パウロ以後のキリストの福音


第三章 来臨待望の変遷                   

 ―― テサロニケ第二書簡における終末待望 ――

(本章で書名のない引用箇所はすべてテサロニケ第二書簡の章節をさします。)


はじめに

 キリストの福音は当初から一貫して、復活者イエスが近い将来に栄光の中に世界に来臨されることを宣べ伝え、復活者イエスをキリストと信じた民はずっとその栄光の来臨を待ち望んできました。
 ペトロを初めとするイエスの直弟子たちが、イエスの復活顕現を体験した後エルサレムに集まり、復活者イエスが栄光の中に支配者として世界に来臨されるのを待ち望んだという事実は、イエスの宣教にそのような終末的な質があったことを指し示しています。イエスの教えの中にそのようなものが何も無ければ、彼らが突然そのような来臨を待望するようになることは考えられません。イエスが終末の事態についてどのように語られたのかは、福音書研究の大きな主題ですが、ここではそれに立ち入ることはできません。本稿では、イエスが終わりの日の完成について語られたのを聞いていたので、弟子たちは復活者イエスの顕現に接した後、熱心にその方の栄光の来臨を待ち望んだという事実から出発します。彼らはその栄光の来臨を《パルーシア》と呼びました。その来臨の待望が、福音の宣教の進展とともに、とくにパウロ系の共同体においてどのように変わっていったのかを概観し、《パルーシア》を主題として扱っているテサロニケ第一書簡と第二書簡を比較して、本稿の主題であるテサロニケ第二書簡の位置づけを試みたいと思います。

 


  パウロまでの来臨待望

 

エルサレム原始教団の《パルーシア》待望

 イエスが過越祭のときに十字架刑によって処刑されたのを見て、弟子たちは恐れてエルサレムからガリラヤへ戻ります。それはガリラヤへ「逃げ帰った」と言える行動です。ガリラヤの漁師であったペトロたちは漁師の仕事に戻ります。そのペトロたちに復活されたイエスが姿を現し、復活者イエス・キリストを宣べ伝えるように召されます。マルコ福音書冒頭の四人の弟子たちの召命記事(マルコ一・一六〜二〇)や湖上の顕現の記事(マルコ六・四五〜五二)は、復活者イエスのガリラヤでの顕現が地上の働きの時の出来事として組み込まれたものではないかと考えられます。弟子たちがガリラヤに戻って復活者イエスにお会いした体験を、マルコはイエスご自身の指示によるものとしています(マルコ一四・二七〜二八、一六・七)。マタイも、弟子たちはイエスの指示でガリラヤに戻り、ガリラヤの山で復活者イエスにお会いしたとしています(マタイ二六・三二、二八・一〇、二八・一六以下)。

 ところが、過越祭から五十日後のペンテコステの祭りの日には、ペトロたち弟子団はエルサレムにいて、祭りに集まったユダヤ人たちにイエスを復活者キリストとして宣べ伝えています。ユダヤ人(最高法院などエルサレムのユダヤ教指導層)を恐れてガリラヤに逃げ帰っていた弟子たちがなぜ再びエルサレムに集まったのか、重大な理由または動機がなければなりません。その理由としては、ユダヤ人にとってメシア来臨の場所としてはエルサレム以外は考えられなかったからではないかと推察されます。彼らは復活者イエスが栄光の中に来臨されるのを待つためにエルサレムに戻ってきたと考えられます。それ以外の理由を推察することは困難です。このとき最初に復活者イエスの顕現に接したペトロが主導的な働きをしたので、ペトロがエルサレム原始教団で首位を占めることになったと考えられます。

 エルサレムでも復活者イエスはマグダラのマリアに現れておられます。週の初めの日の朝にイエスが最初にマグダラのマリアに現れたという伝承は広く知られていたようで、各福音書に用いられています(マルコ一六・九〜一一、マタイ二八・一〜九、ヨハネ二〇・一一〜一八)。このマリアから、エルサレムに戻ってきたペトロたちにイエスが復活されたことが伝えられて、イエスは週の初めの日(日曜日)に復活されたという復活顕現の伝承が確立していきます。エルサレムに戻ってきた弟子たちに復活者イエスが顕現された可能性も十分推察できます。

 エルサレム原始教団の姿を伝える文献はルカの「使徒言行録」だけですが、ルカはペトロたちの世代にキリストの来臨《パルーシア》は起こらなかったことを知っており、おそらく三世代目の弟子として、福音がエルサレムから始まって全世界に(実際には世界の中心地であるローマまで)伝えられる歴史を書こうとしているので、エルサレム原始教団の姿もその視点から、すなわち世界宣教の出発点としての視点から見られています。したがって、エルサレム原始教団が復活者イエスの《パルーシア》を待望する集団であったという姿は覆われています。しかし、わたしたちはエルサレム原始教団の最初期の姿を、このように《パルーシア》待望の集団と推察せざるをえません。

 

アンティオキア教団の《パルーシア》待望とパウロ

 この推察は、初期にエルサレム教団と並んで指導的な立場にあったアンティオキア教団出身のパウロの書簡によって確認されます。アンティオキア教団は、異邦人信徒の扱いなどでエルサレム教団と意見の違いもありましたが、復活者イエスを主キリストと告白し、その十字架の死の贖罪的意義を受け入れ、その栄光の来臨を待ち望むという基本的信仰内容は同じであったはずです。そのことは、アンティオキア教団がエルサレムから来たヘレニストユダヤ人信徒の活動によって形成され、バルナバのようなエルサレム教団の有力な一員を指導者とし、エルサレム教団と密接な接触を保っていた事実からも当然です。

 アンティオキア教団の信仰内容がこのようなものであったことは、使徒パウロの書簡から確認できます。パウロは、回心後三年目ぐらいから独立伝道を開始するまでの十四年間ほどを、バルナバと共にアンティオキア教団で指導的な立場で働いています。そのパウロが直後の独立伝道期に書いた書簡は、基本的にエルサレム教団とアンティオキア教団の信仰告白を受け継いでいます。パウロ自身、その福音を「わたしも受けたものだ」と明言しています(コリントI一五・三)。

 その福音の核心はキリストの十字架と復活の出来事における神の救いの告知ですが、その復活者キリストが近い将来に栄光の中に世界に来臨されて、救いの業を完成されるという告知が含まれていたことは、パウロ書簡に明確に証言されています。とくに、最初に書かれたテサロニケ第一書簡がこの来臨《パルーシア》の使信を正面から取り上げています。五〇年頃に書かれたこの書簡は、パウロの最初の書簡であるだけでなく、新約聖書の文書の中で最初のものとして、それまでの最初期の福音宣教の内容がどのようなものであったかを証言する最初の文献資料となります。

 

テサロニケ第一書簡における《パルーシア》

 使徒パウロがユダヤ人以外の諸民族にキリストの福音を宣べ伝えたとき、その宣教は、偶像から離れて唯一の生けるまことの神に立ち返ることと、その神が死者の中から復活させたイエスが天から来られるのを待ち望むことという二つの焦点があったと、この最初の書簡であるテサロニケ第一書簡(一・八〜一〇)に語られています。このことからも、復活者イエスの来臨を待ち望むことは初期の福音宣教において中心的な位置を占めていたことが確認できます。

 ところが、パウロがテサロニケを去ってすぐに、キリストの来臨を迎えるまでに死ぬ信徒が出たことで、彼らは来臨されるキリストの栄光にあずかる特権を失ったのではないかと動揺します。動揺した信徒を励ますために、使徒はこの手紙を書き、死んだ信徒は、地上でキリストの来臨を迎える者たちよりも先に復活して栄光のキリストに迎えられるのだと、キリスト来臨の希望の内容を説明します(テサロニケT四・一三〜一八)。その語り方には、当時のユダヤ教黙示思想の用語が用いられていますが、その希望が復活者イエスの現実に基づき、その現実に集中している点で、当時の黙示思想を超えています。

