再臨信仰と黙示録




 


 起こつてはならぬことが起こつた。湾岸で対峙していた百万を超える軍勢は、一月十七日ついに戦端の火ぶたを切った。最後の最後まで平和的解決に期待をつないできた世界の民の願いは見事に裏切られた。野望と利益、大義と正義が真っ正面にぶっつかり、火の海の中で力づくの決着をつけるほかに道がないところまで突き進んでしまった。軍事力で決着をつけようとする限り、化学兵器や生物兵器、さらに核兵器まで使われないという保証はない。事態はもはや一地域の紛争ではなく、世界大戦の様相を帯びてきている。現に生命の源である海洋は人類が今まで経験したことのない規模で汚染され、今後の成り行き次第では地球規模の荒廃をもたらす深刻な環境汚染が心配されるところにきている。もっとも懸念されるのは、今回の戦争を神の名による宗教戦争に転化しようとする動きがあることである。そうなれば歯止めのない破壊を防ぐことはきわめて難しくなる。われわれとしては当事者が高度技術時代の戦争による破壊の深刻さに目覚めて一日も早く停戦し、武力による侵犯に対して武力で対決するのではなく、武力以外の方法による解決を国連を通して忍耐づよく続けることを求める他はない。

 さらに、湾岸戦争と平行してソ連では独立自由を求めるバルト三国に対する武力干渉が行なわれ、ベレストロイカの行く手を暗雲が覆うようになった。核武装した超大国が睨み合う時代から協調する時代に移り、イデオロギーに硬化した権力によって人権が無残に抑圧された体制が清算され、やっと明るい将来が開けるのではないかという気運が出てきた矢先に、武力で押えつけるほか崩壊を防ぐ方法がないほどの動乱である。世界の失望と落胆は深刻である。

 まさに「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる」という動乱の時代である。聖書に親しんでいる信仰深い人々にとって、これはもう黙示録的な状況に見える。黙示録が世の終りに起こるとしていることが、いま現に目の前で起こつているのではなかろうか。世界の終局が目前に追っているのではなかろうか。「戦争の騒ぎや戦争の噂を聞く」どころではない。テレビを通して、いま目の前で戦車が街路を走り、空爆が行なわれ、ミサイルが飛びかい、海は真っ黒になり、油が燃える煙が天に立ち上っている。日頃聖書に無縁の人々までが、然示録を開き、ノストラダムスの予言などを話題にする。このような状況において、われわれの信仰はいかなる未来を望み見ているのか。その希望はどのような根拠に基づいているのか。われわれの信仰は黙示録をどのように受け止めればよいのか。このような時にこそ、明確に語らなければならないと思われる。

 

 われわれの信仰は終末的である。その内容を具体的に言えば、われわれはキリストの再臨を信じ待ち望んでいる。われわれの罪のために十字架の上に死なれたキリストは、三日目に復活して天に上げられ、やがて栄光の中に再び来られると、われわれは新約聖書の証人たちと共に信じている。栄光のキリストが来られることは「パルーシア(来臨)」と呼ばれ、初代の信徒たちは自分たちの時代にそれが起こると熱烈に待ち望んでいた。使徒パウロもそのように信じていたことが彼の手紙から知られる。

 ところが、使徒たちをはじめ初代教団の指導的な人々はユダヤ人であったから、このキリスト来臨の希望が語られる時、当時のユダヤ教に広く受け入れられていた黙示録の用語が用いられた。イエスご自身も、ユダヤ教黙示録に出てくる「人の子」という重要な称号を用いておられる。黙示録ないし黙示信仰についてここで詳しく語ることはできないが、神の御心の中に隠されている将来の出来事や天界の消息の秘密(ミユステーリオン)が、天使などを通して選ばれた人物(エノクやダニエルなど偽名の人物)に啓示され、書きとどめられたとされる文書である。これらの黙示文書は「二つのアイオーン(世)」とか「義人と罪人」という激しい二元論を特色としている。現在の「この世」は神に敵対する罪人(異教徒)たちの支配下にあつて、敬虔な義人たちは苦しめられている。しかし宇宙的な破局を経て、神が直接支配される世が間もなく到来する。その「来るべき世」において義人たちは救われ、栄光を受けて輝く。

 初代教団においてキリスト来臨の希望は、このようなユダヤ教黙示録の図式と用語をもって語られたことが、新約聖書のいたるところに見受けられる。その典型的な文書がヨハネ黙示録である。その基本的な内容は復活されたキリストとの出会いの体験であり、「然り、わたしはすぐに来る」というキリスト再臨の告知であって、きわめて福音的なものである。しかしそれを語る枠組みと用語はユダヤ教黙示録そのものである。その他、福音書にも「小黙示録」と呼ばれる部分(マルコ福音書一三章と並行箇所)があって、同じ傾向を示している。

 

 このようにキリスト来臨の信仰が黙示録の枠組みと用語で表現されるようになった結果、来臨信仰の福音的内容が歪みを受ける危険が生じた。その危険を克服しようとする努力がすでにパウロの手紙や福音書に見られる。その危険の第一は、この世の個々の出来事を黙示録の象徴的な予言に当てはめて、終りの時を計算したり、それが近いことの根拠にしようとする傾向である。地震や飢饉などの天災、動乱や戦争というような社会的災害が起こるとすぐに、それは黙示録のこれこれの予言の通りに起こつているのだから、終りはこれこれの日に来ると言い出す人がある。このような受け取り方に対して、マルコ福音書の「小黙示録」自体がこう警告している。

