復活の福音 2

死者の復活がなければ

コリントの信徒への手紙I 第15章12〜19節



 12 ところで、死者の中から復活した方としてキリストが宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。 13 者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。 14 そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もむなしいのです。 15 更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。 16 死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。 17 そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。 18 そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。 19 もしキリストにかけているわたしたちの望みがこの世の生活に限られるのであれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。



 救済史の論理

「ところで、死者の中から復活した方としてキリストが宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか」。

(一二節私訳)

 このように、すべての使徒がキリストを死者の中から復活した方として宣べ伝えており、コリントの信徒たちもその福音を受け入れ、復活したキリストに結ばれて生きているわけです。復活しないキリストはキリストでなく、キリストを復活した方として宣べ伝えない福音は福音ではありません。

 ところが、コリントの集会の中に「死者の復活などない」と言う者が現れてきました。彼らがどういう動機から「死者の復活」を否定するようになったのか、正確には分かりません。最初のところで簡単に触れたように、自分たちの霊的体験を復活と解釈して「復活はもう済んだ」と主張して、終末の神の業としての「死者の復活」を否定したのか、あるいは肉体を霊魂の牢獄と見るギリシャ的な思想から、霊魂さえ永遠の祝福の中に存続すればよいのであって、身体をそなえた永遠の生命、すなわち復活というようなことは認めなくてもよいとしたのか、あるいはもっと単純に、地中で朽ち果てた身体が復活するというようなことは考えられないという常識的な判断からか、その動機は確定することはできません。たしかに、人間としては「死者の復活」というようなことは信じられないのが普通であって、信じるほうが特別のことです。その特別のことを福音はキリストの復活という形で世界に告知しているのです。

 問題は、死者の復活を否定している人たちが、その否定によってキリストの復活を否定しているのであること、したがって福音そのものを否定しているのだということに気づいていないことです。彼らは死者の復活を否定してもキリスト者として立派に信仰を保っていけるのだと確信していました。それが根本的な間違いであることを、パウロはここで力をこめて語るのです。

「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです」。

(一三節)

 だから、死者の復活を否定することはキリストの復活を否定することだ、とパウロは論じているのです。ここでパウロが用いている論理、「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかった」という論理は、ふつうこう理解されています。人間が一度死ねば復活するということはありえないのであるから、死んだキリストが復活するということもありえないことである、と。一般的な法則から個々の具体的な場合を結論する論法です。現代の復活否定、ひいては福音否定はこの論理に基づいています。現代の科学の常識からして死んだ人間が復活するというようなことはありえないことであるから、キリストも復活しなかったはずである。したがって、キリストの復活を主張するキリスト教は信じられない。せいぜい、復活は魂の変革とか再生を指す象徴として理解することができるだけである、ということになります。

 しかし、パウロがここで用いている論理はこのようなものではありません。もしこのような論理を用いているのであれば、いくらキリストの復活を確認しても(一〜一一節)、それを死者の復活の根拠とすることはできないはずです。キリストは神の子として特別扱いで復活したのであって、キリストが復活したからといって一般の人間が復活するという保証とか根拠にはなりません。パウロがここで用いている「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです」という論理は、現代人にはすこし分かりにくいので、説明が必要だと思われます。

 これは聖書(旧約聖書)の信仰を前提にした論理なのです。旧約聖書の中ではまだ「死者の復活」は明確には述べられていませんが、バビロン捕囚後の展開の中でこの信仰が形成されるようになり、とくにパリサイ派において、神はご自身の民を死者の中から復活させるという形で最終的な救済の業を成し遂げられるという信仰が確立します。これが「死者の復活」の信仰です。モーセ五書が確定した後の発展をいっさい認めないサドカイ派の人々は、五書に書かれていないという理由で「死者の復活」の信仰を否定したのですが、パリサイ派が主流になるにいたって、彼らの「死者の復活」の信仰がユダヤ教の正統信仰、すなわち聖書の信仰内容として確立されるようになっておりました。イエスご自身もこの「死者の復活」の信仰を前提にしておられ、それがモーセの書に書かれている旧約聖書自身の信仰であるとされています(マルコ一二・一八〜二七)。とくにパウロは熱烈なパリサイ派ユダヤ教徒として、「死者の復活」が旧約聖書の信仰内容であることを当然のこととしているわけです。

 ですから、福音が「聖書に書いてあるとおり」と言って、キリストの復活を旧約聖書の成就であると宣べ伝えるとき、それはまさにこの「死者の復活」という聖書の終末的な約束が、キリストが復活されたことによって成就したと宣言しているのです。たしかに、まだ神の民の全員が復活したのではありません。キリストだけが復活されたのです。しかし、キリストとは救済者の称号です。神の民を代表する頭です。そのキリストが復活されたことによって、神の民を死者の中から復活させることによって完成するという神の約束が、もはや言葉の上のことではなく、現実の出来事となって世界に告げ知らされたのです。

