服従
 キリストに属する民として外の世界に対してどのような姿勢で臨むべきかを説いた後、著者は社会生活の場面での歩み方に説き及びます。しかしその視野は、夫と妻、親と子、主人と奴隷という家庭内の人間関係に限られ、ローマ書に見られたような上に立つ権威(国家権力)との関係とか社会人としての生き方一般が問題にされていないことが目立ちます。とくにパウロがローマ書(一三章)でローマ帝国の支配に対してとるべき態度を説いている部分がエフェソ書にはない事実が何を意味するのか、当時のアジア州の情勢からすると、かなり真剣に考慮すべき問題ですが、それは別の機会にせざるをえません。ここでは、著者も読者も使徒パウロのローマ書の勧告は熟知していて、その問題を改めて説く必要を感じず、(コロサイ書三・一八〜四・一に従って)パウロが十分扱っていなかった「家庭訓」を取り上げたと見ておきます。
 最初に、家庭訓の基本として服従の重要性が、「キリストへの畏敬をもって」と、キリスト信仰によって根拠づけられます(二一節)。「服従」は、当時の家父長制のローマ社会では家庭存立の基本ですが、それがキリスト信仰の表現として求められることになります。キリストを主として受け入れ、キリストを畏敬する以上は、そのキリストを畏敬するように、家庭で上に立つ者を畏敬して服従することが、キリスト者にふさわしいことだとされます。

     「服従する」は上下関係における倫理ですから、「互いに」という表現とは適合しません。以下の家庭訓では、妻が夫に、子が親に、奴隷が主人に服従することが求められているのであって、妻と夫、子と親、奴隷と主人が「互いに」服従するのではありません。それで、二一節は二〇節までの段落の結尾と見ることが主張されています。しかし、二二節には動詞はなく、二一節と一体で妻が夫に服従することが語られていると見なければならないので、二一節はどうしても二二節以下の家庭訓への導入としなければなりません(並行するコロサイ三・一八では、妻に対して明確に「服従しなさい」と言っています)。そうすると著者は、集会内のキリスト者相互の交わりにおいて、「キリストへの畏敬をもって互いに服従して」主を賛美しているという在り方を、二二節から家庭訓に適用して、その集会内では互いである「服従」を、家庭内では妻の立場にある者に求めていると理解しなければなりません。

妻は夫に服従しなさい
 まず「妻は自分の夫に服従しなさい」と求められます。そしてその服従は、「主に服従するように」と、キリスト信仰の表現として扱われ、そのように服従することを求める根拠が、「夫は妻の頭であるからです」と述べられ、さらに夫が妻の頭であることが、「キリストもまた御民の頭であり、御自身その体の救い主であるように」と、キリストとエクレシアの関係の類比で確認されます(二二節から二三節の原文はこの順序で続いています)。
 「男は女の頭である」という文は、パウロにもありました(コリントT一一・三)。そこでは、創造の秩序における男と女の位置が語られていました。著者はここで(ギリシア語原文では)それと同じ文を用いています。ギリシア語でこの二つの単語は、それぞれ男と夫、女と妻の両義があるので、この原文は「男は女の頭である」とも「夫は妻の頭である」とも訳すことができます。ここで著者は夫と妻の関係を語っているので、「夫は妻の頭である」という意味で用いていることになります。
 そして、「夫は妻の頭である」ことを、著者はキリストとエクレシアの関係から確認します。キリストがその民であるエクレシアの頭であることは、これまでに詳しく見てきたように、著者のキリスト論(キリスト理解)の基本です(一・二二)。このキリスト理解を、夫と妻の関係という家庭の倫理に適用して、夫に対する妻の服従を根拠づけます。キリストは御民の頭であり、御自身その体の救い主であるのですから、エクレシアが頭であり救い主であるキリストに従うように、「妻はすべてのことにおいて夫に服従しなさい」と求められることになります(二四節)。

