救済史の構造 第三講

  十 字 架・聖 霊・復 活

     ―― エクレシアの時 ――



エクレシアの時

 神はイスラエルの歴史の中で約束してこられたことをキリストにおいて成し遂げられた。キリストはわれらの罪のために死に、彼に属する者たちの初穂として復活された。このキリストにおける神の決定的な救いの御業と約束を告知するのが福音である。復活されたキリストは選ばれた者たちに現れ、聖霊の力を与えて復活の証人として世界に遣わし、彼らによって福音を宣べ伝えさせられた。

 この福音を信じてキリストを告白する者に、神は約束の聖霊を与え、御自身に属する者として証印し、新しい神の民を地上に形成された。これがエクレシアである。エクレシアとは、福音によって呼び集められた終末時の神の民である。この新しい神の民は、イスラエルの中の信じる者を含むが、もはやイスラエルの宗教の枠(律法)に限定されず、それと何の関係もない異教の諸民族によって形成されることになった。それは福音の本質から結果することである。
 
 イエスを十字架につけた後のイスラエルの歴史は、救済者メシアの出現を期待してローマへの武力反抗が続き、ついにローマの軍勢によって聖都エルサレムと神殿が徹底的に破壊されるに至る。この間の約四十年は、使徒たちが福音を広くローマ世界に宣べ伝えて、エクレシアが形成される時期であった。この四十年は、古い神の民イスラエルから新しい神の民エクレシアへのバトンタッチの時期であったと言える。そして、救済史のバトンをイスラエルからエクレシアに渡したのは、選ばれたイスラエル人である使徒たちであり、中でも特に異邦人への使徒として選ばれたパウロである。
 
 キリストの出現を境として、救済史の担い手はイスラエルからエクレシアに引き継がれた。今や神の御業はエクレシアの中で、エクレシアを通して世界に成し遂げられる。神の栄光と恩恵はエクレシアの中に、エクレシアを通して世界に顕される。今や救済史は異邦諸民族から成るエクレシアによって担われる。これを聖書は「異邦人の時」と呼んでいる(ルカ二一・二四)。しかし、イスラエルに対する神の選びと真実は変わることなく、イスラエルが神の憐れみを受けて救われる時が必ず来る(ローマ書九〜一一章)。救済史は、イスラエルの時とエクレシアの時(異邦人の時)を経て、全人類を神の憐れみの中に包み、神の栄光を顕すことになる。まことに、神の裁きは究め難く、その道は測り難い。

 

聖霊の保証

 エクレシアを形成するのは福音の言葉と聖霊の力である。宣べ伝えられた福音を信じ、主イエス・キリストの御名を告白する者に、神は御自身の霊、聖霊を注ぎ与えて、御自身に属する者であると証印される。聖霊によって復活者キリストを啓示され、復活者キリストと結ばれて生きる者たちが形成する群れ、それがエクレシアである。水のバプテスマが人をエクレシアに加えるのではない。復活の主キリスト御自身が授ける聖霊のバプテスマが、人をエクレシアの一員とする。

 聖霊が働かれるとき、予言や異言が出たり、病気が癒されたり、不思議な現象を体験することがある。これも確かにエクレシアを形成するために与えられている神の賜物である。しかし、聖霊の本来の働きはキリストの栄光と奥義を啓示することである。聖霊は、キリストが復活された栄光の主(キュリオス)であることを啓示し、その十字架の死が万民の罪の贖いであるとの奥義を魂に刻みこむ。
 
 イエスが復活されたことは、証拠や理論に訴えて説得できるような性質のものではない。あるのは使徒たちの証言だけであり、その証言を信じることだけが求められている。しかし、信じる者には聖霊が与えられて、聖霊がイエスの復活を確かなものとして心に刻印する。それは、聖霊とはイエスを死人の中から復活させた方の霊であるからである。イエスの中に宿り、力ある業をなし、ついに死を突破して復活させた霊と同じ質の霊がわれらの内に宿るとき、イエス復活の証言はわれわれの内からあふれ出る証言となる。
 
 さらに、聖霊はイエスを復活させた方の霊であるから、聖霊は福音が約束する将来の復活の保証(手付け)であり、最初の実である。キリストに属する者は、この死すべき命と朽ちるべき体の中に、復活に至る命を宿して生きる。この命の現実が、人間の理解と想像を超えた「死人の復活」を確かな希望とする。そして、この希望は死に定められた体の中にあって、また滅びの縄目につながれている世界の中で、深いうめきにならざるをえないが、御霊の確かさが忍耐をもって復活という見えざる将来を待ち望む力を与えてくださる。
 
