キリストの民



 キリストに属する者

 キリストの福音は地上にキリストの民を生み出します。キリストの福音を信じて御霊を受け、生けるキリストとの交わりに入った者たちは、お互いに交わりを持ち、同じ信仰と希望に結ばれた一つの民を形成します。福音はキリストの民の姿において世界の中で具体的な現実となります。では、キリストの民とはどのような民でしょうか。他の人間集団とはどのように異なり、どのように関わるのでしょうか。

 まず第一に、キリストの民とは「キリストに属する」(ロマ一・六)者たちの群れであることは当然ですが、誰が「キリストに属する」のかという問題は簡単ではありません。現在、世界には多くの「キリスト教会」があり、その中のどれかの教会に所属する者が「キリストに属する」者と一般に認められています。洗礼を受け、聖餐など教会が定める儀式にあずかり、聖日に礼拝に出席し、教会生活を忠実に守る者が教会に所属するものであり、キリストに属する民であるとされています。しかし、このような意味で教会に所属することが「キリストに属する」ことを保証するのではありません。だいたい、教会は自分の教会以外の教会の所属員をキリストの民と認めないものです。だから、かりに教会への所属が「キリストに属する」ことを保証するとしても、それはその教会の内部だけのことであって、その教会の外においては通用しません。

 新約聖書は「キリストに属する」かどうかについて、教会に所属するかどうかとは全然別の規準をあげています。たとえば、使徒パウロは「キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません」と言っています(ロマ八・九)。この言葉は用いられている文脈からすると、キリストの霊を持っていないとして特定の人々をキリストの民から排除するために語られたのではなく、キリスト信徒とはもともとキリストの霊によって生きる者であるから、肉ではなく霊の支配下にいるのだということを強調するために加えられたものです。これは否定の形を用いて、キリストに属する者とはキリストの霊によって生きる者であるという事実を裏から強調する言葉です。

 同じことが積極的な形ではこう言われています。「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」(ロマ八・一四)。他に何がなくても、またどのような所属であっても、だれでも神の霊によって導かれているならば、その人は神の子だというのです。ここで「神の霊」と「キリストの霊」は同じ霊を指しています。ふつう「聖霊」と呼ばれ、ときにはただ「御霊」と呼ばれている霊のことです。神からキリストを通してくる霊であり、キリストを示し、キリストとの交わりの現実に導き入れる霊です。この霊に導かれ、この霊によって生きている者が、「キリストに属する」者であり、キリストに合わせられることによって神の子、すなわち神に属する者とされているのです。このように聖霊によってキリストとの交わりに生きる者たちがキリストの民を形成するのです。

 ここまでに引用したロマ書は、異邦人の間にキリストの民を得るために命をかけて働いた使徒パウロが、その生涯の最後の時期に書いた書簡です。ところが、その福音を提示する本体の部分(一〜一五章)で「教会」という語を一度も用いていないことが注目されます。ロマ書では、まず宣べ伝えられた福音を信じて、主イエス・キリストの御名を呼び求める者に、義あるいは救いが与えられることが示されます。そして、このキリスト信仰、すなわちキリストに結ばれて生きる現実がどのようなものであるかが詳しく展開されます。その結果として生まれる信仰者の交わりとしてのキリストの民のことも語られています。しかも、ユダヤ人と異邦人の救いという全救済史的な視野で語られています。しかし、パウロはそれを「教会」という語では語っていません。まず「教会」があって、それに所属することによってキリストの民となるというような発想はありません。あくまで、信仰により、聖霊によって「キリストに属する」者になることが関心事であって、その結果、キリストに属する者たちの交わりとしてキリストの民が視野に入ってくるのです。

