マルコ福音書講解

25 「成長する種」の譬


マルコ福音書 四章二六〜二九節

 26 また言われた、「神の国はこのようなものである。人が地に種をまいて、 27 夜昼寝起きしている間に、その種は芽を出して成長していくが、どうしてそうなるのか、その人自身は知らない。 28 地はおのずから実を結ばせるもので、初めに芽、つぎに穂、つぎに穂の中に穀物が実る。 29 実がいると、彼はすぐ鎌を送りこむ。刈り入れの時が来たからである」。



 刈り入れの時

 「種まき」の譬と同様、ここでも「神の国」が蒔かれた種と収穫を対比する譬で語られている。先の「種まき」の譬では、種がまかれる時の徒労に見えるような状況と豊かな収穫が対照されていたが、この譬では収穫に至る過程が人間の理解や努力を超えたものであることが焦点となっている。農夫は種をまいた後、作物が自然に成長して実を結ぶ時をひたすら待つ。農夫は作物が成長する仕組みを理解しているわけではない。土地に作物を成長させる力があることを信じて、夜昼寝起きして収穫の時が来るのをひたすら待つだけである。農夫は直接作物に働きかけて、芽を出させ、つぎに穂を出させ、実を実らせることができるわけではない。ただ「夜昼寝起きして」いるだけで、何をすることもできない。けれども種がまかれた以上、時が来ればかならず実は実り、刈り入れができるようになる。農夫は土の力を信じて、忍耐強く時を待っている。

 「神の国」も同じである。種はすでにまかれた。刈り入れの時は必ず到来する。神はすでに業を始めておられる。時が来れば神は審判の鎌を入れて、神の民を栄光の中に集められるであろう。イエスはご自身の中に「神の国」が到来していることを知っておられる。イエスの中に隠された形ではあるが、神の業はすでに始まっている。神においては隠された始まりは顕にされた終わりを含んでいる。どうして終わりが顕現するのか、その仕組みを理解したり、その過程を人間の工夫や努力で変えたり促進したりすることはできない。ただ神の力と神の信実に委ねて、時を待つだけである。こうして、ここでも「隠されているもので顕れないものはない」という「神の国」到来の原理が語られているのである。


前の段落に戻る    次の段落に進む

目次に戻る   総目次に戻る