夫は妻を愛しなさい
 服従という基本理念で家庭訓を説く著者は、まず下位に立つ者に服従を説きますが、同時に上位の者に対して下位の者への態度を説くことも忘れません。妻に対して夫への服従を説いた著者は、すぐに夫に対して妻を愛すべきことを説きます。この場合も、妻の場合と同じく、キリストとその民エクレシアとの関係をモデルにします。
 「夫よ、キリストもまた御民を愛して、御民のために御自身を献げられたように、妻を愛しなさい」(二五節)。
 著者は、「夫よ、妻を愛しなさい」と言います。その「愛しなさい」は、《アガペー》の動詞形です。男女間の性愛《エロース》でなく、人間の自然の情愛の《フィリア》でもなく、それらを含みつつも、別の原理から出る《アガペー》の愛をもって愛することを説きます。その《アガペー》とは、キリストがわたしたちのために死んでくださったことに現れた愛です。
 パウロにおいても、キリストの十字架の死はわたしたちに対する神の愛の表現であり(ローマ五・八)、わたしに対する御子キリストの愛の出来事でした(ガラテヤ二・二〇)。それは、罪人であるすべての人間に対する神の愛の表現でした。ところがエフェソ書では、キリストが「御民を愛して、御民のために御自身を献げられた」出来事とされています。ここにも、著者の関心がいかに強くエクレシアに集中しているかがうかがわれます。
 続いて、キリストが「御民のために御自身を献げられた」のは何のためか、その目的が語られます。
「それは、キリストが御民を言葉により水の洗いをもって清めて聖なるものとし、御民を栄光あるものとして、御自身の側に立たせるためでした。こうして、御民は汚れとかしわとかその類のものがない、聖なるもの、咎のないものとなるのです」(二六〜二七節)。
 著者は、夫と妻の関係を説くのに、キリストとエクレシアの関係をモデルにしましたが、その結果、キリストとエクレシアの関係が結婚関係を比喩として語られることになります。著者がキリストとエクレシアの関係を語るさいの基本的な比喩は「頭とからだ」の比喩ですが、ここではそれが結婚関係の比喩に移行しています。主とその民との関係を結婚関係の比喩で語ることは、旧約の預言者以来の伝統です。
 婚礼の前には花嫁を沐浴で清めて花婿の側に立たせましたが、それを比喩としてバプテスマを意義づけ、それによってバプテスマによって告白されるキリストの出来事の目的を説明します。ここではバプテスマが「水の洗い」と呼ばれ、清めるための儀式のように扱われています。汚れを清める沐浴という儀礼は、宗教史的には珍しくなく、どこにでもあることですが(たとえば日本神道のみそぎ)、ここではやはりクムランのエッセネ派共同体を思い起こさせます。クムランの遺跡には、大きな水槽設備があり、そこで毎日清めの沐浴が行われていたと見られています。先に見たように、死海文書の思想は直接的ではなく、エッセネ派ユダヤ人の入信によって間接的に初期のエクレシアに影響を及ぼしていたと見られますので、もともと信仰告白の行為であるバプテスマが清めのための儀礼と意義づけられるようになったのも理解できます。
 しかし著者は、バプテスマの水が清めるのではなく、キリストが「言葉により」エクレシアを清められるのであることを十分承知しています。「水の洗い」は、言葉による清めの象徴と理解すべきでしょう。その「言葉により」というときの「言葉」とは、キリストの十字架・復活の出来事を告知する福音の言葉であり、イエス・キリストの教えの言葉です。その「言葉により」、その言葉が信受する者の中に御霊として働き、エクレシアは「汚れとかしわとかその類のものがない、聖なるもの、咎のないものとなる」のであり、その結果、エクレシアは「栄光あるものとして」花婿であるキリストの側に立ち、キリストとの聖なる婚姻関係に入るのです。
 このように夫は妻を愛するようにと説く部分の最後に、夫は自分の妻を「自分の体のように」(この句は「自分の体として」と訳すこともできます)愛すように求め、「自分の妻を愛する者は、自分自身を愛しているのです」と締め括ります(二八節)。
 頭であるキリストは、自分の体であるエクレシアを愛して、エクレシアのために御自身を献げられたのでした。そのように、「夫は妻の頭である」のですから、頭としての夫は、体である妻を自分の体として愛するのが当然です。人はみな自分の体を大切にします。体あっての生活ですから、これは当然です。そのように、夫は妻を自分の体として大切に扱うべきです。こうして、夫に対する妻の服従を根拠づけた「夫は妻の頭である」という事実が、今度は夫が妻を愛すべき根拠とされます。それは、頭であるキリストが体であるエクレシアを愛されたという事実によって起こった転換です。「夫は妻の頭である」という家父長制社会の支配・服従の秩序が、キリストにあっては愛の根拠に変容しているのです。
 このように妻を自分の体として愛する夫は、自分の一部、あるいは自分と一体である者を愛しているのですから、自分を愛していることになります。体は自分自身に他ならないですから。こうして、「自分を愛するように、隣人を愛しなさい」という根本的な戒めは、妻を自分の体として愛することにおいて、もっとも身近な形で成就します。

結婚の奥義
 「自分の肉体を軽んじた者はかってなく、かえって栄養を与え大事にします。キリストもまた御民にそうされます。わたしたちはキリストの体の肢体だからです」(二九〜三〇節)。
 夫は妻を自分の体として愛しなさいと説いた著者は、そのことを、人は自分の肉体は栄養を与え大事にするものだというごく日常的な当然の事実で根拠づけます。しかしここでも、キリストが御自分の体であるエクレシアに賜物を与えて大事にされている事実が引き合いに出されます。「わたしたちはキリストの体の肢体だから」、キリストはわたしたち一人ひとりに御霊の賜物を与えて養い育て、大事にしてくださっています。著者の思考は、頭であるキリストとその体であるエクレシアという関係で貫かれていて、いつもそこに帰着します。