 このように、エクレシアは二つの復活の間に生きる。一つは既に起こった初穂なるキリストの復活、もう一つはやがて起こるキリストに属する者たちの復活である。この二つの復活は一体である。一方を否定して他方を肯定することはできない。復活は終わりの日における神の創造の御業である。それはキリストの復活において既に始まり、死人の復活によって完成しようとしている。エクレシアはこの二つの復活という決定的なカイロスの間で、聖霊により復活の命を現実に生きることを通して、キリストの復活を告白・証言し、死人の復活という究極の神の約束を世界に告知する。

   

十字架の奥義

 聖霊はさらに、キリストの十字架が神の贖罪の御業であることを啓示する。福音の言葉がすでに「キリストはわれらの罪のために死に」と告げているが、これは人の思いをはるかに超える秘義であり、聖霊だけがよく人の心の奥底に真意を示すことができる。

 ユダヤ教指導層とローマの権力がイエスを十字架上に処刑した。これは信仰の有無に関係なく報告できる歴史的事実である。ところがこの十字架の出来事は、神が人間の罪を取り除き、天地のすべての存在を御自身と和解させられる永遠の御業であることは、神の霊だけが知り、人に啓示することができる。そして、聖霊によって生きるエクレシアの場で、この啓示を受けた人たちがこれを伝え、エクレシアはこれを保持して証言した。これが新約聖書である。
 
 聖霊は十字架が神の永遠の贖罪の御業であることを啓示するだけではない。同時に、それを受ける魂に圧倒的な神の愛を注ぐ。キリストはわたしのために死なれた。わたしはキリストにあって裁かれ、キリストと共に死んだ。生きているのはもはやわたしではない、キリストがわたしの内に生きておられるのである。それは、反逆してやまないわたしへの限りない神の愛から出たことである。このように、圧倒的な神の愛がわたしを捉える。十字架の奥義を示された魂はキリストの愛の囚人となる。
 
 救済史とは創造から復活に至る神の御業の総体であるが、その全体を支えるのは実にこの十字架なのである。人はみな、それを自覚しなくても、神への反逆という根元的な罪の中にある。この罪の故に命の源泉なる神から切り離されて、死の支配下にある。そして、人間はどうしても自分でこの罪から逃れて、神との交わりを回復し、命に至ることができない。それを神が成し遂げてくださった。それが十字架である。神は御子を罪の肉の様で罪のために遣わし、彼の肉において罪を罰し、罪の支配を打ち破られた。それは、御子キリストにある者が、もはや罪の力の下にいることなく、神との交わりを与えられ(これを義とされるという)、神の命と栄光を受けるようになるためである。
 
 命と言い復活と言っても、人が罪から離れ、神との交わりを持つことができなくては不可能である。それで、救済史は罪との神の戦いの歴史であり、人を罪から救い出す働きの総体となる。そして、神は御子の十字架において決定的な業を成し遂げ、罪に勝利された。このように、十字架はそれなくしては救済史の全体が成立しなくなる土台である。救済史の構造を空間的に表現するならば、十字架を土台とし、復活を冠とする、聖霊の働きという柱で支えられたカイロスの重層構造である、と言うことができるであろう。
 
 イエスの十字架は全歴史、全世界を支えている! 十字架は救済史の全体を支えることによって、人類の存在を支えているのである。

 

キリストの体

 このように、わたしたちはキリストにあって神の贖罪の御業にあずかり義とされ、聖霊を受けて復活の命に生き、来るべき復活を望み見て歩む者である。このキリストはナザレのイエスとして地上に現れた方であるが、その本質からすれば「見えない神のかたち」であり、復活により永遠の神の御子と定められた方である。そして、御子は天地の創造に先立って「最初に生まれた方」であり、天にあるもの地にあるもの一切は御子にあって造られた。すなわち、御子を原型として、御子の中に秩序づけられて創造された。万物は御子を通して造られ、御子のために造られた。創造において、御子がすべてを統合する頭であった(コロサイ一・一四〜二〇)。

 ところが人が神に背いたために死が入り込んできた。死はその中に、闇、虚無、無秩序、亀裂、闘争、滅びを伴い、被造世界を混沌に陥れ、本来被造界に刻印されていた御子の像は破砕されて飛び散ってしまった。この天地の存在すべてを「御子を頭として再統合すること」が、神の御旨の奥義、隠された御計画に他ならない(エフェソ一・一〇)。神はこの御計画を諸々のカイロスの充満・完成の形で導かれ、ついに御子御自身を世界に遣わし、その十字架によって罪を贖い、死人の中から復活させて終わりの日の創造を開始されたのである。
 
