109 わたしがあなたを洗わないなら


  「もしわたしがあなたを洗わないなら、
  あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」。

 (ヨハネ福音書 一三章八節) 


 初期の信徒たちが集まるとき、いつも集会の中心は「主の晩餐」と呼ばれる共同の食事でした。その席で、「主が渡される夜」の最後の食事が想起され、そこでイエスが語られた「これはわたしの体、わたしの血である」という言葉が唱えられたのでした。ところが、ヨハネ福音書は「主が渡される夜」に最後の食事がされたことは伝えていますが、そこでパンとぶどう酒について語られた言葉は伝えず、代わりに、その食事の席でイエスが弟子たちの足を洗われたことを語るのです。
 
 人が人生の最期に語る言葉は重要です。共観福音書は、パンとぶどう酒という象徴について語られた言葉をイエスの最後の言葉としていますが、ヨハネ福音書は弟子の足を洗うという象徴的な行為で語られた言葉をもってそれに代えるのです。そして、この象徴的行為の意義をイエス御自身が標題の言葉で指し示しておられるのです。
 
 足を洗おうとして来られたイエスに、ペトロが驚いて「主よ、あなたがわたしの足を洗われるのですか」と言います。それに対して、イエスは「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と言われるのです。主であるイエスから、足を洗うという最も卑しい奴隷の仕事をしていただかなければ、イエスといっさい何のかかわりを持つこともできないのです。これは、復活の主イエスとの関わりに入り、御霊のいのちの世界に生きるには、十字架の死という最も低い場で、わたしのために身を献げて死んでくださったイエス・キリストの犠牲を受け入れる他には道がないことを指しています。
 
 ともすれば、わたしたちは自分の方から何か献身的な奉仕を主に捧げて、イエスのよき弟子となり、イエスと関わろうとします。しかし、復活者イエスとのかかわりの世界に生きるためには、わたしたちの側からできることは何もないのです。主イエスの死をわたしのための死と受けとめることによって、自分に死ぬ以外に道はないのです。師が弟子の足を洗う謙虚さの模範とするぐらいでは、いのちの世界に入っていくことはできません。
 
 ヨハネは、すでに「主の晩餐」が救いを受けるための祭儀となりつつある傾向に抗議して、パンとぶどう酒についての言葉ではなく、この象徴行為についての言葉をイエスの最後の言葉としようとしたのかもしれません。

(天旅 二〇〇二年6号)



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