 こうして、夫と妻のかかわり方をキリストとエクレシアの結びつきで根拠づけてきた著者は、これまでに述べてきたことを聖書の一句でまとめます。
 「それゆえに、人は父と母を離れて、自分の妻と結ばれ、二人は一つの肉体となる」。(三一節)
 これは、七十人訳ギリシア語聖書の創世記二章二四節の引用です。著者は聖書のこの言葉によって、人は結婚によって自分の妻と結ばれ、二人は「一つの肉体となる」のだから、妻は自分の一部であることになるとし、先に妻を自分の体として愛しなさいと言ったことの根拠としています。
 それは、この聖書の言葉の直接の意味です。しかし、この言葉は別の「奥義」《ミュステーリオン》を指し示しています。「奥義」《ミュステーリオン》とは、人の目には隠されているが、神からの啓示によって知られることになる霊界の現実です。著者は、「この奥義《ミュステーリオン》は大きい(深遠である)」と、自分に示されている奥義の深さに改めて感嘆し、その奥義とは「キリストと御民について」であると、その内容を指し示します。すなわち、この聖書の言葉はキリストと御民の一体関係を語っているのだとします(三二節)。
 キリストとエクレシアの一体関係、すなわちキリストはその民《エクレーシア》の頭であり、エクレシアは霊なるキリストの充満体としてキリストの体であるという、著者がこの書簡で繰り返し語ってきた真理は、人間の通常の探求では到達できない理解であり、神の御霊による啓示によって初めて到達できる理解であるとします。著者は、その内容はこれまで繰り返し語ってきたこととして触れることなく、ただ結婚において夫と妻が一体になることを語るこの聖書の言葉は、自分が繰り返し語ってきたキリストと御民の一体関係の奥義を指し示していることを指摘するにとどめます。
 なお、ここの「奥義」《ミュステーリオン》が、ウルガタ(ローマ教会公認のラテン語訳)で「サクラメントゥム」と訳されたために、後に結婚がサクラメント(聖礼典)かどうかが論争されることになります。もしサクラメント(聖礼典)がそれにあずかることによってキリストとの関わりが保証される儀礼という意味であるならば、著者はここで結婚をそのような聖礼典としているものでないことは明らかです。著者はここで、夫と妻の関係を説くために根拠として引用した創世記の御言葉が、キリストとエクレシアの一体関係という《ミュステーリオン》(啓示によってのみ知られる霊的知識)を指し示しているということを言っているだけです。儀礼のことは念頭にはありません。
 しかし、同じ聖書の言葉が男女の結婚関係とキリストとエクレシアの一体関係を指し示していることから、この二つの一体関係は深く通じていることは事実です。そのことは、この段落で著者がキリストとエクレシアの関係を根拠にして夫と妻の関係を説いていたことに十分示されていました。地上の結婚は、キリストとエクレシアの一体関係にあずかることによって、その理想の姿を実現するのです。キリストとエクレシアの一体性という奥義が結婚を根拠づけるのであって、その逆ではありません。結婚という人間の営みは、キリストとエクレシアの一体性という奥義を示唆する比喩であっても、キリストと信徒の結びつきを保証したり根拠づけるサクラメントではありません。
 最後に著者は、ここまでに説いてきたことをもう一度要約して、夫と妻に関するこの段落を締め括ります。
 「いずれにしても、あなたたちはそれぞれ、自分の妻を自分自身のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい」。(三三節)
 夫に対して、先には妻を自分の体として愛しなさいと言われていましたが、ここでは「自分自身のように」愛しなさいと言われます。「妻は夫を敬いなさい」の「敬う」は、「恐れる、畏敬する、敬う」という意味の動詞で、最初の「キリストへの畏敬をもって」(二一節)の畏敬が反響しています。


  13 子と親 (6章1〜4節)       (コロサイ 3・20〜21 参照)

 1 子供たちよ、あなたたちは[主にあって]両親に従いなさい。それは正しいことだからです。 2 「あなたの父と母を敬え」。これは第一の戒めであり、約束が伴っています。3 「そうすれば、あなたにはよいことがあり、地上で長らえるであろう」。
 4  また、父親たちよ、子供を怒らせず、主のしつけと諭しをもって養育しなさい。

子は親に従え
 妻と夫の関係について語った著者は、続いて家庭内で基本的な関係である子と親の関係を扱います。まず下位に立つ子に対して、親に従うように説きます。ローマの家父長制家族では、子が聴き従うべき親は父親ですが、ここで「両親」となっていることが注目されます。母親も聴き従うべき親に含まれています。これは、すぐ続いて引用しようとしている聖書の言葉が「父と母」となっているからでしょう。

