救済史の構造 第一講

  時 は 満 ち た

     ―― イスラエルの時とイエスの時 ――



救済史とは

 復活は福音の始めであり終わりである。福音はイエスの復活の事実から始まる。イエスが復活しておられなかったら、福音はなかった。その意味で、復活は福音の出発点である。そして、福音は復活者の共同体の完成を究極目標とする。イエスの復活は初穂として死者たちの復活をその中に含んでおり、福音はキリストに属する者たちの復活を神の確かな約束として宣べ伝える。その意味で、復活は福音の到達点である。
 
 この究極目標である復活に至る神の働きの全体を救済史と言う。神のこの働きは、神に背いて滅びに向かう人間を救う業として、人間の歴史の中で成し遂げられているからである。聖書全体が神のこの御業を証言している。聖書は救済史の証言である。
 
 今回の集会では、聖書が全体として語る救済史の内容と構造を少しでも明確に受け止め、われわれの復活信仰を神の御旨という確かな土台の上に置くことを願いとしている。

旧約の成就としての福音

 イエスがガリラヤに現れて神の福音を宣べ伝えられた時、その第一声は「時は満ちた」であった(マルコ一・一五)。それは、世界の歴史的状況が熟して福音を宣べ伝えるのに好都合な時期になった、ということではない。その意味をイエス御自身がこう語っておられる。ナザレの会堂で、預言者イザヤの言葉を引いて、「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」と言われた(ルカ四・二一)。すなわち、イエスの出現は旧約預言の成就である、ということである。マタイはイエスの生涯の一つ一つの出来事に、「預言者によって言われていたことが成就するためである」と書き加えることによって、同じことを語っている。しかしこれは、イエスの生涯の個々の出来事が預言の成就であるというのではなく、イエスの全体、とくに十字架と復活が旧約全体の成就である、という意味である。
 
 十字架につけられて死に、三日目に復活したナザレのイエスの事実こそ、アブラハムからイエスに至る全旧約聖書の歴史の目標であり、その成就であり、その意義である(旧約聖書の正典はイエス出現の前後に完結した)。イエス復活後、使徒たちは福音を宣べ伝えるにあたって、イエス・キリストの出来事をいつも旧約聖書の成就として宣べ伝えている(使徒二・二四〜三一、八・二六〜四〇、一三・一六〜四一など)。このことは、福音が要約され定式化されるとき、いつも第一項目として現れる。
 
 「この福音は、神が預言者たちにより聖書(旧約聖書のこと)の中であらかじめ約束されたものであって、御子に関するものである。・・・・・・」(ローマ一・二)。
 
 「キリストは聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目に復活したこと・・・・・」(コリントT一五・三〜四)。
 
 では、イエスの出来事がイスラエル全歴史の成就である、または、新約(福音)は旧約の成就であるとは何を意味するのか。本講はこの問いを主題とする。

アブラハムの生涯

 イスラエルの民は、神が地上に救いの御業を成し遂げるために、特別に選ばれた民である。そのために、イスラエルは他の古代諸民族と共通の宗教形態を持ちつつも、他の民族には見られない独自の質の信仰を持っていた。イスラエルはその質を、民族の祖アブラハムの生涯を記す物語の中に端的に表現した。
 
 アブラハムの生涯は、神の約束を受け、それに反するあらゆる現実にもかかわらず、ただ神の約束だけに基づいて生きる生涯であった。
 彼は主なる神の約束だけに基づき、故郷を離れ、何の保証もないまだ見ぬ地に向かって旅立った。
 彼と妻は子を持つことができない体でありながら、「あなたの子孫は空の星のようになる」との主の約束を信じた。
 彼は約束によって与えられた子イサクを犠牲として捧げるように命じられたとき、神は約束を嗣ぐ子を生き返らせてくださると信じて、御言葉に従った。
 
 アブラハムは、見えるところによらず、ただ約束だけに基づいて生きる生涯を貫いて、ついに「無から有を呼び出し、死人を生かす神」を信じる信仰を持つに至った。これは、イスラエルがその全歴史を貫いて、ついに到達すべき創造と復活の信仰を指し示している。
 