 たしかに、同じ使徒パウロが書いたコリント書簡には(一と二を合わせて)、「教会」という語が三四回も使われています。この事実からすると、「教会」がパウロの福音において重要な位置を占めていると言わなければなりません。ところで、多くの日本語訳で「教会」と訳されている原語は「エクレシア」ですが、この語はおもに個人の家に集まる信徒の群れやある地域の信徒の交わりという具体的な集会を指しており、ときには地上でのキリストの体としてのキリストの民そのものにも用いられています。ただ、ここで言う「エクレシア」はあくまでも信仰者の交わりから生じる集まりであり、またその理念であって、現在「教会」という語で指しているような、教理と儀礼と組織を備えた宗教的制度としての「教会」ではありません。それで「エクレシア」を「教会」と訳することには問題があるわけですが、他に適当な訳語がなくてこれを用いるのであれば、新約聖書がいう「エクレシア」と現在の用語である「教会」の意味の違いを十分考えて、パウロの手紙を読まなければならないのです。どのような訳語を用いるにしても、ここでも「エクレシア」に所属することによってキリストに属する者になるという発想はありません。あくまでもひとりひとり信仰によって賜る聖霊によってキリストとの生ける交わりの現実に入るのです。

「あなたがたは主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされているのです」。

(コリントI六・一一)

「わたしたちはみな、ユダヤ人であろうとギリシャ人であろうと、奴隷であろうと自由人であろうと、一つの御霊によって一つのからだの中にバプテスマされ(加えられ)、一つの御霊を飲む者(御霊にあずかる者)とされているいのです」。

(コリントI一二・一三私訳)

 「教会」という語がロマ書では全然用いられないのに、コリント書簡では多く用いられているという違いは、両書簡の性格の違いからくるのでしょう。ロマ書は使徒パウロが未見の集会に自分の福音の全容を提示するために書いているのに対して、コリント書簡は信徒の集まりに生じたさまざまな問題を解決するために書いているので、具体的な「エクレシア」が関心の中心となり、この語がよく用いられることになるのでしょう。どちらの場合も、「教会」に所属することが「キリストに属する」ことを保証するという考えはありません。どちらの書簡も、「キリストにある」現実、すなわち聖霊によるキリストとの結びつきが溢れており、それによって「キリストに属する者」の姿を描いていすのです。

 わたしは制度的な教会が不要であると言っているのではありません。人間の地上の営みであるかぎり、制度や組織は有用です。教理と典礼をもつ組織体としての制度的キリスト教会は、福音の伝承を保持し、信徒を教育したり保護したりするのにきわめて有益であり、神から与えられた制度として尊重すべきものです。わたしがここで言っているのは、キリストの民と教会とはかならずしも重ならないということです。教会に属する人々の中にもキリストの霊をもたないのでキリストに属していない人もいますし、教会の外にも福音を信じて聖霊を受け、キリストの民とされている者もいます。教会の内と外とを問わず、人をキリストの民の一員とするのは聖霊によるキリストとの結びつきだということです。



 キリストの民の標識

 つぎに、キリストの民を外の世界から区別する標識は何かという問題を考えてみましょう。教会への所属がキリストの民の標識とならないのであれば、何がその標識となるのでしょうか。

 さきに見たように、キリストの民とは聖霊によってキリストと結ばれて生きる者たちの群れですから、キリストの民の標識とはキリストに結ばれて生きる者たちの中に聖霊が生み出してくださる特質ということになります。聖霊はキリストの民の生活の中に、また人間としてのあり方に、特別の実を結び、それをキリストの民の標識とされます。それは信仰と希望と愛です。

 当然のことながら、キリストの民の標識は、まず第一にキリスト告白です。イエスをキリストと明確に言い表すことです。十字架につけられた方を復活者キリスト、世界の主キュリオスと言い表すことです。

「口でイエスは主(キュリオス)であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」。

(ロマ一〇・九)

 この告白を恥じる者はキリストに属する者ではありません(マルコ八・三八)。そう言い表すことが、どのように不合理にみようと、どのように苦しい事態を身に招くことになっても、明白な言葉で語ることです。これは聖霊がなしてくださることです。

(コリントI一二・三、マルコ一三・一一)

 御霊によって生み出される信仰とは、主イエス・キリストを信じて告白するのに、もはや人間の決意や意志や忠誠によってするのでなく、内にいます聖霊が示される復活者キリストに圧倒されて、おのずからキリストを告白し、キリストを賛美し、キリストに従わざるをえないという、内的必然としての信仰です。磁性を帯びた鉄片が北極を指さざるをえないように、聖霊を宿す魂はキリストを告白し、キリストを慕い、キリストを生きることだけを願わざるをえないのです。

