パウロ以後のキリストの福音


第七章 キリストの民の形                   

 ―― 牧会書簡におけるキリストとその民 ――

 


はじめに―「牧会書簡」について

 新約聖書正典の中でパウロ書簡を集めたグループは、集会に宛てた九書簡の後に、個人に宛てた四書簡が置かれています。個人に宛てた四書簡は、テモテあてのものが二通、テトスあてが一通、フィレモンあてが一通です。この中で、フィレモンにあてた手紙はその内容が全く私的な用件であるのに対して、テモテとテトスにあてた三通の手紙はその内容が私的な用件ではなく、集会の指導という信仰上の問題を扱っており、集会での公の朗読を予想しているという点で共通しています。この三通は、集会を指導するという牧者の責任を担う者(テモテとテトス)に、使徒パウロが牧会の仕方を指示しているという点で内容が共通しているので、「牧会書簡」という名で一括して扱われます。

 この牧会三書簡は、内容が共通しているだけでなく、用語や文体に共通点が多く、同じ著者によって、同じ時期に、同じ目的のために書かれたと見られるので、一括して扱われる場合が多いようです。ここでも、この三書簡をひとまとまりの書簡集として扱い、第一節でその成立の事情、第二節でその内容の概略、第三節で福音展開史における位置とわたしたちにとっての意義を見ていくことにします。

 


  第一節 牧会書簡の成立

使徒名書簡としての牧会書簡

 新約聖書にはパウロの名を冠した書簡が十三ありますが、その中でパウロ自身が書いたことが問題とされない書簡が七つあります。ローマ書、コリント書TとU、ガラテヤ書、フィリピ書、テサロニケ書T、フィレモン書の七書簡です。それに対して、テサロニケ書U、コロサイ書、エフェソ書などは、これまでに見てきたように、パウロ以外の人物(パウロの協力者とか後継者)がパウロの名を用いて書き送った書簡であると見られます。ここでパウロ自身が書いた手紙を「パウロ書簡」、パウロ以外の人物がパウロの名によって書いた手紙を「パウロ名書簡」と呼ぶならば、今回扱う牧会書簡は「パウロ書簡」か「パウロ名書簡」のどちらになるのかが議論されています。

 牧会書簡がパウロの真筆であることを擁護する議論もそれなりの論拠があり、無視することはできません。しかし、わたしは以下の事実を総合的に考慮すれば、牧会書簡は「パウロ名書簡」だと判断せざるをえないと考え、この牧会書簡を「パウロ以後のキリストの福音」シリーズで扱うことにしています。

 「パウロ以後のキリストの福音」シリーズの初めに、「使徒名書簡」の成立について簡単に解説しました。使徒たちが世を去った後、それ以後の世代の指導者が使徒の名を用いて書簡を書き、使徒の権威によって諸集会を指導した時代が来ます。そのような「使徒名書簡」の代表格が「パウロ名書簡」です。パウロ以後に「パウロの名による書簡」が大きな働きをしたことが、「使徒名書簡」の時代を招来しました。今回、その「パウロ名書簡」の(おそらく)最後のものとなる牧会書簡を取り上げます。

 パウロの名を冠する書簡が「パウロ書簡」であるか「パウロ名書簡」であるかの判断は、その書簡を問題なくパウロの筆になるとされている七書簡と較べて行われますが、その比較は用語と文体、神学思想、背景となっている社会的状況などの分野でなされます。牧会書簡の場合は、各分野での比較の結果、パウロ名書簡であると判断されることになりますが、各分野での比較を簡単に見ておきます。

1 用語と文体
 まず用語と文体の面で牧会三書簡は共通の特徴を強く見せていますが、その特徴はパウロ七書簡と大きく違っています。牧会書簡には、「義」、「律法の業」、「自由」などのようなパウロに特徴的な用語は出てきませんし、またパウロの用語が別の意味で用いられています(たとえば《アルカイ》は、パウロでは霊的諸力、牧会書簡では世の権力者)。牧会書簡に出てくる用語の約三分の一はパウロ書簡には出てこない用語です。牧会書簡の著者は、「敬虔」とか「健全な教え」とか「思慮深い」など、パウロが用いていない用語を教えの中心にしていることが目立ちます。牧会書簡の用語はパウロ的・聖書的というよりは、当時のヘレニズム世界の高尚な日常語とか通俗哲学の用語に近いものです。また、牧会書簡の用語の四分の一は、二世紀のキリスト教著述家たちに一般的な用語であると言われています。

 文体においても、パウロの畳みかけるような生き生きとした書簡を読んだ後に牧会書簡に入ると、コロサイ書やエフェソ書で感じたのと同じように、別の世界に入ったという印象を避けられません。牧会書簡のギリシア語の文章は、冷静に考え抜かれた複雑な構造を見せています。

 用語と文体がパウロ書簡とはあまりにも大きく離れているので、真正性を擁護する注解者(たとえばNTDのエレミアス)も、パウロが秘書とか筆記者を用いたとし、当時の筆記者は大意を指示されただけで書き方はかなり自由であったので、このような違いが出て来たと説明せざるをえないことになります。そうであれば、実質的にパウロ名書簡と見ることになります。

2 神学思想
 著者がパウロの協力者とか後継者である以上、その神学思想がパウロと基本的には同じであることは当然です。しかし、キリスト論や救済理解や終末思想など個々の神学思想を仔細に見ると、コロサイ書やエフェソ書の場合のように、微妙な違いがあることも見えてきます。また、異端として戦っている思想が、パウロの時代のものとは違うことも問題になります。このような違いは、やはり牧会書簡がパウロ自身の筆になるものではないことを示唆します。個々の問題点は第二節と第三節で触れることにし、ここでは書簡の基本的な姿勢だけを較べてみます。

 パウロ書簡が読者である集会に直裁にキリストの福音を提示し、その福音にふさわしく生きる生き方を勧告することに徹しているのに対し、牧会書簡では(もちろんその面もありますが)外の人々にキリストの教えがそしられることなく、社会的に認知されるような集団となるように指導するという面、すなわち護教的な面が前面に出て来ます。このような護教的な姿勢は、牧会書簡がパウロの時代からかなり時間が経っていることを示唆しています。護教的な姿勢は、集会がある程度確立し、キリスト者の集団の存在が社会的に注目され問題になってきている時期のものと考えられるからです。したがって、成立の時期は、使徒自身の時代ではなく、早くても第二世代(ほぼ七〇〜一〇〇年)か、あるいは第三世代(一〇〇〜一三〇年)の可能性も考えられます。

3 集会の組織
 牧会書簡(とくにテトスとテモテT)が「監督」、「長老」、「奉仕者」という、集会を指導し、その運営に奉仕する階層の人たちについて強い関心を示し、大きく取り扱っていることは、顕著な事実です。たしかに、パウロにも「監督と奉仕者」に言及している箇所が一箇所だけありますが(フィリピ一・一)、集会の在り方について主要な関心事ではありません。それに対して牧会書簡では、それが集会にとって重要な事柄として大きく取り扱われています。この違いは、牧会書簡の成立が集会の組織化が進んだパウロ以後の時代であることを示唆しています。「寡婦」を世話する制度が問題にされていることも、パウロ以後の時代を指しています。
 パウロ書簡では「監督」も複数形であり、監督と奉仕者との区別は明確ではありませんが、牧会書簡では「監督」、「長老」、「奉仕者」は別個に扱われ、明確に区別されています。「監督」は単数形ですが、これは必ずしも複数の長老と一人の監督からなる(二世紀以降に一般的になった)単独監督制の確立を意味するものではないと見られています。この三者の相互関係と序列の問題は複雑で、様々な理解の仕方が提案されていますが、ここでは牧会書簡が示している集会組織は、パウロ時代よりは後のものであることを指摘するだけで十分でしょう。

4 執筆の状況
 テトス書によると、パウロはテトスと一緒にクレタ島で福音を伝える活動をした後、テトスをクレタ島に残して自身は大陸に戻り、ニコポリスで冬を過ごしています(テトス一・五、三・一二)。そして、このニコポリスからクレタ島のテトスにこの手紙を書いています。