 「主にあって」という句は、有力な写本に欠くものがあります。底本は[ ]に入れています。しかし、この家庭訓全体の基調が、「キリストへの畏敬をもって」服従しなさいですから、子が親に服従することが、「主にあって」とキリスト信仰によって根拠づけられるのは自然なことです(一節)。
 両親に従うことは当然正しいことだと、当時のローマ社会での通念から自然に語りますが、すぐに聖書の基本的な戒めを引用して、それが神が求めておられることであるとします。
 「あなたの父と母を敬え」という戒めは、モーセ十戒の第五の戒めですが、人間関係についての戒めの中では最初に来る最も重要な戒めです。その意味で「第一の戒め」です。十戒の中でこの戒めだけが、それを守る者への祝福の約束が付け加えられています(二節)。
 その祝福の約束、「そうすれば、あなたにはよいことがあり、地上で長らえるであろう」は、出エジプト記二〇・一二、申命記五・一六の七十人訳ギリシア語聖書からの部分的引用です。この約束はもともと、この戒めを守るとき、イスラエルの民は主から与えられた約束の地に長く住み、栄えることができるという約束ですが、ここでは祝福の約束を伴っている重要な戒めであることが強調されるだけで、その内容はとくに規定されていません。フィロン以来なされてきたように、これを永遠の命とか天的相続分と解釈する必要はないでしょう。主は、親を敬う者を喜び、地上の生で様々な祝福を与えてくださるという約束です。親を敬うことは、地上での人間関係のことですから、祝福も地上で与えられると理解してよいでしょう(三節)。

子のしつけ
 上位にある親に対する勧告としては、「父親たちよ、子供を怒らせず、主のしつけと諭しをもって養育しなさい」と言われます(四節)。父親だけに呼びかけられているのは、おそらく子供の教育に責任があるのは父親であるというローマの家父長制家族の通念からでしょう。しかし、自分の怒りの感情にまかせ、また家父長としての権力にまかせ、いらいらと子供に当たることが多い男親に対する勧告として受け取ることもできます。
 コロサイ書(三・二一)では「父親たちよ、子供をいらだたせてはならない。彼らが意欲をなくすといけないから」と言われていました。親が上から力ずくで押さえつけるのは、子供の反抗心を引き起こし、自発性を失わせ、子供が内からの生命によって自然に成長することを妨げます。著者はそれを「子供を怒らせず」と表現し、子供が自発的によい人間に成長するように、「主のしつけと諭しをもって養育しなさい」と勧めます。
 「しつけ」と訳した原語は《パイデイア》です。これは「教育」と訳されることが多い語ですが、もともと子供を成熟した大人に仕上げるという意味で、「しつけ」とか「訓練・訓育」に近い意味の語です。「しつけ」は、時には懲罰も用いて、子供の行為と習慣を形成する生活訓練ですが、「諭し」は言葉で言い聞かせて教え導くことです。この両方に「主の」という限定がつきます。しつけも諭しも、主がわたしたちに対してしてくださるような仕方でしなさいということでしょう。


  14 奴隷と主人(6章5〜9節)       (コロサイ 3・22〜4・1 参照)

 5 奴隷たちよ、キリストに従うように、誠実な心で、怖れとおののきをもって、肉による主人に従いなさい。6 人のご機嫌をとり、うわべだけで仕えるのではなく、キリストの奴隷として心底から神の御心を行い、7 人に対してではなくキリストに対するように、快く仕えなさい。8 あなたたちも知っているように、奴隷であっても自由人であっても、善いことを行えば、誰でも主からその報いを受けるのです。
 9 そして主人たちよ、奴隷たちに対して同じように行い、脅すことは止めなさい。あなたたちも知っているように、天には彼らの主人であり、またあなたたちの主人でもある方がおられ、その方はかたより見ることがないのです。

キリストに従うように
 最後に奴隷と主人の関係が来ます。奴隷もローマ社会の家族を構成していました。ここでもまず下位の奴隷に服従が求められます。奴隷制ローマ社会で、奴隷が主人に服従するのは当然ですが、キリストに属する者として、奴隷身分の者は「肉による主人」に、「キリストに従うように、誠実な心で、怖れとおののきをもって」従うように求められます(五節)。奴隷としての服従が、キリストへの信従によって動機づけられています。

 そして、その肉の主人に、「キリストに従うように従う」ということが具体的に説明されます。
 「人のご機嫌をとり、うわべだけで仕えるのではなく、キリストの奴隷として心底から神の御心を行い、人に対してではなくキリストに対するように、快く仕えなさい」(六〜七節)。
 奴隷はもともと戦争捕虜とか借金のために心ならずも陥った身分であり、力ずくで支配されている立場ですから、「うわべだけで」主人に仕えるのが普通です。そして、主人のご機嫌をとり、自分を守ることが本性となります。もっとも二代目とか三代目になると(奴隷の子はその家の奴隷となります)、主人に対する敬愛の念から仕える場合もあったでしょうが、奴隷制という制度からすれば、「うわべだけで」主人に仕えるが当然の姿です。
 そのような奴隷の立場の者に、著者は「あなたたちはキリストの奴隷である」のだから、「心底から神の御心を行う」ことによって、「人に対してではなくキリストに対するように、(肉の主人に)快く仕える」ように説き勧めます。そうする(心底から快く仕える)ことができるようになれば、自分を殺して、心ならずも支配者に仕えるという奴隷身分の苦悩から解放されます。奴隷でありながら、強いられて生きるのではなく、自発的に自分の人生を生きることになります。
 それは、自分がキリストの奴隷であることを自覚して、キリストの奴隷として神の御心を行っているのだと自覚することができるときに可能となります。キリストの奴隷は、心からキリストに仕えます。わたしたちはキリストに力ずくで支配されているのではなく、愛されているのですから、心から主人であるキリストに仕えたいと願っています。その心でキリストに仕えるとき、神の御心によって与えられた「肉の主人」にも「快く(自発的に)」仕えることができるようになり、奴隷でありながら強いられて生きるのではなく、自発的に自分の人生を生きることができるようになります。
 こうして、著者はキリスト信仰によって奴隷の境遇を内面で乗り越える道を説き勧めます。その根拠として、「あなたたちも知っているように、奴隷であっても自由人であっても、善いことを行えば、誰でも主からその報いを受けるのです」(八節)と続けます。善いことを行えば、主からその善い行いに対するよい報いを受けることは、奴隷であるという身分と関係のないことだと知っているので、主人に心から仕えるという奴隷としての善いことを行うことができます。そうすることによって、主人からの報いではなく、主からの報いを受けて、心豊かに生きることができます。