「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ終りではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。………最後まで耐え忍ぶ者は救われる」。

(マルコ福音書一三章七〜一三節を読んでいただきたい)

 どのように破局的な戦争や天災が起ころうとも、「まだ終りではない」。だいたい歴史上の出来事を終末到来の根拠にすること自体が間違っているのである。初代教団の時代から今日に至るまで、どれほど多くの天災や戦争が終りの前兆とされてきたことか。けれども毎回終りの日は到来しなかった。たしかに歴史の苦難は新しい人間が誕生するための「産みの苦しみ」である。それはすでに始まっている。しかし終りの時は誰も知らない。いかなる歴史的事件もその日を確定しない。

 このような動乱の時こそ、キリストに属する者は慌てることなく、「自分のことに気をつけて」いなければならない。すなわち、自分がいかなる場に立つ者であるかを自覚して、それにふさわしく生きるようにしなければならない。このような状況でキリスト者の第一の使命は福音の証であることが、ここで語られている。世界の諸国民に福音を証すること、すなわち自分の中にいますキリストを告白することである。動乱の中では、どちらの陣営にいても、このような態度はこの世の支配者からは憎まれ迫害されるであろう。しかしこの世の力の前でキリストを告白することは、その時上より賜る聖霊の力によってなされるのであつて、思い患うことはない。聖霊の力に委ね、忍耐して最後まで告白を全うすることが、このような状況にあるキリスト者に求められているのである。

 

 歴史的な出来事を終末到来の根拠にすることが間違っているのであれば、われわれのキリスト再臨信仰はどのような根拠に基づいているのであろうか。結論を先に言うと、われわれの再臨信仰はわれわれの内なる御霊のキリストの現実を根拠としているのである。

 福音はわれわれの罪のために死に、三日目に復活されたキリストを宣べ伝え、信じる者に聖霊の賜物を約束している。この福音を信じて、全存在をキリストに委ねる者は、聖霊を受けて御霊のキリストとの交わりに生きるようになる。しかし、そのキリストは見えない現実であり、われわれの目からもこの世からも隠されている。われわれは見えないキリストを信じて、その御力を体験しっつ生きている。そして、聖霊の御力により、見えないキリストとの交わりが現実的になればなるほど、隠されたキリストがやがてその栄光を現してくださる時が来ることが、われわれの内面において確かになってくる。キリストの再臨とは、この隠された内なるキリストが顕現してくださることである。たしかに、キリストの再臨ははわたし一個人の体験ではなく、世界に対する神の支配の顕現の出来事である。しかしわたしにとって、再臨の確かさはわたしの内なるキリストの確かさに基づいている。

 キリストの再臨は新約聖書においてしばしば「キリストの顕現(アポカリユプシス)」とも呼ばれている。「アポカリユプシス」という語は覆いを取り除いて隠されているものを顕にするという意味であるから、この用語はここに述べたような再臨信仰の本質をよく表現している。ところで、「黙示録」と訳されている語も実は同じ「アポカリユプシス」なのである。隠されていた秘密が顕わにされることである。ヨハネ黙示録の表題は「イエス・キリストのアポカリユプシス」(一・一)である。これはキリストによって与えられた将来の出来事の啓示であると同時に、隠されているキリストを顕にする啓示という意味もある。ヨハネ黙示録の本来の内容は、実に世界の出来事の背後に隠されている栄光のキリストの顕現である。

 この「隠されているものの顕現」は、福音の現実の本質的な姿である。「神の国」の宣教において、イエスは黙示録の枠組みを前提にし、黙示録の用語を用いておられるところもあるが、その宣教の本質は神の国がすでに到来しているという面にある。ただそれは人々の日には隠された姿でイエスの中に到来しているのである。だからイエスは、からし種の譬で代表される多くの譬で、「隠されているもので現われないものはない」という神の国の奥義を繰り返し語つておられる。イエスにおいても終末はすでに自分の内にある隠された聖霊の現実の顕現として待ち望まれている。イエスは終末の到来を歴史上の出来事と関連させることを拒否して、「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである」と言っておられる(マルコ一三・二二)。

 パウロの福音宣教においても同じである。パウロも黙示録的な用語を用いているが、彼の福音の核心は聖霊による復活されたキリストとの交わりにある。そして、今はわれわれの朽ちるべき体の中に生きておられる見えざるキリストは、やがて必ず栄光の中に顕現してくださる。その時にはわれわれキリストに属する者はこの死すべき体ではなく、栄光の霊の体を与えられて復活するという確信が、パウロの終末希望の内容である。彼の終りの日にかかわる希望は死者の復活という一点に集中している。それは今は隠されている御霊の命の顕現である。パウロはその希望の根拠として歴史上の出来事を指し示すことはない。

 このように再臨信仰は内なる御霊のキリストの現実に基づいている。ところが、キリストの再臨を黙示録の図式の枠に閉じこめてしまって、外の世界の事件を再臨に関連させるようになると、目は外にばかり向いて、内なる霊の現実が空疎になる危険がある(この黙示録的図式の用い方の違いによって実に様々な教派が生じ自称メシヤが現われた)。そのような信仰では、外の世界の動乱に慌てふためいて、自分自身の本来の場を見失ってしまうことになる。このような時こそ、われわれの終末信仰の質をしっかりと自覚して、動揺しないように気をつけていなければならない。

(アレーテイア 51号 1991年2月)



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