 テモテ書Tは、パウロがマケドニア州に出発するにさいしてエフェソに残してきたテモテに書き送られていますが(テモテT一・三)、どこでこの手紙が書かれたのかは確認できません。テモテ書Uは、裁判を受けているどこかの牢獄から、おそらくエフェソにいるテモテに、急いでパウロのもとに来るように書き送っています(テモテU四・九以下)。

 このような状況はパウロ書簡と使徒言行録のパウロについての最後の記述と合わないので、真正説をとる研究者は、パウロはローマでの最初の裁判では無罪となり、釈放されて再びエーゲ海の諸地域で宣教活動を行い、その後再び訴えられて二回目の裁判を受けることになったとします。その上で、牧会書簡はこの二つの裁判の間の時期の成立とします。

 しかし、使徒言行録が伝えるローマでの裁判が無罪釈放となったことは確認できません。むしろ、前著『パウロによるキリストの福音V』の第七章「使徒パウロ最後の日々」で見たように、パウロはその裁判で有罪となり処刑されたと見なければなりません。そうすると、牧会書簡をパウロの生涯の中に位置づけることは困難になります。

 ただ牧会書簡をパウロ名書簡とするとき、テモテU四・九以下にあるような個人的で具体的な記事はどう理解すべきかが問題になってきます。この問題は、次の第二節で当該箇所を扱うときに触れることにします。


内村鑑三と牧会書簡

 内村鑑三は、彼の時代に活躍した欧米の聖書学者たちの諸説を参照し紹介しながらも、学説によってではなく自分の「キリスト的意識」をもって読んで抱く感じから判断し、これをパウロ自身の著作ではないとします。内村は、牧会書簡はパウロ書簡と較べて次の諸点で大いに違ってきているとします。

   ―― パウロは福音にふさわしく歩むように親が子にするように勧めるのに対して、牧会書簡は上に立つ者が下の者に「命令」している。その結果、「服従」が重視され、信仰がパウロにおけるように自由な(自発的な)キリストへの従順ではなく、権威ある「信仰箇条」への服従となっている。神は、イエスが示された親しい父であるより、近づき難い恐るべき神となっている。信仰が表面的になった分、「儀礼」(按手など)が重んじられ、「教会」が重んじられている。また「現世的な実益」が重んじられ、「世評」を恐れている、等々。――

 このような諸点をあげて、信仰の質の観点から牧会書簡がパウロの著であると受け取ることはできないとした上で、これを学問的に明らかにした近代の聖書批評学の成果を高く評価しています。内村はこのような理由でパウロ著作説を否定していますが、もちろん牧会書簡そのものの価値と意義を否定するのではなく、すでに腐敗の相を見せている当時の教会(内村は牧会書簡を「教会腐敗の活写真」と呼んでいます)を福音によってキリスト化しようとしているものとして、また、その中に含まれているキリストの告知の尊さから、これを蔑視することなく尊重すべきことを説いています。

 その上で最後に、パウロ著作説を主張する学者たちの意見を受け容れたらどうなるかを「付記」して次のように言っています。

  ―― もし牧会書簡がパウロの作であるならば、それはパウロの老年時代の作であって、その価値は彼の壮年時代の作に及ばない。ここにパウロは全く別人となって現れていることになる。わたしは愛するパウロが老衰してついに保守家となり、牧会書簡のごときものを残したとは信じたくない。 ――

 

書簡集としての牧会書簡

 パウロ諸書簡はもともと、別の集会にそれぞれ特別の事情の下に書き送られた独立の書簡であり、それらが後の時代に「パウロ書簡集」としてまとめられたものです。それに対して、「牧会書簡」は初めからひとまとまりの書簡集として成立したものと見られます。

 先に見たように、用語と文体、思想内容、背景となる集会組織などから、牧会三書簡は一人の著者によって、ほぼ同じ時期に書かれて、初めから書簡集として用いられたと考えられます。そのことはこの三書簡の正典内の位置からも観察されます。
 パウロ書簡集は長さの順番に並べられています。元来の収集は、ローマ書、コリント書TとU、ガラテヤ書の四書簡であり、この四つが長いものから順に並んでいます。それにエフェソ書、フィリピ書、コロサイ書、テサロニケ書TとU、フィレモン書の六書簡が加えられて、一〇書簡からなるパウロ書簡集が成立します。この六書簡が付加であることは、ガラテヤ書よりも長いエフェソ書が、元来の四書簡集の集成を破らないために、ガラテヤ書の後に置かれていることからも分かります。この書簡集の成立は、その中にパウロ名書簡が含まれていることからも、おそらく一世紀末か二世紀に入ってからのことと推察されます。

 この一〇書簡のパウロ書簡集が確立してからかなり後に、それに牧会三書簡が加えられたと見られます。そのことは、先に加えられた六書簡の中でエフェソ書以外のどれよりも長いテモテ書Tが後に置かれていることから分かります。そのさい、全く私的で短いフィレモン書が、個人宛書簡の最後に回されます。牧会書簡の中でも三書簡は長さの順に並べられています。

 このような牧会書簡を含むパウロ書簡集が成立するのは、二世紀に入ってからかなり時が経ってからではないかと考えられます。それで、二世紀前半にアジア州でパウロ書簡集に接したと見られるマルキオンが、自分たちの聖書として(牧会書簡を含まない)一〇書簡のパウロ書簡集を用いたのは、その頃にはまだパウロ書簡集に牧会書簡が含まれていなかったからだと推察されます(牧会書簡がまだ書かれていなかったという意味ではありません)。もっとも、マルキオンは牧会書簡を知っていて、その内容から拒否したこともありえますが、知らなかった可能性の方が高いと考えられます。

 なお正典では長さの順に、テモテ書T、テモテ書U、テトス書の順に並んでいますが、その内容からすると、テトス書、テモテ書T、テモテ書Uとなります。テモテ書Uが、殉教を覚悟したパウロの遺言書のような内容であり、最後に来ることは明らかです。テモテ書Tとテトス書のどちらが先かは確認できませんが、テトス書一・一〜四の挨拶の部分が、牧会書簡書簡全体への導入としてふさわしい書き方をしていることから、テトス書が最初に来て、それにテモテ書TとUが続くと見るのが順当でしょう。事実、古代の正典表にはこの順序で並べているものもあります(たとえばムラトリの正典表)。本稿でも三書簡をこの順序で扱います。

 

牧会書簡成立に関する諸説

 牧会書簡がパウロ自身の筆になるものでないならば、では誰が、どういう動機で書いたのかが問題になります。結論から言うと、結局それは分からないということになりますが、様々な提案や仮説が提出されています。参考までに、その中で二三の興味深い説を見ておきます。

 書簡に出てくる地名から、牧会書簡がエフェソを中心とするアジア州で、あるいはもう少し範囲を広くしてエーゲ海域の地域で成立したことは、ほぼ確実と見られます。ケスターは、グノーシス主義に対抗する内容や社会的背景から牧会書簡の成立を一二〇年から一六〇年の間と見て、その時期にこの地域で牧会書簡書簡に見られるような見識と指導力がある人物はスミルナのポリュカルポスだけであるとし、カンペンハウゼンのポリュカルポス著者説を紹介しています。事実、フィリピ集会に宛てたポリュカルポスの手紙(四〜六章)には牧会書簡にきわめて近い内容と表現が見られます。

 ポリュカルポスは、彼の師であるヨハネがエフェソの浴場でケリントスと会い、「真理の敵がいるから浴場が壊れるかもしれない」と叫んで、裸で飛び出したという有名なエピソードを伝えています。牧会書簡が、その当時に影響力を増してきたグノーシス主義に対抗して使徒的伝統を守るために書かれたということは広く認められていますが、このような逸話を伝えているポリュカルポスは著者としてふさわしいと言えるでしょう。テモテT六・二〇の「不当にも知識と呼ばれている反対論」の「反対論」はマルキオンの主著とされる「アンティテセイス」を指すとし、ポリュカルポスはマルキオンとこの著作を知っていて、マルキオンに対抗するために牧会書簡を書いたという可能性も十分にあります。

