144 永遠の命の確かさ

 


   わたしを信じる者は、死んでも生きる。      (ヨハネ福音書 一一章二五節)

 わたしたち人間は必ず死にます。そして、死は、自分の死を思う本人には不安を、その人を愛する周囲の人には嘆き悲しみをもたらします。もし本人も周囲の人たちも、「死んでも生きる」ということ、すなわち、この身体は死んでいくが、その人自身は死ぬことなく生きているということを確信できるならば、本人の不安と周囲の人の悲しみは、希望に変わることでしょう。

 古来多くの民族は、霊魂不滅という考え方で死の不安と悲しみを乗りこえようとしました。この身体は死んでいくが、内なる霊魂は滅びることなく存続しているという見方です。しかし、死の現実を前にして、その内なる霊魂が不安におびえ、悲しみに打ちひしがれる事実をどうすることもできませんでした。

 このような人間の前に、「わたしを信じる者は、死んでも生きる」と宣言する方が現れたのです。それは復活されたイエス、復活によってキリストとされたイエスです。地上の人間の誰が、このような宣言をすることができるでしょうか。それができるのは、「わたしが復活であり、いのちである」と宣言できる方、すなわち復活者イエスだけです。この方を信じる者、すなわち、この復活者イエス・キリストに自分を投げ込み、合わせられて生きる者は、「死んでも生きる」という存在にされます。

 実はこの「死んでも生きる」という表現は、死ぬと生きるの主語が隠されています。正確に言うと、「この生まれながらのわたしは死んでも、キリストにあって新しく生まれたわたしは、死ぬことなく生き続ける」ということです。この生まれながらの命に生きる自分は、身体も内なる霊魂も含めて死滅します。しかし、キリストにあって神の霊により上から賜った命に生きるわたしは死ぬことはありません。それは永遠の命です。死を克服した命、復活にいたる命です。

 主語になる二種類の次元の異なる「わたし」が隠されているので、「死んでも生きる」、「死んでも死なない」という逆説的な宣言になりますが、これはキリストにあって御霊の命に生きる者には当然の告白であり、確かな現実です。その確かさは、その上よりの命(=内なる人)が、父なる神への信頼、隣人への愛、将来への希望という姿で現れる人生の現実の中で確かめられていきます。しかし、その確かさの究極の根拠は、キリストにおける神の恩恵の確かさです。

                                                                                                          (天旅 二〇〇八年5号)



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