140 和解の言葉


   「神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、

       和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです」。      (コリントU 5章19節)

  和解とは、対立・敵対していた相手と親しい関係を回復することです。とくに、もともと親しい間柄であったのに、何らかの原因で対立し、敵対するまでになっていた相手と、その原因が除かれて、親しい交わりを回復することです。人と人、国と国の間でも、その対立が厳しいほど、和解も劇的な喜びをもたらします。

 神はもともとわたしたち人間を対立する相手として造られたのではありません。御自分の愛のパートナーとしてお造りになったのです。ところが人は高ぶり、自分を神として、自分の創造者に背を向けました。これが罪です。人間の根源的な罪です。そのため、創造者なる神は人に対立する方となり、わたしたちは命の源泉である神から何のよきものも受けることができなくなっていました。

 ところが今や、「神はキリストによって世を御自分と和解させ」、その和解の言葉を使者たちに委ねて、世界に告げ知らせておられます。それが福音です。十字架されたキリストを告げ知らせる福音は、神の和解の言葉です。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪とされました」。こうして、神は「わたしたちの罪の責任を問うことなく」、無条件に赦し、「わたしはあなたの背きを雲のように、罪を霧のように吹き払った。わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖ったから」と呼びかけておられます。

 わたしたちはいくら多くの供え物をしたり、善行を積み重ねても、神と和解することはできません。神が差し出してくださる和解を受ける以外に、神と和解して、命の源である神との愛の交わりを回復することはできません。ただ、福音を信じ、キリストに合わせられて、キリストの内にとどまるとき、わたしたちは神と和解した場にいることができるのです。そして、神との和解の場にいるとき、わたしたちの人生に神が与えてくださるよきもの、神の御霊の命が始まります。

 和解の場においては、神を父と呼んで一切を父に委ねて生きる子の信頼、隣人に対する無条件の愛の交わりと喜び、人生の患難の中にも燃える熱い希望、このような聖霊による信・愛・望が人生の現実となります。これらのよいものはすべて、和解を与えてくださった神から出ます。このような和解の言葉を、どうして聞き逃してよいでしょうか。  

 イエスが発せられたこの言葉は、宗教界に投じられた爆弾です。もしわたしたちがこの言葉の奥行きと広がりを理解するならば、それは人類の歴史に重くのしかかっている「宗教」の呪縛を破砕し、わたしたちを真に自由な人間とします。

 イエスはこの言葉を、ユダヤ教を代表するファリサイ派の律法学者たちに向かって発せられました。《トーラー》と呼ばれる律法は、彼らにとって神の命令として絶対です。人間はその命令に無条件に服従しなければなりません。そして、安息日律法は《トーラー》を代表する律法です。イエスはこの言葉によって、「《トーラー》は人のためにある。人が《トーラー》のためにあるのではない」と宣言しておられるのです。

 ユダヤ人にとって《トーラー》はユダヤ教という宗教そのものですから、イエスは「宗教は人のためにある。人が宗教のためにあるのではない」と言っておられることになります。宗教を何か超自然的な存在とか働きとの関わり、あるいは霊的存在としての人間の営みと広く理解するならば、そのような意味での宗教なしには人間は生きていけません。そのような意味での宗教は人類の歴史と共に古いものです。しかし、その宗教が祭儀と教義と倫理のシステムとなり、共同体の統合原理として絶対化されると、それは人間を外から拘束する枠となって、人間に服従と奉仕を強要します。「人が宗教のためにある」という状況になります。

 このような状況になっているユダヤ教の世界に、イエスは火を投じられました。イエスは、御霊による父との交わりの中で、いかなる状況の人間をも無条件で愛し救われる父の恩恵を告知されました。それが、《トーラー》を絶対化して、《トーラー》を基準として人間を裁き拘束する当時のユダヤ教という宗教と衝突したのです。宗教を絶対化することを宗教原理主義と呼ぶならば、イエスはこの原理主義と戦い、父の絶対恩恵の現実を根拠にして、ユダヤ教を相対化されたと言えます。

 現代の世界は、自分の宗教を絶対化する宗教原理主義に苦しんでいます。自分の宗教のためには人を殺してもよいという宗教原理主義は、まさに「人が宗教のためにある」という状況です。わたしたちは、御霊による自由の中でこの宗教原理主義を克服し、「宗教は人のためにある」を実現していく課題を負っています。

                                                                                                         (天旅 二〇〇八年1号)



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