 もう一つ興味深い仮説にルカ著作説があります。牧会書簡の用語と文体がルカのそれと親近性があることは以前から注目されていました。アンカー聖書事典で牧会書簡の項を執筆したクインは、牧会書簡はルカが彼の著作の第三巻として著したものとします。すなわち、ルカは彼の著作の第二巻である「使徒言行録」でパウロのローマ到着までを述べましたが、パウロの最後については沈黙したまま、唐突にその巻を終えました。その後、ルカは牧会書簡という書簡集の形でパウロの最後を描いたというのです。

 パウロがローマ帝国の司法によって裁かれ、犯罪者のように処刑されたことにショックを受け、パウロに対する信頼を揺るがせていた信徒たちに、ルカは第三巻を著して、パウロが最後まで主に忠実な僕であったことを示し、自分たちの世代に対するパウロの委託を伝えようとしたというのです。ルカと牧会書簡ではその護教的姿勢と動機が共通しています。
 それでは、以上の成立事情を念頭において、またここにあげたような見方もあるということを参考にして、牧会書簡をご一緒に読んでまいりましょう。

 


  第二節 牧会書簡の概要

 

 1 テトスへの手紙

挨拶(一・一〜四)
 発信人パウロと受取人テトスの名の間に、使徒としてのパウロの権威と使命を宣言する長い文章が挿入されています(一節後半〜三節)。手紙の挨拶としては異例の長くて重々しい挿入文は、パウロが未知のローマ集会に宛てたローマ書の挨拶文(ローマ一・一〜七)を思い起こさせます。この挿入文は、使徒の使命が「信心(敬虔)に一致する真理の認識に導くため」であるとか、宣教の働きが「永遠の命の希望に基づくもの」であるとか、「わたしに委ねられた《ケリュグマ》によって」や「わたしたちの救い主である神」というような表現とか、パウロ名書簡の特色を強く示しています。

 先に見たように、この挨拶文は著者がパウロの名によってしようとしていることが要約されており、テトス書だけでなく、牧会書簡全体への序文となっています。

長老の資格(一・五〜九)
 著者は、パウロがクレタに残してきたテトスに指示を与えているという形で、集会を指導する立場に立つ者の資格を論じています。ここで長老または監督に求められている資格は、実際の生活で非難されるところのない立派な社会人でなければならないということです。パウロ書簡に見られた《カリスマ》(御霊の賜物・能力)によるのではなく、社会的人徳が条件となっています。ここでも、一般社会からの認知を求める護教的姿勢が顕著です。

 ところで、六節では「長老たち」の資格が話題になっていますが、七節で突然「監督」(単数形)という名称が出てきます。この二つの名称について様々な理解の仕方が提案されていますが、両者に求められている資格が重複していないことから、両者は別の役職名ではなく、「長老」の管理者としての任務が「上に立って監督する者」という名詞で表現されていると考えられます。すなわち、「監督」は「長老」とは別の役職名ではなく、「長老」の管理者としての働きの表現です。「監督」が単数形であるのは、六節で長老の資格を論じるところでは、すべて単数形が用いられていることの延長です。

 なお、初期においては集会《エクレーシア》は「家の集会」という形をとっていましたから、指導者の資格も、牧会書簡では「よき家長」として描かれることになります。

偽りの教師を退けよ(一・一〇〜一六)
 先に、集会の指導をする長老は「健全な教えに従って勧め、反対者の主張を論破する」ことが務めであるとされていましたが(一・九)、以下にそれが具体的に展開されます。まずこの段落で反対者を論破することが取り上げられ、次の段落で健全な教えの内容が説かれます。

 この段落で批判されている「真理に背を向けている者たち」とは、どういう教えを説いている者たちか、その教えの内容は触れられていません。ただ、その偽りの教えが「割礼を受けている者たち」から出ているとか、「ユダヤ人の作り話」と呼ばれていることから、それはユダヤ教の周辺で発生したグノーシス主義的な教えではないかと推察されます。牧会書簡には、偽りの教えの内容を議論するのではなく、使徒が伝えた「真理」と異なる教えを説く者を「不従順な者、反抗する者」とし、その反抗的な姿勢のゆえに生じるとされる行いを倫理的堕落として、問答無用で切り捨てる傾向が見られます。

健全な教え(二・一〜一〇)
 次に「健全な教えに適う」行いが具体的に列挙されます。すでにコロサイ書やエフェソ書で用いられていたヘレニズム社会の「家庭訓」が、ここでは男女別と年代別に詳しく具体的な形で徳目として並べられています。しかし、ただ夫や妻として、親や子として、主人や奴隷としての生き方ではなく、集会の一員として立場から見られています。ここに説かれた「健全な教えに適う」行いによって、外の人たちに「神の言葉(福音)が汚されないように」、また「神の教えを輝かすように」するという、牧会書簡の護教的姿勢が倫理的な形をとって現れています。

 ここで「健全な教えに適う」ことが、妻と奴隷の身分の者について詳しく語られているのに、夫と主人については何も語られていないことが目立ちます。コロサイ書やエフェソ書の「家庭訓」では、夫と妻、主人と奴隷の双方にそれぞれの義務が説かれていましたが、ここでは下位に立つ者だけに服従が説かれており、上位の者の責任が取り上げられていません。このように下位の者の服従を説く牧会書簡の倫理は、主にあって男も女もない、自由人も奴隷もないと、御霊による対等で自由な愛の交わりを説いたパウロとの距離を感じざるをえません。

神の恵みの現れ(二・一一〜一五)
 キリストにおける無条件の恩恵を福音として告知した使徒パウロの後継者にふさわしく、著者は「実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました」という宣言でパウロの福音を要約します(一一節)。しかし、まさにその「神の恵み」の内容を語るこの箇所が、著者の恩恵理解と恩恵がもたらす「救い」の理解の仕方がパウロと違ってきていることを示すことになります。恩恵を語るこの段落に、パウロ的でない用語がぎっしりと詰まっていることが、その違いを強く印象づけます。

 パウロにおいては、恩恵は十字架されたキリストにあって無条件に聖霊を賜ることであり、その結果罪の支配力から解放されて、神の命に生きるようになることが救いでした。それに対して著者の言う恩恵は、「わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世では、思慮深く、正しく、信心深く生活して、わたしたちの祝福に満ちた希望・・・・を待ち望むように、わたしたちを教育する」ためのものです(一二〜一三節)。「わたしたちの祝福に満ちた希望」は、「偉大な神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れ」と、その内容が最初期以来の来臨待望の用語で語られていますが、それは「この世で思慮深く、信心深く生活」するための動機として、教育の文脈に置かれています。

 またキリストの死は、パウロの場合のように、その死に合わせられてわたしたちが死ぬためではなく、「わたしたちをあらゆる不法から贖い出しだし、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるため」と、倫理的な改善のためとされます(一四節)。
 最後に「神の恩恵」のことを語り、勧め、戒めるのに、「十分な権威をもって」しなさいとテトスに命じられます(一五節)。これは、服従を基本理念とする牧会書簡にふさわしい締め括りです。

救われた者の善い行い(三・一〜一一)
 最後に実際の社会生活についての勧告が行われます。まず支配者や権力者に服従して、どのようなことであれ公の益になる善行に進んで励むように、テトスは集会の人々に思い起こさせることが求められます。パウロがローマ書一三章で説いた権力者への服従が、当然のこととして引き継がれています。そして、信仰に対して外の人たちが冷笑したり、そしったりしても、「そしらず、争わず、寛容で、心から優しく接する」ように勧められます(一〜二節)。これは、パウロがローマ書一二章ですべての人に無条件に善を行うように勧めたことの要約です。

 このように無条件に善を行えという勧告の根拠として、悪の塊であった自分たちが(三節)、神の恩恵によって救われ変えられたのだという、キリストにおける救いの告白が引用されます。この詩の形の告白文(四〜七節)は、当時の洗礼告白文であった可能性がありますが、その内容は、パウロ以後のパウロ系集会における福音理解を言い表している定型的な告白文として重要です。

