復活の福音 7

終わりのアダム

コリントの信徒への手紙I 第15章44b〜49節



 44b 自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。 45 「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。 46 最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。 47 最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。 48 土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。 49 わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。



 命を与える霊

「自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです」。

(四四節b)

 前段(三五節〜四四節a)で自然界との類比から、使徒パウロは死者の復活を「自然の命の体で蒔かれて、霊の体に復活する」ことと語りました。そして、この「霊の体に復活する」という将来の出来事を、いま現に自然の命の体で生きているのと同じ確かさで断言します。

 「自然の命の体があるのだから、霊の体もある」というのは、実に大胆な宣言です。わたしたちがいま現にこの体をもって生きていることは、誰も否定したり疑ったりすることのできない事実です。その事実と同じ確かさで「霊の体がある」というのです。自然の命の体がある以上、霊の体もあるというのです。この確かさはどこから来るのでしょうか。どのような根拠があるのでしょうか。

 パウロもわたしたちも「霊の体」を見たことも体験したこともありません。それにもかかわらず、「霊の体がある」と断言できる根拠は、命という命はすべてそれを表現する体がある、体のない命などありえないという確信です。命と体とは一体であるという理解です。その確信は、イスラエルの長い歴史の中で形成され確立された創造者への信仰から来ます。イスラエルは、天地の万物は神によって創造されて存在すると信じるに至っておりました。その信仰によって、植物や動物や人間、さらに天体まで、すべての生命はそれにふさわしい体を創造者によって与えられて、現にある姿で存在していると理解していました。今わたしたち人間がこの体をもって生きているのも、創造者なる神が人間をそのように造られたからです。

 その神が創造の業を完成するために、終わりの時に臨んでキリストを遣わされたのです。神は終わりの時にキリストによって万物を完成しようとされているのです。それは初めの創造に対応する終わりの創造です。その終わりの創造において、神はキリストに属する者が生きる霊の命にふさわしい体を創造して与えられるはずです。神はキリストにおいて人間に新しい命を与えておられます。それは霊の命です。終末に属する命です。創造者なる神は、いまわたしたちが生きている自然の命にふさわしい体を与えてくださったように、新しい霊の命にはそれにふさわしい体を与えてくださるはずです。このような創造者に対する信仰が、「自然の命の体があるのだから、霊の体もある」と断言させるのです。

 パウロが「自然の命の体があるのだから、霊の体もある」と断定するとき、このような初めの創造と終わりの創造という、救済史の最も大きな枠組みを根拠としていることは、以下に続く数節ですぐに明かになります。

「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです」。

(四五節)

 最初の創造においても、最後の創造においても、神の創造のみ業の中心は人間です。そこで、最初の創造における人間と最後の創造における人間とが、それぞれを代表する存在、すなわちアダムとキリストによって対比されます。

 神は初めに天地の万物を創造し、最後に冠として人間をご自身の像に似せてお造りになったとされています(創世記一章)。その人間の創造について聖書はこう語っています。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(創世記二章七節)。この最後の句「人は生きる者になった」を、ここでパウロはギリシャ語訳聖書で引用しています。それは、ギリシャ語を用いるヘレニズム世界に福音を語るパウロにとって当然のことです。ところが、そのギリシャ語訳聖書はこの箇所を「人は命のある《プシュケー》となった」と訳しているので、この《プシュケー》という語が鍵となって、この節の《プニューマ》としてのキリストとの対比を成り立たせるのです。

 四四節前半の講解で触れたように、パウロはこの《プシュケー》という語を、人間が生まれながらに生きている生命、「自然の命」という意味で用いています。それに対して《プニューマ》(霊)は、本来人間には属さない神からの命、終末に属する命です。ですから、「人は《プシュケー》になった」という表現は、現在の人間、古いアイオーンに属する人間の現実を描くことに他なりません。わたしたち生まれながらの人間は、この《プシュケー》(自然の命)であり、その命に属する体《ソーマ・プシュキコン》をもって生きているのです。

 ここで、ギリシャ語訳聖書を引用するにあたって、パウロはテキストの「人」《アントローポス》に「最初の」という語を加えます。これは、すぐに続けてキリストを「最後の人」、「終末の人」と呼ぶのを準備するためです。さらに、パウロは「最初の人」にアダムという名を加えます。ヘブライ語原典での主語である《ハ・アーダーム》を最初の人の名として付け加えます。こうして、ギリシャ語聖書において「人」とだけ書かれている主語を、パウロが「最初の人アダム」と呼ぶのは、初めの創造における人間の創造を、終わりの時にキリストにおいて完成される創造と対比するためであること、言い換えれば、パウロは創世記の記事を初めの創造と終わりの創造という救済史の枠組みで解釈していることを示しています。

