41 わたしが造ったから


 わたしに聞け、ヤコブの家よ、イスラエルの家の残りの者よ、共に。
 あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。
 同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、
 白髪になるまで、背負って行こう。
 わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。

       (イザヤ書 四六章三〜四節) 


 これは、イスラエルがバビロンに捕らえ移されていたとき、主が預言者によって語られた言葉である。イスラエルは捕囚の地で四面楚歌、すべての人に見捨てられ、世界の中で居場所のない孤児の悲哀を味わっている。そして、世界から見捨てられた悲境の中で、自分たちの神、主からも見捨てられたのではないかという、信仰の挫折も伴い、落胆のどん底にいる。

 そのようなイスラエルに向かって、主は預言者を通して語られる。あなたはすべての人に見捨てられていると身の不幸を嘆いている。しかし、わたしはあなたを受け入れている。わたしは最後まであなたを担う。わたしがあなたを造ったのだから、と。イスラエルは主に「生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた」。イスラエルは存在そのものを主に負っている。これは否定しようのない事実である。この事実と「同じように」確実な事実として、「わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負う」と主は確言される。「わたしが作ったから、わたしが担い、わたしが背負い、かつ救うのだ」(中沢訳)。この箇所ほど創造と救済が深く結びつけられているところはない。この言葉ほど明確に、存在そのものが救いの根拠であることを語る言葉は他にない。

 じつは、イエスもこれと同じことを語っておられるのである。「取税人と遊女」に代表される階層の人々は、当時の宗教的社会の規準を満たすことのできない者、すなわち「罪人」として、世間から退けられていた。イエスが彼らをあるがまま受け入れて、「神の国はあなたがたのものだ」と言われるとき、それは神が、彼らを人間として存在させておられるという理由だけで、彼らの価値や資格をいっさい問わないで、受け入れておられると宣言しておられるのである。それが恩恵である。自分の資格や価値を誇り、人を裁き退ける立場の人々は、このようなイエスの言葉を理解できず、自分の価値と立場を否定する者として憤慨するだけであった。それに対して、世間から拒まれ退けられている人々は、自分の存在の根源である方に受け入れられていることを知らされ、感涙の中で神を崇めたのである。

 イエス当時の宗教社会では律法という規準で人を計り、差別し、退けたのであるが、どの社会にもその社会固有の規準があって(それは意識されないことが多いが)、それで人を計り、受け入れたり拒んだりしている。ところが神は、わたしたちを創造し人間として存在させているからという理由だけで、なんの条件もつけないでわたしたちを受け入れてくださっている。この恩恵の事実が神と人の関係の唯一の土台である。それで、人に誉められ世に受け入れられている者が、それゆえに神の恩恵 を必要とせず、神の恩恵を退けるならば、その人は神に憎まれる者となる。それに対して、人から退けられ世に受け入れられない者が、それゆえに神の無条件の恩恵を悟り、全存在を恩恵に委ねるならば、その人は神に喜ばれる者となる。

 神を信じるとは、このような恩恵の場で、存在を無条件に肯定することである。自分の存在の根源である方が、自分を受け入れてくださっているという事実に目覚め、その事実だけを拠り所として生きることである。これが恩恵を恩恵とすること、すなわち信仰である。これは自己を無として生きる場である。わたしたちは、本性的に神に敵対する者を、ただ造ったがゆえに無条件に受け入れてくださるためには、キリストの十字架の贖いが必要であったことを知っている。わたしたちは十字架の場で、「わたしが造ったから、わたしが救う」という恩恵の事実を悟るのである。

(天旅 1992年5号)



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