105  キリスト教と福音


 キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼(バプテスマ)を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためです。
            (コリントI 一章一七節)

 この使徒パウロの言葉は、現代のわたしたちはどう受け止めればよいのでしょうか。キリスト教会はほとんどこの言葉を無視してきたようです。一見この言葉は、教会の存立の土台をなす洗礼儀礼を否定しているように見えるからです。しかし、現代の教会はこの言葉を真剣に聴かなければならないとわたしは感じています。

 使徒はバプテスマを否定していません。使徒は、信徒はバプテスマを受けているものとして、その意義を語っています(ガラテヤ三・二七〜二八、ロマ六・三〜四)。自身もバプテスマを受けています。それにもかかわらず、キリストによって遣わされた自分の使命は、「洗礼を授ける」ことではなく、「福音を告げ知らせる」ことだとするのは、どういう意味でしょうか。

 ここで「洗礼を授ける」ことと「福音を告げ知らせる」ことが対照されています。この二つは同じではないのです。「福音を告げ知らせる」というのは、わたしたちのために十字架につけられて死に、復活して今も生きたもう主イエス・キリストを語る、すなわち「十字架の言葉」を語り、それを信じる者が聖霊を受けるように働くことです。福音を受け取るとは、御霊を受けて復活者キリストとの交わりに生きるようになることです。十字架の言葉に全存在を投入して聖霊を受けるようになることを「聖霊によるバプテスマ」と呼ぶならば、パウロの使命は、「(水で)洗礼を授けるためではなく、聖霊によるバプテスマを授けるため」となります。

 現代の状況では、洗礼を受けることはキリスト教に入信することとされています。洗礼を授けることはキリスト教に改宗させることになります。このパウロの言葉によりますと、キリストによって遣わされた者の使命は、異教徒をキリスト教に改宗させることではなく、人々が自分の宗教にいるままで聖霊を受けて、復活者キリストとの交わりに生きるようにすることです。パウロの状況では、ユダヤ教徒はユダヤ教徒のままで、異教徒は(割礼を受けてユダヤ教に改宗することなく)異教徒のままで、聖霊を受けてキリストのものとなることでした。そうなることで、その人の宗教は変革されていくのです。出来上がった宗教に改宗させるのではなく、それぞれの中に霊なるキリストが到来されることによって、その宗教が内側から変革されることを求めるのです。

 洗礼とか聖餐という儀礼には、それが御霊の現実の中で行われるならば、象徴行為としての貴重な意味と働きがあります。このパウロの言葉は、そうした儀礼を否定するのではなく、相対化するのです。すなわち、それがなければ信仰とか救済はありえないとする儀礼の絶対化を否定し、それがなくても聖霊による現実がありうることを示し、儀礼を本来の相対的な位置に置くのです。

(天旅 二〇〇二年2号)





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