脅すことを止めよ
 上位に立つ主人たちに対しては、「奴隷たちに対して同じように行い、脅すことは止めなさい」と、簡潔に説かれます(九節前半)。ここの「同じことを行え」(直訳)は、奴隷に対して勧告されたのと同じことなのか、奴隷各人を同じように扱えという意味なのか、解釈が分かれています。コロサイ書(四・一)の「主人たちよ、奴隷たちを正しく公平に扱いなさい。あなたたちにも天に主人がいますことを知っているのですから」との並行関係から見て、奴隷各人を同じように公平に扱えという勧告と理解してよいでしょう。
 主人は奴隷に対して支配する力を持つ立場です。力を持つ者は、ともすれば力に頼り、処罰で脅したりして、力ずくで従わせようとします。それが脅しです。「脅すことは止めなさい」というのは、力ずくで支配することを止めなさいということです。そして、その根拠として、「あなたたちも知っているように、天には彼らの主人であり、またあなたたちの主人でもある方がおられ、その方はかたより見ることがないのです」(九節後半)と、主人の立場にいる者にも天にキリストという主人がおられることを思い起こさせます。この主であるキリストは、奴隷たちの主人であるだけでなく、地上では奴隷の主人という立場にある者にとっても主人です。地上の主人も奴隷も同じく主キリストに仕えているのです。ですから、自分の恣意で他人の奴隷(主キリストの奴隷)を取り扱ってはならず、また、かたより見ることのない天の主人にならって、奴隷たちを公正に扱うように求められます。
 現代社会には奴隷制はありません。奴隷と主人の関係についての勧告は、もはや直接には現代のわれわれとは関係がなくなっています。しかし、現代社会にも力による支配関係は様々な形で存在し、わたしたちはその圧力の下で苦しんでいます。奴隷制社会に生きる人たちへのこの勧告は、現代のわたしたちにも示唆を与えるものがあります。

 

  15 悪と戦え (6章10〜20節)

 10 最後に、主にあって、その強大な能力によって強くなりなさい。11 悪魔の策略に対抗して立つことができるようになるために、神の武具を身に着けなさい。12 というのは、わたしたちにとって戦いとは血肉に対するものではなく、諸々の支配力、諸々の権勢、この闇の諸々の宇宙支配者、天上にいる諸々の悪の霊的存在に対するものだからです。13 それゆえ、あなたたちは悪しき日に抵抗し、すべてのことを成し遂げて立つことができるように、神の武具を取りなさい。14 だから、立って、真理によって腰の帯を締め、義の胸当てを着け、15 和の福音の備えを足に履きなさい。16 すべてのことにおいて信仰の盾を取りなさい。それによって、あなたたちが悪しき者の放つ火矢を消すことができるようになるためです。17 また、救いの兜をかぶり、御霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。 18 絶え間ない祈りと願いにより、どのような時にも御霊によって祈り、そのために目覚めていて、徹底して根気よく、すべての聖徒たちのための願いを続けなさい。19 また、わたしのためにも、わたしが口を開くとき言葉が与えられて、確信をもって福音の奥義を告げ知らせることができるように祈ってください。20 わたしはこの福音のために使節となって鎖につながれていますが、わたしが語るべきことを大胆に語ることができるように祈ってください。