 この「最初の人アダム」に対して、「最後のアダム」と呼ばれるのはキリストです。キリストは、創世記のアダムが初めの創造において人そのものであったように、終わりの創造において人そのものであるとして、「アダム」と呼ばれるのです。《アーダーム》というヘブライ語は本来「人」を意味する語ですから、ここでキリストが「最後のアダム」と呼ばれるとき、それはキリストが終わりの時に出現する人そのものであることを指しているのです。それで、キリストは「最後の人」、「終わりの人」と呼んでもよいわけです(キリストが「人」と呼ばれることについては、二一節の講解を参照)。

 さて、「最初の人アダム」が「命のあるプシュケー」になったのに対して、「最後のアダム」であるキリストは「命を与える《プニューマ》(霊)」になったと言われます。アダムとキリストは、初めの創造と終わりの創造における人間そのものであるという点では共通していますが、その命の質は異なっています。アダムは土から造られたこの体に命の息を吹き入れられて「命のある」《プシュケー》になったのですが、キリストは彼に属する者たちに「命を与える」《プニューマ》になったのです。すなわち、アダムは外から命を吹き入れられて自分が生きているだけですが、キリストは外の者に命を与えるという質の命なのです。

 アダムは土から造られた体に命の息を吹き入れられた時に「命のある《プシュケー》になった」と言われていますが、キリストはいつ「命を与える《プニューマ》になった」のでしょうか。それは、キリストが神の大能の御力によって復活された時です。キリストは地上におられた時には、神の御力によって驚くべき業をなされましたが、信じる者の中に入ってきて、その人を生かすということはできませんでした。十字架の上に贖いの業を成し遂げた後、復活されて初めて、信じる者に聖霊を与え、聖霊によって内住する方となったのです。すなわち、霊なるキリストとなったのです。

 パウロがキリストという時、それはいつも霊なるキリストです。パウロは初めから復活されたキリストに出会い、そのキリストに捉えられて、そのキリストに結ばれて生きました。パウロはこのキリストを「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」と告白し、その事態を「キリストにあって」、あるいは「キリストに結ばれて」と表現しています。パウロにとってキリストとは外にいる人物ではなく、自分の内に生きる霊なるキリストです。このキリスト体験とキリスト理解から、パウロはキリストを「(命を与える)霊となった」と言わざるをえなかったのです。

 復活者キリストは「終わりのアダム」です。すなわち、終わりの時に現れる人間そのものです。ご自身が終末の人間であるだけでなく、ご自分に結ばれる者たちに入ってきて、命を与える霊そのものなのです。そうすることで、終わりの時に現れるすべての人間の根源、頭なのです。

 「命を与える」と訳されている動詞《ゾーオポイエイン》は、二二節の講解で述べたように、「復活させる」という動詞と同じ意味で用いられる動詞です。新約聖書においては、命を与えるとは復活させることなのです。「命を与える」というのは、命のないところ、死に定められたところに命を与えることですから、これは復活させることなのです。ですから、キリストが「命を与える霊」であるというのは、キリストが「復活させる霊」であるというのと同じです。「キリストにあって」生きるというのは、復活させる霊によって生きることです。死に定められた存在の中で、復活の命を生きることなのです。

 《プシュケー》、すなわち生まれながらの自然の命は死に定められています。その命は有限の時に限られています。時が来れば、その命は終わり、その命に属する体は分解します。土から造られた体は土に帰ります。それに対して、《プニューマ》、すなわち神に属する命、終末の命は、時を超えて生きます。その命に属する体である「霊の体」《ソーマ・プニュマティコン》は朽ちることがありません。わたしたちがいま現に生きている自然の命の中に、どのように霊の命が宿り生きるのか、これはわたしたちの理解を超えています。しかし、キリストに結ばれてその十字架の死に合わせられるとき、復活のキリストの命が内に生き始めます。そして、この自然の命が終わり、その体が朽ち果てた後、神は霊の命にふさわしい「霊の体」を与えてくださることを確かな希望として生きるようになります。

 天に属する人

「最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです」。

(四六節)

 自然の命の体《ソーマ・プシュキコン》があるのと同じように霊の体《ソーマ・プニュマティコン》があることを、《プシュケー》である最初の人アダムと《プニューマ》となった最後の人キリストによって根拠づけた後、パウロはその二つの体の順序について語ります。

