65 土の器


「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています」。
       (コリントII 四章七節) 


 何本かの点滴チューブにつながれて病床に横たわっていますと、この体が「朽ちるもの、卑しいもの、弱いもの」であることを、つくづくと実感します。それだけに、この朽ちる体を脱ぎ捨てた後に、「朽ちないもの、輝かしいもの、力強いもの」である「霊の体」を着せられるという復活の希望が、一段と有難く感じられます。

 しかし、現実のわたしは、御言葉を思いめぐらし祈りに徹するという立派な信仰者の姿からほど遠く、何を考える力も祈る気力もなく、ただ病苦に呻吟しているだけの惨めな姿です。そのように惨めなわたしがなおも希望をもつことができるのは、わたしが信仰者としてどのように不出来であっても、無条件に受け入れてくださる父の恩恵を、キリストにあって知っているからです。わたしがいかに動揺しようとも、神の信実は岩のように動かず、神の約束の言葉は変わることがないことを知っているからです。

 わたしは病床において、この体が弱くて卑しいものであることだけでなく、自分の心と信仰が弱くて卑しく、まったく当てにできないものであることを痛感しました。そのわたしがなお希望をもって存在できるのは、神の無条件の慈愛と絶対の信実に、この惨憺たる自分を投げかけることによってだけであることを、病床での苦しい体験の中で身に刻み込まれました。

 復活の希望は宝です。正確に言えば、復活の希望をもって現実の人生を生きることができることが、わたしにとって何よりも価値あることです。今回の病床体験は、その宝を土の器の中に入れていること、すなわち、その希望は自分から出るものではなく、恩恵によって賜るものであることを、改めて思い知らせました。わたしという卑しい存在から出てくるはずのない希望が、神の慈愛と信実の上に成り立っているのです。ですから、ほんとうに貴いもの、「宝」とは、神の慈愛と信実によって賜る聖霊です。「イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光」として、わたしたちの心の内に輝く聖霊です。それだけが希望の源泉です。この宝を卑しい器に宿すことができること、それが恩恵の事態です。

(天旅 1996年5号)



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