2 わが杯は溢れる


 「あなたはわたしの敵の前で、わたしのために宴を設け、
 わたしのこうべに油をそそがれる。
 わたしの杯はあふれます」。

       (詩篇 二三篇五節) 


 これは、「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない」で始まる有名な詩篇二三篇の中の一節であるが、この五節で、比喩は羊飼の姿から天幕で旅人をもてなす主人へと変わっている。両方とも現代の都市生活者には縁遠い光景であり比喩であるが、キリストにあって生きる者には、不思議に現実味をおびた心象風景となる。

 砂漠や荒野で強盗などの危険に襲われた旅人が、ふと目にした天幕にようやく辿り着いて逃げ込む。その天幕の主人は旅人を迎え入れて、危険から守ってやるだけではなく、追いかけてきた敵の面前で盛大な宴を開いて、その頭に香油を注ぎ、最高のもてなしを与える。それは、主人が自分の力を誇示し、敵に向って「この旅人がわたしの懐に飛びこんできた以上、おまえたちには指一本触れさせないぞ」と言っているようである。

 わたしも人生の途上で敵に遭遇し、敵に追われ、キリストの中へと逃げこんだのである。わたしを襲った敵は心の寂しさ、人生の虚無感、死の不安などであったが、その背後に罪という最大の敵が控えていることに気付かなかった。わたしが逃げこんだ天幕の主人キリストが、背後に隠れている本当の敵を暴露してくださったのである。

 キリストは力ある主である。すでに敵の頭である罪の支配を十字架によって打ち破り、復活により最後の敵である死にもうち勝って、天にあるもの、地にあるものすべてを支配する栄光の座についておられる。この主がわたしを保護されるのである。このキリストの中にいる限り罪はもはやわたしを支配することはできない。

 キリストはあわれみ深い主である。ただ自分の懐に飛びこんできたというだけで、お礼に差し出す何の財産もない、飢え渇き、破滅に瀕している見知らぬ旅人であるわたしを迎え入れ、盛大な宴を設け、豊かな食物で飽きたらせてくださるのである。この主キリストが、愛によるもてなしの最高の表現として、何の資格もないわたしに聖霊の油をそそいでくださる。わたしは主の愛に圧倒され、心は感謝に溢れる。

 わたしの回りにはまだ敵が取り囲んでいる。周囲の人とのあつれき、仕事の困難、病気や老年、それに死というような外からのものもあれば、自分の内面に巣くう人間性の弱さや欠陥もある。そういう人生の現実のただ中で、キリストにあって、わたしという小さい杯は、注がれる聖霊により、存在することへの感謝、生きる喜び、そして復活の希望に溢れる。「わたしの杯は溢れます!」、これが人生の実感となり、感謝の祈りとなる。

(天旅 1986年2号)




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