 この手紙の中で、初期の信徒たちがキリストの来臨を「主の日」と呼んで、その日を間近に待ち望みつつ信仰の歩みを進めていたことが生き生きと描かれています(テサロニケT五・一〜一一)。ここに取り上げた箇所だけでなく、この手紙の全体が初期のキリストの民の集会が《パルーシア》待望に生きていたことを見事に描き出しています。

 

パウロ書簡における《パルーシア》

 では、このテサロニケ第一書簡以外のパウロ書簡では《パルーシア》待望はどのように扱われているのでしょうか。用語から見ますと、《パルーシア》という名詞がキリストの来臨を指す意味で用いられているのは、テサロニケ第一書簡には四回ありますが(二・一九、三・一三、四・一五、五・二三)、他にはコリント第一書簡(一五・二三)に一回出てくるだけで、他のパウロ書簡には用いられていません。しかし、キリストの来臨に対する希望は、他の書簡でも別の表現で語られています。

 コリント第一書簡では、最初の挨拶のところでコリントの人たちが「主イエス・キリストの現れ《アポカリュプシス》」を待ち望んでいる民として描かれています(一・七)。主が来臨される(または「現れる」)日は、「キリストの日」(一・八)とか「かの日」(三・一三)とか「主の日」(五・五)という形で語られています。さらに、「主の晩餐」について、「あなたがたはこのパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」(一一・二六)と、いつも主の来臨を意識して行われていることが語られています。最後に、死者の復活を論じる一五章で、「キリストの《パルーシア》」(一五・二三)に際して起こることが詳しく語られています(一五・二四以下)。その日のことは「最後のラッパが鳴るとき」という黙示思想的な表現で語られます(一五・五二)。この章から、パウロの来臨待望は死者の復活の希望に集中していることが分かります。

 コリント第一書簡の結びのところで、パウロは自らの手で「マラナ・タ」という挨拶を書き記しています(一六・二二)。パウロはこれをギリシア文字で書いていますが、これは「わたしたちの主よ、来たり給え」という意味のアラム語の文です。パウロがこのアラム語の祈りまたは叫びを挨拶に用いていることは、この文が初期のキリストの民の間で挨拶の言葉として、または信仰者の間の合い言葉として広く用いられていたことを示唆しています。ギリシア語を用いるキリストの民の間でこのようなアラム語の合い言葉が広く用いられていた事実は、キリスト来臨の待望が、アラム語を用いるイエスの直弟子たちの時代からギリシア語を用いる異邦人集会に至るまでずっと一貫して、キリスト信仰の核心をなすものと位置づけられていたことを示しています。

 コリント第二書簡は、パウロの使徒としての資格が問題とされ、パウロはその問題に集中して激しく議論していますので、この来臨待望に触れることはありません。また、ガラテヤ書は、異邦人信徒に割礼を受けさせようとするユダヤ主義者を論駁するために書かれていますので、来臨待望に触れることはありません。このように、コリント滞在中に書かれた最初の手紙であるテサロニケ第一書簡が来臨待望の問題を正面から取り上げているのに対して、それから数年後にエフェソ滞在中に書かれたコリント第二書簡やガラテヤ書などでは来臨問題は触れられないので、初期と後期ではパウロの思想は変わったのだとする議論があります。しかし、この議論は成り立ちません。

 同じくエフェソ滞在中に書かれたコリント第一書簡は、先にみたように来臨待望の中で書かれています。また、ほぼ同じ時期にエフェソで書かれたと見られるフィリピ書では、キリストの来臨は「キリストの日」として待ち望まれ(一・一〇、二・一六)、その待望は「わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています」(三・二〇)と、明確に述べられています。各書簡で来臨問題の扱い方が違うのは、緊急に取り上げなければならない主題がそれぞれ違うからであって、キリストの来臨に関するパウロの理解が変わったからではありません。

 パウロが書いた最後の書簡と見られるローマ書においても、《パルーシア》という用語は出てきませんが、キリストの来臨とその時に起こる「体の贖い」(死者の復活)、栄光の顕現は熱烈に待ち望まれています(八・一八〜二五)。そして、その時が近いことが勧告の締めくくりとされています(一三・一一〜一四)。パウロが死者の復活にあずかることを内容とするキリスト来臨の希望に生きていたことは、最初のテサロニケ第一書簡から最後のローマ書に至るまで一貫して証言されています。


  パウロ以後の来臨待望

来臨遅延の問題

 第一世代の信徒たちは、キリストの来臨を自分たちの世代の問題として受けとめていました。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる」(マルコ九・一)というイエスの語録は、自分たちの世代にキリストの来臨が起こることを語られたイエスの言葉として、真剣に受け取られ、伝承されていたと考えられます。

 パウロもその待望を共有しており、キリストが来臨されるとき地上にいてその時を迎える「わたしたち」に自分を入れています(テサロニケT四・一五と一七、コリントT一五・五一〜五二)。テサロニケでキリストの来臨が起こるまでに死んだ人が出たことで信徒が動揺したのは、当時の信徒たちがキリストの来臨を自分たちの時代に起こることと待望し、世界に対する主イエス・キリストのメシア的支配に参与することを期待していたからに他なりません。また、帝国の東半分で働きを終えたと感じているパウロが、世界の西の果てのイスパニアまで福音を伝えておかなければならないと使命を感じているのは、間近なキリストの来臨までに諸国民への使徒としての召命を果たしておかなければならないという来臨待望の表れであると見られます(ローマ書一五章)。

 ところが、パウロがその働きを終えてもキリストの来臨は起こりませんでした。パウロと前後して、第一世代の指導者たちが次々と天に召されましたが、来臨はありませんでした。エルサレムでエルサレム教団の代表者である主の兄弟ヤコブが殺害され、ローマでパウロとペトロが殉教したのは六〇年代でした。この時期にイエスと一緒にいた世代の人たちが次々に世を去っても来臨はありませんでした。おそらくイエスと一緒にいた人たちの中で一番年下の「イエスが愛された弟子」は、八〇年代または九〇年代まで生き長らえ、この弟子はイエスの来臨の時まで死なないという噂が広まっていたことがヨハネ福音書の補遺の部分(二一・二〇〜二三)に伝えられていますが、この弟子も高齢で亡くなりました。補遺を加えた編集者は、噂を否定して主の言葉の真意を説明する文を加えています。しかし、このような噂があった事実は、第一世代の人たちが来臨を自分たちの世代のこととして真剣に受けとめていた様子を垣間見させてくれます。

 このように、自分たちの世代にキリストの来臨があると宣べ伝えた第一世代の指導者たちが亡くなった後、第二世代以降の指導者たちは、使徒たちが宣べ伝えた通りに来臨がなかったという事実に真剣に対処しなければなりませんでした。その対処の仕方については以下に詳しく見ることになりますが、その前に、第一世代と第二世代以降の状況を違ったものにした重大な歴史的事件に触れておかなければなりません。

 第一世代の指導者たちが次々と世を去った六〇年代は、来臨待望が変化する節目となりますが、この六〇年代の末に来臨待望に決定的な変化をもたらす大事件が起こります。それは七〇年のエルサレム神殿崩壊に至る第一次ユダヤ戦争(66〜70年)です。

 

エルサレム神殿崩壊の衝撃

 ローマ軍によるエルサレム神殿の徹底的な破壊は、ユダヤ教にとって決定的な打撃であっただけでなく、イエスをキリストと宣べ伝える福音宣教に対しても大きな影響を及ぼすことになります。

 ユダヤ教側の変化を見ますと、神殿を権力の基盤としていたサドカイ派祭司階級は没落し、ユダヤ戦争に参加して本拠地クムランをローマ軍によって破壊されたエッセネ派も勢力を失います。もちろんユダヤ戦争を主導した武闘派の熱心党は壊滅します。その結果、エルサレム神殿破壊後のユダヤ教を担ったのは、(ファリサイ派も多くは戦争に倒れますが)生き残ったファリサイ派のラビたちだけとなります。もともと神殿の外で清さを実現しようとした非祭司階級の運動であったファリサイ派は、神殿なき時代のユダヤ教を担うことができる体質があったと言えます。

