87 教会の枠の外で


 神はユダヤ人だけの神であろうか。また異教徒の神であるのではないか。確かに、異教徒の神でもある。
       (ローマ人への手紙 三章二九節 私訳) 


 聖書でユダヤ人と「エスノイ」(諸民族)との対立は、日本人と他の諸民族というような民族的な対立ではなく、ユダヤ教教徒と異教徒という宗教的対立である。当時ユダヤ人たちは、まことの神は割礼を受けてユダヤ教団に所属する者たち(ユダヤ人)だけの神であって、異教徒は神に縁のない者と固く信じていた。したがって当然、異教徒が神の民となるには割礼を受けてユダヤ人にならなければならないと考えられていた。事実、聖書の神をまことの神として帰依しようと願う異教徒は、割礼を受けてユダヤ教に改宗したのであった。

 そのような世界に福音は宜べ伝える、「人は誰であっても、主イエス・キリストを信じることによって救われ、神の民となる。異教徒は割礼を受けてユダヤ教徒にならなくても、異教徒のままで神の民となる」。これは実に革命的な宣言である。ユダヤ教団が猛烈に反発して、この福音を宜べ伝える者を殺そうとしたのも当然である。

 福音は現代においても同様に革命的である。今世界にはカトリック教会をはじめ多くのキリスト教会があり、それぞれ神は自分達だけの神であり、異教世界には神はないと主張している。神の救いを得ようと願う者は、洗礼を受けてキリスト教会に入らなければならないとされる。はたしてそうであろうか。神はキリスト教徒だけの神であろうか。異教徒の神でもあるのではないか。

 わたしたちはキリストの福音を宜べ伝えている。主イエス・キリストを宣べ伝え、他に何が無くてもキリストを信じることによって救われ、神の民となることを証ししている。これはキリスト教会の枠の内でも外でも同じである。まことに神は唯一であって、キリスト教徒を信仰によって義とし、異教徒を信仰によって救われるのである。キリスト教会という特別な領域にいなくても、異教徒のまま普通一般の生活の場でキリストに出会い、キリストと結ばれ義とされて神の民となることができる。

 これはキリスト教会の存在を無意味にするものではない。その存在の真実の土台を堅くするのである。

(アレーテイア 9号 1987年)



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