 もし神が死者の復活という形で救済の業を完成されることがないのであれば、救済者であるキリストを復活させるということも必要ではないのです。別の形で人間を救済する道をとられるはずです。たとえば、仏教のように高度な知恵を与えるという形で人間の苦悩を救う道もあるわけです。パウロが「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです」というとき、それは「神が死者の復活という形で人間を救済されるのでないならば、救済者であるキリストが復活されることもなかったはずだ」という意味です。このように、ここでパウロが用いている論理は、科学的な一般法則によって個々の場合を判断する論理ではなく、救済史の論理なのです。

 救済史を内容とする福音においては、死者の復活とキリストの復活は一体であって、切り離すことはできません。一方を否定することは他方をも否定することになるのです。福音がキリストの復活を告知するとき、キリストにおいて終末の死者の復活が始まったことを宣言しているのです。ですから、死者の復活を否定することはキリストの復活をも否定することになるわけです。

 死者の復活を否定すると

「そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もむなしいのです」。

(一四節私訳)

 死者の復活を否定することはキリストの復活を否定することであるとした上で、使徒パウロは死者の復活を否定することの重大な結果を語ります(一四〜一九節)。

 死者の復活がなければキリストも復活しなかったはずですし、キリストが復活しなかったのであれば、使徒たちが宣べ伝えている福音(ここの「宣教」の原語は《ケリュグマ》)は内容のない空虚なものになり、それを信じている者の信仰も何の実質もない空虚なものになってしまいます。キリストが復活しておられるからこそ、生けるキリストの働きにより信じる者は約束の聖霊を受け、その聖霊により信仰は生けるキリストとの交わりという実質を持つことができるのです。それがなければ、信仰といってもうわべの言葉だけのものになってしまいます。

 ここでパウロは繰り返し「むなしい」《ケノス》という語を用いています。一七節の「むなしい」《マタイオス》は原語は異なりますがほぼ同じ意味です。これは中身がなくて空っぽの状態を意味します。新共同訳の「無駄」というのは、効果がないとか努力したが徒労であったということでしょうが、これはすこし意味が違うようです。死者の復活を否定することはキリストの復活を否定することであり、使徒たちの「ケリュグマ」(三〜五節の福音)そのものを内容のない空虚なものとすることになります。中身のない空っぽの使信が人を救うことができるはずはなく、そのような使信を信じている者の信仰も空虚なものにすぎません。

「更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです」。

(一五節)

 このように、死者の復活を否定すれば、使徒の宣教活動もそれを聴いて信じた信徒の信仰も中身のない空虚なものになるだけではなく、キリスト復活の福音を宣べ伝える者は「神の偽証人」となります。「なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです」。この理由づけは明快で説明するまでもないでしょう。このように、死者の復活を否定することは、使徒の証言を神に反する偽証であると決めつけることになるのです。新約聖書とは使徒の証言の記録ですから、死者の復活を否定することは新約聖書を虚偽の書とすることになるのです。死者の復活を否定することは、福音そのものを否定することであり、使徒の証言を偽証とし、新約聖書という自分が立っている土台そのものを覆すことなのです。

 なお罪の中に

「死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです」。

(一六節)

 死者の復活を否定することが、このように福音宣教を空しくするだけでなく偽りとする重大な結果を引き起こす(一四〜一五節)のは、死者の復活とキリストの復活が切り離すことのできない一体であるからです。ここでパウロはさきに述べた(一三節)死者の復活とキリストの復活との救済史的一体関係をもう一度繰り返して、今度は死者の復活を否定することの重大な結果のもう一つの面を明らかにします。すなわち、それはわたしたちの信仰そのものを空しいものにするのです(一七〜一九節)。

「そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります」。

(一七節)

 死者の復活がなければキリストの復活もないのですから、死者の復活を否定すれば、わたしたちの信仰は復活しなかったキリスト、すなわち死んでしまって、もはや働くことのない、想起の中の人物にすぎないキリストへの信仰になります。そのような信仰は、聖霊により霊なる主キリストとの交わりに生きるという次元の信仰から見るならば、中身のない「むなしい」信仰にすぎません。福音的な信仰の次元では、信仰と呼ぶこともできないものです。

 だいたいパウロが「信仰」という時、それは過去の人物に対する崇拝やその教えに従う生活を指しているのではありません。パウロは、「信仰によって救われる」ことを福音の根本テーゼとしましたが、そのさいパウロが言う、人がそれによって義とされ救われる「イエス・キリストの信仰」(ロマ三・二二など)とは、けっして過去の人物に対する信仰ではなく、現在生きておられる霊なるキリストの働きによって成立し、その方との交わりに生きることです。ですから、キリストが復活しておられないのであれば、このような「信仰」は成り立たないわけです。信仰といっても、中身のない空しいものになってしまうのです。