 「けれども、わたしたちの救い主なる神の慈しみと人間への愛が現れたとき、わたしたちが行った義の業によるのではなく、御自身の憐れみによって、神はわたしたちを救ってくださいました。この救いは、再生の洗いと聖霊の新生によるもので、神はこの聖霊をわたしたちの救い主イエス・キリストによって豊かにわたしたちに注いでくださったのです。こうして、わたしたちはキリストの恩恵によって義とされて、永遠の命の希望に基づく相続人となったのです」。(テトス三・四〜七 私訳)

 ここには「わたしたちの救い主なる神」とか、「人間への愛」とか「再生の洗い」というような、ほとんどここだけにしか出てこない特殊な用語や表現が用いられていて、付加があったことをうかがわせますが、その内容はまったくパウロ的であり、パウロの恩恵の福音が「信仰告白」として継承されていることが示されています。とくに救いが「聖霊の新生(聖霊によって新しくされること)」によるとされていることは、この時期にはまだ聖霊の働きが救いの基本的な内容であることが見失われていないことを示しています。しかしそれが、おそらくバプテスマを指す「再生の洗い」と一つにされているところに、パウロ以後の状況が示唆されています。

 最後に置かれた「この言葉は信実です」という表現で、この引用が「信仰告白」定式であることが分かります。そして、この「信仰告白」を疑うことなく受け容れて「良い行いに励む」ことこそが神の民にふさわしい生き方であり(八節)、この告白を超えて「愚かな議論、系図の詮索、論争、律法についての論議」などにふけることは有害無益であり、このような議論で集会に分裂を引き起こす者にかかわらないように警告されます(九〜一一節)。

結びの言葉(三・一二〜一五)
 手紙の結びに、ニコポリスにいるパウロのもとに急いで来るようにという、テトスに対する具体的な指示があります。この手紙をパウロ以外の人物がパウロの名を用いて書いた書簡と見る立場では、このような記事の成立を説明する責任が生じます。この問題は、テモテへの第二の手紙の最後にある、同じような記事とまとめて扱うことにします。


  2 テモテへの第一の手紙

挨拶(一・一〜二)
 この手紙の挨拶で、テモテはパウロの「信仰における真正な子」と呼ばれています。手紙の受取人であり、このような委託を受けているテモテが、使徒の正統な継承者であることを印象づけています。

 なお、「わたしたちの救い主である神」という表現は、新約聖書全体で牧会書簡(五回)とルカ福音書(一回)だけに出てくる特殊な表現です。パウロは一度も用いていません。また、「キリスト・イエス」という語順は、パウロも用いていますが、牧会書簡では通常の「イエス・キリスト」という語順に較べて圧倒的に多いことが目立ちます。

異なる教えに対する警告(一・三〜七)
 パウロが去った後、エフェソに残されたテモテの仕事の第一は、「異なる教え」が集会に入るのを防ぐことです。その「異なる教え」がどのようなものかは触れられていませんが、「作り話や切りのない系図」という表現は、グノーシス主義の救済神話を思い起こさせます。実際グノーシス主義の著作を読みますと、次々に生み出される霊的存在の系譜と、彼らが引き起こす事件や騒動の物語は、どんどんと複雑になって行き、本当に「切りがない」という印象を受けます。そのような議論にかかわることは、「無意味な詮索を引き起こすだけで」、「清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛」という福音本来の目標からすれば、まったく無益なものです。愛《アガペー》こそ福音の目標であるという宣言はわたしたちにとって重要です。

 このような「作り話や切りのない系図」を得意げに講じる者たちは、自分が「律法の教師」である、すなわち深遠な聖書解釈者であると自任しているが、彼らは自分が言っていることが分かっていないのだ、と著者は切り捨てます。

律法の役割(一・八〜一一)
 先にテトス書のところで見たように、牧会書簡で取り上げられている「異なる教え」は、ユダヤ教の周辺で生じたグノーシス主義的な教説であると推察されます。それは、救済に導く霊知《グノーシス》を与えるものとして聖書(旧約聖書、とくにモーセ五書)の霊的解釈を標榜しましたが、同時に律法の一面を厳格に順守する禁欲的な要求もしたようです(四・三)。それで、著者は改めて「律法」の正しい用い方を説くことになります。

 律法は、律法本来の目的に従って用いるならば良いものだとして、その本来の目的を「律法は正しい者のために与えられているのではなく、不法な者のために与えられている」ものだと規定します。そして、律法が向けられている不法な者のリストがあげられます。このような罪を行う者に向かって、律法はそれが罪であると糾弾し、裁き、抑圧しようとします。そのような目的のために律法を用いるならば、「律法は良いものだ」と言えますが、すでにキリストにあって義とされた「正しい者」に向けられたものではありませんから、そのような者に律法を適用しようとすることは誤りだとします。

 パウロは義が律法順守の行為とは無関係に与えられるものであることを命がけで主張し、律法は「違反を明らかにするために付け加えられたもの」に過ぎないとしました(ガラテヤ三・一九)。しかし同時に、律法は聖であり良いものだとします(ローマ七・一二)ので、信仰生活の中で律法をどのように位置づけるのかが問題として残り、パウロ以後に様々な議論を呼ぶことになります。パウロにおいてはきわめて内面的で霊的問題であった律法の位置づけの問題が、著者においては律法の適用対象を二分するという、きわめて外面的で平面的な視点で解決されています。このような律法の扱い方にもパウロからの距離が感じられます。

恩恵に生きる者の手本パウロ(一・一二〜一七)
 このような律法の理解は、福音を委ねられた使徒パウロの教えに一致していることを強調した著者(一一節)は、迫害者パウロが恩恵によって使徒とされた次第を思い起こさせます。そのパウロを手本として、律法の禁欲的要求を押しつける者たちに対して、著者はキリストの民が恩恵によって生きる者であることを強調します。著者はパウロから直接(あるいは集会に伝えられた伝承によって間接的に)、パウロが自分の受けた恩恵を語るのを聞いていたのでしょう。それを一人称で語ります。ここにはパウロの生の声が反響していると見られます。

 パウロは、迫害者であった自分を使徒としてくださった主イエス・キリストの恩恵を生涯語り続けたことでしょう。著者はそのパウロを「主イエス・キリストを信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本」として描きます。そして、「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という宣教の言葉が信実であることを、「罪人の中で最たる者」であるパウロの実例でもって保証します。

信仰の戦い(一・一八〜二〇)
 エフェソに残してきたテモテへの委託で始まった第一章は、この使命のために信仰の戦いを雄々しく戦うようにというテモテへの励ましの言葉で締め括られます。その戦いは「信仰と正しい良心をもって」なされなければならいことが、正しい良心を捨てたことで信仰が挫折した二人の実例をあげて警告されます。

万人のために祈れ(二・一〜七)
 一章でテモテへの委託の言葉を語った著者は、二章と三章で集会の秩序についての使徒の指示を伝えます。まず第一に、集会の営みの基本である祈りについて勧告がなされます。キリストの民の祈りは「すべての人々のため」になされる願いと祈りと執り成しと感謝でなければなりません。「すべての人々」が祝福されるためには、「王たちやすべての高官」のために祈らなければなりません。それは、権力の座にある者たちが神の御旨にかなった良い統治を行うことによって、社会に秩序と平和が保たれ、「すべての人々」が平和に暮らし、キリストの民も「常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送る」ことができるようになるためです。それは「すべての人が救われる」ための環境を作ります。

 わたしたちが「すべての人々のため」に祈るのは、「神はすべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられる」からです。その理由として、集会が日頃唱えている「神は唯一であり・・・・」という信仰告白の定型文(五〜六節)が引用されます。そして、「すべての人々が救われて真理を知るようになる」ためにこそ、パウロが「異邦諸国民(=すべての人々)に信仰と真理を説く教師として任命された」ことが再確認されます。

