1 時を支配する者


「わたしの時はあなたのみ手にあります」。
       (詩編 三一編一五節) 


 人生にはさまざまな「時」がある。働く時があり、休む時がある。健やかな時があり、病む時がある。得る時があり、失う時がある。会う時があり、別れる時がある。愛する時があり、憎む時がある。笑う時があり、泣く時がある。そして、生まれる時があるように、死ぬ時がある。時の流れの中で、相反し、相矛盾する相が現れる。時の中で、人生は常ならざる姿を呈する。常なるものの無い姿、すなわち「無常」こそ人生の実相であろう。

 人生にとって、「時」は物理的な変化の目盛りで計れる等質な流れではない。それは、さまざまな出来事が起る場であり、一回限りの、取替えられない内容をもつものである。「わたしの時」というのは、時の中でわたしの身に起こるさまざまな出来事であり、わたしの人生そのものである。

 その「わたしの時」を支配する者は私自身ではない。人は仕事や生活の中で予定表を作り、この日はこれをし、そのときにはあれをしようと自ら決めて、自分の時を自分で支配しているように考えている。しかし、それは錯覚である。失う予定はなくとも、失う時があり、泣く予定はないのに、泣かざるをえない時がある。だいたい、生まれる時、死ぬ時を誰が自分で決めることができようか。自己の存在という最も根本的なことを自分で決められない者が、どうして自分の時の支配者でありえようか。

 「わたしの時」を支配するのは運命ではない。どう足掻いても、いくら抵抗しても、どのように懇願しても変えようのない、冷たい機械のような支配者である運命ではない。それは、われらの必要を見る目を持ち、われらの祈りを聞く耳がある、あたたかい心、慈愛に満ちた父なる神である。わたしの創造者にして救済者である神である。わたしはこの神に向かって、「あなたはわたしの神です。わたしの時はあなたのみ手にあります」と告白し、祈る。それは、わたしの人生のすべての局面を神のみ手に委ね、全人生を神の恩恵に委ねる信頼の祈りである。

 わたしが生まれる時も神が決められた。死ぬ時も神に委ねるのみである。喜ぶ時を与えて下さった方に、泣く時にも身も心も委ねるだけである。わたしはすべての局面を神に委ねて、動揺することはない。それは、わたしの神は限りない慈愛をもってわたしを造り、わたしを救い、わたしを完成してくださることを、キリストにあって知っているからである。キリストにあって、この祈りは確かな土台を得る。

 神に委ねられ、神と結ばれた「時」は永遠を宿し、神から離れ去った「時」は虚無の中に流れこむ。この祈りは「時」を永遠と結び付ける。

(天旅 1986年1号)




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