 そのような信仰では、人間がキリストと共に死んで罪の支配から解放されるということが現実に起こることはありません。いくら立派な過去の人物に対してであれ、その教えに従おうという次元での信仰では、人は罪の支配力から解放されることはなく、罪の支配の下にある現実は変わりません。

 だいたい、イエスの十字架上の死が神による罪のあがないの業であるといっても、それはイエスが復活してキリストとして立てられたからこそ、罪人を義とする力を有するのです。「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです」(ロマ四・二五)。イエスは復活によって罪人を義とする救済者キリストとなられたのです。ですから、復活していないイエスは罪人の救済者キリストではありません。イエスの十字架上の死はわたしたちと関わりのない出来事です。そのような復活していないキリストを信じる信仰では、人は罪の支配から解放されることはなく、罪の力の支配の下に留まり、「罪の中にいる」ことになるのです。

 眠りについた人々は

「そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです」。

(一八節)

 「そうだとすると」、すなわち、一部の人が言っているように、死者の復活がないのであれば、キリストを信じた者も死んでしまえば、それで終りであって、それ以上のことは何も起こらないわけです。キリストを信じたことで、内面にどのような変化が起こり、人生がどのように変わったとしても、それだけのことで、死ねば一切は終り、信じなかった他の人たちと同じく、その存在は滅びに帰すことになります。

 ここで死ぬことが「眠りにつく」と表現されていることが注目されます。初代の信徒たちが死ぬことを「眠りにつく」と表現していたことは、本章におけるパウロの用法(六、一八、二〇、五一節)だけでなく、新約聖書の他の箇所にも見られます(テサロニケI四・一三〜一五、マタイ二七・五二、使徒七・六〇、一三・三六など)。この表現は死者の復活を前提とした表現です。眠っている者には意識は無いが必ず目覚める時がくるように、キリストに結ばれて死んだ者は、肉体は朽ち果ててしばらくの間意識もなく過ごすが、神が定めた終りの時、死者の復活にあずかり、新しい体を与えられた人格として神と共に生きるようになるのです。このような信仰を前提として死が眠りと表現されるのです。ですから、死者の復活がなければ、死者は「眠りについた」のではなく、「滅んでしまった」ことになります。

 死を眠りと見る見方は、実はイエスご自身から来ています。イエスは会堂長ヤイロの娘が死んだとき、嘆き悲しむ人々に向かって、「子供は死んだのではない。眠っているのだ」と言われました(マルコ五・三九)。そして事実、イエスは「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という一言で、眠っている子を起こすようにその少女を生き返らせます。この驚くべき出来事を目撃した弟子たちを通して、彼らに強烈な印象を刻み込んだこの「死んだのではない。眠っているのだ」という言葉が教団に伝えられました。福音によって死者の復活の信仰に生きた初代の信徒たちは、自分たちの死もこのイエスの言葉にならって「眠りにつく」と表現したわけです。

 たしかに死を眠りと表現することは、イエスよりも以前から行われていました。ギリシャ文学や他の民族の宗教文書にもありますし、ユダヤ教においても黙示文学になりますと終りの時の死者の復活が信じられていましたから、死は復活のときの目覚めまでの一時の眠りであると表現することも(僅かながら)ありました。たとえば、ダニエル書(一二・二)には、「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる」とあります。またエズラ記(ラテン語)(七・三二)には、「大地は地中に眠る人々を地上に返し、塵はその中に黙して住んでいる人々を戻し、陰府の部屋はそこに預けられていた魂を外に出す」とあります。パリサイ派もそのような表現を用いていたようです。

 しかしイエスの場合はこのような場合と違います。イエスの場合は、漠然と将来の存在や復活を予感して死を眠りと表現するのではなく、やがてイエスを死者の中から復活させる方の霊(ロマ八・一一)によって現実に生きておられるのですから、イエスの目には死という冷厳な事実も復活の目覚めまでの眠りであることがはっきりと見えているのです。このことを周囲の人々にも見えるようにするために、イエスは死んだ少女を「起きなさい」の一言で生き返らせるという「しるし」を行われるのです。少女が生き返ったことはまだ「死者の復活」ではありません。それは死が眠りであることを指し示す「しるし」なのです。

