マルコ福音書講解

18 ベルゼブル論争


マルコ福音書 三章二〇〜三〇節

 20 イエスが家に入られると、再び群衆が集まってきて、一行は食事をすることもできないほどであった。 21 人々は「イエスは気が狂っている」と言っていたので、身内の者たちはこれを聞いて、イエスを取り押さえに出て来た。 22 また、エルサレムから下って来た律法学者たちも、「彼はベルゼブルに取りつかれている」と言い、さらに、「彼は悪霊どもの頭によって悪霊を追い出している」と言っていた。 23 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、譬を用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出すことができようか。 24 もし国が内部で分裂抗争したら、その国は存立できない。 25 また、家が内輪で分かれ争うならば、その家は立ち行かない。 26 だから、もしサタンが内部で対抗し分裂するならば、彼は立つことができず、滅んでしまう。 27 しかし、誰でもまず強い人を縛りあげなければ、その人の家に押し入って家財を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を掠奪するものだ。 28 よくあなたがたに言っておくが、人の子らには、犯すどのような罪も、神を冒涜するどのような冒涜の言葉も、すべて赦される。 29 しかし、聖霊を冒涜する者は、永遠に赦されず、永遠に罪ある者とされる」。 30 そう言われたのは、彼らが「イエスは汚れた霊に取りつかれている」と言っていたからである。



 世間の風評と学者の判定

 この段落でまず目につくことは、身内の者たちがイエスを「取り押さえに出て来た」という表現である。その理由として「彼らは『イエスは気が狂っている』と言っていたからである」という句が(原文では後に)続く。この「彼ら」は身内の者たちをさすと見て、身内の者たち自身が「イエスは気が狂っている」と判断して取り押さえに出て来たと理解することも可能である。しかしこの解釈は「と言っていた」という表現がこのような意味を表すには適当でないこと、また「聞いて」という表現が浮き上がってしまうという難点がある。むしろ、この「彼ら」は世間の人々一般をさすと見て、「身内の者たちは聞いて」の内容を説明する句として、「人々は『イエスは気が狂っている』と言っていたからである」と続くと考える方が適当であろう。すなわち、身内の者たちは世間の人々がこのように言っているのを聞いて、イエスを取り押さえに出て来たのである。

 世間の人々はなぜイエスを「気が狂っている」と判断したのであろうか。ある人が霊の力によって悪霊を追い出したり病気を癒したりしても、それは気が狂っていることではない。イエスの場合、霊によって力ある業を多くされたのであるが、安息日遵守に関する論争に典型的に見られるように、その方が神聖なモーセ律法に背くような言動をされ、律法学者たちが代表する神聖な社会体制全体に反抗されたのである。そのようなことは、イスラエルの人々には霊の力から来る異様な確信とか行動、すなわち気違い沙汰としか考えられなかったのであろう。

 身内の者たちがイエスを取り押さえに出て来たのは、イエスのこのような異常な行動によって自分たちもトラブルに巻き込まれることを恐れたからか、または死刑も予想される制裁からイエスを救うためであったのか、その動機を推定する手がかりはない。いずれにしても、「身内の者たち」がイエスを理解していなかったことは確かである。霊の事態の理解には血の繋がりは妨げになることはあっても、役に立つことはない。(身内の者たちがイエスを取り押さえに出て来た記事は、福音を宣べ伝える上でつまずきとなる考えたからか、マタイとルカはこれを伝えていない。)

 また、イエスの言動を監視するためにエルサレムからガリラヤに下って来ていた律法学者たちも、イエスの反律法的な態度から「彼はベルゼブルに取りつかれている」と判定し、イエスが悪霊を追い出し病気を癒しておられることについては、「彼は悪霊どもの頭によって悪霊を追い出している」と説明した。「ベルゼブル」は本来古いシリヤの神の名であり、「ベエル・ゼブール」、すなわち「家(神殿)の主人」の意味であったが、イスラエル人はこれを嘲って「バール・ゼブーブ」(蝿の神)と呼び、次第に悪魔を指す名として用いられるようになったものである。宗教当局者はイエスをこの「ベルゼブル」、すなわち悪魔に取りつかれていると判定した。神の律法を冒涜する者がどうして神の霊を持つ者であろうか。彼が奇跡を行うとしても、それは悪霊どもの頭が行う奇跡にすぎない、という判定である。ところがイエスは、彼らが「ベルゼブル」という悪魔の名を用いたのを逆手にとって、これをアラム語の「ベエル」(主)とヘブライ語の「ゼブール」(住居)とに分解し、内輪で争う家や国の譬を用いられる。