 アブラハムは「来年、男の子が生まれる」との約束を信じて、イサクを与えられている。このように、部分的には約束の成就を受けているが、それはまだ受けていない約束全体の成就を保証するものである。アブラハムはまだ約束のものを受けてはいなかったが、すでに受けたように地上の生涯を生き抜いたのである。
 
 このように、イスラエルの信仰は約束に関わるものであり、イスラエルの歴史は約束・成就の視点から描かれている。

出エジプト

 イスラエルの歴史の中でもっとも決定的な出来事は出エジプトである。ファラオの権力の下に奴隷の境遇にあったイスラエルの民が、モーセに率いられてエジプトを脱出した出来事が、イスラエルをヤハウェの民としたのであった。その出来事の中で、神の御名が啓示され、契約が結ばれ、律法が与えられて、イスラエルはヤハウェの民として形成されたのであった。
 
 しかし、小さい流浪の一民族が最強の権力の支配から脱して定住の地を獲得するという歴史のドラマは、どこからそのエネルギーを得ているのであろうか。この場合、それは自由を求める民族の情熱だけではない。それは、約束を果たそうとする神の誠意と力、またその神への信頼が源になっている。「神は彼らのうめきを聞き、神はアブラハム、イサク、ヤコブとの契約(約束)を覚え」、モーセを遣わして解放の力ある業を成し遂げられたのである。
 
 では、イスラエルが約束の地カナンを獲得したとき、神の約束は成就してしまい、それ以上に成就を待つべき約束は無くなったのであろうか。そうではない。聖書の歴史においては、ある約束の成就はさらに大いなる約束を構成し、その成就を保証するのである。出エジプト(カナンの地の獲得を含む)の出来事は、神の約束の成就であると同時に、予型として、やがて神が成し遂げようとされている、さらに大いなる解放の御業を指し示し、かつ約束しているのである。
 
 「予型」《テュポス》とは、やがて到来するより大いなる出来事や人物を、それと共通点のある型を持つことによって指し示す事物、人物、出来事である。予型によって指し示されている本体を「対型」《アンティテュポス》というが、後者《アンティテュポス》が前者《テュポス》の原型であり、本体である。出エジプトにおけるモーセへの神の顕現と聖名の啓示、ファラオの権力に対する神の力ある業としるし、紅海での奇跡、シナイ山での契約、律法の授与、荒野の旅、カナンの地の占領、これらはすべて終わりの時に神が成し遂げられる大いなる解放の御業の予型である。

予言と予型

 カナンの地に定住し、王国を成立させ、壮大な神殿を建て、自分たちこそ主なる神の民であると誇るイスラエルに対して、出エジプトもダビデの王国もソロモンの神殿も、それ自体が神の目的ではなく、来るべき御業の予型に過ぎないことを示したのは、バビロン捕囚前後に輩出した預言者たちであった。
 
 バビロン捕囚は、イスラエルがその不信仰と心の頑なさの故に裁かれ、シナイでの契約は破棄され、王も民も異教の地に投げ捨てられるという、神の民イスラエル存立の最大の危機であった。この危機にあたって、預言者たちはイスラエルの罪を暴き、神の裁きを宣告しつつ、なお神はその信実の故にイスラエルを救い、保ち、その中に最終的な救いの御業を成し遂げられることを語ったのである。その御業は、もはや出エジプトの時のようなものではありえない。ダビデの王国やソロモンの神殿の復興ではありえない。それらすべてのものを、そして律法すらも予型としてしまう究極的な御業である(エレミヤ三一・三一〜三四、イザヤ四三・一六〜二一)。
 
 預言者たちは、やがて歴史の中で成し遂げられようとしている神の裁きと救いを、出来事に先立って語った。これが「予言」である。しかし、彼らの「予言」は、たんに当面の歴史的出来事を予告するだけではなかった。それまでの神の民の歴史が破局を迎える危機の中で、否定された過去の歴史を予型として、究極的な将来の神の御業を語ったのである。破局を梃子にして、過去の歴史が終末の約束に転化した。彼らの予言は終末的約束となった。これは神の信実による。

聖書が成就するために

 このようにして、イスラエルの歴史全体が予型となり約束となって、その成就を待つことになった。「時が満ちた」とは、まさにこの成就の時が来たということである。イエスこそ旧約聖書全体が約束していた「来るべき方」であり、イスラエルの全歴史が予型として指し示していた本体である。イエスの出現によってイスラエルの歴史はその目標に到達し、その存在の意義は全うされた。
 