 このように聖霊によってキリストに合わせられて生きる者は、地上のイエスが父なる神に完全に信頼して生きられたように、父への信頼が自然の性質になります。聖霊は「子たる身分を授ける霊」なのです。この霊によってわたしたちは「アッバ、父よ」と呼びかけて、一切を父の手に委ねて生きてゆくことができるのです(ロマ八・一五)。この霊によって生きるとき、空の鳥を見ても、地上の小さい花を見ても、そこに神への完全な信頼に生きる姿を読み取ることができるのです。イエスが明日のことを思い煩っている者たちに、「信仰の薄い者たちよ」と嘆かれるとき(マタイ六・三〇)、その「信仰」とはこのような子としての父への完全な信頼を指しているわけです。イエスは直接子としてこのような父への信頼に生きられましたが、わたしたちはキリストに合わせられて、その十字架の贖いにあずかり聖霊を受けて初めて、神の子として父への信頼に生きることができるようになるのです。聖霊に生きるキリストの民には、内的必然としてのキリスト信仰と並んで、このイエスのような父への信頼が、標識として出てくるようになるのです。

 つぎにキリストの民の標識として重要なのは希望です。キリストの民はじつに不思議な希望をもって生きる民です。自分の生活が楽しくて豊かになるであろうとか、国が平和で繁栄することになるであろうとか、世界がだんだんよくなるだろうというような希望ではありません。また、内面的に自分がついには悟りとか知恵に到達するであろうというような希望でもありません。神が自分を死者の中から復活させてくださるという希望です。死者が復活するというようなことは、ふつうとても考えられないことです。そのようなことをまじめに期待して生きることは不可能なことです。ところが、キリストの民は聖霊によって死者の復活という希望を、この地上の生活で確かな現実として生きる民なのです。


 だいたい、福音の信仰はイエスが復活されたという事実から始まります。その事実を証言する使徒たちの言葉(福音)を信じるところから始まります。そして、福音を信じる者に与えられる聖霊は、イエスを復活させた方の霊ですから、ひとりひとりの内面にイエスが復活された事実を確証すると同時に、神を「死者を生かす神」として信じることを可能にします。聖霊は復活の質の生命です。このような復活の生命を現に与えられて生きる場で聞くとき、イエスの復活はたんにイエスひとりの復活ではなく、キリストに属する者の復活を保証する「初穂」であるとの福音の言葉を信じることができるようになるのです。

 神はイエスを死者の中から復活させることによって、このイエスをキリストと信じてキリストに属するようになる民を、イエスと同じく死者の中から復活させると約束しておられるのです。福音は、イエス・キリストの十字架と復活の出来事においてイスラエルの歴史の中で与えられてきたすべての約束と予言が成就したのだと宣言すると同時に、信じる者に贖いとそれに基づく聖霊の授与、および死者の中からの復活を約束するのです。福音は人類に対する神の最終的な約束なのです。

 ところが、現代のキリスト教会はキリストの復活を信じるといいながら、死者(複数)の復活を信じていないようです。いや、キリストの復活も真剣に信じてはいないのです。死んだ人間が復活するというようなことはありえないのであるから、イエスの場合も弟子たちの心に生じた変化、すなわちイエスの死の意義を理解してイエスと同じ神理解に到達したことを、イエスの復活として宣べ伝えたのだというわけです。このような復活理解では、キリストの民が死者の中から復活するという信仰は成立せず、せいぜい自分たちの内面に起こった霊的変化を復活と呼ぶことができるだけです。彼らにとっては「復活はすでに起こった」のです。