 神の支配の到来

 ここでイエスは二つの譬を用いておられる。第一は内輪で争う国と家の譬であり、第二は掠奪者の譬である。第一の譬で彼らの判断の誤りと矛盾を突き、第二の譬でご自分の中に来ている事態がどのようなものであるのかを示唆しておられる。

「どうして、サタンがサタンを追い出すことができようか。もし国が内部で分裂抗争したら、その国は存立できない。また、家が内輪で分かれ争うならば、その家は立ち行かない。だから、もしサタンが内部で対抗し分裂するならば、彼は立つことができず、滅んでしまう」。

 譬そのものの意味は明白である。もし、律法学者たちが考えるように、イエスが悪霊どもの頭であるベルゼブルの力によって悪霊を追い出しておられるのであれば、それはちょうど内部で分裂抗争する国や内輪争いをしている家のように、サタンの支配が崩壊することを意味する。サタンが自分で自分の支配を崩すことがどうしてできようか。律法学者たちの判定は神学的に誤っており、矛盾している。彼らは悪の力を個々ばらばらの力であるかのように考えているが、イエスは悪の支配をサタンを頂点とする一体のものと見ておられる。イエスにとって悪は偶発的・散発的な性格のものではなく、根源的なもの、一体の全体的支配体制である。そのさまざまな現象形態の背後に「敵」そのもの、「神の支配」の破壊者サタンが立っている。イエスはまさにこのサタンの支配を打ち破るために来られたのであるから、それはサタンとは全く別の力によるのである。そのことが第二の譬で語られる。

「しかし、誰でもまず強い人を縛りあげなければ、その人の家に押し入って家財を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を掠奪するものだ」。

 そのように、イエスがいま悪霊を追い出し病人を癒しておられるのは、イエスがすでに「強い人」サタンとの決戦に勝利を収め、彼を縛りあげ、彼が自分の獲物にしていたものを奪い返しておられるのである。イエスの力ある業はイエスがすでにサタンの支配を打ち破っておられる結果であり、そのしるしである。イエスは神の御霊を受けた後、荒野に逐いやられて四十日にわたってサタンに試みられ対決された。そしてこのサタンとの決戦に勝利されたのである(第四講参照)。イエスご自身「わたしはサタンが電光のように天から落ちるのを見た」と言っておられる(ルカ一〇・一八)。イエスにおいてサタンの支配は打ち破られ、神の支配が実現している。それは神の霊、聖霊の働きによる。

 マタイとルカはこの二つの譬の間に、この霊界の事実を直接表現する句を入れている。「わたしが神の霊(ルカでは「神の指」)によって悪霊を追い出しているのであれば、神のバシレイア(支配、国)はすでにあなたがたのところに来たのである」(マタイ一二・二八)。この句をマルコは伝えていないが、たとえこのような明白な言辞がなくても、掠奪者の譬はこの霊界の消息を十分明らかに指し示している。神の霊の力によってサタンの支配が打ち破られているところに「神の国」・「神の支配」が現れる。イエスの中には神の力と恩恵が溢れており、それがイエスを信じる者に注がれて、悪霊を追い出し病気は癒されている。サタンの支配は覆され、神の支配が来ているのである。

 聖霊に逆らう罪

 このように神の霊によって力ある業をしておられるイエスを、律法学者たちは「汚れた霊に取りつかれている」と判定した。これに対してイエスは厳しい警告をされる。

「よくあなたがたに言っておくが、人の子らには、犯すどのような罪も、神を冒涜するどのような冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は、永遠に赦されず、永遠に罪ある者とされる」。

 「よく(アーメン)あなたがたに言っておく」という改まった言い方は共観福音書では珍しいが、それだけにここで言われていることの重大性が窺われる。律法学者たちが「モーセの座」に座って下した判定に対して、イエスを通して神が判決を下しておられる厳粛さが感じられる。文言そのものの意味は明らかである。しかし、ただ一つ永遠に赦されることのない罪とされる「聖霊を冒涜する」罪とは、具体的にどのような行為を指しているのか、正確な理解には困難がある。まずマタイ福音書の並行箇所と比較して見よう。

「人には、犯すどのような罪も、神へのどのような冒涜も、すべて赦される。しかし聖霊を冒涜することは赦されない。また、人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも来るべき世でも赦されることはない」。

(マタイ一二・三一〜三二)

 このようにマタイでは赦される罪と赦されない罪との対比が二組になっている。第一の組はマルコの句とほぼ同じである。第二の組では聖霊に言い逆らう罪が「人の子」に言い逆らう罪と対比されている。マルコでは「人の子」は複数形で人間一般を指し、罪を犯す側であるが、マタイでは単数形でイエスを指す称号として用いられており、冒涜の対象として聖霊と対比されている。ルカは第二の組の対比だけを全く別の文脈で伝えている(一二・一〇)。このように「人の子」の意味が違う以上、それと対比して語られている「聖霊を冒涜する(汚す)罪」の内容についてもよく検討しなければならなくなる。