 イエスが死んだ者を生き返らせることがこのような意味の「しるし」であることを、ヨハネ福音書は十一章で劇的な構成をもって描いています。イエスは死んで四日もたったラザロを生き返らせますが、その出来事の前にその意味をこう語っておられます。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」(一一節)。この時弟子たちはイエスの言葉が理解できませんでした(一二〜一三節)。けれども、復活されたイエスに出会い、自分たちも「イエスを死者の中から復活させた方の霊」によって生きるようになったとき、イエスが死んだラザロを「眠っている」と語られたことを理解し、自分たちも同じように仲間の死を「眠りについた」と語ることができたのです。

 このように、死者の復活がなければ「眠りにつく」ということも中身がなくなるのですから、「キリストにあって眠りについた者たち」といっても、実は滅んでしまったことになるわけです。

 最も惨めな者

「もしキリストにかけているわたしたちの望みがこの世の生活に限られるのであれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です」。

(一九節私訳)

 たしかにキリスト信仰は人に希望を与えます。キリストに結ばれて生きることは希望に生きることです。信仰によって救われるのは、わたしたちが希望に生きるようになるためです(ロマ書八・二四aはこの意味に理解すべきであると思います)。それは聖書的な信仰の基本的な性格です。聖書の神はいつも、やがて成し遂げようとしておられることをあらかじめ言葉で語ることによって、信じる者たちに希望を与えられるのです。

 ところが、もしわたしたちがキリストに結ばれて生きるさいに(原文は「キリストにあって」)与えられている希望が、この世の生活、地上の人生の範囲に限られるのであればどうなるでしょうか。たしかに、キリストを信じ、キリストに結ばれて生きることによって、わたしたちはさまざまな人生の苦悩から救われる希望があります。今は苦しみの中にあっても、キリストにあって賜る神の恵みと御力によって、その苦しみから救われる希望があります。病気や事業の失敗、人間関係のもつれなど、さまざまな人生の苦難と、そこからくる内面の不安や苦悩、そのような苦しみから救われるでしょう。けれども、どのように奇跡的な神の力を体験しても、わたしたちの救いの希望がこのような地上の人生の範囲内のことに限られ、死者の中から復活するというような次元の希望がないとすれば、どうなるでしょうか。

 そうであれば、わたしたちキリスト信仰に生きる者は「すべての人の中で最も惨めな者」だと、パウロは言っています。これはパウロの人生の実感から出た言葉であろうと思います。キリスト信仰とはキリストに合わせられて生きることですが、それはキリストの苦難に合わせられることでもあります。十字架につけられたキリストに合わせられて生きることです。パウロの使徒としての人生は苦難に満ちたものでした。パウロはこう言っています。

「ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました」。

(コリントII一一・二三〜二七)

 このような実際上の苦難だけでなく、社会的な地位や名誉、家族をもつ可能性、人間として望ましいすべてのものを犠牲にしたのです。パウロは「キリストのゆえにすべてを失った」と言っています(フィリピ三・八)。もし死者の復活はないのであれば、したがって「何とかして死者の中からの復活に達したい」という希望はありえないのであれば、「キリストの苦しみにあずかって、その死の姿に合わせられ」というパウロの苦難に満ちた人生は何の意味もないものになります(フィリピ三・一〇〜一一)。たしかにこれでは「すべての人の中で最も惨めな者」です。

 初代の信徒にとって、キリストを告白することは何らかの形で苦難を引き受けることを意味したので、このパウロの実感から出た一九節の言葉は身にしみたと思います。しかし現代のキリスト教社会では、熱心なキリスト信仰は苦難ではなく名誉と成功をもたらすものですから、このパウロの言葉は実感が伴いません。その分、死者の復活の信仰の重要性が実感されなくなっていると言えます。キリスト信仰はこの世の人生で十分報われますから、死者の復活を信じなくても、自分を「すべての人の中で最も惨めな者」と感じることはありません。

 しかし、先に見たように(一六〜一七節)、死者が復活しないのならキリストも復活しなかったはずですし、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの信仰はむなしく、わたしたちは今もなお罪の中にあることになります。そうすると、わたしたちは実際は罪のゆえに滅びるべき者でありながら、義とされたとか、救われたと称して、虚偽の中に生きていることになります。わたしたちの信仰というのは、まったく実体のない虚偽にすぎません。わたしたちは自分を欺いて生きていることになります。これは「惨めな」ことではないでしょうか。

 このように、死者の復活を否定することは福音(ケリュグマ)も信仰も空しいものにするです。キリストの福音は死者を復活させる神を宣べ伝えるのです。死者の復活を否定するのであれば、キリスト教を捨てたほうがよいです。この世での成功や繁栄を約束する宗教は他にも多くあります。内面の悟りや知恵、あるいは高度の世界観や思想を与える宗教も他にあります。なにもキリスト教に改宗することはありません。しかし、福音がわたしを死者の中から復活させるという究極の神の約束を語る言葉であるゆえに、わたしはこのキリストの福音にしがみつくのです。これ以外に死からわたしを救う力はありません。


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