103 平和の霊


  平和を実現する人々は、幸いである。
   その人たちは神の子と呼ばれる。

        (マタイ福音書 五章九節) 


 わたしたちは今二十一世紀最初のクリスマスを迎えようとしています。クリスマスは本来「平和の君」(イザヤ九・五)の誕生を祝い、世界に平和が到来した(ルカ二・一四)ことを神に感謝する日であるはずです。ところがキリスト降誕から二〇〇〇年、キリスト教は世界に拡がり、キリスト教徒の数はどの宗教よりも多くなりましたが、世界から戦争はなくならず、前世紀はとくに戦争の惨禍が激しい世紀となりました。そして、今世紀も凄惨なテロで幕を開けることになりました。

 核の脅威の下で続いた冷戦はイデオロギーの対立から出たものでしたが、それが終結した後、民族や宗教の対立が熱い紛争となって噴出し、新しい世紀は「文明の衝突」の時代になると予告されていました。その予告を裏書きするかのように、宗教的な背景をもつテロ事件が起こり、宗教的無関心社会の日本にもイスラームをはじめ世界の宗教を知ろうとする動きが出始めました。
 
 世界に違った宗教がある以上、「文明の衝突」は避けられないのでしょうか。紛争は「文明の対話」によって克服できるのでしょうか。わたしは、対立の根は民族や宗教や文明の違いにあるのではなく、霊の違いにあると考えます。平和の霊と暴力の霊の対立です。平和の霊があるところでは、違う民族や宗教の者たちが共に生きてきましたし、暴力の霊が跳梁するところでは同じ民族、同じ宗教の中でも血が流されてきました。
 
 人間の本性には、できるだけ多くのものを所有し支配したいという欲求があります。人間がその本性のままに生きるとき、欲求は互いに対立し、相手を力ずくで屈服させて、自分の欲求を貫こうとします。そこに暴力が生まれます。暴力は対立する相手を抹殺するところまで至らざるをえません。世界は暴力・暴虐に満ちています。
 
 イエスが「平和の君」であるのは、そのような世界に平和の霊をもたらされるからです。イエス・キリストにあって賜わる霊は「愛と喜びと平和」をもたらす霊です(ガラテヤ五・二二)。その霊は、民族や宗教など、何が違っていても相手をあるがまま受け入れ、共にあることを喜び、相手の必要に仕えることを喜びとする力です。
 
 今やキリスト者の使命は、多くのキリスト教徒をつくることよりはむしろ、このような平和の霊をもって生き、暴力と戦いに満ちた世界に平和の霊をもたらすことです。そのような者こそ、神と命の質を同じくする者、「神の子」と称えられるのです。

(天旅 二〇〇一年6号)



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