 包囲されたエルサレムから辛うじて脱出した高名なラビ、ヨハナン・ベン・ザッカイを中心とするファリサイ派のラビたちは、海沿いの地方の小都市ヤムニアにサンヘドリン(最高法院)の権限を受け継ぐ「ベト・ディン」(法廷)を創設し、そこから「決定」を出して、ヘレニズム世界の各地にある会堂を指導するという形でユダヤ教を再建し維持します。こうして、エルサレム神殿破壊後のユダヤ教はファリサイ派ユダヤ教となります。

 この時代のファリサイ派ユダヤ教は、過激な終末待望とメシア主義がユダヤ戦争の悲劇を招いたとして、黙示思想に反対し、律法の厳格な順守を求めるようになります。そしてイエスを信じるユダヤ人を、黙示思想的なメシア主義の危険分子として、また異邦人と交わり律法を汚している者として弾圧し、「ナザレ派の異端」として会堂から追放するようになります。

 一方イエスを信じる者たちの共同体は、当初から異邦人を受け入れてきましたが、パウロたちの働きによってヘレニズム世界に進出し、異邦人信徒の数が増えてきます。それでもユダヤ戦争までの時期には、ユダヤ人である使徒たちの指導の下にあり、エルサレムの教団が各地の集会を統合する母教会のような地位を保っていました。ところが、ユダヤ戦争の時期にエルサレム教団はエルサレムから辺境のペラに脱出し、世界各地の集会に対する指導力を失っていきます。総じてパレスチナのユダヤ人信徒の集会は、ますます増加する異邦人集会の中に埋没し孤立化していき、「エビオーン派」のような小セクトとなり消滅に向かいます。

 このように異邦人集会がユダヤ教の影響から離脱していく流れを決定的にしたのがエルサレム神殿の破壊です。それまではイエスを信じる者たちは、ローマ帝国の「合法宗教」と認められていたユダヤ教の陰で、その中の一派として存続することができましたが、六〇年代以降、とくに70年のエルサレム神殿の崩壊以後は、ユダヤ教とは対立する別の宗団として、ヘレニズム世界に生きていくことになります。

 異邦人のキリスト信仰共同体が自分たちはユダヤ教とは別の宗教共同体であるという自覚を強めていく過程で、エルサレム神殿の破壊は「異邦人の時代」の到来を告げる事件として、決定的な意義をもつことになります(ルカ二一・二四)。エルサレム神殿の破壊は、イエスを拒否したユダヤ人に対する神の審判と理解され、それ以後はもはやイスラエルを核とする救済史は成り立たなくなります。異邦人が救済史の担い手となる時代が始まったのです。

 指導者も第二世代以降は徐々に異邦人が多くなり、その思想的枠組みもユダヤ教の枠組みから、ヘレニズム世界のギリシア思想の枠組みへと変わっていきます。その変化は、パウロ以後の「パウロの名による書簡」に見られるようになりますが、その変化をもっとも典型的に示しているのが、コロサイ書とエフェソ書です。

 

コロサイ書とエフェソ書

 先にコロサイ書とエフェソ書の講解で見たように、この両書では《パルーシア》という用語が出てこないだけでなく、キリストの来臨という事柄自体が問題とされなくなっています。これはたんに信仰の一項目である来臨待望の熱意がなくなったというのではなく、またガラテヤ書の場合のように他の主題に集中するために来臨問題が触れられないというわけでもなく、福音理解の枠組みが基本的に変わった結果でした。すなわち、パウロにおいてはなおキリストは聖書の救済史の枠組みの中で理解され宣べ伝えられていましたが、コロサイ・エフェソ書の段階になると、キリストはもはや救済史の枠組みではなく、ヘレニズム世界の宇宙論的枠組みの中で理解されるようになっていたからです。

 コロサイ・エフェソ書では「来臨」《パルーシア》なしで完成が考えられています。終わりの日の「死者の復活」は出て来ません。コロサイ・エフェソ書におけるキリストの民の目は、未来にではなく上に向けられています。将来に起こるキリストの来臨にではなく、霊界の最上層にいますキリストに向けられています。キリスト者個人も、キリストの民《エクレーシア》も、そして宇宙《コスモス》も、そのキリストに満たされることが目標であり、完成です。

 

来臨待望の底流とその復興

 しかし、パウロが形成した小アジア・エーゲ海域の諸集会から来臨待望が消滅したわけではありません。コロサイ・エフェソ書のような文書は、ヘレニズム世界で深くギリシア的思想と教養を身につけた上層指導者の作品であって、一般の集会員の信仰にはキリスト来臨への待望が底流として流れ続けていたはずです。そのことについては、今回の主題となるテサロニケ第二書簡だけでなく、ヨハネ黙示録の存在が重要な証人です。

 ヨハネ黙示録は「七つの教会」にあてられています。その七つの教会(集会)はエフェソを中心とする小アジアの諸都市にある集会であり(黙示録一〜三章)、それはパウロが最晩年にエフェソを拠点として伝道して諸集会を形成したアジア州の地域と重なっています。このヨハネ黙示録の存在によって、この地域にはパウロ以後にもヨハネ黙示録が証言するような来臨待望があったことが分かります。

 この地域に底流として流れていた来臨待望を復興させ、その黙示思想的な側面を再び表に引き出したのは周囲の社会からの迫害であったと考えられます。ここではその消息を詳しく跡づけることはできませんが、典型的な場合としてドミティアヌス帝の迫害とヨハネ黙示録の成立について見ておきます。

 ローマ帝国は共和制の伝統と精神が強く流れていて、帝政時代に入っても皇帝が神として祀られることは原則としてありませんでした。例外的にカエサルが死後神として祀られたことはありましたが、皇帝が生きているいる間に神として祀られるようなことはありませんでした。しかし、皇帝の権力が増し加わり安定するにしたがって、王が神として祀られるオリエントの気風の誘惑は避けられなかったのでしょう、ローマ皇帝の中にも自分を神として崇めることを要求する者が出て来ます。たとえば、カリグラ帝(在位37〜41年)は即位すると直ちに自分が神として崇拝されることを要求し、帝国内の他の神々の神殿にも自分の祭祀用の像が置かれることを命令したのです。これはユダヤ人の猛烈な命がけの抵抗を招いただけでなく、ローマ人からも涜神的狂気として反発され、彼は暗殺されます。

 最初のキリスト教徒の迫害者として悪名高いネロ帝(在位54〜68年)も、自分を神として拝まないという原則論でキリスト教徒を迫害したのではありません。あくまで放火犯としてローマ市のキリスト教徒を処刑したのです。このように、ローマは原則として皇帝を神として祀ることはなく、支配下の各民族の宗教を尊重しました。しかし、この原則の最初の例外がドミティアヌス帝(在位81〜96年)です。彼は晩年自分を「dominus et deus(主にして神)」と呼び、自分を神として祀る神殿を建てることを命じ、従わない者を処刑しました。しかし、それも世界大の政策とはならず、おもにローマ市内に限られていたようですが、オリエント文化や宗教との融合が進み、皇帝礼拝のイデオロギーの盛んな小アジアに目をつけたのか、エフェソに巨大な宮殿を建て、その神殿に自分の像を安置して拝むことを要求しました。神として祀られたドミティアヌスの巨大な像の頭部と腕は、今もエフェソの博物館で見ることができるということです。

 このドミティアヌス帝による小アジアでの皇帝礼拝の要求により、この地域のキリストの民は困難な時代を迎えます。おそらくこの皇帝礼拝の要求に抵抗した指導者の一人ヨハネは、エフェソ沖合のパトモスという小島に流刑となります。そこで書かれたのが「ヨハネ黙示録」です。この黙示録では、ローマ皇帝は深淵から立ち現れる怪獣として、サタン視されています。ヨハネ黙示録の内容と解釈は別の機会に譲らざるをえませんが、この文書の存在は一世紀末の小アジアの諸集会に、このような黙示思想的な形で表現される来臨待望があったという事実を証言しています。