天上の諸力に対する戦い
 キリストに属するものとしての歩みについてすべての勧告をなした後、「最後に」著者は、信仰生活は「天上にいる諸々の悪の霊的存在に対する」戦いであることを思い起こさせて、その戦いに勝ち抜いて勝利を得るための指示と激励の言葉をもって、実践的な勧告の部分を締め括ります。
 たしかに信仰生活は戦いです。しかし、その戦いは「血肉に対するものではなく」、すなわち地上の富とか権力をめぐる人間相手の戦いではなく、「天上にいる諸々の悪の霊的存在に対するもの」です。
 当時のヘレニズム世界の人々のコスモロジー(宇宙観)においては、《コスモス》(宇宙、全存在界)は地上の人間界の上に数層の天がお椀をかぶせたように覆っていて(一二節の「天上」は複数形)、そのそれぞれの層を支配する霊がいると考えられていました。そのような地上の人間界を含め天上の霊的諸存在を支配する霊的な力が、《アルコーン》(支配力)や《エクスーシア》(権勢)や《デュナミス》(権力)と呼ばれていました(みな複数形)。この三つの組み合わせはパウロにも見られますが(コリントT一五・二四)、コロサイ書やエフェソ書で多くなります。ここではさらに《コスモクラトール》(宇宙支配者)という(新約聖書ではここだけに出てくる)名称が加わっています(これも複数形)。そして、これらの霊的な諸力を統合して、至高の天にいます神に敵対する霊が「悪魔」《ディアボロス》(これは単数形)です(一一〜一二節)。
 当時の人々は、人間とはこのような「天上にいる諸々の(悪の)霊的存在」に支配されているので、その存在自体が不安の中にあると感じていました。このような「存在の不安」または「世界不安」の中にいる人たちに、福音はそのような霊的諸力の支配からの解放を告げ知らせたのでした。著者はこの書簡で繰り返し、キリストに属する者はすでにキリストにあってこのような支配力から解放され、神の子とされ、「天上のあらゆる霊的祝福をもって祝福」されていることを語ってきました(とくに一・三〜六参照)。しかし、そのような霊的諸力の働きがなくなったわけではありません。キリストに属する者もこの世にいる限りは、このような諸力の誘惑や試みにさらされています。このような闇の諸力は「光の子」にも働きかけて、再び光から闇に引きずり込もうとします。それで、「悪魔の策略に対抗して立つことができるようになるために」、「神の武具」を身につけ、「主にあって、その強大な能力によって強く」されて、勇敢に戦うように激励されます。
 パウロもローマ書において、実践的な勧告の最後に「光の武具」を身につけるようにと言っています(ローマ一三・一二)。しかし、パウロにおいては、それは主の来臨の「日は近い」ゆえの勧告でした。エフェソ書は、パウロの「日は近い」ゆえの勧告を、霊的勢力との戦いに変えています。パウロにおいては、時が迫っているゆえ、「眠りから覚める」ように求められていましたが(ローマ一三・一一)、エフェソ書では霊的な戦いのために祈りを絶やさないように「目覚めている」ことが求められています(一八節)。パウロにおいてはなお主の来臨の迫りが強く感じられていましたが、コロサイ・エフェソ書では終末的な救済待望は希薄になり、宇宙の諸力からの救済という宇宙論的な面が強くなっていることが、ここにも見られます。

戦いのための武具
 このようにわたしたちの戦いの性質が描かれた後、改めて「悪しき日に抵抗し、すべてのことを成し遂げて立つことができるように」、神の武具を取るように説かれます(一三節)。「悪しき日」というのは本来は黙示思想の用語で、来たるべき栄光の時代に対して、現在の悪が支配する時代を指しています。しかし、ここでは黙示思想の枠組みはなく、単にわたしたちが生きている時代が悪に支配されている時代であることを指しています。その悪の霊的諸力に抵抗して「立つことができるように」、以下の神の武具が必要とされます。
 ここの「立つ」は、一一節にも用いられているのと同じで、倒れないで、神の子、光の子の現実に踏みとどまることを意味しています。終末待望に触れない本書では、終わりの裁きの場で神の前に立つという理解は必要でないでしょう。しかし、一四節の「立つ」は、怠惰の中に横たわっていないで、戦いに備え心を引き締めて立ち上がることを意味しています。立ち上がった上で、以下のような戦士としての武具を身につけるように説かれます。横たわったり座ったままでは武具を身につけることはできません(一四〜一七節)。
 「真理によって腰の帯を締め」という句には、イザヤ書(一一・五)の「正義をその腰の帯とし、真実をその身に帯びる」という言葉の反響が聞こえます。著者にとって「真理」とは、「救いの福音」に他なりません(一・一三)。福音によって賜る御霊の現実(それが真理です)こそ、天上にいる諸々の悪の霊的存在に対する戦いに臨む戦士の腰を引き締めるベルトです。
 次に「義の胸当てを着け」とあります。パウロでは「信仰と愛の胸当て」(テサロニケT五・八)と言われていましたが、本書では「義の胸当て」となっています。胸当ては敵の攻撃から心臓を護ります。キリストにあって恩恵によって義とされているという確信は、信仰の心臓部に対する悪魔の攻撃に対する何よりもの防御です。
 「和の福音の備えを足に履き」というのは、神との和(ローマ五・一)を告げ知らせる福音のために働く準備、あるいはその心構えを指すのでしょう。その備えが、戦いの場で動き回るのに不可欠の履物にたとえられています。
 そして、戦士が手に盾を取るように、「信仰の盾」、すなわち信仰という盾を取るように勧められます。盾は敵の剣や矢を防ぎます。主キリストへの信仰と父への信頼は、わたしたちの弱い心や苦しい状況に乗じて「悪しき者」が吹き込んでくる不安とか疑念を消すことができます。
 腰、胸、足、手に続いて、体でもっとも大切な頭には「救いの兜」をかぶるように説きます。パウロでは「救いの希望の兜」と表現されていました(テサロニケT五・八)。救われているという喜びと確信は、悪魔の策略に対する何よりの防具です。
 ここまではもっぱら敵の攻撃から身を護るための武具でしたが、最後に敵を攻めるために手に取るべき武具があげられます。それは「御霊の剣」です。これには、「すなわち神の言葉」という説明がついています。御霊が悪の霊力と戦う時に用いる武器(剣)は、神の口から出る言葉です。ここには、イザヤ書(一一・四、四九・二など)のメシアについての描写が信仰の戦士の比喩に適用されて用いられています。

