126 絶対善


 悪に征服されることなく、善をもって悪を征服しなさい。
    (ローマ書 一二章二一節 私訳) 


 使徒パウロは、ローマ書の愛について語る箇所(ローマ一二・九〜二一)で、キリストの愛に生きる者は「悪を憎み、善に固着し」(九節)、「誰に対しても悪をもって悪に報いることなく、すべての人のために善を配慮するように」求め(一七節)、「悪に征服されることなく、善をもって悪を征服しなさい」(二一節)と励ましています。このように善と悪という概念を用いて愛を語るさい、パウロは善とは何か、悪とは何かを定義したり説明しないで、読者は当然分かっているものとして語っています。
 
 哲学的な分析や定義はさておき、わたしたちが日常生活の中で善としているもの、悪としているものは、さしあたり「人が人として生きることを助ける行為が善であり、妨げる行為が悪である」と見ると、ここでパウロが言っていることが具体的になり、分かりやすくなるのではないかと思います。
 
 人が生きるのに必要とする資財を盗み、騙したり脅したりして奪うのは悪ですし、身体を傷つけたり健康を脅かすのは悪です。中傷して名誉を傷つけたり、呪ったりする言葉の悪もあります。最大の悪は人を殺すことでしょう。自分の主義主張のために、無関係の人を無差別に殺すのは悪魔の所業です。それに対して、生きるのに必要な資財を生産し、公平に分配し、病を癒し、健康を維持増進し、精神的にも豊かに生きることができるように文化の質を高めることなどは善です。隣人がよく生きるために自分を犠牲にすることは最高の善となります。
 
 キリストに属する者は、善そのものにいます神の子なのですから、「悪を憎み、善に固着し」、いつも「すべての人のために善を配慮する」者とされています。悪が自分に向けられたときでも、その悪に対して悪をもって報復するのではなく、善をもって対処するように求められます。言い換えれば、キリストに属する者はどのような状況においても、どのような相手に対しても、無条件に善だけをなすように求められています。この状況と相手に絶した無条件の善を「絶対善」と呼ぶならば、キリスト者とは絶対善に召された者と言うことができます。
 
 イエスも父の絶対善を根拠にして、わたしたちに絶対善を求められました(マタイ五・四三〜四八)。パウロにおいても、キリストにある絶対恩恵の場で、一見人間の本性に反するような絶対善が求められています。恩恵として賜る御霊の力だけが、このような絶対善を実現する力です。わたしたちが悪に対して悪をもって報いるならば、悪が勝利し、人間は悪に征服されたことになります。歴史には悪の勝利の凱歌が鳴り響いています。わたしたちキリストに属する者は、絶対善をもって悪に打ち勝ち、歴史の中に善を実現する使命に召された者です。

(天旅 二〇〇五年5号)



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