 最初にあるのは霊の体ではなく自然の命の体であり、霊の体は最後に来るのであるという順序の強調は、当時の宗教思想に逆の順序を説くものがあったので、それを反駁して、復活の希望を確かなものにするためです。

 パウロが活躍したヘレニズム世界には紀元前二、三世紀から紀元四世紀頃にいたるまで、「グノーシス主義」と呼ばれる宗教思想が盛んになっていました。パウロがこの手紙を書いた一世紀半ばにはこの宗教は地中海世界にかなり広く流行し、コリントの集会もこのグノーシス主義の影響を受けて、福音の理解や実際の信仰生活に歪を生み出していた節がうかがわれます。「死者の復活などない」という主張も、グノーシス主義の影響を受けた一部の人々が唱えたと見られます。

 グノーシス主義の宗教思想は幅が広く、内容も複雑で、ここでその概略すら紹介することはできません。《グノーシス》というのは「知識」を意味するギリシャ語で、人間は自己の本質を理解する霊的知識を得ることによって救われるとする宗教思想です。このグノーシス主義の思想に、「原人」という特徴ある思想があります。現実の人間は無知と迷妄の暗闇に投げ込まれているが、このような現実の人間が存在する前に、完全な「人」そのものが存在したとし、現実の人間はその堕落した姿であるとするのです。その始源の完全な人を「原人」と呼び、この原人が何らかの形で地上に現れて、無知の暗闇の中にいる人々に呼びかけ、真実の知識を与え、人間を本来の姿に回復するというのです。ですから、「原人」は救済者であると同時に、救済される人間の本来の姿でもあるわけです。

 この原人思想は深くオリエント神話に根ざしています。この思想はグノーシス主義の宗教思想に影響を与えただけでなく、ユダヤ教にも大きな影響を及ぼし、新約時代前後のユダヤ教の黙示思想にも入って来ています。パウロとほぼ同時代のユダヤ人哲学者フィロンは、どの程度グノーシス思想や黙示思想から影響を受けたか知りませんが、創世記の人間の創造の記事を次のように解釈して、原人思想に似た考え方をしています。すなわち、創世記一章に記されている人間、神が御自分にかたどって造られた人間は天的な人間であり、創世記二章に記されている人間、土の塵から造られた人間は、現実の地的な人間であるとしました。そして、神に背いて罪に陥っている地的な人間が、最初からあった天的人間に回復されることが救いであるとされるのです。ここでは、最初に天に属する人があり、次に地に属する人が来るのです。この時代のラビたちも同じような議論をしていました。

 この順序をパウロは逆転します。パウロが力をこめてこの順序を否定するのは、もしこのように天に属する人が最初にあるのであれば、人間の救済においてキリストの復活が占める位置が無くなってしまうからです。地に属する人間が救われるのは、初めの創造による人間に戻るだけで、そこでは死者の復活は必要ありません。ところが、パウロにとって救いとは、復活されたキリストに結ばれることによって、復活にあずかることなのです。このキリストの復活は終末の出来事であって、神の初めの御業ではありません。

 神の最初の御業は、天地万物を創造し、その地に属する人間を創造することです。創世記一章と二章の全体が、現実の人間の創造を語っているのです。その人間が創造者に背くことによって悲惨な状態に陥ったのです(創世記三章)。その人間を救済するために、神が時満ちて終わりの御業として成し遂げられた出来事が、キリストの十字架と復活なのです。ですから、復活によって与えられる「霊の体」は、現実の地に属する人間が生きている「自然の命の体」の前にあるのでなく、その後に来るのです。

 この順序の違いは聖書解釈の理論の問題ではなく、パウロが復活されたキリストに現実に出会った体験から出る違いです。復活されたキリストに出会うことなく、その命を知ることがなければ、創世記一章の人間を、二章以下の現実の人間が回復されるべき本来の人間の姿であるとする解釈も成り立ちます。しかし、復活されたキリストに出会い、このキリストに結ばれて生きるとき、キリストの復活にあずかることが人間の最終的な救済であること、すなわち、将来終わりの時に与えられる「霊の体」をもって生きることが人間の最終的な姿であることが確信できるので、霊の体をもつ「天に属する人」が最初にあるという解釈は成り立たなくなります。

「最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です」。

(四七節)