 イエス御自身このことを自覚し、聖書全体を自分に関わる神の御旨として受け止め、それを成就されたのであった。とくに「苦しみを受けて復活する人の子」により神は終末の救いの業を成し遂げられるとの聖書理解は前人未踏のものであって、イエスはこの「人の子」として、十字架の死に至るまで神の御旨に従われたのであった。イエスが聖書をこのように受け止めておられたことは、復活後のイエスが弟子たちに言われたとされる言葉がよく示している。
 
 「わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分に話して聞かせた言葉はこうであった。すなわち、モーセの律法と預言書と詩篇(全旧約聖書)に、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する。・・・・こう記してある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中から復活する」。(ルカ二四・四四〜四六)
 
 このように、イエスの業と生涯、とくにその十字架の死と復活が旧約聖書の成就であるということは、それがある一人の宗教的天才とか霊能者の孤立した業ではなく、イスラエルの中で為された一連の神の御業の最終局面であり、神が歴史の中で成し遂げられる救済の御業(救済史)の決定的瞬間であることを意味しているのである。

イエスの生涯における復活

  イエスにとっても復活は約束であった。旧約聖書には復活の予言はごく僅かしかないが、イエスは旧約聖書全体から御自身の復活の約束を聞いておられたと考えられる。預言者たちが予言した「来るべき者」は、ダニエルが言う「人の子」として神の右の栄光の座につく者であるが、その「人の子」がイザヤ書五三章の「主の僕」として多くの者の罪を負って死ななければならない。そうであれば、人の子の栄光は死人の中からの復活という形でのみ実現する。イエスは、このような形で旧約聖書に約束されている復活を信じ、十字架に至る苦難の道を歩まれたのであった。
 
 このような歩みは、父への完全な信頼と聖霊の御力によるものであった。復活の約束に自分の人生や命を賭けるのは、人間的な意志や決意でできることではない。約束の背後にある神の信(信実、誠)だけがその成就を保証し、神の命である聖霊だけが、将来の復活を現在の霊的体験とする。この意味でも、イエスの生涯は、復活を信じて生きる多くの者たちの原型である。
 
 イエスが聖霊の力により病気を癒し、死んだ者をも生き返らされたのは、イエスの中に働く力が復活に至る生命であることを示す「しるし」である。イエスは復活の生命の力に満ち溢れ、力ある業を為し、力ある言葉を語り、十字架の死を突き破り、ついに復活に達したのである。

カイロスの充満

 以上見てきたように、救済史は約束・成就の構造を持つ神の救済の御業の歴史である。神が地上で何か御業を成し遂げられる時、それは必ずあらかじめ語られていた御言葉を成就する行為である(アモス三・七、エレミヤ一・一二)。それが人間の業ではなく、神の業であることが明らかになるためである。そして、一つの約束が成就されると、その成就の御業が次のより大いなる御業の約束を形成し、その成就を保証するという形で、救済史は約束・成就の重層構造をなしている。
 
 神の民イスラエルにおいては、時は等分な目盛りで測れる均質な流れではなく、神が決定的な行為をされる時点であり、内容のある時である。このような時を「カイロス」と言う。そして、神の御業が約束の成就として為される救済史の場では、「カイロス」とは、事態が熟して約束を成し遂げるのにふさわしいとして神が行為される時である、と言える。「カイロス」という語をこのように理解すると、救済史とはカイロスの重層的連続である、と言うこともできる。
 
 イスラエルの歴史は諸々のカイロスから成り立っているが、先に見たように、イスラエルの全歴史が予型として神の最終的で決定的な御業を待ち望んでいるのであるから、その最終的な御業が成し遂げられる時こそ「ホ・カイロス」(定冠詞付き大文字のカイロス、究極のカイロス)である。イエスが「時は満ちた」と言われたとき、この究極のカイロスが到来したことを宣言されたのである。そして、イエスが復活されたとき、このカイロスの充満が完成したのである。
 
 しかもイエスの復活は、終末の死者たちの復活を約束し保証する出来事なのである。イスラエルの時の充満としてのイエスの復活は、全人類に対する創造者の究極の約束を形成している。これが第二講の主題となる。

 (一九八五年夏期特別集会での講話 T)


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