集会における男と女(二・八〜一五)
 共に祈るために集まる集会において、男性と女性に対して、それぞれの立場に応じた勧告がなされます。男性には、「怒らず争わず、清い手を上げてどこででも祈ること」が求められます。ローマ社会においては男性は強い立場であり、自分を押し通すために怒声と力づくの争いに走りやすいのですが、そのような姿勢を捨てて、恩恵に生きるキリストの民にふさわしい謙虚な心で祈りを捧げるように求められます。

 女性も華美に流れず、慎ましい身なりと態度で集会に集うことが求められます。著者は、集会では女性は「静かに(=沈黙して)、(男性指導者に)全く従順に学ぶべきです」と勧告するだけでなく、「婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません」と、パウロの名によって命令します。そして、その理由として、アダムはだまされなかったが、エバがだまされて罪を犯したからだとします(牧会書簡の女性観については、第三節でまとめて扱います)。

監督の資格(三・一〜七)
 次に、集会の秩序ある運営に責任をもつ「監督」の地位につく者に求められる資格があげられます。ここにあげられている徳目は、当時のヘレニズム社会の一般的な徳目が列挙されており、監督はまず一般社会の基準から見ても立派な人格者でなければならないと求められています。とくに自分の家をよく治めている良き家長でなければならないとされています。それは、当時の集会は家を単位にして形成される小さな集団「家の集会」であり、集会と家庭がほとんど重なっていたからです。しかし、宗教的な共同体として、いくら立派な人でも、信仰に入って間もない人は避けるように勧められます。やはり指導者としては、信仰生活における熟達が求められるからです。

 牧会書簡と年代的にはあまり違わないイグナティオスの書簡では、監督は一人でなければならないとされ、「単独司教制」が始まっていることが示唆されていますが、ここでは監督の数は問題にされていません。「家の集会」というような小さな共同体では、一人であることは当然だったことでしょう。

奉仕者の資格(三・八〜一三)
 ここで「監督」とは別に「奉仕者」という務めがあげられ、その務めを行う人たちの資格が列挙されます。「奉仕者」も、「監督」と同じように、一般社会の基準から見て立派な人であり、自分の家をよく治めている良き家長でなければなりません。「奉仕者」は複数形で扱われており、「女性の奉仕者」もいたことが明記されています。「奉仕者」は監督を補佐して、集会の実際の運営に当たった人たちでしょう。

 監督も奉仕者たちも、パウロ書簡に見られた《カリスマ》(御霊の賜物・能力)によるのではなく、社会的人徳が条件となっている点は、テトス書における「長老」の場合と同じです。

 ここには「長老」という地位は出てきませんが(五章の長老については後述)、テトス書では「監督」も「奉仕者」もなくて「長老」だけが出てきます。それで、この三者の関係が問題になり、様々な議論がされることになります。一つの可能性として、テトス書の宛先地のクレタの集会はおもにユダヤ人からなる集会であったので、ユダヤ人の共同体に普通の「長老」による指導体制を形成しましたが、テモテ書の宛先地のエフェソではおもに異邦人の集会であったので、ヘレニズム世界に一般的な「監督」による指導体制を形成し、それに独自の「奉仕者」という補佐役が加えられたと考えられます。「監督」と「奉仕者」という組み合わせは、すでにパウロの時代にも言及されています(フィリピ一・一)。

奥義の担い手としての集会(三・一四〜一六)
 二章と三章で集会の秩序について述べてきた著者は、最後にその集会が「神の家」であり、「敬虔の奥義」の担い手であることを思い起こさせて締め括ります。そして、その「敬虔の奥義」とはどのようなものかを、日頃集会で唱えられている賛歌(一六節)を引用して語ります。

 「敬虔」(新共同訳では「信心」)は著者特愛の用語です(パウロは一度も用いていません)。それは、神への畏敬とそれにふさわしい生活態度を指しています。その敬虔を可能にする土台が、人間の目には隠されているが《エクレーシア》に啓示されたキリストの奥義です。人はこのキリストによって神の奥義あるいは真理を知り、真の敬虔に導かれるのです。そして、キリストの《エクレーシア》こそ、この奥義を保持している共同体であり、「神の家」なのです。牧会書簡は、この「神の家」での生き方を指し示すために書かれたのだと、ここでその目的が掲げられます。

背教の予告(四・一〜五)
 二章と三章で集会の秩序について基本的なことを指示した著者は、続いて集会における信仰生活上の様々な問題について、具体的な指示と勧告を与えます。その最初に、「異なる教え」に惑わされて信仰から脱落することがないようにという警告がなされます。

 ここで、その「異なる教え」が「結婚を禁じたり、ある種の食物を断つことを命じたり」するという性格の教えであることが明らかになります。これはグノーシス主義的な傾向の教説に典型的な、物質界に対する否定的姿勢の現れです。グノーシス主義は霊界と物質界を峻別し、真実の霊知によって物質界に囚われている霊を解放し、霊を本来の光の世界に帰還させることを目標とします。それで、結婚は人間を物質界につなぎとめ、物質界を存続させるための創造神(真の神ではない半神)の策略だとして、結婚を禁じます。また、ユダヤ教の食物規定も被造物に対する否定的な姿勢から解釈されて、ある種の食物を断つことを命じたりします。

 このような教えに対抗して、使徒的伝承に立って被造物をすべて肯定する健全な信仰の姿勢を貫いたことは、牧会書簡の大きな功績です。結婚も食物もすべて、「神がお造りになったもの」として感謝して受けるべきものとされます。サタンは否定の霊であり、神の霊は根源的な肯定の霊です。

若い指導者に対する励まし(四・六〜一六)
 テモテはパウロよりもずっと年下の若い同労者でした。その関係をモデルにして、著者は後輩の若い働き人を励まします。ここでも「作り話」(グノーシス神話)にふけることなく、実際の信仰生活である敬虔(信心)において自分を鍛え、人々を指導するように説いています。現代においても、神学理論が議論のための議論となり、実際の信仰生活の確立のためにわたしたちを鍛えるのでなければ、それは空しい人間の「作り話」になってしまいます。

様々な立場の人に対する対応(五・一〜六・二)
 先の段落で若い指導者に一般的な勧告を与えた著者は、続いて集会の様々な立場とか身分の集会員への対応の仕方について具体的に指示します。

 まず、高齢の男女には親のように、若い男女には兄弟姉妹のように、叱るのではなく「諭す」ように求めます(五・一〜二)。当時のヘレニズム社会では、隣人を親のように、また兄弟姉妹のように扱う人は立派な人物とされていたようです。

 次に「やもめ」の世話についての指示がなされます(五・三〜一六)。公的な社会保障制度がなく、また女性が職業をもつ機会もなかった古代社会では、身よりのない寡婦は厳しい状況に置かれていました。孤児と寡婦は社会的弱者の代表です。ユダヤ教では預言者以来、孤児と寡婦を養い助けることは神がその民に求められる義の業として重視されていました。キリストの民もその伝統を受け継ぎ、寡婦を養う働きをします。ここでは孤児については触れられていませんが、孤児の養育施設は後の時代のキリスト教会の重要な付属施設となります。このような弱者に対する援助の姿勢が、古代社会の貧しい人たちをキリスト教に引きつける大きな要因となります。

 ここの記事から、寡婦の世話が制度として運営されていたことが分かりますが、このような制度を運営する主体としてはかなりの規模の共同体が予想されます。おそらく、エフェソのような大都市では多くの「家の集会」をまとめる形で、このような寡婦への援助制度が運営されていたのでしょう。しかし、この記事からは、その運営には様々な問題もあり、細心の配慮をして当たらなければならなかった様子もうかがわれます。

 次に「長老たち」について、彼らが報酬を受けることや、彼らに対する訴えについて述べられます(五・一七〜一九)。集会を指導したり奉仕する務めは、先に「監督」と「奉仕者」という二つの役職名で語られていましたが、おそらくここの「長老」はこの二つの職務をまとめて、集会の信仰生活を指導監督する先輩格の年長信徒を指しているのでしょう(NTDは「老人」と訳しています)。このような「長老」が、日常の集会では「御言葉と教え」を担当していました。このような働きをする長老は、尊敬と金銭的報酬という「二重の報酬」を受けるにふさわしいとして、聖書が引用されます。