 イエスが用いておられたアラム語においては、「人の子」という表現は本来「ある人」、「ひとりの人」という意味であって、人一般を指す用語である。ところがこの日常的な用語が、イエスの時代にはダニエル書のような黙示思想の文書の中で、終わりの日に野獣的支配権力を滅ぼして神の支配をもたらす人格存在を指す語として用いられるようになっていた。このような用法を背景にして、イエスはご自分が誰であるかを示唆する称号としてはもっぱらこの謎めいた用語を用いられた。そこでイエスが日常的な「ある人」という意味で使われた「人の子」が、イエスを終末的な「人の子」と信じる人々によって伝承されていく過程で、その本来の意味を越えて終末的な称号として理解されるようになる場合も起こってくる。ここはそのような場合の一つではなかろうかと考えられる。おそらくマルコはイエスが用いられた本来の日常的な意味を保存して伝え、マタイとルカはそれを越えてその中に含まれる終末的な意味を汲み出して伝えた、と考えられる。

 マルコの句においては、イエスがされている業を「汚れた霊」によるものとしたことがただちに聖霊を冒涜する罪として断罪されている。これはイエスが神の霊によって語り業をされていることの宣言と表裏一体である。イエスは聖霊をお受けになった時、このことによって遂に神がイスラエルの歴史の中で約束してこられたことがすべて成就し、最終的で決定的な救いの業が成し遂げられるのだと自覚し、それを公に宣言して宣教の活動を開始された(ルカ四・一四〜二一)。それでこの事実を認めず、これを汚れた霊の業として退けることは神の最終的・決定的な救いを退けることであり、もはや救いの可能性はないことになる。このように、彼らに対する厳しい断罪は、自分の中に聖霊による最終的事態が来ているというイエスの自覚と告白から出て来ている。

 それに対してマタイとルカの表現には初代教団の宣教活動、とくにユダヤ教徒に対する宣教が背景になっていることが窺われる。イエスが用いられた「人の子」が地上のイエスを指す称号として理解され、地上のイエスに言い逆らい反抗することと、聖霊に言い逆らうこととが対比されている。地上のイエスに反対したことは、イエスを十字架につけたことまで含めて赦される。それに対して、復活後の教団が聖霊の力により福音を宣べ伝えたとき、聖霊の働きに直面しながらイエスが復活者キリストであることを拒む者は、神の最終的な救いの業を退けるのであるから、もはや赦しはありえない。神はキリストの十字架において人間の一切の罪を贖い赦しておられる。そしていま福音の言葉により聖霊の迫りの中で直接聴く者の霊に啓示しておられる。この最終的な赦しを拒む者はもはや赦される機会がない。

 いずれにしても、聖霊が現実に働いておられる場では神の具体的で最終的な救いの業と啓示が起こっているのであるから、それを軽蔑し拒む者にはもはや赦しも生命に至る可能性もないことになる。

 この「ベルゼブル論争」の段落は霊の働きをどう理解し受け取るかについて厳粛な警告を与えている。そしてこの警告は霊的混乱の時代とも言うべき現代に重要な意義を持つものになってきている。現代は科学技術の目覚ましい発達によって科学(人間の知識と技術)が信仰されている時代である。その結果、霊的な事態に関する無関心・無理解・蔑視が広まってきている。ところがその一方で、霊的な事柄に鍛えられていない霊の脆弱性につけこみ、さまざまな「宗教」が僅かの霊的現象をもって、この世での不幸に動揺している多くの人々を捕らえている。そして現代の神である科学技術がもたらす世界の危機(たとえば核軍備や環境破壊)の前で人々の心は動揺し、「不安の時代」を現出し、多くの人々を「宗教」に駆り立てている。科学の時代は一方で「宗教の時代」になっている。聖書も終わりの時は霊的混乱の時代になることを予告している。このような混乱の時代には霊の質を見分けることが重要になってくる。

 このように迷いの霊が多く働く中で、神の霊も終わりの日を急ぐように力強く働いておられる。キリスト教の名を用いていても迷いの霊が多く来ている。このような状況の中で霊の質を見分けることはしばしば大変難しい。霊の質を見分けるため外から当てる物差しはない。律法学者たちは律法という物差しをイエスに当てて失敗した。霊を見分けるためには自ら日頃神の霊に導かれて、霊的事態に対する感受性を鋭敏にしておく以外には道はない。そして誤りなく神の霊に導かれるためには、「十字架された復活者キリスト」にしっかりと結びついていることである。十字架こそ神の真理の中心であるから。


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