14 まことの礼拝


 まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。
       (ヨハネ福音書 四章二三節) 


 人間は何かを礼拝しないではおれない。そして何をどのように礼拝するかが、人間の在り方と命運を決める。礼拝は宗教そのものであり、人間は宗教なしではやってゆけないのである。今、キリストが世に来られたことによって、その礼拝に決定的な出来事が起こった。「まことの礼拝」がついに実現したのである。

 キリスト以前においては、各民族はそれぞれ異なった対象を独自の仕方で拝んでいた。しかしよく観察すると、人間が拝む対象は基本的には「自然」と「先祖」である。「自然崇拝」と「先祖崇拝」とは人間の最も原初的な宗教形態である。そして、それを拝む時の基本的な様式は「祭儀」である。供え物や犠牲を捧げることによって、礼拝対象の怒りや祟りを避け、その好意を得ようとしたのである。

 身近な実例としてわが国の宗教を見よう。古来日本では、死者は一定期間がたつと個別性と汚れを失い、家の祖霊へと昇華する。そして昇華した一族の祖霊は氏神として拝まれ、稲作民族として土地の生産力を神として拝んでいた農神や稲霊と同一視されるようになり、初春と初秋の二回(正月と盆)家を訪れて祭りを受ける。このような形で自然崇拝と融合した先祖崇拝は日本の農業社会を根強く支配しており、まった く異質な宗教である外来の仏教をも古来の先祖祭りの手段として利用してしまうのである。この古来の先祖祭りと仏教の習合は、江戸時代の檀家制で寺を共同の先祖祭場とし、仏壇を家の常設祭壇とすることで完成する。そして近代化した現代でもこの宗教は根強く残っており、「日本は先祖崇拝の習俗をいまなお温存するほとんど唯一の近代国家」であると宗教学者から評されるのである。このような日本人の無意識の深みに沈澱している宗教に支えられ、その宗教の頂点として日本的心情になおも君臨しているのが天皇制である。天皇制はたんなる法的な制度ではなく、日本人の宗教である。

 世界の諸民族がこのような「自然崇拝」と「先祖崇拝」の中にある時、イスラエルの民は自分たちをエジプトでの奴隷の境遇から救いだした神ヤーウェを礼拝する諸部族の連合体として独自の歴史を歩んだ。彼らが拝む神はもはや自然の生産力でもなく先祖の霊でもない。彼らのところに降ってきて苦況から救いだし、言葉をもって語りかけ、契約を結ぶ神、歴史の中で語り行為する神、歴史の出来事の中に自己を啓示する神である。しかし彼らもカナンの土地に定住してからは、土地の生産力を神として礼拝する周囲の諸民族のバール礼拝の誘惑にさらされ、またしばしばその誘惑に陥って預言者たちの激しい叱責を受けたのであった。

 「歴史」の中に自らを啓示する契約神ヤーウェを礼拝したイスラエルも、その礼拝の仕方は人類と共に古い「祭儀」による礼拝であった。彼らもヤーウェの祭壇に供え物や犠牲を捧げて、恩顧を求め災禍を避けようとしたのであった。遊牧の時代には春に羊や牛の初子を捧げる「ペサハ」の祭りが行なわれたが、農耕時代になると「種入れぬパンの祭り」(ペサハに合流)や春の収穫の終わりの「七週の祭り」、秋の収穫感謝の「取入の祭り」または「仮庵の祭り」が行なわれ、それに日常のさまざまな犠牲が加わって、イスラエルの祭儀は巨大な体系となり、祭儀を行なう場所として壮大な神殿が国の総力をあげて建てられたのであった。

 この神殿の中で、「この神殿を壊してみよ。わたしは三日で建て直してみせる」と叫ぶ人物が現われた。ナザレのイエスである。神殿を壊すことは神聖な宗教そのものを破壊することであって、狂気の沙汰である。事実、イスラエルはこの神殿を冒涜する狂人を十字架につけて殺した。ところが、イエスはこの言葉によって、ご自分の体が十字架につけられて殺された後三日目に復活すること、そして復活されたキリストによって、もはや神殿とその中での祭儀によらない「まことの礼拝」が実現することを指しておられたのであった。

 キリストは十字架の上に永遠に贖罪の業を成し遂げて復活された。今キリストを信じキリストに結ばれて生きる者は、恩恵によって賜る聖霊により、霊なる神との交わりの中で礼拝することができる。イエスが「父」として啓示された神を自分の父として信頼し、「アッバ、父よ」と祈り、親しく拝むことができる。もろもろの祭儀も来るべきものの型または影として意味があったが、いまは聖霊によって、祭儀が指し示していた本体または真理を体験している。いまキリストにあって「霊と真理をもって父を礼拝する時」が来たのである。「まことの礼拝」が成就したのである。

 わたしたちは今まで実にさまざまな神々や諸佛や自然の力や先祖の霊などを拝んできた。しかし今はもうそのような虚しい礼拝をやめるべき時である。虚しい礼拝は、そのような礼拝をする人間を虚しい者にするからである。今までの礼拝が虚しいのは、一つには礼拝の対象が虚しいものであること、もう一つは礼拝の仕方が虚しいものであるからである。今はわたしを造り生命を与えてくださっている神、わたしの罪をあがなってくださる神、わたしを死人の中から復活させてくださる神が啓示され、その神を霊と真理をもって礼拝する道が備えられているのである。キリストにあってこの神を父として聖霊によって拝むこと、これが人間を虚しい世界から救いだして永遠の質を宿す者にする。

 今までの文明はどれもその中心に礼拝(宗教)をもっていた。都市などの共同体はまずその中央に礼拝の場として神殿や寺院を建てた。ところが現代文明は何も礼拝しない文明である。知識を伝える学校、病気を治す病院、法律を施行する裁判所、物を製造する工場や売り買いする会社、運動や競技をする施設、こういう建物は軒を連ねているが、神を礼拝する場所を造ろうとはしない。何も礼拝しないということは人間自身を礼拝することである。人間自身を一切の価値の源とすることである。

 このように世俗化した時代において、キリストにある者たちは「まことの礼拝」の場を確立する使命がある。人間自身を拝むところでは絶対的な善はありえない。人間は深く悪に染まっているからである。愛とか平和とか喜び、義とか復活、このような真に善なるものはただ神からのみ来る。神を父として霊と真理をもって礼拝し、この父から善なるものを受けることができる場を確立し保持することは現代の根本的な課題である。「父はこのように礼拝する者を求めておられる」のである。

(天旅 1988年5号)



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