 次に「罪を犯している者たち」に対する処置の仕方が指示されます(五・二〇〜二五)。ここを長老に対する訴えの文脈でする解釈、すなわち罪を犯している長老の扱いを述べているとする解釈もありますが(おそらく新共同訳も)、ここはやはり集会員一般のことと理解してよいでしょう。ここは、福音に従う生き方に違反する習慣を改めようとしない集会員に対する処置を指示していると見られます。その中に、水ではなくぶどう酒を用いなさいというテモテへの勧め(二三節)が入っている理由は分かりません。

 最後に、奴隷の身分にある集会員に対する指導の仕方が指示されます(六・一〜二)。奴隷の心構えを説くだけで、奴隷を使う主人の心構えがないところに、牧会書簡のパウロからの距離を感じます。

 富んでいる人たちの心構えについて説く段落(六・一七〜一九)が追伸のような位置にありますが、この段落はここの「様々な立場の人に対する対応」の一部として読むと分かりやすいと思います。

異なる教えを説く者たちに対抗して(六・三〜一六)
 最後にもう一度(三回目!)「異なる教え」を説く者たちに対する警戒が説かれます。著者は、彼らが主イエス・キリストの「健全な言葉」に従わず自説に固執するのは、高慢と金銭欲からだと、その動機の卑しさを暴きます(この論法は後の時代に正統派教父が異端者を批判するときの原型となります)。それに対して、真の敬虔は満ち足りるを知ることが強調され、それこそが「大きな利得」であるとし、衣食さえ足りれば十分とする質実な生活に徹すべきことが説かれます(六・三〜一〇)。

 健全な御言葉に仕える真の「神の人」は、このような高慢や言い争いや金銭欲を避けて、「義、敬虔、信仰、愛、忍耐を追い求めて」、信仰の戦いを立派に戦い抜くように励まさされます。著者はテモテに語りかける形で、神の召しを受けた働き人に、神とキリスト・イエスの御前で、この書簡で命じられたことを守るように厳かに命じます(六・一一〜一四)。そして、神への頌栄をもって書簡を締め括ります(六・一五〜一六)。ここの頌栄には、牧会書簡独自の神観が表明されています。

 その後に追伸のような形で二つの指示が挿入され、手紙の結びの挨拶が来ます(六・一七〜二一)。

 この六章の「異なる教え」を説く者たちと真の御言葉に仕える者の対比は、同じ構造で一章と四章にもあり、集会の秩序と健全な運営を指示する二〜三章と五章を取り囲んでいます。この二つの主題が、著者の主要関心事であったことが分かります。


  3 テモテへの第二の手紙

挨拶と感謝(一・一〜五)
 パウロからテモテへという手紙の挨拶(一・一〜二)に続いて、使徒は「愛する子」であるテモテについての神への感謝(一・三〜五)を綴ります。それは、祖母と母に宿った純真な信仰がテモテにも宿っていることへの感謝です。祖母と母の信仰とはユダヤ教徒としての信仰ですから、キリスト者としてのテモテの信仰もユダヤ教信仰と別のものではなく、その延長上にあると著者は見ていることになります。このことは、パウロについて「先祖に倣い清い良心をもって仕えている神」と言われていることにも現れています。

テモテへの励まし(一・六〜一四)
 続いて著者は、使徒がテモテに伝道者としての使命に励むように激励する文章を置きます。これは著者が、按手によって宣教者としての賜物を受けた者たちに、福音のゆえに囚人として捕らわれた使徒パウロを恥じることなく、その苦しみを共にし、パウロから聴いた「健全な言葉を手本とし」、「内に住まわれる聖霊によって」大胆に伝道するように励ましている文章です。

 牧会書簡では、ここで初めてパウロが「囚人」であることが出てきます。しかも、この手紙ではパウロは自分の刑死が避けられないことを覚悟して、この手紙を遺書として書いていることになっています。牧会書簡をパウロ名書簡とする立場では、パウロの刑死を過去の事実として知っている著者が、次の世代の伝道者たちに、殉教した使徒パウロをモデルとして、囚人パウロを恥じることなく、宣教に励むように励ましていると理解することになります。

パウロの孤独(一・一五〜一八)
 ここで囚人としてのパウロが孤独な状況にあったことが描かれます。ここで具体的な人名があげられていることについては、四章九節以下でパウロの状況が個人名をあげて具体的に描かれていることを、パウロ名書簡の立場でどう理解するかという問題を扱うときに、一緒に扱うことにします。

福音の継承(二・一〜一三)
 ここで著者は、使徒がテモテに使徒から聞いたことを他の人たちに教えることができる忠実な者たちに委ねるように命じているとして、福音が継承される必要を強調します(二・一〜二)。そして、テモテに(=若い伝道者たちに)パウロと共にキリストの兵士として福音宣教の戦いに加わるように励まします。それを、兵役に服している者、競技に参加している者、耕作する農夫のたとえを用いて、福音の本質に即した仕方で、宣教活動に専心するように求めます(二・三〜七)。

 その上で、継承して宣べ伝えるべき使徒パウロの福音がどのようなものかを要約します(二・八〜一三)。パウロが宣べ伝えた福音によれば、イエス・キリストとは「死者の中から復活された方、ダビデの子孫として来られた方」(原文の語順)です。この方を福音として宣べ伝えたために、使徒パウロは犯罪人のように鎖につながれるに至りましたが、「しかし、神の言葉はつながれていません」。使徒パウロも著者も、神の言葉である復活者キリストは、迫害などの人間の力によって閉じこめられることはありえないことを知っています。そして、この福音のために受ける苦難を耐えることが永遠の栄光を受ける道であるとして、日頃集会が唱えている信仰告白の言葉または賛歌を引用します。この文脈では、これは殉教の賛歌です。

 その信仰告白あるいは賛歌(二・一一〜一三)は、「もしわたしたちが〜するならば、・・・・するようになる」という同じ構造の文が四つ並んでいます。パウロはすでに、キリストの死に合わせられることによってキリストの復活の命に生きるようになるという霊的消息を語っていますが(ローマ六・四、五、八)、それがここの第一句では殉教の死を指す言葉として、殉教の死に続く栄光を約束しています。「耐え忍ぶ」も迫害の苦難を耐えることを指しています。第二句もパウロ的です(ローマ八・一七)。そして第三句で、迫害の場でキリストを否定するならば、キリストもわたしたちを否定されるので、キリストの栄光と支配にあずかることはできなくなると、マタイ一〇・三三の言葉が迫害と殉教の場面に適用されます。

 この四つの並行句の中で四番目だけは(形は同じでも意味の上で)並行を破っています。ここだけは「たとえわたしたちが不信実であっても」となり、わたしたちの不信実にもかかわらず「キリストは信実にとどまりたもう」と対照され、「キリストはご自身を否定することができないからです」と、その理由の文が続きます。この句は、迫害の中で動揺する弱い自分を乗り越えて、キリストの信実だけを根拠にして信仰を言い表す力になっています。そしてこの句は、迫害や殉教という極限的な状況だけでなく、信仰そのものの本質に大きな示唆を与える句です。すなわちこの句は、信仰とは自分の信実に立つ生き方ではなく、神の信実、キリストの信実だけを拠り所とする生き方であることを教えています。

真理の言葉を正しく伝える者(二・一四〜二五)
 著者は、使徒パウロがテモテに説いているという形で、集会の指導に当たる若い世代の働き人たちに「真理の言葉を正しく伝える者」であるように励まします。その中で、「真理の道を踏み外した」者たちは、「復活はもう起こった」と言っていると、その誤った教えの内容が具体的に伝えられています。当時のエクレシアが直面した異端は、復活を霊的な再生に局限して、終末的な死者の復活を否定した者たちであることが分かります。これはすでにパウロがコリント第一書簡一五章で指摘した、聖書的な救済史を否定して、救済を霊的な体験だけに限定する(グノーシス主義的な)誤りです。

