しかるに今や



 しかるに今や、キリストは眠つている者たちの初穂として死人の中から復活したのである。死が人によって来たのだから、死人の復活も人によって来るのである。それは、アダムにあつてすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるからである。

(コリント第一 一五章二〇〜二二節 私訳)

 


 使徒パウロは福音の本質を語る重要な所で、しばしば「しかるに今や」という句を用いている。この句によって、パウロは前後の脈絡や説明なしに突然別の世界に飛躍する。それは新しい別の部屋に入って行くドアの蝶番のようである。それによって舞台は一転し、別の光景が現れる。それはまた、新しい時代の到来を告げるラッパのようである。それによって、古い時代は終わり、全然別の法が支配する新しい時代が始まる。
 この舞台の転換、時代の一新はキリストの復活によって起こつた。キリストの復活こそ新しい時代の到来を告げる無比の出来事である。

 キリスト復活前の世界は、すべてが死に支配された世界であつた。すべての被造物は「滅びの縄目」に縛られ、虚無に服し、死に定められていた。そのような事態は「人によって来た」のであつた。すなわち、アダム(人を意味する)が創造者なる神に背いた結果、罪の力が支配するようになり、罪によって死が入って来て、全被造世界を覆ってしまったのである。

 「しかるに今や」、キリストはすべて眠っている者(死者)の初穂として、死人の中から復活した。キリストは復活によって「終わりのアダム」となった。すなわち、終わりの日に出現する新しい人類の頭、死人の中から復活する新しい人類の代表者となったのである。この終わりのアダム(人)によって、「死人の復活」という終末の事態が世界に到来したのである。復活という新しい生命の力が支配する時代が始まったのである。

 しかし、この革命は一挙に全人類に及んだのではなかった。古いアダムに所属し、なお死の支配下にある現実のただ中に、キリストに属することによって復活の生命の支配に入れる新しい領域が始まったのである。「キリストにあって」という領域においてだけ、新しい時代が始まっているのである。

 

 使徒パウロはローマ人への手紙(一〜八章)において「キリストにあって」という領域で何が起こったのかを詳しく語っている。
 まず最初に、すべての人間は異教徒であろうとユダヤ教徒であろうと、生まれながらの本性のままでは、アダムに属する者として罪の支配の下にあることを示した後、突然「しかるに今や、律法とは別に、神の義が…現された。それはイエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる者に与えられるものである」(三・二一〜二二)と言って、行いの法則が支配する世界から信仰の法則の世界に飛躍する。それができるのは、キリストの中に神の贖いの業が成し遂げられているからである。神の子キリストが我々すべてのために十字架の上に神の裁きを受けて死なれた。今や、このキリストにある贖いによって、神の恩恵により、誰でも無代価で義とされるのである。自分の側に何の行いがなくても、ただキリストに属することによって、神に受け入れられることができるのである。

 この別の法則が支配する新しい領域は、人間が考案したり作り出したりしたものではなく、ただ神がキリストの十字架と復活という人の思いをはるかに超える出来事によって世界にもたらされたものであるから、そこに入る道を人間の側で説明することはできない。むしろ、人間の側からの筋道はみな行き詰まってしまうばかりである。ただ「しかるに今や」と言って、神が備えて下さったキリストの現実に、身を翻して自分を投げ入れることができるだけである。

 パウロは「キリストにあって」という場がいかに人間の現実の姿から思いも及ばないものであるかを、アダムとキリストを対比することで示している(五・一二〜二一)。アダムと対比して語るということは、キリストを全人類の実在との対比で、それと同じ重さで語ることである。アダムが本性的な人間全体を代表するように、キリストは新しく創造される人類を代表するのである。アダムにあっては罪が死によって支配しているように、キリストにあっては恩恵が義によって支配し、キリストに属する者に復活に至る生命を与えるのである。

 

 わたしは生まれながらの人間としては本性的に神に背き、罪の力の支配下にあつた。すなわち、死に至る罪の奴隷であつた。ところが、キリストの福音を聞いて信じ、復活されたキリストにこの身を投げ入れることにより(パブテスマはこのことを告白する行為である)、キリストに合わせられた者になり、アダムに属する古いわたしはキリストの死に合わせられて死んだ(六章)。このようにキリストに合わせられている姿を、「キリストにある」という。「キリストにある」人間には、古い人間には全然なかつた全く新しい光景が見えてくる。古い人間の現実とは全く断絶した形で、「しかるに今や」と言って語らざるをえないような光景である。

 キリストなき本来のわたしは、死に至る罪の奴隷であつた。「しかるに今や」、キリストにあって罪の支配から解放されて神に仕える者とされ、神の賜物である永遠の生命を受けている(六・二二)。

 わたしが生まれながらの人間として本性のままに生きていた時は、神の戒めは外からわたしを拘束し、罪の力の支配下にあるわたしの内面に、かえって神に対する反抗を生み出していった。「しかるに今や」キリストの死に合わせられて死んだので、わたしを拘束していた律法から解放され、神の霊によって復活のキリストに結び合わせられ生きることができるようになった(七・六)。それは、夫が死亡した妻は、婚姻の法律から解放されて、他の男に嫁ぐことができるようになるのと同じである。

 人間の本性はいつも同じである。欲している善はこれを行なう力なく、欲していない悪は、これを行なっている。内なる人としては神の律法を喜んでいても、肢体に存在する罪の法則に捕らえられている。キリストにあって神の光に照らしだされる時、ますます死の体の中に囚われている人間のみじめな現実が明らかになる。そのような現実の中に突如、「今やキリストにある者は罪に定められることはない」という宣言が響きわたる(八・一)。キリストにある人間は、その本性は変わらないままであっても、恩恵により賜る聖霊によって、罪と死の法則の支配から解放され、神の御霊によって生きるようにされてているからである(八章)。

 このように、「キリストにあって」舞台は一転し、全く新しい時代が始まった。それが「しかるに今や」の一句で告知されているのである。

(アレーテイア 13号 1987年)



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