 もう一つ、この地域に黙示思想的来臨待望が底流としてあったことを示す歴史的事実を上げておきます。それは、時代は少し先のことになりますが、二世紀半ばに小アジアに起こったモンタノス運動です。モンタノスはフリュギア(エフェソから東北にある山間部の地方)で、聖霊による預言により、まもなく終末となり、天のエルサレムがフリュギアのペプザ付近に下ると唱えました。彼の運動は小アジアだけでなく西方に急速に広まり、カルタゴでは当時西方では最大の神学者とされていたテリトリアヌスもこの運動に参加するようになっています。モンタノス運動がこのように短期間に急速に広まったのは、来臨待望の信仰が初期からこの時代までずっと、これらの地域に底流として広くあったことを示しています。

 


  テサロニケ第二書簡の成立


著者問題

 ここまで、パウロまでの来臨待望とパウロ以後の来臨待望の概略を見てきましたが、この来臨待望の変遷の中で、共に来臨問題を扱っている二つのテサロニケ書簡はどのようなところに位置するのでしょうか。

 テサロニケ第一書簡が使徒パウロ自身の手になる書簡であり、テサロニケ伝道のすぐ後、五〇〜五一年頃に書かれた手紙であることは広く認められています。テサロニケ第一書簡がパウロまでの時期の来臨待望を証言する文書として重要であることは、テサロニケ第一書簡を扱った時に詳しく見たとおりです。

 それに対してテサロニケ第二書簡の方は、パウロ自身によって書かれた書簡か、パウロ以後に他の人によって書かれた「パウロの名による書簡」であるかが争われています。それで、テサロニケ第二書簡が来臨待望の変遷の中でどのようなところに位置し、どのような意義をもつのかを理解するためには、まずこの書簡の成立事情と内容を確認しなければなりません。

 テサロニケ第二書簡が真正のパウロ書簡であることを主張する有力な研究者もかなりありますが、近年は「パウロの名による書簡」であるとする研究者が多くなってきています。これはパウロ文書の中で著者問題がもっとも激しく議論されている書簡です。以下に見るように、用語・文体と思想内容の両方の面から、またパウロを権威とし模範としている仕方から、テサロニケ第二書簡はパウロ自身が書いたものではなく、パウロの名によって書かれた「使徒名書簡」の一つであると判断せざるをえず、パウロ以後のキリストの福音の姿を証言する文書の一つとして扱っていきます。
 
 1 用語と文体

 パウロ書簡によく用いられているパウロ的な用語でテサロニケ第二書簡には全然出てこない用語がかなりあること、同じ用語が違った意味合いで用いられていることなど、用語の違いが研究者によって細かく指摘されています。用語の違いは決定的ではありませんが、著者が違うことを示唆する指標にはなります。

 文体については、コロサイ・エフェソ書を原語で読んだときに感じるパウロ書簡との違いほど大きな違いは感じませんが、それでも研究者は細かい文体の違いを数多く指摘しています。文体に入れてよいかどうかは問題がありますが、第二書簡には第一書簡に見られる宛先の人たちに対する人間的な親しい感情が欠けています。第一書簡は、テサロニケを去った直後に、後に残してきた兄弟たちのことを深く心にとめて書いていますから、深い思いを込めて「兄弟たちよ」と呼びかけ、その様子を聞いて喜ぶとか心配するという感情が強く表現されています。それに対して第二書簡は全体に、個人的感情を出すことなく、公式に宣言するという調子が強くなっています。第一書簡では、「父親がその子供に対するように、一人ひとりに呼びかけ、励まし、慰め、強く勧めた」と言っています(二・一一〜一二)。第一書簡で支配的であった《パラカレオー》(励ます、慰める、勧める)は、第二書簡では影が薄く(二回だけ)、代わって「わたしたちは命じます」が多くなります(三・四、六、一〇、一二)。この違いは、著者と宛先人との関係が違ったものであることを示しています。

 

2 思想内容

 思想内容を問題にするには、まず本文を詳しく読まなければなりませんが、ここでは一見して著者がパウロ自身でないことを示唆する数点を取り上げておきます。

 第一書簡も第二書簡も共にキリストの来臨を主題とする終末的待望の文書であることは同じです。しかも、両書とも黙示思想的な用語で語られていることも共通しています。しかし、よく見ると両者の違いも明らかです。第二書簡では、黙示思想特有の来臨の前に起こる出来事の順序が図式的に述べられていますが、第一書簡にはそのような「時間表」はありません。第一書簡でパウロは黙示思想的用語を用いて語っていますが、来臨はあくまで思いがけない時に突如として来るものであり、そのために常に目覚めていなければないらないと勧められるだけです。また、第二書簡では現在信徒を迫害する者たちへの神の報復が強調され、それが迫害される信徒の正しさの根拠とされています。それに対して第一書簡では、迫害する者への報復は語られず、迫害は信徒たちが選ばれていることのしるしです。

 第一書簡でパウロは、初期の信仰定式を引用し、キリストの死と復活を根拠にして語っています(五・一〇)。それに対して、第二書簡はイエスの死と復活を語ることはありません。そのキリスト論には「十字架の言葉」がありません。また、パウロが神について用いる用語をイエスについて語る文で用いるなど、イエスにより大きな栄光を帰する傾向があります。「イエス」という名は単独で用いられることはなく、いつも「主」という称号をつけて語られます。これは、パウロの時代より後の発展したキリスト論の段階を示しています。


3 模範また権威としてのパウロ

 パウロは第一書簡(三・八)でテサロニケ人たちに、「主にあって堅く立つ」ように励ましていますが、第二書簡の著者は「わたしたちが説教や手紙で教えた伝承《パラドシス》に堅く立つ」ように求めています(二・一五、他に三・六も)。パウロは自分が伝え教えたばかりのことをすぐに手紙で《パラドシス》と呼ぶことはありません(唯一の例外はコリントT一一・二)。第二書簡のこの箇所は、パウロの教えが伝承として確立していた、パウロ以後かなり経った時期を示しています。

 第二書簡は、「わたしたちから書き送られたという手紙」によって惑わされないように警告しています(二・二)。この警告は、第二書簡が書かれるまでにパウロの名による他の手紙がテサロニケの集会に送られていたことを前提にしています。このような「使徒名書簡」が用いられるようになるのは、使徒としてのパウロの権威が確立していた、かなり後の時期を示唆しています。この箇所は、一つの「使徒名書簡」が他の「使徒名書簡」を反駁していることになり、パウロ以後の時期に集会の指導をめぐって異なる見解が競合し、それぞれの主張が使徒の名を用いて権威づけられていたことを示しています。

 第二書簡は、怠惰な生活をしないように戒めるために、手ずから働いたパウロを模範としてあげています(三・六〜一五)。第一書簡でパウロは手仕事をしながら福音を宣べ伝える働きをしたことを強調していますが、それは兄弟たちの怠惰な生活を戒めるためではなく、自分の働きについてその動機の純粋さを保証するためでした(二・三〜一〇)。

 手紙の結びで著者は、「自分の手で挨拶を記す」と書き、それを自分の手紙の「印《セーメイオン》」だとして、これがパウロ自身の筆になる書簡であることを強調していますが(三・一七)、これはかえって著者がパウロ以外の人物であることを示唆しています(パウロは《セーメイオン》をそのような意味で用いることはありません)。パウロは自分の手で書くことを特記する場合がありますが、その手紙が自分の書いたものであることを保証するためであることはなく、おもに特定の内容を自分の責任で述べるときに使っています(コリントT一六・二一、ガラテヤ六・一一、フィレモン一九)。パウロ自身が書いた手紙の場合、それが自分からの手紙であることを保証する必要はなかったはずです。それに対して、テサロニケ第二書簡の場合は、別人であるからこそ、これが使徒パウロの書簡であることを特記しなければならなかったのだと考えられます。
 
 以上の観察を総合すると、個々の理由は決定的でないかもしれませんが、全体として見るとテサロニケ第二書簡は、有力な指導者の一人でパウロ以外の著者が、パウロの時代からかなり時が経って、来臨待望について起こった新しい状況に対応するために書いた「使徒名書簡」の一つだと判断せざるをえません。旧約聖書の使用の仕方やユダヤ教黙示思想に通じていることから、おそらく著者はユダヤ人キリスト教徒であると推察されます。著者は第一書簡をモデルにして、その構成をそのまま引き写すように書いていることがうかがわれます。これは、かえって別人が意識的にパウロ書簡の形式を踏襲しているという推察を促します。