 「死者の復活」を否定することは福音そのものを否定することなのです。そのことを使徒パウロはコリントの信徒にあてた第一の手紙の一五章で力をこめて語り、「死者の復活」の信仰が福音の本質に属することがらであることを明らかにしています。キリストの復活はキリストに属する者たちの復活の「初穂」なのです。また、ロマ書八章で「体の解放」(二三節)という表現を用いて「死者の復活」の希望を熱く語っております。このことは本誌でくりかえし語ってきましたので、ここではこれ以上立ち入ることはしませんが、現代の教会は、聖書を信じるというのであれば、これらの章を真剣に読みなおさなければならないと思います。

 第三に、キリストの民を指し示す標識は愛です。愛といっても、人の世にはさまざまな愛があります。その中でキリストの民に固有の愛とはどのような形の愛でしょうか。一言でいえば、それは敵を愛する愛です。

 人間はふつう肉親とか恋人とか仲間内の者は愛しますが、敵を愛することはできません。ところが、イエスはご自分の民に敵を愛することを求められます。

「わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」。

(マタイ五・四四)

 敵を愛するというような人間の本性に反することがどうしてできるようになるのでしょうか。その秘密は、この言葉にすぐに続くイエスのお言葉で語られています。イエスはこう言っておられます。

「あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」。

 キリストの民はキリストの十字架において、このような神の無条件の愛を自分の身に受けた者です。もし神が善人だけを受け入れて神の子とし、悪人は退ける方であれば、わたしは救われません。わたしはとうてい神の子として扱われる資格はありません。ところが、神はわたしの資格を問わず、無条件にわたしを受け入れて、神の子としてくださったのです。義をもって世界を裁く神が、どうして罪人をこのような扱うことができるのでしょうか。それは、キリストが十字架の上にわたしたちの罪を負ってくださったからです。キリストの十字架は、神がご自分に背く者を受け入れるために成し遂げてくださった愛の業なのです。「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ロマ五・八)。

 聖霊はキリストを示す霊です。キリストの十字架の奥義を示し、それによって神の愛を悟らせる霊です。キリストの民は聖霊により神の愛に迫られ、神の愛によって生かされているのです。悪人にも善人にも太陽を昇らせる絶対無条件の愛を身に受けて生きているのです。ですから、「あなたがたの父が慈愛深いように、あなたがたも慈愛深い者となりなさい」(ルカ六・三六)とイエスが言われるとき、それは自分の内に受けている神の愛に従って生きるように促す言葉となるのです。「敵を愛しなさい」という言葉は、自分の内にある命の質に従って生きるように促す言葉となります。

 「敵を愛する」ことは、具体的には「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いることなく、かえって祝福を祈る」という形をとります(ペテロI三・九)。キリストの民は自分が敵であったにもかかわらず無条件の慈愛をもって受け入れていただいたことを知っています。また、悪意と侮辱をもって自分に敵対する者も、神は無条件の愛をもって愛しておられることを知っています。ですから、敵対する者も無条件で受け入れ、その祝福を祈らないではおれないのです。これは聖霊による愛、十字架の霊によって実現する愛です。



 キリストの民の使命

 キリストの民は使命をもつ民です。その使命は一つ、世界にキリストを示すことです。そのキリストによって世界が神の祝福を受けるようになることです。これが、キリストの民が世界の中にあることの目的、あるいは存在理由です。神は福音によって世界の四方からキリストの民を呼び集め、聖霊によってキリストの民を形成し、歴史の中を歩ませておられます。それはキリストの民という特別の枠の中にいる民だけを祝福するためではありません。その民を通して万民の救済者キリストが世界に示され、世界そのものが神の祝福に与るようになるためです。神の目的は、キリストの民の特権を擁護することではなく、世界の救済と祝福です。

 このことはずっと以前に、キリストの民の先輩ともいうべきイスラエルについて言われていたことです。アブラハムが召されましたとき、神はアブラハムにこう言っておられます。

「わたしはあなたを大いなる国民にしあなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」。

(創世記一二・二〜三)

 アブラハムの民、すなわちイスラエルが祝福されて大いなる民となるのは、地のすべての民が神の祝福を受けるようになるためであることが、明確に述べられています。アブラハムの子孫は地のすべての民の「祝福の源」となるべきなのです。ところが、イスラエルはこの使命を果たすことに失敗しました。