 こうして順序を確立した後、パウロは「第二の人」であるキリストが「天に属する者」であることを改めて示します。「最初の人」アダム、すなわち現実の人間が「土でできており、地に属する者」(直訳では「地からの者」)であることは、よく分かっています。聖書もそう語っていますし(創世記二章)、わたしたちの経験や理解もその通りに教えています。では、この「最初の人」であるアダムに対応する「第二の人」、「最後の人」であるキリストはどのような存在でしょうか。パウロはそのキリストを「天からの者」(直訳)、「天に属する者」と呼びます。

 「天に属する者」とは、土から造られた体をもつのではない、天界の存在です。天から来て、天に帰る、天界の存在です。復活のキリストはこのような「天からの者」、「天に属する者」です。キリストは一時わたしたちと同じく、土からできた体をとり、「地に属する者」となられましたが、その土からできた体を脱ぎ捨てた後、「霊の体」を着て天に上り、「天に属する者」であることを示されました。

 このような「天に属する者」としてのキリストの姿は、福音書に出てくる「人の子」の姿を思い起こさせます。「人の子」は終わりの時に天から現れて、神の支配を実現する超越的な存在です。「人の子」は人間世界から登場する人物ではなく、天の雲にのって現れる存在です。「地からの者」ではなく、「天からの者」です。このパレスチナのユダヤ人キリスト教世界において親しまれていた「人の子」という表現を、パウロは全然用いません。それは、パウロが語りかけるヘレニズム世界の異邦人には、この黙示思想的色彩の強い特殊なユダヤ教表現は理解されなかったからです。

 たしかにパウロは「人の子」という称号は用いていませんが、キリストを「人」(二一節)とか「最後のアダム」(四五節)とか「天からの者」(四七節)と呼んで、終わりの時に現れる「天に属する者たち」の代表者としています。これは、「人の子」という称号で表現されている黙示思想的希望を、死者の復活を核心とする福音の希望の中に吸収して、パウロ独自の仕方で表現したものといえます。

「土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです」。

(四八節)

 ここでパウロは、アダムとキリストがそれぞれ現在の人間と来るべき終末の人間を代表する存在であるという原理を鮮明に語ります。「土からできたその人」、すなわちアダムは、「土からできた者たちすべて」、すなわち自然の命に生きている現実のすべての人間の姿を代表しているのです。それと同じように、「天に属するその人」、すなわちキリストは、「天に属する者たちすべて」、すなわち神の霊を受けて霊の命に生きるすべての人間の姿を代表しているのです。パウロが改めてこの原理を語るのは、創世記のアダムは現実の人間の姿を語っているのだという、当時広く受け入れられていた聖書解釈を引き合いに出して、そのアダムとの類比でキリストが新しい人間を代表する存在であることを確認し、次節の死者の復活の主張を根拠づけるためです。

「わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです」。

(四九節)

 わたしたち人間は、自然の命に生きているかぎり、アダムの似姿となっているのは確かな現実です。それと同じ確かさで、わたしたちは霊の命に生きるかぎり、「天に属するその人」、すなわち復活者キリストと同じ姿をとることになるのです。キリストが死者の中から復活されたように、わたしたちも「霊の体」を与えられて、死者の中から復活するのです。

 ここで、アダムの似姿をとる人々と、キリストの似姿をとる人々という二種類の人間があると言っているのではありません。主語は同じです。「わたしたち人間は」アダムの似姿をとっているのが事実であるように、やがてキリストの似姿をとることになると言っているのです。「土からできたその人の似姿となっている」という文の動詞は、すでに起こった事実を表現する時制ですが、「天に属するその人の似姿にもなる」という文の動詞は未来形です。すなわち、ここでは同じ人間の現在と未来の二段階の存在様式が語られているのです。そして、現在の最初の段階が確かな現実であるように、未来の第二の段階も確かな現実であることが語られているのです。

 もちろん、このように語ることができるのは、キリストに属することで霊の命に生きるようになった者だけです。「キリストにある」という場から見ると、人間はこのような二段階の様式で存在するように造られていることが見えてくるのです。「初めの人アダム」と「終わりの人キリスト」が代表しているように、人間は「自然の命の体で蒔かれ、霊の体に復活する」という二段階の様式で存在するのです。

 このように、アダムとキリストの対比は、初めの創造と終わりの創造という神の全救済史の基本的構造を表現し、それに対応して人間の二段階の存在様式を表現しているのです。このような理解は、キリストの中に神の終末的な救済の出来事を体験した者が、そのキリストの現実から聖書全体の構造を理解した結果です。パウロはこの段落(四五節b〜四九節)で、このような聖書理解から出てくる救済史の構造を根拠にして、「自然の命の体で蒔かれ、霊の体に復活する」という復活信仰を確証するのです。


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