 

成立事情

 第二書簡もパウロ自身が書いたものだとする立場では、それほどの時間的間隔のないはずの第一書簡との関係(両者には構造上の著しい相似と同時に食い違いや矛盾もあります)を説明する必要があります。普通は、第一書簡が先に書かれ、その直後に起こった状況の変化に対応するために第二書簡が書かれたと説明されています。しかし、第二書簡が先に書かれ、その後に第一書簡が書かれたとする有力な学説もあります。また、ハルナックのように両書簡はテサロニケの別の信徒集団に送られたとする見方もあります。すなわち、第一書簡は異邦人信徒の集会に、第二書簡は別のグループを形成していたユダヤ人信徒の集会に送られたと見る説です。どの説も利点と困難を抱えています。

 第二書簡を「使徒名書簡」とする立場では、可能性のある範囲が広くなり、その成立事情を特定することはかなり困難になります。成立地としては、テサロニケを含むマケドニアを否定する理由はとくにないようです。成立時期としては、先に著者問題のところで見たように、パウロの権威が確立した時期として、パウロ以後かなりの年数が経っていると見られます。先に見たように、圧迫と迫害によって黙示思想的な来臨待望が復興した一世紀末(80年代から90年代)と見るのが自然でしょう。先にこの時期のアジア州での黙示思想的な来臨待望の復興を見ましたが、マケドニアを含むエーゲ海地域では事情は同じであったと考えられます。テサロニケ第一書簡やフィリピ書に見られるように、マケドニアはもともと来臨待望の強い地域であったと見られます。

 なお、本文中に「不法の者」が「神殿に座り込み、自分こそは神であると宣言する」(二・四)という表現があることから、第二書簡の成立をまだエルサレムに神殿があった70年以前であるとする主張があります。しかし、これは黙示思想の伝統的な表現であって、実際にエルサレムに神殿があることを必要としませんので、70年以後の成立を妨げません。
 マルキオン聖書にテサロニケ第二書簡も第一書簡と一緒に含まれていることから、それに含まれていない牧会書簡よりも先に成立していたことは確実です。この点から見ても、第二書簡の成立を一世紀末(80年代から90年代)と見ることは根拠をえます。


  テサロニケ第二書簡における来臨待望


キリスト来臨と裁き(一・三〜一二)

 テサロニケ第二書簡については、この書簡の位置と意義を確認するために、この書簡の主要内容である来臨待望を概観するにとどめ、(エフェソ書でしたような)私訳を用いた一節ごとの詳しい講解は省略します。聖書本文には新共同訳を用い、新共同訳の段落区分に従って、段落毎の内容を概観します。

 著者は第一書簡と同じように、手紙としての挨拶(一・一〜二)を書いた後に、宛先の人たちについての賞賛と感謝の言葉(一・三〜一二)を置きます。第二書簡では、その感謝の部分が直ちに来臨問題についての著者の思想の表明となっています。なお、その三節から一〇節にいたる文は、(原文では)延々と続く一つの文章で書かれていて、(パウロとは違う)著者の文体の特色を見せています。

 テサロニケの信徒たちの信仰と愛について神に感謝する文(三節)は、彼らが迫害と苦難の中で示している「忍耐と信仰」への賞賛となり(四節)、そこから直ちに書簡の本題である来臨待望の問題に入っていきます(五節以下)。著者は、テサロニケの信徒たちが「あらゆる迫害と苦難の中で忍耐と信仰を示している」(四節)ことを、「あなたがたを神の国にふさわしい者とする神の判定が正しいということの証拠」だとします(五節前半)。そうすることで、現在受けている苦難が「神の国のために受けている苦しみ」であると意義づけます(五節後半)。その上で、そう判断する根拠を述べます(六〜一〇節)。著者がそう判断する根拠は、神の正しい報いです。

 「神は正しいことを行われます。あなたがたを苦しめている者には、苦しみをもって報い、また、苦しみを受けているあなたがたには、わたしたちと共に休息をもって報いてくださるのです。主イエスが力強い天使たちを率いて天から来られるとき、神はこの報いを実現なさいます」(六〜七節)。

 これは典型的な黙示思想です。強大な諸帝国の支配に苦しめられてきたユダヤ教団は、現在の苦難の時代の後に、神御自身が支配される時代が到来し、その時には律法を守った義人たちは栄光の報いを受け、義人たちを迫害した悪しき者たちは裁かれて苦悩に陥れられるというユダヤ教黙示思想を発展させました。ダニエル書以降の黙示文書は、このような希望をもって迫害されているユダヤ教団を励ましてきました。著者は、その黙示思想的な希望の原理をキリストの民に適用して、迫害の下にあるキリストの民を励まします。

 人を苦しめる者に苦しみをもって報い、苦しめられている者に休息(苦しみからの解放)をもって報いるのが、神の正しさです。神が神である以上、必ずこのような正しい裁きをして、正当な報いを与えてくださるのであるから、現在の迫害による苦しみは、将来の休息と栄光を保証することになります。迫害で苦しめられている信徒たちが神の国の栄光にふさわしい者であるとする神の判定が正しいのは、神の正しさそのものが根拠ですから、これほど確かな根拠はありません。このような根拠に基づく確かな希望が、これから数世紀にわたって続く迫害の時代にキリスト教徒を勝利させた原動力の一つとなります。

 この裁きは、「主イエスが力強い天使たちを率いて天から来られるとき」に実現します。「主イエス」は、復活によって高く上げられて「主《キュリオス》」という称号を受けられたイエスに対する尊称です。「復活者イエス」と言ってもよいでしょう。初期の来臨待望においては、主イエスが天からこの世界に来られるときには、天使たちと共に来られると信じられていました。

 続いて、主イエスの来臨のときに行われる神の裁きが具体的に描かれます。
 「主イエスは、燃え盛る火の中を来られます。そして神を認めない者や、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者に、罰をお与えになります。彼らは、主の面前から退けられ、その栄光に輝く力から切り離されて、永遠の破滅という刑罰を受けるでしょう」(八〜九節)。

 パウロも「かの日が火の中に現れ」と言っています(コリントT三・一三直訳)。終わりの日が火の中に現れるというのも典型的な黙示思想的表象であり、初期の来臨待望を語る表現の中によく出て来ます。その表象がここで主イエスの来臨に用いられて、「主イエスは、燃え盛る火の中を来られます」となります。そして、主イエス御自身が裁きを執行されることになります。

 パウロも終わりの日を神の怒りが現れる日としていますが、その時に来臨されるイエスは、その神の怒り(裁き)からイエスを信じる者を救い出すために来られます(テサロニケT一・一〇)。来臨される主イエスが「神を認めない者や、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者に、罰をお与えになります」というように、主イエス御自身が反対者に報復されるという面はないか、希薄です。この点でも第二書簡の来臨待望は、パウロと違ってきています。これは、迫害によって黙示思想的な傾向が刺激された結果だとも考えられます。

 「かの日、主が来られるとき、主は御自分の聖なる者たちの間であがめられ、また、すべて信じる者たちの間でほめたたえられるのです。それは、あなたがたがわたしたちのもたらした証しを信じたからです」(一〇節)。
 主イエスの福音に聴き従わず、「永遠の破滅という刑罰を受ける」者たちと対照的に、パウロがもたらした主イエスの福音を信じた者たちは、来臨される主イエスの栄光をあがめ、その栄光にあずかることが語られます。ここにあげられている「御自分の聖なる者たち」は、主イエスが来臨されるときに引き連れてこられる天使たちのことを指しているのか、「信じる者たち」のことが並行表現で述べられているのかは議論がありますが、いずれにしても滅ぼされる者たち(八〜九節)と対照して、主イエスに属する者たちの勝利が謳われています。