 イスラエルは神の祝福を受けて大いなる国民となりました。政治的には、ダビデ・ソロモンの時代を例外として、小さな国にすぎませんでしたが、宗教的には自分たちこそ神の直接の啓示にあずかる大いなる民であるという自負を失いませんでした。彼らは自分たちの宗教を神からの律法として誇り、その律法を柵として自分たちと異邦人を区別し、柵の外の民を神の祝福に与ることのできない民として軽蔑したのです。彼らが異邦人に神の祝福を受けるように働きかけるときも、あくまで柵の中に入れるためでした。これは、イスラエルという柵の中の存在が自己目的になっているのです。これでは、イスラエルによって世界が祝福されるのではなく、世界がイスラエルに仕えるという構図です。

 この柵を取り払ったのがパウロです。正確に言えば、パウロに代表される真に福音を理解したキリストの民です。パウロは、キリストに属し神の救いに与るためには、割礼を受けて律法の枠の中に入る(すなわちユダヤ教に改宗する)必要がないことを、命がけで宣言しました。律法という柵の外にいるままで、キリストの民として神の祝福にあずかることができるのだと主張したのです。これは、柵の中のイスラエルだけが神の祝福にあずかることができるという、イスラエルを自己目的にしてしまっている人々には許しがたい主張でした。彼らにとって、柵が取り払われるならば、イスラエルはその存在理由を失ってしまうのです。この柵の中の自分を自己目的とするイスラエルの高慢は、神の厳しい裁きを身に招くことになりました。

 パウロはイスラエルの高ぶりに対する神の厳しい裁きを語ることによって、キリストの民の思い上がりを戒めています(ロマ書一一章)。もしキリストの民がその存在を自己目的とするようなことがあれば、イスラエルの民に起こったのと同じことが起こることを悟らなければならないのです。そして、イスラエルに限らず、人間の営みにはかならず自分を自己目的にしようとする傾向がつきまとうのです。キリストの民にとってもっとも戒心すべきことです。

 キリストの民は地上でその歩みを進める過程で「教会」と呼ばれる制度を発達させてきました。最初に触れたように、教会は神から与えられた制度として尊ぶべきものです。教会は、いわばキリストの民を容れる器です。しかし、もし教会が柵のようになって、その中と外とを区別し、その内側だけに神の祝福を限るようなことになれば、これは危険な傾向です。教会の使命として伝道と教会形成が叫ばれますが、もしそれが、教会の外にいる人々を内に入れて、教会を拡大強化することが目的となっているのであれば、それは教会の自己目的化であって、キリストの民の使命とは別のものになっているのです。

 人間の組織にはかならず自己主張、自己保存、自己拡大の傾向があります。教会という組織も例外ではありません。しかし、主は自分の民に自己を捨てることを求めておられます。主イエスご自身、世の救いのために自己を捨てて十字架の道を歩まれたのでした。そして、自分に従おうとする弟子たちに言われました。

「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」。

(マルコ八・三四〜三五)

 イエスは弟子たちに自己を否定する道を歩むように求めておられます。このことは、弟子としての個人の歩みだけでなく、キリストの民のあり方としても大切です。キリストの民はその存在を自己目的にしてはならないのです。

 教会も同じです。教会もキリストのため、福音のため、自己を失うことによって、自己の存在を救うのです。教会の自己否定とは、まず自分の外にも神の祝福があることを認め、人々が外にいるままで祝福にあずかるように助けることです。職場や家庭、工場や学校、病院や繁華街にいる人々を、そこにいるままでキリストを受け、神の祝福にあずかるように助けることです。伝道、すなわち世界にキリストを示す働きを、自己の拡大のためではなく、世界が世界のままで神の祝福にあずかるように働くことです。それでは教会はなくなるではないか、また教会の存在意義がなくなるではないか、という反論があるでしょう。しかし、主はまさに教会に自分の命を失うことを求めておられるのです。教会が自分を否定するとき初めて、真のキリストの民としての存在を神から与えられるのです。すなわち、世界の祝福の源としての使命を全うする民となるのです。

(天旅 1992年5号)




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