 著者のいう「真理」とは使徒から伝えられた福音の内容であって、それは「神が据えられた堅固な基礎」です。それを保持するためには、その内容についての議論は害あって益はなく、健全な生活の中で、伝えられた信仰告白の言葉にしっかりと立つことだけが必要だとします。この姿勢が後に「信条」の形成を進めることになります。

テモテに対する最後の委託(三・一〜四・八)
 著者はパウロの最後を知っています。そのパウロが殉教の死を前にして(四・六)、「厳かに」後継者であるテモテに自分が伝えた福音を保持して伝える務めを委ねるという形で、自分たちの時代のエクレシアが、とくに指導の任に当たる者たちが果たすべき福音のための責任を語ります。

 最初に、今の時代が終わりの時であり、予告されていたように人間が悪くなり、キリストの民は困難な状況に直面しなければならないことが語られます(三・一〜九)。その中で、テモテが忠実に使徒に倣い、共に迫害に耐え、福音に仕えてきたことが称揚され、今までに学んで確信したことから離れないように励まされます(三・一〇〜一六)。そのさい、聖書(旧約聖書)が「すべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益」であるとされ、重視されていることが注目されます。これは、「異なる教え」を説くグノーシス主義者たちが、旧約聖書を軽視、無視、さらに否定したのと対照的に、使徒的福音の伝承に立つ者が聖書(旧約聖書)を自分たちの信仰の拠り所としたことを示しています。続く時代の正統派とグノーシス派との対立は、旧約聖書受容派と否定派の対立の様相を見せることになります。

 最後に、殉教の死を覚悟したパウロが厳かにテモテに福音宣教者の務めを委ねる言葉が綴られて、この書簡の本体部分が締め括られます(四・一〜八)。

個人的指示と結びの挨拶(四・九〜二二)
 最後に、獄中の使徒がテモテに急いで来るように求め、そのさい外套や書物を持ってくるように頼み、また、周囲の人たちの消息を伝えています(四・九〜一五)。続いて、パウロ自身の裁判の様子と心境が綴られています(四・一六〜一八)。手紙の結びの挨拶(四・一九〜二二)にも、多くの人の名前があげられています。本稿ではこれらの内容の一つひとつについて詳しく検討することはできませんので、ここではこの手紙をパウロ名書簡とする立場では、このような具体的な記事をどのように理解することになるのかという問題に限定します。

 著者はパウロの最後の様子を、直接か間接的にか知っている人物であるはずです。パウロが最後の獄中から書いた手紙があるとすれば、その内容を知りうる立場にいたはずです。著者は牧会書簡を著述するにさいして、パウロの最後を自分の想像で描くのではなく、用いることができる伝承とか資料を使って書いたと考えられます。そうすると、わたしたちは牧会書簡の一部に、最後の時期のパウロの生の声を聴いていることになります。こうして、牧会書簡は最後の時期のパウロについて、きわめて貴重な資料であることになります。

 


  第三節 牧会書簡の位置と意義

はじめに
 今回は、牧会三書簡を読むために必要な最小限のコメントを段落ごとにつけるだけに止めましたが、一読しただけでも現代のわたしたちにとって重要な問題が多く提起されていることを痛感します。さらに徹底した検討と理解が必要ですが、それは別の機会に委ねざるをえません。また、牧会書簡の一部にパウロの最後についての証言があるのであれば、使徒の最後についてもさらに厳密に再検討しなければなりませんが、これも別の機会に委ねます。ここでは、パウロ以後の時代の福音とエクレシアの姿を証言している文書として、牧会書簡が福音の展開の歴史においてどのような位置を占め、どのような意義を担っているのかという問題に限定します。

 先に第一節の「牧会書簡の成立」で見ましたように、この牧会書簡はパウロ以後の時代(おそらく一世紀末か二世紀初頭)にエーゲ海地域に展開したパウロ系諸集会の状況を反映しています。この書簡が示している状況は、パウロの時代の状況とかなり違ってきています。まずこの違いを見ることにします。

集会の制度

 一読してまず目につくのは、牧会書簡がキリストの民の「制度」を重視して発言していることが多いという事実です。パウロもごく稀に「監督と奉仕者」というような語を用いていますが、奉仕の務めは聖霊の賜物《カリスマ》によって自然になされるもので、まだ制度的な役職とはなっていません。それに対して牧会書簡では、「監督、長老、奉仕者」が集会の役職の名となり、その選任がどのようになされるべきかが重要な問題となり、その資格が多くの言葉で論じられています。その選任や資格について、聖霊の賜物は言及されることなく、もっぱら当時のヘレニズム社会の基準にてらして「立派な」人物であることが求められています。

 また、パウロの時代には個々の信徒の自発的な愛の働きに委ねられていた困窮者への援助も、牧会書簡では寡婦への援助が制度として運営されるようになっています。キリストの民は、最初期の聖霊の働きに直接依存するカリスマ的な集団から、制度的な共同体への一歩を踏み出したことになります。この方向の先に「教会」が現れます。


「異なる教え」に対する姿勢

 もう一つ、牧会書簡の重要な主題は「異なる教え」を説く者への対応です。使徒が後継者であるテトスとテモテにその対応の仕方を説くという形で、著者はこのパウロ名書簡において、自分の時代の不健全な傾向を克服しようと努力しています。

 パウロも自分が宣べ伝え福音とは「異なる福音」を説く者に対して厳しい言葉で対抗しています(ガラテヤ一・六〜九)。パウロの場合は何が問題になっているのかを正面から取り上げて論駁しています。異邦人で信仰に入った者に割礼を受けることを要求し、ユダヤ教律法の順守を求めることは、キリストの福音を台無しにすることだとして、縦横に聖書を引用して激しく議論し、「信仰による義」を主張しています。それに対して、牧会書簡ではその問題は決着済みであり、話題になることはありません。これは、70年のエルサレム神殿崩壊後の状況です。すでにコロサイ・エフェソ書もそういう状況を示していましたが、牧会書簡ではその状況はさらに進んでいるようです。

 牧会書簡で問題になっている「異なる教え」がどのような内容の教説であるのか、詳しい記述はありませんが、(第二節でみたように)断片的な言及からそれはグノーシス主義的な傾向のものであることが推察されます。すでにパウロも萌芽的な形態のグノーシス主義を警戒しなければなりませんでしたし、コロサイ・エフェソ書でもグノーシス的な教説への批判が見られます。どの場合も「異なる教え」の内容を正確に記述して、その違いを知ることは困難です。しかし、パウロ書簡とコロサイ・エフェソ書と牧会書簡の場合を較べますと、「異なる教え」への対応の仕方に違いが見られます。

 パウロは「異なる教え」の誤りを正面から論じて、福音の正しい理解に導く努力をしています。コロサイ・エフェソ書にはまだ議論する傾向が残っていますが、牧会書簡になると「異なる教え」を説く者と議論すること自体が禁じられます。たとえば、死者の復活を否定する者たちに対して、パウロはコリント第一書簡(一五章)で詳しい議論を展開していますが、牧会書簡では何の議論もなく、「真理の道を踏み外した者」として切り捨てられています(テモテU二・一八)。牧会書簡は繰り返し、「異なる教え」を説く者の「作り話や切りのない系図」に関わらないように警告し、彼らとの議論を有害無益なものとして禁じています。

 

信仰告白定型の確立

 このような問答無用の姿勢がとれるのは、この時期には「主イエス・キリストの健全な言葉、信心に基づく教え」が一定の形をとって確立していたからです。その「健全な言葉」に反する教説は、ただそれが「健全な言葉」に合致していないという理由だけで退けられるべきであって、なぜ誤りかという議論はもはやする必要はありません。