 このように、来臨のときに成し遂げられる主の報復を根拠にして、迫害の中にある兄弟たちを励ました後、宛先の人々に対する祈りの言葉で、手紙の前置きの部分を締めくくります(一一〜一二節)。

 

不法の者についての警告(二・一〜一二)

 ここ(二章)から手紙は本題に入ります。その主題は、「わたしたちの主イエス・キリストの来臨と、その方のみもとにわたしたちが集められることについて」です(二・一直訳)。このことについて、テサロニケの集会に動揺があることを知った著者は、正しい(と著者が確信する)来臨待望を確立するためにこの手紙を書きます。テサロニケの人たちの動揺は、次のように描かれます。

 「霊や言葉によって、あるいは、わたしたちから書き送られたという手紙によって、主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐ動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい」(二・二)。

 原文では「霊や言葉《ロゴス》や手紙によって」の後ろに「あたかもわたしたちによるかのように」という説明の句がついています。この句が三つの項目すべてを説明しているのか、最後の手紙だけを説明しているのかについては議論があります。「霊によって」は、御霊の賜物としての預言の霊によって(エクスタシー状態で)語ることを指していると見られます。「言葉《ロゴス》によって」というのは、通常の説教を指すのでしょう。この二つの場合は、本人がそこにいて語るのですから、「あたかもわたしたちによるかのように」という説明は、(協会訳、新共同訳などのように)手紙の場合だけを説明していると理解してよいでしょう。

 そうすると、著者の時代は「パウロから出た」と称する手紙、すなわちパウロの名による手紙が流布していた状況であったことがうかがわれます。このテサロニケ第二書簡が「使徒名書簡」であると見る立場では、一つの「使徒名書簡」が他の「使徒名書簡」を反駁していることになります。この事実は、パウロ以後の時期に、パウロ系諸集会の間において違った傾向の潮流が競合し、それぞれがパウロの権威を用いて自分の主張を根拠づけていたことを示しています。それぞれの潮流の内容とその競合や統合の問題は、使徒以後の時期におけるキリストの福音の在り方に重要な問題を投げかけています。

 テサロニケの集会がキリスト来臨の問題で動揺したのは、ある人々が「霊や言葉によって」、あるいはパウロから出たと称する手紙によって、「主の日は既に来た」と唱えたからです。先に見たように、パウロまでの初期のエクレシアは、キリストの来臨を間近なものとして熱心に待ち望んでいました。その待望がキリストの福音を急速に広める原動力の一つでした。しかしパウロ以後の時代には、来臨が遅れているという事実に直面して混乱が生じ、様々な形でこの問題(来臨の遅延、来臨待望の崩壊)を克服しようとする努力がなされました。その努力は、大別すると二つの方向があったと見られます。

 一つは、この待望の根拠となっていた黙示思想を用いて、黙示思想の枠の中で問題を克服しようとする方向です。その方向は、このテサロニケ第二書簡やヨハネ黙示録に見られます。もう一つは、キリストにあって賜っている現在の霊的事実に集中することによって、この問題を克服しようとする方向です。この方向は、コロサイ・エフェソ書やヨハネ福音書に見られます。この方向では、黙示思想そのものを放棄する傾向が出て来ます。

 この第二の方向の人たちを、彼らは「主の日は既に来てしまっている」と主張していると、著者は批判しているようです。おそらく、第二の方向で来臨遅延の問題を克服しようとした人たちは、現在われわれがキリストにあって生きている霊的現実において、キリストがこの世に来られた目的が成就していることを強調し、その事実を終末的約束の成就としたと考えられます。その主張は、黙示思想の枠の中だけで考える人たちには、「主の日は既に来てしまっている」と唱えていると聞こえます。主の日が既に来てしまっているのであれば、現在まだ地上にいる自分たちは主の日の栄光にあずかることができなかったのであろうかとか考えて、「動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたり」することになります。信仰が崩壊します。

 ここで言う「わたしたちから書き送られたという手紙」にコロサイ書やエフェソ書が含まれるのかどうかは、第二書簡とこの両書簡の前後関係が分かりませんので確認できませんが、たしかにコロサイ書やエフェソ書は、先に見たように、終末に起こるはずの「死者の復活」に触れることなく、復活を過去形で語るなど、終末の事態がすでに来ているような語り方をしています。しかしそれは、キリストの福音を理解する枠組みそのものが変わった結果です。それを、黙示思想の枠組みの中で聞くと、主の来臨がまだないのに、「主の日は既に来てしまっている」と誤ったことを唱えていると聞こえてきます。また、霊感を受けた預言として、主の日の到来と終末の成就を説く説教が行われていたのでしょう。このような主張を聞いて、それを黙示思想の枠の中で理解して混乱している信徒たちを、著者は黙示思想の枠を用いて正しい来臨待望に立たせようとします。著者自身も、黙示思想を深く身に着けた人物(おそらくユダヤ人)であると考えられます。

 著者は、「主の日は既に来てしまっている」という主張を、以下のような黙示思想の論理を用いて反駁します。すなわち、主が来臨される前に、まず「背教」が起こり、「不法の者」が出現しなければならないが、今は彼を「抑えているもの」があるので、彼はまだ出現していない。したがって、主の来臨はまだ将来のことである。定められた時が来て、その「抑えているもの」が取り除かれると「不法の者」が出現する。その出現した「不法の者」を、栄光の中に来臨される主イエスが滅ぼされる。この時はじめて「主の日が来た」と言えるのだ(二・三〜八)。

 この箇所(三〜八節)は、その論理も表現も典型的な黙示思想そのものです。この箇所の一つひとつの表現に、旧約聖書と黙示文書の背景があることは専門の注解書に委ねざるをえませんが、ここではこのような黙示思想的な論理の内容だけを確認しておきたいと思います。

 ユダヤ教黙示思想では、アンテオコス・エピファネスの迫害時に多くの背教者を出したといういうような体験から、終末が到来する前には厳しい選別が起こるという思想が生まれ、それがその後の黙示文書に繰り返されて、終末前の「背教」の預言となります(たとえばラテン語エズラ記五・一〜一二)。その預言はキリスト教の終末待望の中に受け継がれ、主が来臨される前には、惑わす者たちが出現し、多くの民が神に背くようになるという預言になります(マタイ二四・一〇〜一二)。

 そのような終末前の「背教」の中から、その背教を一身に体現するような「不法の者」が出現します。この「不法の者」は、神の法《ノモス》に対するトータルな反逆により、神の裁きに定められた者、「滅びの子」とも呼ばれます。この神への最終的な反逆者は、「すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して、傲慢にふるまい、ついには、神殿に座り込み、自分こそは神であると宣言」します(四節)。自分を神とすることこそが、「不法の者」の本質です。

 黙示思想がこのような最終的な神への反逆者の出現を予想したのには、歴史的な背景がありました。前一六八年にシリアの王アンティオコス四世エピファネスがエルサレム神殿の祭壇を除いて、代わりに異教の祭壇をおいた事件(マカバイT一・五四〜五九)が、ダニエル書(九・二七、一一・三一、一二・一一)において「憎むべき破壊者が聖なる場所に立つ」ことと語られます。それ以後、この出来事は終末を語る黙示思想に大きな影響を及ぼすことになります。新約時代においてもすでに41年に、ローマ皇帝カリグラが支配下にある諸民族の神殿で自分が神として崇められることを求め、エルサレムの神殿にも自分の立像を建立することを要求しました。このような出来事が時代の黙示思想の中に、ここに描かれているような「不法の者」のイメージを形成したと見られます。マタイ福音書(二四・一五)も、「憎むべき破壊者が聖なる場所に立つのを見たら」と、ダニエルの預言を引用しています。このような「不法の者」の出現は、初期の教団の来臨待望において共通の伝承であったと見られます。