絶えず祈れ
 戦うと言っても、わたしたちの戦いは自分の力で戦うのではありません。「主にあって、その強大な能力によって」(一〇節)戦うのです。したがって、わたしたちは主から戦う力を与えられることを「絶え間ない祈りと願いにより」求め続けなければなりません。その祈りは「御霊による祈り」です。すなわち、祈るべきことを知らないわたしたちを、内にあって呻きをもって執り成してくださる御霊の助けによって祈る祈りです(ローマ八・二六〜二七)。
 わたしたちは自分のために祈るだけでなく、「そのために目覚めていて、徹底して根気よく、すべての聖徒たちのための願いを続け」ることが求められています。わたしたちはいつも「目覚めて」いる必要があります。すなわち、戦いの場にいるのだという自覚を失ってはなりません。最終的に、戦いは天上にいる諸々の悪の霊的存在に対するエクレシアの勝利を目標としています。勝利したエクレシアによってこそ、「多様多彩な神の知恵が天上にある支配や権勢に知らされる」ことになるのです(三・一〇)。そのために、わたしたちは身近な主の民一人ひとりが勝利するように祈り続けなければなりません(一八節)。
 そのような「聖徒たちのための祈り」の中に、著者は獄中のパウロのための祈りを組み入れます(一九〜二〇節)。これは、コロサイ四・三〜四にあるパウロのための祈りを引き継いでいます。おそらくコロサイ書の著者は、このような祈りを求めるパウロの獄中からの手紙の一節を知っており、それをパウロの名によって書いた彼の文書の最後に用いたものと思われますが、エフェソ書の著者もそれを引き継いで、エクレシアが福音の使徒のために共に祈るべきことを説き勧めます。ただし、パウロ自身の手紙にあったと見られる、釈放とその後の活動を期待しての「門が開かれ」という句はなくなっており、「わたしが口を開くとき」に大胆に語れるようにという祈りに集中しています。

 

  16 結びの挨拶(6章21〜24節)     (コロサイ4・7〜9参照)

 21 わたしの方の様子とわたしがどうしているかをあなたたちも知るようになるために、ティキコがすべてをあなたたちに知らせるでしょう。彼は愛する兄弟であり、主にあって忠実な奉仕者です。22 彼をあなたたちのところに遣わしたのは、あなたたちがわたしたちの様子を知り、彼があなたたちの心を励ますためです。
 23 兄弟たちに和があるように。そして、信仰に伴う愛が父なる神と主イエス・キリストからあるように。24 わたしたちの主イエス・キリストを愛するすべての人と共に、朽ちることのない世界で恵みがあるように。

 著者は本書をパウロの手紙としての形式をもって結びます。すなわち、パウロが他の手紙でも通例そうしているように、個人的な知らせと祝福の言葉とで結びます。テキコに関する部分(二一〜二二節)は、コロサイ書のその部分(四・七〜八)と文字通り一致しています。コロサイ書にあるオネシモに関する部分(四・九)が削られている事実は、エフェソ書の著者はオネシモでないかという想像をかき立てます(フィレモン書講解を参照)。
 最後の祝福の言葉(二三〜二四節)で、「信仰と一緒にある愛」(直訳)は「信仰を伴う愛」(新共同訳)ではなく「信仰に伴う愛」と理解すべきでしょう。また、文尾の「朽ちることのないものにおいて」(直訳)という句は、新共同訳のように「愛する」にかけることは困難です。恵みが「朽ちることなく」あるようにという理解も可能です。

 


  第三節  エフェソ書の位置と意義

 

ユダヤ教からの距離

 エフェソ書の位置と意義については、先にコロサイ書の講解の最後に書いた「コロサイ書の位置と意義」とほぼ同じことが言えます。コロサイ書に強く依存し、コロサイ書と同じ信仰思想に立つエフェソ書(同じ著者の可能性も捨てきれません)は、コロサイ書がそうであったように、キリスト信仰がユダヤ教から分離独立していく過程の第三段階に属しています。すなわち、キリスト信仰が完全にユダヤ教の外に出てしまっており、もはやユダヤ教律法は問題になっていません。著者ははっきりと「キリストは律法を無効にされた」と宣言します(二・一五)。

