90 生命の言葉


「主よ、わたしたちは誰のところに行きましよう。永遠の生命の言葉もっているのはあなたです」。
       (ヨハネ福音書 六章六八節) 


 偉大な人間とは誰であろうか。巨万の富を所有してそれを自由にできる者であろうか。該博な知識と高度な技術を持っていてそれを自由に駆使できる者であろうか。あるいは強大な権力を持っていて多くの人を支配できる者であろうか。世界はそういう人を偉大な人間として賛美する。しかし富とか知識とか権力そのものは人間を偉大にしない。むしろそれを持つ者を堕落させ、非人間的にすることが多い。

 人間として偉大なのは、隣人の痛みを理解して、苦しむ人を助ける能力が大きい者である。シユヴァイツァーやマザーテレサはいかなる大帝国の支配者よりも偉大である。富や知識や権力も、苦しむ隣人を助けるために用いられる限り、それを持つ者を偉大にする。

 窮乏の中にある者に必要な物を与え、病気に苦しむ者を介護し治癒を助けることは偉大な事業である。しかし人間の苦悩は貧苦や病苦よりも深い。乏しさやからだの痛みには耐えることができても、心の痛みや魂の不安に人は耐えることができない。そして心や魂に働きかけるのは言葉であるから、もし一言でそれを癒す力を持つ人物がいるならば、その人こそ真に偉大な人間である。

 イエスはそのような力のある言葉を持つ方であつた。イエスの言葉は病気を癒し、悪霊を追い出し、嵐を静める力があつた。何よりも魂を不安と苦悩から喜びに、絶望から希望に変える力があつた。イエスの言葉を受けた者は死の領域から生命の領域に移された。いったいイエスの他に誰がこのような力ある言葉を持っているのか。

 それに比べると、われわれの言葉はどうしてこんなにも空虚なものになってしまったのだろうか。われわれの世界は言葉に溢れている。しかし目の前で苦しむ人を助ける言葉、その魂を死の淵から救い上げる言葉を持っている者はいない。聖霊の愛によって、復活のキリストを語る言葉だけがこのような力を持つであろう。わたしには金銀も知識も権力もない。ただこのような質の言葉を持ちたく願う。

(アレーテイア 18号 1988年)



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