 「まだわたしがあなたがたのもとにいたとき、これらのことを繰り返し語っていたのを思い出しませんか」(五節)という文は、著者がテサロニケにおけるパウロの宣教が黙示思想的な表現を用いてなされていたことをよく知っていることを示しています。著者がシルワノやテモテ(一・一)のような同労者であれば当然ですが、同労者でなくてもテサロニケでのパウロの活動と第一書簡をよく知っている者であれば言えることです。パウロがその福音宣教において、黙示思想の用語と枠組みを用いて語ったことは第一書簡の講解で見たとおりですが、同時にパウロの福音は黙示思想を超えて、聖霊による現在のキリスト体験に終末の成就を見ている面があること、むしろそれこそがパウロの福音の核心であることを「パウロによるキリストの福音」シリーズの全体で見てきました。著者は、自分の黙示思想の枠の中での説得を根拠づけるために、読者にテサロニケにおけるパウロの宣教の黙示思想的な表現を思い起こさせます。

 この「不法の者」がまだ出現しないのは、「彼を抑えているもの」があるからです。この「彼を抑えているもの」が何であるかは、テサロニケの人々はよく知っているものとして、著者は何の説明を加えないで用いています(六節前半)。今「抑えるもの」が彼を抑えているのは、その「不法の者」が神の定められた時に出現するためです(六節後半)。「不法の者」はまだ現れていませんが、すでに「不法の秘密」が働いています。すなわち、「不法の者」の働きがこの世界の中で秘かに進められています。しかし、このような秘かな、隠された形での彼の働きも、「抑えている者が取り除かれるまで」のことであって、その時が来ると「不法の者」は顕わな姿で出現します(七節と八節前半)。こうして、定められた時に出現した「不法の者」を、主イエスが御自分の口の息(または霊)によって殺し、「彼の来臨の光輝」(直訳)によって滅ぼされます(八節後半)。

 ここで問題になるのは、「不法の者」の出現を「抑えているもの」とは何かです。六節では中性単数名詞で「抑えているもの」と訳されていますが、七節では男性単数名詞で「抑えている者」と訳されています(新共同訳)。伝統的に、これはローマ帝国とかローマ皇帝と理解されてきましたが、最近はこの解釈に疑問が提起され、実に様々な解釈が提案されています。しかし、どれも困難を抱えていて、当時の人たち(著者と読者)がこれをどう理解していたのかを知ることはほとんど不可能です。

 キリストの来臨が遅れており、世界がこのままの状況で進むという現実を、当時の黙示思想の枠組みで考える人たちは、この「抑えているもの」の理論で説明したのではないかと考えられます。パウロが第一書簡を書いたときには、キリストの来臨は切迫したものとして待望されており、このような説明の余地も必要もありませんでした。ここにも、第二書簡の状況がパウロの時とは違ったものであることが示されています。

 続いて、神に敵対し、神の民を滅ぼそうとするサタンの働きも、終末が近づくにつれてますます顕わに神の働きと対抗し、メシアと使徒たちの働きを模倣して進められることが指摘されます。
 「不法の者は、サタンの働きによって現れ、あらゆる偽りの奇跡としるしと不思議な業とを行い、そして、あらゆる不義を用いて、滅びていく人々を欺くのです」(九節〜一〇節前半)。
 これも黙示思想的終末図式の一つです。この図式は、共観福音書の黙示思想的終末待望(マルコ福音書一三章とその並行箇所)にも繰り返し現れます。そのようなサタンの働きに惑わされて、偽りを信じ、「自分たちの救いとなる真理」、すなわちキリストの福音を信じなかった人たちの滅びが描かれて、この段落が締め括られます(一〇節後半〜一二節)。

 

救いに選ばれた者たちの生き方(二・一三〜一七)

 サタンの働きに惑わされて「自分たちの救いとなる真理」を拒否して滅びていく世の人々に対して、テサロニケの兄弟たちは次のように、「救われるべき者の初穂」と呼びかけられます。

 「しかし、主に愛されている兄弟たち、あなたがたのことについて、わたしたちはいつも神に感謝せずにはいられません。なぜなら、あなたがたを聖なる者とする御霊の力と、真理に対するあなたがたの信仰とによって、神はあなたがたを、救われるべき者の初穂としてお選びになったからです」(一三節)。

 ここで救いが「御霊の清めと真理の信仰によって」(直訳)とされていることが注目されます。人を汚れた世から聖別して神に属する者にする(それが清めです)のは神の御霊の働きであることは、初期の宣教において共通の認識でした。それに加えられている「真理の信仰」の方は、信仰の中身とか対象が「真理」と呼ばれている点で、独自のものがあります。

 福音の内容を「真理《アレーセイア》」という語で指すことはパウロから始まっており(ガラテヤ二・五、一四)、パウロは「真理《アレーセイア》」という用語をかなり多く用いています。しかし「パウロの名による書簡」になると、この語は福音や信仰の内容を指す用語として、さらに愛用されるようになります。この第二書簡でも、福音の告知の内容が「真理」と等置され、「真理」の拒否が滅びであり、「真理の信仰」、すなわち「真理」を受け入れ、身を委ねることが救いであるとされます(一〇〜一三節)。そしてヨハネ福音書になると、この「真理」が福音告知において中心的な位置を占めるようになることは顕著な事実です(共観福音書での用例は、ほとんどないと言えるほどごく僅かです)。

 この第二書簡では、黙示思想の視点から、滅びも救いも終末時の裁きにおける出来事とされています。それで、現在は「滅びに向かっている人たち」と「救いに向かって初穂として選ばれた」者たちとの対比として描かれます。「初穂」という用語も、パウロは復活者キリストと信じる者に与えられる聖霊について用いていますが、エクレシアについて用いることはありませんでした。しかし、ある地域の最初の回心者をそう呼ぶことはありました。その用法が拡大されて、この第二書簡では、現在信じてキリストに属するようになった民が、終末時に救われて完成される神の民全体の「初穂」と呼ばれています。

 さらに、このように「救いに向かって」選ばれた者たちが、どのような目標に向かって招かれているのかが付け加えられます。
 「神は、このことのために、すなわち、わたしたちの主イエス・キリストの栄光にあずからせるために、わたしたちの福音を通して、あなたがたを招かれたのです」(一四節)。

 使徒パウロが宣べ伝えた福音によってわたしたちが信仰へと招かれたのは、実に「わたしたちの主イエス・キリストの栄光にあずからせるため」であるというのです。パウロも、キリストにおける救いは神の栄光にあずかること(ローマ五・二)、あるいは神の子の栄光が顕現すること(ローマ八・一八以下)を希望としていると強調しています。この第二書簡では、それが「キリストの栄光にあずかる」となり、キリストの来臨にさいして、来臨されるキリストの輝かしい栄光にあずかることが、救いの内容であり、福音によって招かれた目標であるとされます。

 このような目標に招かれている者として重要なことは、現在の生を信仰に堅く立って歩むことです。そのことが、次のように簡潔に表現されます。

 「ですから、兄弟たち、しっかり立って、わたしたちが説教や手紙で伝えた教えを固く守り続けなさい」(一五節)。
 ここの「わたしたちが説教や手紙で伝えた教え」は、直訳すると「わたしたちが説教や、あるいは手紙によって教えた《パラドシス》(言い伝え)」となります。「説教《ロゴス》」とは、パウロや協力者たちがテサロニケで活動したときに語った言葉でしょう。「手紙」は単数形で、第一書簡を指していると見てよいでしょう。この表現から、使徒の説教や手紙の内容が《パラドシス》(言い伝え、伝承)として、集会に定着していた様子がうかがえます。この《パラドシス》(言い伝え、伝承)という語の使用は、使徒自身の時代よりも、ある程度時間が経った状況を指し示していると見られます。

 終わりに、この目標に向かっての歩みが、祈りの形で勧告されます。
「わたしたちの主イエス・キリスト御自身、ならびに、わたしたちを愛して、永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えてくださる、わたしたちの父である神が、どうか、あなたがたの心を励まし、また強め、いつも善い働きをし、善い言葉を語る者としてくださるように」(一六〜一七節)。

 父がキリストにあって与えてくださっている「永遠の慰めと確かな希望」を根拠にして、「いつも善い働きをし、善い言葉を語る」ように励まされます。希望はいつも、キリストにある者にとって現在を生きるための原動力です。現在の歩みを「善い働きをし、善い言葉を語る」ものとする力です。

