154  完全な道を歩む人

   完全な道を歩く人に主は与え
 良いものを拒もうとなさいません。
  (詩編八四・一二)

 「完全な道を歩く」という表現を用いるとき、イスラエルの民はアブラハムのことを思い浮かべたことでしょう。主はアブラハムと契約を結ばれたとき、「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい」と言われました(創世記一七・一)。アブラハムは主の期待に添い、全き信頼をもって主の言葉に従い、すべて信じる者の父となりました。

 「完全な道を歩く」というのは、宗教的・道徳的規定を完全に順守して欠点のないことを指すのではありません。信頼において完全であることです。アブラハムの時にはまだ宗教規定はありませんでした。また、アブラハムの生涯は道徳的には問題がないわけではありませんでした。しかし、アブラハムは語りかけた方への全き信頼によってその方の言葉に従いました。その信仰が義と認められたのです。

 このアブラハムの全き歩みを完成した方がイエスです。イエスは父との全き交わりの中で、父の御旨に、十字架の死に至るまで従われました。父はそのイエスを復活させ、栄光をお与えになりました。今、福音によって召され、キリストにあって父への信頼に歩む者にも、神は「良いもの」を拒まれることはありません。キリストにあって父への信頼に歩む者に与えられる「良いもの」とは聖霊です(ルカ一一・一三)。神の命の御霊です。神は、イエスに従うことで父への完全な信頼に歩む者に聖霊を拒まれることはありません。

 イスラエルの民も主への全き信頼に歩むときの幸いを体験し、美しい詩で歌い上げました。それが詩編八四編です。この詩編が歌う賛美の叫びは、御霊によって生きるキリストの民の心に深い共感を呼び起こします。わたしたちも「あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです」と歌い、「嘆きの谷を通るときも、そこを泉とします」と賛美します。そして、イスラエルの民が「いよいよ力を増して進み、ついにシオンで神にまみえるでしょう」と予感したことが、わたしたちキリストの民は、キリストにあって与えられている御霊によって実現していることを知ります。「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます」。これが「シオンで神にまみえる」ことであり、それは「主の御霊の働きによって」実現するのです(コリントU三・一八)。

(天旅 2010年 3号)


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