 コロサイ書に較べると、旧約聖書への引照が多くなっていることや死海文書への類似が見られることから、著者がユダヤ人であるという推察もなされることがありますが(たとえばEKKのシュナッケンブルグ)、この事実は異邦人であっても長年の信仰生活の中で聖書に親しんできたことや、集会に入ってきたエッセネ派ユダヤ人の影響から説明ができるので、著者がコロサイ書の場合と同じくヘレニズム世界に深く呼吸している異邦人であると見ることを必ずしも妨げません。
 エフェソ書のこのような位置から、ユダヤ教律法の問題と格闘したパウロの場合とは違い、著者はもはやユダヤ教律法との関係に煩わされることなく、もっぱら異邦人信徒がエクレシアの外の異教世界にどのように対処したらよいかという問題に集中することができます。この状況は現代の状況に近く、現代のキリストの民がパウロ書簡よりもエフェソ書の方に親近感を覚えることが多い理由です。
 もはやユダヤ教律法をキリスト者の倫理の源泉とか基準にすることができない状況で、パウロの場合は明確に聖霊による生き方が倫理の源泉とされていた(たとえばガラテヤ書五章)のに対して、エフェソ書になると聖霊への言及はそれほど明確ではなく、キリストにある新しい生き方が、世間一般の人々との対比で「光の子」という象徴的な標語で指し示めされるようになっています。しかし、終わりの日を前にして「贖いの日のための保証」である聖霊を悲しませるような振舞いをしないように(四・三〇)という形で倫理の動機付けがなされており、パウロ的な終末の場での聖霊による倫理の枠組みは維持されています。

 

《エクレーシア》と「教会」

 同じようにヘレニズム世界での宇宙論的なキリスト理解に立ちながら、エフェソ書がコロサイ書からさらに一歩を進めている点は、本文の講解で繰り返し見てきたように、キリストの民《エクレーシア》がキリストの充満体、神の奥義の充満体であるという理解です。著者はこの《エクレーシア》論を中心に据えて、キリストにおける救済を語っています。このエフェソ書の《エクレーシア》理解は、後のキリスト教の歴史、とくにその教会論に巨大な影響を及ぼすことになります。
 しかしここで、エフェソ書のいう「御民」と、その後の歴史の中で成立したキリスト教の「教会」とは直ちに同じものではないということに留意する必要があります。日本語訳はほとんどみな、エフェソ書の《エクレーシア》を「教会」と訳していますので、両者の混同は避けられないようです。

 キリストの民も地上で歴史の中を歩む以上、共同体としての制度化は避けることはできません。キリストの民の共同体は、その後の歴史の中で、信条と教義を掲げ、洗礼や聖餐の儀礼を行い、聖職者の組織をもつ制度となっていきます。その制度的共同体が「教会」と呼ばれ、そこに表現されている宗教が「キリスト教」と呼ばれるようになります。その中での御霊による交わりは《エクレーシア》そのものですが、その《エクレーシア》の容れ物(容器)となっている「教会」は直ちに《エクレーシア》ではありません。
 「キリストにあって」という場における御霊による交わりは、そこにキリストが現れてくださるキリストの充満体です。しかし、その交わりを入れている容器である「教会」は、歴史的状況に制約された相対的な制度にすぎません。相対的な制度に過ぎない「教会」を絶対化して、その制度(教義や祭儀)に従うことを強要し、従わない者を排除・迫害するするならば、その「教会」は《エクレーシア》の敵対者になっています。キリスト教会の歴史は、そのような教会の絶対化とそこから発する対立抗争で血塗られた歴史となりました。
 エフェソ書は《エクレーシア》をキリストの充満体として絶対化していますが、それを「教会」の絶対化と混同してはなりません。むしろ、《エクレーシア》の絶対性の視点から、歴史的教会の相対性を認識する必要があります。それができるとき、エフェソ書は「教会」を絶えず内から変革して、神の奥義の充満体にふさわしいキリストの民の共同体にしていく拠点となるでしょう。

 

正典におけるエフェソ書の位置

 最後に、新約聖書正典の中におけるエフェソ書の位置について触れておきます。
 エフェソ書は、ローマ書、コリント書TとU、ガラテヤ書という、いわゆるパウロの四大書簡の直後に置かれ、それ以後の小書簡群の先頭に立っています。四大書簡もその後の小書簡群も、それぞれ長さの順に配置されているのに、ガラテヤ書よりも長いエフェソ書がガラテヤ書の後に来ている事実に注目して、G・タイセンは次のような分析の結果、「エフェソの信徒への手紙は初めからパウロの手紙の結集を意図して、そのために構想されたということがあり得る」としています。

 このように見ると、エフェソ書がパウロの福音の要約としての性格を見せていることが諒解できます。この性格が、ヘレニズム時代とよく似た様相を見せている現代において、パウロを慕う者たちにエフェソ書への親近感を感じさせる所以でしょう。

 


前章に戻る    次章に進む
目次に戻る   総目次に戻る
 ホームページに戻る