 

わたしたちのために祈ってください(三・一〜五)

 「わたしたちの主イエス・キリストの来臨と、その方のみもとにわたしたちが集められることについて」語る本体部分(二章)を終えて、「終わりに」と言って、著者は結びの勧告に入ります。

 その勧告の最初の言葉は、「わたしたちのために祈ってください」(一節前半)ですが、その祈りは二つの目標をもっています。一つは、福音の速やかな進展のために祈るようにという求めです(一節後半)。もう一つは、「わたしたちが道に外れた悪人どもから逃れられるように」祈ることです(二節前半)。著者は、パウロから始まったこの地域の福音宣教活動が、テサロニケでそうであったように速やかに広がるように、皆が心を合わせて祈り、協力するように求め、そのために、福音のために働く「わたしたち」が「道に外れた悪人ども」から妨げられることなく福音のために働けるように祈ってほしいと願っています。

 福音の進展にいつも妨害があること、また信じる者には圧迫や迫害があるという現実は、「すべての人に、信仰があるわけではない」からだと理由づけられ(二節後半)、その信仰のない者たちを通して働く「悪い者」(サタン)から、主御自身が信じる者を強めて守ってくださることが、「主は真実な方です」からと保証されます(三節)。人間には「信仰・真実がない」が「主は真実です」と対照されて、最後の勝利は主の真実(または信実)に基づくことが指摘されます。

 著者は、「わたしたちが命令することを、あなたがたは現に実行しており、また、これからもきっと実行してくれることと、主によって確信しています」(四節)と言って、最後にもう一度、テサロニケの兄弟たちが「わたしたちが説教や、あるいは手紙によって教えた《パラドシス》(言い伝え)」を守るように促します。先に見たように、パウロが「勧告した」のに対して、ここでは「命令した」ことと言われていることが目立ちます。

 最後に、「どうか、主が、あなたがたに神の愛とキリストの忍耐とを深く悟らせてくださるように」(五節)という祈りが添えられます。迫害と苦難に耐えて信仰を貫くための力は、「神の愛とキリストの忍耐とを深く悟る」ところから出て来ます。神がどれほど深くわたしを愛してくださっているか、またキリストが復活の勝利に至るために地上ではどれほど大きな忍耐をもって歩まれたか、わたしたちは到底それをすべて理解することはできませんが、主がその一端を理解させてくださり、苦難に耐える力を与えてくださるように祈ります。

 

怠惰な生活を戒める(三・六〜一五)

 結びの勧告の最後に、著者は改まった口調で命令します。
 「兄弟たち、わたしたちは、わたしたちの主イエス・キリストの名によって命じます。怠惰な生活をして、わたしたちから受けた教えに従わないでいるすべての兄弟を避けなさい」。

 ここの「教え」の原語も「言い伝え・伝承」《パラドシス》です。ある程度定型化した「伝承」を守ることが「主イエス・キリストの名によって命じ」られている状況は、使徒の時代からやや時が経っていることを示唆します。

 著者は最後に、怠惰な生活を戒めます。そのためにパウロの実例を模範としてあげます(七〜九節)。パウロはテサロニケで福音のための活動をしたとき、天幕造りの手仕事をして生活を支え、新しく形成された集会の人たちに負担をかけませんでした(テサロニケT二・九)。それは、第一書簡(二・一〜一二)によると、自分の福音宣教の働きの動機が純粋であることを証明するためでした。それに対して、第二書簡では信徒の中の怠惰な者を戒めるための模範とされています。

 パウロがテサロニケで活動していた時に語ったとされる「働きたくない者は、食べてはならない」という言葉(一〇節)は、実際パウロがそう語った可能性は十分にありますが、確認はできません。「怠惰は盗みである」とするユダヤ教倫理からすると、パウロがそう教えたことは自然です。

 このようにパウロが模範を示して教えたにもかかわらず、テサロニケの兄弟たちの中に「怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいる」ということを、著者は伝え聞きます(一一節)。そのような兄弟たちに、パウロと同じく「主イエス・キリストにあって」、すなわち主イエス・キリストの名代として、「自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい」と命じます(一二節)。

 第一書簡(四・一一)でも、パウロは「わたしが命じておいたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい」と言っています。このように、来臨待望を扱う書簡に限って怠惰な生活を戒める命令が出てくることは、来臨待望と怠惰な生活との間に何らかの関係があったことを示唆しています。どのような関係があったのでしょうか。

 第一書簡では、いつ来臨があるかもしれないという差し迫った待望の中で、もう地上の生活はどうでもよいという気分から、日々の仕事や職業を放棄して「伝道」に駆け回る人が出たということも想像できます。しかし第二書簡では、一方では来臨がないことに対する落胆と、他方では「主の日はすでに来た」という異質な教えから、異常な興奮や来臨待望そのものの動揺が起こっている可能性もあり、怠惰な生活との関係も複雑です。あるいは、迫害が迫っている状況で来臨待望が激しく復興して、地上の生活に対する関心がなくなったことも考えられます。あるいは逆に、来臨待望の崩壊から信仰そのものが動揺し、生活が無気力に陥ったことも考えられます。いずれにしても、推察の域を出ません。

 兄弟たちに「たゆまず善いことをしなさい」という勧めが続く(一三節)のは、怠惰な生活をする者たちと対照して、彼らとは違って「あなたがたは」(強調)善いことをするのにうみ疲れることなく、勤勉に働いて人を助けなさいという意味でしょう。
 最後に、来臨信仰の問題でも生活態度でも、「この手紙でわたしたちの言うことに従わない者」に対する対処の仕方が述べられます。そのような者には「特に気をつけて、かかわりを持たないようにしなさい」(一四節)というのは、すぐに続いて「その人を敵とは見なさず、兄弟として警告しなさい」(一五節)と言われていることから、共同の食卓の交わりから追放(破門)せよということではなく、何らかの程度の交際拒否によって、反省を求める警告とせよということでしょう。

 

結びの言葉(三・一六〜一八)

 著者は最後に、当時の手紙に通例の平安と恵みを祈る祝福の言葉(一六節と一八節)を置いて、この書簡を結びます。その間にある「自分の手で挨拶を記します」という箇所(一七節)は、先に見たように、パウロ以外の著者がこの書簡をパウロからのものと強調するために挿入したものと見られます。


  来臨待望の位置づけ 

 以上、テサロニケ第二書簡の成立事情とその内容の概略を見ました。この書簡を扱うさいに重要なことは、著者問題でもなく、また個々のテキストの正確な解釈でもありません。それは、この書簡が主題としているキリストの来臨を現代のわたしたちがどのように受けとめるかという問題です。

 そのためにはまず、この書簡を新約聖書の時代における福音の展開の歴史の中に正しく位置づけ、この書簡の存在の意義を確認しなければなりません。本稿は、新約聖書の時代における来臨待望の変遷の中で、テサロニケ第二書簡がどのような位置を占めているかを見ました。それをまとめると、パウロ以後の時代、来臨の遅延が問題になっていた状況で、パウロ系集会に底流として流れていた来臨待望が迫害などの状況で復興したとき、その待望を黙示思想の枠を用いて正しく導こうとした文書であるということになります。この文書が黙示思想の枠内に留まっているのは、コロサイ書やエフェソ書が黙示思想を脱却して、ヘレニズム世界の宇宙論的キリスト像に達しているのと対照的です。

 この時期には、黙示思想の枠内で来臨待望を語るもう一つの重要な文書、「ヨハネ黙示録」も現れています。新約聖書には、この他にも共観福音書に「マルコの小黙示録」(マルコ一三章と並行箇所)と呼ばれる来臨待望の伝承があります。このような新約聖書の来臨待望を現代のわたしたちがどのように受けとめればよいのかという重大な問題は、このテサロニケ書簡だけの問題ではなく、新約聖書理解の基本的な問題になります。この問題については、すでに『マルコ福音書講解U』155頁の「現代におけるパルーシア待望」で論じましたが、次に「ヨハネ黙示録」を検討した後で、改めて取り上げたいと思います。


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