 すでにパウロ書簡においても、一定の形式をもった信仰告白の文が用いられています(たとえばコリントT一五・三〜五、ローマ一・二〜四)。また、パウロの時代の集会で用いられていたキリスト賛歌が引用されています(たとえばフィリピ二・六〜一一)。牧会書簡には、そのような告白文や賛歌やその他「健全な言葉」とされる文が、「この言葉は信実です」という断定的な宣言句を伴って出てきます(テトス三・八、テモテT一・一五、三・一、四・九、テモテU二・一一)。このような句が繰り返し用いられるのは、ある内容の信仰告白が使徒から伝えられた権威ある「真理」として確立していたことを示しています。これに反する言説は、議論するまでもなく、「異なる教え」として退けなければなりません。

 このような告白文は、たしかにパウロの福音を継承しています。たとえば、テトス三・三〜七の箇所は、パウロの福音の見事な要約になっています。しかし全体として見ると、牧会書簡における信仰は、そのように権威あるものとして確立している「真理」とか「健全な言葉」を受け容れて告白し、健全な生活をするというような意味になっており、パウロ書簡におけるような霊なるキリストとの交わりという生き生きとした霊的体験の質が希薄になっています。この点でもパウロ書簡との距離を感じざるをえません。

 

聖書に対する姿勢

 パウロは聖書(旧約聖書)が神からの啓示であることを当然とし、聖書を権威とし、また拠り所として議論を進めています。それに対して、牧会書簡は使徒パウロの権威を拠り所としています。著者は自分の議論を進めるさいに、旧約聖書を引用したり論拠にすることはほとんどなく、パウロのキリスト体験とかパウロに与えられた啓示を根拠にして議論し、パウロを手本にして勧告しています。

 たしかに著者は聖書を神の霊感によって書かれた書として尊重しています(テモテU三・一五〜一七)。しかし、実際の議論において聖書を論拠として用いることはありません。著者の聖書尊重には切実さが感じられず、なにかとってつけたような感じが残ります。著者が基準としているのは聖書ではなく、使徒パウロの体験と言説であり、周囲のヘレニズム世界のモラルです。著者は、キリストの民が周囲のヘレニズム社会の基準から見て「健全な」生活をするように求め、とくに監督、長老、奉仕者というような集会を代表する立場の人たちに、高い水準で満たすように求めています。牧会書簡の勧告には、敵を愛するとか、善をもって悪に報いるというような福音独自の勧告はありません。終末的待望の用語は出てきますが、その待望がキリスト者の生き方を決めているという痕跡はごく僅かです。

 なお、牧会書簡を通読して、祭儀的な面が何も触れられていないことに気づきます。旧約聖書の祭儀が問題にならないのは、キリストの民がユダヤ教の枠の外に完全に出てしまっている時期の著作として当然ですが、当時のエクレシアで行われていたはずのバプテスマや聖餐の儀礼についても触れられていないことが目立ちます。ほぼ同時代のイグナティオス書簡がこれらのサクラメントの有効性と結びつけて司教の重要性を強調しているのと対比すると、牧会書簡の沈黙は目立ちます。著者はこの点について問題を感じていなかったのでしょう。

 

女性の地位

 パウロは女性が集会で祈ったり預言したりすることを認めています(コリントT一一・二〜一六)。ところが、牧会書簡は女性が集会で教えることを禁じています。これは、当時のローマ社会が男性家長の権力が絶対的な家父長制社会であり、既婚女性が公の場で発言することを嫌う傾向があったので、社会の倫理規範に合わせたという面もあるのでしょうが、グノーシス派に対抗するというためという動機も強かったのではないかと考えられます。

 後の時代のグノーシス派に明らかに見られるようになる傾向ですが、グノーシス派では女性が集会で教えたり、礼典(サクラメント)を執り行うことを認めていました。マグダラのマリアをペトロよりもイエスに近い弟子として尊び、女性の活動を歓迎する傾向がありました。それに対抗して、「正統派」教会は女性の聖職者を認めず、女性を聖職者とすることを異端のしるしとして攻撃しました。牧会書簡の時代にこのような女性聖職者をめぐる問題がどれほど具体的な問題になっていたかは確認できませんが、その対立の萌芽的な形態を示していると見ることができます。女性の聖職者を認めるかどうかは、現代においても教会では大問題になっています。 

 女性に沈黙を命じる根拠として、著者はアダムとエヴァの物語を論拠にしますが(テモテT二・一二〜一五)、女性だけに罪の責任があるかのような偏った解釈をしています。「牧会書簡がなければ、新約聖書ははるかに女性に友好的なものとなるだろう」(タイセン)と嘆かれることになります。このような女性観は、ローマの家父長制社会とかグノーシス派への対抗というような時代の状況に規定されたもので、正典にあるからといって絶対化するのは誤りです。男性と女性の関係については、「キリストにあっては男も女もない」(ガラテヤ三・二八)という大原則に従って、それぞれの特質をもって補い合い助け合う平等の関係を構築すべきです。


護教的姿勢

 先に「成立」のところで見たように、牧会書簡は用語と文体においてルカ文書と親近性があります。それで両者は同じ著者によって書かれたとする説も出てくるのですが、そこまで行かなくてもどちらかが他方に依存して書かれたと推察する見方も多いようです。少なくとも両者は同じような状況で、同じ傾向の著者によって書かれたことを示唆しています。

 用語と文体だけでなく、両者はその護教的姿勢において共通しています。護教的姿勢というのは、信仰者の共同体が一定の規模となり、社会的に注目される段階になったとき、批判的な外の社会に対して自分たちの信仰と存在の正当性を弁証して、社会からの認証を得ようとする姿勢です。牧会書簡は、第二節の「概観」で見たように、共同体自身が社会的認証を得られる姿になるように内部の人たちに働きかけています。それに対して、ルカ文書は外の人たちに、自分たちの信仰と共同体の成立がいかに正当なものであるかを示すために書かれたという面があります。このようにして始まった護教活動は、二世紀になって、ローマ社会に向かってキリスト信仰の正当性を論じる文書を書く、ユスティノスらの「護教家」に引き継がれていきます。


結び―容器と中身

 福音は神の力です。信じる者を救いに至らせる神の力です(ローマ一・一六)。使徒たちが御霊によってこの福音をヘレニズム世界に宣べ伝えたとき、その力の働きによって、地中海世界に新しい波が起こり、渦が巻き起こりました。それは、聖霊の働きによります。それは新しい運動として、地中海世界の各地に波及してゆきました。しかし、使徒たちの時代においては、それはまだ形なく、渦巻く運動であり、次々と伝わってゆく波のうねりでした。

 しかし、その運動が始まって七十年とか八十年、あるいは百年近く経った牧会書簡の時代には、その運動はようやく一定の形を見せ始めます。聖霊によって与えられる霊なるキリストとの交わりを内容とする信仰は、一定の形式をもった信仰告白の文で言い表されるようになり、その信仰を言い表す者たちの共同体は一定の組織をもった集団となって、社会に現れてきます。この信仰内容の定型化と信徒共同体の組織化は、年と共に進み、やがて明確な信条と聖職者組織を持つ「教会」に成長してゆき、「キリスト教」という宗教の成立に至ります。わたしたちは牧会書簡にそのプロセスの最初の証言をもつことになります。ここに、牧会書簡が福音の展開史上にもつ位置と重要な意義があります。

 このように信仰と民の共同体が一定の形をとるようになるのは、歴史的必然であって、良いとか悪いというような価値判断の対象ではありません。ただ、このような過程を理解することによって、そのような過程を生み出した原動力である福音と、その過程の結果である「キリスト教会」に体現される「キリスト教」宗教とを区別することを学ぶことが重要です。福音は救いに至らせる神の力としてわたしたちにとって絶対的なものですが、その力が生み出した「キリスト教会」と「キリスト教」は社会的歴史的な状況に制約されたもので、相対的なものです。それが正典の中にあるからといって、ある文書の文言を絶対化するのは誤りです。キリスト教は福音という神の力を内に入れて保持している容器です。わたしたちは容器を絶対化して尊ぶのではなく、中身であるキリストの福音を探求、確立して、それを身をもって証示してゆくことが使命です。


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