 この終わりの日の創造である復活において、御子キリストは死人の中から「最初に生まれた方」であり、復活の命に生きる新しい人類の「アルケー」(初めの者、頭)となられた。御子を頭としてすべてを再統合しようとされる神の御計画は、御子の復活によりその実現が始まり、死人の復活によって完成しようとしている。そして、この新しい創造において、人類と世界の存在の根底は、御子の十字架によって与えられている神との和解である。
 
 このように、創造においても復活においても最初に生まれた方であり頭である方が、エクレシアの頭としてエクレシアに満ちておられるのである。エクレシアは、御子を頭とする統合の地上における具体化である。エクレシアはキリストの体である。たんなる信者の集団ではない。救済史の目標である「キリストを頭とする統合」を、二つの復活の間で地上に体現し世界に示すために、聖霊によって形成された有機体である(エフェソ一〜三章)。
 
 エクレシアの頭たるキリストと、体を生かす生命である聖霊は新しいアイオーンに属するが、体を構成する肢体である人間はなお肉として古いアイオーンに属している。この二面性がエクレシアの栄光と悲惨、使命と苦闘を形成する。栄光とはエクレシアだけが御霊によって受けている神の啓示、命、力であり、悲惨とは肉の働きの故に生じる分裂、紛争、誤謬などである。使命とはこの世にある故に受けた啓示と恩恵を世に伝える責任であり、苦闘とは自身の中にある矛盾や弱さと戦いながら、敵対的な世に働きかける労苦である。

 

ただこの一事を

 使徒たちの書簡はいつも、まずキリストにおける神の救いの御業と恩恵を述べた後、キリストにある者たちに実際にどのように行動し生活すべきかを教えている。しかし、それらの実践訓はもはや、それを行うことによって救われる資格(義)を与えるためのものではない。キリストにある者は恩恵と信仰によりすでに義とされているのであるから。それらの実践訓はすべて「勧め」である。それに従うことは祝福であり、従わないことは損失である。勧めとはすべて聖霊が欲したもう歩み方であって、それに従う者には聖霊の働きがますます盛んになり、聖霊がもたらされる良いものがさらに深く身についてくるが、それに従わないときは聖霊の働きを妨げ、霊の生命が枯渇するに至るからである。すべての勧めは結局、「御霊に従って歩め」という勧めに帰着する。それは祝福の道である。

 わたしたちは聖霊により「アッバ、父よ」と祈り、神の子の実質を宿して生きる。聖霊によって神の愛は心に注がれ、愛に生きる力を与えられる。聖霊によってキリストの十字架に合わせられて死に、復活のキリストが内に生きてくださる。聖霊は真理の霊であって、神の言葉を信じる者の内に現実にする力である。聖霊の働きが無ければ、御言葉は観念とか理念になってしまう。
 
 復活信仰はとくにそうである。死人が復活するというようなことは、人間の思いではどうしても納得することができないことである。聖霊の働きを失っている教会では、教義や信条として復活を掲げていても、真剣に死人の復活に達することを人生の土台または目標として生きる者はない。イエスを復活させた方の霊によって生きる時はじめて、イエスの復活は全存在をもって告白できる事実となり、キリストは復活者として共にいてくださる方であり、死人の復活という人の思いをはるかに超えた約束が自分の人生を決定する圧倒的な現実となる。
 
 今回の講話では、旧約新約の全聖書が証言している救済史の構造を明らかにし、救済史は復活を究極の目標としていること、復活こそ人類に対する神の究極の約束であることを示してきた。それが真理・現実であるならば(聖書は偽りではありえない!)、この地上でいかに大きな栄光を築いても、復活に至らない生は滅びであり、地上の生涯がいかに苦難の中にあろうが死人の中からの復活に到達するならば、それは勝利の人生である。
 
 最後に、使徒パウロと共にわたしもこう告白して、今回の講話を終わる。
 「キリストのゆえにわたしはすべてを失ったが、それらのものを糞土のように思っている。それはわたしがキリストを得るためである。・・・・・・すなわち、キリストとその復活の力を知り、その苦難にあずかってその死のさまとひとしくなり、なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである」。(ピリピ三・八〜一一)

 (一九八五年夏期特別集会での講話 V)


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